最初の試練
キャストの初顔合わせの日、ニナはWEの路上で一人うろうろとしながら困り果てていた。
番地で示された建物の入口には厳つい警備員が居て、さっき「こんにちは」と挨拶したらジロリと睨まれ「子供が来るところじゃない!」と怒鳴られたのだ。一生懸命「出演者です」と説明しても手を振って追い払われ、そろそろ来いと言われた時間になるニナは途方に暮れていた。
その時、立ち尽くすニナの隣を一人の男が通り過ぎた。ラフな格好にキャップを目深に被って黒縁の眼鏡を掛けたその男は、その入口の警備員に「やぁ」と手を挙げて軽い挨拶をするとドアを開けようとした。ニナは思い切ってその男に声を掛けた。
「あ、あの!」
「あ? 忙しいから、サインはダメだ。学校サボリか? 帰りな」
無愛想に振り返った男はニナを頭の先から足の先まで眺めてから、素っ気無く言って中に入ろうとした。
「あの! 私、出演者です!」
ニナが真っ赤になって叫ぶと入りかけた男は足を止めて、もう一度振り返って「……え?」とニナをびっくりしたように見た。
「……あの、今度エポニーヌをやる事になった、ニナ・ジェフリーです」
「ああ、そういえば事務所で一回見掛けたな。あ、俺はハドリー・フェアフィールド。グランテール役だ」
その男、ハドリー・フェアフィールドは、頭を下げるニナに気まずそうに挨拶した。
「よろしくお願いします!」
「あ、ああ……よろしく」
更に頭を深く下げたニナに、ハドリーは子供にしか見えない少女に戸惑って頭を掻いた。
キャストの初顔合わせで紹介されたニナは、緊張した面持ちでぴょこんと立ち上がり挨拶した。床に届きそうな勢いでお辞儀をする小さな子にキャスト陣から暖かい拍手が送られたが、口の悪いキャストが「おいおい。ガブローシュより小さいんじゃないか」と笑うと、ニナは顔を真っ赤にして縮こまってしまった。
「キース、大口を叩けるのは今だけだぞ」
キャンベルがまだクスクスと笑っているそのキャストに向って、ニヤリと笑った。
次回公演に向けてのリハーサルがスタートし、アカデミーでミュージカルについて一通り学んできたニナだったが現場は初めての経験でわからない事ばかりで、一つ一つ訊ねては丁寧に頭を下げた。特に監督や演出家には食らいつくように何度も何度も訊ねている姿が何時も見受けられ、始まったばかりだというのにもう書き込みで真っ赤になった台本を抱えて、ニナは何時も走り回っていた。
広い練習場でキャスト陣がラフな私服で思い思いあちこちに散らばって、互いに近況を報告し合ったり雑談に興じている中、アンジョルラス役のラルフ・カールソンは、片隅でブスッとした顔で座り込んでいるハドリーを見つけ、にこやかな顔でその隣に腰を下ろした。
「中々真面目でいい子じゃないか、あの子」
「ああ。真面目みたいだな。それに確かに子供だ」
ハドリーは親友の言葉に興味なさそうに素っ気無く返して、手にしたミネラルウォーターのボトルを煽った。
「おいおい。そう言うなよ。お前は本当に皮肉屋だな」
ラルフは苦笑してハドリーの顔を覗き込んでから、顔を寄せてヒソヒソと囁いた。
「ああ見えて歌はすごいらしいぞ。今まで舞台どころか、コンクールやコンテストの出場経験もないらしい。今回のオデが初だったそうだ。度肝を抜かれたってアルバートが言ってた。キャストで彼女の歌を聴いた事あるのは、アルだけじゃないかな」
「……へぇ」
それを聞いてハドリーは演出家を質問攻めにしているニナを遠くからじっと見つめ、ラルフがその横顔にクスッと苦笑いした。
「やっぱりお前は中身重視だな」
「当たり前だ。歌が上手けりゃ子供だろうと婆あだろうと認めてやる。だが、顔が良くて胸がでかくても歌がヘタなんて問題外だ。まぁ、抱くにはいいけどな」
ハドリーは顔色も変えずに言い切って、ラルフはやれやれと手を広げて笑った。
