天使の飛翔
ニナは十八歳になった。
騒がしかった周りが静かになると一度は元のアパートメントに戻ろうとしたニナだったが、事件後もずっとアルバートの家でもう家族同様に暮らしていた。アンダーソン医師の強い勧めと、「ニーナ、いっちゃやだ」と、泣いて縋りつくアニーに、ニナはアパートメントを引き払ってアルバートの家に留まることにした。
「そのほうが俺も安心だ。あそこだとプライバシーの保護は難しいからな」
アパートメントを用意したテッドもニナの頭を優しく撫でた。本当に此処から巣立っていくニナに寂しさを覚えたテッドだったが、カンパニーやハドリーに信頼を寄せていた。遠くからニナを見守っていこうと、テッドはそう決めていたのだった。
アルバートの家で子供達と遊んだり、キャシーのお手伝いをしたり、アルバートと一緒にオペラのアリアを歌ってみんなを喜ばせたり、時にはハドリーと一緒に施設に遊びに行ったりしながら毎日を穏やかに過ごしていたニナは、ここ最近は少し背が伸びて健康そうになってきた。キャシーの心の篭った手作り料理は栄養のバランスも考えられたもので、楽しそうに食べるニナをキャシーは微笑んで見つめていた。
だが、アルバートとキャシーはアンダーソン医師から注意を受けていた。ニナは虐待の影響で、自分自身を守ろうと無意識の内に成長しないよう自己暗示を掛けていたのだった。低身長、成長ホルモンの異常な減少と共に、ニナをカウンセリングした医師は、ニナ自身が成長をしないよう自己抑制している事を突き止めた。
「ニナが余り食べたがらないのはその所為だ。無理に成長を促さないようにして欲しい。無理に食べさせると、食べた物をすぐに吐いたり、それが高じて『拒食症』を起こす可能性があるんだ。彼女が自然に自分の暗示を解いて、成長するのを見守るように」
アンダーソン医師の言葉にアルバートとキャシーは表情を固くして頷いた。
ハドリーはアルバートからその話を聞くとまた怒りに震えたが、「俺も常に気をつける」と、真っ直ぐな目でアルバートに誓った。
ハドリーは事件後、世間が静かになった頃を見計らってニナを観劇に誘った。もう七月も終わろうとしていたその日、ラルフの舞台を二人で見に行って、その帰り道にハドリーは小さなジュエリーショップでニナに可愛いルビーのペンダントとイアリングのセットを贈った。ショップの店員につけてもらったニナは赤く頬を染めて嬉しそうに微笑んだが、直ぐに困り顔になって、「でも、こんな高い物を……」と戸惑いながら首を振った。
「気にするな。遅くなったが公演を頑張った褒美だ。それと、誕生日プレゼントだ。だが悪いが大分予算を削った。黙って受け取れ」
そっぽを向きながら頭を掻いて、照れを隠すようにハドリーは苦笑した。
「ハドリーが困ってるなら尚更受け取れないわ」
「ああ。自分でTVをぶっ壊したから新しいのを買っただけだ。済まんな」
ニナが益々困り顔で首を振りながら言ったが、ハドリーは照れくさそうに頭を掻いた。
「どうして壊したの?」
「気にするな。よく似合ってるぞ」
ハドリーはニナの問いには答えず、ニナを見つめて微笑んだ。
「ありがとう。ハドリー」
その言葉にニナは嬉しそうにハドリーを見上げて微笑んで、そのニナの笑顔を見てまたハドリーも照れたように頬を染めて微笑んだ。
「今度……」
その新しい大型TVを見に来いと言おうとしてハドリーはアンダーソン医師の言葉を思い出し、焦っちゃいけない、と自分に言い聞かせて言葉を飲み込んだ。ニナと二人きりになった時に自分が押えられるかまだハドリーには自信が無かった。
「何でもない」
ニナがキョトンとして不思議そうに首を傾げているのを見て、ハドリーは苦笑しながらニナの頭を撫でた。
事件から半年近くが経ち、ニナに復帰の意思を聞いたキャンベルは、ニナの歌いたいという希望を聞いて予定通りこの年のレミゼワールドツアーのエポニーヌに選んだ。
アンダーソン医師からニナの状態を聞いていたキャンベルは、ニナが安心してツアーを行えるように、バルジャンをアルバート、ジャベールにはハドリー、コゼットにはケイティ、アンジョルラスにはキースと、ニナのよく知るメンバーを多く配役し、かつスタッフには本国のカンパニーの大勢を帯同させた。肌理細やかな配慮が必要なニナの食事管理は、栄養士の資格も持つ衣装係のリンダが担当する事になり、リンダは「任せてよ」と、胸を叩いて皆を安心させた。
