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天使の歌声

 リハも中盤に入ると衣装も出揃って、より本番に近い形式でリハが行われるようになった。


 マートはあれ以来リンダと共謀して、劇場入りするとすぐに日替わりで色々なかつらを被って登場してニナを大喜びさせた。

 廊下でエポニーヌの衣装姿をラルフとハドリーに見せて嬉しそうにしていたニナのところに、この日はスモウレスラーのちょん髷姿で現れて、ニナを涙ぐむぐらい笑い転げさせたマートが満足そうに鼻をフンフンと鳴らして上機嫌で去っていくと、ニナは目に涙を浮かべたまま俯いて震える声でぽつりと言った。

「マート……優しすぎるわ」

 さっきまでニナと同じように大笑いしていたラルフとハドリーは、お互いに顔見合わせるとフッと笑って、二人でニナの頭を手でポンと叩いてからグリグリと撫でて慰めた。


 そんな楽屋の和んだ光景とは裏腹に舞台での練習は厳しさを増して、ニナも眉を寄せていることが多くなった。

 歌では十分過ぎるほどの評価を得ていたニナだったが、全く実戦経験のなかった舞台演技となると、やはり経験不足から注意されることが多くなった。ニナは飲み込みが早く、一度注意されると素早く吸収し反応してみせたが、経験が物を言うタイミングなどはコツが掴み辛いようで苦労していた。

 自分の出番の無い日でも、客席や舞台袖で台本を手にじっと舞台に見入っているニナの姿があった。練習室の大きな鏡の前で、僅かな休憩の合間にも動きや表情のチェックをしているニナや、舞台上で何度でも頭を下げてやり直しを願うニナの姿を、ハドリーは遠くから見つめていた。



 この日、歌い出しの細かいタイミングがうまく合わず何度もNGを出したニナは、もうみな帰り支度をしている舞台を前に、客席に座って台本と舞台を交互に見比べながら一人眉を寄せてブツブツと呟いていた。


「音を聴くな。周りを見るな。空気を感じるんだ」

「え?」

 驚いて見上げたニナの隣に、何時の間にか真っ直ぐ舞台を見据えてハドリーが立っていた。

「神経を張り詰めていると、舞台の流れが見えてくる。その空気が変わる瞬間を感じるんだ」

「でも、私まだ慣れてなくて……」

 ニナが不安そうに答えると、ハドリーは視線を舞台からニナに移して言った。

「慣れじゃない。舞台を愛してるかどうかだ。自分が愛する物を、本気で作ろうとするかどうかの気持ちの問題だ」

「自分が愛する物……」

 己の中で反芻するようにニナがそっと呟くと、ハドリーは肩掛けにしたバッグからDVDを取り出しニナに差し出した。

「これを見ろ。リハの記録用だ。客観的に見ることで何がダメなのか判断出来る」

 受け取ったDVDを手にしてニナは目を丸くしていたが、やがて顔を真っ赤にして、ハドリーに向かって陸に上がった魚のように口をぱくぱくとしてみせた。怪訝そうにそれを見ていたハドリーは、ハッとして口をあんぐりさせてニナに訊ねた。

「もしかして、デッキもPCも持ってないのか?」

 ニナは恥ずかしそうにうんうんと頷いて俯いた。

「……確か、俺の楽屋に中古のデッキがあったな。あれを繋げば……」

 そこでハドリーはニナをチラリと横目で見た。

「まさか……TVはあるよな?」

 ニナは真っ赤になったままブンブンと首を振った。

「……マジか」ハドリーは頭を抱えた。

「いや、待て。確か使ってないノートがあったな。ネットに繋がなくてもあれなら……」

 片手を口元に当てて俯いて一人ブツブツと呟いていたハドリーは顔を上げると「ニナ、行くぞ」と言って、ニナの手を掴んで客席出口へ向って走り出した。

「え?」

 ニナはキョトンとしたまま、なすがままにハドリーに引っ張られていった。


 シアターから車で十分ほどの所にハドリーの自宅はあった。モノトーンのシンプルな家具が並び、生活感の無い綺麗に片付けられた居間のグレーのソファに、自分が何故此処に居るのかわからないといった不思議そうな顔をしたまま目をぱちくりさせて、ニナはちょこんと座っていた。

