楽しみを希う心
10.
「ボコのわからずやぁ! だからきみは女の子にモテないんだよ」
「ばっ! うっさいなぁ。オトコには行かなきゃなんない時があるんだって!」
夜が明けて間もないと言うのに、リビングの方から喧しい声が聴こえてくる。普段から店の準備があるエレナの朝は早い。レースのカーテン越しに見えるは、まだ紫掛かった空と朝焼けを浴びる街並み。両開きの窓を開けると、ひんやりとした空気が寝室を隈なく循環する。
昨夜の内に雨は止み、随分と薄くなった雲の切れ目から、青空が顔を出していた。店休日なので、本来ならヘルトゥと、もう少しだけ微睡みたいところだが、ルーシィとボコが何やら騒いでいる。ルーシィに限っては、幾らも寝ていないはずなのに元気なものだと、エレナは欠伸をひとつ。やれやれと大きく背伸びをして身体を覚醒させる。そしてふたりの様子を見に行こうとドアノブに手を掛ける。
「エレナ。その格好で行くつもり?」
普段よりもほんの少しだけ掠れた声。ベッドで身体だけを起こしたエレナの夫は、寝室から出ようとする彼女の背中に話しかける。ルーシィとボコの声で起きてしまったのであろう。ヘルトゥのシャツを羽織っただけの限りなく素っ裸に近い状態で出ようとするエレナの姿を見て、彼は翠色の瞳を歪ませくすくすと笑いを漏らした。エレナは顔を赤くして、そっぽを向く。エレナは、夫が自分に向けるからかうようなその表情さえ、好きなのであった。
「……もちろん、着替えるとも」
「良かったよ。愛しい奥さんのあられもない姿がお客さんの目に晒されることにならなくて」
赤くなった顔がこれ以上見えないよう、ヘルトゥに背を向けエレナは衣服を着る。
「昨夜は疲れただろう。ヘルトゥはもう少し眠るといい」
「いや。ことは深刻だ。ルーシィはポリシアに指名手配され、スラムの重鎮にも追われ、国中を敵に回している。早いうちに、ルーシィと話をしておきたい。彼女には殺人の容疑が掛けられている」
「……まさかそんな……。なんでルーシィが。女神に誓ってルーシィは絶対そんなことをしない」
そう言いながら未だベッドの縁に腰掛けたままのヘルトゥに近寄った。昨夜、普段なら甘い香りのする夫が身にまとっていた匂い。あれは、懐かしい硝煙の匂いだ。店を手伝いに来る教会の子たちから、ルーシィが権力者に連れて行かれたことを聞いて懸念していたが、きっとヘルトゥはもっと先まで予見していたのであろう。夫は危険をおかしてまでルーシィを連れてきてくれたのだ。
申し訳なさそうに俯くエレナに、ヘルトゥは微笑んだまま啄むようなおはようのキス。
「エレナが信じるなら、私も信じるさ。私たちで彼女を守ろう」
鳥の囀りが聴こえだし、ふたりの朝が今始まる。
そんな感じでヘルトゥとエレナがイチャイチャしている間、そのイチャイチャ度に比例し、世の中の声を代弁するかの如く、ボコとルーシィの喧嘩はヒートアップする。寝室まで唾が飛んできそうなほど煩かった。
「もうきみの顔なんて見たくも無い。あーあー、行きたければ勝手に行きたまえ!」
「うわっ唾飛んだ! か、間接キス……じゃなくて。言われなくても行くっつーの」
「ぼくも着いていくから。言っておくけれども、きみに選択権はない」
「だめだって! 危ないからここの人達と一緒に居ろって!」
我に返ったエレナは家のなかに溢れる声に嬉しさ半分、やかましさ半分の気持ちでリビングに向かう。その背中をにこにこ見送るヘルトゥは、ルーシィとボコの言い合いには我関せずを貫くようであった。
「ふたりとも朝から元気がいいな。ルーシィ、朝食を作るから手伝ってくれ。それとボコ、顔は洗ったのか?」
「おはよッス。泊めてくれてさんきゅッス。良い感じの家スね!」
そもそもエレナはボコとは初対面である。スラムに住む若者と聞いたが、ヘルトゥが連れてくるくらいなので、悪い人間でないことは解る。
「ルーシィを助けてくれたそうだな。礼を言うぞ」
「お姉さん、ふいんきがなんか騎士みたいでかっけースね」
無神経で邪気のないボコの言葉。喜ぶべきなのか、それとも女らしくないのを悲しむべきなのか難しいところである。それでは女らしいところでも見せてくれようと、エレナはルーシィを連れてキッチンに立つ。フライパンの上に卵を落とし、オーブンでバケットを焼く。
