クープランの墓
18.
金貸し一味のオンボロアジト。
不思議な沈黙。ルーシィの目の前にいる灰緑は、どこかそわそわし目のやり場に困っているようであった。
着替えを終えたボコ。――ああ、これだ。ボコの出で立ちは、ルーシィが視たあの夢のワンシーンと同一である。奇しくも天より神託などと言う眉唾なものを授かってしまったルーシィ。未来とは不変のものであり、それは古来より普遍の認識である。ならば自分がしているのは、未来予知では無く、未来予測に当てはまる。つまる話が演算である。自分の身体の中には、確固たる、高度なテクノロジーともよく似た機関が存在していることを、ルーシィは知っていた。
「ルーシィさんは部外者だから、着いてこないでくださいね」
相変わらずルーシィと目を合わせない灰緑。教会にいた人見知りの義妹を思い出し、そんな彼女を可愛く思った。
「すまないが、それは出来ない相談だ。もっともボコがそこに行かなければ、話は早いのだけれど」
「それは無理! オレいないとしまんないし」
馬子にも衣装。ソファと椅子に腰掛けるふたりのレディの前に立つは、中々にして端正な見栄えの青年であった。色素の薄い頰を仄かに赤らめるシャロンを横目でチラリ。ツボに刺さったようで何よりと、ルーシィは小さく笑う。
「似合うじゃないかボコ」
オーバーに褒め称えるルーシィとは裏腹にシャロンはコホンと咳払い。本音と要望を込めたダメ出しを始める。
「全然ダメです。もっとシュッと背筋伸ばしてください。猫背過ぎ。あと寝癖ついてるじゃないですか! ちょっとここに座って」
ボコを無理やり座らせるシャロン。鞄から自前の整髪料を取り出し、ボコの髪の毛に塗りたくる。アジトの中をピュアな花の香りが広がる。子犬みたいに嫌そうに抵抗するボコと、それを押さえつけるシャロンが、なんとも微笑ましい。彼女の白い指先は、慈しむようにボコの少し硬い髪の毛を掻き分けて行く。
「ボコ。真面目に聞いて欲しい。ぼくの神託が当たることをきみも知っているはずだ。行けばきみは死ぬかもしれない。それでもきみは行くのかい?」
ルーシィはあまり感情を挟まない静かな口調で、ボコにそう尋ねた。すると眉間に皺を寄せたシャロンが、口を挟んでくる。
「ちょっと。失礼じゃないですか。人に向かって死ぬだとか」
「シャロンと言ったね。きみからしたら、これはぼくの妄言かもしれない。しかし、それでも命を失う可能性がある場所に、ボコを行かせるのかい? 命を賭けるほど重要なことなのかい?」
どこまでも滑らかな口調のルーシィ。「そ、それは……」そう問われると、二の句を告げられなくなるシャロンとそれを見て苦笑いのボコ。実際見なければ信じられないのであろう。否、見たところで、おいそれと信じられない。人は自らが培った常識を覆すのに、暫しの時間を要するものである。
「そんな胡散臭いのは、わたしは信じませんからね。どのみちこのまま仕事サボりっぱなしじゃ、他のメンバーに示しがつきません。信頼関係が崩れてデコボココンビが解消になったら、ボコ先輩なんて、結局死んだも同然です」
「いやオレ単体にも価値はあるっしょ⁉︎ んでも、そーゆーわけだから。真面目に働くのオレの良いトコロだし。オレ行くよ。大丈夫、可愛い彼女ができるまでは死なないって決めてっし!」
結局のところ、ルーシィの力を知っているボコでさえ、自らに近づく死の足音を実感できずにいる。無理もない。ルーシィは自分でさえ、神託なんてものを信じていない。信じたくはない。
