ラ・カンパネッラ
2.
りんごーん。りんごーん。教会より夕刻を告げる鐘が鳴る。一仕事終えたボコとシャロンは、淡黄色の花が疎らに咲く川沿いの小道を歩き、事務所へ向かう。西に暮れ泥む太陽は、ふたりの影を長く伸ばす。
「債務者と格闘したのに元気ですねぇ。それにしても結局あれ全部嘘でしたね。無事取り立てられて良かった」
「まー、最初から嘘だって分かってたけどな」
「え? 騙されてましたよね?」
「ばっ……分かってないなー。シャロンは! あれはああいう作戦! 騙されたフリだから!」
「はいはい。センパイはすごいですねぇ」
シャロンはチラと横目で先輩を映す。彼はどこまでも元気であった。小刻みに河原の飛び石を飛び越えるボコを、母親のような心境で眺めると、自分がどっと老け込んだような錯覚に陥り、自虐的な苦笑いが漏れる。
「ほーら、近道近道。シャロンも早く来いよぉ」
先輩のチョイスする近道とやらのお陰で日が沈む前に、アジトに辿り着く。次の休みをゆっくり寝て過ごそうと固く心に誓う。トコトコとシャロンを置いて、ひとり軽快に階段を駆け上がるボコ。木製の扉を開け放ち、仕事仲間に挨拶をする。
「今帰ったぞー。さぁ、みんな飲みにいこう」
ボコは張り切って言うものの、アジトの中は既にひとりしかいなかった。
「やあ、ボコお帰り。デコは今日約束があるから先に帰るって言ってたよ」
デスクに座り帳簿を付けていた太ったメガネの男が、アジトに帰還したボコをお菓子を食べながら出迎える。
「なぬっ、ハルビックには残業させて、さては彼女との約束か!」
「ははっ、それはボコが妬んでいるだけっしょ。いいや、違うよ。なんかディエゴの旦那から誘われたらしいよ」
「ん? そーなの? うちになんの用があるんだろ」
「さぁね。あの人全然考えてること解からないからねぇ。それより、おいらももう終わり。良かったらピザでも食べに行こうよ」
シモン・ハルビック。彼はボコと同じく古株で、金貸しにあるまじき穏やかな性格をしている。しかし、ボコは彼のもつニッチな知識と、常軌を逸した変態性、そして何より女性経験が無いことから、古くから馬が合い、よく食事などを共にしている。
「わたしもご一緒してもいいかしら。先輩方」
「えっと、おいら達、大概女子には聞かせられない卑猥な話をしているから辞めておいた方が……」
「ハルビック先輩。この人はね、今日、財布忘れて一文もないんですよ。どの口が飲みに行こうと言ってるんだか。わたしを連れていかないと高く付きますからね」
♪
逢魔が時とは、よく言ったもので、この時間は、思いもしない魔が降って来そうで恐ろしい。黄昏時の薄暗い店内、人と向かい合うカウンター席を避けテーブル席でひとりグラスを傾けるのは、髪の毛を全て剃り落とした強面の大男であった。
渾名をデコ。ボコの相棒であると同時に、スラムの王の右腕であった男である。実質、スラムの王が去った組織の現代表だ。
チクタクと時を刻む針の音が、静かな店内にこだましている。約束の時刻はとうに過ぎている。どんな大切な約束よりも、目の前の相手を優先する彼は、いつになったらここに来るのか。そこからデコが待つこと更に数刻。
「すまない。待たせたなデコ。暗い店内でサングラスとは、相変わらずだな」
「これ掛けてないと相手に舐められるもので。それより用件はなんですか? ただ飲もうってわけじゃないんでしょう」
「ああ、ちょいと仕事を頼みたくてねぇ」
「うちは金貸しですよ。幾らご入り用で?」
「マスター。いつものを」
デコの言葉を遮るようにされるオーダー。デコだって、ディエゴがわざわざ自分たちに金を借りにきたのだなんて、さらさら思ってはいない。ディエゴ・フェルナンド。彼は表向きは簡素な事務所で探偵業を営んでいる男。しかしその実、情報屋でもあり、もっと言えばこの国の闇に最も近い人間のひとりである。化かし合いになれば、きっと彼が一枚上手なのであろう。相変わらず全身からは、ただ者ではないオーラが漲っている。デコほどの上背はないが、服の上からでも筋肉質と解る逞しい身体つき、綺麗に束ねられた長髪、柔らかくも隙のない物腰。この男といると、不思議な気分にさせられる。降魔が時とはよく言ったものだ。魔を呼び寄せるのは、大概にしてこの類の人物なのであろう。
