僕は君にさよならを言う練習をする
『僕は君にさよならを言う練習をする』
一日目
ようやく苫小牧行きのバスが来た。吹きさらしのバスターミナルで待っていた僕の手足は感覚がなくなるんじゃないかと思うほど冷え切っていて、少しイライラしていた。
でも、このイライラをどうしたらいいかはわからなくて、なんだかモヤモヤした。いっそ、叫んでみたりすればいいのだろうか。
バスの横っ腹にはハスカップ号とついている。なんだか恥ずかしい名前だなぁと思っていたら、隣のバスはポテトライナーというらしい。ポテトとハスカップなら、まだハスカップのほうがマシだろう。
札幌駅の南側にあるバスターミナルは強風で電車が止まっているらしく、大混雑していた。でも、そもそもバスターミナルが狭いのだと思う。何も券売所まで同じところにつくらなくてもいいだろうに。薄暗くて寒くて、騒がしい外国人で溢れていて、本当に嫌な場所だと思った。
やっとバスは動き出し、雪の降る街を走る。北海道で二度目の冬を迎えたが、東京暮らしの長かった僕にはまだ慣れない景色だった。
少し目を閉じ、眠ることにした。
昨日はあまり眠れなかったから、身体がとても気だるい。コートを掛け布団代わりにして、浅い眠りについた。
目が覚めると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。アナウンスによるともうすぐ苫小牧駅に着くらしい。窓の外を見ると、要塞のように大きなショッピングモールがある。駐車場もバカみたいに広いし、さすが車社会といったかんじだ。
バスは苫小牧駅に着いた。雪はパラパラとは降っていたがまだ積もってはおらず、黒いアスファルトがむき出しになっていた。
駅は思っていたよりも大きかったが人通りはまばらだ。レストランのホッキカレーというのが気になったが、次に乗るバスの時間が心配だったので素通りした。
バスに乗ってフェリー乗り場へ向かう。今日はフェリーで一泊して、翌朝仙台へ行く予定だった。
フェリーに乗ると、僕はまず自分の部屋に荷物を置いた。カプセルホテルのような部屋は思っていたよりも広くてくつろげそうだ。二段あるうちの上の方だったが、動いてもギシギシ言わないし、カーテンもきっちりと遮光してくれている。部屋のランクとしては、ひとりきりの個室になれる部屋の中で一番安いカプセルホテルのようなところだったが、秘密基地みたいでこれはこれでいいと思った。
初めてのフェリーだったので、しばらく中を探検することにした。赤いカーペットが敷かれていたり、きらびやかな照明があったりと、ヨーロッパのお城みたいな内装かと思いきや、畳のある部屋もあって、なんだかちぐはぐな感じだった。まあ乗っている人間が日本人なのだから、らしいと言えばらしいのかもしれない。
夕飯はバイキングだった。味は学校の食堂レベルだし品数も多くなかった。まあでもそれほど高くもないし、こんなものだろう。
近くのテーブルでは作業服を着た人や、日焼けしたガタイのいい人が酒を飲みながら大きな声で笑っている。乳製品の入った車を積んでいるという話をしていたから、たぶん運送業の人たちなのだろう。
また別のテーブルにはどんぶりに入ったうどんを手掴みで食べている子どもと、ずっとスマホを見ている親がいた。子どもはチラチラ親の方を見るけど、親はずっとスマホをいじっている。少年のべたべたの手と、べたべたの口元が煌々と輝く照明に照らされていた。育児とスマホの悪い関係性ってやつは、きっと、今後さかんに研究されることになるのだろう。
食後は暇だったので、奥のステージで行われるというピアノ演奏のショーを見に行くことにした。普段はピアノなんてまったく聴かないから正直、上手いか下手かもよくわからない。演奏中にでかい声で話すおじさんがいたりして客層は悪いし、拍手もまばらだ。でも、「戦場のメリークリスマス」という曲だけは好きだと思った。
