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ぼくときみと、狼と月

作者: アスカ

自作の音楽「ぼくときみと、狼と月」

( https://soundcloud.com/s30txt5ttkur/utihzhqlbw0q )を元に書いたものです。

音楽歴は一年行くか行かないか程度なのですごく優しく見てくださればと思います。小説は多少力を入れました。

「うわっ!」

 思わずそう叫んで、ひっくりかえる。

 抱えていた干し草が足元に落ちた。けれど代わりに手を付くことができたから、痛いだけで済んだと思う。

「ってー……」

 恒例行事のように呻いて、顔を上げる。

 目の前で、ロバがガタガタと暴れながら、フーッ、と鼻息を吐いている。柵がなければ三回くらい蹴り飛ばされていたかもしれない。つまり、ぼくは三回くらい死んでいたかもしれないということだ。

 木の板を並べて作られた家畜小屋。壁も床も天井も、まるで牛糞に浸けて引き上げたみたいに煤けて黒ずんでいる。

 そして実際、家畜の異臭がすさまじい小屋らしい。ぼくはよくわからないが、そう言われたことがある。

 女の子にはきつすぎる臭さよ、と。

「また怒らせたのかい!」

 怒鳴り声が聞こえて、一瞬息が詰まった。

 相手は見なくてもわかっていた。わかっていたが、反射的にそちらを振り向いていた。

 そこにいたのはやはり母さんで、となりの牛の鼻に手を当てながらぼくに尖った目を向けていた。

 その目を見続けていると自分がなくなってしまいそうで、思わず目をそらす。

 健康的に太っている腹、そして丸太くらい頑丈そうな足。恰幅がいい。

 母さんを見るたび、どうしてぼくはこの人に似なかったのだろう、とドロドロとした自己嫌悪を感じる。

「ごめんなさい……」

 下手な口笛くらい小さな声だったのが、あまりよくなかったらしい。

「ごめんなさいじゃないだろう!」

 雷が落ちた干し草みたいに、母さんの怒りが爆発した。

 母さんに鼻を触られていた牛が一瞬干し草を食べるのをやめた。けれど本当に一瞬だけで、自分に怒りが向いているわけではないとわかったのか、またもそもそと食べ始める。

「は、はい……!」

 できるだけ大きく、声を振り絞って叫ぶ。

 だがもちろん、それで母さんのいらつきが静まるわけではない。

「わかったらとっとと立て!」

「はい!」

 そう返事をして、立ちあがる。

 ゆっくりと体全体に力を込める。この単純な動作をするのに、かなりの時間がかかった。

 なんとか立つことができても、本当に自分の足で立っているのか疑問に思ったくらい、力を入れることができなかった。

 そして実際、自分の足できちんと立てていたわけではなかったらしい。

 立ちあがった瞬間ロバがいきなりいなないた。いななくと言うより、雄たけびをあげるような声だった。

 向かいのおじさんの怒鳴り声よりもっと、気迫に満ちた威嚇。

 内臓が跳ね上がり、釣られるように足がもつれる。どうにか踏ん張ろうとして、ずるりと足を滑らせた。落とした干し草のせいだ。

「ひぃあぁぁっ!」

 体の奥底からねじり出すような悲鳴を上げながら再びひっくりかえる。

 今度は手をつくこともできなかった。

 尻、背中、頭と順に打ちつけて、その音に驚いたのかまたロバが騒ぎ出す。

 何度も柵を蹴り飛ばすので、足を悪くしないか心配になった。

「ああ、もう! なんなんだい!」

 母さんが荒い声を上げる。

 本当に、なんなんだろう、ぼくは。

 暴れるロバを、どうすることもできずに眺めていると、母さんに「出ていけ」と怒鳴られ、ほとんど這うようにして小屋を後にする。

 途中、牛に睨まれた。干し草を食べることすらやめて、じっとこちらを見つめてくる。

 牛に笑顔も泣き顔もないが、その視線には明らかな敵意があった。

 やれやれ、と母さんに気づかれないようにため息をつく。背中に染みつくようなねっとりとした視線は、小屋の扉を閉めるまで続いた。

 外に出ると、小屋の中とは打って変わって眩しいほど明るい快晴が広がっている。

 本当に、なんなんだろう。

 薄ら寒い空気。だが、遠くにちらちらと見える白いジャガイモの花を見るに、春はしっかり訪れているのだということがわかる。

 もう少ししたらジャガイモ畑のおじさんの機嫌が悪くなる時期だな、とぼんやりと考えた。

 昔、子供にジャガイモを盗られたことがあったらしく、収穫の時期になると目があっただけで言いがかりをつけてくるのだ。

 ましてや、そこの近くを通るなんてことでもしたら、怒鳴られるだけではすまない――と、そこまで考えて、今はそうはならないだろう、と思った。

 家の外に出ることがないのだ。一つや二つ、盗んだとしても気づかないだろう。

 こんな騒ぎの最中なのだから。

「やあ」

 そんなことを考えていると突然声をかけられて、三回目の悲鳴を上げる。

 ただ、驚いたかと言われると、そういうわけではない。

 いわば、習慣のようなものだ。ぼくが小屋から追い出されるのも、形のいい胸を強調するかのような黄色いドレスを身にまとった女の子が話しかけてくるのも。

「また怒らせちゃったの?」

 小屋に勝手に入って来て、女の子にはきつすぎる臭さと評した司祭様の養女が、木の陰から顔をのぞかせていた。

