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「ここを曲がればすぐですから」
ぐにゃぐにゃと歩行の定まらないお客様の腕を掴んで半ば引きずるようにして歩く。
放っておくとその場でへたり込んでしまうか、または変な角度で壁に頭をくっつけて何事かぶつぶつと呪文を唱え始めるので仕方がない。まるで首の据わらない操り人形ではなかろうか。
三軒ほど先に薄汚れた「蕎麦」の暖簾が見えた。
既に濃いだしの香りがぶんぶんに匂っている。
いかにも旨そうな香りだがこれが実際食ってみると薄ぼけた醤油の味がするだけでぜんぜん旨くはないのだ。どんな巧いトリックを使えばこうもさっぱりと旨味だけを消せるのかと訊きたいくらい旨くない。決して人に勧めたい店ではないが、お客様がこの状態ではあまり遠くへも行かれない。
ガタつく引き戸をこじ開けて暖簾をくぐると、厨房の奥の親父が威勢よくいらっしゃいませと声を張った。
厨房から一番遠い席を選んでお客様を座らせたが、お客様は身を起こしているのも億劫といった様子で、席につくなりぐにゃりとテーブルに突っ伏してしまった。
「ご注文は」
注文を取りにきた店員は、テーブルに突っ伏して忘我の状態のお客様を見てぎょっとしたようだった。
年恰好からいって厨房の親父の奥さんだろう。水を置く手もそろそろとしてあきらかに私たちを怪しんでいる。
そうだろう、このお客様の状態を知らぬ人が見れば、具合が悪いか、何か良からぬ薬を摂取したか、または気が違っているか、だいたい疑うのはこのあたりだろう。そしてそのどれであっても店にとってははた迷惑であるし、そんなお客様と連れだっている私もまた同類と見なされるに違いないのだ。なればこそ、私はできるだけなんでもないように振舞うのが無難であろう。
「あの、そちらの方はどうかなすったんですか? 具合が悪いようですけれども」
「いえ、平常からこんな人なんですよ、どうぞお構いなく。月見を二つ下さいな」
普段本屋で客対応するよりも数倍明るく話したが、奥さんは「そうですかぁ?」と余計に不信を強めたようだった。失敗した。
奥さんが厨房に引っ込んでしまうと店内は私とお客様だけになった。
L字をした店内の右端にあるこの席からは厨房が見えない。それが少しの安心をくれる。万一お客様が奇行に走ったとしてもここならすぐに見られることはないので、いくらか対処する時間が稼げるというものだ。
当のお客様は席についてから突っ伏したきりぴくりともしない。
顔は横を向いているので息はできているはずだが、こうも動かないと少し心配になってくる。
「玉子は嫌いじゃないですよね」と話しかけてみると「嫌いじゃない」と返ってきた。やはり会話は可能らしい。「蕎麦アレルギーではないですよね」と訊くと「違う」と明確な答えをくれる。
そっと顔を覗き込んでみたが、目は半開きにして見えているのかいないのか、ちらりともこちらを見ない。
これがどういう状態なのか、お客様の平常を知らない私には計り知れない。けれども店に来て赤い本を実践するまでのお客様は、多少の挙動不審は見られたものの、それは一般人の範囲を出ないものであってそれ以上の奇抜さはなかった。それを考えれば、やはりこの異様な状態は赤い本が関わっていると見て間違いないと思える。
だしの香りの充満する店内には日が差してきていた。
いつの間にか昼時らしい。
厨房から漂ってくる湯気が日差しの中をうねうねと踊っている。
ふとお客様を見ると手に赤い本を抱えている。
はて、お客様の赤い本は本屋の棚に戻したのではなかったかしら、と不思議に思い、お客様の手から赤い本を抜き取ってみた。
すると本は私の手に移るなりバターのように溶けてだらだらと手に纏わりついた。
本の滴がテーブルに垂れてしまう、と慌てて手を添えたが滴が垂れることはなく、本は溶けた形のまま私の手にぴったりと張り付いてしまった。
「本が手袋になりましたよ、灰色の。これはどういうわけでしょう」
驚いて本が張り付いていないほうの手でお客様を揺すると、お客様はがばりと起きて「大団円、大団円」と言って拍手をした。
私の手に纏わる灰色の本は、まるで細胞が増殖するかのように、端からじわじわと広がっているようだった。
私も取り込まれてしまうのか、赤い本に。
ざらつく紙の表紙と同じ質感になってしまった掌をさすり、漠然とそんなことを思った。




