ミュージカル!
ニナは十七歳になり、テッドの店で働き始めてもう一年が経過していた。明るく人懐っこく笑うニナは、周りの店の人やアパートメントの近所の人からも可愛がられ幸せな日々を過ごしていたが、時折施設の事を思い出し、残してきた子供達を思うと痛んだ胸を抱えて、いつかきっと、と自分に強く言い聞かせていた。
ロンドンの表通りに吹く心地よい風は、もうすぐ訪れる春の気配を含んでいた。
その日、いつもなら寝てる時間に人と会う約束があって、テッドは寝起きの頭をぶんぶんと振りながら表通りを欠伸をしながら歩いていた。軽く伸びをすると煙草を咥え、店裏で一服しようと裏通りに一歩入ったところで、裏道に響く小さな歌声に気づいてテッドは歌声のする方に顔を向けた。
その瞬間、テッドはその場に立ち尽くし、口に咥えていた煙草がポトリと路上に落ちた事にも気づかなかった。後ろから聞こえている筈の通りの喧騒が遠ざかり、目の前の少女の歌声だけがテッドの体を包むように響いていた。
透き通る風のような、木々の葉の立てる囁きのような、それでいて優しく全身に降りかかる暖かい日差しのような澄んだ歌声が、テッドの頬を優しく撫でるように通り過ぎていった。
呆然と立ち尽くすテッドの視線の先には、いつものようにポテトの皮剥きをしながら楽しそうに歌っているニナが居た。自分も歌い手としてステージに立つ事もあるテッドには、すぐに分かった。ニナの歌の才能は稀有なもので、埋もれてしまっていては許されないものだと。呆然としていたテッドは、やがて真っ直ぐにニナに向かって歩き出した。
ところが、今度ステージで歌ってみないかというテッドの提案に、ニナは困った顔をして首を振った。
「どうして? 歌うのが好きなんだろう? 沢山の人に聞いてもらえるぞ?」
「人前に立つのは好きじゃないんです。一人で歌ってるのが好きなんです」
ニナは俯いて首を振って、消え入るような声で「ごめんなさい」と言った。
「ニナ。君がパブやクラブの接客が嫌なのは知ってる。でもステージで歌うのは接客とは全然違うんだ。誰も君の嫌がるような事はしないし、君の歌をきっと沢山の人が喜んで聞いてくれるぞ」
テッドは優しくニナを諭したが、ニナは益々縮こまって困ったように首を振るばかりで、フゥとテッドはため息をついてニナの肩を叩いた。
「OK。分かった。でも、もし気が向いたらいつでも言ってくれ」
だが、テッドは諦めきれなかった。あの天賦の才能を埋もれさせてしまったら、神から許されないような気がした。それからも機会を見つけてはニナに話し掛けてみたが、いつもニナは黙って首を振って、店の一段高くなったステージを悲しそうに見るばかりだった。
「なんとかならないもんか」
テッドは髪をかきむしって、苦い表情をした。
ある日、花の配達に来たデイジーをテッドは呼び止めると、店から直ぐのカフェに誘って二人で腰を下ろした。奢りの紅茶を飲みながら、デイジーは上目遣いでテッドを睨んだ。
「何の用さ」
「そう怖い顔するな。ニナの事だ」
テッドは眉を寄せて言った。
「ニナがどうかしたの?」
ニナの事と聞いて途端にデイジーは心配そうな顔になり、テッドは煙草の煙をふっと吐き出し呟いた。
「ニナの歌のことだ」
「ああ。もしかして、ニナに歌わせたいの?」
デイジーは直ぐに察した。
「あの子の歌はずっと前から、小さい頃からああだよ。いつも子供達に歌ってた。いつもいつも優しくてさ。心に響くんだ。本当の天使の歌声ってのはニナのような声のことさ」
目を閉じてデイジーは微笑んだ。
「その通りだ。だがな、ニナはステージで歌いたがらない。まるで何かに怯えてるように、だ」
テッドは暗い目でデイジーを見つめた。
「何か理由があるんじゃないか? 同じ施設に居たお前なら、何か知ってるんじゃないか?」
テッドは真面目な顔でデイジーに訊ねた。
この二人が同じ養護施設に居たことをニナから聞いてテッドは知っていたが、デイジーは施設の事を聞かれると辛そうな表情になった。
「あそこの事はニナもアタシも余り思い出したくないんだ。酷いところでさ……いつもムチで叩かれたり、ロクな食事も出して貰えなくて。子供はみんな怯えて暮らしてた」
俯いていつもの勢いもなくボソボソと話すデイジーに、テッドは眉を潜め黙ったまま顔を曇らせた。