初めてのパスポートの顔写真が困り顔になってしまったニナは、やっぱり困り顔でぶつぶつと不満そうにしていたが、「いつもの顔じゃないか」とジェームズに茶化されるとニナはプクッと頬を膨らませて、アニーと一緒にジェームズに向って目を顰めてベーと舌を出した。
数週間に亘った本国でのリハを終えると、ニナは空港で見送りの人に元気に手を振って旅立っていった。パリ、ミラノ、ベルリン、東京、シドニーと世界各地を回り、どの地でも喝采を浴びた。
舞台の合間の休日にはアルバートやハドリーがニナを色々なところに案内して、異国の文化に目を丸くしながらもニナは楽しそうだった。リンダの食事管理のお陰で体調を崩すこともなく、ニナはいつも元気そうに明るく笑っていて、ハドリーやアルバートを安心させた。
ところがシドニーから最終公演地ニューヨークへの移動の中継地で天候悪化から足止めを食らってしまい、環境の悪さから最初にコゼット役のケイティが体調を崩した。診察の結果なんとケイティは妊娠が判明して、急遽夫の待つ本国へ帰国することになった。そしてコゼットの代役クリスティーヌ、ファンティーヌの代役ミランダ、エポニーヌの代役シルビアと、ソプラノを歌いこなせるレベルのプリンシパルの役者が次々と倒れ、コゼットを演じられる役者不在で一行がニューヨークへようやく到着したのは、ブロードウェイ公演まで後二日という時であった。
ネット電話で本国のキャンベルと話をしていた舞台監督のルイスは、困り果てた表情でため息をついた。次々と役者が倒れて、本国のキャンベルがニューヨークでコゼットの代役を探したが、ワールドに相応しい女優が見付からなかったのだ。もう明日は前日リハという夜、ホテルの監督の部屋に、臨時会議で集められた演出家ら首脳陣と、アルバート、演出補佐も兼ねるハドリー、裏方のスタッフなどが誰も眉を寄せて顔を揃えていた。
「今、サンドラがそっちに居る。彼女なら明日から二日間は押えられるんだが」
と、キャンベルが眉を寄せて呟いた。二十五周年記念コンサートでエポニーヌを演じたサンドラ・バーカーは高い評価を得ていたが、ルイスは渋い表情で呟いた。
「でも、彼女にはコゼットは無理だ。エポニーヌなら、勿論問題ないレベルなんだが……」
「仕方が無い。アンサンブルの中で、探すしかないだろう。抜ける穴はもう致し方ない」
キャンベルも万策尽きたとういう表情で、苦しそうに頷いた。
「ニナが居る」
その時、その様子を黙って見ていたアルバートがぽつりと呟いた。
「え?」と、振り返ったルイスをアルバートは真っ直ぐに見た。
「ニナの声域は広いんだ。ソプラノも難なく歌える。家で何度も一緒にアリアを歌ったりしたが、彼女のソプラノは声楽家としても非常に高いレベルだった。あのまま、オペラに出して遜色ないレベルだ。それにニナは楽曲の全てを覚えている。コゼットの歌唱部分もだ。ニナがコゼットをやれば、サンドラにエポニーヌを任せられる。サンドラなら問題ない筈だ」
部屋の隅で腕を組んで立っていたハドリーも頷いた。
「他に手はないな。ニナなら出来る」
「しかし……」と、監督は腕を組んで考え込んでしまった。
呼ばれたニナが監督の部屋を訪れると、皆がじっとニナの顔を見つめた。
「ニナ。コゼットは出来るか?」
ルイスがニナに真剣な顔で訊ねると、ニナは察していたように躊躇うことなく頷いた。
「やります」
画面の向こうでキャンベルが叫んだ。
「よし! サンドラを押えるぞ。ニナ、頼んだぞ!」
ニナは衣装係のリンダに向かって真顔で言った。
「リンダ。お願いがあるの。靴を探してきて欲しいの。サイズは二十一㎝でヒールは十五㎝」
ニナの身長はケイティよりも十五㎝低かった。
「ニナ! 衣装を直すのは簡単よ。無理することないわ!」
「みんなケイティの高さに合わせて演技を構成してるわ。それを変えるのは今からは不可能よ」
「……分かったわ」
リンダは固い表情で頷くと、直ぐに部屋を出て行った。
そしてニナがアルバートに向かって静かに頷くと、アルバートもすぐに察して、
「ルイス、マークとエレンも呼んでくれ」
マリウス役のマーク・トヴェリーと、過去にエポニーヌの経験のあるアンサンブルメンバーのエレンを部屋へ呼ぶよう依頼した。勿論、時間のある限り練習するためだ。
「俺が伴奏する。ピアノのあるスウィートを使おう」
と、ハドリーが演出家の肩を叩いて一緒に先に部屋を出ていった。
「分かった」
ルイスはホテルの内線電話の受話器を取り上げた。
マークが最上階のスウィートのドアを開けるとリビングに居たメンバーを見て「ニナがコゼット?」と驚いたように皆を見たが、ニナはにっこりと微笑んだ。
