小フーガ ト短調
19.
ドレスコーズ邸は比較的スラム南部にある砂漠の近くに位置する。市街地に近い金貸したちのアジトからは、けっこうな距離があり徒歩で行くには骨が折れる。お喋りに花を咲き散らかせば、秋には色づき、冬に枯れ果て、春にはまた芽吹くという起承転結が全て語れるほどの時間があったが、ルーシィというイレギュラーを挟んだことにより、シャロンは余所余所しくも白々しい相槌を挟むばかりであった。
すっかりと自分をスラムの住人だと思い込んでいたシャロン。なのに日頃来ることの無きスラムの奥深くは、昼間なのに酷く薄暗く感じる。足を踏み入れたスラムの深淵。見渡せば、からからに枯れ果てた剥き出しの地肌に、気持ちばかりの細い草木、点在する風が吹けば崩れ落ちそうな家々と生気を感じない人々。かつてはもう少し活気があったのであろうか。自分がスラムだと思っていた金貸しのアジト周辺と比べ、何かピースが欠けているような不安定感が辺り一帯に漂っていた。
「この服動きずれー」
「あっ、またシャツ出してる。きちんと仕舞ってくーだーさーい!」
「ちょ、これわざと出してんの!」
自分の格好に酷く窮屈そうにするボコ。シャロンとしては当分その格好でいて欲しいなぁ、と思った。
「ねえねえ、ボコ。見て猫がいる」
ひとり後ろを歩いていたルーシィは、おもむろにボコのスーツの裾を掴む。短い付き合いとは言え、濃い時間を過ごしてきたボコとルーシィのことを、なんとなく察するシャロン。ふいに目の前を「にゃー」と、不吉な黒猫が横切る。黒猫はまるで獲物の鼠でも見るかのような目つきで、こちらをチラ見チェック。ルーシィがくちびるを尖らせ、手を差し出しチッチッチとこちらに招こうとすると、猫はそっぽを向きどこかに行ってしまう。それを追いかけようと手を伸ばすルーシィ。道端の石ころにつまずきそうになる。とっさにそれを支えるボコ。
「ちょ、危っ」
「あそこの露店で飼われている猫みたいだよ。ちょっと見てきてもいいかな」
「そんなのあとであとで」
「ボコは昨日もそう言って、連れていってくれなかったじゃないか」
ルーシィの指差す方は、なだらかな斜面にぽつぽつと幾つかの露店商が、静かに店を構えている。スラムの中でも騒がしい昼市なんかと違い、随分と穏やかな時がそこに流れていた。ルーシィの目は、その幾つか在る露店のうち、所狭しと並べられた色彩豊かで透き通った石のアクセサリーに釘付けになっている。
「ボコ、ぼく、あの石がほしい。買いに行こう」
「もー! オレはやく仕事行かないと」
「ああ神託が! ここでぼくについてくるとすごい美人との出会いがある」
「しゃーないからちょっとだけついてく」
反射で答えてしまってから、ボコはシャロンの存在を思い出した。日頃からがみがみと時間に煩いシャロンである。何か言われやしないかと顔色をチラと伺えば、好きにしろとシャロンは目を瞑る。
「シャロン、すぐ済むから待ってて!」
「あ、ああ、はい。はい。待ってます」
ボコの手を取り駆け出すルーシィに、餌を食べていた黒猫は逃げ出し不吉はその姿を消す。露店であれこれとお宝の山を眺めるルーシィに「すごい美人との出会いっていつ?」と、相も変わらず身も蓋もデリカシーの欠片もないボコ。そんな言葉を無視し、きらきらした瞳でルーシィは並べられた石ころを物色している。
「ところでぼく、持ち合わせが無いのだけれども」
「金がなきゃ物は買えないの」
「ここでこれを買うとボコがすごい美人と出会……」
「貸すだけな! ちゃんと返せよ!」
ボコはポケットからコインを数枚出し、ルーシィはそれを嬉しそうに受け取る。シャロンはそんな目を宝石みたくきらきらさせたルーシィから、自分の濁った目を逸らす。逸らした先には不気味なほど透明の青空、流れる白、くすんだ色の露店ののぼりが砂埃の混じった風にかたかた揺れる。
「ねぇねぇ、ボコ。見てくれたまえ。凄く綺麗だと思うのだけれども」
ルーシィはちょっとひび割れているけれど、透き通った石のペンダントをボコに見せる。水色の石が埋め込まれたペンダントに、桃色の石の入ったペンダント。
「これは、世話になっているお礼だ。ありがたく受け取りたまえ」