「ヘリア様」

 と肩を落としながら彼女の名前を呟くと、彼女は口をへの字にした。

「様、は、なし」

 彼女は言い聞かせるようにそう言って、眉を吊り上げた。やれやれ、怒っているのだ。

「ヘリア」

 ぼくが言いなおすと、ヘリアはくす、と笑って駆け寄って来た。

 胸のあたりまで伸びる三つ編みのお下げが踊るように揺れる。よく熟れたレモンのような金色の髪は、いつ見ても美しい。きっと、元々は貴族か何かだったのだろう。

 彼女がぼくの背中をたたいた。かなりいい音がした。少し痛かった。

「元気だしなよ」

 そう言われ、苦笑する。

「元気だよ、ぼくは」

 そう返すと、ヘリアはため息交じりに首を振った。

 仕方がないなぁ、とでも言いたげな顔だった。

「……で、今日は何やったの?」

 一通り呆れてから、ヘリアがにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。

 やれやれだ。

「何もやってないよ。母さんと動物たちに餌をあげに行った。ロバに近づいたら蹴られかけた」

 いつも通りだよ、と苦笑する。

 くすくすと声を押し殺すようにヘリアが笑った。悪い感じがしない、上品な笑みだった。

「わかってるよ。あなたは動物が嫌がるようなことはしない。ちょっとからかっただけ」

 確かに動物たちが嫌がるようなことはしていない、はずだ。

「どうしてあんなに暴れるんだろうなぁ」

 何もしていないのに、ロバに近づけば蹴られかけるし、牛に近づけば角で突かれる。不思議だ。物心ついた時からそうだった。

 ひょっとするとぼくが覚えていないだけで、彼らに何かしたのかもしれない。

 例えば……そう、赤ん坊の時に家畜小屋に迷い込んで、一匹ずつ棒で叩いて回った、とか。ありえないけれど。

 だが、突き抜けるような青空を眺めていてもそれくらいしか思い浮かばなかった。春の陽気のせいか、太陽すらぼんやりして見える。

「仕方がないのかも」

 と、ヘリアが言った。

 我に返ると、彼女も空を見ていた。そこに何かを見つけたかのように、薄い笑みを浮かべていた。

「仕方がない?」

 そんなふうに言われたのは初めてだ。

「そ。あなたきっと、動物に嫌われる人なのよ」

「ははは……」

 となりのおばちゃんが差し入れにくれるトマトくらい嬉しくない言葉だ。

 好意で嫌いなものをもらった気分。

 動物に嫌われる人がロバの世話も牛の世話もできるわけがない。

「仲良くできればいいんだけど」

 つぶやくと、あまり興味がなさそうに「頑張って」と目だけでぼくを見て笑った。

 もっと何か言ってほしい、と思ったが、彼女は教会の司祭の養女だ。

 女神様への祈り方ならともかく、どうすれば家畜と仲良くできるかなんて知らないだろうし、助言もできないだろう。

 頑張って、としか言いようがない。

 やれやれだ。

「……で? 今日は何しに来たの?」

 疲れを感じながらそうたずねる。

 ひょっとしたら、本当にぼくをからかいに来ただけなのかもしれない。

 もともと彼女がぼくを会いに来る理由なんてそんなもんだ。

「あなたのお兄さんに会ったよ」

 そう思っていたから、答えが返ってきたことに驚いた。

「兄さんに?」

 思わずそんな間抜けな質問をしてしまうくらいには。

 強い正義感と高い向上心、そして高い身体能力を買われ、騎士に任命されてから一年ほどが経つ。

 長い間村を離れていた兄さんが突然帰ってきたのはつい昨日のことだ。

 村を危機から救いたいと申し入れたところ、慈悲深い女王様は快く聞き入れてくださった――と、兄さんが言っていた。

「そ。女神様にお祈りしに来たのよ。絶対に怪物を倒して、犯人を捕まえるって」

 なるほど、と納得した。

 兄は女王様に仕える騎士――の見習いだ。そして女王様は女神様に仕えるお方。

 だから兄がこういう時に女神様に祈るのは当然のこと。

 それでなくても、昔から兄は信仰心のあつい人だった。

「女神様の名の元に」

 そう口に出すと、

「そんな感じ」

 くすくすとヘリアは笑った。

 怪物。

 去年の暮れ、村で人が死んだ。

 二つとなりの家の、同い年の男の子。

 朝、彼の母親が家畜の世話をしようとして外に出て、見つけた。

 すぐに大騒ぎになって、ぼくもそれを見た。

 大きな竜に食べられたかのような死体だった。

 右腕と両足と首がばらばらに飛び散っていた。

 頭は半分無くなっていて、残った左目がぎょろりと飛び出ていた。

 左腕と胴体は、細かな破片を残してどこかへ行ってしまっていた。みんなで一所懸命探したけれど、見つからなかった。

 いいことではないし、自分自身気分のいいことではないのだが、ぼくはあまり、いや全く悲しくなかった。もっと正直に言えば、彼が死んでほっとした。

 彼は言わば優等生のようなものだった。家畜の世話もよくできたし、勉強もよくできた。大人だってできないような計算を、彼はすることができた。

 そしてぼくをひっそりと貶めるのもうまかった。誰にもばれないように、仕事ができないぼくを何度も嘲って、時には森に連れて行かれそのまま置き去りにされたこともあった。

 彼はそう言う人だった。

 彼にいじめられていたぼく以外は、みんな不安がった。そしてその不安は的中した。

 翌週も、同じように人が死んだのだ。

