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残酷な過去

 そして、ついにミュージカル「レ・ミゼラブル」の特別公演の幕が開いた。


 観客はこの子供にしか見えない小さな少女の歌唱力に驚き魅了され、初舞台の翌日には新聞各紙が『天使の歌声』と絶賛した。TV局や新聞社、雑誌社からの取材が殺到し、ニナの人気はあっという間に英国全土へ広がっていった。

 公演は連日超満員だった。豪華なキャスト陣に加えて、『天使の歌声』を聴きたいと多くの観客が詰めかけ、毎日ニナの事が報じられない日は無かった。

 ニナが幼少期を過ごした施設にまで取材陣が訪れ、スキンヘッドの大柄な男が「あの子は子供の頃から歌がうまかったねぇ」と狡猾そうな目で笑っている姿もTVで報道された。幸いニナはこの映像を見ることはなかったが、キャンベルがニナの目には触れないよう厳重に注意するよう指示し、世界に名だたるプロデューサーの威光を十二分に活用して、今後施設には取材を行わないようにマスコミに圧力をかけた。ニナの辛い過去が暴かれるのを防ぐためだった。

 ハンセンが強欲に高額の取材料を取った事もあって施設の事が報道される事は無くなり、更にニナについては取材制限を行って、彼女の周りを静かに保つように注力した。その甲斐あって、ニナは周りの雑音に気を取られることなく全力で舞台に打ち込めた。


 毎日ニナは公演が終わる度にハドリーとその日の演技をチェックするのを欠かさなかった。公演の間の僅かの時間でも真剣に舞台の話をしている二人を、皆が温かく見守っていた。

 既にこの頃にはハドリーのニナへの想いは公の知るところとなっていて、仲間に冷やかされたりしていたハドリーだったが、無愛想な顔で否定もせずに「それが何だ?」と返されてしまうと、皆苦笑するしかなかったがそれでも微笑んで見守っていた。

「ニーナ。夕飯が冷めちゃうぞ」

「ああ、アル。ニナ、また明日な」

 いつまでも廊下でハドリーと話し込んでいるニナにアルバートが呆れてニナ肩を叩いて苦笑すると、ようやく気付いたハドリーもアルバートに苦笑を返して、まだ話したそうに困り顔で見上げているニナに微笑み掛けた。


 


「ニーナのPC、ネットへ繋がないの? 何のためのPCなんだか」

 居間のテーブルを囲んで夕食のデザートを頬張りながら、ジェームズが冷ややかに言った。

「だって、繋いだら持ち歩けないじゃない。楽屋でも見たいんだもの」

「……ニーナ。それ真面目に言ってるの?」

 ニナが不満そうに頬を膨らませるとジェームズは呆れてケラケラと笑い出して、

「ジェミー、やめなさい。ニーナは最近覚えたばかりなんだから」

 と、アルバートが眉を寄せてジェームズを窘めた。

「どうせ私はジェミーみたいに詳しくないもの」

 肩を落として俯いてしゅんとしたニナに、アニーがクスクスと笑った。

「お兄ちゃん。オタクだもんね」

「オタクって?」

 と、ニナが不思議そうに訊くとキャシーが困り顔で嘆いた。

「この子ったら勉強は嫌いなのにパソコンとかネットとかは大好きで、困ってるの」

 その言葉にジェームズはちょっと不満そうに口を尖らせた。

「時代の最先端と言ってくれたまえ」

「……時代の最先端……凄いわ!」

 と、ニナが感心して呟くと、皆プッと噴き出して笑い出した。

「え? 何かおかしかった?」

 キョトンとしたニナが皆を見回して不思議そうに訊ねると、

「本当にニーナは可愛いな! うん!」

 ジェームズはニナの頭をぐりぐりと撫でて笑った。

「あ! ジェミー! また子供扱いした!」

 ニナはまた頬を膨らませて、アルバート家は益々明るい笑いで満ち溢れた。





 一ヶ月に渡った公演の最終日が近づいたある日、劇場の裏口近くをそわそわと行ったり来たりする少女が居た。すっぴんの顔にソバカス、赤毛を纏めTシャツにジーパン姿で、両手で小さな花篭を抱えたデイジーだった。

 彼女は困った顔でうろうろと行こうか行くまいか迷っているようだったが、そこへ、裏口へ向かうハドリーが通り過ぎ、「あ、あの!」と、デイジーは思い切ってハドリーに声を掛けた。

 ハドリーはまるで初めてそこに人が居る事に気づいたかのように振り返ると、また誰かのファンの子かと仏頂面で素っ気無く言った。

「何?」

「こ、これをニナに!」

 両手に抱えた花籠を差し出してデイジーは赤くなって言った。デイジーが初めて手がけたフラワーアレンジメントだった。

 ハドリーは表情も変えず受け取って「ああ。渡しておくから」とだけ言って、すぐに裏口のドアを開け中に入ってしまった。

「あ……」

 デイジーはその背に手を伸ばし掛けたが、黙って俯いてしまった。

 自分はまだまだ花屋の修業の身で、ニナはもう英国で知らない人が居ないスターだった。しかもニナは、今はアパートメントには居らず、主演俳優の家に滞在していると聞いていた。

「そうだよね……もうそう簡単に会えないよね」

 と呟いて、デイジーは寂しそうに劇場に背を向けトボトボと歩き出した。


「あ、ニナ。これ、ファンの子から預かったぞ」 

 裏口から入って直ぐの廊下で丁度ニナと鉢合わせをしたハドリーが、花籠をニナにちょっと照れたように手渡すと、ニナはにっこりと「ありがとう」と笑って受け取った。

 連日届く豪華な花束に比べるととても小さな花籠だったが、だが、とても美しかった。ニナの好きな花々が綺麗に揃えられ、中央にはデイジーの花が大輪を見せていた。

 じっとそれを見ていたニナの表情に徐々に赤みが増し、やがて「……デイジー……」と呟くと、急にパアッと輝かせた顔を上げて駆け出して、怪訝そうなハドリーの横を擦り抜けて裏口から飛び出した。


「デイジー!」

 ニナが遠くを去ろうとしている少女の後ろ姿に叫んだ。その声にデイジーが振り返り、エポニーヌの衣装を付けたまま駆けて来るニナの姿を認めて「ニナ!」と笑顔になって、駆け寄って二人は嬉しそうに抱き合った。

