闇の中からの帰還
事件から一ヶ月が経ち、ニナの手や首の傷は癒えたが、ニナが自分を取り戻すことはなかった。その間ハドリーが付きっ切りでニナに付き添い、毎日キャシーも訪れて、男性のハドリーがカバーし切れない介護を手伝った。
俳優達やスタッフ陣、色々な人が訪れてはニナに話し掛けるが、ニナは誰の声にも反応しなかった。その度に皆泣きながら病室を後にして、ニナを追い詰めた男達への怒りと、ニナに過酷な運命ばかり与える神を呪うのだった。
デイジーは夫と共に訪れ、抜け殻となったニナにしがみ付いて泣いた。
「アイツの所為よ! アイツが、ニナを! ニナを!」
デイジーの悲痛な泣き声は何時までも続いていた。
ハドリーは物言わぬニナを見つめて呆然と立ち尽くすテッドに、
「……済まない、テッド。約束したのに……俺は、俺はニナを守れなかった。俺を守ろうとしてくれたニナを守れなかった。済まない、済まない! テッド!」
最初は肩を震わせて、やがて床に頭をつけて、ハドリーはテッドに詫びた。テッドは辛そうな顔で何も言わずハドリーの肩を叩くと、泣きながら床に突っ伏すハドリーの腕をそっと掴んで立たせた。そして静かに首を振り、ハドリーを抱き締めて背中を叩いた。
ベラは枕元に座り込んでずっとニナの髪を黙ってそっと撫でていたが、やがてベラはニナの手を取ると声を上げてベッドに泣き崩れた。長い付き合いのテッドも、ベラが泣くところを見るのは初めてだった。
子供にはショックが大きすぎるんじゃないかと、アルバートは子供達をニナに会わせるのを悩んだが、ニナが目覚める切欠になるかもしれないとアンダーソン医師と相談した結果、アニーとジェームズを病院へ連れてきた。
アニーは泣きながらニナに縋り付いて何度も名前を呼ぶが、ニナはやはり反応しなかった。ジェームズはただ唇を噛んで、拳を握って黙ってニナを見つめていた。色が真っ白になる程固く握られた息子の拳を見て、アルバートはその怒りの大きさを感じ、黙ってジェームズの頭を抱えそっと抱きしめた。
その夜、寝静まった病棟でハドリーはニナの枕元でそっと小さな手を取って見つめていた。指一本動かない手だったが、ほんのりと暖かくそれだけがニナが生きているという証明だった。青白く透き通ったニナの頬も触れると僅かに暖かく、少し開いたままの小さな唇の感触も、あの時二人が愛を確かめ合った時そのままに柔らかく暖かかった。ただ、鳶色の瞳は天井を見上げたままぴくりともせず、光は失われたままだった。
「ニナ」
ハドリーはそっと呟いた。
「ニナ。ごめんな。守ってやれなくて、ごめんな」
静かに語るハドリーの目から次々と涙が零れ溢れ出して、小さなニナの手を頬に押し当ててハドリーは声を殺して泣き続けた。
翌朝、ハドリーはニナの病状が思わしくないと悟り、事務所を訪れて退団を申し出た。
「辞めなくても、しばらくの間は付き添いを認めるぞ」
キャンベルも憔悴した表情でハドリーを諭した。だがハドリーは首を振って、
「このままニナが目覚めないなら、俺は歌えない。身を捨てて俺を守ろうとしたニナが歌えないのに、どうして俺が歌えるんだ」
と、静かに答えた。キャンベルは黙ってハドリーを見つめていたが、
「もしニーナが回復して戻ってきた時、お前が歌を辞めていたらニーナはどう思うだろうか」
真っ直ぐにハドリーを厳しい顔で見据えた。
「ニーナはお前に舞台立って欲しいと願っていたんだ。それなのに、自分のためにお前が歌を捨てたと知ったらニーナが苦しむだけだ。ニーナを苦しめることは俺が許さん」
そして後ろを向くと、
「無期限で休みをやる。ニーナと一緒に帰って来い」
それ以上何も言わず、振り返らずに肩を震わせていた。
それからも毎日片時も離れずに、ハドリーは物言わぬニナに付き添った。楽しかった舞台の話や、皆との写真を見せながら語り掛けるが、ニナが反応する事は無かった。その度にデイルームで拳を叩いて悔し涙を見せるハドリーだったが、やがて悔しがる素振りを見せなくなった。
自分で食事が取れないために点滴による栄養補助は受けていたが、ニナは日々少しずつ衰えていった。腕や足は棒切れのように細くなり、体の機能の数値が少しずつ悪化していった。アンダーソン医師は内科医などと協力して出来うる限りの治療を施していたが、思わしくない結果に首を振って、「ハドリー、このままでは……」と悲しそうに告げた。
