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冴えない男達

かわいいと言う女と、男の憂鬱

作者: ヒョードル

冴えない男、三度登場です。


『かわいい』は魔法の言葉。

「かわいい」


 神谷四郎(かみやしろう)は初め、この言葉が自分に向けられているものだとは思わなかった。聞き間違いや他の人間に向けられた言葉ではないか、と思うのではなく、無意識にこの単語を脳味噌が排斥しているのだ。


 来月四月で四十になる神谷は、かつてから先のような単語には縁がなく、格好良い・綺麗・洒落ている・器量良し・かわいい、といった日本語が自分とは別次元に存在をするものであると常々思っていた。また、それに付随するであろう褒め言葉を神谷自身が掛けられたことはなく、自然その言葉が本来持つべき意味すら廃忘の対象になりつつあった。


 ただ今回はいつもと違い、どうも耳の奥にかろうじて引っ掛かっている感じがする。林を歩いている時にふと蜘蛛の巣の糸が一本腕に引っ掛かり、歩けど歩けど腕に絡む違和感が消えないそれに近く、それが神谷の胸を騒がせ始めていた。


「ダメだ。こんなんじゃ載せられない。もっとコンセプトを詰めてから来い。いや、百八十度変えてから来い」


 神谷は異次元の胸騒ぎから強引に現実に引き戻され、声の主を探した。


 神谷の立っている前のデスクには、最早手が付けられないであろう程の書類の束が文字通り山積しており、吐き出された言葉が山彦となって後ろに響いているように思える。声の主は小さく鎮座していた。


「いや、でも肥後(ひご)課長。これはクライアントの要望ですし、もしかしたら斬新なアイデアになるかも知れません」


 肥後は既に神谷から渡された資料を見ていなかった。下から舐めるように見上げる顔は、ありったけの侮蔑の念を込めているようだった。


「アクセス数は或いは稼げるかも知れん。だが実績伴ってなんぼだろ。費用対効果を考えさせろ」


 肥後は「ふん」と吐き捨て立ち上がり、資料を神谷に投げつけた。同時に失意も食らった神谷は資料を受け取れず、紙くずと化した十数枚の資料は床に散乱した。


「分かりました」


 発した返事は力なく霧散し、喫煙室に向かい歩き出している肥後の背中には届いていないだろう。


「ああ。まただ。でもクライアントの言い分なんだから仕方ないじゃないか」


 落ちた資料を集めながら神谷は独りごちた。当然床は言い返してくれないが、違う場所から返事が来た。


「そうですよね、神谷さん」


 そう言った女性は顔に落ちた長い黒髪を耳に掛けながら、資料を拾っている。そして、ほんの僅かだが口の端を上げ、拾った資料を床で纏め神谷に渡してきた。


「……ありがとう」


 その笑みに体が固まった神谷は、謝意を伝えるのが一瞬遅れてしまった。


「いえ。肥後課長(あのひと)、口悪いですから」


 そう言い、姫島真子(ひめじままこ)は肥後の斜め前のデスクに座った。


 姫島は肥後と同じ制作課の社員で、今年で三十になり未だに独身だといつだか聞いた事があった。素材は悪くないのに遊びの無い黒髪と少しそばかすが覗く控え目な薄化粧が男を逃がすのだと、男性社員は皆口を揃える。見目麗しいわけではないのだが、どこか純朴さが垣間見える彼女の事を、親しみを込めて「姫子(ひめこ)」と呼んでいた。


「いつも恥ずかしいところばかり見られてしまって……姫子。ありがとうな」


「いえ。でも守屋さん、かわいいですね」


 再び聞こえた。確かに姫島が言ったのだ。かわいい(・・・・)と。


 腕に張り付いている蜘蛛の糸が増えたような錯覚に陥り、神谷は尋ねた。


「かわいいって何がだ?」


「神谷さん。鈍感」


 姫島は握られた手で口を隠しコロコロ笑っていた。


「姫子、僕を馬鹿にしてるのか」


「いいえ。でも守屋さん、鈍感て言われた事ありません?」


「いつも言われているさ。会社でも家庭でもね」


「奥様も心労絶えませんね」


「あいつはそんな柄じゃないよ」


 まだ姫島は笑っていたが、口を押さえていた手は開かれ、キーボードを高速で打つ機械に変わっていた。


 既にディスプレイを睨み出していた姫島は「校了までにちゃんと間に合わせてくださいね」と、愛想なく言った。


「はいよ。姫島さん」


 制作課を後にした神谷は、自分のデスクに戻りシュレッダー行きが決定した資料を机に放った。このパワーポイント資料を作るのに何日も掛け、クライアント担当者とも綿密な打ち合わせもした。肥後を納得させる素材は揃った筈だと直感が後押しをしていた。差別化にはもってこいだと思うんだがな、と思っていた矢先、営業課長である久保の罵声が響いた。もう面罵されるのはこりごりだ、と思った神谷だったが、どうやらその対象は神谷自身であったらしい。神谷は渋々久保のデスクに向かった。