「デイジー。声を掛けてくれればよかったのに。随分会えなくてごめんね」

「いいのよ。ニナは今忙しいんだしさ」

 デイジーが首を振ると、ニナは手にした花籠を愛しそうに見てにっこりと微笑んだ。

「すぐにわかったわ、デイジーだって。とても綺麗よ。ありがとう」

 デイジーは恥ずかしそうに、舌を出して照れ笑いした。

「初めて作ったの。まだヘタくそでさ」

「ううん。とても素敵よ。一番近くに飾っておくわ」

 と、ニナは嬉しそうに笑った。

 だが、デイジーは急に笑みを潜めて真顔になってニナに囁いた。

「ニナに伝えたい事があるんだ。気をつけて、ニナ。最近この辺りで『アイツ』を見かけたって話を聞いたんだ」

「あいつ……あいつが?」

 ニナは眉を潜め、顔を曇らせた。思い出したくも無い顔が脳裏に浮かんだ。

「うん。また何か情報があったら知らせる。ニナ、気をつけるんだよ」

 デイジーは心配そうにニナを抱き締めた。

「大丈夫よ。デイジー。劇場には知らない人は入れないし、送り迎えはアルがやってくれてるもの。デイジーこそ気をつけてね」

「アタシはへっちゃらよ。あんな奴追い返してやるわ」

 ニナが心配そうな顔でデイジーを見上げて覗き込むと、笑ってデイジーはウィンクした。

 額を寄せ合って微笑み合う二人の少女を、ハドリーは裏口のドアを支え壁に寄りかかりながらじっと見ていた。ニナのデイジーに向ける優しい眼差しを、少し眩しそうに微笑みながら見つめていた。





 そして、おそらく今年の賞を総なめにするだろうと言われた公演は無事大成功の内に終え、後日、記念パーティが行われた。

 会場となったホテルに、古ぼけた背広を着込み、そ知らぬ顔で一人の男が現れた。男は「レ・ミゼラブル特別公演記念パーティ」会場への行き先表示を見つけると、ニヤリと笑った。大きな図体にスキンヘッド、狡猾な目をした男は、あのハンセンだった。


 ニナがスターとして取り上げられるようになってすぐにハンセンは、今や金づるとなったニナを脅してお金を巻き上げることを考えていた。当初は取材も来て少々潤ったがすぐにマスコミは来なくなり、いいネタがあるといくら売り込んでもどこも渋い返事でお茶を濁すだけで金にならずにハンセンはいらついていた。

 それならと直接ニナから巻き上げようと画策したが公演中はガードが固く近づけなかったために、人が自由に出入り出来るこの時を待っていたのだった。ハンセンは会場入口のガードマンが手薄になった隙を見て、会場に入り込んだ。


 華やかな会場は関係者や報道陣などの多くの人で溢れ賑わい、正装の人々が明るい笑顔を交わしている中、ハドリーはいつもの不機嫌はどこへやらで、今日は上機嫌だった。

 公演が終われば少しの間二人ともオフの予定で、明日は別の公演を見に行こうとニナを誘ってみたら、ニナは喜んで承諾した。劇場以外の場所で二人で会うのは、あの自宅へ連れ帰った事を除けば初めての事だった。まるでティーンの初めてのデートみたいだとハドリーは我ながら苦笑したが、それでも嬉しさがこみ上げてきた。そして、さっきハドリーに駆け寄ってドレスを嬉しそうに見せに来たニナの弾ける様な笑顔を噛み締めるように思い出していた。

 その白いドレスは、今日の日のためにリンダがニナのために作ったものだった。背中は透けないように大きく覆っているが、カラーのような首元から前は浅めの大きなVカットで、ニナの華奢な体に添うようにサテンの生地がキラキラと輝き、オーガンジーのふわっとしたスカートからは白いハイヒールを履いたすらっとした足が見えていた。

 いつもはクシャクシャのままの栗色の髪も綺麗に纏められ、小さな生花の髪飾りで美しく飾られていた。きっとのあの花屋の娘が贈ったのだろうと思った。初めて見るニナの正装にどきまぎしながら、「ああ。綺麗だ。似合ってる」と、照れたようにぶっきらぼうに言うのがやっとだった。

 ラルフと肩を組んでにこやかに記念撮影に応じていたハドリーは、会場の向こう側でアルバートらと笑っているニナを見ていた。イヤリングもペンダントも借り物だと言っていたニナに、明日は公演のご褒美に何か買ってやろうと思っていた。ニナの誕生石の、ルビーの可愛いペンダントを贈ろう、そう決めていた。


 ニナは白いドレス姿で、隣のアルバートやキャシーと楽しそうに笑っていた。イベントや記念撮影時にもいつもボロボロのエポニーヌの衣装だったから、こんな綺麗な衣装を着るのは初めてで嬉しかった。リンダが一生懸命作ってくれたのが嬉しくて堪らなかった。さっき見せにいったハドリーが褒めてくれた言葉が今でも心に響いていた。公演を無事やり切った充実感を胸一杯に感じ、これからの未来に光が差し込んでくるように思え、優しい大好きな人に囲まれた今の自分の幸せを噛み締めていた。


 ところが、目を上げたニナが会場入口付近でキョロキョロと辺りを見回す大柄な男に気付くと、その途端にニナの表情は凍り付いた。何故あの男が此処に居るのか分からなかった。それまで感じていた幸福感が跡形も無く消えうせ、ニナの心は過去の黒々とした闇の記憶で覆い尽くされた。顔面が蒼白になり動けないままガタガタと震え出したニナを見たアルバートが、その異変に気づいて声を掛けた。

