亜麻色の髪の乙女
29.
例えば、小説に立派な屋敷という表現があるとして、スラムで暮らす者の想像力では、それを事細かく思い描くのは難しいものである。その点、デコの計らいにより、スラムの外で暮らすシャロンならばある程度立派な屋敷も見たことはあるが、その邸宅の敷地は、彼女の思い描く金持ちの邸宅を遥かに凌駕していた。
「ボスいるかなぁ」
「先輩曰く、プリン好きなお姫様がいる屋敷ですよね」
「ふふん、それはたぶん侯爵夫人のことだよ。幼女のような少女。その上、人妻のパーフェクトスペック。ぐへへ」
「ハルビック先輩。いつかヒットマンに撃たれますよ。夜道、気をつけてください」
見渡す敷地。見上げる屋敷。否、貴族制度がなくなったとは云え、元侯爵家ともなれば、近隣のどこからどこまでが所有地なのか不明であるが、その整った庭先だけでも、シャロンの度肝を抜くには十全であった。
人懐っこいハルビックは幸いグース夫人と打ち解け(おまけに駄菓子を山ほど購入)、ボコが少女と中央の方へ向かったことを訊きだすことに成功したものの、結局足取りを掴むには至らず、中央へ向かう道すがら比較的近距離に在った侯爵家に立ち寄ることにした。シャロンはきょろきょろと辺りを見渡している。
「シャロンは初めてだっけ」
「はい。だからわたしはスラムの王とも直接お会いしたことないんですよね」
そう。姿を消したスラムの王は、その実この侯爵家で暮らしている。大出世と言えば大出世、一味以外にもこの事実を噂程度に知っている者はいて、反応はさまざまである。中には後ろ指を指す者も少なくはない。羨む者、失望する者、その他。廃退したスラムの荒ぶる悪ガキたちの象徴が、相反する国家の、或いは社会そのものの象徴とも云うべき元大貴族についたのだから無理もない。しかしだ、金貸しの一味からすれば、元来より金を借り、返済ができなくなった債権者に仕事を斡旋していたのが吾妻家なので、このパイプに関してあれこれ云われても今更な話なのである。或いはこの侯爵家である吾妻へのパイプこそ、少数精鋭の金貸し一味が未だスラムで最大派閥の一角を担っている所以なのかもしれない。
ハルビックは業者用に使われる裏口の扉にあるノッカーを鳴らす。基本事務屋のハルビックがここに直接訪れることは、ほぼありえないので、流石に少し緊張しているのか汗をかいているようだ。決して、太っているから、ちょっと歩いたら暑くなっちゃった! とか、そういうのではないと思いたい。こんなに広い屋敷なのに使用人である初老の紳士は、直ぐに戸を開けてくれる。この屋敷の執事、セバスチャンである。
「ハルビックさん、お久しぶりでございます。本日はどういったご用件で?」
「あ、どーも、お久しぶりです。ご用件というか今日は報告に来ました」
ハルビックはセバスチャンの視線がシャロンの方へ向いていることに気づき、おっと紹介するのを忘れていたと、言葉を止めこめかみを人差し指でポリポリかく。
「こっちはシャロン、うちじゃ一番新しいメンバーでボコの部下です」
シャロンは初対面のセバスチャンに軽く挨拶するも、脳内が慌ただしかった。ボコの部下、ボコの部下、ボコの部下……耳にハルビックの言葉がリフレイン。いらっ、なんか腹がたち我慢に震える灰緑。ムカつくので、聞かなかったことにしよう。
「ボスに相談があるんで、会わせてもらってもいいですか?」
「あいにくながら、現在は屋敷をあけておりまして」
「ありゃ、ならボコとデコの行方が解らなくなったことを、ボスに言伝お願いします。ところでふたりとも来てないですよね?」
「いえ、本日はおふたりともご来訪されておりません」
「あ、別にデコは今日連絡なしで欠勤しただけだし、ボコは何やら無事らしいことが解ってるので、そこまでのおおごとではないと思うんですけどね」
執事はふむと一思案する。オフィーリア屈指の名家である吾妻が、わざわざスラムの金貸し一味をビジネスパートナーの一端に置く最も大きな理由は、他ならぬ積み重ねた信頼関係の賜物である。一味の末端ならいざ知らず、取り仕切り役であるふたりが、何の理由も連絡もなく、仕事を放棄するとは、あまり信じたくない話だ。所詮はスラムの住人と切り捨てても構わないが、できれば止むに止まれぬ事情があったのだと思いたい。仲間とたった一日連絡が取れないだけで動きだすハルビックという青年の判断は、悪い印象では無かった。
「他に心当たりは?」
「あとデコやボコの行きそうな場所と謂えば、ミヤコさんの店かなぁ。でもまだ開店してないし」
ハルビックがミヤコの名を出すと、老紳士の眉がぴくっと動くのに気づくシャロン。もしかしたらふたりは知り合いなのかもしれないことを密かに察する。
「ブーゲンビリアに? それでしたら視察も兼ねて私も同行いたしましょう。支度をしてまいります」
いや、お前もいくんかーい! ずっこけそうになる灰緑。彼女の人生史上、有数のまともなキャラクターの登場だと思って安心していたのが甘かったようだ。雰囲気の良い老紳士の豹変っぷりに鼻白む。
「えっ、今日は視察の予定の日だったんですか? 急に決めたみたいに見えますけど?」
