カノン
20.
にゃーん。
ハッと我に返るルーシィの目の前を黒猫が横切る。辺りを見渡せば、五体満足で前を歩くボコとシャロン。それと、なだらかな斜面にぽつぽつと幾つかの露店商が、静かに店を構えている。――これはもしかして。ルーシィはその露店を覗こうと駆け出そうとし石ころにつまずきそうになる。とっさに支えるボコ。
「ちょ、危っ」
「あそこの露店で確かめたいことがあるんだ」
「そんなのあとであとで」
「…………」
間違いない。ルーシィは今まで起きていたことが全て白昼夢の中での出来事なのだと確信した。大丈夫。こんなこと慣れている。大丈夫。年単位で遡らなくてよかった。大丈夫。大丈夫。大丈夫。……大丈夫なものか。慣れるものか。何が神託だ。
「ボコ。ぼくはあそこの露店でアクセサリーが買いたいのだけど、いいかな。お願いだよ。ボコ」
その後に続くボコやルーシィの反応もまったく同じ。ルーシィは迷わず夢の中で見たももいろと水色の石を買い、ももいろの方をボコに渡し、もうひとつをシャロンに渡す。
「これぼくからのプレゼント。ふたりとも仲良くね」
「プレゼントって、オレが貸した金だし!」
ルーシィは神託と少しだけ違うことをした。ルーシィが別の行動をすれば、世界はまた別の道筋を辿る。彼ら人間が神託と呼ぶものは、未来を予知するものではない。予測するものなのである。些細なことで先に起こる出来事が変わるのだ。目的地にさえ行かなければ間違いないのであるが、ルーシィは経験上変えられることと、変えられないことがあることを知っている。この手の使命感が突き動かすようなイベント事は、どう変えようとも自動操縦で操られるよう同じ場所に、それはもうまるで自殺でもするように、容易く吸い込まれていく。ルーシィは、これを運命と名付けた。ドレスコーズ邸に向かうことは変えられない。ボコは既に運命に引き寄せられている。引きずられている。運命とはこんなにも素っ気ないのだ。
一度運命に引きずられた者を止めることは難しい。例えばあそこでボコが走り出さなければ別のタイミングで狙撃され、或いはここでボコを気絶させて行かせなくても何らかの要因で命を落とすかもしれない。否……飽く迄も渦中。未だに乗り越えることのないボコの死。何百と見てきた死のパターン。死に惹かれ行くボコの魂。
「……もう逃げるのはたくさんだ。ボコ……話しておきたいことがある」
いいかい? ボコ、シャロン、よく聞いて。これから話すことはとても大切なことなんだ。
※
下手に動けば、それは死を意味する。デコは冷静に状況を分析し、仲間たちが動かないよう的確に指示を出す。ドレスコーズファミリーの関係者だけで数の上では有利、しかし相手は仲間の死さえ恐れぬ者たち。相手にして何ひとつとして良いことはない。割りに合わないことに巻き込まれてしまったものである。安易に動けば、誰かが傷つく。
こんな時、いつだって一番に傷つくのはジュノウである。赤茶けた陽の光が、天上と天下を分かつ雲の陰に隠れ、世界から色が失われた刹那、金貸し一味の牙は動く。
「待て。ジュノウ」
「我りゃあ、いつもそうやって、ぼやっとしすぎなんじゃ。誰も傷つかずに守れるもんなんて、なにひとつないからのぅ」
乱暴ではあるが静かに云い捨てるジュノウ。ジャケットを脱ぎ、地に放るその後ろ姿は、まるでかつてのスラムの王のようであった。
”誰も傷つかずに守れるものはない”。
そんなことは、デコにだって分かっている。やむを得ないことは往々にしてよくあり、幾度も経験してきた。だからといって、無駄に傷つく必要も無い。どうすれば切り捨てるものが最小で済むか。デコは、状況が許すなかで最大限、それを考えたいと思うのだが。