 怪物がいる。そんな噂が立った。森に、人を食うような怪物がいると。

 話が変わったのは年が明けてからすぐのことだった。

 また同じように人が死んで、そばで文字が見つかった。

 血で『つぎはだれだ』と書いてあった。

 怪物は文字を書けない。書けるのは人間だけで、知る限り、村によそ者は来ていない。

 つまり、村人がぼくたちを殺して回っていたのだ。

 みんな、家から出なくなった――ヘリア以外は。

「ねえ、逃げようよ。こんな下らない村から」

 そのヘリアも、怪物が出る前からそんなことばかり言ってくる。

 また始まった、とため息が出た。

「怪物のことならもう大丈夫だよ。兄さんがきっとなんとかしてくれるって」

「多分、無理ね」

 だが、ヘリアがきっぱりと言った。

「無理?」

 あまりに確固たる意志を持っているように見えて、思わずそうたずねる。

「多分ね」

 そう念押ししたうえで、ヘリアがぼくを振り返る。

「何となくだけど、狼は剣とか弓とかで何とかなるものではないと思う」

 いかにも確信を持っていそうな表情だが、多分そうだったらいいな、というだけのことだろう。

「前にも言ったけど、何で狼なの?」

 初めて死体が見つかったころから、ヘリアは怪物のことを狼だと言い張っている。

 前に化け物のことを知っているのかとたずねたら、そんな訳ない、と笑われた。嘘か本当かはわからない。

「だって、いそうじゃない。森に囲まれた村なんだし、でっかい狼がいてもおかしくないでしょ?」

「うーん……森にいる人食いの怪物ならもっと他にもいるんじゃない?」

 例えば、と考えたが、ぱっとは思いつかなかった。

 思いつかなかったが、別に狼である必要もないはずだ。

 それに、狼ってあんな風に人をばらばらにできるものなのだろうか。

「かっこいいじゃん。狼」

 そんな理由で狼を推しているのか。

「それだったら、ぼくはドラゴンとかの方がいいなぁ」

 二枚の翼を持つ、山の如く巨大な怪物。その鱗は火矢の雨すら弾き、その深紅に輝く瞳は見る者の心を奪い、熊すら丸呑みにする口からは天地を焼き尽くす猛炎を放つ。

 その最強の怪物を、英雄が倒すのだ。兄さんみたいに強くてかっこいい騎士の英雄が。そしてお姫様と結婚する。

 ぼくが好きなお話だ。

 えー、とヘリアが顔をしかめた。

「絶対狼の方がかっこいいよ」

 絶対ドラゴンの方がかっこいいと思うんだけどなぁ。

 それに、どう考えたって狼よりもドラゴンの方が強い。

 あるいは、彼女はドラゴンが本能的に嫌いなのかもしれない。ヘリアというのは伝説でドラゴンに身を捧げて教会を守ったと言われる聖女の名前だ。

 それから、ぼくたちは二人で散歩をした。怪物が出てからの日課のようなものだ。誰も見ていないことをいいことに、ヘリアが無理やりぼくを連れ回す。何かあった時のために、ぼくがあたりを注意する。

 仮に何かあったとして、ぼくの力では彼女を守れるかどうかは怪しいところだけれど。

 死んだ優等生の家の前を歩き、この村唯一の小さな店の前を歩いた。どちらも扉は閉め切っていて、中で人が死んでいるかのように静かだった。

 実際、誰か死んでいるかもしれない。そうであっても、何も不思議ではない。そういう風に思ったし、今はそういう状況なのだ。

 教会の前も歩いた。

 年季を感じるレンガ造りの小さな教会だ。朱色のレンガはところどころ剥げたり汚れたりして変色し、遠目からはまだら模様に見える。屋根の上には申し訳程度に女神様の象があって、雨や風に耐えている。

 でもこの村の建物にしては新しい方だし、しっかりしている。もし、ものすごい嵐がやってきて村の建物が全部つぶれても、最後までこの教会は建ち続けているだろう。

 教会。ぼくにとっては学校で、ヘリアにとっては家。

 教会の窓からは明かりが漏れていた。微かに声も聞こえる。司祭様が女神様に祈りを捧げているのだ。

 ヘリアは決まって、教会の前を歩く時は早足になった。走る時もあったが、今日は早歩きだった。

 ぼくは彼女の後ろをついて歩きながら、司祭様の祈りに耳を傾けた。何を言っているのかはよくわからなかったが、熱心さだけはなんとなく、声から伝わってきた。

 結局、ヘリアは川辺で立ち止まった。

 これも毎日のことで、彼女はそこに腰を下ろして景色を眺めるのが好きなようだった。

 正確には、ジャガイモ畑のすぐ先にある森を、だ。

 彼女はこれを毎日、飽きもせず眺めていた。眺めている間は口を開くこともほぼなかった。それくらい熱心に眺めていた。

 多分、森を見ているわけではないのだろう。村を囲うように広がる森の、その先。外の世界に思いを馳せているのだ。

 そしてこれはあまり腑に落ちないことなのだが、ぼくは彼女の、森を眺めるときの顔を見るのが好きだった。

 集中して見ているようで、何も見ていないような目。時々ほんの少し開かれる口。

 時折、思い出したように、静かに、少しだけ表情を変えた。それはある時は悲しそうに、ある時は嬉しそうに見えた。

 彼女も彼女なら、ぼくもぼくだ、と思った。

 この顔を見るために、毎日わがままに付き合っているのだから。

 川辺にはたんぽぽが咲き始めていた。ヘリアは「昨日はこのたんぽぽは咲いていなかった」と言い張ったが、ぼくはどうだったか覚えていなかった。というか、どうでもよかった。

