17
そのうちに女将がやってきて、蕎麦二つをトレーに乗せたまま立ち止まってじっとこちらを睨みつけている。
私は一度頷いて、誤魔化すように笑う。
「右手がきかなくなっちゃいました。食べれません。これでは」
お会計お願いします。
お客様は私が金を払っている間にどこかへ行ったらしい。
歩くとポケットに手を突っ込んでいても周りの視線が気になった。
動きを補佐するロボットか何かをつけてるみたいじゃないか。
実際は、つけていても障害になるばかりで便利ではない。今のところ。
赤い本はとうとう本でなくなった。
私の扱うのは六面体であると相場が決まっているのに、液体みたいになってしまった。
さすが細々と人を集めるだけの魅力があるわけだ。
私もその虜の一人ということになるだろうか。
家に帰って床に横になった。
このどっと襲ってくる眠気は赤い本の侵食によるものなのかもしれない。
であれば抗わなければならぬと思うのだが、私は引き込まれるように目をつぶって寝入ってしまった。
どれほど時間が経ったか、私は目を覚ました。
覚ましたとはいえ目の前は真っ暗であるからこれはまだ眠っているということかもしれない。
どうしてこうなったのかを考えていると、どうも赤い本は顔までその領域を広げたらしいということが分かった。
これじゃあ外に出られないではないか。
仕事だってできない。
本屋に立つことは私の責務だのに。
昨日は……、いや、もしかしたら一夜よりもずっと多くの時間が経っているかもしれない。
ともかく寝る前はポケットに手を入れてなんとか凌いだが、今じゃあそれもできない。
周囲はぎょっとするだろう。こんな状態で出歩いていいものか。
しかしそのぎょっとした周囲を私は見ることができないのだから、むしろこの格好で構わないのではないだろうか。
人々にどう思われたって私がそれを知り得ないのなら関係ないじゃないか。
そんな風にも思いかけた。
すると、真っ暗な世界のその向こうから、首を上下に揺らして、まつ毛の長いラクダがカツカツとやってきた。
私の前で止まると、首の皮がベロンと剥がれる。
黄土色の皮の下からピンク色の肉が覗き、そこに何やら文字が書いてある。
『探しているのはこれでしょう』
どれのことかと思えば、背中のこぶとこぶとの間に瓶が挟まっている。
その中には身体のパーツがバラバラになって、無造作に詰められているお客様がいた。ホルマリンで浸けられているようだ。
「死んでいるじゃないですか」
私が言うと、ラクダは「死んじゃいません、腐ってないではないですか」と前歯の隙間から唾を吐きつつ答えた。
確かに腐ってはいない。手足にはまだ膨らみもある。しかし底へ沈んでいる顔に嵌まっている眼球の黒点は白っぽく、焦点が合っていない。
ラクダはまたカツカツと遠くへ歩いて行き、私の元にはその瓶だけが残った。
僕はバナナか何かその類の植物に身になっているのだろう。
体は全く動かず、それに動かそうとも思わない。
チイチイいう鳥の鳴き声を聞いている。
しかしこのままじゃいけない、と自分が植物になっていると気づいた時そう思った。
助けてくれるものはないので自分で考える。
もぞもぞと身体を揺らせば、脚が生えてきますよ。
心の中で助言する。
実行してみると、果たして足がニョッキと飛び出た。
この足で自転車を漕ぐようにすると、僕は自分の行きたいところで自由に行くことができる。
張り切って漕いだがどこに行くのかまだ決めてはいなかった。
乾燥した原っぱに来る。僕が望んでいたのはサバンナだったのか。
叫べば星が壊れる。
そう自分に言い聞かせたので、僕ははやばやと8つほどの星を壊した。