「神谷さん。また見積り金額違うじゃない。何度目ですか?これじゃ角印押せないよ」


「はあ。申し訳ありません」


「神谷さん、鈍感なんですか?リピート率は結構ですけど、こういうミスは繰り返さないでよ」


「分かりました」


 最早言葉として出ていないのではないか、と思えるほど弱々しい承知であった。


 営業三課の課長である久保俊彦(くぼとしひこ)は神谷の二年後輩である。まだ久保が初々しい時分の頃は同行営業によく行ったものだった。名刺の受け渡しや電話応対、アポイントの取り方など基礎を教え、安い居酒屋でプライベートの相談を何度も聞いた。よく懐いていたと思う。しかし、十年が経つ頃には神谷と同じ係長級に昇級し、さらに三年が経つと課長代理になり瞬く間に神谷を抜き去った。それから二年が経った昨年、晴れて課長に昇級し、課を任されるようになっていた。


 それでも神谷は決して偓促することなく、我が道を進もうとしていた。それなりの出来の数を増やすよりも、一件の満足度を限りなく百に近付けるのだ、という営業らしからぬ矜持を持ち、それが神谷を係長級に留まらせる根幹になっている事は神谷自身も知っている。


 余談だが、営業において一件に固執して満足度を上げるのか、きりの良いところで次に移るのかはどの業種でも永遠の命題ではあるが、会社の歯車という立場での営業は間違いなく後者が優遇される。営業の不文律はぎりぎりのところで利益至上の体裁を成すのが実態だ。


「あと。神谷さん。さっき経理から伝言。先々月の新規クライアント入金まだだって」


「はい。連絡します」


「頼みますよ」


 久保の物言いは多少毒を匂わすのだが、それでもまだ残っている敬語が入社当時の恩義の現れなのだろう。


「次のアポイント行ってきます」


「頼みますよ、先輩(・・)


 久保の小さな激励を背中で聞き、振り返らずに神谷はオフィスを出た。



 その日最後に出向いた企業のアポイントは、新規開拓の可能性が無く無駄アポに終わった。


 神谷が腕時計に目をやると、針は七時を指している。まだ社内は忙しなく人が動いている時間だ。バスと電車を乗り継いで帰社するか、同じ時間を掛けて帰宅するか悩んだ神谷は、直帰を選んだ。


 しかし、神谷の足は軽くはならなかった。唯一気の休まるところである自宅でさえ、最近は居場所がなく感じるのだ。


 同い年の妻の由実(ゆみ)とは三年ほど付き合い、十年前にそのまま恋愛結婚をした。五年前には一人娘を授かり、念願の庭付き一戸建もローンで購入した。二重ローンは避けたかったので、未だに使い道の分からない座席がある大型ミニバンは現金一括購入をした。


 我が城である筈なのに、何かあればやれ邪魔だ、やれどいてと蔑ろにし、全ては娘の為だと勉強玩具を買い与え、小遣いも減らされる始末だった。


 由実との夫婦の営みは娘の実花(みか)が産まれてからは皆無だった。稀に寝ながら抱き着いてくる由実が愛しく思え、頭を撫でながら寝るぐらいである。


 求人広告代理店に勤める神谷の自宅は横須賀市の久里浜にある。会社のある横須賀中央駅付近とは違い、東京湾と相模湾両方を望める閑静な住宅街に居を構えていた。晴れの日の休日は観音崎の灯台によく行く。僅かに聞こえる東京湾の波音に耳を澄ませ、遠く千葉の工業地帯から立ち上る白煙を見ながら握り飯を家族で頬張るのが楽しみの一つであった。しかし、残りのローンが三十年ある事を考えると、今までの選択が正しかったのかどうか果たして疑問に思えて仕方がない。


