新世界より 2nd movement
5.
「いってー? なに!?」
「天下のポリシアに勤めるあたしの目が誤魔化せるとでも思ってんの?」
「ポ、ポリシア!?」
ガラの悪そうな青年は抵抗するが、人体の構造を熟知しているリヴェラ。押さえつけた自らの腕を支点にし、最小限の力で彼を無力化する。一緒にいた少女は、必死に何かを訴えていたが、リヴェラも必死故に、その声に耳を傾けることが出来なかった。
「抵抗するなら、このまま腕をへし折るよ」
「ちょっ、待つッス! 何なんスか。オレ何も悪いことしてねぇーっ!」
再び力を入れられ、身悶える青年。腕をへし折られては堪らないと思ったのか、彼は抵抗することを辞め、大人しくなる。ぐぬぬと、なんとも恥ずかしそうにしている。初見はガラが悪そうに見えた青年。しかしこうしていると子犬がお預けを食らったような表情で、なんだか可愛らしく見える。
「わけわかんねー」
「黙れこの……幼児愛好者!」
「オ、オレはおっぱいデカイほうが好きーッ!」
どうにも話が逸れて、全く明後日の方角に向かっていることに気づいた少女は、リヴェラの手を掴み引く。
「違うの。わたしがおじいちゃんに会いたいって言ったら、ボコお兄ちゃんが着いて来てくれたの」
「お嬢ちゃん。あなたはね、この軽薄そうな男に騙されているのよー。ほら見て。この如何にも犯罪者です。みたいな顔」
と、少女を宥め、ボコと呼ばれた青年の顔を見る。やはり子犬。やんちゃそうではあるが、邪気自体は感じない。ちっ……と、リヴェラは舌打ちをひとつ。
「まあ、そうでもないか。話ぐらいは聞いてあげるよ。ポリシアの支部でな」
どの道この少女の祖父が勤めるポリシアの支部に向かうとのことなので、まあ良いかとボコは少女に頷いて合図を送る。
女に取り押さえられたのは、彼にとってとても屈辱的なことだった。誰かに見られてやしないかとあたりを見回して誰もいないのを確認し、ボコはそっと胸を撫でおろした。
♪
スラムの一角にある簡素な家で。照明の光が、彼のなんとも手触りの良さそうな、すべすべのスキンヘッドに反射している。薄いベッドに浅く腰掛けたまま、そのつるつるの偉丈夫は、難しそうな顔で腕を組んでいた。
「どうしたの。何か心配事?」
いつも寡黙なデコの変化に気づける人間は、彼の周りにさえそうそういない。備え付けられたキッチンからは、とても良い匂いがした。デコの部屋にコトコトとスープを煮込む女がひとり。女性としてはやや背の高い柔らかなシルエットは、そのどこまでも真っ直ぐな背筋だけで、凛とした性格が伺える。荒野に咲く一輪の多年草のような素朴な美しさを持つ彼女の名は、ピオニーという。
「すまない。考え事をしていた」
久しぶりの休みなのに、何もしてやることが出来なかった。昨日、酒を飲み交わしたディエゴの頼みを、すっぱりと断ったにも関わらず、デコは日がな一日胸騒ぎが止まらなかったのだ。ディエゴがあっさり引き下がったのが気掛かりである。先代とも顔見知りであるディエゴは、油断出来ない曲者であるとよく聞かされていた。実際スラムで顔を付き合わせるようになり、そのひらりひらりと柳のように危機をかわす軽やかな仕事ぶりに、彼が海千山千の策士であることが容易に想像できた。表と裏、或いは光と影、その両方を巧みに使い分けるとても器用な人間であることを、聡いデコは出会って間もない頃から認識している。不器用なデコは、到底自分には真似出来ないと、心の中そっと白旗を上げていたものである。スラムの王が去り、迎えたこの新時代。策謀渦巻くこのオフィーリアの裏側で呼吸するのも楽ではない。
「そんな顔するなんて珍しいわね。もう少し時間掛かるから、お菓子でも食べていて」
無言で頷くデコ。ソファの脇に置かれた布製の買い物袋を物色する。ちなみにこのバッグはデコがピオニーにプレゼントしたもので、全身全霊でモヤシのプリントが自己主張しているデザインだ。中にはバケットにリンゴ、新鮮そうな野菜とスナック菓子が入っていた。封をあけ、中のスナックを頬張るデコ。パリッと弾けるような食感、しかし中身は柔らかな弾力があり、まるでチーズや溶けかけたマシュマロのように伸びる。