「よろしくね。マーク」
「ああ。でも……タッパが違うな。調整しないと」
「大丈夫よ。今リンダが靴を探してくれてるわ。だからケイティと同じ高さで演技出来るわ」
と、ニナは微笑んで頷いた。
「時間がない。すぐに始めるぞ」
と、ハドリーがピアノに座り込むとルイスも頷いて、
「よし。まず『In my life』 から続けて『A heart full of love』まで流してみよう。ニナ、立ち位置に気をつけて。マーク、彼女をリードしてくれ」と、手早く指示した。
ハドリーが伴奏を始めると、ニナはゆっくりと前に一歩出て『In my life』を歌詞も見ずに歌い始めた。そよぐ緑の風のような、小鳥の囁きのような美しいソプラノが響き渡って、マークは口を開けてニナを見つめ唖然としていた。直すところなどないように感じられたが、それでもハドリーが一回伴奏を止めた。
「ニナ。違う。初めての恋に戸惑うコゼットだ。もう少し不安を込めて」
「もう一度お願いします」
と、ニナは頷くと、再び歌い始めた。
そしてアルバートが参加してバルジャンとコゼットのやり取りが始まると、そこにはお互いを慈しんで支えあう悲しくも美しい親子の姿があった。アルバートにとってニナはまさしくコゼットそのものだった。血の繋がりはないが、それを補って余りある深い絆で結ばれた親子だった。ルイスはゆっくりといいぞと頷いた。
ニナを呆然と見ていたマークだったが、自分の出番になると顔を上げ、恋に落ちた青年マリウスの幸せそうな声を響かせた。そしてニナを見つめ『A heat full of love』、コゼットとマリウスとエポニーヌの三重唱が始まった。
マリウスの姿を認めたコゼットが、驚いたように頬を染めそっと小さく微笑んだ。そして「君の名前を教えて欲しい」と切々と歌うマリウスに向かって、真っ直ぐに鳶色の瞳で見つめ、ニナが『A heart full of love』を歌い始めた。
優しく頬を撫でるような声がマークの全身を包んだ。少し頬を染めて恥ずかしそうに、でも強い決意に満ちたニナの声が自分の声と重なると、マークは今までには感じたことのないような、体の底から沸き上がる震えを感じていた。高音でありながら柔らかさを帯びたニナの声と、エレンの悲しげな声、そしてマリウスの恋に震える声が静かに消えた瞬間、マークもハドリーと同じように、目の前で潤んだ瞳で見つめている少女に恋に落ちたのだった。
二時間ほどすると、リンダが靴を見つけて戻ってきた。探してきた白い靴をニナの足に合うようリンダが調整した後は、ニナはずっとその靴を履き続けた。見る間にニナの足は絆創膏だらけになり、やがてリンダがニナの足にテーピングをして保護した。そのリンダの足も絆創膏だらけだった。
練習は夜通し続いたが、不満を述べる者は誰も居なかった。積極的に意見を出し合い、途中からはファンティーヌ役のソフィアも加わって、コゼットの歌うシーンの全ての楽曲が何度も繰り返し流された。ニナは疲れも見せず、何度でも納得のいくまで歌い続けた。やがて靴にも慣れ、ニナは自然に優雅に歩いて見せた。
広いスウィートの部屋を舞台に見立てて、何度も立ち位置や、動きのチェックも行われた。舞台の全てを詳細に覚えていたニナだったが、細かい微調整を何度も繰り返した。
マークは、夢を見ているようなうっとりとした瞳でコゼットに愛を囁いた。それまでの公演とは比べ物にならないほど、マークの声も輝きを見せていた。ハドリーはその様子に一抹の不安を抱いたが、マリウスの演技としては格段に良くなっていた。ニナは一晩でコゼットの楽曲全てを自分の物にした。
そして夜が明け、前日のリハにサンドラが合流し、初めて顔を合わせたニナとサンドラは嬉しそうに抱き合っていた。
遠目に見ているとほぼ同じ身長に見える二人に、キースは苦笑した。
「なんか違和感あるな」
ニナは楽しそうにはしゃぎ回っていたが、その足に巻かれたテーピングには既に血が滲んでいた。ハドリーは黙ったまま、心配そうにニナを見つめていた。
その頃楽屋裏では、リンダが怒鳴っていた。
「この位置にカーテンレールを設置して! 一メートル四方を囲むようにね」
「なんだよ。いつもは『何恥ずかしがってんのよ。入りに遅れる事を恥じなさい!』って怒鳴ってんのによ。こっちも忙しいんだから、仕事増やさないでくれよ」
と、不満そうに大道具のカイルが言うと、リンダは見上げるように睨み付けてカイルに詰め寄った。