「ニーナ?」

 そこへ、ニナを見つけたハンセンが薄笑いを浮かべながら近づいて来て、ニナの全身を舐めるように見て話し掛けてきた。

「よう。久しぶりだなぁ、ニナ。随分と立派になったなぁ」

 アルバートは近づいてくる男に気づくとキャシーに目配せし、キャシーがニナを守るように抱き締めた。

 警戒する様にニナの前に出てアルバートは男を遮り、

「失礼ですが、どなたですか? 関係者ではないようだが」

 と、険しい目で男を見て言った。

「ああ、失礼。この子は以前私の施設に居た子なんですよ。孤児でしてね。という事で私も関係者みたいなものだと思いますがね」

 ハンセンは自分の悪行がバレているとは知らず、媚びる様な嫌らしい声で言った。

「……やはりな」

 と、アルバートは眉を顰めハンセンを睨んだ。男の容姿から既にアルバートはこの男がニナを虐待した犯人だと確信していた。

「ニナはその頃から随分と大人びた子でしてねぇ。この場に居る方の中にもv」

 ハンセンは周りをニヤニヤと見回し声を潜めて、

「この子とベッドを共にした方がどれだけ居るやら。そういうのが得意な子で」

 と、嫌らしく笑った。

 ニナはその言葉に目を見開いて激しく首を振るが、震えた口元からは言葉が出せずにいた。

 アルバートは怒りの余り、語気を荒くして言い放った。

「ふざけるな! ニーナに限ってそんな事は有り得ない!」


 その声に周りが異変に気づき会場はざわっとなった。周りの人々は怪訝そうに対峙する二人の男を見つめ、ハドリーもアルバートの声に気づくと顔を上げてニナの方を見た。ニナを守るように抱くキャシーと、二人を守るように怒りの形相で立ちはだかるアルバートの前に、驚いたような顔で立ち尽くす見知らぬ男が居た。それがあのTVで見たニナの施設の院長だと気づくとハドリーは蒼白になって、人を掻き分けてニナの元へ駆け出した。

 ハンセンはちょっと眉を顰めたが、すぐに下卑た笑いを浮かべアルバートに顔を近づけて、

「この子は私を誘いましてねぇ。激しい子でしたよ。毎晩でこっちの体が持ちゃしないぐらいで」

 と、ひそひそと囁いた後、下品な声で笑った。

 ニナは震えたまま首を激しく振り続け、怯えた目から涙が溢れ出していた。

「そんな話、あちこちでするわけにもいきませんよねぇ」

 と、最後にハンセンは狡猾な目でアルバートを睨んだ。

「金か。薄汚い奴め」

 アルバートはハンセンを睨み返した。会場内には緊迫した空気が流れ、誰もが不安そうに事の成り行きを見守っていた。


「……嘘つき! 嘘つき!」

 絶叫が会場内に響き渡った。震えていたニナが、涙で目を一杯にしながらハンセンを睨んでいた。

「私を、施設のみんなを虐待してたくせに!」

 顔を真っ赤にしながらニナが必死に訴えると、ハンセンは「な、何を証拠に……」と慌てたが、ニナはその声を遮るように悲痛な叫びを上げた。

「そして……私を……私を……レイプしたくせに!」


 会場が水を打ったように静まり返った。アルバートは愕然としてニナを振り返り、周りの人達もニナを呆然と見つめた。ようやくニナの傍へ来たハドリーも、その叫びに足を止めて目を見開いてニナを見た。時が止まったように誰もが動くことが出来なかったが、やがてカシャカシャというカメラのシャッター音が激しく鳴り始めると、ニナはその叫びで力尽きたかのように呆然と座り込み、そして全身を震わせて泣き崩れた。

「こ……の……野郎! ぶっ殺してやる!」

 ハドリーが静寂を打ち破って叫んだ。怒りで顔を真っ赤にしたハドリーはハンセンに殴りかかろうとしたが、ハドリーを追って駆けつけたラルフや他のメンバーが、ハドリーを背後から押え込んで必死にそれを止めた。

「堪えろ! 暴力はまずい!」

 ラルフがフラッシュを焚いているマスコミのカメラマンを睨みながら、ハドリーを羽交い絞めにした。

「うるさい! 離せ! ニナを……ニナが……くそっ、離せ! こいつを殴らせろぉぉぉ!」

 ハドリーは涙ぐんで、羽交い絞めにしているラルフを必死に振りほどこうとして叫んだ。

 怒りにゆがむ顔でアルバートはゆっくりとハンセンを振り返り睨みつけ、

「失せろ! ゲス野郎! ニーナは俺の娘だ。貴様には指一本触らせない!」

 と、指を突きつけ激しく罵った。その声を合図にしたかのように、カンパニーの面々が鬼のような形相でハンセンに詰め寄っていった。

「最低な奴ね。ヘドが出るわ」

「お前にはブタ箱がお似合いだな。ぶち込んでやる!」

「ニーナは私の娘よ! 絶対に許さないわ!」

「ラルフ! ハドリーの手を離せ! ハドリー、俺もこいつをぶん殴ってやる!」

 何十人もの人間が、怒りに震える目でハンセンを睨み追い詰めていった。


 予想外の事態に、ハンセンは顔に恐怖を浮かべオロオロと後退さった。キャシーが泣き崩れたままのニナを守るように固く抱きしめハンセンを睨み付け、ハドリーはまだ押さえられた手を振り解こうともがいていた。そして、キャンベルがハンセンの前にずいっと詰め寄って睨みつけて言った。

「よくも……よくも……俺の娘を……。俺はお前を一生許さない! 覚悟しろよ!」

 キャンベルのこれほどまでに怒りに震えた姿を皆初めて見た。ハンセンは会場の入口まで追い詰められ、そこへ駆けつけた大勢のガードマンによって連れ出されていった。

 再び静かになった会場には、まだ泣き続けるニナをキャシーが泣きながら抱き締め、ようやく手を離され呆けたように座り込むハドリーと、唇を震わせ黙ったまま悲しそうにニナを見つめるアルバートや皆の姿があった。

 慌てたスタッフ陣がニナを囲むように写真を撮り続けるマスコミ達を、「ここからはシークレットだ! 全員退去しろ!」と、必死で会場外へ退去させようとしていた。

 しんとした会場には、魂が引き裂かれているかのようなニナの泣き声と、カメラのフラッシュが焚かれる音だけが響いていた。




 深夜、アルバートの家の居間のソファでキャシーの膝に顔を埋めて、ニナは真っ青な顔で涙の跡も消えず眠っていた。

「なんで、こんなに優しい子に……。何故ニーナにばかり、神様はひどい事をするのかしら」

 キャシーがニナの髪を優しく撫でながら涙に震える声を溢すと、キャシーの頭を抱き寄せたアルバートは目に涙を浮かべて言った。

「ニーナはもう俺達の娘だ。一生守っていこう」

「ええ、アル。私達の娘よ」

 寄り添った二人は静かに、しかし固く誓い合った。


 そこへパジャマ姿のアニーが固い表情で唇を噛み締め居間のドアを開けて現れ、「マミー。私も一緒に寝る」と言うと、そのまま立ち尽くして二人をじっと見たまま涙を浮かべた。