 あれこれ自問自答を繰り返していると、『神谷 四郎 由実 実花』と丸字で彫られた表札が貼られたポストが目に入ってきた。


 力なく玄関を開けると、居間からテレビの音が勢い良く聞こえてきた。由実はソファーに座りバラエティー番組を見ていた。


「あら。お帰りなさい。早かったのね」


「今日は直帰だったから早かったよ」


 なら電話ぐらいくれてもいいのに、と言いながら由実は台所に向かった。


「実花は?」


「もう寝たわ」


「そうか。来月の入学式が楽しみだな」


 夕食の盛り付けをしてるであろう台所からふんふんふんと聞こえ、神谷が振り返ると由実が頭上で音符を踊らせていた。


「カメラマンは任せたわよ」


 そう言いながら由実はお盆に乗せられた幾つかの皿をテーブルに置き、神谷に正対した。


「頂きます」


 神谷は目の前に置かれた大皿の野菜炒めを豪快に口に入れた。相変わらず味が薄い。別小鉢の漬物を一つ口に入れる。これも塩抜きをされているのか、味が薄かった。あまり白米のお供にはならないのだが、煮物や一品小鉢があるので飽きずに腹は膨れる。


 迷い箸をするとすぐさま目の前から辛辣な一言が飛んでくるので、一通り順に食べ、残った白米を味噌汁で流し込んだ。全てが胃に詰まるとささやかな幸せが神谷を満たした。


 時間差で出された林檎を頬張りながら、神谷は由実に尋ねた。


「なあ。かわいいってなんだい?」


 テーブルで正対しながら頬杖を付いている由実は一笑に付したように答えた。


「なにあんた。若い娘でもこしらえた?」


「馬鹿言うな。なんとなく聞いてみただけだよ」


「ふーん。なんとなくねぇ……」


 口を真一文字に閉ざした由実の薄目は、疑いではなく、色気を出す歳でもないでしょうよ、と蔑んでいるようで、神谷は些か愁眉が開いたように思えた。神谷は巷で言われる「ジト目」をする由実が嫌いではないのである。


「小さな女の子が人形や動物を見てかわいいって思うのは分かるんだけど、それ以外にも女性ってかわいいってよく言うだろう?あれが不思議なんだ。今日電車に乗ってて疑問に思ったんだよ」


 黒髪を耳に掛けた姫島を思い出した神谷は、咄嗟に嘘を付いた。やましいわけではないが、健全であるとも言い難い。


「難しいわね。私はかわいいなんて言わない主義だから」


 神谷の前に湯飲み茶碗をことりと置いた由実は、にべもなく答えた。この芯の強い女なら姫島の事を告白しても、火傷する前には戻りなさい、ぐらいで済ませそうである。しかし、良心の呵責と呼ぶには大げさ過ぎる今日の事件はまだ痼となって残るだろう。愁眉は完全には開きそうもなかった。