「ごちゃごちゃ言わずにやるのよ。三十分以内にね」
そして強張った顔で、小さく呟いた。
「コゼットには衣装替えがあるのよ」
コゼットは最初はドレス姿だが途中でウェディングドレスに着替えなければならず、エポニーヌの時のように全編同じ衣装で通す事は出来ないのだ。そしてニナは背中の傷を見られるのを嫌がって、衣装に着替える時にリンダ以外の人が居ると怯えた。その言葉で全てを察したカイルは、固い顔で頷いた。
「わかった。すぐに取り掛かる」
舞台では、前日の最終リハーサルが始まった。シーンが順調に進み舞台がパリへと入ると、やがてアルバートに付き添われたニナがコゼット姿で登場した。淡いブルーのドレスで華奢な体を包み、綺麗な姿勢で優雅に歩くその姿に誰もがため息をついた。いつもはくしゃくしゃのままの栗色の髪は綺麗なウェーブを見せ、小さな髪飾りが止められていた。舞台裏で呆然とニナを見つめていたハドリーだったが、ハッと気づくと自分の出番に顔を上げ、厳しい顔のジャベールが舞台に登場した。
そして、マリウスとコゼット、エポニーヌの三重唱でニナは真価を発揮した。澄んだ声で響くニナの声は愛に溢れ、マリウスを見つめるその瞳はキラキラと輝いて、切なく歌う声に誰もがうっとりと聞き惚れた。特にニナの目の前に居るマークは間近で見るニナの綺麗な瞳から目を逸らさず、声の張りも今までより格段に良くなって、サンドラの完璧なエポニーヌと共に美しくも悲しい重唱が静かに終わるとスタッフの間から感嘆の拍手が起こった。
バルジャンに助け出されたマリウスと、コゼット、バルジャンの三重唱が終わると、静かに舞台を下がったニナが舞台裏に駆け込んできた。
「こっちよ! ニナ!」
ニナを抱きかかえたリンダは設置されたカーテンを閉め切った。出番の終わったハドリーは舞台裏で心配そうに様子を見守っていたが、僅か一分で着替えを済ませたニナがウェディングドレス姿で現れ、真っ白なドレスで清楚に佇むニナの姿にハドリーは口を開けて言葉もなく見つめていた。
「ハドリー。おかしくない?」
ニナが恥ずかしそうに訊ねるとハドリーはハッと気づいて、「あ、ああ。大丈夫だ」と頭を掻いて綺麗だと言おうか言うまいか戸惑っていたが、
「ハドリー! 邪魔! もう入りなんだから!」
と、リンダが邪険にハドリーを押し退けた。ハドリーはたじろぎながら思わず苦笑して、一歩下がって道を空けた。ニナもクスッと笑うと直ぐに顔をキリッと上げ、歌い終わって駆けてきたマークに手を取られ『婚礼賛歌』が響きだした舞台に向かって歩き出した。
嬉しそうに微笑みながら婚礼リングを手に嵌め、コゼットとマリウスが見つめ合っていた。そこでマークがニナの頬に手をそっと添え台本にはないキスをしようとした瞬間、ニナの瞳に影が走り顔がさっと青褪め、ストップの声が掛かって歌が止んだ。ルイスはマークに向って、眉を顰めて言った。
「マーク、台本通りにやってくれ。二人は見つめ合うだけ。それからダンスだ」
ニナの代役が決定してから、キスシーンは省くように台本が修正されていた。
「なんでさ。何が問題なんだよ?」
とマークは気色ばんだが、ルイスは無言で首を振った。
「ニナ!」
「大丈夫よ、ハドリー」
舞台裏のハドリーがニナに駈け寄ったが、ニナは少し青い顔ではあったが微笑んで首を振った。
ハドリーはマークを睨みつけて、怒りを隠さずに厳しい声で言った。
「おい。余計な事はするなよ」
「……わかったよ」
マークはバツが悪そうに顔を背けて、不満そうに呟いた。
そのシーン以外は問題なく進み前日リハが無事終わったが、ハドリーは楽屋で衣装を叩きつけるように脱ぎながら怒り心頭だった。
「あのくそったれ!」
その時、ノックをして入ってきたリンダが声を掛けてきた。
「ハドリー」
「あ?」
不機嫌オーラ全開のハドリーが、素っ気無く返事をすると、
「ニナを連れて帰って。もう限界なの」
と、リンダは顔を曇らせて言った。
ニナの足はもう立っているのがやっとだった。診察した医師によると「どうしてもというなら、公演以外では歩かせるな」という事だった。今テーピングを剥がすと激痛でニナは歩けなくなるだろうということで、足を冷やす事しか出来ない状態だとリンダは沈痛な面持ちで言った。心配したハドリーが急いでニナの楽屋へ行くと、靴を脱いでスリッパに履き替えてソファに座っていたニナの手を取って、ニナの前に跪いたマークが必死に話し掛けていた。
「ニナ、大丈夫だよ。僕がちゃんと送っていくから」