 ハドリーが居間のドアを開け、ノートPCを手にして「あったぞ」と戻ってきた。

「よし。動作は問題ないな。……冷蔵庫にエールが入ってる。勝手に飲め」

 テーブルの上でノートPCを開いて電源を繋ぎ、DVDを挿入させて何やらカチャカチャと操作していたハドリーが、幾何学模様のサイケな背景画面のPCを覗き込んで目をぱちぱちさせているニナに、顔を見ずにPCを操作しながら言った。

 だが、しばらくしてもニナが困った顔をして座ったままなのに気づいて、ハドリーは頭を掻いた。

「なんだ。飲めないのか」

 キッチンでお湯を沸かし手早くお茶を入れ、自分はエールの瓶を片手に戻ってくると、「ほら」とニナの前に湯気の立つお茶のカップを置いた。

「ありがとう」

 ニナはほっとしたように頬を染めてカップを受け取った。


「できたぞ」

 改めて少しの間PCを操作していたハドリーは、画面をニナに向けた。さっきまでのサイケな背景が綺麗な花畑になっていて、ごちゃごちゃだった画面が整理されていた。

「此処にこれを入れて、この画面が出たら、此処にこうやって矢印を持ってきて、此処をぽんと押せ」

 ハドリーがPCのDVDスロットを示して、ニナによく見えるように操作しながらマウスをクリックすると、程なく画面に舞台の練習風景が映し出された。

「わぁ」

 ニナは目を丸くして、先ほどの自分の演技の舞台に見入った。

「ここだ。このタイミングだ。もう1回流すぞ。このバーの適当なところに矢印で、ぽん、だ」

 ニナは黙って画面を食い入るように見入っていた。

「〇.五テンポずれているのがわかるか?」

 ハドリーが聞くと、ニナは真剣な目のまま頷いた。

「音に合わせるとずれる。もっと前から流してみろ。舞台の空気を読め」

 ニナは何度も繰り返し巻き戻してはチェックし、その度にハドリーが的確な指摘をした。


 何時の間にかテーブルに置かれたコップのお茶は冷めていた。

「これなら昔のリハのDVDも見れる。事務所のサラに言って出してもらえ」

 ハドリーはぬるくなったエールをごくりと飲み込んだ。

 ニナはPCを抱えて嬉しさを噛み締めていた。ハドリーは決して自分を子供扱いして認めてくれていない訳じゃなかった。誰よりも舞台に真剣なハドリーの、無愛想な顔に隠された熱い情熱に触れたようで、くすぐったいような喜びを感じていた。だが反面、自分に示してくれた仲間としての信頼を裏切ってはいけないという思いも、ニナの心にふつふつと沸き上がっていた。もっと知らなくては、そう思って腕の中のPCを強く抱き締めていた。

「ありがとう。ハドリー」

 ニナは頬を染めて嬉しそうにノートPCを抱えてハドリーを見つめた。

 その瞬間ハドリーはハッと慌てて、ニナから目を逸らして上を見上げた。舞台の事になると熱くなるハドリーは、自分が今ニナと二人っきりな事にようやく気がついたのだ。なんでこんな子供相手に俺が照れなきゃならないんだとハドリーは思ったが、自分の体の中に灯った火がより強く揺れるのを感じて、湧き上がる感情と理性を保とうとする思考の狭間で戸惑っていた。


 急に顔を背けて黙り込んだハドリーをニナが不思議そうに覗き込もうとした瞬間、ニナの携帯が鳴った。

「あ。ハドリー。ごめんね」

 と、ニナは鞄から携帯を取り出して電話に出ると、嬉しそうに話し始めた。

「あ。ベラ姐さん? え? ううん。居残りじゃないわ。うん。ハドリーが練習のDVD見れるようにって、パソコン貸してくれるの。え? うん。ハドリーの家よ?」

 ハドリーが慌てて壁の時計を見上げると、ニナを此処に連れてきてから二時間以上が経過していた。恐らく帰宅の遅いニナを心配して掛けてきたであろう電話に、屈託も無く男の家に居ると話すニナの様子にハドリーは頭を抱えたが、ニナは無邪気にハドリーに携帯を差し出した。