舞台第一主義のハドリーは誰に対しても厳しかった。納得がいかなければ、相手が主役だろうと監督だろうと誰にでも意見したし、ちょっとでも手を抜いている者が居れば怒鳴りつけた。まだ怒鳴られた事の無かったニナだったが、いつも恐々とハドリーをそっと見ていた。
「ハドリーはいつもああなのよ。でも、グランテールとエポニーヌは直接のやり取りはないから心配ないわ」
コゼット役のケイティ・ハリスが怯えたように眉を顰めているニナにそっと囁いて笑った。
「でも、まぁ悪い人ではないわ。ただ舞台の事ばかりなだけで。後はいつも不機嫌そうだけど、これもいつもの事ね。口も悪いけどこれもいつもの事だし、女にも冷たいけど……きっとニナは大丈夫よ」
ケイティは呆れたように手を広げて苦笑した。
「どうして?」
不思議そうに訊ねるニナにケイティは益々困ったように笑って、
「ハドリーはモデルみたいな子がお好みなの。ニナが近づかなきゃ大丈夫よ」
と、そっとニナの頭を撫でた。
そしてエポニーヌの出番の初めてのリハを迎え、まずは演技無しの歌だけということで、スタンドマイクの前に緊張して強張った顔でニナが立った。エポニーヌのソロである『On my own』のシーンだった。壁際を囲むように立っていたり、用意されていたパイプ椅子に腰掛けたりしながら、大勢が遠巻きにしてこの小さな少女の器量を確かめようと皆興味津々に眺めていて、ハドリーも壁に寄り掛かって腕を組んで黙って見ていた。音楽が鳴り始めると、練習場は水を打ったように静まり、周りの人々は静かにニナを見守った。
最初の歌い出しから誰もが圧倒された。消え入るような声すら輝きを持って響き伸びやかに広がり、フォルテッシモでは音が空気全てを埋め尽くし、自分の体すら音に共鳴し震えているように感じられた。
「I have never known」の叫びでは、ニナの絶望感が突き刺さるように人々の心を揺らした。切なげに「I love him」と囁くニナの表情には悲しい運命を背負った悲哀が浮かんで、歌だけで衣装もつけてないのに目の前に居るのは誰の目にもエポニーヌそのものに見え、この屋内の練習場に小ぬか雨が降り注いでいるのすら感じた。呟くようであり、透き通った風のような最後の「On my own」の台詞が終わり、歌が静かに終わった。
しばらく練習場は静まり返っていたが、キャンベルの「ブラボー!」の拍手で皆我に帰り、リハだというのにスタンディングオベーションでニナを称え、ニナはほっとしたような穏やかな笑顔を見せて頭を下げた。
「……オデでも聞いたけど、やはりすごいな」
アルバートが拍手をしながら呟くと、
「ああ。すごい掘り出し物を見つけてきたな」
テナルディエ役で、アルバートの親友のマート・ルーサーもアルバートの隣で驚きを隠せなかった。
顔合わせでニナに軽口を叩いたABCの学生クールフェラック役のキース・ドノヴァンが真顔でニナに歩み寄り、
「からかったりして済まなかった。君は素晴しいよ」
と右手を差し出して詫びると、ニナはぶんぶんと首を振ってにっこりと笑って「ありがとう」と握手をした。
皆がニナに近寄り握手したり頭を撫でたりとわいわいと輪を作っている中、壁際で目を見開いてニナを見つめて、ハドリーは黙ったまま立ち尽くしていた。彼女の歌は彼の心に突き刺さり、いつまでも響き続けていた。ハドリーの魂の中心にある何かに火を灯したように、自分の内側からほのかに明るい光が全身に広がっていくような感覚を受けていた。じっとニナを目で追い続けるハドリーの目には、もうニナは子供には見えてはいなかった。
まだハドリー自身は気づいていなかったが、この一曲で、運命の人との恋に落ちたのだった。
そんな高い評価にもニナは驕る事なく、人懐っこく丁寧な態度は変わらなかった。困っている事があると、それがスタッフの仕事でも進んで自分がやると手を上げ、分からない事を丁寧に訊ねる様子は好感を持って受け入れられた。