ハドリーに気づいたニナは、「あ。ハドリー」と笑みを浮かべるとマークに向かっても微笑んだ。
「ありがとう。でもハドリーが来てくれたから大丈夫よ」
ゆっくりと立ち上がってハドリーを振り返ったマークは、
「ニナの事なら心配いらないよ。僕がちゃんと送るから」
と挑戦的な目でハドリーを見たが、ハドリーはマークの敵意の篭った目にムッとした顔をした。
「俺はリンダに頼まれただけだ。ニナ、帰るぞ。靴を自分で持て」
ハドリーは不機嫌そうに言うと、マークを押しのけてニナを抱きかかえた。
二人を交互に見て困った顔をしていたニナだったが、
「マーク、本当にありがとう。でも大丈夫よ。明日頑張りましょうね」
と、マークに小さく手を振ってハドリーに抱きかかえられて行った。去っていく二人の背中を、マークはその場で歯噛みして鋭い視線で睨み返していた。
「あいつ、気にいらねぇ奴だ」
「ハドリー。そんな事言っちゃいけないわ。マークは私の事心配してくれているのよ」
ホテルのニナの部屋に着いて、ニナを抱えたまま不機嫌そうに溢すハドリーに、ニナは困り顔で窘めた。
ハドリーが静かにソファにニナを下ろした時、床に足を付けたニナが激痛に思わず声を上げた。血の滲んだテーピングにさらにうっすらと赤い血が滲んできて、それを見たハドリーの顔が青ざめた。
「ニナ。これ以上は無理だ。もう無理しないほうがいい。リンダに言って衣装を直させるぞ」
「大丈夫よ、ハドリー。明日だけですもの」
「でも、こんな足で出来るのか?! 本番で倒れたら何の意味も無いんだぞ?」
ハドリーが怒りを露に叫んだが、ニナは静かな目でハドリーを見上げた。
「出来るわ」と、ニナは力強く言った。
「出来るわ。私、役者だもの」
ニナの瞳は真っ直ぐにハドリーを見つめて、その輝きに揺るぎはなかった。ハドリーは目を見開いて黙ったままじっとニナを見つめていたが、ふっと笑ってニナの頭を撫でた。
「わかった。いつでも俺が運んでやるから言え。公演以外は絶対歩くなよ」
と言ってから「あ」と気づいて上を見上げて、「シャワーのときはリンダを呼べ」と照れくさそうに少し頬を赤らめて言ったハドリーに、ニナはニコニコとして「うん」と頷いた。
明けて公演当日、皆ニナの足を心配していたが、衣装に着替えて靴を履くとニナは何事もなかったように優雅に歩いた。
前日に、コゼットの代役がニナと発表されて、劇場は当日の立見席を求める人で騒然となった。劇場周辺は入りきれない人で溢れ返り、周辺の道路が閉鎖される事態となっていた。
舞台がパリに移りドレス姿のニナが優雅に登場すると、客席から物凄い拍手が沸き起こった。『In my life』を静かにニナが歌い始めると、その澄み切った声に観客は聞き惚れた。バルジャンとのやり取りではまるで本当の親子のような深い絆を感じ、初めての恋に震える心、バルジャンと二人だけの寂しい生活、知らされない過去、コゼットの愛と苦悩が切々と歌われ、そっと目を拭う人も多かった。そして『A heart full of love』が始まり、コゼットの愛で劇場は包まれた。三人の声が静かに消えその余韻が消えてもしばらく静まっていた会場から大きな拍手が起こり、立ち上がって歓声を上げる観客の拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
第ニ幕も中盤を過ぎニナが着替えのために舞台裏に駆け込んできたが、足元の配線に躓いて危うく転びそうになり、出番が終わり楽屋裏に居たハドリーがニナを支えた。
「ニナ! 大丈夫か?」
ハドリーが心配そうに訊ねるが、リンダが顔を顰めて叫んだ。
「ハドリー! 後よ! ニナ、早く!」
ニナもハドリーに頷くと着替えに走り、美しいウェディングドレスとヴェール姿で現れた。ヴェールに隠れて誰も気づかなかったが、ニナは少し顔を歪めて辛そうにしていたのを一人だけ気づいたハドリーが、後ろからそっと「ニナ」と囁くが、ニナは小さく「大丈夫よ」と囁き返した。
駆け込んできてマントを脱いだマークがニナと並んで手を取って舞台へ向かう入り口に立ったが、その時ちらっと振り返ったマークの敵意の篭った目にハドリーは気づいたがそれを詮索する時間は無かった。不安が過ぎるハドリーを残して、二人は『婚礼賛歌』の大合唱が鳴り響く舞台へ歩き出した。
観客は清楚で優雅なニナのウェディングドレス姿にほーっとため息をついた。マリウスがコゼットの小さな手を取って指輪を嵌めてやると、頬を染めたコゼットが嬉しそうに笑った。コゼットが鳶色の綺麗な瞳で幸せそうにマリウスを見つめるとマリウスも微笑んで見つめ返し、そしてマークはそのままニナを抱き寄せるとニナの頬に手を添えてキスをした。
