PART22 悪竜蠢動ナイトメア☆
『良い仕事をしたな』
荘厳な声が轟く。
空を見た。青空はかき消えていた。
突然だった。フィルムがぶつ切りになったみたいに、まばたきをした刹那、空が星の煌めく夜空になっていた。
「何、だ、これは」
「……ッ! 天候操作の大魔法、じゃないわ! ただ顕現した瞬間に世界を上書きしたのよ!」
後方から響くリンディの悲鳴。
場に現れるだけで世界を塗り替えるという信じがたい行い。
それだけのことを成す存在が。
今、目の前に現れる。
「お前の言う通りだったよ。おかげさまで、ただのチンケなコソ泥だった僕がここまで成り上がれた……あとは終幕まで一直線なんだろ?」
『ああ、そうだとも。そして……感じる。感じるぞ騎士。貴様の中に我が残滓を感じるぞ』
次元が裂けていく。
夜闇の中にすら混じれない黒が、ぴしりぱしりと空間を割っていく。
『かつて我の端末を撃滅しただろう。覚えているぞ……皮肉なものだな。我が最後の末裔が竜殺しの異名を持つとは』
そこからのそりと現れたのは、見上げるほどの巨躯。
漆黒の鋭い鱗で全身を覆い、四つ足は地面を叩くごとに極大の地震を引き起こす。
折りたたまれた翼のかぎ爪がギラリと光った。
口の隙間から邪悪な光を漏らし。
邪竜が、紅髪の騎士を睥睨する。
『我が名はファフニール。この世界の悪性を司り、生きとし生けるもの総ての安寧を脅かす極点────大邪竜ファフニールだ』
〇外から来ました ファフニールが実体顕現してるのか!? どうやって!?
〇無敵 これ駄目だこれは駄目だ! お嬢逃げろ! おい!
「────狙いはオレか」
『ああ。疾く死ね』
言葉と同時、腕の一振りがジークフリートさんを襲った。
巨体にそぐわない俊敏な動き。咄嗟のガードをするも、彼の身体は塵屑みたいに吹き飛ばされた。
「そんな、ジークフリートさん──」
「……ユイさん、わたくしは大丈夫です……皆を……」
「ッ、マリアンヌさん!? 大丈夫なわけないじゃないですかッ!」
返事は聞かない。
聞く余裕がない。
引き留めるように腕を掴まれ、それを振り払った。
振り向いて顔を見ることすらしなかった。
ただ、今はもう。
泣きながらこちらを見つめるカサンドラさんと。
その奥でひらひらと手を振っている少年しか。
「35%……!」
出力を跳ね上げさせ、勢いのままに右ストレートを打ち込む。
カサンドラさんは右腕でガードするも、貫通した衝撃が彼女の身体に到達した。
「ぐぅ……っ」
数メートル後退し、痺れているであろう腕を振って、カサンドラさんがこちらを見る。
ああそうだ。
何も、何も分からない。分かりたくもない。分からなくていい。
分かっているのは、一つだけ。
「……本当に……本当に、殺したのですか」
「ああそうだよ。僕らが、マクラーレン・ピースラウンドを殺した」
「アナタには聞いていないッ! カサンドラさん、何を吹き込まれたのです!? どうして、どうしてッ! アナタはそんなことを、する人じゃ──」
言葉の途中だというのに。
彼女はわたくしの身体を見つめて少し首を傾げると。
「マリアンヌ……それ、面白いわね」
目を疑った。
彼女の身体を巡る魔力が躍動し、それから反応を爆発的に増したのだ。
そんな馬鹿な。
それは、それはわたくしの──!