 キャシーとアルバートは困惑した顔を見合わせた。母親を取られたアニーが嫉妬していると思ったのだが、アニーは顔をくしゃくしゃとして眉を寄せて浮かべた涙をボロボロと溢すと、

「私もニーナと寝るの。私もニーナを守るの」

 と、声を上げて泣き出した。

 それを聞いたアルバートは立ち上がってアニーを抱き寄せると、幼い娘を強く抱き締めた。

「アニー、いい子だ。いい子だ。みんなでニーナを守ろう」

「俺も忘れないでよ」

 居間の入口で、ジェームズが開いたままのドアをコンコンと叩いて、苦笑していた。

「取りあえず、ネットで呼び掛けた」

「……何を?」

 真顔で話すジェームズを怪訝そうに問い質したアルバートに対して、

「ニーナと同じ施設出身者探しさ。証言は多いほうがいい。絶対奴を追い込んでやる」

 ジェームズは怒りに燃えた目で言った。

 その言葉にアルバートは微笑んで息子を手招きし、そしてアニーを抱いたままソファのキャシーの隣に腰を下ろすと、歩み寄ったジェームズも抱きかかえて、親子五人で静かに抱き合った。



 キャンベルはパーティの終了を待たずに、直ぐ善後策を練った。遅かれ早かれ、ハンセンは金になる「ニナのスキャンダル」をどこかへ売るだろうし、パーティでの件が報道されるのを最早止めることは出来ないだろうと予測された。ニナが人々の好奇の目に晒されるのは避けたかった。

 キャンベルは事件後すぐにテッドに電話し詳細を伝えていて、愕然としたテッドもすぐにデイジーに事件を知らせた。

「デイジー。君の勇気が必要だ」

 固い声で伝えるテッドに、デイジーは迷うことなく、力強く即答した。その瞳には怒りが燃えていた。

「ええ。ニナを救うわ。アタシも奴は殺したいほど憎いわ」


 翌朝のTVのニュースショーで、昨夜のパーティでの出来事の一報が流れるとすぐにキャンベルは会見を行った。ニナが施設で虐待されていたこと、さらにレイプを受け脱走し一人苦労をしてきたこと、そんな子供が他にも居ることを明らかにした上でこう言った。

「我々には、大人として子供達を守る義務がある。そんな境遇に子供達を置いてはならないのだ! 絶対に! 私達はその施設を告発し、犯罪事実を明らかにして、厳罰に処せられることを願っている」

 だが、一方でハンセンもマスコミの取材に対して潔白を訴えた。施設の子供達も取材させ「院長はとてもいい人です」「いつも優しいです」などと言わせていた。

「ニナは歌が上手かったが、成り上がりたくてその為には男と寝るのも厭わなかった。それは事実です。私が強姦した? とんでもない! ニナは誰とでも寝る子でした。いえ。そんな子に育ててしまった私の責任でもあります」

 などと、ハンセンは白々しく嘆いてみせた。


 世間は喧々諤々となった。ニナに同情する声が多かったが、中にはハンセンの言い分を信じて騙されたと悔しがる者も居た。新聞は毎日ニナの事をトップニュースで『天使か悪魔か?』『堕ちた天使』などと、スキャンダラスに報じた。カンパニーの面々や、テッドやベラの元にもマスコミが煩く付き纏った。


 傍若無人なマスコミにマートは大きな身体を怒りに震わせて怒鳴りつけ、それを必死に宥めたラルフも、普段の温和な人柄からは想像出来ない怒りに満ちた顔で、ニナの疑惑を全否定した。

 テッドは店の前に屯するマスコミを煙に巻いて放置したが、テッドの店を訪れたベラにマイクを向けたマスコミ陣に、黙ったまま氷の瞳を向けたベラの殺気に息を飲んだマスコミに、ベラは冷たく「アタシのあの子を侮蔑する奴は許さないよ」と一言だけ告げて、それでも質問しようと口を開けたマスコミをひと睨みで黙らせた。


 皆多くを語らないのには理由があった。キャンベルからハンセンを告発する材料が揃うまで、全員に緘口令が敷かれていたのだ。憤懣やるかたない思いを抱えながらも、皆口を噤んで、静かに、ただひたすらニナを信じていた。





 ニナは、事件以降アルバートの家から一歩も出ずに閉じこもっていた。キャンベルはニナのスケジュールを半年後のワールドツアーを残して全てキャンセルした。キャシーがTVもラジオも新聞もニナの目に触れないように注意していて、携帯電話の電源も切っていた。

 もうずっと、食事を運んでも食べている様子もなく、カーテンを閉め切った部屋の隅でニナは悲しそうに俯いて膝を抱えて座っているだけだった。その様子に心配になったアルバートがキャンベルに依頼して医師を派遣して貰った。そして程無く、英国の精神科・心療内科の第一人者であるケント・アンダーソン医師がアルバートの家を訪ねてきた。


「入ってもいいかな?」

 アンダーソン医師は部屋のドアをノックして優しく問い掛けたが返事は無かった。それでもそっとドアを開けると、ニナはまだ部屋の隅に黙って蹲ったままだった。

 ニナを一瞥したアンダーソン医師は、小さいなと思った。十七歳と聞いていたが二次成長前の十二歳前後にしか見えない。医師は被虐待児に見受けられる症状の一種だと判断した。

