未完成
23
エレナは壁にかけられている時計を繰り返し見ていた。もう随分待ったような気がするのに、時計の針はその長針をわずかに進めただけ。思わず小さなため息が漏れる。
ヘルトゥが帰って来ない。それだけで、こんなに落ち着かないなんて。エレナはそっと両手を握りしめた。夫が黙って出かけることはよくあることだ。それは、エレナには伝えないほうが良い事態なのだということを彼女は理解している。オフィーリアの中枢に関わる政はその最たるもの。
けれど今回のヘルトゥの不在は、エレナが持ち込んだ厄介事に付随しているであろうことは容易に予想がついた。入った仕事がミヤコの店での急なステージくらいなら良いのに。けれどこんな時にあのヘルトゥがエレナをひとりきりで放っておかざるを得ない事態になっている。だからこそエレナは部屋でひとり震えている。
それに加えて非常時の当事者であるルーシィ本人がいない。ナイトであるはずのボコもいない。
自分にできることは一体何なのだろうか。エレナはまた小さく息を吐く。腕によりをかけた夕食はすっかり冷めてしまった。自分だってヘルトゥと一緒に出掛けたかった。それが荒事であれば、多少は役に立てるのに。そう思いながら、ヘルトゥがそれを歓迎しないだろうこともエレナはよくわかっていた。エレナの自由な振る舞いを好んでくれている彼は、同時にエレナが傷つくことをとても恐れている。優しい夫は今どこに。
「ただいまッスー! あ~、腹減った~」
『シエロ・ドゥ・アマネール』の二階、居住スペースの玄関から少年のようなわんぱくな声。その声に、エレナはどこか安心感を感じていた。大事なルーシィも無事に違いない。可愛い女の子に怪我をさせておきながら、あんなのんきな声を出せるほどボコは器用ではないように思えた。知り合ったばかりの人間をここまで信用するのは危険だと経験上知っているのに、ついそう思ってしまうのはあのルーシィがボコになついているせいかもしれない。
迎えにいったボコは傷だらけで、まさに満身創痍。そのくせどこか笑顔でスニーカーの靴紐を解いていた。思わずエレナはボコにつかみかかりそうになり、急いで背を向ける。救急箱を取りに向かわねば。事情聴取や情報収集の基本は落ち着くこと。ボコの怪我が今すぐにヘルトゥの危険に繋がるわけではないのだと言い聞かせる。それに思い返せば、隣に腰掛けるルーシィは無傷だったはず。ぎゅっと救急箱を抱きしめて深呼吸をひとつ。大丈夫、ヘルトゥはきっと大丈夫。ひきつりそうになる頬に力を込め、無理矢理笑顔を作り上げる。
「まずは傷の手当をしよう。夕食を食べてお腹がいっぱいになったら、何があったか聞かせてほしい」
「手当てより飯を先にしないスか?」
「それはだめだ」
戦の前に必要なのは腹ごしらえだ。内容によっては食欲をなくしてしまうかもしれないことを思い、エレナはあえて穏やかにボコに提案する。いつもにこやかに笑う夫の笑顔の理由が、少しだけわかるような気がした。
『えーと、ジュノウさん? よろしくッス』
『おい。新入り。ワシらに上下関係は無しじゃ。その話し方やめろ』
『へへっ。ボスがお前もひとりで取り立てしてこいって』
『そうか。やっとボコも一人前か。めでたいのう。今日はワシが奢ってやる』
『いてて……ちっくしょー。あいつらいきなり殴りやがって』
『だれにやられたんじゃ! クソッ、ワシが絶対かたきを打ってやるからな。千倍返しじゃ』
ジュノウは遠い昔のことを思い出していた。それはカビが生えるほど古い記憶であった。
人目の付かない草むら、彼は躯を大の字にして、かれこれ一時間ほど空を見上げている。ひんやりとした地面が冷たくて心地よかった。しかし、こんなところで寝ていたいわけではない。情けない話ではあるが、起き上がれないのである。全身傷だらけ、躯のあちこちが、そして何より胸が痛んだ。こんな時どんな顔をしていいのか、彼には解らなかった。
「……なんでじゃ」
ボコはぎりぎりのところで逃げ出した。スラム一のならず者ジュノウの息を止めるその一歩手前。それが悔しくて仕方がなかった。
ジュノウはずっとスラムの王の背中を追ってきた。誰よりも一味のために動き、尽くし、手を汚して来たつもりであった。しかし選ばれたのは自分ではなくデコとボコであった。自分の足りないところは解っていた。至らないところも、良くないところも、取り仕切る器で無いことも全部解っていた。
「なんでじゃ」
ジュノウは震える手で自らの顔を覆う。一味の取り仕切り役になりたいわけではない。ただただ焦がれたスラムの王に選ばれたかった。悔しくて悔しくて張り裂けそうな夜をいくつも過ごした。ボコに嫉妬していた。憧れのスラムの王が去った今、この機会にボコを痛めつけて自分は一味を抜けようと思っていた。なのに……こんなのはあんまりじゃないか。自分より強い男に着いていくジュノウの主義。これでは金貸しの一味を抜けられないではないか。
※
「いてて。しみるぅぅぅ」
「じっとしてくれ。あんまり暴れられると手もとが狂うだろう。うっかりピンセットで傷口をえぐったらどうするんだ」
さらりと怖いことを言いながら、エレナは消毒液を染み込ませたガーゼでボコの口内の傷口を撫でる。傷にしみたのだろう、大口を開けたボコがまたじたばたと暴れた。
「まったく、一体何をどうしたらこんなことになるんだ」
「いやー、オレもよく分かんないんスけどー」
「ボコ……きみの悲しそうな笑顔は、初めて見たよ」
「え? 勝ったのに悲しいはず無いじゃん、何言ってんの? あははは」
実際、ボコは自分がどんな気持ちだったのかなんて今となっては解らなかった。けれども殴られた傷より、殴った拳のほうが痛むものである。
「エレナ。どいて。あとはぼくがやるよ」
「わっ! あっ、ちょまっ」
「エレナの手当は受けれて、ぼくの手当は受けられないっていうのかい? ばーかばーか」
罵りながらもルーシィはボコの躯に包帯を巻く。意識し始めてしまうと、女性経験のないボコのスケベも型なしである。ニヤニヤしたまま随分と嬉しそうな『わっ! あっ、ちょまっ』である。
「ボコ、こういうことはあまり言いたくたいのだけれど……。これ以上ルーシィを連れ回すのは辞めて欲しいんだ。正直心臓に悪いし、待っている方も辛い。それに、わざわざ外に出かければ、また別の事件が引き起こされるかもしれない。ルーシィもだよ。もう少し狙われていることを自覚して。部屋で大人しくしていたほうがいい」
ルーシィやボコの傷つく姿を見るのだって胸が痛むのだ。本当にヘルトゥは大丈夫なのだろうか。ここにはいない夫のことを思い、エレナは唇を噛む。もしも夫に何かあったとしたら、エレナは平静でいられる自信がない。
「それが、連れ回してるってゆーか、ルーシィが勝手に着いてくるとゆーか」
ルーシィはオレに惚れてる説を信じて疑わないボコ。隠しても隠しきれぬニマニマが鬱陶しい。
「ぼくはきみのことを思って着いていってあげてるんだ。ありがたいと思ってくれたまえ」