メヌエット
3.
神妙なデコと食えない男ディエゴ。決して侮ることのできない男たちふたりが腹の探り合いを繰り広げるバーの二本隣の通り、ピザが美味いと評判の大衆酒場にボコたち三バカトリオはいた。
「だぁれが三バカですか! わたしを入れないでください」
週末の客でごった返す賑やかな店内、突然テーブルを素手で叩き、立ち上がるシャロン。注目を集める。静まり返る店内は、淀んだ空気を循環させるファンの、錆びた駆動音のみが変わらず断続的に響く。
「シャロン、突然なに!? ちょっと飲み過ぎなんじゃね? すいませーん、水くださいーッス」
「ああ、いいえ。何でもないです」
コホンと咳払い。シャロンは恥ずかしそうに着席する。「さて、ボコ。例の件の話なのだけれど」と、ハルビックは、ラム肉の腸詰めにフォークをずどんと突き立て、ちらりとシャロンを気にする。腸詰めからは、どろりとジューシーな肉汁が零れる。
「もしかして頼んどいた例のブツが手に入ったとか」
「ああ、危険なミッションだったよ」
「マジか! 確認する」
いつものお気楽とは違うボコの口調と、いつになく深刻そうなふたりのやりとりに、不安を覚えるシャロン。キョロキョロと人目を気にしながら、ハルビックは誰にも見られないよう、テーブルの下から肩下げバッグをボコに渡した。それを受け取ったボコは、すかさず中身を確認する。中から出てきたのは一冊の本だった。背表紙には見たことのない異国の文字が記されている。不意にシャロンの脳裏をひとつの懸念が過ぎる。風の噂で聞いたことがあった。魔道書。異国の書物で、悪魔、天使、精霊などを呼び出し、願い事を叶えさせる手順や、そのために必要な魔法陣や呪文が記された書物こそが悪魔学の専門書のことだ。日々発展し続ける現代に置いては、時代錯誤も甚だしく、魔法なんて子供騙しのエセ冒険物語の中でしか、近年お目に掛かることのできないような代物である。普通ならば一笑に付すところだ。
しかし酒に酔ったシャロンには、それに酷く現実的な危機感を覚える。もしかしてふたりは、裏で悪魔信仰の怪しげな秘密結社と繋がっているのであろうか。夜な夜な三角の覆面とかを被って、生贄を捧げる禍々しい儀式に勤しんでいるのであろうか、と。シャロンは、今まさに自分がとんでもない局面に、直面してしまっているかのような不安に苛まれる。ふたりは同じ釜の飯を食った仲間である。共に過ごした、取り留めのない日常が、走馬灯のように脳裏に駆け巡る。今彼等の腕を掴み止められるのは、自分だけなのだ。
「ハルビック、大事件だ。ここページがくっ付いてる」
ページをめくろうとするボコ。しかしそれを拒むように、そのページとページは繋がっていた。人差し指を左右に揺らし、得意気にチッチッチと舌を鳴らすハルビック。
「ふふん。それはね。異国の文化で袋綴じって言うんだ。そのページを見るには、それを破らないといけない。開封式はボコくん。きみにやらせてあげよう」
「まじで!? すっげー。袋綴じすっげー!」
辛抱たまらなくなったボコは、袋綴じの隙間から中を覗く。
「こ……これは!?」
「ふふん。洋物は凄いだろう。……シャロンが冷たい目で見てるよ。ボコ……」
それはエロ本であった。目撃者の証言によれば、その後シャロンは、暫し暴れたという。
♪
夜はまだ随分と冷えるもので、外の空気がボコとハルビックの酔いを次第に覚ましていく。人目も憚らず、げぇげぇと路地裏で胃の内容物を盛大に撒き散らすシャロンと、その背中を摩るボコ。
「あはは、世話の掛かる先輩なんだから、たまには世話してあげなよ。ほら夜は冷えるからシャロンが風邪ひいちゃうよ。そのパーカー貸してあげなよ」
「ハルビックが貸してやれよ」
「おいらのじゃ大き過ぎるだろ?」
ずるんと一枚お気に入りのパーカーをハルビックにひん剥かれるボコ。パーカーの下は半袖で肌寒い。それじゃお先にと、意気揚々千鳥足で帰っていく薄情なハルビック。ふふん、と何故だか自分は、気を利かせてやったみたいな得意気な表情で、歩く度にピチピチのシャツからはみ出た腹をぶるんぶるんと波打せている。ボコは「薄情もんー!」とだけ言って、満身創痍のシャロンを見やる。