「ベラ姐さん、テッドのとこでいつもお世話になってる人なの。ハドリーにお礼言いたいって」

 ニコニコと笑うニナから携帯を受け取ったハドリーは、何を言われるかと冷や冷やしながらも、覚悟を決めて緊張した声で話し始めた。

「あの……」

 短く告げたハドリーに、一瞬間を置いて冷ややかな女の声が聞こえてきた。

「……ニナが世話になったね」

 ハドリーが返す言葉に詰まっていると、女は続けてゆっくりと脅すように囁いた。

「で、遅くならないうちに家まで送ってくれるんだろうね? Mr.フェアフィールド」

 その余りの凄みに足元から冷気が湧き上がって来るように感じて、ハドリーは背を伸ばして冷や汗を掻いて返事をしていた。

「は、はい! 勿論」


 電話を切ってニナに携帯を返すと、ハドリーはフゥと息をついて苦笑して立ち上がった。

「ニナ送っていくぞ。飯もおごってやる」

「帰って早く続きを見たいの」

 ニナはノートPCを大事そうに抱えこんだまま首を振って訴えたが、ハドリーはフッと微笑んでから苦笑いした。

「ダメだ。ちゃんと飯も食え。キャンベルが困ってたからな」

「え? どうして?」

 ニナは首を傾げて不思議そうな顔をした。

 



 キャンベルが舞台を渋い顔で眺めている隣で、演出家のジョージもうーんと唸って舞台上のニナを見てため息をついた。

「ニーナの演技はいいんだ。いいんだがなぁ」

「やはりタッパの問題ですね。どうしても周りの他の大きな人のアクションにニナが沈んでしまっている。リアクションを大きくさせても、これ以上は限界でしょう」

 ジョージの解説に、キャンベルは頭を抱えて「うーむ」と考え込んだ。


 翌日、ニナが大きな靴を履いて歩き難そうに顔を顰めて舞台をよろよろと歩いているのを見て、学生役の一人トーマスが舞台袖でプッと噴き出し「何だありゃ」とケラケラと笑った。

「シークレットシューズさ。ガブと並んでも五㎝しか違わないから十㎝底上げするらしい」

 傍で同じように舞台のニナを眺めていたキースが首を竦めて苦笑した。

「後ろから抱き付いて脅かせてやろうぜ。きっとひっくり返るぞ」

 両手を伸ばしてバランスを取りながら一歩一歩おそるおそる歩いているニナの背中を見て、トーマスは悪戯そうにニヤリと笑って、そっと舞台に歩き出そうとした。

「おい。やめとけ」

 キースが苦笑して手を伸ばした瞬間、トーマスは誰かに襟首を掴まれて後ろに投げ飛ばされた。


 もんどりうって倒れたトーマスが頭を押えて顔を上げると、そこにはハドリーが怒りの形相で仁王立ちしていた。さらにひっくり返ったトーマスの胸倉を掴んで引きずり起こし、ハドリーは拳を固めて殴ろうとしたが、キースがその手を押さえて舞台のニナに悟られないように声を抑えて止めた。