「あの馬鹿! やりやがった!」
舞台裏ではキースが怒りを露にして歯軋りし、ハドリーは唇を噛み締めて舞台に飛び出したい衝動を必死に堪えていた。舞台袖で見ていたルイスら関係者にも緊張が走ったが、ニナは少し震える瞼をそっと閉じてマークのキスを受け入れ、演技は問題なく続けられた。
コゼットとマリウスがバルジャンの元へ向かうために舞台を駆け降りるとハドリーはマークの元に歩み寄ろうとしたが、キースがハドリーの腕を取って必死に止め小声で囁いた。
「ハドリー。カーテンコールまで待て」
キースの顔も怒りに燃えていた。
最後の大合唱が終わると、観客総立ちの盛大な拍手が鳴り止まなかった。にこやかに挨拶をするキャスト陣の中で、ハドリーもキースも何気なさそうに笑顔で挨拶した。マリウスとコゼットが手を繋いで二人で一歩前へ出ると、割れんばかりの拍手が巻き起こった。ドレスの腰を落として優雅に挨拶するニナに歓声と賞賛の声が贈られ、マークは得意そうにニナの手を取り、腰に手を回して二人並んだ。
やがてキャスト全員舞台裏へ下がったが、アルバートとニナの二人が再び舞台に呼び出された。
「なんでマリウスとコゼットじゃないんだよ」
舞台裏でマークが一人ぶつぶつ言っていたところに、ハドリーが怒りの形相で歩み寄るとマークに掴みかかった。
「この野郎!」
騒然となった舞台裏で更にキースもマークに掴みかかろうとしてスタッフに押えられ、慌てて止めに入ったスタッフによってようやくマークとハドリーが引き離された。
マークは髪が乱れ荒い息をつきながらも、勝ち誇った顔で叫んだ。
「はん! お生憎様だな、ハドリー。自分がニナに振られたからって八つ当たりとはね。みっともないな、ハドリー!」
「なんだと?」
「ああ、そうさ。ニナが好きなのは僕なんだ! 君じゃない! 君も知ってるだろ? ニナはよっぽどでないとキスも出来ない。だから台本も変更した。だけど、ニナは僕のキスを受け入れた。それも嬉しそうにね! 残念だったな、ハドリー!」
ハドリーを嘲笑うように叫ぶマークに、怒りで真っ赤になった顔で、押えたスタッフを振り解こうとハドリーが必死でもがいていたが、
「ぷっ。あはははははははは」
高笑いの主はテナルディエ夫人役のジュリー・ゴールドバーグで、巨体を揺らしてマークに向かって可笑しそうにに大笑いしていた。
マークが不思議そうにジュリーに顔を向けると、ジュリーはマークをギロリと睨み鼻で笑った。
「お前さんは演技と現実の区別もつかないのかい。役者のくせに。お前さんこそ、みっともないね」
「演技なんかじゃない! ニナは演技でキスできる子じゃない!」
顔を真っ赤にしてジュリーを睨みつけるマークへ向って背後から「出来るわ」と、静かな声がした。
舞台から戻ったニナがアルバートと並んで、静かにその場を見つめていた。唖然としているマークにゆっくりと歩み寄ったニナは、
「出来るの。私、役者だから。もう一度やって見せてあげる」
と、言うと静かに微笑んだ。
ニナは一度表情を引き締めて顔を上げると、やがて夢見るような頬を染めた表情に変わり、傍で呆然と立っていたハドリーを振り返り、寄り添うように体を寄せそっと顔を近づけた。
「愛してるわ。ジャベール」
うっとりとした瞳を潤ませて、ニナはハドリーにゆっくりと唇を寄せていった。
一瞬、目を見開いて驚いたまま立ち尽くしていたハドリーだったが、やがてニナの背に手を回して抱えて見つめ返し、そして目を閉じるとニナの小さな唇を受け止めた。舞台裏の誰もが、抱き合って熱いキスを交わす二人を、呆然と口を開けて見ていた。
そして、ジャベールはそっと唇を離すとコゼットの頬に手を寄せて微笑んだ。
「愛してるよ。コゼット」
「でも、パパは許してくれるかしら」
嬉しそうだったコゼットが少し眉を寄せて心配そうに呟くと、傍に居たバルジャンが頭を振り、悲しみに嘆いた。
「俺の宝物がよりによってジャベールに奪われるとは!」
すると、アンジョルラスがコゼットに向かって片膝を付いて両手を差し出した。
「僕は革命を捨てた。コゼット。僕の方が君を愛している。僕の愛を受け入れてくれ!」
アンジョルラスの真剣で切なげな叫びに、
「あら。こちらの方が若くてハンサムだわ」