その時にはハドリーはもう決心していた。このまま最後までニナを見守って、ニナと共に逝こうと決めたのだ。ニナが空に帰るその日まで、最後の一瞬まで、ニナから離れまいとハドリーは決心していた。
何時までも姿を見せないニナに、ファンの間にも不安が広がっていた。「ニナは狂ってしまった」とか「妊娠したので隠れた」とか色々な噂が飛び交い、マスコミも憶測記事を飛ばして収拾が付かなくなりつつあり、ニナの回復が見込めなくなった今、あらぬ噂を打ち消すためにキャンベルは真実を明らかにした。
「ニナの心に誰の声も届かなくなってしまった。彼女の歌は永遠に失われた」
そう言うとキャンベルは悔しそうに涙を溢した。
「汚い欲望を叶えようとする卑劣な恫喝に、ニナは自分を捨てて我々を守ろうとした。だが、ニナは再び汚されようとしている自分を受け入れる事が出来ずに、深く心を閉ざしてしまった」
唇を震わせながらキャンベルは俯き、その顔には激しい後悔の念が浮かんでいた。
「彼女は誰よりも苦労をして、誰よりも辛い経験をしてきた。なのに誰よりも心優しく、自分を犠牲にしてでも友達を助け気高く生きて、誰よりも神に近い生き方をしてきた、それなのに、どうして! どうしてニーナがこんな目に合わなきゃならないんだ!」
キャンベルはそう叫ぶと、悔しさから涙をボロボロとこぼしながら机を叩いて泣き崩れた。それは演技でも無く、単にプロデューサーと俳優という間柄でも無く、愛する人を失った悲しみに溢れて、会見場の記者達も言葉を失って誰もキャンベルに声を掛けられなかった。
この会見を見た人々は事件を起こした男への非難を強めたが、同時にニナの歌を失ったという耐え難い絶望感が人々を襲った。
「世界は光を失った」
人々はそう言って、悲しみに暮れた。
事件が起こってからニヶ月余り経過したが、ニナは変わらず目覚めることはなかった。ハドリーは介護士や看護師の指導を受けながら、毎日付きっ切りでニナの介護にあたっていた。
その頃には、ニナの病室は続き部屋のある最上階の特別室に移されており、ハドリーはその続き部屋に簡素な仮眠ベッドを置いて寝泊りしていた。ちゃんとしたベッドも設置されていたが、仮眠ベッドでないと何かあった時に直ぐに起きられないとハドリーは主張した。もうずっと自宅に戻っていなかった。僅かに用意してあった着替えは、毎日来るキャシーが代わる代わる洗濯をして持ってきた。ニナと同様に憔悴していくハドリーに、キャシーやアルバートが交替を申し出て休養するよう迫ったが、ハドリーは黙って首を振った。
ハドリーを心配して病院を訪れたラルフに、済まなそうな顔で俯くとハドリーは目を逸らした。
「済まない。他のベーシストを探してくれ」
「……俺達のバンドに他のベーシストは要らない」
ラルフが顔を顰めて寂しそうに答えると、ハドリーは悲しそうなラルフの肩を叩いて静かに微笑むだけだった。
事務所の重苦しい空気も拭えず、誰もが言葉少なで寂しげにため息をつくばかりだった。
劇場の衣装室で一番小さなニナ用のエポニーヌの衣装を抱いてリンダが声を殺して泣いているのをスティーブが見つけて、そっとリンダを後ろから抱きしめた。
アルバートの家からも笑顔が消えた。キャシーは毎日病院を訪れてハドリーと一緒にニナの介護をしていたが、帰って来ても悲しそうな顔で俯いて泣いているばかりだった。アニーはニナと離れた学校の寄宿舎に戻るのを拒否して部屋に閉じ篭り、ジェームズも学校へも行かず、ぼんやりとネット上のニナに関する情報を眺めているだけだった。
「ニーナ、みんなにこんなに愛されてるんだから戻ってこいよ……」
どれもがニナの歌を失った悲痛な叫びや悲しみの言葉ばかりで、ジェームズは寂しそうに呟いた。その時、とあるブログの言葉にジェームズは目を留めた。同じような言葉を検索すると、いくつもいくつも出てくることが判った。その彼らの心からの叫びが刻まれた文字を魅入られたように見入っていたジェームズは、何か決意をしたように顔を上げて、PCに向かって一心不乱に作業に没頭し始めた。
ジェームズが発した小さな光は瞬く間に広がっていった。その先に灯った小さな光がまた各地に広がり、世界中に明かりが灯り始めた。真っ暗だった英国全土に灯った無数に瞬く光は、静かにある一点を目指して集まり始めた。世界中からもその一点を目指し、やがて煌く星の光のように強く、強くロンドンが輝き始めた。