ルーシィの前頭葉で幾度となく鮮明に再生され続けてきたボコの死。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もルーシィの夢の中で、ボコは死んだ。彼女がまだ小さな頃から何度もである。出会う遥か以前より、ある時はルーシィを守り、またある時は無鉄砲に危険に飛び込み、ルーシィの気が狂ってしまいそうなほど、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し死んできたのだ。
――やっと出会えたボコ。必ずぼくが守ってみせるから。
♪
りんごーん。りんごーん。彼方にある教会の鐘。丁度、陽の光が真上から垂直に降り注ぐ頃に、アウトローたちのセレモニーは開幕する。革命以降、スラムで執り行われた葬儀の中では、最大規模のものである。デコたちのように喪服を調達してきた者は少数で、スラムの顔役たちは、思い思いの服装に身を包んでいた。赤青黄色と実にカラフルである。
大きな欠伸をするハルビック。彼が退屈そうに目をこすっていると、奏者の奏でるオルガンがけたたましく派手な音階を鳴らす。瞬時に眠気が吹っ飛び、彼がまばたきを高速で繰り返すと、開かれた扉から棺が運び込まれる。担いでいるのは、白塗りの男と紳士風の男。棺の中にいるのは、恐らく鉄腕のゴーギャンの亡骸。主役の登場である。
蓋のされていない棺は、ホール中央に置かれる。中は色とりどりの花が敷き詰められていて、中央に腕を胸の前で組み穏やかな顔で眠る大男が横たわっている。身長は比べるまでもなく、デコより頭ひとつ大きいであろう。そしてその左腕には、数々の敵を葬り去ってきたと云われる特徴的な鋼鉄の義手。
「かぁー、悪っそうな顔やなぁ」
「死者のことを悪く言うのはよくない」
デコは悪態を吐くブリュレを咎める。ドレスコーズの手下たちの中には、ゴーギャンの遺体を見て泣き出してしまう者も少なくはない。大の大人の男たち、それも街では極悪人で通っている者たちが泪するのである。ブリュレの態度は些か不謹慎であった。
オルガン奏者が奏でる物悲しい短調の旋律の中、幹部のスピーチがあり、そのあと参列者が棺の中に花を手向けていく。
「我が息子よ。安らかに眠れ」
ゴーギャンに花を手向ける時、ドレスコーズは人目も憚らず、肩と声を震わせ大声で泣いた。みっともなくとも、棺の前で旅立つ手下との別れを惜しむように、動こうとはしなかった。
全ての行程が終了し、全員が行列になりホールにある裏口より、再び広い庭に出る。庭先には黒のリムジンカーが停まっていた。死者は旅立ち、これが永遠の別れである。棺がリムジンカーに収められようとするその時、ドレスコーズの部下が異変に気づく。
「組長。運転手が殺されている」
一筋の風が立ち、不意に流れるレクイエム。輪唱する世にも美しいソプラノアルト天使の歌声。
女神よ
とわの安息を彼に与えてくれ賜れ
絶えることなきひかりで照らし
約束の地まで導き賜れ
女神よ
惜しみない慈悲を彼に与えてくれ賜れ
教養のあるものは気づく。普段教会で歌われる鎮魂歌とは似て非なる音階。闇を孕んだ旋律とでも言うべきか、緊張感を煽るような独特の間があった。
歌声が止むと同時に木々から白い鳩が飛び立つ。歌声のあまりの美しさに一同が木々の下を見やれば、そこには一列に整列するまだ幼い少年少女たち。そして少年少女たちよりも背の高い見慣れた修道服の女……右手には短機関銃を携えていた。
「ちょっと待ちなよ、あんたたち。女神さまの断りなしに、いったいどこ行く気だい?」
その女、黒い修道服の神聖なイメージとは相反するように、真っ赤な口紅を塗り俗的なデザインのサングラスを掛けている。左手にはまだ喫いかけの煙草、そして彼女の尖った鋭利な顎の先には、特徴的な大きなほくろ。