 とりあえず春は来ている。この村の人たちが農作物の世話をしなくなったからと言って時間が止まってしまったわけではない。それだけわかれば十分だ。

 要は怪物がいなくならなければ、食べ物がなくなる。この村は破滅する。そういうことだ。

 夕方になって、唐突に散歩は終わった。

「ヘリア」

 と誰かが声をかけてきたのだ。

 ヘリアは驚いたように一瞬目を大きくして、そして振り返った。

「お父様」

 彼女が柔らかく微笑んだ。

 それを認めてから、ぼくも振り返った。司祭様が立っていた。

 正直なところ、がっくりした。もう少し彼女を見ていたかった。

「そろそろ帰りましょう」

 司祭はそれらしい優しげな笑みでそう言った。

「はい、お父様」

 彼女はそう言って立ちあがって、ぼくの手を引いた。

 司祭様はぼくに娘と遊んでくれてありがとう、と笑った。ぼくは苦笑で返した。これもいつものことだ。

 娘が迷惑をかけなかったかとたずねられ、大丈夫です、と答える。彼女の散歩にはある程度乗り気なので迷惑はかけられていない。

 それはよかったです、と司祭様は言って、少し顔をしかめた。

「ですが、近頃はいろいろと物騒ですから。二人とも外で遊ぶのは控えていただきたいです。我々大人が冷や汗をかきますので……」

 二人とも、と言いながら、司祭様はヘリアを見た。

 彼女は何とも思っていないようで、ただ微笑んでいるだけだった。

 代わりにぼくがすみません、と謝った。

 司祭様は肩をすくめて笑うと、あきらめたように歩きはじめる。

 ぼくたちは司祭様の後ろをついて歩いた。

 だが、帰る途中ふと彼の言葉が気になった。

 近頃はいろいろと物騒ですから。そういう風に言うということは、司祭様も最近の人殺しは村人が怪しいと思っているのだろうか。

 一度そう思ってしまうとどうしても答えが聞きたくなった。

 だからたずねると、司祭様は驚いたように目を見開いた。

 一瞬、足を止めたようにも見えた。でもそれは気のせいだったかもしれない。

 すぐにぼくに笑いかけると、

「いいえ。あのような残酷なことができるのは悪魔のみです」

 それが彼の答えだった。

 司祭様らしい。そう思いながら「そうですか」とうなずくと、彼はふと困ったように目を伏せた。

「ですが、もしこれが人の仕業であるならば……それは、とても悲しいことです」

 慈悲深い女神様に仕える者らしい言葉だった。


 破滅の兆候は夕食にも潜んでいた。

 特別質が悪くなったわけではない。だが、量が減った。

 久しぶりに実家の食事を摂る兄さんもそれに気づいて指摘した。

「今はどこも同じよ」

 母さんの言葉に、兄さんは「今日は寝ないで見回りをしようと思うんだ」と真剣に言った。

「無理しなくていいんだよ?」

 と、母さんが不安そうに言う。

 必ずしも母親の愛というだけではない、ということはわかっている。

 どちらかというと、兄さんを失ったら何をやらせてもうまくいかないぼくしか残らないからだ。

 それがどれだけ困るか。想像はつく。

「人を食う悪魔を倒して、この村を救う。それがおれの使命だから。それに悪魔の死体は魔除けになる。うまくいけばこの村は発展できる」

 兄さんが不敵そうに笑う。怪物に負けることなど想像もしていないかのように。

「そうかい……」

 あきらめたように、母さんが肩を落とした。

 ぼくは怪物の死体について考えた。怪物の死体が村の中央に掲げられているところを想像した。

 不気味だ、と素直に思った。魔除けにはなるだろうが、福除けにもなりそうな気がした。

 少なくとも、ヘリアは気に入らないだろうな、と思った。そしてやっぱり、事あるごとに村から逃げようとするのだ。ぼくを誘って。

 夜、宣言通り兄さんは村の見回りに行った。朝になってもしばらく帰ってこなかった。

 怪物に殺されてしまったのではないか、と母さんが騒ぎ始めた頃に帰って来て、異常はなかった、とだけ報告して寝てしまった。

 けれど、異常はあった。兄さんが気づかなかっただけで。


 普段通り母さんに家畜小屋を追い出されたあと、ヘリアと会った。

 いつもなら一通りぼくをからかうヘリアだが、今日は違った。

 迷わずぼくを散歩に連れ出して、ぶらぶらと歩きはじめたのだ。

 特に行先を決めているわけではないようだった。ただ、歩くだけ。

 もちろん、理由もなく普段と違うことをしているわけではないことくらいはわかっている。

 何か話すことがあるのだ、ということはわかっていた。だから、ぼくはじっと待っていた。

 結局、彼女が話す気になったのは、川辺で水の流れを見つめている時のことだった。たんぽぽがちらちらと咲いていたが、やっぱり機能と比べてどうだったかは思い出せなかった。

「ねえ」

 と突然声が聞こえて振り返ると、ヘリアは空を見上げていた。まるで春の陽気を確認するかのようだった。

 そこに太陽があって、白くぼんやりと、でも間違いなくそこにあって、時々そのそばを鳥が横切ったりするということを。そこに明々白々な意味があるのだということを。

「夜になったら、私、食べられちゃうの」

 そして事実、昼下がりの太陽に、意味はあった。

「……えっ」

 唐突に下された制限時間。

 食べられる?

 何に?