それからニ週間ほど過ぎたある日曜日の朝だった。
まだ朝が明けたばかりの霧が立ち込める中、ロンドンの裏通りの薄暗い路地で、まだ若い黒猫が小さな枯葉を追いかけて遊んでいた。ところが、表通りに漂う気配を感じ猫は足を止めた。いつもよりも大勢の人が皆同じ方向へ歩いていく光景を、座り込んで不思議そうにじっと見ていた。
病室の続き部屋の仮眠ベッドでハドリーは目を覚ました。六時半だった。休養してからずっとハドリーは病院から一歩も外に出ておらず、今日が何曜日かも分からなかった。
「おはよう。ニナ」
隣にあるニナの病室に来ると、暗くしていた照明を曇りの日ほどの光度まで上げ、いつものようにニナのベッドを覗き込み笑顔で声を掛けた。
すぐに乾いてしまう小さな唇を蒸留水で浸した滅菌ガーゼでそっと拭いて、保湿リップを塗り、目を開きっぱなしのニナの目を保護するための数種類の目薬を差して優しく拭う。ずっと同じ姿勢でいると床ずれが出来てしまうので、ニナの腰に枕を当て体の位置を調節する。ナースステーションに向かうと、もう馴染みとなったナースに「おはよう」と声を掛け、常設してある保温器から清拭用のホットタオルをいくつか取り出し籠に入れ、病室に戻るとホットタオルでニナの顔や手足を優しく拭く。特に足は筋力の低下を少しでも押えるために、念入りに時間を掛けてマッサージをする。そしてベッドを少し起こして、とりとめもない事を語り掛けながら、彼女の栗色の髪をゆっくりと梳かす。これを毎朝三十分ぐらいかけてゆっくりと行う。これが、ハドリーのいつもの日課だった。
その時ハドリーの耳に、此処で聞こえる筈のない歌が微かに響いてきた。
聞き覚えのあるメロディーが、窓の外から最初は小さく、やがて締め切った窓を通してもはっきりと分かるように響き渡った。
それはよく知っている歌、レ・ミゼラブルの最後のシーンで群集によって歌われる希望の歌、『民衆の歌』だった。
強い光線からニナの目を守るためにいつも閉めている遮光カーテンをそっと捲り、ハドリーは怪訝そうに外を見てそして驚愕した。何百、いや何千という人が病院向かいの広場を埋め尽くし、溢れて歩道すらも埋め尽くしていた。その大勢の人達が、病院の病棟を見上げて歌っていた。ある者は泣きながら、ある者は両手を合わせ必死で祈りながら、誰もがニナを連れ戻そうと、一つの願いを叶えようと必死で歌っていた。
その群集の中には、ラルフやサンドラ、マートやジュリーなど俳優仲間の姿も見えた。リンダやカイルなど、顔見知りの裏方スタッフも大勢居た。夫と並んでデイジーも泣きながら歌っていた。街灯の影で、悲痛な顔で歌うテッドとベラの姿もあった。施設長となったサムと、施設の年長の子供達が涙を浮かべ歌っていた。そして群集の先頭、病棟前にはアルバートが声を張り上げ、アルバートの隣には泣きながら歌うキャシーとジェームズ、アニーの姿もあった。
ニナを、ニナの歌を愛する何千という人が、祈りを込めて歌っていた。
それはジェームズのサイトでの呼び掛けから始まった。
『ニナを救おう! 皆で歌おう!』とタイトルのついたホームページで、ジェームズは自らをアルバート・ボートンの息子でニナとは姉弟のような仲だと紹介し、「ニナに歌を届けて欲しい。協力して欲しい」と呼び掛けた。同じような気持ちで居る人間が数多く居ることを知ったからだった。そのサイトをニナに関する記載のあったあらゆるサイトにトラックバックし、関係者のブログやサイトにも情報を載せた。それを見たミュジカル関係者からジェームズに連絡が入り、情報は瞬く間に世界に広がって、僅か一日でジェームズのサイトの閲覧数は数百万を超え、賛同の声が多数寄せられた。
ジェームズを良く知るミュージカル関係者らのアドバイスで病院の診察のない日曜の朝が選ばれ、遠く離れた場所の人は、その日を目指してロンドンに集まってきた。
警察関係や病院関係者から緊急出入口を塞がないようアドバイスがあり、病院の緊急用の出入り口付近では、ジェームズの高校の友人達が大勢の人を誘導していた。同じく緊急用の道路も塞がないよう交通整理をしている高校生達に、大人達が黙って手を貸していた。
事前に集会の届出を受けていたロンドン警視庁が群集の警備に当たっていたが、群集は皆整然と誰もが自分の周りの見知らぬ人達に気を配りながら、ただただ祈りを捧げていた。病院の緊急入口を塞がないよう手を繋ぎ合って群集を整理していた高校生の女の子の手を、一人の警官がそっと取って繋ぎあう輪に加わった。