 そして、ニナの目の前の床にニナと同じように蹲って座り、「こんにちは。ニナ」と優しく話し掛けた。その言葉にニナは顔を上げたが、虚ろな目は何も見てないように見えた。

「初めまして、ニナ。私は君の話を聞きに来たんだ」

 眼鏡の奥の茶色の瞳が優しく笑っていた。

「……お医者さん?」

 ニナは不思議そうに、囁くような小さな声で聞いた。

「そうだよ。ニナ」

 アンダ-ソン医師はゆっくりと頷いて微笑んだ。


 虚ろな目に少し戸惑いの色を浮かべているニナに、アンダーソン医師はゆっくりと話し掛けた。

「ニナ。アルバートやキャシーは優しくしてくれるかい?」

 ニナは黙ったまま小さく頷いた。

「ジェームズやアニーは? 意地悪しないかい?」

 また、ニナは黙ったまま頷いた。

「それじゃあここはニナが安心出来る場所だね」

 アンダーソン医師が優しく微笑むと、ニナはじっと考えこんでいたがゆっくりと頷いた。

「じゃあ、ここでゆっくり時間を掛けて話をしようね」

 と、アンダーソン医師が話し掛けると、ニナは虚ろな目から涙を一筋溢して呟いた。

「……私はここに居る資格はないの」

「どうして?」

「私は『天使』じゃないの。私は(けが)れているの。あいつが……あいつが……。私はみんなに嘘をついてたの。私は『天使』なんかじゃないの」

 そう言うと、顔を覆って肩を振るわせ激しく泣き出した。アンダーソン医師はニナが少し落ち着くのを待って、そっと囁いた。

「そうだ。ニナ。君は『天使』じゃない。君は君だ。君は『ニナ・ジェフリー』だ」

 アンダーソン医師の言葉にニナは顔を上げた。もう一度、アンダーソン医師はゆっくりと優しく語り掛けた。

「君は『ニナ・ジェフリー』だ。そしてアルバートもキャシーも、みんなも、『ニナ・ジェフリー』を愛しているんだよ」

 アンダーソン医師の優しい目をじっと見ていたニナだったが、やがて首を振って、

「ダメよ! 私は(けが)れているのよ! もう(けが)れているの!」

 と、悲しい叫びを上げた。

「ニナ。一つ聞いていいかい?」

 アンダーソン医師はそんなニナの反応にうろたえる事なく冷静に聞いた。

「同じような目に遭ったデイジーも(けが)れているかな?」

 その問いにニナは目を見開いて眉を寄せると怒りを爆発させ、立ち上がって医師を睨んで叫んだ。

「デイジーは誰よりも優しい子よ! (けが)れてなんかないわ!」

 アンダーソン医師もゆっくりと片膝を付いて立ち上がり、ニナと目線を合わせて囁いた。

「デイジーも同じ事を言ったよ。『ニナは誰よりも優しい子よ。(けが)れてなんかないわ!』と」

 ニナはその言葉に戸惑ったように、医師を見て頭を振った。

「ニナ。誰も(けが)れてなんかいない。誰も(けが)されていないんだ。君達は誰よりも優しくて、君達の絆は誰よりも尊い」

 微笑んでニナを見つめるアンダーソン医師を首を振りながらじっと見つめていたニナだったが、やがて瞬きもしない瞳から涙が溢れ出した。

「……死のうと思ったの。ナイフで……。でも、出来なかったの。子供達を虐待するって言われて……出来なかったの」

 ニナは顔をくしゃくしゃにしてボロボロと泣き出した。ゆっくりと立ち上がったアンダーソン医師は、声を上げて全身を震わせて泣くニナの肩に手を掛け、優しく頭を抱きとめもう何も言わなかった。ニナが泣きたいだけ泣くように、ただ優しく抱き締めていた。

 医師が帰った後、ニナはベッドに座りこんで、電源の切れた携帯を泣き腫らした目でじっと見つめていた。たまらなく誰かの声が聞きたかった。ニナの頭にはただ一人の人の顔がずっと浮かんでいた。ニナは携帯の電源を入れると、じっと一つの番号を見つめていた。



 ハドリーはその頃、自宅軟禁状態だった。

 パーティ会場で一番大暴れしたハドリーもマスコミに取り上げられ、ニナと肉体関係があるのではと疑われ朝から晩まで張り付かれ追い回されていた。事務所からは自宅から出ないよう通告されていて、自宅の電話も携帯も留守電にして知っている番号にしか出なかった。TVもラジオも付けなかった。あいつの薄汚い顔を見たくなかった。尤もTVは見たくてももう壊れていた。

 街中のインタビューでマイクを向けられた市民の一人が、「可愛い顔してるがまるで売春婦のような目付き……」と、そこまで言ったところで、持っていたリモコンをTVに思いっきり叩き付けたからだ。PCの電源も切ってネットも見ないようにしていた。


 ニナがどうしているのか、それだけがハドリーの気がかりだった。アルバートの家に匿われているのは知っていたが、どういう状態なのか情報が無く不安だらけだった。

「くそっ!」

 ソファに寝転んでいたハドリーは、手元のクッションを壁に投げつけた。

 その時、携帯が鳴った。横目で見ると発信元はアルバートの自宅で、慌てて携帯を取って電話に出るとハドリーは叫んだ。

「アル! ニナは? ニナはどうしてる? 大丈夫なのか?!」

 だが、電話の向こうは黙り込んだままだった。

「アル?」

 と、ハドリーが訊ねると、やがて、

「……ハドリー」

 か細い、震えるようなニナの声がした。

「ニナか! だ、大丈夫なのか?」

 ハドリーは驚いて、咳き込むように訊ねた。

「……うん」

 ニナが震える小さな声で頷いたが、その後ニナは中々しゃべらなかった。ハドリーもどう声をかけていいのか、言葉がうまく見付からなかった。

「ニナ」「ハドリー」二人同時に話し出して、「あ」と言ってまたお互い黙ってしまった。

「……ハドリー。ハドリーの歌が聴きたい」

 やがてニナが小さな声で呟くと、ハドリーはフッと笑って、囁くように優しく言った。

「ああ。いいぞ。何でも歌ってやる」

「あの曲がいい。こないだ、楽屋で……」

「よし、いいぞ。歌ってやる」

 考え込んでいたニナが躊躇いがちにリクエストすると、咳払いを一つしてハドリーはそのままアカペラで歌いだした。それはビートルズの『Let it be』で、公演中の楽屋でラルフとデュエットで歌ってニナを喜ばせた曲だった。

 ハドリーはニナのために全力で歌った。途中からハドリーの目から涙が零れていたが、ニナには悟られないようにシャウトするように歌った。電話の向こうでニナは黙って聴いているようだったが、ハドリーには泣いているニナの姿が見えていた。

「すまん。ちょっと力みすぎた」

 歌が終わるとハドリーはゴホゴホと咳き込んで、電話の向こうでニナがクスクスと笑う声が聞こえると、ハドリーもそれを聞いて微笑んだ。そして、ニナに優しく声を掛けた。

「ニナ。ゆっくりでいいんだ。俺はずっと待ってる。待ってるから、また一緒に歌おう」

「……うん。ありがとう。ハドリー」

 ニナはベッドに腰掛けて、電話機を耳に当てたまま微笑んで、そっと小さく嬉しそうに囁いた。





 

 テッドの店に、眉を寄せたテッドの前にこちらも眉を寄せたデイジーと、壁に寄りかかっていつものように不機嫌そうなベラが集まっていて、デイジーがコツコツとテーブルを叩きながら呟いた。