「特にニナはいつも小さい子を庇うから誰よりも叩かれてた。叩かれるって分かってても庇うんだ。施設じゃムチ打ちを『指導』とか言ってた。あれのどこが『指導』だって言うのさ。あいつらが、自分達が子供を虐めるだめだけにやってるんだ。ホールのステージ上に上げられて、上半身裸にされて、後ろからムチで叩くんだ。あいつらはそれを見て笑ってた。泣き叫ぶ子供を見て、笑ってやがった……」
デイジーは唇を噛み締めて、目に涙を貯めて吐き捨てるように言った。
「男の子はそれで帰されるけど、女の子には『体に傷が残ったら大変だ』なんて、その後一応奴が『治療』だって薬を塗るんだ。そんなの嘘さ。本当はそんな心配なんかしちゃいないんだ。それを口実に体を触りまくるんだ。アタシはうまくやってあまり『指導』はされなかったけど、あの気持ち悪い手が全身を這い回るのを思い出す度に胸糞が悪くなるんだ。立ちん坊だったアタシでもね。それなのに、ニナは……ニナは毎日のように叩かれてて、毎日のように……」
デイジーは黙り込んでそれ以上は話せなくなり、俯いた肩が震えていた。
テッドは愕然として手を震わせた。まさかそこまで酷い事が行われていたとは、思っていなかった。
「そうか、だからニナはステージが怖いのか……」
デイジーはきっとテッドを睨んだ。
「あの子はね。誰よりも純粋なんだ。アタシなんかハスッパだから平気で居られるけど、ニナはきっと誰よりも深く傷ついてる。ニナに無理強いしようなんて考えてないだろうね?」
「ああ。無理強いはしない。約束する」
テッドは暗い表情のまま頷いた。
「けどな、デイジー。ニナの歌を誰にも聞かせないというのは、神の意思に背いているような気がしてならないんだ、俺は」
テッドは寂しそうにポツリと言った。
「うん……」
デイジーも少し黙った後、小さく頷いた。
そのままステージにニナを上げるのは無理だと悟ったテッドだったが、まずはニナにステージは怖くないという事を根気よく伝えようと思い立った。スタッフには詳細は明かさずに、ニナがステージを怖がっていることと、ニナを歌わせたいという意思を伝えた。
ハウスでは夕方開店前の午後から店の準備が始まり、開店前にスタッフ全員で軽い夕食を取るのが習慣だった。ニナは未成年なのでもう少し早く来て準備をし、夕食を取ると帰宅させていた。その食事の間、テッドはギターを手に歌を歌うようになった。テッドもステージで歌うプロで、ハスキーな声で、バラードからロックまで幅広くこなした。店のスタッフも一流の歌い手が多く、代わる代わる歌を披露してはお互いに喝采を送りあった。ニナもそれぞれの歌に嬉しそうに拍手を送った。だが誰かが「ニナも歌ってみなよ」と声を掛けても、やはり困ったように首を振るばかりで、皆それ以上ニナには強制しないように気をつけて、ニナが慣れるのを待つことにしていた。
そんな日々が暫く続いたある日、ギターを手にステージに上がったテッドは、その日は何か空気が違うような気がした。そして、ゆっくりとギターを奏で始めると『Bring him home』を歌い出した。それはいつものロックやバラードとも違う、ゆっくりとしたテンポの曲で優しい響きで神に祈る歌だった。誰もがしんとなって、ステージのテッドを見守った。ニナは何かに驚いているような表情で、少し口を開けたまま瞬きもせずにテッドを見つめていた。優しいギターのアルペジオが終わると、スタッフからヒューヒューという声と拍手が起こったが、ニナは拍手もせずにただ呆然とテッドを見ていた。
「ニナ?」
テッドが優しくニナに声を掛けると、ニナははっとしたように目を開き、慌てて全力で拍手をした。
「すごいわ。素晴しかったわ」
ニナは、興奮したように少し顔を赤らめていた。
「ニナはレミゼが好きなのか」
スタッフの一人が笑うと、ニナは不思議そうに訊ねた。
「レミゼ? レミゼって?」
皆「えっ?」という顔をして黙って顔を見合わせた。
この『Bring him home』は、英国で一番有名なミュージカル「レ・ミゼラブル」、通称レミゼの中でも一番有名な曲で、英国で知らない人は少なかった。
皆の反応で知っていて当たり前の曲なのだと察し、ニナは恥ずかしそうに俯いて「ごめんなさい」としょげ返った。
「いいんだ、ニナ。恥ずかしがることはないさ。これから色んな事を学べばいい。君は自由で、もう何処へでも飛んでいけるんだから」
