魔笛 夜の女王のアリア
24.
ぷっはー。ホップ香る炭酸酒のジョッキを半分ほど一気に飲み干し、泡の白ひげを口周りに付ける黒髪の女の飲みっぷりにリヴェラはため息をひとつ。
「サキさん。なんかご機嫌ですねぇ」
男社会から抜け出し、たったふたりの女子会は、メインストリート沿いの酒場で開催される。マリンバ、サックス、ヴィブラフォン。異国風の音階が生演奏で奏でられる店内、薄暗いムーディーな照明がふたりを照らす。
「だってさー。直帰していいなんて珍しくない? これから徹夜で報告書とか想像してたからさ」
右手でその黒髪を耳にかき上げ、グイと残りの炭酸酒を飲み干すサキ。おかわりを店員に頼む。
「ほらほらアンネもクヨクヨしてばっかいないで、好きなもの頼みなよ。私たちがこうしてゆっくり話せるのも久しぶりなわけだし」
かつてリヴェラの研修時代、|ひとりの男《ダイスケ アミール カーン》を賭けて争った宿敵は、こんなにも優しかった。昨日の敵は今日の友。もっともそう思っているのは、リヴェラ本人だけであり、彼女の脳内だけで勝手に膨らんだ壮絶にして不毛な独りよがりのひとり夢芝居に過ぎないのだから救いようがない。辺をなさない点だけの妄想三角関係がリヴェラの初恋であり、誰ひとりとして傷付かず終わったのであった。恋の終わりは単純明快。恋多きリヴェラが別のイケメンに惚れたのである。彼女をよく知る人間はこれを『いつもの』と呼ぶ。
サキとアミール・カーンの関係性もよく知らずに、散々周りを巻き込んだ乱痴気騒ぎは、今でも特別治安維持班の語り草となっている。
たわいもないおしゃべりは加速していく。しかしサキはよく平気でいられるものだ。罪なき子供たちが何人も死んだのに。……って平気なはずはない。忘れていた。彼女は誰よりも情に厚い。だから強くもない酒をこんなにも飲んでいるのだと、リヴェラは思い直した。
「だけど、おてがらだったよね、アンネ。これでまた昇進するんじゃないかなぁ。万年特別治安維持班の私からしたら、羨ましいかぎりで」
「あれ、あたしじゃねぇし。なんかよくわからないデブちんが転がってきただけですー」
「あんたあんまり体型とかでデブちんとか人に言うの、やめたほうがいいよ。口悪いなぁ」
ちょっとだけ自分自身のぷにぷにした二の腕を確認するサキ。どうやら気にしているようだ。リヴェラからすれば、その男好きのする罪深きワガママバーディが逆に羨ましいかぎりであった。
ふとそこで次の曲の伴奏が始まる。ステージ中央には年齢不詳の女性。まるでフィルムで撮られた映画のワンシーン。静かな伴奏、年齢不詳の歌姫は力強くハスキーな声を高らかに上げる。
「あれ、この店のオーナー、ミヤコさんって人らしいよ」
「へぇー、凄くキレイ」
と、言いながらリヴェラの目は、ミヤコを全く見ていなかった。その時リヴェラの視点は、すでに別の獲物を捕らえていたのだ。見つけた! バーカウンターで、老紳士と肩を並べて飲み交わす薄紫の揺れる髪の毛。ヘルトゥ。
話の途中であったが、ミヤコのステージが始まりヘルトゥは会話を打ち切った。隣で歌声に身体を揺らす紳士に、今話しかけるのはマナー違反であろう。黙ってグラスに口をつける。この店で出す東方のカクテルは、故郷の味がした。ミヤコの歌声とゆるいアルコールが記憶と混じり溶けていく。ヘルトゥのひとみと同じ、透き通る翠のカクテルは草原の色。瞳を閉じれば少年がふたり笑い合っている。
――これは幼き日の私と……亡国の王か。
よりにもよって、なんて記憶を呼び覚ましてくれるんだと、薄紫の髪を振るいヘルトゥは自虐的に肩をすくめる。
やがて降り注ぐような歌は止み、老紳士を見やれば、目をきらきらさせ恍惚とした表情。
「ミヤコさんの歌は、いつ聴いても素敵ですね。あの声量と技術、劇場の花形にも引けを取らない」
ヘルトゥの声に、老紳士はだらしない笑顔を向けた。
ミヤコの店には、各界の著名人が集まるが、この老いた紳士こそが、ある意味一番の大物と言えるのだから、人は見かけによらない。
王政が倒れた今、ここオフィーリアで最も力を持つのは三大貴族と呼ばれていた元侯爵家。その内のひとつ、吾妻家の当主は、その執務のほとんどを彼に任せている。つまり彼は、絶大な権力を代行していることになる。発足して日の浅い議会などよりも、余程強い力を有しているのである。さらに、彼の主がまた少々特殊な人物で、その権力と主の持つ技能により、大概のことは成しえてしまえるのであった。
「お忙しい中、本日はありがとうございます」
本日セバスチャンを呼び立てたのは他でもない。先日のバー襲撃事件の礼。それに丁度、彼には頼みたいことがあった。本来ならヘルトゥが出向くべきなのであろうが、幸いにしてセバスチャンが自身がこの場所を指定してきた。
ミヤコの店を襲った輩は、あの長髪の男を除き、セバスチャンが裏から手を回し、全て捕らえたのであった。ヘルトゥにとっては、自分の職場を荒らした暴漢を捕らえると同時に、ルーシィに迫る驚異を排除してくれるので、なんともありがたい話である。
「実はひとつ、頼みがありまして。これは内密でお願いしたいのですが、妻の友人をひとり、国外に逃したいんです」