 混乱するぼくに、ヘリアは太陽を睨んだままにやりと笑う。

「手紙が来たの。朝起きたらベッドの下に落ちてた」

「てが……み?」

 恋文だろうか。一瞬呑気に、でも本気でそう思った。

 もちろんそんなわけがない。話の流れからして。

 内容が気になった。恐ろしい会談の続きくらい、気になった。

「そう、手紙。これ」

 ヘリアがうなずいて、スカートのポケットから小さな羊皮紙を取り出した。内容がわからないように、注意深く二つに折りたたまれた羊皮紙。

 几帳面さを感じさせる一方で、それは悪魔そのもののように思えた。ひょっとしたら、羊皮紙を渡した本人が悪魔のように挑戦的な笑みを浮かべているからかもしれない。

 悪魔から隠れる時みたいに息をひそめながらそれを開く。

 思わず呻いてしまった。

 それは血文字だった。乾いてどす黒くなっているが、間違いなく血文字だった。

『今日はお前だ』

 ペンで書かれた細い文字。ところどころ濃くなったり薄くなったり、掠れたりしている。

 心の中で文字を反芻した。今日はお前だ。

 そして想像する。ばらばらになった死体のとなりで狼が羊皮紙に文字を書いている場面を。

 ものすごく冷静に、そして器用に文字を書く狼。時々死体から流れ出る血でインクを補充する。

 それは奇妙で、そして気味が悪かった。胃がひっくりかえり全身の毛が逆立って、吐き気を催す気味の悪さ。

「……」

 そして同時に、やらなければならないことがあることも、しっかりとわかっていた。

 これを持って家に帰らなければならない。それも今、すぐに。

「どこに行くつもり?」

 しかし、また空を眺めはじめたヘリアの一言に止められる。

「に、兄さんに見せなくちゃ……見せて、見せれば、きっと……」

 きっと、倒してくれるはず。

「無理」

 ヘリアの冷たい声が刺さる。

 思わず顔を上げると、ヘリアが笑いながらこちらを見ていた。

「あなたのお兄さんは狼を倒せない。昨日も言ったけど」

 まだそんなことを言うのか。

「でも、何かしてくれるよ! 兄さんなら!」

「私をおとりにする、とか?」

 一瞬頭の中が真っ白になった。

「何だって?」

 まるで糸が切れた時みたいになにも考えられなくなった。

 ヘリアは相変わらず笑みを浮かべている。狼みたいだ、とそう思った。

「ねえ、考えてもみてよ。あなたのお兄さんは騎士だけど、見習いなのよ? 人だって殺したことないでしょう? 狼を殺せると思うの? 一人で?」

 考えてみればその通りだった。

「でも、狼は手紙を書けないよ」

 力なく反論すると、ヘリアは聞きわけのない子供を見るような目で「どちらにしても、あんなふうに人を殺せるのは狼だけよ」と答えた。

 正論。正しく、その通り。

 ただの狼ならまだまし。でも多分、そんなわけないだろう。

 騎士見習いの兄さんがたった一人で勝てるだろうか?

 ただのひとりも死なすことなく、怪物を斬り殺すことができるだろうか?

 兄さんは英雄になれるだろうか?

