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早くなく遅くもない絶妙な速度で先を歩きながら、店員は時折こちらを振り向いた。
僕がきちんとついてきているか確認しているようだった。
振り向くたびに見える胸の名札には「佐々木」とあった。
速度を調整しながら歩いているためか、佐々木の歩幅はとても小さい。
地を蹴った足の膝裏が伸び切る前に新たに足を踏み出すので、出した足の着地が踵ではなく爪先になる。
そのせいで着地の衝撃をうまく逃がせていないのだろう、肩が小刻みに上下している。
その動作とテンポは猿の玩具を彷彿とさせる。
ぜんまいを巻くとシンバルを打ち鳴らしながら地団太を踏む、あの狂気じみた玩具だ。
可愛げも、面白みも自分には未だに不明だが、子供時分には不思議とどこの家にも置いてあった。
猿の狂芸を思わせる佐々木の歩行のせいだろう。
僕は佐々木が前を向いた瞬間に本棚の陰へ入ってしまいたい衝動にかられた。
思ったときにはやってしまっていた。
佐々木がこちらを向いて、前へ向き直るその瞬間に、僕は横っ飛びして本棚の陰へ入った。
…つもりだったが、そこには恰幅のいい男がちょうど立ちはだかっていて、僕は「ばいん」という擬音がしそうなほどよく弾んで元の通路へ戻った。
次に佐々木が振り返るとき、どんな顔をしたらいいのかわからなくなった。
いっそ顔を見られる前に逃げ出そうかと考えていると、佐々木は歩行を緩めて、レジの隅の小さなカウンター席を手の平で示した。
「こちらで少々お待ち下さい」
そう言っていそいそとどこかへ行ってしまった。
僕は逃げ出すタイミングを逸した。
レジでは退屈そうな店員が一人何やら手元をみつめて賢明に作業している。
胸の名札には「阿部」とある。
阿部は紙のブックカバーに折り目を入れていた。
それを何枚も量産している。
なるほどああして折り目を付けておけば、本に取り付ける時にはさっと巻くだけでよく、取り付ける度に折る手間が省け、客に本を渡すまでの時間を短縮できる、という算段だろう。
そこへ客がやってきてレジに本を差し出し、「カバー付けて下さい」と言った。
阿部は手早く会計を済ませ、カバーに手を伸ばす。
僕は折り目の付けられたカバーが手際よく本に巻かれる様を期待した。
しかし阿部が取り上げたのは、折り目の付いていないまっさらなカバーだった。
阿部は本のカバーに合わせて紙のカバーをもたもたと折っていく。
どういうわけだろう、とよくよく阿部を観察してみれば、何やら頬の高い部分が紅潮している。
対面にいる客を見れば、なるほど整った容姿をしている。
阿部は恭しく客に本を渡し、「ありがとうございましたぁ」と語尾を伸ばした。
ははぁ、と感心していると、次の客がやってきて「カバー付けて下さい」と言った。
阿部は閃光走るスピードでもって会計を済まし、しっかり折り目の付いたカバーを疾風の如く巻き付けると、「ありがとうございました」と機械的にお辞儀をした。客の容姿には触れないでおこう。
僕は感心を通り越して、ううんを唸ってしまった。
阿部の妙技に釘付けになっている間に佐々木が戻ってきた。
手には赤い色の本を持っている。
「赤い本」への期待は無かったはずなのに、あれが例の、と思うと少しばかり胸が動悸した。
佐々木は目前に着席し、「お探しの本はこちらですね?」とカウンターの上に本を差し出した。
目の覚めるような赤、いや、朱色と言ったほうが近いかもしれないその表紙には、「大学入試シリーズ T大学」と書かれていた。
「違います」
僕は差し出された本を押し返した。
佐々木は「ですよね」と噴き出しながら、拳をちょうどマイクを持つように握って口に当てた。
唾を飛ばさない配慮はするらしい。
そして「すみません、すみません、どうしても一度やってみたくて……」とへらついた顔を伏せた。
「なぜそれを僕のときにやるんです」と訊くと、佐々木は伏せた顔をぐんと上げ、真顔になって「フィーリングです」と言った。
「フィーリング……感覚とかそういうことですか」
「そういうことですね、勘、と言ってもいいかもしれません。あなた先程ここへ来る途中、本棚の陰へ隠れようとして失敗しましたね」
「見ていたんですか、あれを」
やはり逃げ出すべきだった。
「見ていました。偶然ディスプレイのガラスに映って見えたのです。でもそれを見て、私はピンときたのです。ここだと。本が入荷して以来、一度でいいからやってみたいとずっと夢想してきたことを、今ここでならやれると。これは非常に感覚的なものですから、というか感覚そのものですから、もう一度起こる保証はありません。だから私は今ここでそれを実行したのです」
「つまり、案内中に意味もなく本棚に隠れようとする奇人なら、赤い本と間違えた体で赤本を出すことで可笑しみを生み、更に、違うこれじゃない、と否定させることで可笑しみをより確かなものにする、ということを、やれるだろう、そしてたぶんやっても怒られないだろう、と感じたので実際やったと」
「…その通りですが、そんなにはっきり言わないで下さい」
佐々木はそう言ってしばらくウジウジしていたが、切り替えの合図とでもいうようにウッウンと一つ咳ばらいをした。
そしてエプロンで手を拭い拭いしてから、おもむろに大学入試シリーズをカウンターの下に引っ込めた。
それから、「お探しの本はこちらですよね」とセリフっぽく言って、引っ込めた手をカウンターの上に戻した。
佐々木の手には別の本が載っていた。
表紙には、黒い文字で「赤い本」とある。
ビニールコーティングのされていない、紙のままの装丁の、その本の表紙は赤色ではなく、薄墨の褪せたような灰色をしていた。
手品のような唐突さに、思わず眉間が上がった。
佐々木は満足げに口をもごもごしていた。