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肺がどくどくと脈打っている。
自分の耳にもはっきり聞こえる。
足がもたつく。少しでも気を抜いたなら転んでしまうだろう。
両足をうまく運ぶことだけに集中して走る。
「佐々木さん、佐々木さん、業務を、業務はどうするんです」
後ろから阿部が追いかけてきて何か言っている。
呼びかけてくる声が近いことから、阿部は私のすぐ後ろについて走っているのだと推測される。
振り向けば推測は確信に変わるだろうが、私はそれをできずにいる。
なぜなら阿部以外にも多数の足音が、無数の人の足の駆ける地鳴りのような音が私の後ろを追ってきているからだ。
「佐々木さん、聞こえてるでしょう、無視しないでくださいよ。業務を続けないと皆が困ってしまうじゃないですか」
「誰が困るって言うんですこんな紙だらけの場所で……!」
恐怖に駆られて思わず喚いた私の肩を、阿部が強く掴んだ。
掴まれた反動で体勢を崩した私はぐるりと振り向いてしまった。
足がもつれて絡まりその場で地面に転がった。
視界いっぱいに人の壁が見えた。
忙しなく繰り出される右足左足、てんでに振り回される腕、怒っているようにも見える。
白髪の上品な出で立ちの紳士も、原色の毒々しい奇抜な柄のパーカーを着た若者も、化粧気のない楚々とした女性も、皆、衣服の裾の翻るのも意に介さずといった様子で怒涛のように迫って来る。
私は唖然として地面にへたり込んだまま人の足の波に呑まれた。
顔を踏まれ手を踏まれ、膝や人体のどの部分かわからない硬い部分が身体中を殴って私の上を通って行く。
私は膝を抱えるようにして防御の姿勢を取り、打撃の乱打が止むのを待った。
怒涛の足踏みはまさに一つの波のように私の上を浚って瞬く間に遠のいていく。
目を開けると木偶のようにきょとんと立っている阿部と目が合った。
私が無茶苦茶なのに反して阿部はまったくの無傷だった。
「佐々木さんが放棄するから、怒ってどっか行っちゃったじゃないですか」
まるで私に責があるような言い方をする。
「怒ってって……誰なんですあの人たちは」
阿部は一拍の沈黙を置いてから「佐々木さん、それ面白くないっす」と言って鼻を吹いた。
阿部とはこういう性質の人間なのだ。人を食ったような、小馬鹿にしたような、時にひどく冷徹なようにさえ感じられる言動もその実、大抵の場合は何の他意もなく言っている。悪意も善意もないのだ。一度訊いたことがある。何を考えているのかと。その時阿部は「別に何も。ノリですよ全部その場の。面倒なことは一切考えません」ときっぱり言ってのけたのだ。阿部の阿部たる態度を前にして私は幾分冷静さを取り戻した。
「違いますよ。巫山戯ているのではなく、私は本当にあの人たちが誰なのか知らないんですよ」
「誰ったってそんなこと言われても、うちの在庫に決まってるじゃないですか」
妙なことを言う。
「俺らがいつも扱ってるものですよ、ほら、棚に差し込んで、並べて詰めて重ねて売り渡す、六面体」
ぎくりと背が強張った。六面体。それは私の頭の中だけでの呼び名だ。阿部が知るはずはない。偶然の一致ということもあるだろうが、それで片付けるには少々気持ちが悪すぎる。そもそもこの阿部は本当に阿部なのか。未だここがどこなのかも把握できていない。この狂った場所で私は何を正常とすればいいのか。
ふと、異様な気配を感じて顔を上げると、走り去ったはずの人たちがじっとりした目つきでこちらを見ていた。
白髪の上品な出で立ちの紳士、原色の毒々しい奇抜な柄のパーカーを着た若者、化粧気のない楚々とした女性、高価そうなスーツの胡散臭い男、同じく高価そうなスーツの胡散臭い女、真珠の首飾りにパーマネントの婦人、山高帽の髭面の男。そしてあれは、お客様。その隣には私と同じ顔をした人物。
「ああ、そういえば、これ落としましたよ」
阿部が目の前に六面体を差し出す。
赤い色の表紙をしている。
表紙には「赤い本」と印字がある。
「赤い」
呟くように零した言葉に、阿部が「当たり前じゃないですか」と素っ気なく答えた。