「元仲間にも声かけて探してるんだけど、散らばっちゃってて中々見付からないのよ」

「こっちもそれらしい子を探してるけど、ああいう子は自分の過去を余り話さないし、しかもあんなとこじゃあベラベラしゃべる子は居ないね」

 と、ベラもふーっと煙草の煙を吐くと、首を振ってボソッと言った。

「アタシの彼氏も、同業者に声かけて配達先にそれらしい子が居ないか探してるわ」

 デイジーはため息をついた。その言葉にテッドがデイジーを静かに見つめてから、

「お前の彼氏は男前だな」

 とフッと笑うと、デイジーは片眉をきゅっと上げてテッドを睨んで、

「当たり前じゃん。アタシの彼氏なのよ」

 と、フンとそっぽを向いた。

 だが、デイジーが告発を決意した時、別れる覚悟で同じ店で働く彼氏に自分の過去の全てを告げたことを、デイジーは誰にも話さなかった。

「だからさぁ」

 デイジーが今度はテッドを覗き込むように睨んだ。

「アタシが記者会見でもなんでもやってやるって言ってるじゃないの。 あいつの悪事を全部暴露してやるわ」

「デイジー。君一人じゃ荷が重過ぎる。向こうは今施設に居る子達を使って嘘の証言をさせてるんだ」

 テッドは苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。

「じゃあ、どうすりゃいいのさ!」

 と、デイジーがテッドをさらに睨みつけた。


 その時、カランカランとベルの音がして開店前の店に誰かが入ってきた。ティーンとは思えないような質素な服で、金髪を後ろで一纏めにした二十歳前後の少女だった。

「あ。まだ開店前……」

「ナンシー!」

 テッドがその少女に言い掛けると、デイジーが大きく目を見張ったまま叫んだ。

「知ってる子か?」

「施設の子よ。まだ施設に残ってる筈なの」

 テッドの問いに、デイジーは固い表情で告げた。

「ナンシー! どうしたの? どうやってここに?」

 デイジーはナンシーに駈け寄ろうとしたが、ナンシーはその声に反応せず店をキョロキョロと見回して、やがてテッドに目を止めて妖艶に微笑んだ。

「……いい店ね……それに、いい男だわ」

 紅も塗ってない唇が何時の間にかてらてらと光っていて、束ねた髪をうっとおしそうに解き、ゆっくりと腰を振りながらテッドに近づいてきた。

 デイジーは足を止めて「ナンシー?」とその様子をじっと見ていたが、やがて眉を寄せて呟いた。

「アンタ、『マルガリータ』ね」

 『マルガリータ』はデイジーを横目でちらっと見て、

「あら、よく判ったじゃない。デイジー、久しぶりね」

 と、フフと笑うとデイジーの頬を撫でた。

 テッドとベラが、訳が分からず顔を見合わせていると、デイジーが眉を潜めて囁いた。

「ナンシーは多重人格なの。今出てるのは『マルガリータ』よ」


 テッドは呆然と口を開けていたが、そのテッドにしなだれかかるように『マルガリータ』が寄ってきて、誘うようにテッドの顎の無精ひげを撫でた。

 デイジーはキッと『マルガリータ』を見据え、眉を寄せて言った。

「でも、なんでこんな時間にアンタが居るのさ? いつもアイツのベッドに呼ばれる時にしか出て来ないくせに」

 テッドはハッとして「そういうことか……」と、『マルガリータ』の手を払いながら呟いた。

 『マルガリータ』はデイジーをちらっと見て、またテッドに目を移し誘うように笑い掛けながら、

「『ナンシー』は妹を人質に取られちゃってるから逃げられないのよ。だからアタシが出てきたの」

 と、意味ありげな目で呟いた。

「どういうこと?」

 デイジーが不思議そうに訊ねると、

「そりゃ決まってるわ。あの野郎を告発するためよ」

 と、『マルガリータ』は目をキラキラさせて言った。

 デイジーもテッドもぽかーんと口を開けているのを見ると『マルガリータ』は楽しそうに笑って、

「ニナはいつも『ナンシー』のために泣いていたわ。アタシはニナも『ナンシー』も救いたいのよ」

 そういうと挑戦的な瞳をウィンクさせて、妖艶に微笑んだ。


 大音量で音楽を流しっ放しの薄暗い散らかった部屋のベッドの上で、若い男がノートPCの画面だけを青白く光らせて腹ばいになって覗き込んでいた。

 男は隣で裸の肩を見せて眠っている若い女の肩を叩き、楽しそうに笑い掛けた。

「なぁ。おい。これ見ろよ」

「何よ」

 と、女が気だるそうに振り返って聞くと、

「『ハンセン児童養護院の出身者を探しています』だってさ。これきっとマスコミだぜ。俺らは違うとこだけど、ココだって言って適当な事言って謝礼を稼ごうぜ」

 男は薄ら笑いを浮かべてPCを覗き込んだ。

 女は眉を潜めて興味なさそうにまた後ろを向いて、「やめときな。バレるよ」とだけ言った。

「大丈夫さぁ。でもこの『デイジーが力強く咲いています。ニナを救って下さい』って意味わかんねぇ」

 男がヘラヘラと笑うと女は目を見開いてがばっと起き直り、「見せな!」と男の手からノートPCを引っ手繰ると、驚いたように画面を覗き込んだ。

 あおりを食ってベッドから転げ落ちた男はムッとして、

「痛ぇな。何すんだよ、カレン」

 とブツブツと文句を言ったが、女は男に見向きもせず、ただ画面を食い入るように見つめたまま呟いた。

「デイジー……」

 その瞳に青白い画面の光が反射して、キラキラと光っていた。





「キャンベル。どういう状態だ?」

 電話が鳴りっぱなしの事務所でキャンベルが頭を抱えて苦悩しているところに、ノックもそこそこに足早にアルバートが入ってきて心配そうに訊ねた。

「ああ、アル。こっちの手持ちの駒が少なくて困ってる。何せ今施設にいる子供達は、奴の人質みたいなもんだしな。こっちは今の所、ニナとデイジーだけだ」

「なら、これが役に立つな」

「これは?」

 アルバートから渡された何人もの名前と連絡先が書かれたメモを、キャンベルは不思議そうに見た。

「あの施設に元居た子供達だ。皆協力したいと言っている。ウチの息子がネットで呼び掛けて見つけたんだ」

 アルバートがにやりと笑った。それを聞くとキャンベルは目を輝かせて、

「よくやった! ジェームズ! よし、すぐに連絡を取るぞ!」

 と、部屋を飛び出して行った。


 数日後、キャンベルはアンダーソン医師の立会いの下、アルバートの家でニナと向かい合った。ニナは憔悴した顔はしていたが、思っていたよりも穏やかそうだった。

「ニーナ。君にとっては辛い事になってしまうかもしれないが、どうしても君の力が必要なんだ」

 苦しそうに切り出したキャンベルを、ニナは黙って見つめていた。

「我々は奴を告発しようと準備している。それには君の名前も必要だ。だがそれは君にもう一度辛い体験を思い出させる事になるだろう。出来れば君にはもう辛い思いはさせたくない。させたくないんだ」

