子犬のワルツ
からからから。
昼と夜、晴れと雨、交互に幾千、幾万、幾億と繰り返し、敷き詰められた宇宙を空回すねずみたち。前に進もうにも、どこへも行けず。
掴もうとした水面の月は、ねずみの気も知れぬまま浮かんでは消え、また陽は昇る。
螺旋を描く糸車。どこへ繋がるとも知れぬ糸をからからと紡ぐ。
【ドブ鼠たちのトロイメライ】
運命の女神よ。
どうか、この意図なき糸が、時空を超えて愛しき彼に届きますように。
表紙イラスト制作
あっきコタロウ様
1.
灰緑の髪をかき上げ、仰ぐように見上げた空。それがなんとも眩しくてシャロンは、眉間に皺を寄せる。流るる雲はどこまでも青く透き通ったキャンバスに細く細く白を棚引かせている。メインストリート沿いの広場には、真っ赤なベンチが在って、子連れの小綺麗な服を着た夫人が休んでいる。広場の噴水に太陽の光が反射して、きらきらと透明な雫を撒き散らしていた。世界は様々な色で満ち溢れている。それなのに辛気臭い真っ黒なパンツスーツを身に纏うのは不機嫌なシャロン。彼女らは広場を横切る。
「いいか? シャロン。金貸したる者、貸した相手に情を移さない。これが金貸しの鉄則」
少し早めの昼食直後、その満腹感に眠気を覚えるシャロンの鼓膜を、掠れたお気楽テノールが仄かにかすめる。厳しい冬もとうに終え、昼には春の日差しが街全体を暖める。真昼を告げる鐘が、教会から聴こえ、それが煩わしいお気楽テノールを搔き消した。
鐘が鳴り止み、シャロンはアクビをひとつ。テノールの持ち主は「シャロン。ちゃんと聞いてんの?」と問い、彼女はそれに「あーはいはい。聞いてますよーボコ先輩」と適当に相槌を入れる。財布を忘れて、可愛い後輩に奢らせたくせに、どの口が言うか! 彼女は内心そう思いながら、それは言わなかった。実に大人である。
ボコと呼ばれた若者は、さも満足そうにシシシっと独特の笑い方をする。その顔ときたら、まるで子犬みたいで、なんとも可愛らしい。コホン。シャロンは咳払いをひとつ。
横目で気付かれないよう、彼をちらりと観察する。斜めに被ったキャップには、水鳥の羽根がプリントされた缶バッジが括り付けられていた。男性にしては小柄な身体付きに似合わぬ大きめのパーカー、ステッチのほつれた着たきりのカーゴパンツと、まるで近所の雑貨屋にでも行く程度のラフな出で立ちで、律儀にフォーマルなブラックスーツに身を包んだ自分とは、相当の温度差を感じる。仕事柄、服装は自由なので正しいのは彼であり、間違っているのは自分なのだ。自分もこんな風に自由に生きられたらいいのに。と、シャロンは鼻を鳴らす。
馴染みの大衆食堂でランチを済ませ腹を満たしたふたりは、次の目的地に向かう。彼らの一味はこの国のスラムで金貸しを営んでいた。女やこんな華奢な男のイメージには、なんともそぐわぬ仕事である。知らぬ者が見れば、本当に務まるのかと、疑うのかもしれないが、この子犬のような小男は、組織の顔役のひとりである。
かつての話、この国の暗い部分、網の目のように広がる広大なスラム街には、ひとりの支配者がいた。スラムの誰もが怯え、スラムの誰もが敬い、スラムの誰もが憧れる。『飢えた銀狼』『スラムの王』『狂犬』人々は彼をさまざまな異名で呼び恐れた。シャロンの隣で調子外れの鼻歌を鼻ずさむ彼は、泣く子も黙るそんなスラムの王の直属の部下だった男である。噂は予々伺ってはいたものの、実際一緒に仕事をするようになってからというもの、この男ときたら。と、シャロンはうんざりしていた。そんな彼だって、ご大層な二つ名を幾つか有している。『王の左腕』に『電光石火』、どれもこれも大言壮語に思えてならない。まあ、噂と言うのは、大概にして、尾ひれ背ひれが付くものなのであるが。
シャロンが吐き出した溜め息は、空の蒼に溶けていく。別にボコの所為ではない。取り立てに向かう時は、いつでも憂鬱なのである。その日の日銭が用意できないやつに、利息の乗った金が用意できるはずがないのは、遥か古来よりの決まり事で、自分たちはそんな弱き者から、さらに金を巻き上げるのだ。在りもしないはずの金を巻き上げるには、それ相応の儀式が必要なもので、それはそれは心が痛む。決して手心を加えることなかれ。決して憐れむことなかれ。これは鉄則である。
そよぐ風は心地良くて、シャロンの灰緑を微かに揺らす。街はこんなに粋なメロディを奏でているのに、何故に自分はこんなにも気が重いのか。こんな薄暗くて汚い下水のような仕事をしている自分をシャロンは嘆いた。我らはドブ鼠。どうか我に導きを。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だってー。オレがばーっちり取り立ててやっからさ」