ニナが施設育ちで家族が居ないと判るとベテランの女性陣を中心に世話を焼く者が現れ、ニナの嬉しそうな顔が母性本能を擽られるのか競うように手作りの差し入れが届けられた。
だが、中には穿った見方をする者も居た。
練習場の隅でアンサンブルの一人が、皆に囲まれているニナを横目に冷たく言った。
「新人の点数稼ぎだろ。見た目まるで子供だもんな。そりゃ誰も猫可愛がりするさ」
特別な許可を受けて片隅でニナを見守っていたテッドが、それを聞いてフッと笑った。
「ニナは誰に対しても、いつもああだよ。相手が誰かなんて関係ない。いつぞやは、お腹を空かせた病気のホームレスに親鳥みたいに食べ物を運んでいたな。自分はパン一個かじってさ。元々そういう子なんだよ。あの子は」
悪態をついた者は顔を赤らめて恥ずかしそうに俯いた。
ハドリーはテッドの近くで椅子に腰掛け、ドリンクを片手にテッドの話をじっと聞いていた。目は真っ直ぐに、ケイティと楽しげに笑っているニナを見つめていた。
それまでのハドリーには女は二種類しか居なかった。『仕事の出来る女』と『抱く女』だった。それ以外は女としてすら看做してなかった。力量があり舞台に情熱を掛ける女ならどんな容姿だろうと敬意を示すが、抱く女は均整の取れた体の、所謂『そそられる』女だけが対象で頭が空っぽでも構わなかった。そこには愛は無かった。だが、どんなに抱いても胸の中の寂寥感は消えず、数回も抱くと飽きてしまった。以前は恋人と呼べる存在が居たこともあったが、「舞台と私とどっちが大切なの」と泣かれてからは、面倒くさくなって作らなくなった。勿論その時には「舞台に決まってるだろ」と答えて女に平手打ちされていたハドリーだった。仕事に恋愛を持ち込むと厄介な事も分かっていたので、仕事関係の女とは、恋愛関係も体の関係も持ち込まなかった。自分にとって大切なのは『舞台』だけで、後の事は些細な事だった。些細な事で舞台の邪魔をされたくないといつも思っていた。
まるで子供のようなニナに自分が惹かれているなど、内心馬鹿げてる、どうかしてると思ったりもするが、ハドリーの目はいつも自然にニナを追っていた。
ニナの力量は、ハドリーが『仕事が出来る女』として認める以上の物だった。サンドラの穴を埋めて尚余りある高い評価を付けていたが、ミュージカル俳優としての力量を認めたという以外に、ハドリーはどうしてもニナから目が離せなくなっていた。
一方のニナにはハドリーは『いつも怒ってて怖い人』だった。ハドリーはいつも顔を顰めて不機嫌そうで練習中も誰であろうと厳しく注意していて、最初の印象といい、ニナにはとても厳しくて怖い人に見えていた。ニナが最初に歌った後もハドリーは遠くから睨んでいただけだったし、自分の事を子供扱いして認めてくれていないと感じていた。
ところが、ニナが練習場の椅子に座っていつものように他の人の練習を見学していたときの事だった。この日は学生達による『Drink with me』のシーンの、スタンドマイクでの練習が行われていた。ハドリーとラルフはずっと難しい顔をして細かい打ち合わせをしていたが、手が叩かれ音楽が流れ出し、最後の決戦を前にして死を覚悟した学生達が最後に友と杯を酌み交わす歌が始まると、ニナは静かに聞き入っていた。やがてハドリーが、グランテールのソロ部分を歌い始めた。
ハドリーのテノールが練習場に響き渡った。伸びやかなよく通る声でハドリーの歌だけが響いていて、ニナは目を見開いて全身でハドリーの歌を感じていた。揺れる心とアンジョルラスへの想いがニナの心を鷲掴みにして、心臓が大きな音を立てているのを感じていた。
