野ばら
15.
夜は更けていく。
「今日もあたし泊まっていきますからね」
「いや、ここは軍の施設だ。今夜は帰りたまえ。知り合いに自宅まで送らせよう」
「えー、やだもん。昨日だって、ディエゴさんの全身の汗拭いたり、匂い嗅いだり、沢山お世話したんだもん」
流石は海千山千の便利屋ディエゴ・フェルナンド。リヴェラの不穏な発言にも、そのポーカーフェイスを崩すことはない。しかし、実際の彼の胸中は、かつてないほどの恐怖に似た感情が渦巻いていた。数多の難事件を解決してきたディエゴのセンサーは、危険信号をキャッチし、ピコーンピコーンとけたたましく鳴っている。
「リヴェラくん、目の下に隈が出来ている。全然眠っていないのだろう、綺麗な顔が台無しだ。明日も明後日も私はここにいる。きみにはきちんと疲れを取って欲しい。だから今夜はこの辺でおやすみだ」
攻撃こそ最大の防御なり。長年の経験を活かしディエゴはリヴェラの手を取りぐっと引き寄せ、反対の手の親指で、リヴェラの頬骨のあたりを撫でるように触る。慣れない異性との接触に頰を染めるリヴェラ。詐欺師の手口である。
「…………わわわわ解りました。ディエゴさんがあたしのことをそんなに想ってくれるなら、今夜は帰ります。明日も仕事終わったら絶対来ますね! 約束ですよ」
握られた手を振りほどき、一目散に帰ろうとするリヴェラ。まるで逃げるようにディエゴの病室を出て行く背中を見送るディエゴは、やれやれと身支度を始める。目的も達成し、傷の経過も良好。もう、ここに用はない。予定より早いが、今宵この基地から姿を眩ませようと、禁煙の病室でこっそりと煙草に火を点けた。
軍の施設の夜は、居住空間や一部の建物以外は消灯されていることを知る。建物と建物を繋ぐ渡り廊下を歩くリヴェラ。昼夜、休むことなく稼働しているポリシアの支部なんかと違って、施設内は静寂に包まれている。人気がなく、非常灯のみで照らされる施設内は不気味であった。
「むかしむかし、あるところに……」
不意に鼓膜を撫でる舌足らずな少女の声。闇に紛れた何かが側にいる。恐る恐るゆっくりと一歩ずつ歩く。その時だった。月明かりが強化樹脂の窓から微かに差し込み、リヴェラの双眸を横切る年端もいかない少女を映す。柔らかそうな長い髪を翻し、リヴェラの前から走り去る。ぽてぽてと、覚束ない足取りで、曲がり角を曲がって見えなくなってしまった。そんなバカな。こんなところに少女がいるはずもないと、追いかけてみるも、月にはまた雲が掛かって、その少女の姿を消す。両目をこするリヴェラ。
「気のせいか……。そうだよね、こんなところにロリがいるはず無いよね。ディエゴさんの言う通り、あたし疲れているのかも」
ちょっと、ここ最近ロリを見過ぎたので、深層心理にそれが刻まれてしまったのかもしれない。ふぃー、と深く息を吐き、気持ちを切り替えるリヴェラ。
「気のせい、気のせい」
びりっ。
踏み出した足が何やら紙のようなものを踏みつけて、破れたような感触がした。えっ? なに? リヴェラは足元を見やるも、暗くてよく見えない。が、廊下中に何やら紙のようなものが敷き詰められていた。それは一枚の大きな紙である。
「これは何? こんな大きな紙だれが。 一体いつからあたしはこの紙の上に……」
そこで流れる雲が切れ、悪戯な月明かりが、再び窓から施設内のリヴェラと周囲を照らし出す。
「こ、これは!!!!!!」
リヴェラは声にならない声を上げた。なんとその紙には、夥しいほどびっしりと、七色の球体が描き込まれていた。ひとつひとつの丸の中央には、謎の顔。子供なら泣き出してしまうほどである。
【REPLAY】
そこで流れる雲が切れ、悪戯な月明かりが、再び窓から施設内のリヴェラと周囲を照らし出す。
「こ、これは!!!!!!」
リヴェラは声にならない声を上げた。なんとその紙には、夥しいほどびっしりと、七色の球体が描き込まれていた。ひとつひとつの丸の中央には、謎の顔。子供なら泣き出してしまうほどである。
【スローモーションでもう一度】
ひとーつ、ひとーつの丸のー中央にはー、【謎の顔】。子供ならー泣き出してしまうーほーどーでーあーるー。
……お解り頂けただろうか?
