霧の中への逃避
ニナは車椅子のまま、ロンドンのヒースロー空港に降り立った。帰国したニナの元にキャンベルがいそいそと現れニナの足を心配して嘆いたが、ニナはにっこりと笑って微笑んfだ。
「大丈夫よ。キャンベル」
「そうか。それなら、ニーナにいい話があるんだ」
キャンベルは嬉しそうに頷き、ニナに向ってウィンクした。
最初ニナは、九ヶ月も皆と離れるのを怖がって不安そうだった。なんとかハドリーと一緒に行けないかキャンベルにお願いしたが、キャンベルは真顔で首を振った。
「ニーナ。この作品はどちらかと言うと米国式だ。ダンスの比重も多い。話の内容もハートフルコメディーだ。ハドリーの声や芸風には合わないんだよ」
キャンベルは報復だけでハドリーを外したわけではなく、ちゃんと作品を考えて配役していた。
しょぼんとするニナをキャンベルは悲しそうな顔で覗き込んで慰めた。
「でも、今回はサンドラが一緒だ。リンダにも行ってもらう。一人じゃないから、ね」
そしてまた真顔になると、ニナの頭を撫でて微笑んだ。
「ニーナ。君は一人の俳優として立派に勤められることを証明したじゃないか。君なら頑張れる筈だ」
ニナはその言葉に、寂しそうではあったが頷いた。
ツアーで痛めた足の治療でしばらく静養していたニナだったが、勉強に苦労していたジェームズの家庭教師をやったり(ジェームズは「ニーナの方が頭がいいんだから、ニーナが大学へ行けばいいんだよ」と嘆いた)、アニーの恋の悩みの相談に乗ったりと、ゆったりとした時間を過ごしていた。
ニューヨークのハドリーからの依頼でニナのPCをネットに繋いだジェームズは、ニナにネット電話の使い方をしっかりと教え込んだ。
「これでいつでも国際電話代無しで会話出来るんだぞ」
「ジェミー、すごいわ!」
得意そうなジェームズに、ニナは目を丸くして感心した。
早速ハドリーに繋いだニナは、時差を考えずに早朝にハドリーを叩き起こした。
「ハドリー! もう十時よ! もう起きなきゃ遅刻するわ!」
「……ニナ。こっちはまだ朝五時だ」
ハドリーは寝起きの不機嫌そうな顔でがっくりと頭を落とした。
「おっと。時差の説明し忘れてたな」
「ジェミー。お前も真夜中にニナに叩き起される事になるぞ。覚えておけよ」
ニナの後ろでジェームズがクスクスと笑ってそっぽを向いたまま惚けると、ハドリーはぶすっとしたまま不機嫌そうに呟いた。
デイジーとも久しぶりに会って、二人で楽しい時間を過ごした。
デイジーは去年恋人と結婚して、二人で新しい店を開いて頑張っていた。ニナの楽屋に必ず置いてあった小さな可愛い花籠はずっと女性陣から評判になっていて、訊かれる度にニナは目を輝かせてニコニコとデイジーの店を勧めた。
「友達なの! 買ってあげてくれると嬉しいわ」
何人かのスタッフやキャストは、デイジーがニナと一緒にハンセンを告発をした少女だと覚えていて、ニナと同じように懸命に働くデイジーを見て応援する人が後を立たなかった。自分のリサイタルやライブでの装飾を依頼する人もどんどん増えて、デイジーのセンスのいいフラワーアレンジメントは業界で評判になっていった。
三ヶ月の月日はあっという間に過ぎ、足の癒えたニナは見送りのアルバートやキャシーに手を振って元気にニューヨークへ旅立って行ったが、入れ替るようにようやく本国に戻ったハドリーをキャンベルは手薬煉を引いて待ち構えていた。
「次の舞台も予定通り今週から稽古入りだ。その後はバンドのツアーだったな。それが終わったら直ぐに『ファントム』がある。暫くオフが無くて悪いが、宜しくな」
帰国したその足で事務所に報告に来たハドリーを見て、キャンベルは意地悪そうにニヤリと笑った。
ハドリーは顔をひくひくとさせながら「この……クソ親父」と呟いたが、キャンベルは聞こえない振りをして、
「ニーナはそろそろ着いたかなぁ」
と鼻歌を歌いながら、憮然とするハドリーを残して去っていった。
新作の『路上の天使達』は、ニナのために書き下ろされた脚本だった。
どの役でも抜群の歌と演技を見せたニナだったが、致命的な欠陥があった。小さすぎて出来る役がどうしても限られてしまうのだ。無理な身長の底上げはこれ以上はニナの体の負担になると判断したキャンベルは、密かにニナの体型に合わせて演じられる新しい脚本を依頼していた。
スラムで生きるストリートチルドレンの女の子が主人公の話で、等身大で演技できることにニナは喜んだ。暴力を受けるシーンも無く、淡い恋心はあってもラブシーンも無く、ニナが演じやすいように作られていた。
相手役の元探偵役には映画・舞台と幅広く活躍するヒューイ・ジェファーソンが選ばれ、映画版「レ・ミゼラブル」で主役のバルジャンを演じゴールデングローブを獲ったこの大スターは、気さくで思いやりの深いナイスガイだった。ニナを娘のように可愛がって、いつしかヒューイも「ニナは俺の娘」と公言するようになった。
