戦国哀歌192
雨が降って来たら寺への帰還難儀じゃろうて、今日は手伝いがてら泊まるが無難じゃろうと、長老は僧兵に言った。
長老の庵に入り、僧兵が最前あった事柄を気色ばんだ口調で話しをすると、長老が惚ける笑みを頬に湛えながら答えた。
「それは気がつかなかった所以じゃろう。さすれば驚くに価しない事柄じゃて」
僧兵が否定する。
「いや、あの至近距離、位置から見遣れば、いくら眼が悪い者でも必ずや見える由にて、気がつかなかったと言う事はありますまい」
長老が綾を一瞥してからいなすごとく鷹揚に一声笑い言った。
「ならば草木と見間違え、やり過ごしたのじゃろうな」
僧兵が再度首を傾げ尋ねる。
「長老、惚けないで下され。例えばあの密偵の前に長老が立ったとして、あの密偵は長老を確かに見ているのに見えず、やり過ごすのでしょう。違いまするか?」
長老が相槌を打ち答える。
「それは、その密偵がわしを見て木だと認識すれば、やり過ごし、立ち去って行く言われよのう。と言うよりは、その密偵の眼にわしがどのように映るかは、その密偵の心次第じゃろう。例えば己の影を木と見間違えば、その木が心となり、木の心は己の影を見ないことわりとなるわけじゃ」
僧兵が困惑した顔を顕にしながら言う。
「長老、気が狂いそうな言辞は控えて下され。これ以上混乱すると、わしにすれば長老が妖怪変化の如く見えて来ますぞ」
長老が苦笑いしながら言った。
「全ては相対するのことわりよのう。例えば、影が妖怪変化のごとく人をあやめれば、人は影を恐れ、歩く事をもままならなくなるわけじゃ。人の心が死人を殺す事を望めば、それすなわち影を見て、人と思えず殺す言われ夢幻となるわけじゃ。じゃがのう、わしはその密偵、正に狐の類ならば、無明にて祠を作れない草木には用は無いわけじゃ。狐にはあらずか、違うかのう?」
僧兵がため息をつき言った。
「いずれにしてもわしからすると、長老は不死身妖怪変化の類かと思いまする」
長老が嬉しくもない感じでさらりと答えた。
「わしは木の死体なのじゃ。誰もそんなもの見向きもしないが、それなりに生きておるわけじゃて。ところで雨は降ってるのか?」
僧兵が答える。
「いえ、まだ降ってはおりませぬ」
長老が物憂い感じで言った。
「雨が降って来たら寺への帰還難儀じゃろうて、今日は手伝いがてら泊まるが無難じゃろう」
 