「やめろ、ハドリー」

「何なんだよ! ハドリー!」

 トーマスもむかっ腹を立ててハドリーを怒鳴ったが、ハドリーは静かに怒りを込めながらトーマスを睨み付けた。

「ふざけるな。ニナがどんな傷を負ってるか、お前、知ってるだろうが」

「ああ。知ってるさ! だけど、もう元気そうじゃないか! ちょっとからかうぐらい……」

「……お前の目は節穴だな」

 横を向いてペッと唾を吐いたハドリーを、トーマスは「はーん」と目を細めて嘲笑った。

「へぇ。ハドリーがロリコン趣味だったとは知らなかったな」

 その瞬間、蒼灰の瞳を光らせたハドリーは何も言わずにキースの手を強引に振り解き、掴んだままのトーマスの左頬を渾身の力で遠慮無くぶん殴った。

「だからお前の目は節穴だって言ってんだ」

 倒れこんだトーマスに冷たい目で吐き捨てると、ハドリーは頬を押さえ込んで唸っているトーマスを跨いで大股に去って行った。

「ちくしょう!」

 立ち上がってハドリーを追おうとするトーマスの肩に手を置いて引き止め、キースは冷静に言った。

「やめておけ。最初にニナにちょっかい出そうとしたお前にも非はある」

 舞台袖の隅で成り行きを見守っていたテッドは、静かにハドリーが去った方へ目をやった。



 それから数日経って、観客席で舞台上のニナの練習風景をじっと見ていたハドリーの隣に、テッドが無言で腰を下ろして独り言のように呟いた。

「ハドリー。君に言っておきたいことがあるんだ」

 ハドリーは怪訝そうにテッドを見た。

「ニナは真っ直ぐな子だ。本当に、真っ直ぐすぎるぐらいに。自分の何もかも犠牲にすることも厭わない。彼女の友達が言っていた。『ニナはムチ打ちが待っていると分かっていても小さな子を庇った』と」

 テッドは前を向いたまま目を細め、ポツリと言った。

 その言葉にハドリーは眉を寄せて悔しそうに唇を噛み、前の椅子を握り締めた両手は血管が浮かび上がるほど強く握られ、静かに震えていた。テッドはそんなハドリーの様子を見て、やがて口元に微かに笑みを浮かべた。

「ニナの負った傷は暗くとても深い闇のようなものだ。確かに今のニナは元気そうに見える。でも決してその傷は癒えていない。癒えていないんだが、それに気づいている人は多くない。だが、ハドリー。君は気づいている」


 テッドは自分の店に来たばかりの頃のニナを思い出していた。怯えた仔猫のように弱々しくおどおどとしていたニナが、友を得て、安寧を得て、そして歌を得て、駆け抜けるように変わっていったニナの屈託の無い笑顔を思い出していた。

 だがそれも、彼女の心根の底に隠された消せない傷を彼女自身が覆い隠すための物であるのも、テッドは気付いていた。出来るなら自分のこの手でニナを守りたいと願ったテッドであったが、一方で羽を広げ飛び立ち始めたニナを、地に留めておく事は出来ないという事もテッドにはよく分かっていた。

 

「もう、ニナは僕の手から飛び立ってしまった」

 テッドは上を見上げ遠い目をしていたが、ハドリーに向き直ると真っ直ぐな視線をぶつけてきた。

「だから、ハドリー。君がニナを守って欲しいんだ」

 テッドは、この先自分とは違う世界で遠くまで羽ばたいていこうとしているニナを、見守って支えてくれる人間が必要だと痛切に感じていた。そして、常にニナを遠くから見つめているハドリーの存在に気づき、ニナを想うハドリーの気持ちが真摯な物であるのを確信していた。この男しか居ないというこの気持ちに間違いはないと、テッドは己に確信していた。

 ハドリーは考え込むように黙り込んだままだったが、テッドはフッと笑うとハドリーの肩を叩いて立ち上がった。

 舞台上からテッドを見つけたニナが大きな靴のまま軽々とステップを踊ってみせて、得意そうに笑って手を振るのに手を上げて応えて、テッドは客席から去っていった。一人残されたハドリーはテッドの背を目で追って、その言葉の意味をただひたすら噛み締めていた。





 いよいよ本番が迫り常に緊迫した空気が流れ、現場がピリピリとした雰囲気になると、ニナも不安を隠せずに何時も緊張した顔をしていたが、ベテラン達はみんなそんなニナに優しく「大丈夫だ」と声を掛け励ました。

 実際ニナの演技は、格段に良くなっていた。楽屋の廊下でもどこでもハドリーに真剣な質問をぶつけてくるニナに、いつも優しく答えているハドリーの姿があった。一字一句聞き漏らすまいとハドリーをじっと見ているニナを見下ろすハドリーの心の中では、テッドの言葉が繰り返し響いていた。


 

 本番まで一週間と迫ったある日のことだった。

 舞台へ向かう廊下で、何時もなら大きな靴で飛び跳ねるように駆けて行くニナが、風に揺れるようにフラフラと歩いているのを後ろに居たキースは不思議そうに見ていたが、やがてニナはバランスを崩して倒れそうになった。

「あぶない!」

 咄嗟にキースが手を差し出して崩れ落ちる寸前のニナを支えた。

「ニナ! どうしたんだ? しっかりしろ!」

 倒れ込んだまま起き上がれないニナを抱えて、キースの叫びが廊下に木霊した。


 ミーティングルームの奥の一番大きな机の前に座ったニナの前に、山ほどのサンドイッチと籠に大盛りのフルーツ、大きなカップに入ったスープがドンと置かれ、ニナの前にパイプ椅子を置いたアルバートがどっかと座り込んで、厳しい顔つきでニナを睨んだ。