稽古の合間にはリンダとショッピングをしたり、サンドラと観劇に出かけたりと、ニナはオフも充実した時間を過ごしていた。ニューヨークのヒューイの自宅にも呼ばれて、久しぶりに子供達と遊んだニナは楽しそうだった。
ニナはちゃんと時差を計算して、ハドリーへも時々ネット電話をしていた。多忙なハドリーが中々捕まらない事が多く、話が出来るとニナはほっとしたように安心したが、ハドリーはいつも心配そうに色々一気に訊ねた。
「ニナ。大丈夫か。具合の悪い所はないか? リンダはちゃんとやってるんだろうな? 稽古はうまくいってるか? お前を虐めたり……その……えっと、お前にちょっかい出したりする奴は居ないだろうな?」
「ちょっかいって?」
「いや、それはいいんだ。とにかく、大丈夫か?」
顔を赤くしてそっぽを向いたハドリーが、ぶっきらぼうに訊ねた。
「私は、大丈夫よ。リンダは色々な物をちょっとずつ食べなさいって、とっても優しいの。稽古は順調だし、みんな優しいわ。この前はヒューイのお家に遊びに行ったの。小さい子がいて楽しかったわ。それより、ハドリーこそ、ずっと仕事でオフが無いなんて、大丈夫?」
眉を寄せて心配にするニナに、ハドリーは不機嫌そうに呟いた。
「ああ。あのクソたぬき親父、渡米する時間もないぐらい仕事入れやがって」
「ダメよ。ハドリーそんな事いっちゃ。……でも、体には気をつけてね」
「俺は大丈夫だ。心配するな」
心配そうな顔で瞳を潤ませるニナを見て、画面のニナにキスしたい衝動に駆られて焦ったハドリーは、
「じゃあ、早く寝ろ。明日にちゃんと備えとけ。俺も明日早いしな」
と、言ってニナにとっては早いおやすみを言った。ニナはちょっと寂しそうに微笑んで、
「うん。おやすみ。ハドリー」
と、手を振った。通話が切れるとハドリーは、寂しそうにフゥとため息をついた。
半年の準備期間を経て、ミュージカル『路上の天使達』が開幕した。一五〇㎝の小さな姿で舞台上を駆け回るニナと、一八九㎝の長身でとぼけた元探偵役を好演するヒューイの、身長差四十㎝近い凸凹コンビは大人気となり、公演は連日超満員だった。ダンスシーンの多いこの舞台でニナは抜群のリズム感を見せ、元々ダンスのうまいヒューイとのコンビネーションも完璧だった。
ハドリーも舞台やバンドのライブツアーなどで忙しい日々を過ごしていたが、舞台上で生き生きと輝くニナの姿をTVやネット中継で見て、安心そうにため息をついていた。
そして、公演の最終回近くに発表されたその年のトニー賞の作品賞に『路上の天使達』が選ばれた。ニナも同時に主演女優賞を獲得して、名実ともにミュージカル界のトップ女優となった。本国英国ではニナの快挙に皆喝采を上げ、事務所はお祝いムード一色になった。ハドリーはホッとすると同時に、もうすぐニナが帰ってくると思うと自然と笑みが零れるのだった。
「ハドリー!」
ニナはヒースロー空港の到着ロビーに降り立つと、帽子にサングラスで変装していたハドリーを目聡く見つけ、大きな声で手を振って嬉しそうに叫んだ。
天を仰いで「あの馬鹿」と嘆いたハドリーだったが、ニナは変装しようがないからいずれ周りにバレるのは分かっていたので、「ニナよ」「ハドリーだ」「やっぱりあの二人付き合ってるのね」のひそひそ声も気にせず、駆け寄って抱きついてきたニナをしっかり受け止めた。
「おかえり。ニナ」
「ただいま。ハドリー」
ニナはうるうるとした瞳でじっとハドリーを見つめていたが、またそっと抱きついて、微笑んでいるハドリーを嬉しそうにぎゅっと抱き締めた。
『Proms』出演のため地方へ出掛けて不在だったアルバートに代わってハドリーがニナを家へ送り届けると、車の音に玄関から飛び出してきたキャシーが、車から飛び降りて駆け出したニナをしっかりと抱きしめた。
「ニーナ! 元気だった? どこも悪いところはない? ああ、ニーナ。お帰り、ニーナ」
キャシーは涙を浮かべながらニナを抱きしめ、頬や額に何度もキスをして、またニナを抱きしめた。
「キャシー、ただいま」
ニナはキャシーにしっかりと抱きついて、幸せそうに頬を染めた。
玄関に入ると、玄関先に腕を組んで仁王立ちをしていたジェームズが「うむ。ニーナ、立派になったな」と、偉そうに言った。ニナ不在の間にまた背が伸びたジェームズは満足そうに頷いていたが、後ろから「お兄ちゃん、邪魔」と、アニーに押しのけられた。こちらもこの一年で殆どニナと変わらない身長になったアニーが「ニーナ!」と、叫んでニナに抱きついてポロポロと泣いた。身長は大きくなっても何時までも末っ子で甘えん坊なアニーをしっかりと抱き締めて、ニナは微笑んで「アニー、ただいま」と優しく囁いた。
