戦国哀歌116
歴史には客観的な絶対性がなく推理しかないので、面白いと私は思う。
歴史小説とは重厚真摯に書かなければならないと言う定説に逆らい、もう少し脱線しよう。
私は歴史推理が好きで、それは何故かと言うと、歴史には絶対性がないからだと思う。
歴史とは当時の文献や伝承を分析してものする推理でしかない。
映像とかカメラが無かった時代に在って、伝承、文献をものするのは人間の五感しか無かった。
人間の五感と言うのは一面的で曖昧であり、常に忘却が付き纏い、絶対性と言うのはなく、逆に言えば曖昧で想像性に富んでいた訳だ。
この絶対性がなく想像性に富んだ推理分野こそが歴史の多様性であり、それが私の空想を刺激し、私はその虜になったわけだ。
例えば戦国時代にも笑いはあり、その笑いを度外視して人間の歴史を語れないならば、笑いこそが歴史であり、それを除外すれば真の意味での人間ドラマは描けないと私は思う。
ある団体が利益を鑑みて歴史を改竄し、その歴史を敵対する団体が改竄する。
そんなしがらみから外れて、自由に発想を楽しむのが歴史小説の妙味だと思うが、どうだろう?
私は型に嵌まるのがとにかく嫌いで、あまのじゃくと来ている。
だからこそ、文脈真摯さを無視して冗漫になりかねない、こんな脳梗塞調の文章をものしているわけだ。
人間は全的に生きているし今を生きているわけだ。
ならば一面的な歴史の捉らえ方程つまらないものはないだろう。
文章に上下隔たり、偏重は禁物、つまらない。
それだけだ。
 