病棟前に待機しピンマイクで幾度も各所に指示を出していたのはロナルドだった。本来なら部署の違う彼だったが、自分がやると手を挙げていた。彼はアルバートを見ると、黙ったままそっと頷いた。
事態に驚いて病棟から出てきた病院関係者達も止めようと手を上げかけたが、皆黙ってその手を下ろし、そしてニナの病室を見上げて一緒に神に祈った。
全く外に出ることもなく、誰とも連絡を取ろうとしなかったハドリーはこの事を知らなかった。唯一ハドリーと接触のあったキャシーも、ハドリーに告げるかどうか迷っていた。だが、疲れ切って全てを拒絶していたハドリーを見て、そっと心の中に仕舞っていたのだった。もし、これでもニナが目覚めなかったらと思うと、ハドリーに希望を持たせる事が残酷に思えたのだ。アルバートも妻の考えに賛成して、了承していた。
目の前の光景を呆然と見つめていたハドリーだったが、皆の想いを悟り胸に熱いものがこみ上げてきた。
――そうだ。諦めるな。諦めちゃいけない。
力強い皆の歌と姿にそう強く背中を押されたハドリーは、ベッドサイドに駆け戻ると、起き上がった体勢のままのニナの耳元に口を寄せ皆と一緒に歌い始めた。
やがて、歌がエンディングに近づいたその時だった。
目の前で見守るニナの口元が、微かに動いたような気がした。そしてゆっくりと「……Tomorrow……comes……」と、ほんの微かな、空気が漏れるようなほんの僅かな声がニナの口から漏れた。
ハドリーは信じられないというようにニナを見つめて、
「ニナ! ニナ!」
と、肩を掴んで揺すぶって叫んだが、まだニナの瞳はやはり光がなく反応はなかった。
ハドリーは窓へ駈け寄りカーテンを開け放ち、そして窓を全開にして眼下の人々に向かって叫んだ。
「もう一度! もう一度だ! もう一度歌ってくれ! 頼む!」
病棟の窓辺に突然現れたハドリーの姿に、下から祈りの目を向けていた人々からざわざわという声が上がった。何かが起こり始めた事に皆気づいて顔を見合わせ、そして互いに頷きあって顔を紅潮させた。アルバートが先陣を切って歌い始め、また力強く歌が始まった。
日曜の早朝に出勤していたビジネスマンがオフィス街に響き渡る歌声と目の前の光景に驚いて立ち止まり、そして全員が祈るように見つめる白い建物に気づくと、そのまま静かに歌に加わった。隣のヒッピー風の若者がビジネスマンの肩を抱いてにっこりと笑いかけ、きっちりと髪を整えたビジネスマンも力強く歌いながら頷いた。
警備に目を光らせる警察官も、目深に被った帽子の下で口元は微かに歌っていた。緊急入口付近で高校生と手を繋いだ警官は、その手を強く握り締めながら歌っていた。
大勢の祈りの籠もった歌声が病棟の外からも、そして病棟の中からも響いていた。動ける患者も、ベッド上で動けない患者も、ナーステーションのナース達すらも祈りの歌を歌っていた。ニナの病室に駆けつけたアンダーソン医師も、開け放ったドアの向こう、廊下でニナとハドリーを見守りながら一緒に歌っていた。
ハドリーもニナの手を取って、ニナに向かって歌い続けていた。ニナは、今度は最初から歌に反応して、微かに歌い続けていた。やがて鳶色の目に徐々に光が戻ってきた。だんだんとニナの声が少しずつ大きくなり、掠れてはいたが、最後にははっきりとした声で歌いきった。
静寂が戻るとニナは少し眩しそうに目を細めて瞬きをして、そして、ゆっくりと枕元のハドリーのほうを振り返った。
「ハドリー……私、霧の中でずっと座ってたの。ずっと一人で……怖くて……寂しくて……。そうしたら、歌が……歌が聞こえてきたの。『民衆の歌』が、沢山の人の声と……ハドリーの声と。みんなの、みんなの歌が聞こえたの」
ニナの瞳から涙が零れて頬を伝い、泣きながら何度も何度もハドリーは頷いてみせた。アンダーソン医師は目の前の奇跡に何も言えず、目を見開いてただ黙って見つめていた。
「ニナの、ニナの意識が戻りました!」
病棟前に飛び出した看護士が病院関係者に向って叫んだその声に、アルバートとキャシーは驚いて顔を見合わせた。
「……ニーナが! ニーナが! 帰ってきた!」
とジェームズは叫ぶと、雄叫びを上げて病棟に駆け込んで行った。後を追うようにアルバートとキャシー、アニーも病棟内に駆け込んで行った。