「ニーナ。全部食べなさい」


 ミーティングルームの入口付近には、心配そうな顔をしたキャンベルとラルフ、腕を組んで不機嫌な顔をして壁に寄りかかるハドリーと、呆れ顔のキースが立って気まずそうな顔をしているニナを見守っていた。

「ハドリーが子供に『おもちゃ』を与えるからだよ」

「……おもちゃじゃない」

 キースが首を振りながら苦笑するとハドリーは憮然として不機嫌そうに返したが、ラルフもため息をついて呟いた。

「まさか、毎日自宅で何も食べずに演技チェックしてたとはなぁ」


 元々食の細いニナはいつも余り食べたがらず、食べても少しで満足してしまって勧められても食べようとはしなかった。周りの者は「沢山食べないと大きくなれないぞ」とニナの皿を山盛りにするが、いつもニナは困った顔をするばかりだった。

 今回も自宅で寝る間も惜しんで殆ど食事も取らずに、毎日DVDチェックや台本チェックに明け暮れていたため、栄養失調から貧血を起こしたのだ。病院に担ぎ込まれて青白い顔で点滴を受けるニナを見て、ハドリーは苦い後悔を噛み締めた。


 ニナはようやくサンドイッチを一つもぐもぐと食べ終わったが次のサンドイッチには中々手が伸びず、アルバートを上目遣いで見て言い難そうに切り出した。

「アル。あの……」

 しかしアルバートは厳しい目をしたまま、静かに遮ってニナに語り掛けた。

「ニーナ。今日君が倒れた事でリハは中止になった。その意味が解るか?」

 ニナが俯いて黙り込んでしまうと、アルバートは厳しい目を変えずに続けた。

「もう本番まで余り時間がない。皆他の仕事も抱えて時間を調整してリハに来る。その貴重な時間が無駄になった。その責任は、ニーナ、君だけじゃなく、君に無造作にPCを貸したハドリーも問われる事になる。その意味も解っているか?」

 ニナはハッとして、壁際で不機嫌そうなまま目を閉じて立っているハドリーを見て震えながら俯いた。

「映画は一人ダメでも何度でもテイクし直せる。だが舞台は違う。舞台は一人の失敗が舞台の全ての失敗に繋がる。君一人の不注意で、舞台が全てダメになってしまうところだった。君の体はもう君一人の体じゃないんだ」

 アルバートは静かに怒りを込めてニナを諭した。

 膝の上で揃えた両手が震え、今にも涙が零れそうなニナだったが、泣いて許してもらえる事ではないとアルバートの怒りを感じて必死で涙を堪えていた。だが、アルバートはそんなニナの様子にも臆することなく厳しく言った。

「今の君の状態で満足な演技が出来るか? 完璧な歌が歌えるか? 見に来てくれるお客さんに恥ずかしくない舞台を見せられるか? ニーナ。君は何のためにこの舞台に立つのか、解っているのか?」