歌のうまい人は今まで沢山いた。テッドもそうだし、店のスタッフも、アカデミーの仲間も、そして此処に居る大勢のキャスト陣は言うまでもなかった。だがこんな感覚を味わったのは、ニナにとって初めての経験だった。ハドリーの歌が終わり大勢の合唱に移っているというのに、ニナの耳の奥ではまだハドリーの声が響いていた。それはとても心地いい柔らかい響きを伴って、ニナの心にゆっくり浸透していった。不思議な感覚に身を委ねながら、ニナはじっとハドリーを見つめていた。
その夜、モデルのイリーナがストッキングを履きながら、まだベッドに横になったままエールを飲んでいるハドリーに後ろを見ないで話し掛けた。
「ハドリー、どうしたの? 今日は気が乗ってなかったわね」
「ああ」
ハドリーも前を向いたまま、イリーナを見ずに気の無い返事をした。
「来週はどうするの? もうリハ始まってるんでしょ?」
「ああ、やめとく」
「そう。じゃあ、再来週は火曜日なら空いてるけど」
「もう、やめとく」
ハドリーの素っ気無い返事に、イリーナが顔を上げてハドリーを見た。
「もうこれで終わりだ、イリーナ」
ハドリーは最後までイリーナを見なかった。真っ直ぐ前を見たハドリーの脳裏には、ニナの歌だけが響いていた。
舞台練習開始目前にニナは衣装室へ呼ばれ、ノックをして入ると、金髪のカールした髪を一つに束ね、忙しそうに歩き回っている女性がニナの顔を見て右手を差し出した。
「私はここの責任者で、リンダよ。よろしくね」
不思議にキラキラと光って見えるこの女性を目をパチクリとして見ていたニナは、はっと気づいて慌てて頭を下げて挨拶しようとした。
「ああ。忙しいから、固いことは抜きよ」
リンダはニナに向かっていらないというように手を振って、平然と言った。
「早速だけど、採寸するから脱いで。上全部ね」
「え?」
ニナがキョトンとすると、リンダはしかめっ面をしてニナに顔を近づけて睨んだ。
「採寸よ。採寸。時間がないんだからさっさと脱いで」
リンダの背後では、助手のスティーブがケイティのドレスの調整をしていた。
「今、ここで?」
ニナが怯えた目で眉を寄せて震えながら呟くと、リンダは眉を上げて更にニナを睨んだ。
「あのね。舞台での衣装替えは一分一秒を争うのよ。新人だからって甘えは許さないわ」
そしてキレたようにニナを怒鳴りつけた。
「さっさとしなさい!」
その声に首を竦めたケイティが、ニナを慰めるように優しく声を掛けた。
「ニナ、大丈夫よ。すぐに慣れるわ。リンダはちょっとおこりんぼなの」
リンダが振り返ってキッとケイティを睨むと、ケイティはちょろっと舌を出して苦笑いした。
ため息をついたリンダが再びニナに向き直ると、ニナは怯えた目を見開いて、震える手でシャツのボタンを一つ一つ、震えて儘ならない様子で外していた。リンダは顔を顰めて見下ろしていたが、ニナの尋常ではない怯えた様子に違和感を覚えていた。
ニナはシャツのボタンを外し終わって、俯いて震えながらそっと肩からシャツを外した。
「ほら。さっさと後ろを向く!」
リンダは震えるニナの肩を両手で掴んで後ろ向きにした。だが、その瞬間リンダは息を呑んで動けなくなってしまった。
ニナの白い小さな背中には、無数の赤黒い筋のような傷跡が幾重にも重なっていたのだ。古い傷跡と思われるその傷は、ニナの皮膚を切り裂き黒々とした闇の記憶を刻み付けていた。施設育ちと聞いているニナの過去に何があったのか、リンダにも容易に推測すること出来た。後ろのケイティも口を押えて凍りつき、スティーブが言葉もなくニナの背中を見つめて立ち上がった。
ガクガクと震え続けるニナの口から嗚咽が漏れてきたのを聞いて、リンダは腰まで下ろされたシャツを掴んでニナの肩に被せ背中を覆った。そのままシャツでくるむようにニナを覆って前を向かせると、眉を寄せたリンダは何も言わずニナを抱きしめて、ニナの震えが落ち着くのを待ってから、リンダはニナの顔を覗き込むように言った。