 その言葉に悲しそうに俯いたニナにキャンベルは唇を噛んだが、しかし顔を上げて、

「だがな。これだけの君の友人が卑劣な犯罪の告発に名乗りを上げてくれたんだ。その気持ちを私は無駄にしたくないんだ」

 と、一枚の紙をニナに見せた。ニナがその紙を手に取って見ると、懐かしい友人達のいくつもの名前が並んでいた。

「カレン……エミリ……アンナ……スージー……」

 ニナは一人一人の名前を悲しそうに読み上げ、そして次の名前を見て驚愕した。

「ナンシー! どうして? まだ施設に居る筈なのに! まだ妹だって……」

「彼女は告発をするために施設を脱走したんだ」

 アルバートがそっとニナに囁いた。ニナは悲しそうな顔をしてまた紙に目を落とすと、目を見開いて「デイジー……」と、辛そうな声を出した。

「ニーナ。デイジーには今恋人が居るんだ。でも、彼女も勇気を持って告発することに同意してくれた」

 キャンベルが唇を噛んだ。ニナは黙って紙を見つめていたが、やがて涙をボロボロと溢れさせて、俯いて肩を震わせて泣き出してしまった。キャンベルとアルバートは心配そうに医師を見たが、医師は大丈夫だというように頷いた。

 ニナの脳裏には施設の子供達の姿が甦っていた。脱走した夜にサムに誓った言葉を思い出していた。ゆっくりと顔を上げたニナの瞳は涙に濡れてはいたが、光を放って強い意志に輝いていた。

「私、子供達を救いたいの」

 ニナはキャンベルを真っ直ぐに見て、ゆっくりと頷いた。




 膠着していた事態は一気に本流へと流れ込んで、解決に向かった。

 ハンセンはニナをより追い込もうとして週刊誌に虚偽の情報を流したが、もう既にその時にはニナやデイジー、そして元施設の子供達からの連名での告発状が警察に提出されていた。

 告発者の証言が信用するに足ると判断され、警察による内定が行われた結果、虐待の事実が次々と明らかになった。ハンセンは潔白を主張したが虐待の跡のある子供が何人も居る事が判明し、施設の子供全員が「嘘を言わされていた」と認めたため、程なくハンセンや施設職員達は児童虐待や強姦などの幾つもの罪で逮捕され、施設の子供は全員保護された。

 保護された子供達が預けられている病院を訪れた『マルガリータ』は、ナンシーの幼い妹が泣きながら抱きついてくると、見守るデイジーにウィンクし手を振って笑って『消えて』いった。表情が穏やかな『ナンシー』に戻ると、ナンシーは目の前の妹を抱きしめて泣いた。


 希にみる凶悪な事件として、一連の事件は世間に大きく取り上げられた。ニナの辛い過去の真相が暴かれると、人々は同情と好奇の目をニナに向けた。虐待を受けていた子供達への配慮でニナ以外の子供達に関する報道の自粛を余儀なくされたため、どうしてもニナのケースだけが繰り返し報じられる結果となった。この『悲劇のヒロイン』に同情を寄せる声も勿論多かったが、批判的な声も無くは無かった。『天使の歌声』の持ち主が実は『天使』ではなかったという拭い去れない想いは、人々の心から中々消えなかった。


 だがそんな時にあるニュース番組で、英国で一、ニを争う人気キャスターがニュースの最後に静かに視聴者に語り掛けた。

「この歌を聴いて、まだニナを色の付いた曇った目で見る人が居たら、その人は自分を恥じるべきだ」

 そして、公演でのニナの『On my own』のシーンがノーカットで流された。


 小さな少女が空を見上げて、懸命に歌っていた。辛く悲しい自分の運命を抱えそれでも必死で未来を見つめようと、健気で力強いエポニーヌの姿は、今のニナの姿そのものだった。そこには、羽をもがれても一途に手を伸ばし神の元へ飛び立とうとする、紛れも無い『天使』が居た。TV画面を見つめていた人々は、静かにニナの姿を見守った。その歌は彼らの心の奥深くに刻み込まれ、その想いは静かに英国全土に広がっていった。


 やがて事務所や施設には、ニナや子供達を励ます膨大な量のメッセージが送られてきた。院長を失って窮状に陥った施設を救おうとする動きも同時に巻き起こった。キャンベルらが専門家と協議し、施設の最年長で子供達を守ってきたサムが新しい公益法人の理事長に就任し、その法人には多額の寄付が殺到し、行政は特別措置として施設の臨時責任者にサムを指名した。後はハンセンの破産宣告を待って、サムが施設を引き継ぐことになった。

 まだこの先、裁判で辛い証言をしなければならないニナだったが、アンダーソン医師がきめ細かいカウンセリングを行ってニナをサポートした。また、彼はナンシーの担当医にもなり、徐々にナンシーも回復していった。

 アルバートとキャシーは正式にニナの後見人に就任し、ニナを生涯守る事を誓った。

 そして、ニナの傍らにはいつもハドリーが居た。





 ハドリーは自宅軟禁令が解かれると、真っ直ぐにアルバートの家を訪れた。外野が何を言おうと気にしなかった。

「ハドリー!」

 そっとニナの部屋をノックしてドアを開けたハドリーを見ると、すぐに大きな瞳を涙で一杯にして、ニナは駆け寄ってハドリーに抱きついた。

「ニナ。よく頑張ったな」

 優しく抱きとめたハドリーは、ニナの頭をそっと撫でて微笑んだ。

 だが、何かに気づいたように顔を上げたニナは、涙を浮かべたままの瞳で、そっとハドリーから離れると後ろを向いて黙って肩を震わせた。(けが)れたわけじゃないと思っても、ハドリーには受け入れて貰えないかもしれないという思いが拭えず、ニナは悲しい気持ちで一杯になっていた。