翌日アルバートが公演から戻ると、アルバートの家でニナの九ヶ月ぶりの帰国と、トニー賞受賞を祝うホームパーティが開かれ、皆の笑顔に囲まれてニナは楽しそうに笑っていた。
僅かの間にニナはまた少し背が伸びていて、時折大人びた表情をするようになっていた。透き通る頬はうっすらと赤みを帯びて、薄く紅を差した小さな唇はニナが少し成長を始めた証のように見えた。そんなニナを眩しそうに見つめていたハドリーの隣に黒い縮れ髪の女がやってきて、「アンタがハドリー・フェアフィールドかい」と、ハドリーの顔も見ずに言った。
聞き覚えのある声にハドリーが振り向くと、女はたじろぎもせず今度はハドリーを見上げて睨んだ。
「ニナを泣かせたら承知しないよ」
「勿論だ。約束する。ベラ姐さん」
ハドリーは微笑んだが、その目は真剣だった。ベラはじっとハドリーを睨んでいたが、「ふん」と呟くとハドリーの肩を叩いた。
「ベラ姐さん! 来てくれたの?」
ベラを見つけたニナが嬉しそうに笑いながら、駆け寄ってきた。何時の間にかハドリーの反対側の隣に、テッドが何も言わずにハドリーに微笑んで頷いていた。トニー賞女優になったというのに変わらず屈託のないニナを、皆が優しく見守っていた。
ニナは帰国しても落ち着く間もなく、毎日あちこちのTV局に呼ばれて、インタビューやら歌やらで忙しそうにしていた。ハドリーはまたあの「たぬき親父」に違う舞台の仕事を入れられていたが、それが終われば少しのオフの後にまたニナと共演することが決まっていた。またニナと一緒に過ごすことが出来ると思うと、いつもの不機嫌も影を潜めているハドリーだったが、忙しい二人はすれ違いがちで、あの言葉の続きをニナに告げられないでいた。
久しぶりにアンダーソン医師の診察を受けたニナは、やはり回復の兆しを見せていた。数値が少しずつ上昇し、ニナが自分を解放し始めているのかもしれないと、アンダーソン医師は嬉しそうに微笑んでアルバートとハドリーに告げ、ほっとしたように顔を見合わせた二人も、自分の事のように喜んだ。
ニナが帰国して二週間ほどが経った日のことだった。その日はオフで自宅に居たハドリーの携帯電話が鳴った。大学時代一緒の演劇サークルに居た古い友人からだった。
「ヘンリー、久しぶりだな」
「やあ、ハドリー。君は相変らずだな。いつも君の活躍は見ているよ」
久しぶりの電話にも関わらず何時ものようにぶっきらぼうにハドリーが出ると、ヘンリーは明るい声で笑った。ところがヘンリーは急に声を潜めると、小声で囁いた。
「ところで、ハドリー。俺は今E&W社の秘書室で働いてるんだ」
このE&W社は英国の製薬会社の最大手で、現CEOが芸術機関への出資にも熱心な慈善家として知られ、彼はカンパニーへの最大の出資者でもあった。だが気に入らない関係者には厳しく当たり、彼の機嫌を損ねて冷や飯を食った関係者が居る事も事実で、つい先日、私的な食事の招待を断ったというニナが、不安そうに「私は大丈夫かしら」と呟いていた事をハドリーは思い出していた。
「E&Wか。俺らも随分世話になってるところだぞ。凄いな、製薬最大手じゃないか」
「明日、ウチの主催でニナのトニーの受賞記念パーティがあるだろう。知ってるか?」
ハドリーの感心ぶりにも答えず、ヘンリーは小声で問い掛けた。
「ああ。俺は出てないから行かないけどな。それがどうした?」
「あのパーティは危険だ。ニナを連れていかないほうがいい」
緊張した声で囁くヘンリーに、ハドリーはその意味が分からずに戸惑って訊ねた。
「どういうことだ?」
「詳しくは言えない。済まない、ハドリー。出来ればニナを欠席させてくれ」
と、ヘンリーは苦しそうに言葉を詰まらせながら、辛そうに囁いた。
「ニナは主賓だ。今からじゃ無理だ」
「とにかく、忘れるな。あのパーティは危険だ。……ああ、じゃあ、また今度飲みでも行こう。じゃあな」
ヘンリーは、途中から急に声色を変えて明るく大きな声で話すと電話を切った。
昔から冗談一つ言わない真面目な友人だった。その友人の切羽詰った声に、ハドリーは沸き上がる不安を隠せなかった。ツーと乾いた音を立てる携帯を握り締め唇を噛んで考え込んでいたが、もう一度携帯を握り直すと事務所へ掛けキャンベルを呼び出した。
「ニナを欠席させてくれ」というハドリーの申し出をキャンベルは即座に断った。
「何言ってんだ、ハドリー。相手はE&Wだぞ? そんな事出来る筈がないのはよく分かってるだろう」
「分かった。じゃあ俺も出席させてくれ。舞台は休む。了承してくれ」
憮然とするキャンベルに、ハドリーは真剣な声で依頼した。
「しかし、その情報は本当に信頼出来るのか?」
「ああ。俺と違って昔から真面目な奴だった。嘘は言わない」