「そうだよな。それよりご飯美味しかったよ。ご馳走さま」


 空になった皿を片そうと席を立った由実は、「たぶんあなたの事をそう言うのよ」と言い、再び音符を頭の上で踊らせていた。


 神谷は何を意味するのか分からなかったが、考えるのはよそう、と雑念を捨てる決意をし、風呂場へ向かった。脱衣場には綺麗に畳まれた寝巻きが置かれていた。



 翌日、会社へ行き昨日の営業日報を入力していると、肥後が神谷のデスクにやって来た。珍しい事である。


「神谷、ちょっと」


 返事も待たず、肥後は制作部の方へ歩いていった。


「課長」と神谷が久保に問い掛けると、久保は顎で制作部を指し、行けよ、と促した。


 早歩きで制作部に向かった神谷は内心恐々としていたが、勅令のようなものである。気を確かに神谷は書類の山に向かった。


「肥後課長、何でしょう」


「ああ、悪い。昨日の葉山ファクトリーの件だが」


「はあ。申し訳ありません。誌面の内容は必ず変えさせますので……」


 肥後は歯噛みするように姫島を見ながら言った。


「いや、昨日のままでいい。少し賭けだがな。その代わり条件がある」


「……え?」


 神谷は肝を潰した。肥後が意見を変える事など今までなかったからである。


「嫌ならいい」


「いえ、ありがとうございます。その……条件とは?」


「一つ目。必ずお前が満足するものを作れ」


「はい」


「二つ目。今回の制作は姫子固定だ」


 神谷は得心がいかなかった。あれだけ突っ撥ねたのにも関わらず、提示されたこの二つの条件があまりにも易しかったからだ。


 何か知っているのかと思い姫島を見ると、小さく指をVの字にしていた。


「姫子、君」


「おい、今は俺が話してるんだ。嫌なら却下だぞ」


「はい。申し訳ありません」


「じゃあ神谷。あと姫子。頼むぞ」


 そう言い、舌打ちをしながら肥後はどこかへ歩いていった。


「宜しくね。神谷さん」


 姫島は解顔させていた。したり顔とでも言うのだろうか、昨日の由実のように譜表が宙を舞いそうである。


「君が肥後さんに上申したのか?」


「はい。良かったですね、誌面の変更がなくて」


「ああ。そうだね。でも何で……」


「かわいいからですよ」


 まただ。この二日で都合三度出てきた言葉だ。昨日の夜、由実でさえもかわいいと言った。神谷にしたらもう異国の言葉である。キャラクターや動物は確かにかわいい。だが、それとは無縁な四十にもなるむさ苦しい男に向かってかわいいとは何だろう。


「神谷さん。豆鉄砲、食らってますよ」


 神谷は目を閉じ頭を左右に振った。雑念しか湧いてこない。


「姫子、ごめん。昨日からかわいいって言われて、どう返したらいいか」


 姫島はまだ微笑んでいた。その瞳に見られると吸い込まれそうな感覚に陥り、それと同時にまるで蚕食のように熱が顔を侵してきた。神谷は言い表せぬ感情の混濁に抗おうとしたが、最早止められず、顔一面が燃えるように熱くなっていた。


「ふふふ。神谷さん、顔真っ赤」


「笑うなよ。じゃあ僕は戻るから、後で打ち合わせしよう」


「分かりました。でも今日夜までぎっしり取材なのでその後は如何ですか?」


「分かった分かった。いつでもいいから、とにかく後でな」


 神谷は逃げるように制作部から去った。


 その日は姫島が言った通り、夜になっても姫島とうまく連絡が取れず、退社してから打ち合わせをすることになった。社内に残って打ち合わせをしようと神谷は言ったのだが、姫島は外に行きましょうの一点張りで、結局神谷が押しきられる形になった。


「お待たせしました」


 会社のすぐ前では怪しまれてしまうと思い、神谷は少し外れた小道の自動販売機前を待ち合わせに指定していた。まだ初春の風は冷たく意地悪だが、それに舞っている姫島の黒髪が寒さを忘れさせた。


「いや大丈夫。俺もさっき出たばかりだから」


「古いデートの待ち合わせの台詞みたいじゃないですか」


 姫島は相変わらずコロコロと笑っている。今日はよく笑うな、と神谷は思った。社内にいる時よりも多少化粧が濃くなった姫島の笑顔を見ると、つい神谷の顔に熱が昇る。


「じゃあどうしようか。喫茶店でも入る?それとも図書館みたいなところあるかな」


「神谷さん。中学生じゃないんですから。居酒屋行きましょう」


「え?でも打ち合わせだろう」


「話せればどこでもいいじゃないですか。行きますよ」


 姫島は神谷の腕を掴み、強引に歩き出した。


「いや、でも異性と二人っきりで居酒屋はどうかな」


 ぴたりと歩みを止めた姫島が振り向き、口を尖らせながら反論してきた。


「じゃあ葉山ファクトリーなくなってもいいんですね?私降りちゃいますよ?」


 一転、落胆の表情が神谷の目に飛び込んできた。


「いや、そういう訳じゃないんだが、妻にも連絡しないといけないし……」


「じゃあすぐ電話してください」


 今度は怒っているようにも思えた。しかし、姫島の瞳がどこか悲しく思えた神谷は、携帯電話を取り出し、ディスプレイに現れた『自宅』を選択した。通話アイコンを押し、再びちらりと姫島を見るが目は反らしていない。


「ああ。僕だ。由実かい?ごめん今日この後打ち合わせが入っちゃって」


「あ、そう。分かったわ。夕飯は?」


 要らない、と神谷が言おうとした時、目の前から「鈍感」と唐突に聞こえた。神谷は返答の言葉が吹き飛んでしまい、人差し指を口に当てた。


「もしもし?今外なの?夕飯は?」


 冷静に問い詰める由実の口調と決して反らさない姫島の視線に挟まれた神谷は、「要らない」とだけ言い、即座に通話を終了してしまった。舞った一陣の風が先程より悪意を持ったかのように冷たく感じたのは気のせいだろうか。