「OK。分かったわ、ニナ。エポニーヌは途中の衣装替えは今回無しよ。だけど、どうしても採寸はさせて欲しいの。ここには貴女に合うサイズの衣装がないのよ。今やらないと舞台に間に合わないわ。私もこの舞台をどうしても成功させたいの。どうか、私を信じて。お願い、ニナ」
悲しそうな顔をしたリンダに、まだ怯えて泣きはらした目をしていたニナだったが小さく頷いた。
「スティーブ、ケイティ、出て頂戴。そして……」
リンダは立ち上がると二人を厳しい目で見つめた。
「リンダ。わかってるわ」ケイティは頷いて唇を噛んだ。
「勿論だ。誰にも口外しない。安心して、ニナ」
スティーブも両手を広げてニナに微笑んだ。
部屋を出ようとしたケイティはニナの傍を通りかかると足を止めて、「ニナ」と小さく呟いて悲しそうな顔でニナを抱きしめ、そしてニナの頬をそっと撫で優しく囁いた。
「心配しないで。リンダは信頼出来る人よ」
ニナはそっと目を拭って、小さくコクンと頷いた。
その後リンダはキャンベルと舞台監督に向かってニポニーヌの衣装替えはしないと宣言した。怪訝そうな顔をする二人にリンダは眉を寄せて顔を顰めて言った。
「これはオフレコ。他言無用よ。……ニナは虐待されていたわ。それも相当酷くね」
リンダは悔しそうに唇を噛んだ。キャンベルと監督は呆然とし、黙ったまま顔を見合わせた。
キャンベルと監督は、ニナの過去を他のキャストやスタッフには内密にしていた。だが、何れは誰かが気づいてしまうかもしれないと危惧していたが、実はニナにも不安があった。誰にでも人懐っこく笑い掛けたニナだったが、どうしてもマートにだけは近づけず、いつも出会うと顔を見ずに丁寧に頭は下げるが直ぐにピューッと居なくなってしまった。
そんなニナを見てマートは悲しそうに「俺、嫌われてるのかなぁ」と、ぼやいてはアルバートに慰められていた。
そんな中、演技を含めての舞台練習が始まった時、その事件は起こった。
その日のニナは始めから不安そうな青い顔をしていたが、「プリュメ街の襲撃」のシーン中、テナルディエがエポニーヌを殴打しようと腕を掴んだ時だった。ニナは突然台本にはない絶叫を上げるとそのまま舞台で蹲ってしまい、慌てた監督の「ストップ!ストップ!」の声が掛かった。
「おい、ニナ。大丈夫か?」
マートが戸惑ったようにニナに声を掛けて手を伸ばすと、ニナは真っ青な顔でマートをじっと見て、怯えて座ったまま後退りしていった。
「ニナ! 大丈夫?」
次の出番に待機していたケイティが、すかさずニナに駆け寄って抱きしめた。舞台袖に居たハドリーも咄嗟に駈け寄ろうとしたがケイティは何か悟っているように黙って首を振って、ハドリーに来ないように促した。ニナは青い顔をして震えたままケイティに縋りつき、どこか遠くを見ているような怯えた目で「ごめんなさい。ごめんなさい」と呟くように繰り返すばかりだった。
「休憩だ! しばらく休憩にする!」
眉を寄せて見ていたキャンベルが叫んだ。
ミーティングルームで渋い顔をしているキャンベルらの元に、呼び出されたテッドがやってきた。
「やあ。テッド。呼び出して済まなかったね」
キャンベルが声をかけると、テッドは腰掛けながら心配そうに訊ねた。
「いや。ニナに何があったんだ?」
テーブルにはキャンベルと監督、演出家ら首脳陣と、アルバートとマートが同席していた。
キャンベルから先ほど舞台であった事がテッドに伝えられると、テッドは黙ったまま聞いていたが、しばらくして眉を寄せてぽつりと言った。
「ニナは施設でひどい虐待にあっていたんだ」
アルバートとマートが驚いた顔を見合わせ、キャンベルは苦い顔で唸った。
「リンダからも、そう聞いてはいたが……」
「俺から聞いた話は、どうか口外しないで欲しい」