「あなたのお力では難しい、と?」
「ルーシィ・アインシュタイン。ご存知でしょう? 指名手配中のテロリストで、スラムのゴーギャン殺害事件の容疑者です。ですが私は、あの子が犯人だとは思えない。無実を証明してやるには時間がかかり、そのあいだ守り続けるのはリスクが大きすぎる」
セバスチャンはヘルトゥの透き通る翠色を覗き、真意を探る。そして目を瞑り顔に刻まれた幾つもの皺を深くする。
「承知いたしました。他でも無いあなたの頼みです。手配いたしましょう。坊ちゃまの許可はすぐに降りるはずです」
セバスチャンはショットグラスの中の酒を飲み干し、立ち上がろうとする。そろそろミヤコの出待ちの時間である。ヘルトゥもエレナの元に帰らねばと動こうとするも、捕まった。
「ヘルトゥさぁぁぁん。こんなところで合うなんてディスティニーですねぇぇ。やっぱりあたしたちは赤い糸で……」
謎の黄色い声は、酒でいくらか積極的になったイワコシのところのリヴェラである。「それでは私は先に」とセバスチャンはヘルトゥを置いていく。やれやれ。相変わらずミヤコ最優先は変わらないなと、ヘルトゥは肩を竦める。それに、おや。リヴェラの肩越しに見えるは……たしか。見つめ合う目と目。ヘルトゥとサキ。見知った空気。見知らぬ女の登場に、まるでヤキモチを妬くかのごとくグリーンのカクテルは波打つ。
※
スポットライトみたいな街灯が飲みすぎたリヴェラを照らす。千鳥足のまま闊歩する夜の往来。人生は薔薇色。口ずさむラララを分け隔てなく平等に撒き散らす。メロディに意味などなく、しかしイケメンと再会したことによりすっかりと立ち直っていたリヴェラ。徘徊する老人に敬礼。リヴェラの脚は軽やかに大地を蹴る。使い古した合成革のパンプスがゆっくり重力に軋む。
お安い家賃で雨風凌げるポリシアの女子寮は、ワンルームの犬小屋。エントランスをくぐり抜け、歌いながらくるくるターンを決める。四階建て二階の角部屋がリヴェラ唯一の領土で領主は帰宅する。おぼつかない手で開ける玄関の鍵。自室に着いてもリヴェラの歌は終わらない。ソファに座るカエルちゃんにベッドのウサギちゃん。リヴェラ王国の国民たちに、ただいまの挨拶とたくさんの投げキッス。ソファに脱ぎ散らかす衣服。くるぶしで丸まるショーツを得意のスリーポイントシュート。酔った手元が功を奏し、みごと洗濯バスケットに吸い込まれていく。バスルーム。浴びるシャワーシャワーシャワー。あんなに激しい仕事のあとにヘルトゥと会うなんて。デオドラントは大丈夫であっただろうか? 抱いてもらうには汗臭すぎたのは反省である。
シャワーを終えバスタオルで身体をよく拭く。少しだけ酔いが醒めてきた。だめ! あたしにはディエゴさんという大切な人が……でもヘルトゥさんの方が若いし、意外と浮気しなさそう。
バスタオルを身体に巻き付け、髪をタオルドライしながら、リビング兼ダイニング兼寝室の領土に戻るリヴェラ。狭い部屋には不釣り合いなクイーンサイズのベッドにダイブ。ベッドのウサギちゃんをヘルトゥに見立て、情熱的な口づけ。ソファのカエルちゃんをちらりと見て、「ディエゴさんが浮気するから悪い」と一言。カエルちゃんは何か言いたげな目をしている。……何か忘れている。リヴェラはカエルちゃんの視線の先を追う。白のテーブル。乱雑に置かれた書類。あのマッドなドクターが残した謎のレポート。そう言えば、なぜ自分はこれをもっているのか。ディエゴは一体なぜ傷の治療にあのドクターの元を訪れたのであろうか。そういえばあのドクターはディエゴの身体に寄生虫がいると言っていた。身体を起こしリヴェラは、レポートを手に取る。難し気な用語や外国語が並んでいるからと、一度は読むのを諦めた。だがどうしても気になる。酔いと文字と睡魔と格闘しながらなんとか解読したレポート、要約すると、こうだ。
1、
感染者の目が赤く充血することから赤眼症と呼ばれる東方の風土病で、正規の病名はローランドシンドローム。その病原体は、体内寄生原虫である。哺乳類から哺乳類へ血液感染する。
2、
遥か古来より熱帯地方などに存在するとされている病原体である。近年、不運にもこの病によりローランド地方の村がひとつ滅んだ。症状は、赤血球変形による肝機能障害及び、血中二酸化炭素濃度の上昇による脳細胞へのダメージ。
3、
重度の感染者は、人が変わったように乱暴になったり、反社会的な行動や言動が増える。前述の脳細胞へのダメージにより中枢神経系に異常をきたし、脳内物質の生成バランスを損なうためである。
感染した者の脳を調べたところによると、被験者の脳は一般健常者の数十倍近く、ドーパミンを分泌しており、麻薬等の依存症末期患者、或いは極度の陽性精神病患者と、類似点が非常に多い。
病原体は血液から直接感染する為、他者の体に傷を作ることを目的とする説が有力である。
ローランド。聞いたこともない名前の地域であった。なぜこんなものがディエゴの身体の中に……。医学についての内容はよくわからぬが、カンの鋭さにおいては天才と呼ばれる彼女のシックス・センスは、このレポートが一連の事件と無関係ではないと確信した。