ノクターン Op.9-2
7.
ピアニストの細い指先は、まるで祈るように夜想曲を奏でる。常連客たちは、その物悲しい旋律と酒に酔いしれ、日々失われ行く情緒を潤していた。
そんなムーディーな薄暗い店内の奥にあるカウンター席の一番端、小さな身体のルーシィは、一生懸命大きな口を開けチキンを頬張っている。
「なっ? なっ? うめぇだろっ? この店」
「ふはふひふは。ふはははふい」
「食えるうちに食っとくッスよ。今日はおかわり自由ッス。ディエゴさんに経費はもらってるし」
シシシッと歯を剥くボコ。頰に米つぶを着け、口の中いっぱいに食べ物を詰め込んだまま、涙目で首を横に振るルーシィ。
「あっはっは。ふたりとも良い食べっぷりだね」
オリーブの入ったカクテルグラスに、くちばしでキスするような素ぶりで、ボコたちの隣に座る顔見知りのマダム。群青色のドレスをラフに着こなす、褐色肌のこざっぱりとしたそのマダムの名はミヤコ。ミヤコはこの店のオーナーであった。
「でもボコ、女の子の前でそんなにがっついちゃモテないよ」
「むがむぐもぐもぐぅ」
ボコは何か反論したげに顔をあげるも、人間の言葉になっていない。
「ご婦人、ぼくとこの人はそういう仲ではないから気遣いは無用だ。それより、こんな美味しいものを食べたのは初めてだ、是非ともシェフを呼んで欲しい」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか!」
本来ならば、この店は酒と音楽を楽しむ為の紳士淑女の酒場なのだが、ミヤコはボコのような食い意地の張った客も快く迎え入れるのである。
そうこうしている間に、曲調が変わる。懐古的な哀愁を奏でていたピアニストは、立ち上がり拳を猫のように丸め鍵盤を叩く。悪戯な音階をモダンに奏で始めれば店内の雰囲気は一変した。青暗い照明は、オレンジになり、コントラバスを担いだ白塗りの奏者が、カウンターの右手にある一段高くなったステージに飛び乗る。白塗りの奏者の右手は、持っていた弓を投げ捨て、指で弦を弾く。その瞬間、厳格なコントラバスは、小粋なウッドベースに早変わりした。彼の左手の指先は、まるで散歩でもするみたくベースラインの上を自由気ままに歩く。
そこで次のピンライトがステージに降り注ぐ。闇より現れしタキシードの紳士。彼は客席に深々と会釈。まるで虚空から現れたような演出に、客たちはどっと湧く。備え付けのドラムセットの小さな小さな丸椅子に浅く腰掛け、手に持つスティックでシンバルを跳ねたリズムで刻む。ばらばらだった三者の演奏は寄り添いひとつとなる。そして鳴り止む演奏。静粛に包まれる店内。ゆっくりとバックヤードからステージへ歩いて来るひとりの男がいた。それはなんとも美しい翠色の瞳の男であった。タキシードの紳士は再びワン・ツー・スリーとカウントを入れ、その翠色は、ゆらりゆらりと舞い散る花びらのようにリズムを身体で取り、その肩甲骨よりもいくらか長い薄紫の髪を翻す。
彼はこの店のスターであり、常連客の何割かは、彼目当ての客であった。
「セルゲレン・ヘルトゥ。うちのナンバーワンさ」
音楽なんて全然聴いていなかったルーシィだが、ステージに立つ翠色が口を開いたその時、ピタリとスプーンの手が止まる。
ちっぽけな酒場のちっぽけなスタンドマイクは、どこまでも透き通る声を残すことなく拾い集め、古ぼけたアンプで増幅させたそれを、スピーカーが店内全てに分け隔て無く拡散させていく。胸の奥にいとも簡単に染み込み、静かに心を揺さぶるヘルトゥの声は、まるで魔法みたいであった。