全員の顔を厳しい顔で見渡して言って、テッドはデイジーから聞いた話を皆に聞かせた。テッドが静かに語り終えると、誰もが静まり返って言葉もなかった。ある者は顔を覆って悲しみ、ある者は唇を震わせて、またある者は拳をテーブルに叩きつけた。アルバートは目を見開いたまま黙り込んで、マートは顔を覆って苦しそうに首を振った。
覆っていた顔を上げ、眉を寄せたままでキャンベルが不思議そうに呟いた。
「しかし、それとこのマートと何か関係があるんだろか?」
「それはわからない。が、知ってそうな子が居るが、聞いてみるか?」
テッドがキャンベルを見て問い掛けると、「頼む」とキャロメロンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
テッドはその場でデイジーの店へ電話して彼女を呼び出して貰い、デイジーはテッドから様子を聞いた後、固い声で言った。
「その、マート・ルーサーという人はどんな感じ? 大きいとか、ひげもじゃとか」
「大柄でスキンヘッドだな」
テッドが答えると、デイジーの息を呑む音が聞こえた。
「……アタシ達を、レ……いえ、虐待した院長も、図体のデカイ、スキンヘッドだったの……」
やがてデイジーが悲しげに呟いたが、デイジーはそれ以上何も言わなかった。
テッドはマートを悲しげに見て、デイジーから聞いた話を伝えた。
「おそらく、マートの風貌からその院長を連想してしまうんだろう。それも、恐怖で自分を制御できなくなるほどに。それだけ彼女の心の傷は深いってことだ。実は、彼女は最初はステージに立つことも出来なかった。俺は時間を掛けて彼女自身が納得するまで待った。もしかしたら、今回も時間が掛かるかもしれない」
テッドは歯噛みしながら苦しそうに呟いた。時間の限られた公演で、時間をかけてニナが慣れるのを待つ事は出来ないのはテッドにも分かっていた。せっかく掴んだチャンスを失うかもしれないニナを思うと、遣り切れない想いでテッドの胸は痛んだ。
マートは唇を噛んだままぶるぶると震えていたが、やがて頭を押えて涙をボロボロと溢して泣き出した。
「俺がこんな見た目なばっかりに……ニナ……怖かったろうに、可哀想に」
マートは本業のコメディや舞台ではアクの強い役もこなすが素顔は風貌に似合わず知的で優しい男で、隣のアルバートがマートの肩を叩いてそっと慰めた。
キャンベルは黙ったまま考え込んでいたが、テッドをじっと見てきっぱりと言った。
「テッド、残念だが時間を掛ける余裕はない」
テッドは眉を潜めて悲しそうに組んだ両手を額に当てて俯いた。
「だが、ニナもマートも降ろす事は出来ない。どちらも最高のキャストだ。台本を変更する。テナルディエはエポニーヌを恫喝するだけで、触らないように」
顔を上げたテッドにキャンベルは力強く頷いた。
ニナは一人楽屋へ篭って震える手を握り締めて、じっとソファに座り込んで青い顔で唇を噛み締めていた。マートは院長とは別人だと分かっていても、心の奥に刻まれた恐怖感が湧き上がってきて、自分ではどうすることも出来なかった。きっとこのまま自分が舞台から降ろされてしまうんだという思いが拭えず、恐怖と不安で心が張り裂けそうになっていた。
そこへキャンベルが笑顔で楽屋に入ってきた。
「ニナ。いいかな?」
ニナはキャンベルの顔を見るなり青い顔のままばっと立ち上がって、頭を下げた。
「すみませんでした! 今度はちゃんと、ちゃんとやります!」
言葉とは裏腹に揃えたニナの両手はまだ震え続けていて、キャンベルはふっとニナに微笑んで優しく語り掛けた。
「ニナ。君がどうしてマートが怖いのか、君の友達のデイジーから理由を聞いたよ」
ニナは悲しそうに目を見開くと、そのまま震えながら俯いてしまった。