狙撃手の照準が一斉に向く前に、獣は駆け出す。ミサイルの如く誰よりも速く。一味の中での彼の役割は、無秩序と混沌。金貸し一味の中で誰よりも先に手を汚すことを自らの使命だと思っているのである。目標はリーダーであろうサングラスの女。鋭利なあご先にある特大ホクロを目印に走る。リーダー格のホクロ女は、迫り来るジュノウに気づき軽く鼻を鳴らす。
不意に目が合うジュノウとホクロの女。両肩に棲まうトライバルの狼が鮮明な死の匂いを嗅ぎとる。流れるような動作で、女が指揮者のように狙撃手に合図を送る。よく訓練された狙撃手が数カ所から同時に銃弾を放つまでの時間は、まさにカンマ。ジュノウは反応できないでいた。軽い砂煙が舞い上がるドレスコーズ邸の庭。まさに紙一重。
「すまんのう。デコ」
「いや。ジュノウが正しい」
ジュノウを突き飛ばし庇ったのは、デコの大きな肩であった。デコに怪我が無いことを確認しほっとするジュノウ。しかし安心することなどできはしなかった。
「誰が動いていいなんて言ったんだい?」
銃弾はフェイク。砂煙に紛れ獲物を捕らえた蛇の如くジュノウとデコに襲いかかるホクロの女は、じつに楽しそうになんの躊躇いも無く、自らが携えた突撃銃のトリガーを引こうとする。だが実行することはできなかった。
ぽとり。地面に落ちたのは、女の人差し指と、女の血と、弾かれた銃と、日の光を反射するナイフ。
「おや、このナイフ……」
「オレが来たからには大丈夫!」
なぜだか酷く懐かしく掠れたテノール。声の主は謎のヒーロー感ある台詞を吐き出しつつもその姿を露わにする。デコはドレスコーズ邸のトンネルみたいな入り口付近に、相棒であるボコの姿を確認する。距離にしておよそ大股で歩いて三十歩ほど。さすがナイフの名手、ナイフの射程距離としてはあまりに遠い距離。まさに曲芸。ご機嫌なトリックスターの降臨である。そしてボコの傍には、シャロンと金貸しの一味の面々が見たことのない少女がいた。
絶妙なタイミングでデコたちと再会したボコ。ここからはルーシィの見たことのない世界。誰も知らない最新の未来。まだ見ぬ結末であり、後戻りできない現実である。結果オーライ、ぶっつけ本番ショータイムの開始であった。
「ルーシィ。やっと見つけた」
傷つき血濡れた右手を庇いながらサングラスを外すホク子。まるで兎みたいに真っ赤に充血したその両目が露わになる。ホク子がルーシィに気を取られた隙を見逃さなかったのはデコ。ホク子の腕を掴む。ホク子は抵抗するがビクともしない。金貸し一味のデコ。その頑丈さはスラムの王すら凌駕する。吠え立てることはしないとはいえ、スラムの象徴たる金貸しの一味を束ねるものが、ただの温厚な羊であるはずもないのだ。
「しゃらくさいよ」
ホク子は修道服の中に隠していた刀剣状の暗器でデコを斬りつけようとするも、片手で受け止められる。これだけ接近していれば、狙撃手も聖歌隊もデコを狙うこともできはしない。
ホク子の腕力は凄まじく、大柄で男性のデコさえも凌ぐものであった。しかしながら、デコもただ力が強いだけの木偶の坊ではない。冷静にして聡明。便利屋ディエゴのような狡猾さはないものの、瞬時に最善を選び最悪を回避する。しかしホク子がまだ隠しもっていそうな暗器に警戒し、決め手には欠けていた。傷ひとつでも付けられれば、猛毒で命を落としかねない。
その間、ちょこまかと投げたナイフをちゃっかり回収するボコ。デコと目が合い片腕をひょいと掲げる。
「事情は概ね聞いてる」
ホク子と向き合いながらデコ。ボコの乱入に部下に守られて下がっていたドレスコーズが前に出る。「銀狼の後を継ぐ者。やっとふたり揃ったか」と顎をしゃくりあげる。しかしボコはキョトンとした表情で「おっさん誰っけ」と場を凍りつかせた。
「ドレスコーズ氏はスラムの代表のひとりだ」
「だいひょー。……あ、昔ボスに泣かされたことないスか?」
能天気ででかいボコの声に、辺りの時が止まった。これでは天下の獅子王も形無しである。赤面する大男のドレスコーズ。ホク子は僅かな心の隙を突き、デコの手を逃れ距離をやや大きく取る。