時に慈愛に満ちた表情で、時に苦しそうに自ら胸元の衣をぐしゃりと掴み、その喜怒哀楽は倍音となり店内を満たしていく。曲が終わると常連客たちは、各々立ち上がり「ブラボーブラボー」と拍手喝采。
「イケメンは歌う曲もオシャレかよ、くっそー。外国の曲ッスかね」
「そのッスか? って言うの辞めてくれないかな。だいぶ年上だと思われているなら心外だ」
「思ってねーし!」
「この曲、凄い異国風なアレンジがしてあるけれど、我らが母国、ここオフィーリアの聖歌のひとつだよ。小さな頃、教会の礼拝堂でシスターと一緒に歌ったことがあるんだ。あの人の表現力凄いなぁ」
「教会?」
「……ぼくはさ、孤児だったんだよね」
美味しい食べ物をたくさん食べ、大層気を良くしガードの甘くなったルーシィは、ボコに自己紹介を兼ねて、少しだけ自分の生い立ちを話始めた。虚ろな瞳で手元のドリンクをマドラーでかき混ぜるその指先が、なんとも魅力的でボコは生唾を飲み込む。
ルーシィは孤児であった。雨の降る風の強い季節のことである。スラムの直ぐ側に在る、中央で一等貧しい教会の入り口に、まだ生まれたばかりだったルーシィは捨てられていた。
信仰心厚い人ばかりではないこの国での教会の役割は、お祈り半分、身寄りの無い子供の面倒を見る施設半分。
見るからに未熟児のルーシィを見た教会の神父は、この子の命は長くはないと、赤ん坊の魂が迷わぬよう女神に祈った。運命の女神様よ、この子を導きたまえ。そんな神父の祈り届いてか、生にすがりつくようルーシィはすくすくと育つ。悪戯を覚え、神父や施設職員を困らせたりもした。
時は流れルーシィが十四を越えた頃、ある者は早い段階で里親に貰われていき、またある者は教会を出て仕事に就いた。ひとりまたひとりとルーシィの仲間はいなくなっていく。ルーシィはずっとこのままではいられないと、自分が出来ることを考えた。出来ること、得意なこと、そう言えばと、かなり昔に教会に寄付された子供たちの遊具の中に、それがあったことを思い出す。一から十三までの数字が書いてあるカードゲームである。ルーシィはその数字をぴたりと言い当てるのが得意であった。ルーシィはその特技を活かすことにした。
初めのうちは、職員たちがうっかり無くした小物を探し当てたりする程度で、職員の噂話にたまにのぼるくらいであった。
半信半疑だった者も数多くいたが、何度やっても百発百中。いつしか噂を聞きつけた人が時折彼女に助言を仰ぐようになっていった。
これが神託の巫女の誕生である。
「ほぇ〜。すっげー!? 神さまの声が聴こえるのかルーシィは」
「気安く名前を呼ばないでくれるかなボコ。きみにはいいことを教えてあげよう。この世界に神さまなんていないんだ。神託なんてインチキさ」
神さまがいたなら、ぼくはこんなに不幸せじゃないから。……出会って初めて、その強い真っ直ぐな眼差しが曇った瞬間であった。動物的にそれを敏感に察したボコは、話題を変えることにする。
「それにしてもルーシィは、あの人を見ても、目がハートマークにならないんだなぁ」
少し前の話。わりといい感じになった女の子と、この店に来たら、女の子は自分ではなく彼にメロメロになってしまったという苦い過去を思い出す。
「ああ、きみは下世話な話が好きだなぁ。生憎そう言うのには興味が無いんだ。そもそも彼は既婚者だろう?」
「おや? 指輪をしてないのに、よく分かったね」
ミヤコの相槌に、ボコは持っていたグラスを落としそうになる。驚いた。彼女は確かに本物なのかもしれない。疑っていたわけではない。あまりに突飛な話だったので、それを受け入れられず無意識に流してしまっていたのである。
絶句したボコが次の言葉を探しているその時であった。入り口から大きな物音がした。防音性の優れたミヤコの店の分厚い扉が、数人の男たちにより無残に蹴破られていたのだ。