「よし。ハドリー、ニーナのエスコートをアルと代われ。明日の舞台は休め。こっちで代役を手配する。元々アルは招待されてるし、サンドラにも常に注意するよう伝えておく。だが明日は、俺は行けないんだ。何かあったら必ず連絡してくれ」
しばらく考え込んでいたキャンベルが、ハドリーに固い声で指示した。
キャンベルには、腑に落ちない事があった。他の日も候補にあったのに、わざわざ自分が出席出来ない日がパーティに選ばれた事がずっと気になっていた。だが、これほど盛大なパーティで何かがあるとは考え難かったキャンベルは、電話を切ってからも眉を寄せて考え込んでいた。
パーティ当日、華やかなパーティ会場の中心にニナが居た。正装のハドリーにエスコートされ、淡いピンク色のドレス姿で優雅に佇むニナは、ニナを褒め称えようという大勢の人に囲まれていた。
主催のE&W社のCEOであるグラハム・クレイトンが、両手を広げてニコニコとニナを抱いて頬にキスし、嬉しそうにニナに微笑んだ。
「ニナ。君は本当に素晴しいね」
と、にこやかに両手を差し出してニナと固く握手をするグラハムに、
「ありがとうございます。ご支援のお陰です」
と、ニナは微笑んだ。ハドリーはニナのすぐ後ろに立ってSPのように常に周りに注意を払っていた。グラハムがハドリーにも、
「ハドリー。今日はSP役かい?」
と、にこやかに笑いかけると、ハドリーは苦笑いして、
「ええ。まぁ」
と、言葉を濁した。
あちこちで呼び止められ、その度に挨拶を交わすニナにぴったりと付き添うようにハドリーが目を配った。時折すれ違うアルバートと顔を寄せるように小声で「何か異常はないか」と囁き合い、同じように会場内を挨拶して回るサンドラとも、無言で頷きあった。
お酒を持て余していたニナに届けられたジュースをおいしそうに飲んで、ハドリーを見上げてニナが微笑むのを見ていると、このまま何も起こらなければいいがと、ハドリーは微笑み返しながらも不安は消えなかった。
ところが特に何も起きずに、ニナの挨拶とCEOの挨拶が終わり、パーティは終了した。
「なんか眠くってスピーチ失敗しそうだったわ」
ハドリーの元に戻ってきて苦笑いしたニナの頭をポンと叩くと、ほっとしたハドリーが「帰るぞ」と告げた時だった。
ハドリーに向かって足早に歩いてきたウエイターが、「Mr.フェアフィールド様。お電話が入っております」と頭を下げた。
「俺に?」
と、不思議そうにポケットの携帯に触れたハドリーにそっと囁くように、
「事務所の方から緊急のご用件のようでございます。こちらへ」
と、ウエイターは丁寧に手を差し出した。ハドリーはアルバートとサンドラの姿を探したが、どちらも人に囲まれて対応をしている最中だった。
「ニナ。絶対ここを動くな。待ってろ」
怪訝そうに眉を顰めたハドリーは、緊急の言葉に不安そうなニナに告げると、案内された出口からホールを出ていった。
パーティの参加者が三々五々開放されたドアから帰り始めている中、心配そうに立ち尽くしているニナの元に、別のウエイターがやはり足早に近づいてきて頭を下げそっと囁いた。
「Mr.フェアフィールド様からご伝言でございます」
そして更に声を潜め、そっとニナの耳元に手を添えた口元を寄せると、ニナに告げた。
「Mr.カールソン様が事故に遭われたとのことで緊急に病院に向われるそうです。お車でお待ちになっておられます」
「ええ? ラルフが?」
「ご内密に。どうぞお急ぎ下さい」
ニナが息を呑んで青褪めた顔で声を上げると、ウエイターは静かに口に指を当て、ニナをステージ脇の開いていないドアへ案内した。
「こちらが近道でございます。どうぞ」
と、青褪めた顔のニナを招き入れ、そっと辺りを見回してウエイターは静かにドアを閉じた。
「こちらでございます」
ハドリーは、ホールから大分離れた、フロアの入口付近のカウンターに置いてある電話のところまで案内された。ウエイターが頭を下げると、置いてあった外された受話器をハドリーは手に取った。
「もしもし」と、出たがツーという発信音がするだけで既に電話は切れていた。ハドリーが訝しげに、「切れているが……」と、振り返ったが、そこにはウエイターの姿はもう無かった。
怪訝そうに眉を顰めたハドリーは、やがてはっとして受話器を投げ出すと人の流れに逆らうようにホールに駆け戻ったが、先ほど居た辺りにニナの姿はなかった。ハドリーの胸の中に焦りと不安が渦巻いて、慌ててホールを出て走り回ってニナを探したが、ピンクのドレス姿は何処にも無かった。
ハドリーはホールに駆け戻ると、やはり姿が見えなくなったニナを探して不安そうに周りを見回していたサンドラを見つけ、駆け寄って耳元で囁いた。
「ニナが居なくなった。レストルームを見てきてくれ」