「いや、それ買ったの、オレがたった今貸した金だし!」
ルーシィから手渡されたももいろの方のペンダント。ボコはまじまじと見る。趣味ではないが、スラムにしては中々小洒落たデザインのアクセサリーだなぁと思ったのもつかの間、よくよく目を凝らしてみると、なんとも余計なことに、石の中央には幼児がデザインしたような可愛らしい顔が入っていた。流石スラムクオリティで微笑ましいかぎりであった。
「なんか、このももいろでまるいの、何かに似てね?」
「んん? 解らない。何かあったけ」
「いや、気のせいか。それより急がねーと」
♪
――ドレスコーズの屋敷から直ぐ側にある空き家のひとつに、彼らは息を殺し身を潜めていた。
「後輩のアンネがお世話になってます。知る人ぞ知る伝説の捜査官とご一緒できて光栄です」
と、まだ若い健康的で浅黒い顔の捜査官。軍用に勝るとも劣らないご大層な突撃銃を携えている。金貸しのアジトから直接ここに来たイワコシは、数年振りに身に纏う防弾防刃を兼ねたタクティカルベストの重たさに普段よりも不機嫌であった。
「近頃の若ぇのは、口ばっか達者で信用できん。こいつは本当に使えるのか? なあハワード」
丁寧に装備を確認していたハワードと呼ばれた初老の男は、不意にイワコシに振られ作業を中断する。彼はポリシア特別治安維持班の班長で、階級はイワコシより上である。
祖国の業。それは一介の捜査官の手には余るテロリストである。ゴーギャン殺害事件の真相を追っていたイワコシは、受け持つヤマの最大イベントであるゴーギャンの葬儀セレモニーに、件の組織が現れると読んでいた。それは熟練した捜査官の長年の勘であった。
総力をあげて祖国の業を追っていたポリシアではあるが、根拠のないイワコシの勘に寄越したのは特殊部隊ではなく、ポリシアのお荷物『特別治安維持班』の面々だった。彼らは交通整理から凶悪犯の捜査まで、関わりたくない面倒ばかりを押し付けられる、程の良い何でも屋である。
「イワさん。心配要らないですよ。彼はうちじゃ一番の切れ者です。なぁ、カーンくん……」
「しゃらくせぇ。使えるかも解らねぇ若けぇのの名前なんぞ覚えられるか。それよりひとり足りねぇじゃねぇか」
――カーンか。嫌な名前してやがる。
ダイスケ・アミール・カーン。その名を耳にしたことがないわけではなかった。運命の女神のお導きってやつも馬鹿にはできない。
ひい、ふう、みぃ、と目視で点呼を取るイワコシ。何度数えても予め訊いていた人数にひとり足りない。ハワードはそんなイワコシから目を逸らす。どうにも後ろめたいことがあるように思える。
その時である。ガチャリ。ぶるるん。突然ポリシアの仮設基地となっていた空き家の扉が開く。あくまで身を潜めていた十人弱全員がそれに反応し、銃を抜き照準を侵入者に向ける。侵入者はあっさりとホールドアップ。ぶるるん。ぼよよん。一番に目が行ったのは、窮屈そうに服の下から今にも飛び出しそうな大きな胸。森羅万象を威嚇するほど暴力的で理想的な形であった。
「す、すいません。張り込み用のアンパンを買っていたら、道に迷ってしまって……遅れました。私は……」
「小娘の名前なんてどうでもいい」
本来ならば重要作戦に遅刻など言語道断であるが、その辺はあくまで厄介者の吹き溜まりである特別治安維持班。寧ろ女のあまりにもの理想的な胸に、一同から「ふぃー」と歓喜の声が上がる。作戦前に不要な緊張感が抜けリラックスする面々。しきりに浅黒い肌の男は他人の振りをし、上司であるハワードは両手で顔を覆い、何やらぶつぶつ呟いていた。
イワコシは名簿を確認する。東方の文字で咲くと書きサキ。皮肉にもイワコシの咲くことのできなかった最愛の孫と同じ名であった。
やれやれとイワコシが全員を確認し、煙草に火を点けようとしたまさにその時、通信機からけたたましい音が鳴り響く。先に単身でドレスコーズ邸に潜入していたリヴェラからである。
――ついに来たか。
いつになく緊張した面持ちで、イワコシはその通信機を取る。ピッ……ブー……。
――あーあー。テステス。イワさん聴こえますぅー? 聴こえますねー?