たんたんと冷静に真実だけを述べるハルビックも、それはそれでひどく滑稽である。ニワトリが鳴くかの如く、滑稽なふたりが滑稽なやり取りを延々興じていると、セバスチャンが出てきた裏口の扉が再び開く。
「ねぇ、セバスチャン。プリンまだぁ?」
と、プリンを食べながらてとてと現れる幼女のような少女。メガネを頭に掛けながらメガネを探すのとは、次元が違うのであろう。消去法で鑑みるに、御前に居られるのは、十中八九吾妻家の侯爵夫人である。レースまみれのピンクのドレスが眩しい。
「奥様。今、隣国まで材料を調達に向かっておりますので、もう数日お待ちください」
少々珍しいくらいの材料であれば取り寄せることくらい安易であろうに、わざわざ足を運んで調達に向かっている。これこそがスラムの王不在に関する、衝撃の真実であった。
※
一方ボコ。
通された狭い室内。硬い椅子とテーブル。ボコの目の前に置かれたのは東方のカツ丼なる料理と、イワコシの酷くメシが不味くなる顔。織りなす相乗効果で、おもしろくもなんともないのに、笑い出しそうになってくる。少女はまた知らぬ間に姿を消していた。
「これが孫の礼ッスか。マジで⁉︎ 取り調べじゃなくて?」
「ああん? 孫? なんの話だ」
今ひとつイワコシに話が通じない。やはり少女のおじいちゃんはイワコシではないらしい。それにはむしろホッとする。こんなイカツイ顔のじじいと可憐な少女の血が繋がっているだなんて思いたくないものだ。自業自得。結局のところ渦中にいる人間が、火中の栗を拾ってしまっただけの話である。
「なんでオレとルーシィを追うんスか?」
「容疑者にそんなこと話せるかよ。さぁ、これからは、臭いメシ食うことになるんだ。最後に味わって食え」
やはり逮捕する気マンマンである。
「…………イテテ。あーなんか、急に、腹が。ちょっとトイレ」
「行かせるかよ」
座らされた椅子から飛び上がるボコ。正面に座ったまま掴みかかるイワコシを軽くかわす。調書的な書類がひらひらと舞う。ここで腹を満たしては食事を作ってくれる騎士のおねーさんに面目が立たない。また叱られる。回すドアノブ。幸い鍵は開いている。
「待ちやがれ!」
「待てと言われて待つバカは居ないッス!」
ここに来て切った張ったの不毛な追いかけっこが、今また始まる。舞台は正義の本拠地。見渡す限りの敵、敵、敵。捕まったら何を求刑されるかわかりはしない。
「あいつを捕まえろー!」
イワコシの声にすれ違った捜査官全てがボコを追いかけるベリーハードなルール。以前はふたりだった鬼だが、今回は規模が違う。最終的には十数人の捜査官を引き連れ、ボコはダンジョンを駆ける。
逃げながら飛び込む会議室。突然の乱入に室内はパニックに陥った。ボコが机の上を走れば、会議資料とお偉いさんのカツラが舞い、構わずなだれ込むイワコシ一同は、お偉いさんたちのハゲ頭を踏みつけてボコを追う。女性職員がお盆に乗せたお茶をすれ違いざまに拝借。喉を潤す。
複雑に入り組んだポリシア本部であるが、動物並みに冴え渡る勘が何度もボコを救う。しかし、このままでは捕まるのも時間の問題であった。恐らく出入り口は、封鎖されているのであろう。
「どうすっかなぁ」
こうなったら窓を突き破ってでも外へ出るべきか? 前方の窓に視線を据えて、ぜぇーぜぇーと呼吸を整える。その一瞬の油断がいけなかった。最後まで気を抜くべきではなかった。フロアの淀んだ大気を切り裂きながら稲光のようなスピードで、ボコの足首を捕えたのは、長い長いハンドカフス。
「うぇ!? これっは……!」
これはあの女捜査官の……。天敵再来。背筋に冷たいものが走る。ボコの思考より早く驚くべき力でボコの身体は引きづられ、そのままズルズルと、とある部屋に誘われる。
『第二捜査資料室』
その部屋は換気扇の音だけが聴こえる静かな空間であった。部屋にボコを招き入れ、ドアの隙間から部屋の周囲を確認し再び入り口を閉めるのは、憎っくき宿敵捜査官アンネ・リヴェラ。彼女はわーわーと暴れて逃げ出そうとするボコのハンドカフスを解錠し拘束を解く。
「落ち着け、ボコ。俺だ」
耳慣れた声に顔をあげると、照明に反射するボコを捕らえた性格の悪そうな女のキラリ光る眼鏡。その隣で黒光りするサングラスをかけているのは懐かしのツルツルスキンヘッド。
「デコ⁉︎ なんでここに? えっ? えっ? 嘘でしょ。なんでこの人と?」
ボコは状況を把握するために、辺りを見渡す。天井にはゆるい照明と換気扇。白いテーブルに白いカーテン。本棚にはたくさんの資料らしきファイルと本が並べられている。
「静かにしなさいよ。きみが煩さくしたら、この部屋の近くまで人が来ちゃうでしょ」
思わぬ相棒との再会。暫しの沈黙。ふたりの顔を交互に見るリヴェラ。相も変わらず除湿機の音だけがこだまする。
「ボコ。助けて欲しい」
「おっけー!」
即答。ボコを助けてばかりのデコが助けて欲しいというのだ。事情を訊くまでもない。現在の状況も関係ない。例え太陽と月に背いてでも助けるに決まっている。
「なななな、なに? この熱い空気。男同士わかり合ったみたいな顔しちゃって。ままままま、まさか、ここここここれが、噂に訊くビーエルってやつ?」
リヴェラの鼻から熱くたぎる鮮血。酷く興奮している様子。気の利くデコはそっとティッシュを差し出したのであった。