と、コゼットはもうジャベールに見向きもせず、微笑んでアンジョルラスの手を取って、また瞳を潤ませると軽いキスをした。ショックを受けた顔でしょぼくれたジャベールがバルジャンに慰められると、舞台裏がどっと沸きあがった。
マークは呆気に取られてその一部始終を眺めていたが、ジュリーが大笑いしながら、
「お前さん、修業が足りないって事だ。もっと精進することだね」
と、マークの肩を叩いた。そしてハドリーの方に向き直ると、
「あんたもだ」
と、ギロリとハドリーを睨んだ。そして、ハドリーだけに聞こえるように、
「もっとニナを信じてやるんだね」
と、耳元で囁いてハドリーの背中をばーんと叩いた。
ジュリーが大笑いしながら楽屋へ去り、しょぼんとしたマークがすごすごと引き下がっていくと舞台裏に安堵の空気が流れ、がやがやとした空気が戻ってきた。
ハドリーとキースはほっとした顔を見合わせていたが、ニナの様子がおかしいのにハドリーが気づいた。立ち止まったまま足は震え、辛そうに眉を寄せた額には汗が浮かんでいた。
ハドリーを震える手でそっと掴んで小さな声で「……ハドリー」と呟くと、ニナは体から力が抜けてその場に崩れ落ちた。
「ニナ! どうした!」
崩れ落ちたままハドリーに抱きかかえられたニナのドレスの裾から見える靴は真っ赤に染まって、右足首は一見して判るほど腫れ上がっていた。舞台裏の皆がニナの異変に気づき再び騒然となると、アルバートが眉を顰めてスタッフに指示した。
「おい! 救急車だ! 早くニーナを病院へ運べ!」
「ドレスのままじゃまずいわ。まだ外は大勢人が居るのよ。大事になるわ。ハドリー、一旦ロッカールームへ!」
青褪めた顔のリンダが、ハドリーに向って叫んだ。
ハドリーがロッカールームの椅子にニナをそっと降ろすと、リンダはニナの着替えを取りに楽屋へ走った。ハドリーはニナの前に跪き、眉を顰め辛そうに汗を浮かべて苦しむ表情のニナに向って怒鳴った。
「ニナ! なんで早く言わないんだ! あの時痛めたんだろ!」
「舞台が終わるまではって思ってたの」
「だからって、これじゃ立ってる事も出来なかっただろ!」
と、痛みで眉を顰めるニナにハドリーが怒ると、ニナはハドリーの頬にそっと手を寄せて、
「リンダは足にマメを作ってこの靴を探してきてくれたの。それに、私のためだけに着替えスペースを作ってくれたわ。ルイスもアルバートもマークも、それに、ハドリーも、みんな私のためにずっと練習に付き合ってくれたわ。私の所為で舞台を失敗させるわけにはいかなかったの」
ハドリーに辛そうに微笑みながらも、ニナは優しく静かに語り掛けた。
真っ直ぐにハドリーを見つめるニナの瞳をじっと見ていたハドリーは、やがてフッと笑うと、頬に置かれたニナの手にそっと自分の手を重ね、
「お前は本当にしょうがない奴だな」
と、優しく微笑んだ。
「それに……。さっきは私に合わせてくれてありがとう」
頬を染めて少し俯くと、ニナは恥ずかしそうにハドリーを上目遣いに見た。ハドリーはそっとニナの耳元に口を寄せて、クスクスと笑った。
「あんな役得な役なら何度でもOKだ」
ニナは耳までかぁっと真っ赤にして恥ずかしそうに俯いた。
「でも、若くてハンサムなキースの方がいいんだよな、ニナは。キースも満更じゃなさそうだったし、どうせ、俺はおじさんで無愛想だからな」
と、ハドリーがムスッとして言うと、ニナは真っ赤な顔をぶんぶんと振って、
「ハドリー! 違うわ! あれは、あれは演技なの! 私は、私は、ハドリーの方がずっと……」
と、最後は消え入りそうな小さな声で恥ずかしそうに俯くと、ハドリーはその言葉に少し顔を赤らめて微笑んだ。
お互い照れたように頬を染めて暫く黙っていたが、ハドリーは改めて目の前のウェディングドレス姿のニナを見上げた。純白のドレスの胸元にはハドリーが贈った小さなルビーのペンダントが煌いていて、白い頬はまだ恥じらいの薔薇色に輝き、綺麗に紅の塗られた小さな唇も明かりの下でキラキラと光っていた。
「ニナ。綺麗だ」
「……ハドリー」
ハドリーがそっとニナの頬に手を寄せて真剣な目で見つめると、ニナは頬を染めたままハドリーの目をじっと見返してそっと呟いた。
お互いの瞳の中に、お互いの姿が映っていた。自分の左頬に寄せられたニナの手を、重ねた手で包み込むようにそっと握ると、ゆっくりとハドリーはニナに顔を寄せていった。ニナは怯える事も戸惑う事もなくそのまま静かに目を閉じ、微かに開かれた小さな唇はハドリーを待っていた。そのニナの表情を見て、ハドリーは目を閉じそっとニナにキスをした。ハドリーの頬に添えられていたニナの手と、その手に重ねていたハドリーの手がお互いの指を絡めるように繋ぎあった。