「エレナは、朝もお菓子を食べてると思っていた」
「ふたりともわたしを何だと思っているんだ」
寝室から遅れてやってくるヘルトゥ。騒ぎが収まるのを見計らっているようでずるい。卓に着き、ルーシィに合わせ教会の流儀に従い女神に祈りを捧げる。そして朝食を摂る。四人で卓を囲む朝食は、家族みたいで楽しいものであった。
隙を突いたボコのフォークがルーシィの皿からウインナーを奪う。「ああっ! 何をするんだ。返したまえ!」ぷんすかと怒るルーシィは、取り返そうとボコの皿のウインナーを狙うも、ボコはフォークでそれをガード。小馬鹿にするような腹の立つ笑い方をする。そして始まるナイフとフォークの大戦争。「行儀が悪いぞ。ふたりとも」とエレナに叱られ、しゅんとするボコとルーシィ。大人しく食事を再開する。
「ルーシィ、そしてボコくん。私はセルゲレン・ヘルトゥ。知っての通りしがない歌うたいだ」
終始ボコとルーシィをにこにこ眺めていたヘルトゥは、落ち着いたのを見計らい、そう切りだした。食い意地の張ったふたりのフォークが止まる。口の周りはケチャップでべちょべちょであった。
「単刀直入に聞こう。ルーシィ、教会に戻る気はあるかい?」
ルーシィは少し考え、困ったようにはにかみながら、首を横に振るう。
「すまない。エレナの旦那さん。ぼくはどちらかと言えば、昨夜のゴロツキたちなんかよりも教会から逃げているんだ。教会が恐ろしいんだ」
……なぜ教会から身を隠す必要があるのか。いったいルーシィは、こんな小さな身体で何を抱えているのであろうか。エレナは疑問に思ったが、しかしヘルトゥはその応対をまるで予測していたかの如く、あっさりと引き下がる。
「それじゃあ、ほとぼりが冷めるまで、きみはここにいると良い」
「それはいけない。エレナやヘルトゥさん。あなたたちに迷惑が掛かってしまう。知っているだろ? ぼくは狙われているんだ」
それを聞いたエレナは立ち上がった。
「水臭いぞルーシィ。忘れたのか? わたしは軍人をしていたんだぞ。剣の腕は鈍っていないつもりだ」
エレナは元々貴族の生まれで、幼少より剣術を習っていた。そしてつい最近まで軍に籍を置いていたのだ。夫ほどではないが、剣の腕にもそれなりに自信がある。なんとも勇ましいパティシエールであった。
朝食後、出かけようとするボコとルーシィ。すると「待つんだ、ふたりとも」とエレナに呼び止められ、ボコは新品の歯ブラシを渡される。
「きちんと顔を洗って、歯を磨くこと。ルーシィには昨夜渡しただろう」
ボコとルーシィは「はーい」と声を揃え、それに応じる。朝からエレナに叱られ、いじけながらも洗面でふたり並んで歯磨きをする。ミントの香りの研磨剤が歯ブラシの上で三色の虹を描く。ふたりは、そいつで口の中をぶくぶくと泡立たせた。
「ボコ。狭い」
「オレのが先磨いてたしー」
「きみは、先人の名言でレディファーストと言う言葉があるのを知っているかな」
樹脂で出来たコップに水を汲み、口を濯ぐと、エレナがルーシィを手招きする。
「その格好じゃあ逆に目立つから、わたしの服を着て行くといい。あまり可愛らしいのはもっていないがな」
「わー、ありがとうエレナ。ちょうどダサいと思っていたんだ」
自分と似た格好をダサいと言われ苛立つボコ。エレナはルーシィを座らせ櫛で、その柔らかな髪をといた。
「あんなに大事にしていた髪……切ってしまったんだな」
「まあね。意外と短いのも楽で良いや」
エレナが覚えている限り、腰まである綺麗な髪は、ルーシィの自慢だった。せめて綺麗な服でも着せてやろうと、エレナは彼女の小さな身体に合わせ、可能な限りサイズを選ばない服を見繕う。
寝室で着替える度に妖精のようなルーシィがリビングに顔を出す。散々ファッションショーを堪能し、ボコの強い希望によりデニム生地のホットパンツと、白のブラウスに落ち着く。エレナはルーシィの頭に変装用のハンチングをちょこんと被せた。軍人だったエレナは、その気質上あまり色味のある女性的な服を買うことは少ないが、友人からの貰い物に至っては、この限りではない。
「エレナ。少し寒いのだけれども」
「わたしとルーシィでは、丈が合わないから、仕方ないだろう? よく似合っているぞ」