にひひと、口を横に開き歯を見せるお気楽な先輩。普段からヘラヘラしているが、声を出して笑うと、どんぐりみたいな大きな瞳が、緩い弧を描き細くなる。もしも起業するなら、この笑顔に因んでニコニコまごころローンとでも名前を付ければ良いのに、彼らはあくまで、会社にあらず、組織にあらず、ただの金貸しである。
繁華街から郊外まで歩いた頃には、真上にあった太陽がほんのり西に傾いていた。民家と呼ぶにはあまりに小さなあばら家が、今からふたりが取り立てる相手のヤサである。ボコは今にも朽ちそうな薄い木の扉を雑にノックする。
「ごめんくださーい。ごめんくださーい。ピザのお届けにまいりましたッスー」
中からは何も聴こえない。
「えーっと、あーじゃあ、ピザじゃなくて、郵便ッスー」
誰も応じることはない。仕方なしと、窓のある裏手に回り、人が出入り出来そうな大きめの窓を見つけて、テープを貼るボコ。
「何してるんですか?」
「割って入る」
「もう、ここはスラムじゃないんですよ。ポリシアに捕まっても知りませんからね。無茶はするなよって、デコさんから出がけに釘を刺されていたじゃないですか」
ポリシアとは、この国”オフィーリア”に古来からある警察機関の総称である。そしてこの色取り取りのオフィーリアで、限りなくグレイなことを生業としているボコたちにとっては、天敵になりかねない存在であったが彼らにその自覚は無い。不意にシャロンの口からデコの名が出て、片眉を動かすボコ。相棒の渾名だ。図体のでかい相方はデコ。小さい方はボコ。スラムを去った王が彼らに名付けたものである。
「このままじゃ、埒が明かないじゃんよ。それにしてもシャロンてば、デコの言うことはしっかり聞くんだな」
「先輩と全然威厳が違いますから」
「オレだって取り仕切っているひとりだしー」
「凄みがないんだよなぁ」
「こないだだって、野犬に囲まれてひとりで追い払ったし」
「噛まれたって大騒ぎしてだじゃないですか。あ、なんか変な病気貰ってないですかねぇ。近づかないでください」
と、仲睦まじく言い争いをしていると、ガラガラと表の引き戸が開いた音がした。
「きっと逃げる気ですよ。急ぎましょう」
シャロンが振り返り声を掛けた時には、ボコの姿は既にどこにもなかった。
「……電光石火……っか」
シャロンが表にゆっくりと歩いて回る頃には、全て終わっていた。石畳の街道で押さえつけられてる男が一人。彼こそが債務者であろう。ボコは一瞬にして債務者を捕まえていたのである。まだ歳若い男であった。
「待ってくれ。頼む。この金を家族に渡さないと、父親に殺されるんだ。見逃してくれよ」
追い詰められた債務者が決まって口にする、幾つかの常套句のひとつ。お涙頂戴の見え透いたこの言葉。しかしシャロンは債務者がこれを口にした時点で、自分たちの敗北色が濃厚になったことを容易に想像できてしまった。シャロンと目を合わせないボコ。ボコが次に何を口にするか、彼と組んだ今までの経験則から、それを予測し、聞かずして韻ずることだってシャロンにはできた。感想としては「あーあ」である。
「なあシャロン。こいつに仲間になる気があるなら、連れて帰って働かせよう。デコはオレが説得するからさ」
決して手心を加えることなかれ。決して憐れむことなかれ。いつだって先輩ヅラで金貸しの鉄則を説くボコは、その実イマイチ非情になりきれない男であった。確かに、情を挟むと生きてはいけないスラムに住む彼に、通常であれば泣き落としは通用しない。しかしだ。彼はある一定の条件においては、まるで犬や猫を拾うように仲間を増やしてしまう。女人禁制の彼の一味に、行き場所も生き場所も失ったシャロンを仲間に引き入れたのも彼である。彼がもしもいなければ、暴力を振るう父親の命令で、今頃シャロンはスラムの街角で身体を売っていたことであろう。
シャロンは思いだす。その頃の彼女を取り巻く全てを壊したボコは、泣きべその少女に向けて、「おい。よく聞け。昔、お前みたいに行き場所が無くなった男に、スラムの王はこう言った。『お前が決めろ』って」
突き放すように厳しい言葉、それでも包み込むような柔らかい笑顔。ボコは「さあ、お前が決めろ」と照れ臭そうに、その言葉を真似してみせる。少女は迷うことなく「わたしを仲間にしてください」と彼の手を取った。
…………。
彼は自分と同じ境遇で行き場所を無くした者を放っておけないのだ。一体こんな彼をなぜスラムの王は傍に置いていたのか。シャロンはずっと疑問に思ってきた。彼と仕事をするようになって、かれこれ一年半。シャロンは最近やっとその理由に気づき始めてきたのである。
こういう優しいところだけは、先輩を尊敬してやってもいいな。シャロンはふと春の陽気に移ろいてみせた。