戦国哀歌140
文明の繁栄を期して大量虐殺を為した信長と、大量虐殺された一揆衆は、草葉の陰で泣いているのか?
さて戦場の狂気について少し触れよう。
戦場は日常では無い異常事態なので、日常を基点にすると全てが狂気と言ってよいと思う。
アプローチとしては、この非日常に生死のやり取りが入り、その狂気がどの方向性に向かうかにある。
明らかに戦場は狂気の坩堝と言ってよいだろう。
人間の持つ本能的な攻撃性、残酷性が否応なしに顔を覗かせるのも、また戦場なのだ。
私は人間の持つ残酷性は、進化を嫌う退化の唯々だと思っている。
進化の極致は思弁の極致であり、思弁は肉体的な生殖本能を全否定する方向性を持っているからだ。
進化の極致は肉体を消去する?
進化が性欲を全否定するならば、進化の極致は肉体の消去、滅亡と言って良いだろう。
そして戦場はその肉体的な攻撃性をも否定した進化の極致に向かう事の全否定なのだ。
だから攻撃性や残酷性は肉体の温存であり、生殖への回帰、進化の全否定に繋がるという仮定論をものして。
戦場に於ける大量虐殺は相矛盾して進化を否定した生殖のゼロ基点と言って良いと思う。
つまり虐殺こそが生殖を生む惹起になっている事を念頭に置き、虐殺は生殖に繋がる二元論の唯々でしかないという帰結を生む。
つまり戦場に於ける攻撃性残酷性の発露は進化の否定であり、旺盛な生殖の代弁者という暴力的な推論をものし、戦争は人間の退化としての生殖を遡航する進化という帰結をなすという結論か?
ならば戦場の狂気、大量虐殺は人間の必要悪となり、生殖的進化?の顕在化であり、破壊としての建設、建設としての破壊のゼロ基点であり、文明の退化を嫌った進化なのか?
ならば戦場に於ける大量虐殺こそが人間、ひいては文明の繁殖繁栄の逆説的な反映ならば、これ皮肉にしかならないか?
この文章を私自身が肯定すると、私は戦場の残酷な描写をしながら、知の進化を否定し、無惨な死を描きながら実は生殖のエクスタシーを描いている帰結となる。
ならば大量虐殺を為した信長の残忍性は文明の退化的進化?を促した、善行?という帰結に向かい、これ笑止千万か?
大量虐殺が文明繁栄の為の礎ならば、殺された者達は全て人柱という事になるが、その余りにも多大なる犠牲の上に建っている現代文明の何と愚かで、お粗末な事よ。
これでは大量虐殺のヒーロー、信長の面目丸潰れ、殺しを為した方も、為された方も草葉の陰で泣いているのでは?
このシニカル的文脈、諸兄よ、どう思う。
さて先を続けよう。