手元に酒の入ったグラスが来て、それを軽く煽りポツリとディエゴは小声で零す。「デコ。お前が仕えていたスラムの王はもう帰らないんだろう? 私のところに来る気は無いか?」とグラスを木製のカウンターに置く。デコは狼狽えることなく、己のグラスに口を付ける。
「面白い冗談ですね。それで本題は?」
「これは年長者からの細やかなアドバイスなのだが、もしも本当に面白いなら、面白そうな顔はするものだ。デコ。お前の唯一の欠点だ。その辺はボコを見習え」
グラスに苦笑いを注いで、それを飲み干す情報屋。バーテンにお代わりを貰う。デコはへらへら笑う相棒の顔を頭に思い描く。言われなくたって、ボコの凄いところは、誰よりも知っているつもりであった。
「正真正銘そっちが本音で本題だ。優秀な助手が欲しくてね」
「えっと、それじゃあ、本題じゃない方お願いします」
暫しの沈黙。ふたりでいるうちひとりが無口だと、こんなにも容易く沈黙が産声を上げてしまう。ディエゴ・フェルナンドは、暫しグラスの酒を眺め、吟味し、言葉を選ぶ。バーのマスターは気を利かせたのか、静かな店内に音楽を掛ける。スイッチを押すとジュークボックスの内部にある黒の円盤がくるくる回り、円盤の小さな溝に、ダイヤモンドの針が走る。軽快に鳴るのは、ノイズの乗ったモダンミュージック。
「ドレスコーズファミリーの幹部が何者かに殺された。名は鉄腕のゴーギャン」
ほんの数年前まで、この国は長らく、王政によって存続していた。しかし何もかも、永劫には続かない。ひとりの暴王により国は傾き、立ち上がった国民が革命を起こし、王政は滅んだ。
その後、とある旅人が民主主義を説き、人々はそれに賛同した。貴族、教会、市民、スラムから代表がそれぞれ選ばれ、政治に携わることになった。スラムの最高権力者、即ちデコやボコが仕えていたスラムの王は、スラムの代表を辞退したため、スラムからは幾つかの派閥の長がスラムの代表として名乗りをあげた。
そのうちのひとつが、”ドレスコーズファミリー”である。
「初耳です」
「王の右腕とまで謳われた、デコが知らないとはな」
「買い被り過ぎです」
スラムの王が去った今の彼らには、もうスラムの覇権争いに加わる力などなければ、そもそも国政や権力になど端っから興味などない。今も昔も、しがないただの金貸しなのである。ドレスコーズの連中が街で大きな顔するのは、面白くないと意を唱える仲間もいるが、かと言って国政に関わる気も更々ないのである。
「ドレスコーズ氏は今躍起になって犯人を追っている。仲間意識の高い連中だ。必ずや一波乱あるだろう」
「うちらには関係の無いことです」
関わり合いになりたく無いと暗に示すデコに対して、酒に口を付ける隙も、付け入る隙も与えはしないディエゴは一定の抑揚で、
「今、スラムは節目にある。歴史の歯車が動こうとしている。今からお前に頼む案件はそう云う話だ。この混乱に乗じて、先代の代わりにデコ。お前がスラムの覇者になってみないか?」
と、まるで練習でもしていたかのような、酒気を感じない明瞭な台詞を、詰まることなく呪文のように唱えた。デコは言葉を失った。この男、何をいけしゃあしゃあと……。ディエゴ・フェルナンドは、今とんでもない面倒を、自分に押し付けようとしているではないか。どうせこの男のことだ。スラムのトップに立つと言うかとが、どういうことなのかは、理解しているのであろう。メリットとデメリットを天秤に掛けたところで、権力で得られる名声などに興味が無いからこそ、自分たちは金貸しをしている。仮に手に余る面倒を受け入れたとして、結局のところ、巡り巡って彼の興をくすぐるような仕掛けが、既に張り巡らされているに違いないのだ。
勿論こちらが断ることなんて、目の前の男はとうに先読みしていることであろう。それでいて二手も三手も先を読み、きっと呼び出した時点で、既に手札を揃えた彼にデコは詰まされていたのであろう。とんだイカサマディーラーである。
どうやら逢魔が時というやつは、とんでもない魔を連れてきてしまったようだった。茜色だった窓の外は、次第に暗幕で覆われていく。