室内に響くのはパリッ、ノビッという菓子の音とコトコトスープを煮込む音だけ。
『のびのびー のびのびちーっぷす。そとはパリッと、なかはノビッと! おもちーだーよー』
いつしか相棒が口ずさんでいた商品ソングを思い出す。
「のびのび……」
「え? 何か言った?」
「のびのびちっぷす」
「ええ。最近流行ってるんですって。おいしい?」
「ああ」
頭の中、回転木馬の如く駆け回る陽気な相棒。真似をしてみようにも、デコはそんな柄ではなかった。自分もボコのように上手く感情表現が出来ていたのなら、今よりピオニーに、沢山の気持ちを伝えられていたのかもしれない。自分は下手くそだ。そんな風に自分に無いものを持つ、相棒のボコを思い浮かべる。
今やグループのまとめ役となったデコとボコは、前よりもほんの少し一緒に仕事をする機会が減ってしまった。特にボコは、ここのところ後輩の教育で張り切っていて、随分と忙しそうである。シャロンの将来のことを考えれば、デコ的にも賛成しかねる。もともと女人禁制の組織だったし、まだ反発している仲間もいる。だが、自分同様グループのトップであるボコが、シャロンを仲間に推すのならば、それを無下には出来ない。こんな風にして、どんどんと自分たちの環境は変わっていく。悪しき王の圧政は終わりを迎え、ボスであったスラムの王は去り、ボコとも少しずつ距離ができ、時と共に環境が移り変わっていくのをひしひしと肌で感じていた。
「もうできるわよ」
デコはスープの火を止めたピオニーの横に立つ。家庭的な香りが、デコの鼻を擽る。鼻筋の綺麗な横顔。細い顎に涙ぼくろ。そしてデコは、彼女のその少し癖のある髪が好きだった。撫でると手触りが良いのだ。
「暖かくなったら、旅行でも行こうか」
それはデコとしては精一杯の珍しい提案であった。変わり行くもの、変わらないもの。そのどちらも受け入れて、自分を取り巻く必要不可欠なものだけ、この他人よりほんの少しだけ大きな背中で守れたらいい。できればボコもそこへ入れたいが、本人が望まないなら仕方がない。ボコは一体どう思っているのだろうか。
どちらにせよ。せめて、この隣にいる、いつも変わらない必要不可欠な人との関係に、ほんの少しだけ変化をもたらせられるぐらい強くなりたいとデコは願った。
「素敵ね」
見つめ合うふたり。デコは夕刻にも関わらず掛けていたサングラスを外そうと、フレームに手を掛けたところで、ドンドンドドドンとリズミカルなノックの雨。世知辛い世の中は、こんな些細なロマンスさえも許さないのであった。
それに応じて入り口の薄い扉を開けるデコ。そこには汗だくで満身創痍のハルビックがぜぇーぜぇーと、息を切らして立っていた。外は既に肌寒いのにである。
「ボコがポリシア支部で暴れて拘留されてるってさ。さっきアジトに連絡きた」
それを聞いたデコは思案する。確かに、お世辞にもボコは素行が良いとは言えないが、かと言って彼もスラムで生きる金貸しのプロ。ギリギリは弁えているはずである。取り敢えず、息も絶え絶えのハルビックを自室に入れ休ませることにする。ピオニーはハルビックにお茶とスナック菓子を出した。
「あー、どうも。ピオニーさん噂は聞いてます。デコの彼女さんですね。あ、これノビノビチップスじゃないですか」
パリッ! ノビーッ! ハルビックは驚くべき速さでスナックを食べカロリーを蓄積していく。ハルビックの話によれば、ボコは「デコを呼んでくれッス!」と言って聞かないらしい。どうもボコは拘留されているだけで、罪には問われているわけではないということで、デコはひとまず安心する。
「すまない。行ってくる」
「ボコくんに呼ばれちゃ、仕方ないわね」
ちょっぴり悪戯にニコリと笑うピオニー。少し癖のある彼女の髪を、デコのその大きな掌が優しく撫でる。女性経験のないハルビックには少し刺激が強いようで、彼はそっと目を逸らした。
♪
