道化の行進
32.
ポリシア本部。
「失態だな」
「ええ。迂闊でした。直ぐに焼却処分するよう手配したのですが」
禁煙のブリーフィングルーム、煙草を燻らせるは捜査官イワコシ。白髪の混じった髪の毛を掻き毟り、いつにも増して眉間の皺を深くしている。対面に座わっていたダイスケ・アミール・カーンはすぐさま立ち上がり、何事もないように換気扇のスイッチを入れ、重くなった空気を入れ替えるよう努める。まさかまさか呑気に|紛れ込んだイレギュラー《ボコ》とベテラン捜査官イワコシが追いかけっこを興じている間に、最重要人物であるホク子・オールグリーンの遺体が忽然とその姿を消すだなんて、笑えない冗句のようであった。
「しかしどうにも解せんな。何の痕跡も残さず死体を持ちさる事が出来そうなヤツって言やぁ」
「持ち去られたのではなく、死体が自ら歩いてどこかへ行ってしまった……という線はないですかね?」
「おいおいおいおい、お前さんも冗談を云うんだな」
可笑しくもないそれを冗談と流すイワコシ。しかしアミール・カーンの目はいたって真剣であった。祖国の業の大幹部シスターホク子・オールグリーンの原型をとどめぬほど損傷した遺体。普通に考えれば、ポリシア本部内にいた内通者、或いは新たに感染させられた何者かに、遺体を持ち去られた可能性が濃厚である。が、死体自身が自らの力で逃げ出した可能性も視野に入れねばならないほど腑に落ちないことだらけであった。あの若者を職員総出で捕まえようとし、警備の堅牢性が手薄になっていたとはいえ、部外者立ち入り禁止の遺体安置場から重たい遺体を抱えて誰にも見つからず敷地外へ逃走するなど誰にできようか。
「あり得る話かもね」
突如一気に開くブラインド。紅蓮の西日に浮かぶ浮かぶ小さな影。こだます第三者の声。気配のひとつも気取らせずこの部屋に侵入したのか、はたまた初めからそこにいたのか。
「ばかやろう。ここに来るなと云っただろ」
「イワコシさん。こちらは?」
「……チッ、こいつは機関の使者みたいなもんだ。あんまり気にするな」
影は逆光のままアミール・カーンの正面に座る。
「オレンジジュースちょうだい」
いらいらした様子で「うるせぇ。何しに来やがった」と文句を言いながらも、きちんと給湯室に飲み物を取りにいく。
気まずく初対面のふたりが取り残される。逆光で顔はよく見えない。声は女性。ずいぶん小さな体躯に見える。
「あなたがアミール・カーン? イワコシから訊いてる」
「初めまして」
「ふふっ、ねぇ、なんでイワコシに近づいたの? きみ匂うよ」
「ええと機関からの使者なんだよね。きみ」
「まさかー。イワコシはあなたに嘘しか云わないねぇ。まったくあなたたちはお互いさまだよ。わたしがいったい誰なのか、当ててごらんよ」
この小さなシルエット、あどけなさの残る声、しかしこんなところにただの子供がいるはずがない。
「……ホク子・オールグリーンと同一の者かな」
「鋭い! きみ凄いねぇ。赤い目が見えないように逆光に立ってるのにな。今すぐにきみを殺したいぐらい聡いよ。でも惜しくも不正解」
影はにぃーといたずらに口を横に開く。顔はよく見えないが、白い歯と歪に開く口だけよく視認できる。
「わたしたちとオールグリーンたちは似て非なる存在だよ」
「古来種の生き残りか」
相手に聴こえないほど小さな声でアミール・カーンは呟く。そして自らに課せられた任務の目的に近づいたことを確信する。隠し持った銃……しかし使い所はここではない。この銃は黒幕に向けるためのもの。
「怖い顔しないでよ。イワコシが戻ってきた」
イワコシが自らトレイに乗せてきたケーキと紅茶。きちんと人数分用意されていた。
「オレンジジュースは?」
「ねえよ。そんなもん。それよりケーキだ。ほれ中央通り沿いのほれ、シエっ、シエルなんちゃらって店のだ」
「相変わらず、甘いもの好きだねぇ。健康診断引っかかっているんでしょ」
「うるせぃ」
ふたりがどれほどの付き合いなのかは、預かりの知らぬところではあるが、会話からはそれなりの年季が感じられる。随分長いのかもしれない。イワコシはこの影のことを憎からず思っているように感じられた。彼女は誰だ。ただの赤眼症患者ではないのか。戦時中の兵士が発症したことから極秘に研究されてきた赤眼症。元は冒険家ウィリアム・ブルーノートが、彼の地からこの国に持ち込んでしまったのだとされている。著にはなんと記してあった? 資料として読んでいた冒険記にはなんと書いてあった? タイトルはそう、確か不死の国よりではなかったか。