ざわざわとした人々の間を伝播するように、一つの台詞が伝わっていった。やがて、病院前の群集から大歓声が上がった。
「She is back!!! ニナが帰ってきた!」
誰もが抱き合って歓声を上げて喜んだ。デイジーは夫に抱きついて号泣し、顔を覆ったベラの肩をテッドが優しく抱いた。マートは手を上げて雄叫びを上げてラルフと笑顔で抱き合って、リンダはいつも顎で使っている助手のスティーブに抱き付いて声をあげて泣いた。ヒッピーの若者は歓声を上げて笑顔のビジネスマンと両手で握手し、わんわんと泣く高校生の女の子の頭を、手を繋いでいた警官が優しく撫でた。先ほどの秩序ぶりと打って変わって大騒ぎの群集を冷静に誘導していた警官は、涙を隠すように帽子を深く被り直した。
歓喜の群集から再び歌が始まった。だが、今度は誰もが笑顔だった。光が、『明日』がやって来たのだ。希望に溢れる歌声が何時までも続いていた。
連絡を受けた劇場や事務所ではキャストやスタッフが泣きながら皆で抱き合って、ニナを取り戻した事を祝った。いつも冷静沈着なサラは鳴り止まない電話対応に追われ何時ものように淡々と応対していたが、真っ赤な目をして片手ではハンカチを握り締めていた。
ハドリーの愛と、彼女の歌を愛した多くの人の力で、ニナは長い悪夢からようやく解放されたのだった。
病室に駆け込んできたアルバートとキャシーは、ニナの頭や頬を優しく撫で何時までも泣いていた。アニーはニナに抱きついてわんわんと泣いたまま中々離れようとせず、普段は口が悪いジェームズもニナのベッドに突っ伏してアルバートがそっと頭を撫でてやった。そっと病室を覗いたデイジーにニナが笑い掛けると、デイジーもニナに抱きついて泣き崩れた。
一通りの対面が終わるとアンダーソン医師は皆に微笑んで、
「さあ、申し訳ないがニナを診察させて欲しい。それに少しニナを休ませないとね」
と、優しく言った。皆が頷いて病室を後にし、ハドリーも出ようとした時、ニナが悲しそうな泣き出しそうな顔で必死に手を伸ばしてハドリーの腕を掴んだ。ハドリーをじっと見上げていたニナだったが、はっと何かに気づくと手を離しハドリーから顔を背けて震えだした。
「ニナ?」
心配そうに訊ねるハドリーだったが、ニナは振り向くことが出来ずに震えたままだった。その様子を見ていたアンダーソン医師が、やがて静かにニナに話し掛けた。
「ニナ。君は危うい時にハドリーを呼んだだろう?」
その優しい問い掛けにニナは驚いたように振り返った。
「その声がハドリーには届いていたんだ」
アンダーソン医師は優しく続けた。ハドリーがニナを見て力強く頷いた。
「ハドリーが君を助けたんだ。君は汚されていないんだよ。ニナ」
その言葉にニナは驚いたように目を見開いていたが、やがて涙が零れ出した。
「ハドリー……」
そっとハドリーに手を伸ばしたニナを、ハドリーは優しく抱きとめた。ハドリーの胸に顔を埋めて泣き続けるニナを優しく抱き締めながら、ハドリーも涙を浮かべていた。
その日の午後、キャンベルは会見で数千人の人々を「英雄」と賞賛し、「ありがとう。ありがとう。ありがとう」と繰り返しずっと頭を下げて泣き続けた。
「ニナ・ジェフリーの奇跡の帰還は、英国が世界に誇れるニュースであると共に、卑劣な犯罪を野放しにしていた結果だという恥辱のニュースでもある。我々はこのような卑劣な犯罪を決して野放しにしないと、彼女に誓う」
そして首相のゴールドバーグは強い口調で談話を発表し、性犯罪撲滅に向けて政府議会が一環となって立ち向かう事を国民に約束した。
目覚めたニナは衰弱が激しく、特に衰えた足はすぐには歩く事が出来ずリハビリが必要だった。ハドリーは変わらずにニナに付き添って、最初はスプーンを持つことも出来なかったニナに、優しくスープを口に運んでやった。ニナは初め恥ずかしそうにしていたが、優しく首を振ってほらと差し出すハドリーに、そっとスープを口に入れると「おいしい」と微笑んだ。
暖かい日には、ハドリーはニナを車椅子に乗せ病院の中庭を散歩し、風を感じて空を見上げるニナを見守った。
ハドリーに付き添われて体のリハビリと心のケアは進んでいったが、あの日以来ニナが歌うことはなかった。 体調が少しずつ良くなってくるとキャンベルはボイストレーニングの再開を促したが、ニナは黙って首を振った。
キャンベルはしょんぼりとしたが、
「うんうん。まず体調が一番だ」