 現実を見なければならない。

「じゃあ、どうしたら……」

 肩を落としてつぶやく。

 けれど、その答えはわかりきっていた。

「一緒に逃げようよ」

 ヘリアがぼくの右手をつかむ。

 なんというか、呆れた。そしてひどく疲れた。

 実際にその言葉を聞くとため息が出た。

「きみはそればっかりだな」

 本当に、日が昇っても月が昇ってもそれしか考えていないのかもしれない。

 彼女はいかにも悲しそうに肩を落とした。そして口を開く。

「きっと村に大きな狼がいてさ、ひとりずつ順番に食べてるの。そして次は私の番。でも私は嫌。だから逃げる」

 もちろん嘘だ。

「この村が下らないから?」

 そう言い返してやるとヘリアは「わかってるじゃない」とくすくすと笑った。

「いいでしょう? この村にいても、どうせあなたができることなんて何もないんだから」

 それもまた、正論。

 だが、めちゃくちゃだ。

「ねえ、でもこんなのいいことじゃないよ? 全然」

 それに、例えこの村から出ることができたとしても、その先はどうするのだろう。

 ヘリアはぼくの手をしっかり握りしめながらつまらなそうに眉をひそめる。

「知ってるよ。下らないこと言わないで」

 下らなくはないと思う。というか、明らかにこれがいいことか悪いことかは真剣に考えなければならないことだ。

 けれどわめいても、叫んでも、手を離してはくれそうになかった。

 助けを求めても、そもそも辺りに人がいないのだ。

 例えぼくの声が聞こえても、怪物に襲われたのだと思って助けには来てくれないだろう。

 いや、兄さんなら来てくれるかもしれない。……もう起きていれば。昼は食べに来なかった。

 結局、ぼくはわめかなかったし、叫ばなかった。暴れれば逃れることもできたかもしれないけれど、そうもしなかった。

 下らない、と思ったのだ。

 これ以上何かを考えること自体が下らない。

「逃げれるかな?」

 諦めて、たずねる。根比べは苦手だ。特に彼女との根比べは。

 声も、気も、意思も、何もかも強いから。

 今もそうだ。

「逃げれるよ」

 どうしてそう言い切れるのかわからないけれど、ヘリアは不敵な笑みを浮かべている。こんな彼女の前では、ドラゴンだって尻尾を巻いて逃げて行くような気がする。

 彼女はぼくの手を無理矢理に引いた。

 川を飛び越え、森へと向かう。

 途中、ジャガイモ畑の中を駆け抜けたのだが、おじさんはやっぱり畑を見張ったりしてなかったし、盛大に野菜を踏み荒らしても気づかれることすらなかった。

 森を近くで見ると、まるで村を飲み込もうとしているかのように見えた。木々はまるで怪物みたいで、ぼくたちを食べようとしているように見える。

 ヘリアがぼくの手を強く握る。さすがの彼女も怖いのかもしれない。

 ぼくも彼女の手を握り返した。とても自然に。

 どうにでもなれ。

 森に足を踏み入れるとき、ふとそう思った。


 森はまるで迷路みたいだった。

 大人たちからは立ち入るな、と言われたことがある。暗いし、危ないからと。

 確かにその通りだった。夕暮れ時のように薄暗く、道はほとんどなく、そしてもちろん看板も見当たらない。

 ぼくの村は僻地なのだ。彼女と森を走りながら、そう思った。人が来ないのもわかる気がする。

 ヘリアに引っ張られながら、おそらく彼女も自分がどこに向かっているのかわかっていないだろうと思った。

 だが不思議と不安はなかった。後戻りもできないから。村に帰りたいという願望とどうにか引き留めればよかったという後悔はあった。

 でも、どうしようもなかったんだ。ぼくはそう自分に言い聞かせた。

 彼女と根比べなんてできるわけがないのだから。諦めるしかない。

 最初、ドラゴンに追われているかのように走り続けていたヘリアは、やがて疲れたのか歩きになって、その歩みもだんだん遅くなり、そのうち立ち止まった。

「そろそろ休憩しよっか」

 ヘリアが息を切らしながら言った。

 そうしたい、とぼくも答えた。

 森の中はじめじめとしていて、休めそうな場所なんて見当たらない。

 どうするのだろう、と思っていたらその場にぺたんと座り込んだ。

「え」

 そんなことをすればせっかく貴族みたいにきれいなワンピースが汚れてしまう。

 そう思ったとたん、下らない、と言う表情でぼくを見上げた。

 今更と言えば今更かもしれない。あきらめて、ぼくもとなりに座る。

 腐った木の葉と湿気が織り交じった土。それはぼくをかなり不快にさせた。けれどヘリアは何も感じていないかのように宙を眺めている。

 沈黙が降りた。この森みたいに、暗くて重苦しい、どんよりとした沈黙だった。

 少しの間我慢していたけれど、すぐに限界が来た。

「ねえ」

 と話しかける。話しかけなければどうにかなってしまいそうだった。

「よかったの? 司祭様、心配してると思うよ?」

 下らない、と一蹴されると思っていた。けれど違った。

「いいの。多分、女神様に祈りを捧げるのに忙しくて、気づいてないし」

 どこか遠くを眺めるような表情のまま、ヘリアは言った。

 彼女が何を見ているのかは全くわからなかった。ただ、透けた宝石のような瞳を眺めていた。

 きれいだ、と、ふと思った。場違いだが、そう思わずにはいられなかった。

「見栄なのよ、結局」

 緩やかな川に石を投げ入れるかのような言葉だった。

 空気が少し歪められたような気がした。

「見栄?」

 たずね返さずにはいられなかった。

 そう、とヘリアはうなずいた。そしてぼくを振り返る。

 どこか焦点のあわない目。それは少なからずぼくを不安にさせた。

 何かを見抜こうとしている。そう思った。

「見栄。あの人は司祭にふさわしい人になりたいだけなの」

 また沈黙が降りた。言葉を探っているのだということがわかった。

 だからぼくは黙っていた。彼女の言う見栄という言葉の意味がわからなかったということもある。

 もう一つ。彼女が司祭様のことを『あの人』と呼んだことに衝撃を受けていた。

「あの人は、褒められたいのよ。立派な司祭様だって。皆から。褒められて、いい気になりたい。それがあの人にとっての幸せなの」

 ヘリアはぼくをうかがうように見つめている。焦点は、もうあやふやではない。虫を見つけたヒバリみたいに鋭い。

 そんなことはないのではないか。ぼくはその瞬間、そう思った。よしんばそうだったとしても、それだけってことはないだろう、と。

 そしてそんな考えを、ヘリアは見逃さなかった。

「あなたはわからないかもしれないけど。でも、そうなんだよ。ねえ、世間に媚びへつらったその口で、私に向かって愛してるっていうんだよ。『ありがとうお父様、私もよ』って言ってもらいたいその一心で。そういう人なの、あの人は」

 言いながら、彼女は顔をしかめた。まるで牛糞を口に入れたかのように。顔をしかめて、体を震わせる。

 そんなことはないのではないか。もう一度思った。口に出しそうにすらなった。けれど今度は先ほどよりも確信を持てなかった。ひょっとしたら、そうなのかもしれない。

 第一、司祭様のことはヘリアが一番よく知っているのは当たり前のことだ。彼女は司祭様の唯一の家族なのだから。

「結局、見栄なのよ。あの人の見栄のために私は養女になったし、見栄のために勉強をして、見栄のために良い服を着てる。もううんざり。あの人、それがどれだけ私を傷つけてるのかわかってないんだよ」