その時ハドリーの心の中に優しい暖かい風が吹いてきた。甘い花の香りと青い草の匂いが満ちた春のような暖かさに包まれたハドリーは、ニナの心を感じていた。ニナもハドリーの穏やかに差し込む光のような心を感じていた。繋ぎあった手同様に、二人の心はお互いに繋がっていた。
ハドリーはニナの頬に添えた手を滑らせて栗色の髪を優しく梳くようにニナの頭を抱えると片膝を立てて体を起こし、そっとニナを少し上向かせた。小鳥が啄ばむような優しいキスから、僅かに力を込めて、より愛を込めたキスに変わり、二人は静かに愛を確かめ合うように唇を重ね続けた。
「ニナ……」
そっと唇を離したハドリーが、ニナの潤んだ鳶色の瞳を真っ直ぐに見つめて、愛してると告げようとした矢先に、ロッカールームのドアをばーんと開けたリンダが飛び込んできた。
「そこ! いちゃいちゃしてない! ハドリー、邪魔だから外へ出てさっさと着替えて!」
怒鳴るリンダにロッカールームを追い出されたハドリーは、ロッカールームのドアに寄りかかりながら口に手を当て、ニナの小さな唇の感触に照れたように笑みを浮かべていた。
翌日、右足首の重度の捻挫と診断されたニナは一足先に本国へ帰ることになった。車椅子で恥ずかしそうにしているニナを押しながら、空港のロビーでリンダは楽しそうだった。
「あの無愛想男がしょぼくれてるとこを見れないのは残念ね」
「無愛想男……ハドリーのこと? しょぼくれてるって?」
と、ニナが不思議そうにリンダを見上げて訊ねると、リンダはニナにウィンクした。
「帰ればキャンベルが教えてくれるわ」
ワールドツアーの打ち上げを兼ねたパーティがその夜ブロードウェイで行われていたが、正装したハドリーは憮然とした表情で壁際にムスッとしたまま立っていた。
「ほらよ。ハドリー」
同じく正装したキースがやってきて、ジンのグラスを手にハドリーに笑って手渡した。黙ってそれを受け取ったハドリーが不機嫌そうにグラスに口をつけるとキースは苦笑して、
「あっちにもしょげてる奴がいるな」
と、反対側の壁際を指差した。そこにはがっくりと肩を落とすマークが、周りの人々に慰められていた。
「ふん。自業自得だ」と、ハドリーは眉を寄せたまま不機嫌そうに呟いた。
「でも、もうマークをあんまり責めるなよ。確かにニナの練習に寝ずに付き合ってたしな」
キースは笑いながらハドリーの肩をぽんぽんと叩いた。ハドリーはキースを横目で睨むと、面白くなさそうに「ふん」と呟いた。
「しかし、まぁ、キス一回で接見禁止一年とは、キャンベルもやるなぁ」
上を見上げてクスクスと笑ったキースは、今度はハドリーを覗き込むように見て笑った。
「俺も舞台裏でニナとキスしたのに、お前だけ『接見禁止』宣言されるって事は、お前さ、ロッカールームでニナにキスしたんだろ? 演技じゃなくてさ」
と言うと、慌てて手を振って苦笑して付け加えた。
「おっと、俺を怒るなよ、ハドリー。舞台裏のあれは演技なんだからな」
「……ああ。分かってる」
ハドリーはキースをジロッと睨んでブスッとして眉を寄せると、
「あの、クソたぬき親父め。なんでバレてるんだ……そうか、リンダの野郎か。アイツがキャンベルにチクりやがったな。くそっ!」
ハドリーは憮然として空を蹴った。
ニナは足の治療も含めて三ヶ月ほど休んだ後は、このブロードウェイで行われる新作のミュージカルに主演することが決まっていた。準備と公演を含めて九ヶ月近くという長丁場だ。逆にハドリーは、今日、このままブロードウェイでの別の公演の三ヶ月に渡る代役を命じられ、本国に戻るのはニナと入れ替りだった。
「俺はオフだ。誰か別の人間にしろ」とハドリーは拒否したが、キャンベルは電話口で重々しい声で、
「他に務まるレベルの役者が居ないんだ。このままでは公演が失敗する」
と、舞台第一主義のハドリーの弱点を突いた。
「だったら俺もその新作にどんな役でもいいから入れろって言ったら、『お前の出来る役はないな』って笑いやがった。くそっ」
ハドリーは悔しそうにぼやいた。
「あーあ。キスでこの扱いじゃ、お前、ニナを抱いたりしたら、今度はきっとキャンベルに殺されるぞ」
ハドリーのニナへの想いを知っているキースが苦笑いすると、ハドリーはしかめっ面したまま不機嫌そうに呟いた。
「ああ。多分な。あのクソ親父め」
今頃は本国へ向う飛行機の中だろうニナを想って、ハドリーは天を見上げてため息をついた。