「パーカー……着せてくらさいよ。セーンパイ」
三百六十度どこからどう見ても、ただの酔っ払いである。あの眉間にしわを寄せ、氷のように冷たい視線を浴びせてくる、いつものシャロンはどこにもいない。仕方なく両手をホールドアップする彼女に、一張羅であるお気に入りのパーカーを着せてやる。そして彼女の身体を背負うも、ぷるぷると脚が震えてしまう。シャロンは細身ではあるが女性としては決して小さい方ではなく、男性の中でも特別力のある方ではないボコには、少々重かった。
「おっもっ……」
「むっ、失礼な。それにいつもだったら、これくらい楽勝ッス〜とか強がるくせに」
「まあぜんぜん楽勝だけど」
震える先輩におぶさって目を瞑る後輩。子供っぽい先輩の背中からは、なんだかお日様みたいな匂いがして眠たくなる。
寝息が聴こえたのを確認して、ボコはよろよろと夜の街を歩き出した。シャロンの自宅は、ここから少し離れた市街地に在った。草臥れたボコのスニーカーは、舗装された石畳の歩道を一歩ずつ踏みしめる。酔い覚めの空に流れ星。それは月の綺麗な晩であった。シャロンはボコの体温に、安心しきって心地良さそうな寝息を立てている。
そんな優しい時間は長くは続かぬものであった。結局のところ、体躯の小さなボコに、市街を歩ききる体力が在るはずもなく、早々と力尽きて盛大にすっ転んでしまった。路上に転がったシャロンの腕が、変な方向に曲がっていたのは、内緒の話である。
翌朝、休日をミノムシの如く寝て過ごそうとしていたボコではあるが、どうにも目が覚めてしまう。二度寝を決め込もうかと目を閉じるも、眠気は既になく、やはり休日にじっとしているのは、柄ではないなと、ぼりぼり頭を掻き毟る。
ベッドから身体を起こし欠伸をひとつ。洗面に行き、顔を洗い歯を磨く。お気に入りのパーカーは、昨夜シャロンに汚されてしまったので、相棒のデコに貰ったインナーを着ようとして辞める。酷いセンスのインナーである。全面にプリントされたリアルな『ブロッコリー』。こんな壊滅的にダサいセンスのデコに彼女がいて、自分にいないのは可笑しい。適当に服を見繕い、まだ見ぬ彼女と出会うため、いざ外の世界へ。そう心に誓いスニーカーの紐を固く結んだ。
マダムグースは、荒野みたく広がるスラムの街から、一本外へ出た商店街で雑貨屋を営む。夫に先立たれた彼女は、その小さな店で、生活必需品から安い子供向けの菓子を売り生計を立てていた。
店内はお世辞にも整頓されているとは言えないが、子供心を擽るような玩具や菓子が多く置かれ、見る者が見れば、夢の国のようであった。
ちりんちりんと店の入り口に括られた鈴が鳴り、常連客の煩い男が入店して来る。
「おばちゃーん。ノビノビチップス買いにきたッス~」
「あら、ボコじゃないかい。ごめんねぇ。今この子に最後の一個売ったところなんだよ」
店内には小さな先客がいた。レジの前に立つのは、まだ年端も行かない少女である。艶のある長い黒髪に、品の良い顔立ちが印象的であった。まるで天使のような少女はニヤリと勝ち誇った顔をする。それにイラっと顔を引き攣つらすボコ。しかしだ。子供相手にスラムの王の左腕が大人げの無いところを、見せるわけにはいかないのであった。
「お嬢ちゃん。半分払うから、それ半分こしよう。良い案だろ?」
今オフィーリア全土で大流行している餅米を原材料としたノビノビチップス。古き良き米菓子とは、一線を画するそのスナック菓子。特殊な製法で職人たちが一枚一枚手作業で加工したその菓子は、なんとまるで通常の餅のように噛めば伸びるのである。
人に何かを譲って貰うなんて、ボコの性には合わないが、これが無くては、今日一日、中毒症状に苦しむことになるので、ここで引くわけにもいかない。頭の中ぐるぐると天使と悪魔が攻防を繰り広げていた。
『欲しいものは奪い取る。それがスラムの鉄則だぜ』と悪魔。
『いいえ、相手は子供です。半分なんてセコいことを言わず、全額貴方がお金を払うべきです』と天使。