「それにしてもスラムの汚ねぇドブネズミどもは仲良しこよしだねぇ。それなら仲良く女神さまの下に旅立ちな」
煙草を燻らしながら、ドレスコーズに銃を向ける女。
「そのほくろ。貴様……教会の」
「祖国の業のナンバー2が直々に来てやってるんだ。茶ぐらい出しなよ」
女の放つ悍ましくも禍々しい殺気に充てられ、ざわつく一同。その名を口にすることさえ憚られる過激派組織のナンバー2、ホク子・オールグリーン、本人であった。
尻込みしつつも、ドレスコーズの部下は、ホク子たちを取り押さえようと不用意に近づいていく。ホク子は左手の指先で吸っていた煙草を弾く。すると遠くの方から乾いた銃声が鳴り、ドレスコーズの部下のこめかみに小さな穴が空く。彼は脳漿を撒き散らしながら地面に倒れ伏し、あまりに呆気なくその人生を終えたのであった。即死である。それを観たハルビックは、胃の内容物が込み上げて口を押さえている。
「……狙撃手か。やっかいな」
ドレスコーズの一声に、スラムの面々がパニックになる。一目散に逃げ惑うは、ドレスコーズの息の掛かったスラムの顔役たち。
「既にこの屋敷はあたしの部下が占拠したよ。あたしが合図を送れば、あんたたちは蜂の巣だ」
「オールグリーンよ。何が目的だ」
「ルーシィはどこ。ルーシィを返しな。あれはうちらの物だよ」
「……情報が遅いな。もうここにはいない」
「あんた、誰に口を訊いてるんだい?」
目の前のホク子と子供以外、どこにいるかも、何人いるかも見えない敵。数の上ではドレスコーズたちに分があるが、主導権は確実に祖国の業にある。
暫し様子を伺っていたデコに耳打ちをするのは、売られた喧嘩は買う主義のジュノウ。例え相手が小火器をもっていたところで、怯むことはない。
「なあデコ。わしがあの女の背後に回りこむから、注意を引きつけてくれんかのう」
デコが無鉄砲な彼の言葉に、やれやれとネクタイを緩めたところでドレスコーズ陣営に動きがあった。ドレスコーズファミリー。オフィーリア全土に数百人の構成員を誇り、暴力を生業とするスラムの一大組織である。そんな巨大組織の中には、有能な者も数多く存在する。息を殺し、気配を殺し、まことしやかに近づく影。不意打ち故に、女が持っているような上等な銃器は用意できなかったものの、女子供を仕留めるのには、肌身離さず持っている回転式の拳銃で十全である。
影は、まずホク子が連れていた少年少女の聖歌隊を人質にしようと、子供たちに近づく。それが間違いの始まりであった。
男はひとりの少女を捕まえ片腕で拘束し、少女の頭に銃を突きつける。
「おっと、動くな姉ちゃんよ。この子の命が惜しくばな」
「哀れなドブネズミ」
ホク子は、慈愛に満ち溢れた表情で自らの顎先にあるほくろを、指先でそっと撫でる。すると少女はそれに頷き、奥歯に仕込んだ起爆装置を強く強く噛む。少女が緊張するでもなく噛んだそれは、あらかじめ身体中に巻き付けていた爆薬の起爆装置であった。
刹那、少女が爆ぜる
鼓膜を強打する豪音
青にも赤にも見える火柱上がる
流星群のように降り注ぐのは
火花と
血飛沫と
少女と
少女を捕らえた男の躯
焦げた男の腕が
焼け残った少女の顔半分が
どちらのものかも解らぬ眼球が
この地に雨を降らす
女神よ
とわの安息を彼らに与えてくれ賜れ
絶えることなきひかりで照らし
約束の地まで導き賜れ
どうか女神よ
修道服の女、ホク子・オールグリーンは銃を地べたに置き、何かを手繰り紡ぐよう両腕を天高く掲げる。そして両の腕の先にある左右の掌を互いに握り合い、自らの額にぴたりと当てがい、「運命の女神よ。死者の魂を導きたまえ」と教会お得意の口上をシンプルに述べたのであった。