タランテラ
16.
同時刻。夕食を食べ終えたデコとピオニー。食器を片付けようとするピオニーを遮って、「今日は俺がやろう」とテキパキ動き出し、ピオニーの家事で荒れた指先を気遣う。シンクで泡立つスポンジ。きゅっ、きゅっ、きゅっと、リズミカルで粋なメロディ。ピオニーは、たまにこうして台所に立つデコのエプロン姿が好きだった。強面の金貸しのエプロン姿は、こんなにも可愛い。邪魔だとは知りつつも、デコの側に立ち背中や横顔を眺めるピオニー。「どうした?」
「私と一緒の洗い方だなぁと思って」
「そりゃそうだろう」
きゅっ、きゅっ、きゅー。優しい石鹸の匂い。真っ白のお皿は水切り籠に立て掛けられ、シンクの洗い物は瞬く間に無くなる。関心するピオニー。デコは凄いのだ。ものすごく器用というわけではないのに、それでも何かを始めると、こつこつなんでも出来てしまう。なんでもこなしてしまう。知らぬ間に、デコの背中はこんなにも大きくなってしまった。あの日の少年はたくましい男になり、いつしかスラムの王の右腕になり、ついにはスラムの王の後を継いでしまった。「明日は早朝から仕事がある」
「わかったわ」
「送っていこう」
以心伝心、たったこれだけの言葉で全て伝わる。ふたりは上着を着て、玄関を出る。ドアの外は右も左も見えない闇、闇、闇。スラムは眠らない街である。だが都会の『眠らない』とは意味合いが全く違う。街灯なんて殆ど無くて、その代わりと言ってはなんだが、ぎらぎらした悪党の目がいつでも光って街を眠らなくさせている。なんとも治安の悪いスラムの夜。ピオニーは、隣にデコがいるのなら何も怖くはなかった。珍しくピオニーはデコの大きな左手を握る。デコはその手を握り返し、何も言わず闇を突き進む。ピオニーは常々思う。例え目の前が暗闇でもこの大きな背中だけ見て進めばいいのだと。
「ありがとう」
「ああ。きちんと鍵は掛けてくれ。あと……今の仕事が片付いたら、旅行の計画を立てよう」
「ふふっ。楽しみにしてるわ」
それじゃあ。と、デコの背中を見送るピオニー。どんどんと遠くなり、小さくなるその背中。まるでそのまま消えていってしまいそうで怖かった。
「言わなくても何でも伝わるはずなのにね」
♪
「ディエゴさん……やっぱり来ないね」
「んあー」
頭上に敷き詰められた星々。器用に毛布と温かい飲み物の乗ったお盆をもって、窓から屋根によじ登るボコ。ディエゴと待ち合わせのボコの自宅。追われる身としては、割れている恐れのある自宅は危険である。ふたりは窓から屋根によじ登り、星空の下でディエゴを待つが、待てども待てども待ち人は来ず。
くしゅん。夜はまだまだ冷え込む。ルーシィがくしゃみをすると、そっぽを向いたまま、ボコが毛布と温かい飲み物を渡す。鼻をすすり、甘い甘いホットココアに口を付けるルーシィ。
「なぁ、あの騎士のおねーさんが、心配してるだろうし、そろそろ帰ろう」
「もうちょっとだけ」
夜は更けていく。
♪
いつもよりも早起きのデコ。夜も明けきらぬ薄暗い朝であった。冷たい水で顔を洗い、髭と頭を剃り、身支度を整え出かける。
紫掛かった気味の悪い暁の光が、ひと気の無いスラム街に光と影を生み出す。この時間はまだ肌寒く、昨夜から左手に残るピオニーの熱を少しずつ冷ましていく。水はけの悪そうな粗悪な砂利道、石ころを蹴飛ばしアジトに向かう。辿り着くと、入り口ではハルビックが既に待っていた。彼は眠たそうな目を擦りながら、親指で入り口を指差す。
「おはようデコ。ふふん。きちんと全員分揃えたよ」