なんとその丸のひとつひとつに顔が描き込まれているのである。まさに純真無垢な子供の落書き。その凄まじい数や、さながらアンネ・リヴェラの煩悩の数。いったいリヴェラは何を疑っていたのであろうか。
「……何かの暗号!? 事件の匂いがする」
尚も現実から目を背けるリヴェラ。その耳にまた微かに少女の声が聴こえる。リヴェラは意を決して声のする方へ向かう。
「……すると、おおきなカレーが流れてきました……」
声のする方角に進むと、とある部屋に辿り着く。その部屋の扉は、ありあわせであろう木の板が数枚組み合わされてドアの体裁を保っている。隙間から明かりが漏れるそこは、先日おかしなガスマスクと遭遇した技術部の研究室である。
「ぐえっ」
あのドクターなんか苦手なんだよな。リヴェラは苦い敗北の過去を思い出すし、踵を百八十度回転させ、無かったことにしようとする。しかし、ディエゴを治療してもらったお礼をきちんと言っていないし、尋ねて見るべきか。そう思い直し、リヴェラはやはりノックもせずに、ドアノブに手を掛けた。
あいも変わらず乱雑に散らかり切った研究室。中央の机には、あの恐ろしい白衣のドクター。どうやらガスマスクは付けていないようである。だらしなく伸びた髪を輪ゴムで縛り、ふたつの顕微鏡を交互に覗き込んでいる。そして、その膝の上で当たり前のように、お皿に乗ったプリンを食べるおロリ。いや、あれはまやかしの類に決まっている。こんなところにおロリがいるはずがない。
「ぷりんおいしいねぇ」
「カミィちゃんお絵かきはもういいの?」
「うん。あのねぇ、もう夜だから。ももいろのまるがね、おねんねしちゃうの」
「最初から寝ている絵を描いたのでなければ、紙に描いた絵は寝ないよ。それに、桃色じゃなくて七色になってるよ」
「いろんな色の、ももいろのまるなんだよぉ」
「それじゃあいろんないろのまるじゃないか」
「ストーップ、ドクター。 幻覚のおロリと話すよりも、あたしと有意義な話をしましょう」
おロリとドクターが仲睦まじく”ももいろのまる”という、かつて流行したキャラクターについて議論を交わしているところ、お邪魔虫のリヴェラが割って入る。顕微鏡から目を離すドクター。
「有意義な話?」
「ドクター、まず礼をいいます。ディエゴさんを助けてくれてありがとうございます」
「どういたしまして」
「ジュンイチくん、あのね、このプリンすごくおいしいからね、もう一個ほしい」
ホイップを鼻に付けたおロリ。彼女が幻覚か、否かは、この際どうでもいい。どうやらおロリの名はカミィ、ドクターの名はジュンイチらしい。ふたりはお互いを名前で呼び合うような関係のようである。リヴェラは正直な話、もう帰りたかった。ポリシアでは百年にひとりの逸材と謳われる彼女だか、本心は兎にも角にもボケたいのである。ツッコミに回らざるを得ない人物とは、非常に相性が悪い。
「いいよ」
プリンおかわりの要求に快く返事をしたドクターは、ホイップが付着したロリのぷにぷにしたほっぺと鼻を拭ってから、備え付けの冷蔵庫からプリンを取り出して皿に盛る。立って待っていたおロリはドクターが椅子に座ると、「よいしょ」とふたたび膝の上に登ろうとする。うまく登れずに一度滑り落ちたところを、ドクターが抱えあげて無事膝に乗せた。なんとなく微笑ましくなって、これはこれで中々萌えるのではと、リヴェラは少し興奮した。
閑話休題。なんとか流れを変えるべく、リヴェラは話題を探す。
「それって電子顕微鏡でしょ? どうしてふたつも……何を視ていたんですか?」
「片方はディエゴくんの細胞。もう片方は、寄生虫」
「寄生虫!? ディエゴさんに寄生虫が居たってこと? どうしよう、私、ディエゴさんとすっごくすっごく親密な関係なのに。感染とか……」
「血液感染以外では感染しないから問題ないよ」
「もぐもぐ」
おロリがプリンを口にはこぶたびに「もぐもぐ」と発言するのが気になって仕方がないが、それ以上に気になるのはディエゴのことである。
「治療はもう済んだんですよね?」
「うん。もう彼の体内に虫は居ない」
「良かった~」
ほっと一息、安堵したのもつかの間。よく考えて、ぞっとリヴェラの背筋に冷たいものが走る。ディエゴは何故、わざわざ怪我の治療にこの基地を選んだのであろう。まるで自分が寄生虫に犯されていることを知っていたかのよう。……いったいなぜ。
「ジュンイチくん、わたしちょっと、眠くなってきちゃった」
「じゃあお家帰ってベッドへ行こうね」
「いいんですか? 研究を途中でほっぽり出して」
「レポートはまとめたし、ちょうどこの研究はここで終わりだよ」
立ち上がったドクターが示した先にあるのは、机の上に散乱する紙の束。ドクターはかなり背が高く、目の前にいると、威圧感が凄い。
リヴェラのことなどお構い無しに、おロリを抱っこしたドクターは、薄汚れた白衣を翻し、研究室から出ていく。ひとり取り残されたリヴェラは、机の上の資料に目を落とす。なんだか難し気な用語や外国語が並んでいて、とても読む気は起きず、リヴェラはそれを丸めて鞄の奥に押し込んだのであった。
挿絵は、この作品のオリジナル
あっきコタロウさま
そしてふたりでワルツを
https://ncode.syosetu.com/n9614dm/
のマリクたろうのイラストをお借りしております。