「こうかしら────活性化」
直後。
飛び込んできたカサンドラさんの一撃が、思い切り胸に入った。
「ぐ、ばっ」
両腕でガードしたが、衝撃を殺しきれなかった。
地面にごろごろと転がる。ユイさんが悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
意識が朦朧とする。視界がぐらついていた。世界が軋みを上げているような感覚がした。
「へえ、何だそれ?」
「体内の水分を禍浪仕様にしてみたわ。呼び名を付けるなら、体内水分活性状態……といったところかしら」
「ふーん。器用なモンだね。流石は器用万能を超えた、器用全能」
脚本家はこちらを一瞥し、残酷な笑みを浮かべる。
「『禍浪』は万物を鏡映し……いや、言うなれば水面映しに再現できる、禁呪の最終到達点。お前が悪いわけじゃないんだよ、マリアンヌ。ただ……カサンドラが、頂点に君臨しているだけだ。全てにおいてな」
全部。
ああ、本当に、全部──上だ。
詠唱を最適化させる感性。戦場を操るセンス。敵を打ち倒す格闘技術。
そして何よりも。
どんなに頑張っても否定できないほど、禁呪の質が違いすぎる。
彼女の禍浪とわたくしの流星の間には信じがたいほどの差がある。やれることの幅が違いすぎるのだ。
攻撃の吸収・無力化。
防御を貫く鋭利な攻撃。
無形にして柔軟な可変性。
ツッパリフォームを即座にコピーできる汎用性。
一度詠唱しただけでずっと出力が落ちない継戦能力。
どれか一つだけでも特化型として機能しそうなのに、全部積んでるときた。
「……ッ」
鈍い思考を必死に回す。
視界の隅で、ユートが邪竜を押し留めている。いや……攻撃を仕掛けて、けれど無視されている。邪竜はジークフリートさんを待っているのだ。
〇日本代表 見えるか? 文字読めるか? 返事はしなくていい
〇日本代表 逃げろ。これはもう……命令だ、とにかくお前だけでも生きて帰ってこい
〇日本代表 お前の今いる世界は致命的に何かがイカれてる、それを放置するのは、世界を運営するシステムだけじゃなく、無数の世界を保護するこっちのシステムにも影響が出かねない
〇日本代表 だからお前は、生きて帰る義務がある
〇日本代表 そして何よりも……お前が死ぬのを、見たくないんだよ! そこに残ってたら本当に死ぬんだよお前! なあ頼む、頼むから、この瞬間だけは言うこと聞いてくれよ……!
無茶言うな、よ。
身体がロクに言うこと聞かねえんだよ。
足音がした。
倒れ伏すわたくしと、わたくしを抱き起こそうとするユイさんの目の前に、雷撃が迸った。
カサンドラさんは水のヴェールで雷撃を弾く。
「マリアンヌから、離れろ……!」
割って入ったのは、白銀の刃だった。
ロイ・ミリオンアークが勢いよく飛び込んで、その剣を振りかぶり。
「雷霆来たりて、邪悪を──が、ぐっ……!?」
詠唱が途中でかき消える。悶苦しむような声を上げて、ロイが地面に倒れ込んだ。
蒼い雷が、ロイの身体を焦がしている。
「ぎ、ぃぁ……ッ!?」
「ロイ!? クソが──どう、しろってんだよ……!」
ユートの言葉は、わたくしたちに打つ手がないことを物語っていた。
ジークフリートさんは安否不明。
ロイは目の前で倒れた。
ユートとユイさん、そしてリンディが戦闘続行可能だが、大邪竜とカサンドラさんに太刀打ちできる理由がない。
「諦めろよ、お前たちの負けなんだから」
キャップを被り直して、少年が両手を広げて酷薄な笑みを浮かべる。
「ファフニールはまだ完全には顕現していない。完全顕現を成し遂げたときに僕らの目的は達成される。だけど──不完全なファフニールでこれだ。そもそも誰も、カサンドラに傷一つつけられなかったじゃないか。分かったか? 詰んでるんだよお前ら」
ぼやける視界の中。
ふと気づいた。
拾って、握っていたはずのものが、ない。
「僕たちは、ルシファーを超える。すべてをゼロに還すあの大悪魔を凌駕し、新世界を築き上げるんだ」
少年の演説が耳に入らない。
カサンドラさんが静かにしゃがみこんで拾い上げた、シルバーのネクタイピン。
殴り飛ばされたときに、取りこぼしたのだろうか。
それを見た瞬間に、カッと頭の内側が白熱した。
ふざけるな。
ふざけるんじゃねえよお前。
それを返せ。
返せよ。
お前の物じゃねえだろうが。
世界が色を失い停滞する。