さー、リヴェラチャンネルをご視聴の皆さま。こんにちは。パーソナリティを務めるのは、全オフィーリア国民の花、わたくしDJリヴェラがお送りいたします。本日は記念すべき第一回リヴェラチャンネル放送の日、いかがお過ごしでしょうか。
さて、オフィーリア時刻はまもなくお昼を回ります。ついに祖国の業が来ましたね。先程から、庭の各所に銃をもったシスターが何人も身を潜めています。数はあたしが確認しただけでシスターが十に、リーダーっぽい人のところに子供が十の合計二十。
おっと、なんか庭で何やらドレスコーズたちと、そのリーダーっぽいやつが、かち合ってる。なんだろ。
ああああああああああぁぁぁぁ、子供爆ぜたぁぁぁぁ。
聴こえました? 聴こえました? 今の音。やっばいですよー。あいつらいたいけな子供たちに爆弾仕掛けています。
……あいつらぜったい赦せない。
早く突入してくださいね。あたしはひとりでも多くの命を救います。オーバー。
♪
ぶるるん。ぽよよん。ルーシィが歩くたびブラウス越しに形の良い胸が揺れる。ルーシィはその胸元に掛けられたももいろのペンダントを大事そうに眺めながら、鼻歌なんて歌っちゃってご機嫌である。
やっと辿り着いたドレスコーズの屋敷。トンネルみたいに長い入り口を抜けると広い庭に出る。ボコの隣を歩いていたシャロンは、暗がりにいて目が慣れないのか、眩しそうに手の甲で眉の下に影をつける。
「おっ、あれデコじゃねー?」
随分久し振りにデコを見る気がするが、あの頭を見れば遠目にでも一目で解る。ひとり後ろを歩いていたルーシィは、黙ったまま目をしかめている。恐らくは一際目立つ修道服姿の女の方を見ている。
「……ホク子さん。やっぱりいたか」
買ったばかりの首から下げたペンダント。ルーシィはペンダントトップの先をぎゅっと握りしめる。そんなルーシィに気づいたボコ「じゃ! あとでな」と白い歯を見せ駆け出す。
「おーい。デコぉぉぉ。ハールビーック」
まるで恋人とでも再会するかのよう、嬉しそうにボコはルーシィとシャロンを置いていく。
「だめだ。ボコ! 行かないで」
ルーシィは、自身も走り手を伸ばすが時すでに遅し、その手は空を切る。ルーシィの足ではボコを追うことはできない。ボコに気づく一味の面々。デコ、ハルビック、ジュノウ、ブリュレ。そして修道服を纏うシスターホク子の視界がボコを捉え、彼女は顎のホクロをさらりとひと撫で。
――彼方の方角から、デコとボコの再会を切り裂く銃弾。物陰に隠れたホク子の部下が狙撃銃のトリガーを引いた刹那、音も無くボコの首筋にある血管が裂けた。桜の花びらみたく、春のうららにひらりと舞った真っ赤な血で、顔と衣服を濡らしたルーシィが、がくりと膝を落とす。何が起きたのかさえ解らないシャロン。血と硝煙の匂いが混じり合う。