「ハルビック。世話を掛ける」
待つこと数刻。それぞれ思い思いの方向から三々五々集まるいつものメンバー。不気味な紫の朝焼けは、いつのまにか鮮やかなオレンジに変化し、みずみずしい朝日が降り注いでいた。反対の空には雲の切れ目から青空が覗く。口数の少ないメンバーたちは、それぞれ交代でアジトを使い着替える。
「わたしも行きますからね」
「いやー、だからシャロンは、アジトでボコを待っててくれよ」
「誰が無断欠勤の先輩なんて待ちますか! あんな人知りません」
「俺からも頼む。ボコを待ってやってくれ。ボコは事情を知らない」
「デコさんまで。……わかりました。でも、あんまり遅かったら、わたしもそっちに合流しますからね」
暫しの時が経ち、着替えが終わった面々が顔を並べる。皆黒一色。不吉の黒。スラムで恐れられる金貸し一味が勢ぞろいで、漆黒を身に纏っている。ドブネズミたちの一群。それはそれは壮観で異様な光景であった。道行く者たちは、皆関わらぬよう、一様に目を逸らしている。
「ボコのどチビ以外全員揃いましたな。ほな行きましょか」
ブリュレが暑くもないのに扇子を開く。それを無視して、今一度慎重に全員を確認するデコ。ジュノウは終始不機嫌そうに無言であった。そんな彼らに恐れを知らぬ者が声を掛けた。
「ストーップ。ポリシアよー。あんたたち不良のくせに早起きし過ぎ!」
静けさの残る曙のスラム街に甲高い女の声が響き渡る。言わずとも知れたリヴェラとイワコシであった。
「ポリ公がわしらに何の用じゃ。スラムに足を踏み入れたからには、それ相応の覚悟が出来とるんじゃろうなぁ? ポリ公のねえちゃんよ」
今にも掴み掛かりそうなジュノウを手で制すデコ。
「何か、俺たちにご用で?」
「ボコ。この一味にボコってやついるでしょう? ほら、背のちっこい」
♪
「やっべ! ルーシィ隠れろ。ポリシアのお姉さんだ。しつこい〜」
エレナの店を出る際、またもやお腹いっぱい喧嘩をしたボコとルーシィ。口論の末、ボコは(仕方なく)ルーシィを連れ、今日こそはと、金貸しのアジトにきちんと来ていた。しかし、例のポリシアふたり組に先回りされていたのだ。とっさに物陰に隠れるふたり。ポリシアとデコたちのやりとりを物陰から覗く。
「ボコが何か?」
「指名手配ってやつ。匿うようなら、あんたたちただじゃおかないから」
知らぬ間に指名手配までされていることに驚くボコ。いったいルーシィは何の容疑でポリシアに追われているのであろうか。振り返り、ルーシィの顔を見ても、彼女は首を傾げるだけであった。
「おい、リヴェラ。あんまり挑発するな。それに見ろ」
イワコシはハルビックを指差す。サイズが合う服が無かったのか、ひとりだけだらしのない腹を、スラックスからはみ出させている。
「あいつ……昨日の!?」
「俺たちはまんまといっぱい食わされたようだ。こいつらを問い詰めても無駄だ。スラムの連中は仲間意識だけは高いからな」
「用が無いなら、俺たちは行きますよ」
と、デコ。その後ろでハルビックがぷぷっと吹き出す。その表情の腹たつことと言ったらまさに超一級品。それにキレたリヴェラが掴み掛かる。
「おい! そこのデブちん。お前ぜったい赦さないからな!」
馬乗りになるリヴェラ。それを止めに入るジュノウとイワコシ。
「そっちがその気なら上等じゃあ」
「待て待て、今回は引かせてもらう」
怒り狂うリヴェラを羽交い締めにするイワコシ。言葉でジュノウの方を宥める。
「だってイワさん。見てくださいよ、あの腹たつ顔」