「やっと見つけたぞ。このクソアマ。手間取らせやがって」
ボコはその男たちに見覚えがあった。スラムで何度か目撃したことがある柄の悪い男たちだ。勿論普段なら、メインストリート近辺で見る筈も無い顔ぶれである。片手では数えることの出来ない人数。彼らは思い思いに物騒な得物を手にもっている。刃物に鉄パイプ、そして何より先頭の男がもつ黒い鉄の塊。
ちゃか! っと、その鉄の塊が自分たちをロックオン。標的はどうやら自分か、或いは隣にいるルーシィのようだ。それを直感で感じたボコは、ルーシィを抱き寄せ、カウンターを飛び越え身を隠す。身に覚えが在り過ぎて逆に解らないが、先ほどの言葉を鑑みるに、彼らのターゲットは、後者であることが予測出来た。店内にいた客たちは、怯えるように、皆身体を縮こまらせている。
「ちょっと! 扉は蹴破るもんじゃなくて、開くもんだよ!」
拳銃を持つ相手に憤然と抗議するミヤコ。やはり彼女が只者ではないと改めて実感する。そう言えば、若き日は世界中を旅していたと聞いたことがある。それにしても今この状況はあまりに無謀だ。女は度胸とは言え、度胸がありすぎじゃなかろうか。
どうするべきか。カウンターの裏で、ボコはこの危機的状況について無い頭を振り絞り考える。多勢に無勢、こちらの武器は腰に携えた護身用のナイフと、立ち向かうたったひとつの勇気だけ。びっくりしたのかルーシィは、ボコの隣で震えていた。
そのとき、立ち向かったミヤコが侵入者に突き飛ばされる姿が見えた。
「ぼくが悪いんだ。ぼくが出て行くよ」
震えながらもそう言って立ち上がるルーシィを制して、ボコ。
「しゃーない。やるしかない!」
運動性能の極めて高いボコは、ひょいっと軽く高いカウンターを飛び越え、男たちの意表を突く。攻撃こそが最大の防御なり。ルーシィが瞬きをひとつする間、初手で唯一の武器であるナイフを投げつけ、そのナイフは、最も脅威である拳銃をもつ男の、太い腕に突き刺さる。
ルーシィは二回目の瞬きをする。ボコは床に転がる拳銃を蹴り、遠くに転がす。ワックスがしっかりとされたフロアは、ボコの相方の頭のようにつるつるで、くるくる円を描きながら気持ちよく転がり、壁に打つかる。
ルーシィの三回目の瞬き。手癖の悪いボコはカウンター席でくすねた酒の瓶で、鉄パイプの男の頭をはち割る。加速するボコ。淀んだ大気が彼の踝に纏わり四散する。まさに電光石火。スラムで生きる鉄則その一。能ある鷹は絶対に爪を隠さない。一番初めが最も肝心であり、先に相手の心を折った方が勝者である。
これで相手が怯めば、こっちのものだが、この日のボコは兎にも角にも幸運の女神に見放されていた。後ろから仰々しく現れる長髪の男。下っ端たちの芝居がかった「先生、あとはよろしくお願いします」の揃った足並みに、笑ってしまう。
ヘルトゥとはまた一味違う異国風の出で立ちに、氷のように冷たい表情、そしてその全身から漲る死の匂いを本能で察知するボコは、これが真打の登場であることを理解する。明らかにそこいらのゴロツキとは違う風格、腰にはボコのナイフの何倍も長さのある一振りの刀。スラムにはたくさんの非合法な職業がある。ボコたちのような金貸しはあくまでもグレイ。子供だらけの窃盗団、麻薬を売り捌く者、売春を斡旋する者、多種多様な非合法で満ち溢れ、奥地に行けば行くほどまさに混沌であった。そしてそんな混沌の最果てには、人では無くなった死神たちが住んでいると聞いたことがある。それは人の命を奪うことを生業にしている者。
「アンタ掃除屋ッスね」