そして、まだ幾人かに囲まれて談笑していたアルバートの元へ走り、その耳元で「ニナが居なくなった」とそっと囁いた。
アルバートは周りの人に「ちょっと失礼」とにこやかに言うと、ハドリーを捕まえて小走りに少し離れ、顔を寄せて厳しい顔でハドリーを見た。
「何があった?」
「電話だと呼び出されて、戻ったらニナが消えていた」
「とにかく探せ。そんなに時間が経ってないからまだホテル内に居る筈だ」
ハドリーが歯噛みして悔しそうに呟くと、アルバートは眉を寄せてハドリーに指示した。
その時ハドリーの脳裏に突然さっき探した廊下で通り掛ったエレベーターホールの映像が浮かんだ。一台のエレベーターが最上階に止まったのを示していた。
「上だ……上にニナが居る」
不思議なほど鮮明に浮かぶその光景にハドリーは目を見開いて呟くと、そのまま駆け出して行った。
「レストルームには居なかったわ。ハドリーは?」
駆け去ったハドリーの後ろ姿を眉を寄せて見ていたアルバートの元にサンドラが駆けてきて、心配そうに訊ねた。アルバートはそれには答えず、先ほど談笑していた輪の中に居た一人の男の後ろからそっと近づくと、耳元で小声で囁いた。
「首相、お話が」
それは英国首相のダグラス・ゴールドバーグだった。首相も「ニナは私の娘」と公言するほどのニナのファンで、グラハムと個人的に親交のある首相はこのパーティの主賓でもあった。
「ニナが誰かに連れ去られました」
「どういうことだ?」
少し離れた場所でアルバートは小声で首相に告げ、首相は眉を潜めアルバートを問い質した。
アルバートが事前に密告があった事を告げて事件の可能性が高い事を知らせると、首相はじっと聞いていたがやがて傍らに居たSPに何か耳打ちし、SPが隠しマイクで何処かへ密かに連絡を取った。首相は厳しい顔で、アルバートの耳へ顔を寄せて囁いた。
「念のため、ロンドン警視庁へ極秘捜査を命じた」
アルバートはその言葉に「感謝します」と小さく頭を下げた。そして、傍らで心配そうに佇んでいるサンドラに向って、「キャンベルに連絡しろ。俺は警察と合流する」と固い表情で告げた。
「ニナ! 何処だ? 返事をしろ! ニナ!」
その頃ハドリーはホテルの最上階のクッションの効いた赤い廊下を、叫びながら走り回っていた。静まった廊下に並んだ豪華なドアはどれも閉められており、ニナの姿は何処にもなかった。
ラルフが事故に遭ったと聞かされ、駐車場に案内されていた途中までは覚えていたニナだったが、それからの事が記憶になかった。朦朧とする意識の中でニナは、自分が何かを飲まされているのを感じていた。冷たい液体が喉を通るとやがて急速に意識が戻ってきて、ニナはゆっくりと目を開けた。
ニナは見知らぬ豪華な部屋のベッドに寝かされていた。ぼんやりとした視界がやがて焦点が合ってくっきりと映し出されると、自分を覗き込むように一人の白髪の老人が笑い掛けていた。まだよく動かない体を動かそうとしたニナは、男の手が自分の体を撫で回しているのに気づいた。
「嫌っ!」
ニナは男の手を振り解こうと力を込めて手を払ったが、ふらふらとして力が出ないニナは難なく男に押さえ込まれた。裸にガウンだけを纏ったその男はニナに向かってにやにやと笑い掛けた。
「ニナ、君は運がいい。私の寵愛を受ければ世界は君のものだ。利口になりなさい」
その男は、先ほどパーティでニナに鷹揚な態度を見せていたグラハムだった。
ニナにのしかかろうとしたグラハムを、ニナは気力を振り絞って渾身の力で振り払った。ベッドから逃れるとふらつく足で隣のリビングへ逃げ、そこから部屋の入口までよろめくように逃げてドアを開けようとしたがどんなにノブを廻してもドアは開かなかった。
「助けて! 誰か、助けて! ハドリー! ハドリー!」
と、叫んでニナは必死にドアを叩いたが、ゆっくりとグラハムが近づいて来た。
「ニナ。いくら叫んでもいいよ。此処の音は絶対外には漏れないからね」
と、歪んだ笑みを漏らした。追い詰められたニナを抱きすくめて顔を寄せてきたグラハムを、ニナは必死で振り払ってリビングに逃げ込むと、今度は大きな窓ガラスを叩いたが、嵌め込み式の分厚いガラスは叩いてもビクともしなかった。
「ニナ。大人しくしなさい」
と、グラハムが徐々にニナを追い詰めていった。青褪めて後退りで逃げるニナがソファに置かれたテーブルに躓いて転ぶと、テーブルにあったガラスの大きな花瓶が床に落ち音を立てて割れた。
ニナは咄嗟にその中の鋭く尖った大きな破片を手に取ると、その欠片を両手で握り締めて自分の首に押し当て、
「近寄らないで! 一歩でも動いたら私はこの場で死ぬわ!」
と、グラハムを睨み付けた。押し当てられた首筋に傷がつき既に僅かに血が流れ始め、ギザギザに割れた破片を強く握り締めた両手からも血が流れ出していた。