 ニナは泣き出しそうな顔で椅子をガタンといわせて立ち上がり、深々とお辞儀をして涙を堪えて震えながら叫んだ。

「も……申し訳ありませんでした!」

 ぶるぶると震えながら身じろぎもせず頭を下げ続けるニナを黙ったまま見つめていたアルバートは、やがてため息をついて静かに言った。

「ニーナ、もう座りなさい。もう少し食べなさい」

 そこへ、心配そうなキャンベルが近づいてきて、まだ頭を下げて立ち尽くしているニナに優しく声を掛けた。

「ニーナ。ほら、座って、ね。それでアルと相談したんだが、公演が終わるまでアルの家へ滞在したらどうかな?」

 肩を抱いて座らせたニナが俯いてしまうと、キャンベルは優しくそっと手でポンポンと肩を叩いた。

「公演が始まると特に昼夜無くなって不規則になりがちだ。キャシーも喜んで君を迎えたいと言ってるんだよ」

 ニコニコとしているキャンベルを涙一杯の目で見上げて、ニナは躊躇いを口にした。

「でも……これ以上迷惑を掛けたら……」

「ニーナ。キャンベルはああ言ってるが、これは『提案』ではなく『命令』だ。いいね?」

 そのニナをアルバートが静かに遮った。

「アル! なんて冷たいんだ! みんなで責めたらニーナが可愛そうじゃないか! 俺一人ぐらい優しくしてもいいだろう!」

 キャンベルは大げさに嘆いて、アルバートをギロッと睨むと、

「なぁ。ニーナ」

 と、しょぼんとしたニナの頭を優しく撫でた。

「全く……」

 アルバートは呆れて、フッと微笑んで手を広げてみせた。

「何も食べないのはやりすぎだったけど、真面目なニナが俺は好きだよ」

「ずるいぞ! ラルフ。自分だけいい子になろうなんて。ニナ、助けたのは俺。俺だからね!」

 傍へ来ていたラルフがニナの前のテーブルに両手を置いてニナを覗き込むように微笑むと、ラルフの背後から顔を出すように、キースは自分を指差してアピールした。

「お前ら、俺の役回りを取るな!」

 キャンベルがプリプリとして叫んでルーム内には明るい笑いが広がっていったが、壁際でその光景を独り黙って見ていたハドリーは、場の空気が変わるとそのまま無言で部屋を出て行った。そんなハドリーを目で追っていたニナは、呆然とした表情で悲し気にハドリーを見送った。



 ハドリーが楽屋へ戻ると衣装を回収に来たリンダが立っていて、リンダはハドリーに気づくと困ったような、悲しそうな顔で呟いた。

「ハドリー。余りニナを責めないであげて」

 不機嫌そうな顔は変えず、ハドリーはリンダを見ず傍を通り過ぎるとボソッと呟いた。

「俺はニナを責めてなんかいない」

 リンダはじっとハドリーを見て振り返ったが、ハドリーはそれ以上何も言わなかった。


 リンダが去った楽屋でハドリーが帰り支度をしていると、コンコンとドアを叩いてPCを抱えたニナがそっと入ってきた。

「なんだ?」

 後ろを向いたままハドリーが素っ気無く言うと、ニナは泣き出しそうな顔のまま「……ごめんなさい」と頭を下げた。

 しばらくの間無言だったハドリーは大きくため息をついて、

「全部アルの言う通りだ。俺からは言う事はない」

 と、後ろを向いたまま静かに言った。

 ニナは俯いたまま仔犬のように震えていたが、抱えたPCをそっと差し出して唇を噛み締めて悲しそうに呟いた。

「これ……返したほうが……」

 ハドリーは眉を寄せたまま振り返りニナの顔をじっと見て、

「それは貸したんじゃなくてやったんだ。だが、自分で自己管理できる自信が無いなら返してもらう」

 と、無愛想に右手を差し出した。

 ニナは渡そうか渡すまいか目を見開いたまま悲しそうに戸惑っていたが、震える手でまたPCを抱え直し、零れそうな涙を堪えて首を振り続けた。

「……出来ます。出来ます! ちゃんと、やります! だから、だから……」

 『嫌いにならないで』という言葉を飲み込んだニナの俯いた頬に、堪えきれず涙がいく筋も伝って零れ落ちた。


 ハドリーはニナに怒っていたわけではなかった。食が細くて一途なニナにのめり込む材料を与えればこうなるのはわかっていた筈だった。それを見落としてニナに辛い思いをさせ、皆に迷惑を掛けた自分に腹を立てていたのだった。

 キャンベルにもそう伝えたが、キャンベルは静かに、

「お前が反省しているのは分かった。だがニーナも自分で自覚する必要があるんだ」

 と、ハドリーの肩を叩き、そしてアルバートが「俺から話そう」と手を挙げたのだった。


 目の前で声も出さずに震えて泣き続けるニナを見て、ハドリーはため息をついてゆっくりとニナの前に立った。そして、震えるニナの両肩に両手をそっと置いて、零れる涙で顔を上げることが出来ないニナに静かに語り掛けた。