スラムで生きてきたボコが清廉潔白なはずもなく、こういった経験は初めてのことではなかった。しかし、ここまで酷い留置所は、そうそうお目に掛かることはない。幽霊の棲む古城の地下牢と言った表現がしっくりくるであろうか。冷たい石畳に鋼鉄の格子、そして何より我慢ならないのが、どこからか立ち込めるこのカビ臭い空気。
「ほんとゴメンってば」
鉄格子の外でアンネ・リヴェラ捜査官は、舌を出しちっとも悪くなさそうにボコに詫びる。
「女じゃなかったらメタメタにしてやるとこッス」
そう言っていつになく不機嫌そうにボコは硬いベッドに寝転がる。少女の供述により、直ぐに誤認逮捕だと発覚し帰れるはずであったが、物事とは常に悪い方へ転がるものである。
数刻前のこと。
ボコの聴取に当たったのは、なんとも鼻持ちならない若い捜査官であった。ボコがスラムの人間だと知ると態度を一変し、見下すような態度で接してきた。くちゃくちゃとガムを噛みながら、
『ああ、知ってる知ってる。スラムで金貸しをしているちんけなゴミ集団だろ。小銭しか貸す金がねぇくせに金貸しとは笑えるな』などと、ただボコがスラムの人間であるというだけで、汚い言葉を幾つもぶつけられた。
気が決して短くはないボコにも、我慢の限界というものがある。初めの内はへらへらとしていたが、ついには目の前のデスクを思い切り蹴り上げた。唖然とする捜査官。同じ人間、同じ国籍。何故にここまで馬鹿にされなくてはならないのか。スラムで生きるのは悪なのか。貧しいことは罪なのか。
「ななな、なんだ貴様。そんなことして、ただで済むと思っているのか」
尻餅を突く捜査官を決して逃さぬよう、彼のスラックスの裾をスニーカーで強く踏みつけ、ボコはこんな時でさえ嗤う。スラムで生きるのが悪ならば、いっそ可憐に悪の華でも咲かせてみせようか。
「舐められたら終わりだって、いつかボスも言ってたし」
その後、新たに取り調べ室に入ってきた捜査官五人を相手取った大立ち回りの末、ボコは取り押さえられたのである。
胸糞の悪いことは、忘れるに限る。都合の悪いことを速やかに忘れることが出来るのは、ボコの特技のひとつである。
「ごめんってば」
「謝って済むならポリシアいらねー」
「悪いと思ったから説明したんだよ」
「そんなん当たり前っす」
実際、彼女が誤認逮捕を認め、取り計らいをしてくれなければ、実刑は免れなかったかもしれない。とんだ迷惑な話であるが、悪意が在ると無いとでは、話が違う。彼女に悪意が無かったのが不幸中の幸いであった。
「きみ凄いんだねぇ。訓練された五人の捜査官相手に」
「ほんとはオレもっと凄いし! 本気出せば、全滅させれたし!」
「あたしだって責任感じてるんだよ。相方のじじぃにどやされたし」
「ざまぁ見やがれ」
つーんと、そっぽを向くボコ。そこで鉄格子の外の内線が鳴る。
「お迎え来たってさ」
木造の建築物の地下にある留置所。石畳の廊下をコツコツコツと鳴らす硬い靴。どうやら、ふたりいるようであった。
「私は街の便利屋ディエゴ・フェルナンド。彼の身内の代理としてボコを迎えに来た」
相棒のデコが来たら、捜査官五人を相手に大立ち回りをした武勇伝を話そうと、うずうずしながら待っていたが、それはデコの声ではなかった。
「え? ディエゴさん? なんで」
そこにいたのは、便利屋と言う名の探偵業を営むディエゴ・フェルナンド。そしてその傍らには、背がボコよりも低く、ボコとよく似たキャップで顔を隠した人物がいた。
「きみたちはそこそこ稼いでいるのだから、こういう時の為に事務所に電話ぐらい引いておくといい」
「掛けてくるやついねーし、要らねーッス。普段なら捕まってねーし」
「スラムの有名人だからな、スラムに顔の利く私に、そちらの綺麗なお嬢さんの上司から電話を頂いてねぇ」
片目を器用に閉じ、ウインクする中年。それはなんとも強烈で、思わず顔を赤くするリヴェラ。ディエゴのウインクは、彼女の胸を鋭利な銃弾の如くずきゅんと撃ち抜いたのであった。
「……カッコいい……何この気持ち。もしかして、こ、これが一目惚れ……ああダメ。あたしには、ヘルトゥさんという、心に決めた人が……いけない女。一体あたしはどちらを選べばいいの?」
リヴェラの妄想は続く。