どうやらノビノビチップスを食べること自体は、満場一致で決定事項になっているようである。
少女はにんまり含み笑いをし、「どうしてもって言うなら、貧乏そうなお兄ちゃんに、施してあげてもいいよー」と、遥か大宇宙ほどの上空から、地べたを這うボコを見下した。その刹那、彼のプライドと物欲が火花を散らしショートする。
「おい、ちびっ子! これは商談だ」
ボコは自ら被っていたキャップを脱ぎ、そこに付いていた缶バッジを乱暴に外す。
「これと交換しよう。ほーれ、なんかいい感じで絵が描いてあるし、欲しいだろ」
「確かに綺麗な絵。うーん、じゃあいいよ。わたしは別のお菓子食べるから」
「やった、商談成立!」
水鳥の羽根がプリントされた缶バッジを、少女の小さな掌に無理やり握らせる。そのボコの手の体温に顔を赤くする少女。年頃の婦女子に同じことをすれば、顔を赤くするのはボコの方であるが、子供には強気に出られる。
「ほれ、ちびっ子。半分食え」
「なんで? 今交換したじゃん。それはお兄ちゃんの物だよ」
「オレは大人だからな。ちびっ子のお前に施してやるのさ」
さも当たり前のことのように、ぱりぽりむしゃむしゃとスナックをかじりながら菓子の袋を少女に差し出すボコ。外はパリッと、中はノビッと、がキャッチコピーのこの菓子をふたりして頬張り、びろーんと伸ばして微笑み合う。レジの前でくすくすと笑うのはマダムグース。
「あんたはそうやってすぐに友達を作っちまうねぇ。あ、そうだ。昨日作ったシチューが余ってるのだけれど、持ってお行きよ」
「マジで! やった。昼飯げっと!」
「どうせ、食事を作ってくれる彼女もいないんだろう? そのどこでも友達を作っちまう能力が、彼女を作る方向にも、繋がればいいのだけれどねぇ」
「ちょ、オレにだって、彼女のひとりやふたりや三人や四人ぐらい直ぐにできるし!」
ふたりのやりとり等、耳に入らない少女はボコから貰った缶バッジを大事そうに眺めていた。水鳥の羽根。ボコの手から伝わった体温は、未だにじんじんと少女の手を疼かせている。
「それ、そんな気に入った?」
そもそも缶バッジ、駄菓子のオマケである。捨てるほどでもなく、なんとなく付けてただけのもの。
「この羽根があったら、わたしはお爺ちゃんのところに飛んでいけるかなぁ」
「じーちゃん、どっか行ってんの?」
「うん。約束していたんだけど、お仕事が忙しくて。大好きなのに中々会えないの」
少女はそう言ってボコから目を逸らす。泳がせたその視線の先には、幾つものボール箱が積まれていた。ノビノビチップスの類似商品、ネバネバチップスの在庫を大量に抱え、マザーグースが頭を悩ませているのは、また別のお話である。
♪
「へっくしゅーい」
「風邪ですか?」
オフィーリア城下。その姿を覆い隠すよう、背の高い針葉樹が折り重なる街道沿いに、ひっそりと佇むポリシアの支部のひとつ。幾つかあるブリーフィングルームの中でも、飛び切り硬い椅子が置かれた、一等質の悪い部屋にふたりはいた。その内訳ひとり、異国の衣服を粋に着流す若い男は、もうひとりの初老の男にチリ紙を渡す。
「ああ、本当は休暇の筈だったのに、呼びだされちゃあなぁ、そりゃ体調も崩すさ。孫との約束もすっぽかして、迷惑な話だ」
「それは大変申し訳ないことをしましたね」
若い男は苦笑いを零す。初老の男は不機嫌そうに、渡されたチリ紙で鼻をかむ。
「所長直々に呼びだされちゃ仕方ねぇってものさ。別にお前さんが謝ることはねぇ。スラムの権力者殺しに誰も手を出したがらねぇからって、こんな老体にお鉢が回ってくるとはな。世も末ってものよ」
そう吐き出し乱暴に無糖のコーヒーを胃に流し込む初老の男は、ポリシアに長年務めるシゲユキ・イワコシ。数々の難事件を解決してきたベテラン捜査官である。
「なぁ、ヘルトゥよ。なんでポリシアとは無縁のお前さんがここにいるのか、その辺りから話そうか。お前さんの姿をこの部屋で見てから、不吉な予感がしてならねぇ」
ヘルトゥと呼ばれた若い男は、「やれやれ」とやっと本題に入れる安心の笑みを漏らす。