「ニナ。お前はまだ走り出したばかりだ。何もかも知りたい、何もかも吸収したいと、そればかり思って自分を見失ってるんだ」

 ハドリーはそっと片方の膝をついて、覗き込むようにニナの瞳に目線を合わせた。

「だが、焦るな。一歩ずつ進め。周りの景色を見るんだ。皆がお前を支えてくれているのが見える筈だ」

 その言葉に顔を上げたニナの涙に濡れた鳶色の瞳をじっと見つめて、

「俺も……俺もお前を支える。必ずだ。俺も焦り過ぎた。だが、これからも一緒に歩調を合わせて必ず支える。だから、ゆっくり進め」

 と、優しく諭して立ち上がって手を離し、ニナを見下ろしてそっと微笑んだ。

「そして、前を進もうというその気持ちを忘れるな」

 ニナは顔を上げて優しく見下ろすハドリーの目を涙に濡れる瞳でじっと見つめていたが、やがてボロボロと泣き出し、額をこつんとハドリーの胸にあてハドリーに頭を預けてそっと寄り添った。

 ハドリーは急に照れたように顔を赤くして、赤い顔を見られまいと天井を見上げうろたえた両手を空中で泳がせて焦っていたが、やがてフッと笑った。


 ――分かったよ。降参だ。俺はこの子供みたいなニナを愛してる。認めればいいんだろ。


 ハドリーは、誰に言うでもなく心の中で呟いた。認めた途端に、それまで冷たく蒼黒く感じていた自分の心が、軽やかな羽を得て空に舞い上がったような気がしたハドリーは、ニナに触れている胸の辺りから広がる暖かさを不思議な感覚で受け止めていた。

 そしてニナの頭にそっと手を置き、その小さな頭を抱え込むように抱いて、優しくニナに囁いた。

「誰よりも真剣なお前を、俺が嫌いになれる筈がないだろ」

 

 ニナは幸せだった。あの日テッドの店で前へ進む決心をした時、この先には辛い事ばかりかもしれないと、ニナの心は内心不安で一杯だった。だが、悲しい事も辛い事も、厳しい事もあったが、それを乗り越えようとする事は決して辛くはなかった。こうしてニナを支えようとしてくれる人が沢山居る、それがニナには嬉しかった。ハドリーの手の温かみと重みを感じて、ニナは幸せを噛み締めていた。





 前日の直前リハが終わると全員がヒューヒューと歓声を上げて拍手し合って、キャンベルが大きな声で「よーし! 皆明日から頼むぞ!」と叫んで全ての準備が終了した。


 ニナは着替えを終えて楽屋で一人座り込んでいた。準備は万端にしたという思いもあったが、それ以上に未熟な自分が何をしでかすか、不安で不安で堪らなかった。このまま逃げ出したい衝動を必死で抑えて、固く両手を握り合わせて目を閉じ祈っていた。

「ニナ? アルが呼んでるぞ」

 コンコンとノックがしてニナを呼ぶ声がした。顔を上げたニナの瞳に、ドアを開けてニナを見て怪訝そうなハドリーの姿が映っていた。

「ニナ。どうかしたのか?」

 ハドリーが心配そうに声を掛けるとニナは目に涙を一杯浮かべて、「……ハドリー」と小さく囁いた。

 不安で一杯一杯になっているニナの顔を見て、ハドリーは優しく言った。

「大丈夫だ。ニナ。皆の顔を思い浮かべろ」

「皆の顔……」

 じっと考え込むニナの瞳を真っ直ぐに見て、ハドリーは微笑んだ。

「そうだ。この舞台に立つまで、ニナを支えてくれてた人が居るだろ、沢山」

 ニナはじっと考えこんだ後、「……うん」とそっと微笑んで頷いた。

「皆、笑ってるだろ?」

 ハドリーは優しい言葉の向こう側で、テッド、ベラ、デイジー、お店のスタッフ、アカデミーの皆、皆が笑っているのがニナには見えた。そして、アルバートやキャンベル、カンパニーの皆がニナに笑いかけているのが見えて、ニナはキラキラと輝く鳶色の瞳でハドリーを見上げて、嬉しそうに頷いた。

「だから、大丈夫だ」

 そして目の前には優しく微笑むハドリーが居た。ハドリーがニナを真っ直ぐ見て力強く言った。


「それに、俺がついている」


 優しく響くハドリーの声は、ニナの心を安らかにさせてくれた。ニナはにっこりと微笑んで頷き、不安の影の消えた綺麗な瞳でハドリーを見つめ返した。

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