と、自分に言い聞かせるように、それでも寂しそうにうんうんと頷いた。
だが、ニナはこのまま静かにひっそりと生きていくことを望んでいた。歌を捨て、誰にも迷惑を掛けずに、誰の前にも立たず、誰もニナの事を思い出さないぐらいに、誰の事も思い出さないぐらいに、まるでこの世から消え去ってしまいたいとでも言うように、密やかに生きていく事を望んでいた。ハドリーと二人だけで静かに生きていきたい、とそう願っていた。
「もう歌いたくないの」
何度か目のボイトレの催促をしに来たキャンベルに、ニナは静かに自分の意思を告げた。
「どうしてだ? ニーナ。あんなに歌うのが好きだったのに」
キャンベルが悲しそうに訊ねると、
「次に同じような事が起こったら、今度は、私は躊躇なく死ぬわ」
と、ニナはぽつりと言った。目を見開いて黙り込むキャンベルに、ニナは寂しそうに呟いた。
「私を助けようと今度はハドリーが誰かを傷つけてしまうかもしれない。また同じように私が眠りから覚めなくなってしまうかもしれない。どれもハドリーを悲しませて苦しめるだけだわ。もうハドリーを苦しませたくないの」
ニナの意思を聞いたキャンベルは悲しそうに唇を噛んで俯いた。
ニナに歌を捧げた大勢の人達は皆ニナの歌を望んでいたが、それをニナに告げて歌を強要することはニナの精神の負担になると、アンダーソン医師から警告されていた。ニナが自分自身で歌う意思を見せない限り、歌う事を強要することは出来ない事をキャンベルは知らされていた。
「ニーナがそう望むなら仕方がない。君をこれ以上苦しめたくないんだ」
顔を上げたキャンベルは苦渋に満ちた顔で、悲しそうに呟いた。
一方のハドリーも、ニナが歌わないなら、俺も歌わないという姿勢を崩さなかった。
歌わないニナにハドリーは心を痛めたが、ニナの望むように生きさせたいと願った。それで自分も生涯歌うことがなくなっても構わないと、ハドリーは心に決めていた。
そんなある日、ラルフがニナの見舞いに訪れた。
「俺、丁度今ロンドンで公演中なんだ。時々見舞いに来るよ」
ラルフは笑ってニナの頭を撫でたが、ニナは傍らで微笑んでいるハドリーに何気なく訊ねた。
「ハドリーもロンドンなの? 毎日来てくれているけど、公演は大丈夫?」
ラルフと顔を見合わせて気まずそうな顔を一瞬見せるハドリーだったが、
「今、俺はオフなんだ。次の公演まで時間があるから大丈夫だ」
と、ニナに微笑んだ。
ところが、翌日見舞いに来たマートがハドリーが席を外している間にニナに聞かれ、ハドリーがニナの為に無期限で休養した事を話してしまった。自分の存在が彼の歌を奪ってしまったことを知って、ニナは激しく動揺した。
ハドリーを悲しげにじっと見るニナにハドリーが「なんだ? ニナ」と優しく問い掛けるが、ニナは黙ったまま何でもないというように小さく首を振った。
その夜、ニナは眠れなかった。いつも耳元で優しく響くハドリーの歌が耳から離れなかった。ハドリーはいつも自分のためだけに歌ってくれていた。でも、彼の歌は自分だけのものではないとニナには分かっていた。大勢の観客の賞賛を浴びて、ステージで輝くハドリーの姿をニナは知っていた。ハドリーを愛し、ハドリーの歌を愛する大勢の人を知っていた。そして、誰よりも舞台を愛し情熱を傾けてきたハドリーを知っていた。
だが、ニナはハドリーを失うのが怖かった。もう二人の魂は、心のずっと深いところで繋がっているのを感じていた。ニナはベッドの上から起き上がって、窓辺のカーテンを開け月の見えない闇夜を見上げた。
「私はどうすればいいの?」
涙を浮かべてニナは呟いた。
しばらくそんな日が続いたある日、まだ面会時間前の午前中に事務所のサラが突然面会に来た。
「サラ! 来てくれたの?」
と、ニナは嬉しそうだったが、ハドリーは無愛想な顔でサラを睨んだ。
「なんでこんな時間に来るんだ」
「大丈夫よ。病院の許可は取ってあるから問題ないわ」
サラは相変らず動じる事なく、ハドリーの睨みも無視して、
「ニナ。お見舞いよ。後で食べてね」と、『DD』と書いてある紙袋を冷蔵庫に入れた。
それを見て一瞬ピクッとしたハドリーをちらっと横目で見たサラが、ニナに言った。
「やっぱり、なるべく早く食べたほうがいいわ。無くならないうちに」
「無くならないうち? 無くなっちゃうの?」
「ええ。とっても食べたそうな人が約一名いるから」
