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「ぐわあ、と…」
そう言えば、いつかそういうアヒルか何かみたいな叫び声を聞いたことがあるかもしれない。
あれは赤い本の教示に従っていたんだろうか。
ひとまず帰らねばな、と決めた。
どこで叫んでも良いのなら、家の中だって構わないはずだ。外で大声を出すより家の方が好ましい。帰って………。
足がなかなか動かない。
ストンと力が抜けてしまっている。
僕はしばし困惑した。
だが、これこそが、すなわちこの本によるところの力を抜いた状態なのだと思い当たった。
そうか。僕は第一章に書かれてあることをすでに済ませているのだ。
ページをめくる。そこにはやはり「第二章」と太く書かれていて、こんな内容が記されている。
“余分な力をすっかり抜いてしまったら,心もだいぶん穏やかになっていると思います。
しかし,それではまだ足りません。
あなた、それにあなたが作るもの、この二つ以外は完全にシャットアウトするのが望ましいのです。
それは簡単なことではありませんが、なるべく外界の出来事に左右されないために、努力してみましょう。
一、 掌をじっと見つめてください。
手相の線をじっと追いかけて、吸い込まれるように集中しましょう。
もちろんこれは占いではないので、線だけでなくて、血の巡りや目に見える血管にまでしっかり見ましょう。
二、 すっかり見尽くせば、自然とあなたは手から視線を逸らすでしょう。そこまで行くと、今度はまぶたをしっかり閉じてしまって、暗闇に身を任せてください。
そこがもし明るい所で目を閉じても暗闇にはならないんだという人も、大丈夫。その明るい世界に身を投じてください。
しかし,炎天下の外にいるという人や、横断歩道の途中にいるという人、また、店の出入り口のすぐ手前にいるという人は速やかに移動した方が良いでしょう。
三、 暗闇にずっといると、またしてもいずれ飽和して勝手に目が開くと思います。
それが何時間後のことであれ、きっと目は開きます。そうなれば、この行程は完了となります。
第二章、終わり”
読み終わると、僕はすぐに振り返った。
この「店の出入り口の手前にいるという人」に該当していたからだ。
自動ドアからは離れている。奇異の目で見られることはあったとしても、邪魔になってはいないだろう。
自転車置き場だって空いている。よし。
ここに書かれていることに取り組む前に、僕は一度ぐるりと周りを見渡した。
書店に車にそれに空。なんだかこの変哲のない景色にさよならをしたいと思ったのだ。
掌をしげしげと眺める。
やることは至極単純なものだ。しかし、文中には「簡単なことではない」とあった。難しいことなのだ。そして、時間もどれほどかかるか分からない。
ぼうっと思考がくらんでいく。