ふと思い出して、甲板に出てみた。寒いからか他には誰もいない。なんだかちょっとタイタニックみたいだと思った。でもロマンチックな気持ちにはなれなくて、すぐに僕は船内へ戻った。
しばらくすると船の揺れが強くなり、僕は船酔いをし始めた。ビールでも買って飲もうかと思っていたが、そんな余裕はありそうもない。アナウンスによると低気圧のせいだそうだ。そういえば今日は爆弾低気圧が来ているとニュースで言っていた。
狭い部屋で横になり、波に揺られていると、僕は嫌でも昨日のことを思い出さざるを得なかった。
どうしてフェリーなんて乗ってしまったのだろう。ひどく気分が悪かった。
飛行機に乗ればすぐだったのに、どうして船なんて乗ってしまったのだろう。
深夜の船内はとても静かだった。周りの人の気配がもっと気になるのかと思ったけど、そんなことはなかった。
携帯がつながらず、誰も助けてはくれない海の上。孤独だけど同時に、街の喧騒から隔離されて、久しぶりにたったひとりの自分という存在に戻ってこれたような気がした。
波間をゆく船は上がって下がってを繰り返す。エンジンの震えがじんわりと伝わってくる。
暗い海で一人、波間に漂う自分の姿を思い描いてみた。何もできず漂うだけという、不自由という名の自由。このままひとり、深い海の底に沈んでいってしまいたいと思った。
船はただ、夜の海を進んでいった。
二日目
朝十時。定刻通り船は仙台へと着いた。船から降りても僕はまだぐらぐらと揺れている気がした。ともかくバスに乗り、仙台駅へと向かった。
初めて訪れた仙台の駅前は思っていたよりも都会で、それが残念なような、でもほっとしたような心地がした。
風は強かったけれど空は嘘みたいに晴れていて、行き交う人々は寒い寒いと楽しそうにはしゃいでいる。きっとここが世界の中心だと思っているのだろう。この中途半端に都会な街を、ニューヨークか何かのように思っているのだろう。どこの街の人も、おんなじだ。
朝ごはん兼、お昼ご飯として牛タンを食べてから僕はまたバスに乗り、会津若松駅をめざした。
せっかく良くなった気分が変わってしまわないように、僕はずっと外を眺めていた。少しすると、バスはどこまでも続くかのような長いトンネルに差し掛かった。
僕は昔からトンネルが好きだった。単調な窓の外の景色を塗りつぶす暗闇。一瞬で置いてけぼりにされていくオレンジ色の照明。まるで夜空の中を走っているみたいだと思った。
トンネルを抜けると、いきなり一面の銀世界が広がっていた。山を抜けて、盆地に入ったからだろうか。さっきまで晴れていたというのに、今はどこを見ても雪だらけで真っ白だった。僕は有名な小説の一節を思い出したけれど、小説のタイトルまでは思い出せなかった。
その日はちょっと豪華な旅館で桜肉を食べて、少しだけ日本酒を飲んで、早くに休むことにした。お酒の力を借りたからか、ベッドが揺れないからか、シーツのあいだに身体を横たえるとすぐに眠りにつくことができた。
三日目
朝食を取ると、まずは武家屋敷へ向かった。外はまだ吹雪いていて、バスを待つ時間は少しつらかったけれど、そのぶん空いていた。まだほとんど足跡のついていない道を歩くと、雪がもきゅもきゅと鳴き声をあげた。
屋内に置かれた展示物は一人で見てもそれほど楽しくはなかった。まあ「ここで会津藩の人たちが自ら命を絶ちました」と言われて、楽しいと思うのはどう考えたって間違っているのだろうけれど。でも、螺鈿と蒔絵というやつだけはやっぱり綺麗だと思った。
次に鶴ヶ城に向かった。お城はペンキで塗ったような人工的な白さで、瓦にはたっぷり雪が積もっていたので全体的に真っ白だった。
城内の展示は文字ばかりで、奇妙な形をした甲冑くらいにしか興味が湧かなかったけれど、最上階から見下ろす若松の町並みは綺麗だった。まるで神様が粉砂糖を振りかけたみたいで、おとぎ話の世界のようだと思った。