 彼女の言葉を聞きながら、司祭様を思い浮かべてみた。彼が悲しむ姿を想像してみた。

 彼は困ったような表情をしていた。悲しいというよりは、途方に暮れている、という顔。

 見栄、と思った。

「見栄」

 ぼくがそう口に出すと、ヘリアは俯いて目を伏せた。とても深く傷ついたように。

 絶望。その言葉が目に浮かぶようだった。

「あなたにはわからないかもしれないけど」

 ぴい、とどこか遠くで鳥が鳴く声が聞こえた。

 今まで聞いたことがないくらい、孤独で哀しそうな鳥の声だった。何の鳥だろう、と空を見上げたほどだ。

 けれどもちろん、見えるのはうっそうと茂る森の葉っぱと、その隙間から僅かに見える空の明るさだけだった。

 細切れのようにしか見えない空では曇っているのか晴れているのか、昼なのか夜なのかもわからない。

 でも正直なところ、そんなことはどうでもよかった。

「わかるよ」

 木の葉の間から漏れる光を眺めながらそう答える。

「えっ」

 ヘリアの声が聞こえた。

 とても小さな声だったが、驚いているということはわかった。

「なんとなく、わかる気がする」

 そう言った瞬間、物音が聞こえた。

 干し草を踏みつぶすような、耳障りな音だ。

 驚いて息を止める。

 ヘリアも目を丸くしていた。

 なんだろう、とヘリアに話しかけたくなった。だがもちろんそんなことはできない。

 もっとも、ヘリアにたずねなくても物音の正体はすぐにわかった。

 地響きのような、唸り声。

 木々が作り出した暗闇から姿を見せたのは、ぼくたち子供くらいの、大きな犬だった。

 野犬。

 犬が人を襲い、食べるかどうかはわからない。けれど牙を剥き、涎と舌を垂らすその姿は、怪物にも見えなくはなかった。

 何をやるべきかはわかっていた。

 ヘリアの手を掴み、立ちあがる。

「逃げよう」

 ぼくは困惑している表情の彼女に告げた。

 どんなに頭が真っ白になっていたとしても、やるべきことがわかれば行動できる。

 ぼくたちは走った。

 森は夜みたいに暗く、道はない。

 ひょっとしたら本当に夜なのかもしれない。

 そういえばさっきよりも暗い気がする。でもわからない。空を見上げる余裕はない。

 前だけを見て走る。

「に……逃げれるかな?」

 囁くようなヘリアの声が聞こえた。

 気づけば犬の数は増えていて、ぼくたちを取り囲んでいる。

 彼らの視線がぼくたちを掠めて行くのを、肌で感じる。

 腐った落ち葉で覆われた柔らかい土は走りにくく、ぼくもヘリアも何度か転びそうになった。

 自分の心臓の音が聞こえる。

「逃げれるよ」

 確証はない。

 けれど、逃げ切るしかない。

 少なくとも、ヘリアだけはどうにか逃がさなければならない。

 見栄なのよ、と彼女の言葉が頭に響いた。

 その通り、見栄だ。

 でも、嘘じゃない。

 ヘリア、きみだけは逃がす。何とかして。

 犬との競争は長く続いた。

 彼らはどうやら手加減をしてくれているようだった。

 早く走れないぼくたちに合わせて、ゆっくりと走っているような気がする。

 ぼくたちをいっぺんに食べてしまうつもりなら今すぐにでもそうできるはずなのに、どうしてそうしないのだろう。

 わからない。だが、なんにせよ友達だとは思われていないらしい。

 延々と走り続けながら、まるでどこかに導かれているようだ、とふと思った。

 いったいどこへ?

 疑問に思ったが、わからなかった。というか、考えている余裕がなかった。

 走ることに必死だったし、疲れで頭が回らない。

 その答えは、やがて唐突に訪れた。

 突然視界が開け、空が広がった。

 驚いて、足を止める。

 夜。小さな星が、暗闇の空を埋めるように光っている。

 そこは、星空の丘だった。

 さっきまでの森が嘘のように視界を遮るものが何もない。

 幻の場所のようだ、と思った。

 どこもかしこもはっきりとしているのに、何もかもがおぼろげに思える。

 目を覚ましてもしばらくは忘れられない、とても印象的な夢の中にいるようだ。

「すごいね」

 と、ヘリアの掠れた声がした。

 それではっと我に返った。そしてヘリアがいるということを一瞬完全に忘れていたことに嫌悪した。

 今、彼女を守れるのはぼくだけなのだ。一瞬でも忘れてはいけなかったのだ。

 まだ掴んでいたヘリアの手をしっかりと握る。

 柔らかく、そして汗で湿った、温かい手。この手を意識しなければならない。

 今一瞬でもこの手を離せば、彼女はどこか遠くへ行ってしまうかもしれない。

 いつの間にか、犬たちはいなくなっていた。ぼくたちを食べることを諦めたのかもしれない。

 あるいは、何らかの理由があって彼らは森の外へ出ることができないのかもしれない。

 どちらにしろ、ぼくたちを脅かすものはなにもなかった。少なくとも、今、この時は。

「こっち」

 そう言って、ヘリアがぼくの手を引いた。丘を登るつもりなのだ。

 ぼくも喜んで彼女について行った。

 丘を登りながら、ぼくは孤独を感じた。

 人が消えて、崩壊した世界を二人だけで歩いている。そんな気分。

 ぼくたちは今、孤立している。

 でも悪い気はしなかった。むしろ幸せだった。このまま二人だけでどこまでも歩いていけるようにすら思えた。

 丘はとても静かだった。星が瞬く音が聞こえそうなほど静かだった。ただ、ぼくたちの足音だけが教会で女神様に捧げる誓いの祈りのように響いていた。

 均衡がとれた静けさ。

 ぼくたちはそんな均衡を崩さないように言葉を交わすことなく登っていった。

 頂上で、ヘリアが足を止めた。ぼくも足を止めた。

 丘の向こう側には、何もなかった。木も、家も、人も、犬も。

 見渡す限り、暗い地面が世界の果てまで続いているだけだった。

 そしてこの丘は星に最も近い場所でもあった。

 空いっぱいに塗された星は今にも落ちてきそうで、両手を広げればすべては無理でも星のかけらくらいはいくつか掴むことができそうな気がした。

「私ね、狼を見たことがあるの」

 ぽつりと、ヘリアが言った。

 彼女は空を見上げながら、凛と微笑んでいた。

 ぼくは黙っていた。彼女が返事を必要としていないことはわかっていた。

「一年くらい前にね、真夜中に家を抜け出したことがあるの。森に行こうとして。あの人も、女神様も、もうたくさんだと思って。そしたら、狼に出会った」

 おそらく、彼女は死のうとしたのだ。

 ぼくには、司祭様の娘であるということが一体どういうことなのか理解できない。することもないかもしれない。

 けれどその日、彼女は人知れず死ぬことを心に決めたのだ。

「大きな狼だった。見とれるくらいに。蝋燭みたいに目が赤く光ってて、少し痩せてて。飢えてるってすぐにわかった。この狼は人を食べるって。だから私、食べられたいって思った。強く」