そこでまたちらっとハドリーを見たサラの平然とした答えにハドリーが顔を赤くして、「サラ! お前……」と立ち上がって睨むが、サラは手を広げて呆れたように首を竦めた。
「だって事実だもの。貴方、大好物じゃない。『DD』のカスタードプディング」
「わぁ。ハドリーもプディング好きなんだ。私も大好き」
と、ニナはニコニコと笑った。
ハドリーは顔を赤くしたままサラを睨んで、不機嫌そうに黙り込むとまたどっかと椅子に腰を下ろした。
「用が済んだらとっとと帰れ。仕事時間中だろうが」
と、ブスッとしたハドリーが無愛想に言うと、サラはやはり顔色を変えずに、
「ええ、もう戻るわ。あ、そうそう。ついでにハドリーに用事があるのよ」
と、素っ気無く言った。
まだ不機嫌そうなハドリーを廊下に連れ出すと、サラは少し眉を顰めた。
「実は事務所に貴方へのお客さんが来てるの。一緒に事務所へ戻って欲しいのよ」
「客? 俺は休養中だって言っとけ」
「ハドリー。貴方の携帯が繋がらないからって、わざわざいらしたのよ。まぁ、貴方、一日中病院内に居るんだから仕方ないけど。連絡の取りようがないから私が此処に出向いたってわけ。キャンベルにも用があるって事だったけど、彼はキャンベルとは面識がないから、貴方に来て貰わないと困るのよ」
そう言うとサラはハドリーをじっと見た。
「貴方がよく知ってる人よ。Mr.ヘンリー・クロフォード」
ハドリーは驚いたように口を開けて黙り込んだ。
「どうせ貴方、ニナを一人に出来ないって言うだろうからと思って、連れてきたの」
「え? ヘンリーを、此処に? まさかニナに会わせるんじゃ……」
「違うわよ、ほら」
振り返った先には、手を挙げて微笑んで歩いてくるアルバートが居た。
事務所のキャンベルの部屋で頭を下げ続けるヘンリーをハドリーは暫く黙って見ていたが、やがて静かに言った。
「お前は自分の立場を投げ打ってニナを救おうとしてくれた。なのに、俺は助けられなかった。お前の想いに応えられなかった俺のほうこそ、お前に詫びなきゃならん。済まなかった、ヘンリー」
驚いて顔を上げるヘンリーの肩を叩いて、「もういいんだ」とハドリーは小さく笑った。ヘンリーに座るよう勧めて自分もソファに腰を降ろすと、ハドリーはヘンリーに向き合った。
「で、お前これからどうするんだ。E&Wは辞めたんだろ?」
「ああ、辞めた。というか解雇された」
ヘンリーは苦笑した。
「だが、俺は自分の道を見つけたんだ。これからの自分が為すべき道を」
「何をやるつもりだ」
「俺は不起訴処分で釈放されてからずっと、教会で祈りを捧げていたんだ。ニナが無事に戻るまでは、祈りを止めないつもりだった。だが、神は俺に奇跡を見せてくれた。あの場に俺も居たんだ、ハドリー」
ヘンリーは顔を上げてハドリーを見た。
「あの大勢の人の中に、俺も居た。俺は本当なら其処に居るべき人間じゃなかったが、其処に行くべきだという気がしたんだ。そこで、俺は神の姿を見たんだ」
ハドリーは怪訝そうにヘンリーを見たが、ヘンリーは静かに笑みを浮かべていた。
「確かに神はあの場に降臨された。祝福の光が、病室に差し込むのが見えたんだよ。だから俺は神に感謝し、生涯を捧げていく事にしたんだ」
そう言ってヘンリーは首元からチェーンに掛かった十字架を見せ、ハドリーに微笑み掛けた。
ニナのベッドの傍らで、慣れない手つきでリンゴの皮を剥いているアルバートに、ニナは思い切ったように話し掛けた。
「アル。ハドリーはもう舞台に戻らないつもりなのかしら」
ニナの悲しそうな呟きに、アルバートは手を止めてじっとニナを見てから俯いて静かに語った。
「彼はニーナを守れなかったことを悔やんでいるんだ。もう誰が言っても聞かない。君の傍を離れるのを拒むんだ。でもハドリーの苦悩も分かる。彼はそれほどニーナを大切に思っているんだ」
「でも! でも……ハドリーは舞台だって愛してたわ! いつも楽しそうに『俺は舞台が好きなんだ』って」
ニナは苦しそうに首を振って、叫んだ。
「私が歌わなくっても、ハドリーは歌うべきだわ!」
アルバートは静かな目でニナの手を取り、その手を小さく叩いて言った。
「ニーナ。もし逆の立場だったら、君はどうする?」
ニナは涙を浮かべた目でアルバートを見た。
「もしハドリーが歌を捨てるほど苦しんでいたら、君はそれでも自分は歌うかい?」
言葉を失ったニナは、戸惑ってアルバートから目を逸らした。