 ニナのそんな様子をじっと見ていたハドリーは、ニナの肩を抱いてそして振り向かせた。そして、不安そうにハドリーから目を逸らそうとするニナの頬を両手でそっと押えて、ニナを真っ直ぐ見て真剣な目で言った。

「心配するな。何も変わらない。お前はお前だ。真面目で一途で、ちょっとおっちょこちょいな俺の大好きなニナだ。俺が一緒に歌いたいと願う、たった一人の女だ」

「ハドリー……」

 その言葉に安心したようにニナは微笑んで、またハドリーの胸に顔を埋めた。

 しばらく抱き合っていた二人だったが、ニナがぽつりと、

「……おっちょこちょいはひどいわ、ハドリー」

 と、顔を見上げて怒った頬を膨らますと、ハドリーは苦笑して、

「だが事実だからしょうがない」

 と、首を竦めて見せた。

 後ろでそっと見守っていたアルバートやキャシーも苦笑いし、ジェームズがにやにやと、

「ハドリー、わかってるね」

 と、冷やかした。ニナもぷっと噴き出して、久々の明るい笑い声がアルバートの家に広がっていった。



 その翌日、ハドリーは国立中央病院の西病棟三階の突き当たりにある大きなドアをノックした。中へ入ると、正面の大きな机の前の椅子に座った白衣の男がくるりと振り返り立ち上がって挨拶した。

「やあ、よく来てくれたね。初めまして、Mr.フェアフィールド。僕はケント・アンダーソンだ」

 眼鏡の奥の瞳が優しく微笑んでいた。

「僕がニナの主治医になった事は聞いているかい?」

「ええ。キャンベルとアルバートから聞いています。Dr.アンダーソン」

 ハドリーにソファを勧めその前に座ったアンダーソン医師が静かに話し出すと、ハドリーは丁寧に答えたが、

「ケントでいいよ。僕もハドリーと呼んでいいかい?」

 と、アンダーソン医師は微笑んだ。ハドリーが頷くと医師はにっこりとして続けた。

「僕が初めてニナに会った時には状態はとても悪かった。だが、最初のカウンセリングで彼女は大分改善した。彼女は僕の言葉の意味を瞬時に理解した。ニナは本当に頭のいい子だ」

 医師は目を閉じ微笑んだ。そして目を開けるとハドリーをじっと見つめて言った。

「だが次に会った時にはもっと驚くべき回復を見せていたんだ」

 ハドリーは不思議そうな顔をしたが、アンダーソン医師はハドリーの顔を真っ直ぐ見つめたまま、

「君がニナに歌ってあげた次の日だ」

 と、ハドリーに告げた。

「え?」ハドリーは目を見開いて驚いて、医師に聞き返した。

「ニナの精神状態が余りにも落ち着きを取り戻していたので、僕と話した後何があったのか訊ねたんだ。どうか気を悪くしないで欲しい。これが僕の仕事なんだ。勿論、患者の秘密を関係者以外に口外することはない」

 アンダーソン医師はハドリーに微笑んで、ハドリーは静かに頷いて理解を示した。

「ハドリー、君はニナを愛しているかい?」

 アンダーソン医師は唐突に真剣な顔でハドリーに訊ねた。ハドリーは迷わなかった。

「ああ。俺はニナを愛している」

 その瞳には光が宿っていた。アンダーソン医師はそれを確認すると満足そうに微笑んで、

「それが聞きたかったんだ。君の支えはニナにとってとても重要なんだ。それを解って欲しかった」

 そう言うと続けて、

「だが、ニナが負っている傷は深く暗く簡単に消える物ではないんだ。おそらく時間が掛かるだろう。それも知っておいて欲しい。君が焦ったりすると、それがまたニナを傷つける刃になる。その意味を君は理解しなければならない」

 もうアンダーソン医師は笑っていなかった。

 その厳しい目をハドリーを見据え、その目から自分の目を逸らす事なく、

「ああ。俺はニナを守りたい。俺が何をすべきなのか教えてくれ」

 と、静かに言った。固い決意の篭った声だった。黙ってハドリーを見ていた医師は、フッと微笑むとやがてにっこりと笑ってハドリーに頷いた。





 サムが施設を引き継いでしばらく経ってから、ニナとデイジーは施設を訪れた。ニナにとってはあの月の夜に脱走してからニ年半以上経っていた。

 施設は見違えるように綺麗になっていた。石が転がり雑草だらけだった庭は美しく整備され、植え付けられたばかりの芝生がまだ碁盤の目状ではあったが、青々と風にそよいでいた。その芝生の上には沢山の遊具が置かれており、庭の四隅に設えられた綺麗な花々が咲き乱れる花壇をクイッと顎で指してデイジーは得意そうに自慢した。

「あの花壇はアタシと彼氏で作ったんだ」

 塗り直された白い建物が陽の光に輝き、開け放たれた窓から顔を覗かせていた子供達がニナを見つけて叫んだ。

「ニーナお姉ちゃんが帰ってきた!」

 沢山の子供たちが歓声を上げて駆け寄ってきた。まだ少し痩せてはいたがどの子も顔色がよく、そして以前では考えられなかったような輝く笑顔を見せて、嬉しそうにニナに抱き付いてきた。

 ニナは一人一人を抱き締めて、「ごめんね。またみんなを守るから。守っていくから」と、何時までも泣き続けていた。


 デイジーと恋人との仲を心配したニナだったが、デイジーは明るく笑い飛ばした。

「全然へっちゃらよ。彼はアタシにベタ惚れなんだもの。昔アタシが街で立ちん坊だった事も知ってるしね」

 ニナはキョトンとして「立ちん坊?」と不思議そうな顔をしたが、デイジーはフフッと笑ってそれには答えず、

「逆にプロポーズされたわ。『ずっと君を守りたい』だって!」

 と、顔を赤くして言った。わあっと笑い顔になったニナはデイジーの手を取って、嬉しそうに祝福した。

「おめでとう! デイジー!」

「ありがと。次はニナの番よ」

 と、デイジーはウィンクして微笑んだ。

 ニナは顔を真っ赤にして「まだ私は……」と言い掛けて、ゆっくりと幸せそうに頬を染めて微笑んだ。


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