「君に植え付けられた恐ろしい記憶は簡単には消えないだろう。けれど、ニナ、これだけは忘れないんで欲しいんだ。マートは君のために涙を溢して悲しんでいた。君を傷つけた卑劣な男とは違うんだ。心の優しい奴なんだよ」
キャンベルはじっとニナを見つめて、そしてそっとニナの肩に手を置いて優しく囁いた。
「我々も皆同じ気持ちだ。皆、君を守りたいと思っている。我々には、君が、君の歌が必要なんだよ」
ニナが堪えきれずポロポロと涙を溢すと、キャンベルが優しくニナを抱きとめた。
「台本は変更した。もう君を殴ろうとするシーンはない。ニナ、頑張れるね?」
そっと訊ねるキャンベルに、ニナは泣きながら頷いた。キャンベルはしがみ付くようにして泣いているニナの頭をそっと優しく撫でた。
「カンパニーはね、みんな家族みたいなものなんだ。ニナ。君も、もう僕達の家族なんだよ」
ニナは一人になるとじっと考え込んでいたが、やがて決心したように立ち上がり、強張った緊張した顔でマートの楽屋へ向かった。
マートは楽屋のソファに腰を下ろしてまだ顔を覆っていて、同じようにソファに座っていたアルバートは手を前で組んで静かに呟いた。
「ケイティはニナの傷の事を知っていたそうだ。衣装合わせの時に偶然一緒だったらしい。それは、とても酷い傷だったそうだ。彼女も泣いていたよ」
「なんであんな小さな子にそんな酷い事を……」マートは首を振って悲しんだ。
そこへノックの音がして、泣きはらした目のニナがそっと入ってきた。
「ニナ!」
驚いた目でアルバートが声を上げると、ニナはマートの真っ赤になった目を悲しそうに見て、そっと頭を下げ悲しそうに小さく呟いた。
「私のために、ごめんなさい」
マートは真っ赤な目のまま立ち上がり、慌てて帽子掛けの帽子を手に取って頭に被った。
「いいんだ、ニナ。気にするな。俺もあんな乱暴は嫌だったんだ。丁度よかったんだ」
マートは無理に笑おうとして、ぎこちない笑顔になった。
ニナは決心したようにゆっくりとマートに歩み寄って、両手でそっとマートの手を取った。
「変更になった部分の練習を、一緒にお願いします」
ニナはじっとマートを見つめた。ニナの手はまだ微かに震えていたが、鳶色の瞳は真っ直ぐマートを見つめていた。
唖然としたように立ち尽くすマートと真剣な表情のニナを驚きの目で見ていたアルバートは、この子は乗り越えようとしていると直感した。消しようのない辛い過去を抱えて、拭い去りようの無い深い傷は癒えていないだろうに、前に進むために必死で自分を奮い立たせているのを、アルバートもマートも感じた。必死に生きようとしている小さな少女の姿が、堪らなく愛おしく感じられて胸が熱くなった。
舞台稽古が再開され、キャストがそれぞれの位置につくと、マートが思い出したように顔を上げた。
「ニナは今日から俺の娘だからな。エポニーヌはテナルディエの娘だからな、当然だな。皆、俺のニナを虐めたら承知しないぞ」
既にテナルディエに成りきっていたマートが睨みを効かせて周りのキャストを見回すと、パトロン=ミネットのメンバーに扮するキャストがおいおいという顔を見合わせた。
「そりゃないぜ、マート。ニーナは昨日から俺の娘なんだから」
「おかしいな。俺はずっと前からニナの親父なんだが」
そして舞台裏から顔を出したアルバートが片眉を上げて笑った。
「おいおい。誰が虐めるだって? ニーナは俺の娘だぞ?」
「お前らいい加減にしろ!」
客席に居たキャンベルから飛んだ怒声に皆はっとして緊張した顔を客席に向けると、顔を真っ赤にして怒り心頭のキャンベルが叫んだ。
「ニーナは最初から俺の娘だ! 文句があるか!」
そのやり取りをキョロキョロと困ったような顔で見回していたニナだったが、顔を赤くして俯くと小さな声で「ありがとう」と嬉しそうに呟いた。そんなニナを見てみんなが安堵のため息をつくと、キャンベルは一転真面目な顔になり叫んだ。