チヒッ。リヴェラに押し倒され、砂で汚れた衣服を手で払いながら、ハルビックは極上のスマイル。とてもいい顔をしていた。リヴェラの怒りは最高潮を振り切る。
「スラムの王の右腕。粋がるなよ」
一括。イワコシはリヴェラを抑え付けつつ、デコを鋭い眼光で睨みつける。静かで、冷たく、そして凄まじい覇気であった。
「俺をご存知で?」
「お前さんのツルツルの頭みりゃ解るさ。いいか? 忘れるな狼の牙を失ったスラムはただの鼠の籠だ。ほれ、うちのリヴェラがご機嫌斜めだ。さっさと消えろ」
デコはイワコシがリヴェラを羽交い締めにしているうちに、仲間たちと移動を始めドレスコーズ邸を目指す。ポリシアでは逸材中の逸材と謳われるリヴェラは、ここ数日間敗北を何度も味わっている。
「あのドクターは仕方ない。あれは化け物だもの。ディエゴさんも仕方ない。超いい男だもの。でもあんなやつに! あんなやつにぃぃぃ!」
悔しそうなリヴェラの声がこだます。凸凹の一味は、そんなことは上の空で、威風堂々とスラムの街をまるで蹂躙するかの如く進軍する。誰も近寄らない金貸したちのパレード。BGMが足りないと、ハルビックが吹き出した口笛は、風に流されていく。やけに耳に馴染むその旋律。ボコがよく歌っているCMソング。『そとはパリッと、なかはノビッと、おもちーだーよー』。ポップでキャッチーなその曲は、途端に重厚なムードの魔曲に早変わり。ハルビックが何の気なしにチョイスした駄菓子のCMソングは、この日を境に、スラムの金貸し達のテーマソングとして語り継がれるようになったのである。
そこから暫し立ち尽くしていたリヴェラとイワコシが、やっといなくなったことを確認して、ボコとルーシィはこっそりとアジトへ向かう。デコたちはあんな格好でどこに出掛けるのであろうか。事情が呑みこめぬまま、取り敢えず中に入ることにする。
「鍵を持っているのだね」
「へへっ、取り仕切り役だからな」
「へぇー。ぼくはてっきりきみが見栄を張っているだけかと思っていたよ」
ボロボロで隙間風の入るような歪んだ木製のドアを開ける。蝶番の軋んだ音が鳴り、肌に馴染むアジトの空気がボコを落ち着かせる。無人かと思いきや、アジトの中にはソファベッドに腰掛けるシャロンの姿。
「よっ! ただいま。シャロン」
ボコの顔を見て絶句。どんな顔をしてよいのか解らないシャロン。目が合い逸らすと、逸らした先には、あの女。やっぱり……小さくて小動物みたいなのに、ブラウス越しに見えるふたつの膨らみが、その存在を主張している。自分の目に狂いは無かった。敵である。
「このお嬢さんは仕事仲間かい?」
「ああ。口煩い後輩のシャロン。そんでこっちは……えーと、ディエゴさんから預かったルーシィ」
シャロンは今耳から伝達してきた情報を咀嚼する。どうもボコのとなりにいる女は、ディエゴの知り合いらしい。止むに止まれぬ事情により行動を共にしているのかもしれない。……それでもこれは直感である。ボコとこの女は何かがある。ボコは女子との対話を苦手とする。しかし、この女とは随分と慣れ親しんでいるようであり、もっと言えば自分に対して向けるような感じではない。
「シャロンと申します。先輩がお世話になっています」
よそよそしいシャロン。内心を悟られぬよう、そっとルーシィに手を差し出す。
「ぼくはルーシィ。きみの髪、凄く綺麗だな。羨ましいよ」
ルーシィと呼ばれたどう見ても年下な少女は、顔に似合わぬ喋り方でシャロンの髪を褒める。どんなに手入れしても誰も気付くことさえない、シャロンの灰緑を褒める。この敵は可愛い上に性格まで良いときた。困ったものである。ふたりが軽く握手をする。その刹那、静電気でも走ったかのようにルーシィの身体が、ぶるっと震えた。