ボコにとっては誤算であった。初めに投げてしまったナイフ。自分は丸腰である。じんわりと汗が掌を伝う。
「……シリュウだ。殺す者には名乗ることにしている」
死神は地を這うミッドローの利いた低い声で、小さくボコに名乗る。ボコの本能は全力で逃げろと頭の中で警鐘を鳴らしていた。
「……オレはスラムの王の左腕……っと」
独り言と共に動き出す初手。ボコはテーブルを蹴り上げる。刀を抜いた死神は、それを横一線に斬っ裂く。
二手目で苦肉の策と言わんばかりにボコは、死神と距離を取る。そしてテーブルに置かれた目に見える全ての物を投げつける。コンマの世界、それを見ていたゴロツキや店の客には、目にも止まらぬ早技であった。死神はそれをひとつひとつ丁寧に自らの刀で迎撃する。飛び散るアルコール。
三手目。テーブルの上で、煙草に火を点す為のライターを見つける。これで先ほどのアルコールに火を放てば……と、考えたものの、ミヤコの店に傷を付けるのは嫌なので、辞めておくことにする。
四手目は、死神の先行であった。異国の言葉と思われる掛け声と共に繰り出される斬撃をひらりひらりと躱すボコ。
「いい目をしている。殺すには惜しい」
五手目。どんどんと加速するふたり。それはルーシィが四度目の瞬きをしている間に全て起きていた攻防である。
壁沿いに追い詰められたボコ。だがそこに落ちているのは、初めにルーシィを狙っていた拳銃。そしてそれこそがボコの狙いであった。しかしだ。拳銃を拾おうとするその手が、届かないことを誰よりも先にボコは知っていた。否、これを見ているルーシィは神託により自分よりも先にこの結果に辿り着いていたのかもしれない。と、ボコはこんな時なのに笑ってしまう。
「これで詰みだ。言い残すことはあるか」
突き付けられる剣先。チェックメイトである。真っ先に浮かぶのは「ツメが甘いと」自分を叱るボスの顔。そして今現在、心配そうにカウンターの向こうでボコの身を案ずるルーシィの顔。性格は全然違うのになぜだか一緒にいると楽しい相棒の顔。あと、ついでによく自分を馬鹿にする生意気な後輩シャロンの腹の立つ顔。
走馬灯とはよく言ったものだ。浮かんでは消える過去のすったもんだ。どうせ死ぬなら、まだ見ぬ可愛い彼女の膝の上で死にたかった。
「ボコくんと言ったね。よく持ち堪えた。ここからは二対一だ」
古今東西、世界中数多にいるスターとは、ここぞのタイミングで遅れてやってくるものである。今まさにボコの身体を貫こうとしていた死神の刀を受け止めたのは、死神の刀と同じく異国で造られた曲刀であった。
「あ、アンタどうして」
「話はあとだ」
嘯いて悪戯に微笑むヘルトゥ。ボコが男でなければ惚れてしまうところである。実際、なんだか変な気分になり顔を赤くするボコ。
大衆酒場のスターは、その実英才教育を受けた軍人のエリートと並ぶほどの剣士でもあった。驚くべきことに天は、彼に二物も三物も与えたのである。容姿端麗、才色兼備、文武両道。なんたる不平等。
「面白い」
と、口笛を吹く死神。表情は無いままだが、歓喜しているようにも見える。あくまでも優雅に死神と斬り結ぶヘルトゥ。
「疾ッ!」
掛け声と共に繰り出されるは、宙空で弧を描く一筋の太刀。介錯でもするかの如く、八相の構えを取る死神は、ヘルトゥの円を自らの直線で受け止める。線と線。金属と金属。散りゆく火花はひらひらと。一進一退の攻防は続く。なんとか一息付くことが出来たボコ。
「とにかく」
死神がヘルトゥに気を取られている隙に、余裕綽々フロアに転がっていた拳銃を拾うボコ。
「これで、こっちの勝ち」
拳銃を撃ったことなど、生まれてこのかた一度もない。しかしそんなボコだって、引き金を引けば弾が出ることぐらいは知っている。