「イワコシも解っているのでしょう。その可能性があることを。わたしの存在そのものがそれを証明している」
金属のフォークを片手にぽつり小さな影がこぼす。沈黙するイワコシとダイスケ・アミール・カーン。「知っているさ」と、イワコシは小さく応じる。その表情をアミール・カーンは見逃さなかった。そう、よく知っているはずである。
死んだ王族を蘇らせようとする悪魔の研究。謎の奇病や暗殺により次々と命を落としていった呪われし王族を生き返らせることを目的とした、馬鹿げたオカルトみたいな研究をイワコシは誰より知っているはず。なぜなら、その研究機関の被験者に選ばれ、気の狂った研究者たちに弄ばれ、惨たらしく命を落としたのは、イワコシ自身の愛娘であったのだから。その不死の実験で彼の娘は命を落とした。実験は不完全なものであったのだ。燃え尽き灰と化した記憶を乱暴に落とすかのように、イワコシはポトリ煙草の灰を落とす。
今は当面の方針である。消えたのが文字通り物云わぬ死体ならばまだいい。だが、確かに死んだはずのホク子・オールグリーンがもしも本当になんらかの要因により意思を持ち活動しているとするならば、オフィーリアの街を死体が練り歩くことになる。そしてもしも外来種が死者の躯を自在に動かすことができ、尚且つ感染が広がれば、街はパニック、夏を待たずして、この国は滅びるであろう。
「莫迦みたいなオカルトはごめんだ。現実的な話に戻そうじゃねぇか」
「しかし誰が、一体どうやって、どんな目的であんな物を?」
そんなことができるとしたら、それはまさしく神の所業である。だができる人物に心当たりがないこともない。
「まず目的は簡単だ。研究者の間じゃ、赤眼症患者の遺体は涎ものの極上品らしいじゃねぇか。知ってる研究者なら誰もが欲しがる。そこまで訊いてぴんと来ねえか? あの変態侯爵ならやりかねねえわな」
「……あの変態侯爵?」
「どうせお前さんもぴんときてるんだろ? 吾妻だよ。あーがーつーま」
オフィーリア最高の名家、元三大貴族の一角、吾妻家当主、吾妻ジュンイチ。規格外の彼ならば、確かに不可能を可能にするかもしれない。
「つまり吾妻家の差し金と」
「違う。俺はやつ個人と踏んでる。言いたかねえが、あのぼんぼんは天才よ。お前さん世代は知らねぇかもしれねぇが、かつて王家を追放することに成功したのも、やつの手腕よ。ありゃバケモノだわ」
「消去法というわけですか。実現できるのが、規格外の彼しかいないという」
「それもそうだが、それだけじゃあねぇ。やつなら恐らくは、あの仏さんがここにあったことだって知っているはずだ」
あまりに強引である。が、イワコシのこれに乗っておくべきだと、アミール・カーンはそれ以上口を挟まないようにした。なぜならば、彼が極秘裏に与えられた任務遂行のための利害に一致するからである。
しかし、ここでひとつの矛盾が生じた。彼が追っていたのは研究機関を動かす真の黒幕。その黒幕が誰なのか、あらゆる面で推測し導き出したひとつの結論。第一の容疑者の名はマッドサイエンティスト吾妻ジュンイチその人である。仮にその推測が正しいとするならば、研究機関の命で動くイワコシがなぜ自らの組織のトップを疑うのか。自分の推測が間違っているのか、はたまたイワコシが知らないだけなのか。これは早急に確かめる必要がある。
「しかし侯爵相手となると、調べようがねえわな。使者でも立てるか? 下手打ちゃ俺らが縛り首よ」
オーバーに舌を出しながら、親指で自分の首を搔き切るジェスチャー。王家無き今、侯爵家を敵に回すのは、国家を敵に回すことに等しい。
「使者など立てずとも」
アミール・カーンは一枚の通達用プリントをイワコシに渡す。そこには子供の落書きのようなイラストに添えられ吾妻家夫人一日署長と書かれていた。なんとも平和な行事である。
「この緊急時に一日署長か。しかしアミール・カーンよ、。随分と根回しがいいじゃねぇか」
「相手が侯爵となると命がけの大捕物になりますね」
都合の悪い勘ぐりを無視し、話を進める。自分の推測とイワコシの推測。仮にどちらかが合っていたとしても、仮にどちらも間違っていたとしても、これでやっと真実が重い腰を上げ動きだす。
「なになに? 面白そう。その一日署長っていうのわたしが相手するー」
見た目通り悪戯っ子のように身を乗り出す影を制すイワコシ。
「調子に乗るんじゃねぇぞバケモノ」
「バケモノとはあんまりだよオジイチャン」
小さな影は歯を剥き醜く歪んだ笑みを見せる。だれも愉快なはずもなく室内を沈黙が覆う。舌打ちをする代わりにイワコシは背広のポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出す。