「姫子!何を言い出すんだ。妻に聞こえたらどうする」


「いいもん」


 そう呟いた姫島は一人歩き出した。


「分かった。そう不貞腐れないでくれよ。今電話したし、居酒屋でもどこでも行こう」


「……本当ですか?」


 姫島は今度は頬を膨らませている。何故一回り近く歳の離れた娘にここまで気を使わなければならないんだろうと自問した神谷は、「ああ。本当だ」と小さく頷いた。


「やった!」


 そう言い姫島は両手を高く挙げた。


 再び神谷の腕を掴みぐいぐいと前に進む姫島は、家来の制止を振り切るお転婆の姫君のように思えた。


 結局全て姫島主導になってしまった二人きりの夕食は、姫島からの怒涛の質問攻めと、たまに返答する神谷の力無い言葉のアンバランスなキャッチボールになり、姫島だけが上機嫌になっていた。


「そういえば葉山ファクトリーの件、全然話せてないな」


 本題である話題を振ると、姫島は途端にいつもの口調に戻した。つまらなそうなのは明らかである。


「いいんじゃないですか?アポの日だけ決めてもらえれば私は大丈夫だと思いますよ?」


「おいおい。それじゃ肥後さんに怒られるって」


「神谷さんの作った資料通りに作れば問題ないです。営業の人が制作にあそこまで注文する人いないですし」


「それはありがたいが……じゃあ今日打ち合わせしなくても良かったじゃないか」


「うん。そうなんだけど……」


 緩んだ(まぶた)を必死にぱちくりする姫島の表情はとても愛らしいのだが、神谷が腕時計を気にする頻度も高くなっていた。


「まあ何とかなるだろう。アポ同行、頼むよ」


「はーい」


 姫島は敬礼のポーズをとり、目を擦っていた。


 じゃあ今日は帰ろう、と言った神谷に最初は駄々を捏ねた姫島だったが、眠気が勝ったらしく、店の前で神谷が停めたタクシーにすぐ乗り込んだ。


 ドライバーに幾らか握らせて出発したタクシーを見送った後、神谷もすぐに次のタクシーに乗り込んだ。


 正体はあったが、神谷はタクシーの振動ですぐに微睡んでしまった。ドライバーに起こされた時は既に自宅前だったが、突然猛烈な吐き気に襲われた。


 神谷は一万円札を一枚手渡すと、ドアを手動で開けすぐさま吐いた。幸い通行人がいなかったが、豪快に自宅前で吐瀉する形になり、苦く酸っぱい余韻が口に残り不快極まりない。


 この大惨事を隣人に見られなくて良かった、と胸を撫で下ろした神谷は、この不快感を今すぐにでも取り除きたかった。


 釣り銭を受け取り、静かに自宅に入った神谷は、口をゆすぎ顔を洗った。洗面台で息を整える顔を鏡越しに見ると、確かに四十の顔がそこにあった。ひどく疲れた中年の顔である。この顔のどこにかわいさがあると言うのだろうか。好意として『かわいい』という言葉をそのまま捉えれば、それは雄の魅力として裏返していいのだろうか、と自問してしまう。神谷は再び顔を洗った。


 吐いてしまったせいで唐突に空腹という獣が腹の底から吠えてきた。確かに脂っこく味の濃い食事を久しぶりに摂ったのだから吐くのも当然か、と思い居間に向かうと、握り飯と小鉢に入った煮物が盆に乗せられており、それをラップが綺麗に包んでいた。


「ありがたいな」


 呟いた神谷は、盆に挟まれたメモ用紙を見付けた。ひどく尖った字で、


『遅かったわね。先寝るから洗い物よろしく』


と書かれていた。


 いつもより多少塩っぱく感じた握り飯と、いつもより多少長く煮込んでいるだろう煮物を胃に納めると、いつものような恍惚が神谷を抱き締めた。幸福感に包まれた神谷がソファーに横たわると、即座に二度目の微睡みが押し寄せてくる。それに抗わず全身を弛緩させると、遠くに意識が引っ張られ、瞬く間にそれが無くなった。


 神谷にそれが戻り、目を開けた時最初に見えたのは、爽やかな朝陽の光芒でも、白梅に囀ずる鶯でも、朝露に光るソメイヨシノの新芽でもなかった。それは目の前の液晶テレビに貼られた


『あ ら い も の ! !』


と大きく雑に書かれた紙であった。


 急いで毛布を払いのけ、洗い物を片した神谷は、落ち着く暇無くそのままシャワーを浴びた。さすがに寝巻きは用意されていなかったが、下ろし立てのワイシャツがハンガーに吊るされ、肌着が置かれていた。