「そうか……きみは……」
なんだか、まるで心でも見透かしたみたいに、ルーシィは、シャロンの顔をまじまじと見やる。
「えっと、何か」
「いやいや。なんでもないよ。そう、ついでに言うとぼくとボコもなんでもないのだ。安心してくれたまえ」
「な、ちょっと。なに? 黙って聞いてれば」
「なあ、このスーツなに? シャロンの?」
ボコはハンガーに掛かった、ブラックスーツを見つける。ハルビックがボコのために用意した喪服である。
「みんなはお葬式に行きましたよ」
「はぁー? 葬式ぃ? だれの」
「なんかドレスコーズファミリーの人」
♪
スラムの奥地で掃除屋を営むシリュウ。彼のその手際の良さは、まさに神業と云っても過言ではない。三角巾を頭に巻いたシリュウは、雑巾二枚を左右の手に持ち、阿修羅の如し激しさで濡れ拭き乾拭き。瞬く間に硝子窓はぴかぴかになる。
「おい、シリュウよ。あれほどミヤコの店に手を出すなと言ったであろう。貴様に貸していた、兵隊どもが次々と身元を探られ一夜にして、全員逮捕されたぞ」
一心不乱に早朝から仕事に励むシリュウに、嗄れた声が掛かる。高級車から降りてきた上等な身なりの男。彼は葉巻を咥えオイルライターで火を点し、口の中で煙を転がす。
「仕事中だ。灰を落とすなよ。……心配するな。俺は簡単には捕まらん」
「貴様は、ミヤコの恐ろしさを知らんのだ。あの店には各界の権力者が何人も常連客として足まめに通っている。中でもな、侯爵家を取り仕切る男がミヤコを贔屓にしているって、もっぱらの噂だ」
王政の倒れたオフィーリアにて、政治こそ議会に委ねられているものの、未だに御三家と呼ばれる三つの侯爵家は絶大な力を有している。
「何が言いたい? リヴァイアサン卿」
「ここでその名を呼ぶな。こんなドブ鼠の巣窟で呼ばれると、由緒正しき吾輩の家の名が汚れる。我々オフィーリア愛国紳士倶楽部は高い金を出して貴様や、ドレスコーズを飼っているのだからな。派手に動き過ぎて無駄に戦力を減らしてくれるな」
三角巾を解き、本業から裏家業の顔に変わるシリュウ。リヴァイアサンと呼ばれた身なりの良い男を睨む。
「元貴族だろう。嗤わせるな。オフィーリアの貴族制度は、とうに無くなっている」
「煩い! 黙れ! ドブ鼠。貴様らは吾輩たちの言うことを黙って聞いていれば良いのだ。さあ次の仕事だ。手始めにさらって欲しい人物がいる。そうだな全て上手くいけば、貴様の欲しがる情報をくれてやろう」
シリュウの欲しがる情報。リヴァイアサン卿の言の葉に、燃え盛る故郷の記憶が蘇る。生まれて初めて手も足も出なかったあの悪鬼羅刹。そして高笑いする金髪の貴公子、悪夢のようなふたり組。
――兄上……わたしは死ぬのか……。
燃え盛る街で、四肢を全て切断された妹の顔が、鮮明に浮かんで消えない。あの故郷で過ごした最後の夜から、シリュウはずっとこの業火に焼かれている。思考を断ち斬りたくて、シリュウは腰に携えた曲刀を抜く。妹が残した一振りの刀剣、大業物『東方腐敗』。地金を丁寧に折り返した柾目肌の鎬、そして艶のある滑らかな刃文は美しく、リヴァイアサン卿の背筋にぞくりと、怖気が走る。
お知らせ。
シャロンの髪色をアッシュグリーンに変更しました。大変申し訳ありませんでした。
お詫びとして、レビューか感想書いてくれた方の中から、抽選で一名さまに300もぐポイント贈呈いたします。