グラハムは僅かに眉を顰めたが口元に笑みを浮かべると、
「君は、カンパニーがどれだけ私からの恩恵を受けているか知らない筈ないだろう。皆を路頭に迷わせたいのかね?」
と、ニナを見据えてにやりと笑った。
「君の大好きなハドリーを今後一切どの舞台にも出演させない事も私は出来るんだよ。それでもいいのかね」
グラハムは狡猾に笑いながらゆっくりとニナに近づいてきた。
その言葉に目を見開いてガクガクとニナは震え出した。自分の所為でハドリーが舞台から追われてしまうかもしれないと思うと、ニナは混乱し激しく動揺した。この男の言葉が嘘ではない事を、ニナはよく知っていた。
「ハドリーを見殺しにする気かね? 解ったら、それを捨てなさい」
グラハムの冷酷な言葉にニナの手から欠片が零れ落ち、冷たい床に落ちカツンと音を立て、呆然としたニナの鳶色の瞳から急速に光が消えていった。
「よしよし、いい子だ。心配ないよ。皆一度私に抱かれれば夢中になるからね。君もきっとそうだろう。ハドリーの事など直ぐに忘れてしまうよ」
グラハムは薄笑いを浮かべて最早逃げる気力を失ったニナの腕を掴んで立たせて抱き寄せると、卑しい笑みを浮かべながら、ゆっくりとニナを傍らのソファに押し倒した。
自分の体の上で興奮したように蠢くグラハムの手や唇の触れた箇所から、またどす黒く闇が自分を覆い尽くしていくようにニナは感じた。強引にドレスが引き下ろされ胸を露わにされた時、ニナの白い肌の上で、小さなルビーのペンダントが弾んで揺れた。固く目を閉じて唇を噛み締めたニナの脳裏に優しく微笑むハドリーの顔が浮かんだが、ニナは涙を一筋溢し、今度こそ、もう二度とハドリーには会えないと思った。
そのハドリーの笑顔が、ニナの心の中で急速に広がり続ける深い霧の中に消えて行こうとしていた。ニナの瞳から最後の光が消えようとする瞬間、残された僅かな気力を振り絞ったニナは、目を見開き震える声で、祈りを込めて絶叫した。
「……ハドリー……ハドリー!」
ニナの叫ぶ声が聞こえて、廊下で走り回っていたハドリーは立ち止まった。
いや、聞こえてきたのではなかった。ニナの悲痛な叫びが、自分を呼ぶ声が頭の中で響き渡ったようにハドリーには思えた。目の前にはこのフロアで一番大きな樫の木の重厚なドアがあった。そのドアに駆け寄って、ハドリーはどんどんとドアを叩き、叫んだ。
「ニナ! ニナ! 此処だな? 此処に居るんだな?」
だが、固く分厚いドアはびくともせず、ハドリーの行く手を阻んでいた。
「くそっ。おい、開けろ! 此処を開けろ! ニナ! ニナ!」
「ハドリー!」
拳でドアを叩き続けるハドリーの元に、アルバートが走ってきた。その後ろには厳しい目をした背広姿の幾人もの男が居た。ロンドン警視庁の刑事達だった。
「此処だ! この中にニナが居る!」
ハドリーはアルバートに気づくと、ドアを示して叫んだ。困惑した刑事達が顔を見合わせているところに、一人のウエイター姿の男を両脇に挟むように二人の刑事が連行してきた。
「このフロアの奥に居たが、我々を見て逃げようとしたので連行した」
と、一人が別の刑事に囁いた。ハドリーはその男に見覚えがあった。ニナに頼みもしないジュースを運んできた男だった。ハドリーはその男に駈け寄ると胸倉を掴んで締め上げ、刑事の制止を振り切って憤怒の形相で男を睨み付けた。
「貴様あのジュースに何を入れた? 睡眠薬だよな? おい、ニナは、ニナは此処だな? 此処に連れ込んだんだな? 吐け!」
ハドリーの鬼のような形相に怯えた男がぶるぶると震えながら頷くのを見て、刑事達は顔を強張らせて見合わせた。男の隣の刑事が、「カードキーを持っているだろう? 出せ」とウエイターを睨むと、怯えて震えながらウエイターはポケットからそっとカードキーを出した。
ドアが開け放たれると、止める刑事を振り払ってハドリーは最初に部屋に飛び込んだ。目の前には胸が露になるまでドレスを脱がされ、ぐったりとしてリビングのソファに横たわるニナと、そのニナに覆いかぶさるようにしてニナの胸に手を置いたまま、ハッとして顔を上げたガウン姿のグラハムが居た。
唸り声を上げてグラハムに殴りかかろうとしたハドリーの手を取って刑事が押さえ込んだ。
「落ち着け! ハドリー! ニナの救助の方が先だ!」
うろたえて立ち上がり後退りするグラハムに、刑事達が厳しい顔で詰め寄っていった。
「ニナ! 大丈夫か?!」
ハドリーはニナに駆け寄って抱き上げたが、ニナは青褪めたままぐったりとして、目を固く閉じたままで呼び掛けても意識が無かった。露になった肌も小さな胸も色を失ったかのように白く、首筋には流れ出た血が固まってこびり付いて、両手の傷から流れ出した血がピンクのドレスに赤い染みを作っていた。ハドリーはドレスを直してニナの上半身を覆うと、振り返って叫んだ。