しゅぽ。
小気味の良い金属音とオイルライター独特の匂い。
「けほっけほっ。ディエゴさん、ぼく煙草きらいだよ。前に言ったでしょ」
「そうだったな、すまない」
やっと見つけたボコには見向きもせず、ルーシィは真っ先にカウンター席にいたディエゴのとなりに座る。それをテーブル席から睨むボコ。気に入らない気に入らない。約束通りにルーシィを迎えに来なかったディエゴがムカつくし、それを咎めないルーシィにも不満を抱く。兎にも角にも気に入らない。
「ディエゴさんなんでルーシィのこと迎えに来なかったんスか! 約束と違うし!」
「迎え……」
ピオニーのことが心配でたまらないのか、『迎え』という言葉をデコが繰り返す。ボコには分かる。いつもより、デコの冷静度が足りてない。
「っと。ディエゴさんのことはあとでいーや。それより、ポリシアのおねーさん、作戦会議。はやくはじめちゃって!」
無理に散漫な思考を目の前に戻すも、ポリシアのおねーさんことアンネ・リヴェラはステージ上のヘルトゥをヨダレを垂らしながら視姦している。超汚い。
そんなこんなで店内の再奥、ちっとも作戦会議が始まらないボコたちの卓に乱入者あり。ボコとデコの座る長椅子の小さな隙間に「よっこいしょ」と強引に腰掛けるその人物。打つかりあう尻と尻。揺れる灰緑の髪の毛。
「んなっ、シャロン!」
「せーんぱい。狭いんでもっとそっちにつめてくださいよ」
「あっち行けよ。いま大事な話してんの。わざわざこんな狭いとこ座んなくてもポリシアのおねーさんの隣広いっしょ」
と、空いてるはずのリヴェラの隣を見やれば、すでにスラムの金貸しのひとり、シモン・ハルビックの巨体が鎮座していた。
「ふふん。デコにボコ、やっと見つけたよ。あ、ハッカ飴食べるかい?」
「ハルビックいけない。たぶんお菓子の持ち込みは禁止」
わちゃわちゃと収拾がつかないほど、人が増えたところで、演奏は鳴り止み、リハーサルを終えたヘルトゥたちはバックヤードに捌けていく。ずかずか図々しく皆上がり込んではいるが、忘れてはいけない。今からやっと開店である。エレナに気づいて手を振るヘルトゥ。それを勘違いして大騒ぎするリヴェラ。
「みてみて! ヘルトゥさん今あたしに手を振った。ねぇねぇ見てたでしょ」
「わー、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ふふん、大方デコたちと何かを話し合うためにここに集まっているっしょ」
「……そうだったね……って、お前、いつぞやのデブちん!」
乱れに乱れた心に落ち着きを取り戻そうとするが、隣に座るハルビックの強烈な顔を視認してまたリヴェラは取り乱す。
「その前にきちんと説明してもらいましょうかデコさん。どこで何をしているの? なんでポリシアと一緒にいるの? みんな心配していますよ」
「今はそれどころじゃ……」
「先輩には訊ーいーてーまーせーん」
むっかー。腹を立てシャロンに何か言ってやろうと、ボコが立ち上がろうとしたその時、リヴェラの隣に座るハルビックの巨体が吹っ飛んだ。ひっくり返るテーブル、割れる食器。
「ここで会ったが百年目だ。このやろう。あの時はよくも!」
「ひっ、ひぃぃぃ」
倒れるハルビックに一歩一歩近づくは、鬼の形相のリヴェラ。その禍々しい闘気にあてられハルビックは震えが止まらない。鬼の脳内を駆け巡る回想。負の追憶。スラムで自分たちを騙しおちょくったことも赦さない。ホク子・オールグリーンに追い詰められたとき、颯爽と自分の命を救ったことも赦すわけがない。赦さない。赦さない。赦さなーーーーい。怒りに身を任せたリヴェラはハルビックに殴り掛かった。皆止めようと立ち上がるが今からでは間に合わない! 誰もが目を覆う。しかしその拳がハルビックに届くことはなかった。横から割り込んできた何者かがモーションに入ったリヴェラのスピードに軽々と追いつき、それを止めたのだ。一目見れば解る。リヴェラの腕を掴むのはよく洗練された剣士の手。振り払おうにもピクリとも動かず。
「少し落ち着け。ここはみんなが酒と音楽を楽しむ場所だ」
「き、騎士のおねーさん!」
わりかし荒事も得意だが、あくまで今はただの菓子職人。そう本人は謳っているが、残念ながら彼女をよく知る他者からの認識は異なる(もっとも、それをつっこむ猛者などいないのだが)
満を持して、幾多の鉄火場を潜り抜けた歴戦のパティシエール、エレナ・セルゲレンここに見参……である。