「よーし! シーン行くぞ。スタンバイ!」
舞台には緊張の空気が戻り、全員が一斉に顔を上げた。
台本が変更された事とニナ自身の頑張りでシーンを乗り切れるようになると、その後の練習は順調に進んでいった。ニナの衣装合わせにはリンダだけが立ち会って誰も入室させなかった。ニナ本人に彼女の辛い過去を直接訊ねる者は居なかった。
その施設を告発することも検討されたが、そうなるとニナが裁判で証言しなければならなくなり、誰もが目を覆いたくなる辛い過去をまた思い出せることになってしまうと、ニナをそっとしておこうと当面見送られることになった。その代わり誰もがニナにより優しく守るように接するようになり、特にベテラン達はまるで自分の娘のように可愛がった。皆に励まされて立ち直ったニナの人懐っこい笑顔を見ると、誰もがそういう気持ちになるのだった。
アルバートはニナに家庭の温かみを与えてあげたいとニナを自宅に招待し、アルバートの妻のキャシーもニナを歓迎した。
「いらっしゃい、ニーナ。自分のお家だと思って寛いでね」
金髪で大きな体のキャシーは、ニコニコと微笑んで小さなニナを抱き締めて頬にキスをするとそのまま胸の中にニナを抱き締めた。ニナは最初おずおずとしていたが、キャシーの胸の中の暖かさにやがて目を閉じて小さく微笑んで幸せそうな顔をした。
「なんだ。エポニーヌが来るって言ってたのに、ガブローシュじゃないか」
アルバートの息子のジェームズはまだ中学生だったが既に身長は一七〇cmに達していて、自分より二十cm以上低いニナの頭をポンポンと叩いて意地悪そうに笑った。その言葉に顔を真っ赤にして頬を膨らませたニナを、ジェムーズの妹で小学生のアニーが慰めるように抱き締めて、
「気にしないで、ニーナ。お兄ちゃんはいつも意地悪なの。こんなお兄ちゃんなんかいらない。ニーナにお姉さんになってもらうからいいもん」
そう言うと、ニナに縋り付いてジェームズにあかんべーをした。
むくれるジェームズと笑い合うニナとアニーを見て、アルバートとキャシーは顔を見合わせて微笑んだ。ニナを歓迎するアルバートの家は明るい笑い声で溢れ、家族の暖かさを知らないニナにひと時の安らぎを与えていた。
そして、アルバート自身もニナと家族と一緒に過ごす時間の暖かさに不思議な驚きを感じていた。まるでこうしてずっと家族だったかのようにニナの居る光景が余りにも自然に思え、傍らのキャシーも同じように感じているらしく、微笑んだ目で黙ったままアルバートに頷いた。
ハドリーはニナの辛い過去を知ると、楽屋の椅子を蹴って悔しがった。あらゆる罵詈雑言を喚き散らし当たり散らして荒れるハドリーに、ラルフは楽屋のソファで両手を前で組んでハドリーを諭すように静かに呟いた。
「ハドリー。気持ちはわかるが、怒りをぶつけたところでニナの過去は変わらない」
ラルフは、まだハドリー自身が認めようとしていないニナへの想いに、密かに気がついていた。
「じゃあどうすりゃいいんだ!」
ハドリーはぶつけどころを失った怒りを抱えて怒鳴った。
「ニナは自分自身で懸命に生きていこうとしている。俺達が出来るのはそっと見守る事だけだ」
ハドリーは荒い息をつきながら、そう静かに諭すラルフをじっと見つめていた。
ニナの姿を目で追うハドリーの瞳には、いつも明るく笑う彼女が居た。だが、励まされて立ち直ったかに見える笑顔の裏で、砕けそうになるガラスの器のような心を必死に守っているニナの姿がハドリーには見えていた。何故自分がそう感じるのか、ハドリーには分からなかった。しかし、ニナの抱える闇は深く黒々と渦巻いていて、ふとしたきっかけでまた溢れ出してくる、そんな予感がして、ハドリーはニナを見る度に暗い悲しい気持ちになるのだった。健気なニナの姿にハドリーは心を痛めながらも、益々ニナに惹かれていくのを止める事は出来なかった。