「アル! 救急車だ! 早く!!」
翌朝、泣きはらした目のキャシーとアルバートが、病室のニナの枕元に付き添っていた。ハドリーは壁際で唇を噛んで立ち尽くしていて、ベッドの反対側には心配そうなアンダーソン医師が黙ってニナを見守っていた。ニナの首と手には白い包帯が巻かれ、ニナは青褪めた顔のまま眠っていた。
やがてニナはゆっくりと目を開けた。アルバートとキャシーがそれを見てホッと顔を見合わせると、キャシーが優しくニナに声を掛けた。
「ニーナ。もう大丈夫よ。何の心配もないわ」
だが、ニナは真っ直ぐ天井を見つめているだけで、何も応えなかった。
「……ニーナ?」
怪訝そうなキャシーの声に、壁際で見守っていたハドリーが眉を寄せてニナのベッドへ近寄った。
「ニーナ? どうしたの? ニーナ! ニーナ! 返事をして!」
アルバートとキャシーが何度も何度もニナに叫ぶように呼びかけるが、その声にも、肩を揺すられても、ニナは全く反応しなかった。
真っ直ぐ病室の天井を見上げているだけのニナの鳶色の瞳には光が無く、目を開いているだけで何も見ていなかった。虚ろな表情のままニナの体は凍りついたように、そう、まるで人形のように、指一本動くことがなかった。
厳しい顔に変わったアンダーソン医師が、反応を確かめるように「ニナ」と声を掛け、手にしたペンライトでニナの瞳孔反応を確認した。そして、「家族を外へ」と傍らの看護士に鋭く指示すると、頷いた看護士が泣きながらニナに縋り付こうするキャシーを押しとどめるように遮って、アルバートとキャシー、そしてハドリーを、「診察です! 出て下さい!」と、病室の外へ押し出しドアを閉めた。
ドアの前でニナを呼んで泣き崩れるキャシーをアルバートが抱き締め、ハドリーは目を見開いて呆然とただ立ち竦んでいた。
それから一週間に亘りニナは検査のために面会謝絶となり、ハドリーは自宅で毎日眠る事も出来ずにまんじりと過ごした。キャンベルからは、しばらく休みをやると事件の夜に電話が来ていた。
TVではマスコミに追われマイクを向けられたグラハムが、
「合意の上だった。ニナから誘ってきた。以前話題になった通り、成功のためには誰とでも寝る子だったんだろう。ニナ本人に聞いてみればいい」
と、ニナが目覚めていない事を知っていてそう主張していた。握り締めていた携帯をTVに投げつけようとした瞬間、その携帯が鳴った。警察からの事情聴取の要請だった。
ロンドン警視庁の取調べ室の一室にある小さなソファに腰掛け、ハドリーは目の前に腰を下ろした一人の刑事と向き合った。
ロナルドと名乗ったその刑事に警告の電話があった事から話し始めたが、その相手がヘンリーだという事はハドリーは明かさなかった。当日の様子を説明し終えると、ハドリーは暗い表情で黙りこくった。ロナルドは手を組んで静かにハドリーの話を聞いていたが、
「ハドリー。ヘンリー・クロフォードを知っているね?」
と、ハドリーを真っ直ぐ見つめて問い掛けてきた。ハドリーは黙ったまま顔を上げ刑事を見ていたが、暫くして、諦めたように認めた。
「ああ。電話を掛けてきたのはそいつだ」
「彼はこの事件が計画的に行われたという情報を持って自首してきた。その情報を今鋭意捜査中だ。現在彼は我々の元で安全に保護されている」
ロナルドは表情を変えずにハドリーに向って静かに語った。そして、驚いたように目を丸くしているハドリーに向って、
「我々は必ずグラハムを捕まえる。どうか信じて欲しい」
ロナルドは強い瞳で語り掛け、そして顔を俯け、眉を寄せて沈痛な面持ちになった。
「ニナの容態は聞いている。我々も彼女の回復を信じたい。ハドリー。諦めちゃいけない。自分を見失わないようにしっかりと保つんだ」
静かに諭すロナルドに、ハドリーは暗い沈鬱な表情のまま、僅かにだけ頷いた。
自分の権力を過信していたグラハムは潔白を主張し続け、カンパニーを恫喝した。
「恩義のある俺にこんな仕打ちをしやがって。今後は一切支援しないぞ」
「貴様の汚い金など必要ない。絶対に刑務所送りにしてやる!」
グラハムの脅しをキャンベルは唾を吐きかけるように突っ撥ね、顔を真っ赤にして電話口のグラハムを罵った。
さらに政財界から圧力を掛けようとしたグラハムだったが、
「私もあの場に居たんだよ。ニナから誘った? 私の知る限りそんな事実はないと思うが」
首相は面会に来たグラハムを冷たく見て、拒絶するように後ろを向いた。
ニナ本人から事情が聞けない状態で捜査は難航するかと思われたが、ヘンリーの情報から二人目の男、ハドリーを偽電話で呼び出した男も逮捕された。ハドリーはその男に面通しをして、自分を嵌めた男だと証言した。そしてニナの体からジュースに混ぜられていたと思われる睡眠導入剤と、その中和剤の成分が検出されて、ニナが当時薬を飲まされていた事が判明した。