 多分、恋をしたんだと思う。事もなげに彼女がそう言ったので、ぼくは不思議に思った。

 なら、どうして狼から逃げ出したのだろう。

 考えようとしたが、うまくいかなかった。考えると、頭の中で彼女の言葉がばらばらになってしまう。

「狼が殺した人のそばに文字を残したの、私なの。狼を守ろうと思って――うまくいったみたい。何もかもね」

 にやりとヘリアが笑みを浮かべた。先ほどまでと違って、不敵な笑みだった。

「ねえ、月がとてもきれいだよ」

 そう言われて、もう一度空を見上げる。

 彼女の視線を追って、月を見つけた。

 今まで気づかなかったのが不思議なくらい、強い輝きを持った月だった。一度それを見てしまうと、もう目を離せなくなるくらいに印象的な月だ。

 じっと見ていると吸い込まれてしまいそうなほどに、美しい。

「だから」と、ヘリアが笑う声がした。

「ねえ、早く私を食べてよ」

 その言葉の意味を少し考えてみた。だがうまくいかなかった。

 いや、そうする意味がなかったのだ。

 本当はなんとなく、わかっていた。ただ、事実と向き合うことから逃げ続けていただけで。

 どうして貴族のように可愛く気高い女の子が、突然ぼくなんかと遊んでくれるようになったのか。

 どうしてわざわざ、村から逃げ出すのにぼくを連れて行くことにしたのか。

 わかりきっている。

 最初から、わかりきっている。

 ぼくが、狼だ。


 意識が、月に吸い取られていくのを感じる。

 月から目をそらさなければならない、というのはわかっていた。が、なぜかそうすることができなかった。縄で縛られたみたいに、身動きが取れない。

 体の奥底で何かが疼いているのがわかる。

 いや、疼きというよりは、蠢きに近い。

 動きたいとか、叫びたいとか、そういう自分では制御できない部類の強い衝動だ。

 胃が裏返るほどの気分の悪さ、そして滲み出る嫌な冷や汗。

 衝動を抑えようとすると、自然とうめき声が漏れてくる。

 ヘリアの笑い声が、妙にうるさく、そして耳障りに聞こえる。

 何かが僕の手に触れる。柔らかい、気がする。

 これは、手だろうか。彼女の。

 わからない。感覚が曖昧になっている。

 一通り興奮したように笑った彼女は「ああ、そうだ」と言った。ぼくが苦しんでいることなんてまるで目に入っていないかのように。

「一つ謝っておくとね、あなたのお兄さんは強いよ。あなたを殺せるくらいにはね。自分の弟だってわかった上で殺すと思う」

 そういえばそんなことを今朝話していたな、と思った。

 ずいぶん昔のことのようだ。二日とか三日前のことのように思える。

「女神様の名の元に、なんていう人はね、何でもやるのよ。それこそ、弟を殺すことくらいはね。だから絶対に今日、あなたを連れ出さなきゃって思ったんだけど」

 独り言のような彼女の言葉を聞きながら、どうでもいいよ、と叫びたかった。

 どうでもいい、そんなことは。それよりも、もっともっと重要なことがある。

「ねえ……きみは」

 どうにか、声を絞り出す。

 体が震える。猛烈な吐き気に気が遠くなりそうになる。

 月があざ笑うように光っている。とても、とても強く。

「きみは、ぼくなんてどうでもよかったの?」

 たずねてしまった。そう思った。

 一瞬の空白があった。耳鳴りが聞こえそうなほど静まり返った。

 ふう、とヘリアが息を吐く。

「そうだね、そういうことになるね」

 彼女の答えを聞いて、意識が薄れた。

 体から力が急激に抜けて行くのがわかった。

 月も星も、急に輝きが失われたような気がした。

 どこか遠くで、獣の唸り声が聞こえる。

 これは犬だろうか、狼だろうか。

 あるいは、ぼくの声なのかもしれない。

 どちらでもいい。そんなことはどうでもいい。

「……早く、逃げて」

 精一杯の声を出す。でもうまく声が出せない。

 喉にも、腹にも力が入らない。まるで親と死別して、何日もご飯を食べていない弱った子犬のように。

 でも、必死だった。

「早く、逃げてよぉ……」

 月が歪む。泣いているのかもしれない。

 そう思ったとたん、恐怖が押し寄せてきた。

 このまま、ぼくは狼になってしまうのだろうか。そして、何もわからないまま、ぼくは暴れるのだろうか。

 怖い。

 くすくすと、ヘリアが笑った。

 その笑い声だけで、彼女が逃げる気がないことがわかった。

 世界のどこかには、星の光すらない本物の暗闇で閉ざされた場所があるらしい。

 絶望。

 感じたのは、完全で完璧な、本物の絶望だった。

「でも」

 と、彼女は呟くように言う。

「森でのあなたはかっこよかった」

 ぼくはヘリアの顔を見た。

 その時なぜか、月の呪縛からあっさり逃げることができたのだ。

 彼女は握ったぼくの手を微笑みながら見つめていた。

 その顔に、自殺の意思は見つけることができなかった。

 どちらかと言うと哀しみと孤独で満ちていた。

 それはまるで、羽をむしられたカラスのようだった。

 ヘリアを守れるのは、と、奇妙なほど穏やかな気持ちで考える。

 もう、吐き気は感じなかった。

 強烈な月の光も、体の奥底の蠢きも。

 感じるのは、どこか真っ暗な場所へと落ちて行く意識だけだ。

 ヘリアを守れるのは、ぼくだけだ。

 そして、この狼の力があれば、彼女を守り抜くことができる。この先、何があっても。

 見栄なのよ、と暗闇の中でヘリアの声がこだました。

 その通り、見栄だ。ぼくはただ、きみにとっての英雄になりたいだけだ。ぼくはその声に答えた。

 でも、嘘じゃない。

 ぼくはきみを守りたい。

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