昼餉
ズッ、ズズゥゥー。
日差しの射し込む居間で少女が冷麦を啜る。それを正面から目にしながら自らもザルへと盛った冷麦へ箸を伸ばした。氷を避けて細い麺を掴む。そうして汁へと麺を運びながら再び少女へ目を戻す。
ズッ、ズズゥゥー。
少女の口元へ目を向ける。少し下品な音を立てて次々吸い込まれていく細い麺。不思議と一眼見て、あぁこういうものなのだな、と理解させられたのはここに来た当初の話。今ではそれを見て、あぁ美味しそうだなぁ、などと思ってしまったりする始末。
それ自体は決して悪いことではありませんが……。
汁へと沈めた麺を掴む。細く長いその麺の端を口へと含む。ここまでは目の前の少女と変わらない工程なのだが。
この後どうすれば良いのでしょう。
啜る。ということがどうしても出来なかった。決して恥ずかしいから吸えない、というわけではなくもっと単純な話だ。啜ろうとしても口に入ってくるのは麺に付随する汁ばかりで、しかもそれが気管へと入るものだから情けなくも咽せるばかり。麺類を出す度に主たる少女は美味しそうにズルズルと啜って食べてくれる為、お手本に困ることはないのだが、どれだけ観察しようともやり方がわからなかった。
やはり諦める他ありませんか。
そう思いながらゆっくりと残りの麺を口へと運ぶ。目の前で豪快かつ美味しそうに啜る姿を恨めしく見つめながら。すると、視線に気がついたのか少女が呆れたように目を向けてきた。
「上品に食べるわねぇ」
少女の口をついて出た言葉に思わず、見当違いだ、などと返しそうになって口をつぐむ。そもそもまだ口内に麺が残っている。今口を開くのは不躾が過ぎる。
「……ん。啜ることが出来ないだけです。そちらの食べ方の方が美味しそうに見えて、わたくしは好ましいかと存じます」
多少、品の無い音だとは思いますが。という言葉は悔し紛れになりそうで口にしない。
「音を立てるのがマナー、なんて口にしようものなら正気を疑われそうな世界だものねぇ」
詰まらなそうに外へと目を向ける少女。見えるのは外塀とその内側に広がる小さな庭。とは言え見ているのはそれらというよりその向こう側に広がる世界だろう。
「わたくしと食卓を共にしていることのほうが正気を疑われる、とは思いますが」
苦笑いを隠すように口にする。言外に伝えた意味をすぐに察したのだろう、少女の目が釣り上がる。が、すぐに力を無くすと肩をすくめた。
「……良いのよ。ここには私しか居ないのだから」
そう言うと気を紛らわす様に麺を啜る。力の抜ける様な啜る音が日差しに混ざって居間に溶けていった。
静まり返った空間に少女の麺を啜る音だけが流れていく。それを見ながら、やはりそちらのほうが美味しそうだなぁ、と同じ物を食べながら思ってしまうのは致し方無いことであろう。気付けば、大ザルにあけた冷麦はもうあと僅かになっている。
「……もう少し召し上がりますか?」
伺う様に少女へと視線を向ける。用意できないわけではないが、もうこの少女にいただいたお湯は冷めてしまっているだろう。また、一からお湯を作るとなると時間がかかる。
「セリ」
故に食べるならおそらく少女にもう一度お湯を頂くことになる。とすれば返答はどうなるか。短い会話の間に思考を出来る限り巡らせる。とは言え、目の前の主人に叶うはずもないのだが。
「……足りないのであれば素直に言ったら?」
少女の表情は呆れ顔であろう。見なくててもわかる。我ながらしくじったとは思った。けれどしょうがないではないか。食べるスピードがあまりに違い過ぎるのだから。音を立てない様に箸で口まで運ぶのは大変なのだ。それくらい察してほしい。
内心では色々と文句を口にしながら、恥ずかしさに目を伏せる。顔が暑い。けれどおそらくまだ耳までは染まっていないだろう。それくらいの冷静さは残っている。
「……ハァ。あら?」
少女のため息と時を同じくして涼やかな音が居間に広がった。音の源へと目を向ける。開け放たれた縁側の、屋根の縁で自己主張する小さな風鈴。リンリィン、と繰り返し鳴る音はまるで何かを知らせているよう。
「……セリ?」
「いいえ。わたくしではありません」
名前を呼んだ時点であそこに風鈴を吊るしたのは少女では無いのだろう。で、あればこの場にいない方が良い。幸い自然な理由も存在するのだから。
「……洗い物をして参ります」
「そう」
二人分の食器と冷麦を入れていたザル。一度で持てる程度の食器しか使っていない昼食の残骸を持って居間を逃げ出す。これは自分のためだろうか、それとも。
土間の入り口で履物を履いて水場へと急ぐ。向こう側の声を聴きたくない。洗い場に物を置くと首元に手を添えた。冷たく硬い感触が返ってくる。私の罪の証。そして、私と彼女をつなぐもの。彼女がここにいる理由。私がここにある理由。けれど、あぁ、けれど。繋がれているのは本当に私だろうか。本当は彼女こそが私によってここに繋がれているのでは。
「……洗い物を、しなければ」
誤魔化す様に口にした言葉はやや震えていて自分が情けなくなる。水瓶から水を掬う手が震えている。まるで叱られた幼子のようだ。
「良いじゃない、別に」
唐突に耳元で声がした。囁くような、けれどはっきりした声が。
「ここは私たちの隠れ家で。私たちはお互いでここに繋がっている」
居ないのに。この場には居ないのに。まるで抱きしめられているような感触さえ伝わってくる。
「それでいいじゃない。私は嫌いじゃないわよ、そんな関係も」
幻聴なのだろうか。だって、振り返っても誰もいないのだ。そもそも抱きしめらている感覚はあるのに振り返ることは何不自由なくできてしまうことがすでに異常で。
「第一、私から離れられないあいつらが悪いのだし。貴女が気にすることじゃないわよ、セリ」
けれど、確かに声がして。抱きしめられていて。変わることのない台所の風景がなぜだか滲んでいって。
「もう。泣かないの」
見られているのだろう。呆れたような優しい声が届いた。優しく髪を梳く感触は風ではありえないものだろう。どういった手段かはまるで理解できないが優しい彼女はきっとそこにいるのだろう。
私はしばし、その感触に身を委ねて静かに台所の地面に見えない黒い染みを落とした。