更に、逮捕された二人のウエイター姿の男は二人ともE&W社の秘書室の人間で、「CEOから指示されてやった」と素直に容疑を全て認めたため、慎重に捜査していたロンドン警視庁もこの財界のTOPを強姦未遂で逮捕した。
一週間が経過し、ハドリーはキャンベルやアルバートと共に検査の結果を聞くためにアンダーソン医師の元を訪れた。ニナは辛い過去とシンクロするような再び現実に起こった過酷な体験に耐え切れず心を閉ざしてしまっていたが、ショックによる一時的な物とも思われたが、精密検査を行った結果状態が良くない事が判明した。
「彼女は今丁度人が眠りながら夢を見ているのと同じような状態なんだ。目は開いているが、脳波では眠っている。あらゆる手段を尽くしてみたが、脳が目覚めの信号の受信を拒否してしまっている所為で、どんな刺激を送ってもニナは目覚めなかった。何かのきっかけで覚めるかもしれないが、今は何とも居えない。……だが、状況は厳しいかもしれない」
アンダーソン医師はニナの脳波図を見せながら淡々と説明したが、最後にキュッと眉を寄せた。
「実は……彼女が過去にレイプを受けた状況と、今回の状況が非常によく似ているんだ」
アンダーソン医師は少し苦しそうに言葉を続けた。
「前回はナイフで自殺すると抵抗したのだが、『子供達を虐待する』と脅されてやむなくそのナイフを捨てたそうだ。今回ニナは割れたガラスの破片を自分の両手で首に押し当てていたとグラハムは供述している。ニナの血液の付着した割れた破片も見付かっている」
キャンベルは顔を覆って震え出し、アルバートは首を振ってテーブルを何度も拳で叩いた。ハドリーは蒼白な顔で唇を噛み締めて、何も言えず立ち尽くしたままだった。
そしてアンダーソン医師は皆の顔を悲痛そうに見渡した後、
「グラハムの供述内容によると、ニナに対してカンパニーへの出資の停止と……」
医師はそこで言葉を切って一瞬考えた後に、苦しそうに告げた。
「ハドリー、君の舞台からの追放をニナに示唆して破片を捨てるよう迫り、ニナはそれに応じたそうだ」
キャンベルは何か叫びながら立ち上がり、そして頭を抱えてまた座り込むと声を出して泣き始めた。アルバートは首を振りながら目頭を押え、零れる涙を堪えられなかった。呼吸をするのも止めてしまったかのように目を見開いて、ハドリーは震えながら凍り付いて動くことが出来なかった。
「おそらく、彼女の心はかなり深いところまで閉ざされてしまっている可能性が高い」
アンダーソン医師は俯いて静かに言った。
ひと気の無い夜更けの病院のロビーに、顔を覆ったまま座り込むキャンベルと、眉を寄せて腕を組んだままのアルバート、そして黙ったまま独り立ち尽くすハドリーが居た。
ハドリーが口を開こうとするのを遮って、キャンベルが顔を上げて呟いた。
「俺の所為だ。ハドリーから聞いた時、もっと対策を講じるべきだった。俺自身にも危惧が無いわけじゃなかった。それなのに……俺のミスだ。済まない、ハドリー」
「誰の所為でもないさ。あの野郎以外は」
痛恨の表情でキャンベルは唇を噛み締めたが、アルバートは力無くポツリと言った。
「アル。ニーナには付き添いが必要だ。キャシーに頼めるか?」
「勿論だ」
キャンベルが眉を寄せて訊ねると、アルバートはゆっくり頷いた。
「いや、ニナには俺が付き添う」
その声を遮るように、ハドリーがゆっくりと言った。
「しかし……」
「ニナは俺が守る。俺はそう誓ったんだ。ニナは、俺を守ろうとしてくれた。だけど俺はニナを守れなかった。俺の責任だ。俺が責任を取る」
眉を寄せたアルバートに、ハドリーは暗い目をして言った。
「ハドリー! 君の所為じゃない!」アルバートは立ち上がった。
「どうしようもない状況だったじゃないか! 君一人の責任じゃない! 俺だって、俺だって……ニーナを守れなかった! ニーナは俺達を守ってくれたのに、ニーナを、ニーナを守れなかった……」
アルバートは涙を浮かべていた。ハドリーは暗い目のままアルバートをじっと見つめて、
「あの時ニナの声がしたんだ。俺を呼ぶニナの声が。防音された部屋からは絶対に聞こえる筈のない、ニナが俺を呼ぶ声が聞こえたんだ。ニナが俺に助けを求めてるんだ」
そう静かに語ると、ハドリーはキャンベルに向き直って固い声で告げた。
「これからの俺のスケジュールを、全てキャンセルしてくれ」
翌日、キャンベルは悲痛な顔で公式会見を行った。
「ニナは、ケガと、少しショックが大きいので暫く休養する。復帰時期は未定だ」
と、だけ発表した。ニナの容態が回復することを願って、詳細は伏せることにしたのだった。