頭の内側の、白熱している部分がどんどん広がっていく。
怒りではなかった。今までの、わたくしを突き動かす原動力だった、怒りとは違う感覚だった。
ぶん殴ってやりたいと、思わない。
生きていることが許せない。
死んで欲しい。
相手が誰なのかとか、そんなのどうでもいい。
自分の大切なものを踏みにじって、奪っていった存在が、許せない。
死んで欲しい。死ね。死ねよ。死ねって言ってるだろうが。
無我夢中で、ただひたすら、思考の空白を呪詛が埋めていく。視界が明滅する。
気づけば目の前に扉があった。
青銅色のそれはかつて、鎖で雁字搦めに閉じられていた。
けれど。
今はもう、開け放たれていた。
いつしか少年もカサンドラも、そして邪竜すら動きを止めて、マリアンヌを見ていた。
誰も、それに気づかなかった。
夜空をオーロラが埋め尽くしていた。
「これ、は……特級選抜試合で見た……!」
リンディの驚愕の声。
上空でオーロラが重なり、織り込まれ、大悪魔を象っていく。
「──こいつ! ルシファーの因子を持っていたのか!? まずい、今はまだルシファーに出てこられるわけにはいかない……! カサンドラ!」
「承知しているわ、抑制結界を──!」
天より降りたるは、地獄を統べる個体にして世界。
夜空を引き裂き顕現する、世界の終わりそのもの。
黒い呪紋を張り巡らせた白い身体。
風になびく白い髪。
血涙の如き目の下のラインが、闇の中で怪しく輝いている。
「呼んだな。大悪魔ルシファーを──否。おれを呼んだな」
開かれた両眼は紅色。
だが──刹那の間もおかず、色合いが荘厳な黄金色に染め上げられていく。
「なるほど難儀だな、マリアンヌ。お前は……激昂することこそ多いが。人を憎んだのは生まれて初めてか」
因子を持つ少女の前に降り立ち、悪魔は無感情に告げる。
奇しくもその立ち位置は、世界を滅ぼす存在だというのに──少女を救いに来た、最強のヒーローのようで。
「いや、いい。何も言わずともいい。お前の憎悪は、確かに流れ込んできたとも」
振り向いて顔を向け、黄金色の両眼がじっと少女を見つめた。
「人間の感情には疎い。全て理解出来ているとは思わん。だが……それでも。あれほど美しかったお前の深紅を、おぞましい黒に染め上げてしまうような心の動き。その痛切さは、理解したつもりだ」
ルシファーを膝をつくと、顔を伏せたまま身じろぎを全くしない少女の手を取る。
手の甲を優しく撫でて、彼は相手を安堵させるための笑みを浮かべた。
「故に委ねろ。今のお前にとって、世界の破滅など些末事だろう。おれなら奴らを世界ごと滅死に至らせられる」
誰も身動きはおろか、呼吸すら許されない。
カサンドラと少年の全身からドッと冷や汗が噴き出る。ファフニールが動揺しているかのように巨躯を揺らす。
距離を置いていたリンディだけが、かろうじて恐慌状態に陥ることなく、事態を把握できていた。
(こんな、にも──あの時と違う。マリアンヌと話に来たって言ってたときと、違う)
あの時は、こんな風ではなかった。
ただそこにいるだけで、こちらの魂が砕けそうになるほどのおぞましさは、なかった。
「禁呪保有者は我が子だ。しかしどうやら、その力を……おれではなく、そこの下賤なトカゲのために使おうとしているようだな」
「……ッ」
地獄を統べる、偉大なる大悪魔が立ち上がる。
彼の視線が滑らかに戦場を切り裂いた。
『思い上がるなよルシファー、我らは──』
「誰が発言を許可した」
腕の一振りで、大邪竜の首から上が吹き飛んだ。
だが即座に再生が開始される。肉塊が蠢き、全く同じ形を象っていく。元の姿を取り戻すまで、コンマ数秒もかからなかった。
途方もない再生能力を目の当たりにして、だがルシファーは表情一つ変えない。
「思い上がるな、だと。それはこちらの台詞だ。お前ごときが新世界を築くなど、笑わせる。身の程を知り、その代償に死ね。おれとの格の違いに絶望して死ね」
ルシファーはその双眸に、明確な感情を宿していた。
世界そのものである彼は、一人の人間であるかのように──
──憎悪を滾らせていたのだ。
「おれも憎い。ああ憎いとも。これが憎悪か。これが、己を内側から灼き焦すこれが、憎しみならば! 彼女の代わりにおれが解き放とう! おれはこの塵芥共を──お前たちを、欠片も残さず滅ぼしたい!」
世界を終わらせる力が。
一個人の純粋な感情のもとに、牙を剥く。




