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戦国哀歌217

自害する快感と、生きる苦痛が、どちらなのか判別出来なくなる程に笑いが込み上げて来て、幸助は暗がりの中で一人涙を流しながら自問自答を繰り返し、笑い続けている。

己ともう一人の己の区別が付かないまま、その思考が迷う振り子のように心を揺らし、幸助は狂気の坩堝に入って行く。




自害と、生きるその意味が、走馬灯のように交錯し、その意味合いを変えて行く。




もう一人の自分が言う。





「そうじゃ。生きる事は自害するその事と同義なのじゃ。自害する事が信長暗殺と同義ならば、そのまま刀の切れ味は僧正の討ち首に似て鋭くなる由にて、躊躇う必要は無いわけじゃ」




幸助が否定する。




「僧正の討ち首の切れ味が、そのまま信長の切れ味になるとは思えぬ。と言うよりは両親を殺した、その信長の刃は、僧正の首の皮を残す月光の鋭さになりえぬ」




もう一人の己たる影が背後でほくそ笑む。





背後にいるのにその一挙手一投足、言動、表情が全て手に取るように、まるで目の前にいるように分かると言う疑問と、その矛盾を心地好く受け止める双方の感覚が同時にあり、心の振り子たる迷いの自分が自害するか、生き延びるかで激しく揺れている。




そんな感じだ。




もう一人の自分が言う。




「お前の両親が討ち死にした戦闘にはお前の自害した刃が使われていたわけじゃ。然るにその自害はそのまま僧正を殺した刃と同義であり、お前はそれに極楽浄土の歯車を感じ取り、愉悦している由に付け、お主の刀のおののきこそが、その切れ味の哀しみならば、母も父も、お主の自害するを、投げる石仏の両親を殺すさながらに喜んでいる筈ではないか。それはお前の両親が釜茹でを愉しむごとく信長の残忍さに繋がっているからこそ、その残酷さこそが、お主の両親のお主に殺された苦しみならば、自害して果てる事こそが僥倖の証ではないか?」




幸助が泣き笑いをすると、その笑いが反転して、もう一人の泣き笑いになって行くのを同時に二つとしての一つとして感じ、悲しく泣き笑いしながら見詰めている自分がいる。




自害する快感と、生きる苦痛が、どちらなのか判別出来なくなる程に笑いが込み上げて来て、幸助は暗がりの中で一人涙を流しながら自問自答を繰り返し、笑い続けている。

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