「ニーナ。君なら歌わないだろう。そうなんだよ、ニーナ。ハドリーと君は、同じ魂を持っているんだよ」
アルバートはニナの目をじっと見据えて、静かに言った。
「同じ魂……」
ニナはそっと呟いた。アルバートはニナの手を諭すようにそっと叩いて、優しく髪を撫でた。
アルバートが仕事で帰っていった後、ニナはベッドに横たわったまま天井を見つめじっと考えていた。やがて、ニナの瞳から堪えきれず涙が一筋零れて、そして彼女は神に祈った。
「どうか、彼を舞台に帰して。どうか、彼の歌をもう一度……。お願い……」
事務所から戻ったハドリーは、病室のドアを開けたところで目の前の光景に目を疑って立ち竦んだ。窓辺でニナが空を見上げて、本来はバルジャンが歌う『Bring him home』を歌っていたからだ。ニナは、ハドリーのために祈りを込めて歌っていた。
歌声を聞きつけた看護師やアンダーソン医師も廊下で静かに見守った。ニナの心からの叫びの歌により辺りの空気の色が変わり、祈りに満ち溢れ柔らかい色を帯びて、ニナの声に反応して空気がキラキラと光った。
空を見上げて一心に歌うニナの姿に、降り出しそうな程の厚い雲の隙間から、まるで神の啓示のように輝く光の帯が降り掛かった。光の帯は輝きを増しニナだけを明るく照らし、薄闇の迫る街の風景を背景にして、ニナだけが光の洪水の中に佇んで輝いていた。その奇跡の光景に、ハドリーとアンダーソン医師、傍らの看護師の三人だけの観客は、自分の瞳の中でキラキラと輝くニナの姿を信じられない思いで黙って見つめていた。
やがて静かに歌が終わり、ハドリーはゆっくりとニナに向かって進み、優しく声を掛けた。
「ニナ」
その声に涙を浮かべて佇んでいたニナは静かにハドリーを振り返って、ハドリーはニナの傍らに立ってその肩を抱いた。
「ニナ。神は必ず俺を”家”へ帰してくれる。だが、一緒にだ、ニナ。一緒に”家”へ帰ろう」
ハドリーは微笑んでいた。ハドリーを見上げて涙を浮かべニナは頷いた。
「ハドリー、貴方と一緒に帰るわ。“家”へ帰るわ。私、貴方と一緒に歌いたいの」
そっとハドリーに体を寄せたニナをハドリーは優しく抱きとめ、二人は静かに抱き合った。
隣で泣き続ける看護師に、アンダーソン医師は二人を真っ直ぐに見つめたまま語り掛けた。
「僕は、この歌を生涯忘れないだろう。君には見えたかい? 僕には見えたよ。神の祝福の手が」
穏やかに微笑んでいるアンダーソン医師には、今は二人が祝福を受けて燦然と輝いて見え、疑いも無くその光景を受け止めている自分に、自分自身で安堵していた。
ニナが再び歌ったというニュースはキャンベルを大喜びさせて、ニナが一番演じやすい『路上の天使達』をロンドンで半年後に一夜限りで再演することを決め、リトルをニナが演じると発表した。英国中が興奮して、皆喜びで顔を見合わせた。TOPニュースでニナの復帰を伝える新聞を手にベラはベッドの傍らのテッドに、「これ、チケット取りなさい。絶対よ」とテッドを脅して苦笑させた。
キャンベルの元にはこの舞台に出演させろという逆オファーが殺到した。誰もがニナと一緒に歌いたいという気持ちで、中には「この舞台に出して貰えないなら、これからのお前からのオファーは全て断るぞ!」と脅す者も出てきて、キャンベルは困り果てて頭を抱えた。
「いつも俺達をこき使ってるからな。天罰だ」
事務所に呼び出されたハドリーがその様子を鼻で笑ったが、ジロリとハドリーを睨んで見上げたキャンベルは「ふん」と呟いた。
「そんな減らず口叩く奴には役は回って来ないぞ」
「俺が『天使』で出来る役は無いって言ってただろうに」
ハドリーを意味ありげに見てニヤリと笑ったキャンベルにハドリーが素っ気無く返すと、キャンベルはハドリーを覗き込むように見て不適な笑みを漏らして、
「それはどうかな」
と、ハドリーを見据えた。
歌う事を決めてからのニナの回復は早かったが、折角回復の兆しを見せていたニナの成熟はまた止まってしまった。アンダーソン医師はアルバートとキャシーに、再度ニナに対して成長を促さないように注意するよう指示した。悲しそうに顔を見合わせる二人に、アンダーソン医師は微笑んで言った。
「ニナには、我々が計り知れないような力がある。時間は掛かるかもしれないが、きっと彼女は乗り越える事が出来る筈だ」
アンダーソン医師は、ニナの奇跡の力を信じようと、そう決めていたのだった。