それから僕は電車に乗って、いわき駅をめざした。
若松の駅で赤べこ柄がプリントされたぐい呑み付きの日本酒を買ったので、電車の中で飲んだ。
平日の、いたって普通の在来線で、ボックス席を一人占めして昼から酒を飲むなんて、きっと僕は世間様に対して、ひどく御迷惑なことをしているのだろう。福島県の治安を乱していると言っても過言ではないかもしれない。でも今くらいはきっと、神様も許してくれるだろう。
いつのまにか雪は止んでいて、窓の外には茶色っぽい地面が見えていた。あれは畑なのだろうか。それとも田んぼなのだろうか。何も生えているようには見えないから、荒れ地というのが一番しっくりくる。前に、このあたりで携帯電話のCMが撮影されたと聞いたけれど、いったいこんな寂しげな景色で何を伝えたかったのだろう。
僕は余計なことを思い出しそうになって、一息でぐい呑みを空にした。
郡山で乗り換えて、ようやくいわきについた頃には外はもう真っ暗だった。いわきの駅は仙台ほどではないけれど大きくて、クリスマスの装飾がされていた。僕はまた、現実に引き戻してもらえたような、少し寂しいような、そんな複雑な気持ちがした。
その日の晩は、宿であんこう鍋を食べた。どぶ汁というなかなかどうして食欲をそそらない名前に反して、そこそこ美味しかった。あんこうの身そのものは淡泊というか、ほぼ味がなかったが、ごちゃごちゃしたやつらから出汁が出ていて、ちゃんと味がした。
四日目
いよいよ東京に帰らねばならない日だった。
最後に、白水阿弥陀堂というお寺に寄ってみることにした。
時刻表を見ると、バスが全然ないことがわかったので、電車で近くまで行って、あとは歩くことにした。
電車を降り、川に沿ってずっと歩いていくと真っ白な鷺がいた。
最初は布とかゴミが川に浮いているのかと思ったが、彼が首をもたげるとやたら細長い全身が露わになり、僕ははっと息を呑んだ。日に照らされて強調されたその白は、何ものにも汚され難い気高さを秘めていて、僕は自分の早とちりをひどく後悔した。
大きな森を背にした池の真ん中に、そのお寺はあった。
人工物のはずなのに自然の中に溶け込んでいるような、そんな不思議なお寺だった。もしかするとお寺ではなくて、後ろに広がる森のせいかもしれない。紅葉こそ終わってしまっていたものの、木々は色彩豊かな枝を四方に伸ばしていて、花火のようにも見えるほど力強く、いつまでも見飽きることのない風景を作り出していた。
お寺の中は何となく尊い感じがしたが、やっぱり僕には外側の風景が強く焼き付いた。端っこのほうが凍り付いた池とどこにでもいるような鴨さえも、一緒になって輝いているようだった。
駅に戻り、僕は東京行の特急電車に乗り込んだ。
席のすぐ真上にはランプがついていた。座席の前に説明があって、これが緑色なら座っても大丈夫。オレンジ色ならもうすぐ指定席のチケットを買った人が乗ってくるから退くこと。赤色なら座っている人がいる。という優れモノらしい。まあ僕は指定席を買ってしまったから、関係ないのだけれど。
もうあとは座っているだけで東京に着いてしまうというのに、僕の心は不思議と落ち着いていた。
きっとこの三泊四日の旅で、僕はようやく心の整理をつけることができたのだろう。
車窓からソーラーパネルがたくさん並べられているのが見えた。
辺りはどんどん都会になっていく。街の明かりが星の光を奪い去っていく。
電車は夜の闇を裂いて、あの人の待つ東京へと、僕を静かに運んで行った。
お読み頂きありがとうございます。
いくつか賞に出したりしているのですが、納得のいく結果が出ず、
とりあえずこちらに投稿させて頂いております。
結局どうしたいのかわからないまま迷走中ですが、
お読み頂けるだけでとても嬉しく思っています。