 垢を落とし新しいシャツを着ると否が応にも背筋は伸びる。毎度の事ながら由実には感謝をしなければならないな、と思った神谷は、ふと思い出した。


「やばい」


 神谷は皺だらけのスラックスを急いで履き、ベルトも通さず外へ出た。


 サンダルの左右の色が違うが、今はそれどころではない。昨日の大失態をそのまま放置してしまっているのである。


 神谷は記憶を手繰り寄せ、その現場を探した。


 しかし、ない。


 タクシーを降りた瞬間に犯した大失態の証は、異臭と共に確かな存在感を放っている筈なのである。決して記憶を違えた訳ではない。しかし、そこにあるのは一部にのみ掛けられたかのような水の跡と、そこから下水溝に続く渇ききっていない水の通り道だけである。


 神谷は急いで庭の端に向かった。やはりそこにはそれがあった。


 普段使わない筈の無造作に巻かれたビニールホースと、その周辺に撒き散らかした水滴の跡があった。


 この恥ずべき大失態を魔法のように流してくれた人物が誰なのか理解した神谷は、居間に戻った。そして普段何気無く、見て、触れて、生活をしている空間をまじまじと見詰めた。


「ありがとう……本当にありがとう」


 神谷は崩れるように、絨毯に膝を着いた。


 液晶テレビに貼られた紙。帰宅した時には無かった筈である。


 握り飯と煮物。何故置いてあったのか。何故少し味が濃かったのか。


 テーブルのメモ。どうしてテーブルに行くと分かったのか。どうして食べると分かったのか。


 脱衣場の衣服。いつも事前に置かれている寝巻きがなく、何故今日に限ってワイシャツと肌着だったのか。


 起きた時にくるまっていた毛布。居間には置いていない、寝室にある毛布だ。何故朝あったのか。


 門前の失態。昨日まで埃を被っていたホースが何故濡れていたのか。


 液晶テレビに貼られた紙。何故洗い物の事しか書かないのか。他にも書くべき事は山ほどあっただろう。


 神谷が全てを理解した時、静かに居間の扉が開いた。


「あら、おかえり(・・・・)


「……由実」


「何よ。馬鹿みたいに泣きそうな顔しちゃって」


 泣きそう、ではない。泣きたいのだ、と神谷は心の奥からそう思った。


「ああ……ただいま」


 目を擦る由実はそのままソファーに座り、優しく言った。


「あなたちょっと来て」


「なんだい」


 自分が泣いているのか、寝ぼけ眼なのか分からないが、やけに景色がぼやけて見える。


 神谷が由実の横に座ると、由実は目を擦りながらゆっくりと神谷の太ももに頭を預けた。


「寒いから毛布掛けて」


「ああ」


 先程払いのけた毛布を床から手繰ると、一枚ではなく二枚あった。


「暖かい」


 由実は夢見心地であるかのように小さく言い、神谷の手を握った。


「由実、本当にありがとうな」


「気付くの遅い。だから鈍感て言われるの。だけど実花が小学校に上がる前に気付いてもらえて良かった」


 ゆっくりだが、由実ははっきりとそう答えた。


「ごめんよ。これからはもっと頑張るから」


「無理しちゃって。期待してないから今までの通り家でご飯を食べてちょうだい。それがかわいい(・・・・)の」


 言い終わると、由実は優しく寝息を立てた。


 もう外食は出来ないだろう。すっかり薄味に慣れてしまっているから。


 神谷は今日出勤したら姫島に謝ろうと思った。そして肥後にもだ。おそらく姫島が抱いているのは好意だと思う。慣れない言葉だと思い込んでいたから、過敏に反応してしまい、隙を見せてしまった。


 今は違う。曲がらない意思と確固たる愛情で『かわいい』と言ってくれる女性がすぐ横にいるのだ。十年に一度しか言わなかったとしても、それは覆らない。


 神谷は姫島の言った『かわいい』の意味を知らない。しかし、知る必要もない、と思った。


 おそらく女性の言う『かわいい』は世界で一番曖昧な誉め言葉ではないか、と神谷は思う。十人十色、百人百様、千差万別。だから自分に都合良く解釈してしまう愚かな男が後を絶たないのではないか。


 神谷は、世界で一番ありふれた、世界で一番言い合った、世界で一番確かな誉め言葉を誓おうと思った。


「由実。好きだよ。愛してます」


 世界一幸せそうなかわいい(・・・・)寝顔をしたこの女性だけにこの言葉を向ければいい、と神谷は思った。




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― 新着の感想 ―
[一言]  男でかわいいといわれると、違和感あります。
2017/03/19 13:46 退会済み
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