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聞いた覚えのある声を掛けられて振り返る。
「出たな佐々木」
「あなたでしたか」
佐々木は心底残念なものを見るような顔をした。
「きみが僕を突き飛ばしてくれたんであちこち行ってきたよ。おかげで僕はへとへとだ。それで動くのを止めたらここに立っていた。僕はもう動きたくない」
「私も特異な体験をいろいろさせてもらいました。現実離れした出来事ばかりで私もさすがにちょっと疲れましたよ。自分の顔をした人物とも会いましたし、そうそう、たくさんいるらしいあなたの一人も今そこに」
そう言って佐々木が指差した方向には誰もいなかった。日光を浴びて熱々としたアスファルトの駐車場がガラス越しに見えるだけだった。
「おや、もう去ってしまったようです」
佐々木は事も無げにそう言ってこちらを向いた。それきり黙ってこちらを見ているので、僕は何かしら言わねばならないことを失念しているのではと疑った。でも、すぐにそんなものはないと思い直して佐々木を見返した。
お互い黙ったまま見合う。
すごく妙な時間だ。
落ち着かないような、でも間違いをしている予感もない、むしろ正しいことをしているように思える、妙な時間だった。
永遠に思えるような時間に区切りをつけたのは佐々木だった。
「先程もう動きたくないと言っていましたが、その希望は叶うかもしれません」
そう言って懐から一冊の本を取り出した。
赤い色の表紙をした本だった。
表紙には黒い文字で「赤い本」とある。
「赤い本だ」
「そうです。赤い本です。どうですか、赤いですか」
「赤い」
僕がそう答えると佐々木はそうでしょう赤いんです、と少し興奮したように言って笑った。
まるで喜んでいるふうにも見える。
「どこでそれを?」
「それが、私が持っていたようです。どうやら初めから」
「隠していたのか」
「いいえ、私も自分が持っていると知らなかったんですよ」
「変な言い訳だ」
「そうですね、変な言い方ですけどね、本当にその通りなので他に言いようがないんです」
佐々木から本を受け取る。
ビニールコーティングのされていない紙のままのざらついた手ざわりはそのままに、灰色だった表紙だけが見事に赤色に変わっている。
「開いてみて下さい」
「きみは見たのか、中を」
「見ましたが、第三章の先を読もうとすると頭がぼうっとなってしまって読み進められませんでした。思うに、これはあなたの本であって、私の本ではないからではないかと」
「僕の本? 僕が読めば第三章の先が読めるって?」
「そうです。先を決めるのは私では駄目なんです。あなたは言いましたよね。僕が望めばきっと叶う、なんだって今なら可能だって。今あなたがもう動きたくないと望んでいるのなら、望み通り自分で終わらせられるはずでしょう。どうぞ先を読んで、完結させて下さい」
「そう、かな。そうなんだろうな。この本が始まりだったんなら終わりもこの本ってわけだ」
そろそろと表紙の縁をなぞる。
指先に紙の繊維の凹凸が流れていく。
「開くよ」
「どうぞ」
えいやっとページを捲る。
表紙、扉、一ページ、二ページ、三ページ、、、。
捲っても捲っても本文がどこにも見当たらない。
「これはどういうことです」
「僕に言われても困る」
「望み通りになるんでしょう。どうにかして下さい」
「うるさいな。今やってるんだからせっつくんじゃないよ」
焦りだす内心とは裏腹に本のページはどこまでも真っ白だった。
身を乗り出して本を覗き込んでくる佐々木を肘で制しながら僕はページを捲った。
一ページずつ捲るのが面倒になってパラパラマンガのようにページを繰り出した。
「あっ」
真っ白いページの中にたった一行、黒い印字を見つけた。
第五章。
それだけ書いてあった。
僕はそろりと佐々木を見た。
佐々木は口を半開きにしていた。眉間には深い皺が三本も走っている。
明確に、とても明確に、ものすごく嫌そうだった。