テッドは優しくニナに言った。ニナはその言葉ではっとしたように顔を見上げて、テッドを見た。ニナの鳶色の瞳は、まるでこの先の未来を見つめようとしているかのように光を宿して輝いていた。
「ニナ。歌うかい?」
テッドはそのニナの瞳をじっと見て静かに聞いた。フロアに居た誰もがニナを無言で見つめた。ニナはその言葉をじっと聞いていたが、やがて小さく首を縦に振り、頷いた。
それから毎日、ニナは夕食の会で歌うようになった。スタッフ陣で初めてニナの歌を聴いた者は、驚愕して皆一様にぽかーんと口を開けた。誰もが進んでニナに色々な歌を教えたが、ニナが好きなのはやはりミュージカルのナンバーだった。それじゃあと、テッドがニナに『On my own』を教えた。これもレミゼの曲で、大好きな人に振り向いてもらえない女の子の片思いの歌だと知り、その上悲劇的な環境で育って最後には死んでしまう悲しい女の子だと分かると、ニナはその想いを乗せるように歌った。悲しいニナの境遇ともあいまって、切々とした絶望感がひしひしと伝わってきた。ニナが歌い終わると、スタッフの誰もが涙ぐんでいた。
テッドは拍手をしながらニナに声を掛けた。
「ニナ。今度もっと大勢の人に聞いてもらわないか?」
「え?」
「大丈夫だ。客じゃない。今度俺の友達の誕生パーティを貸切でやるんだ。俺の店の天使をみんなに自慢したいんでね」
不安そうな顔のニナに、テッドはウィンクした。ニナは少し困ったような顔をしたが、顔を赤らめて小さく頷いた。
七月の終わりにそのパーティは開かれた。それはテッドの友人であるマスコミ関係者の誕生パーティで、マスコミ関係者や音楽関係者が多数参加しており、その中にテッドの友人で「マイケル・ボールドウィン・ショー」のディレクターが居た。ミュージカル俳優として名を馳せたマイケル・ボールドウィンが、ホストとして数々のゲストを招いて歌を披露するそのTV番組は、長く続く人気番組だった。
「俺の店の『天使』だ」
テッドがニナを紹介し、小さなニナがおずおずと登場すると、パーティの参加者は励ますように指笛を鳴らしてニナを歓迎した。ニナは慣れない場の雰囲気に緊張しているようだったが、テッドが優しく合図してギターが始まると、キッと顔を上げ歌い出した。余興を楽しもうと盛り上がっていた人々は、皆一様に顔に笑顔を貼り付けたまま言葉を失い、一瞬にして場が静まりかえった。身長一四五㎝ほどで、スタンドマイクを一番下にしても背伸びするように歌っているニナの姿に、誰もが釘付けになっていた。
伸びやかな声でアルトからソプラノまでカバーする広い音域を持ち、何よりも、その声に秘められた汚れのない魂だけが持つ聖なる響きが、店中に静かに広がり人々の心に染み込んでいった。そして、その小さな体のどこから出ているのかと思わせる声量で体にぶつかってくる音の飛礫が、砕けてキラキラと空を舞っているのが見えるようだった。
一曲を歌い終わったニナがちょこんと頭を下げると、誰もが感動を露にして、立ち上がって絶賛の拍手を送った。ニナはその反応に目をびっくりさせて驚き、慌ててまた頭を深々と下げた。ディレクターはドアへ走り、興奮しながらすぐに来るようにマイケル・ボールドウィンに電話した。そしてディレクターからマイケルを呼んだことを耳打ちされたテッドは、もう一度彼女に歌わせることにした。
ニナはマイケルを知らなかった。施設にはTVは無く、小さなラジオだけがあった。そこから流れる彼の歌を聞いたことはあったが、その素晴しい歌声の持ち主が、目の前に現れた大柄なにこやかな男だとは思わなかった。そして、新しい客人のためにとテッドに促され、もう一曲『On my own』を歌い始めた。
ニナの歌声が流れると、マイケルの顔から笑みが消えた。彼女の歌を瞬きすることなくそのままじっと聞いていたマイケルは、曲が終わるとにっこりと微笑みニナに大きな拍手を送った。そして、ニナに向かって右手を差し出して優しく微笑んだ。
「初めまして、ニナ。僕はマイケル・ボールドウィンだ。突然だが、君を僕のアカデミーへ特待生として招待したいんだが、受けてくれるかな?」
マイケルはテッドを振り返って付け加えた。
「テッド。君もOKしてくれるだろうね?」
「当然さ。光栄だよ。マイケル」
顔を紅潮させたテッドは、嬉しそうにマイケルの手を握り強く頷いた。ニナはマイケルと握手しながら、事の成り行きがわからず、戸惑ってキョロキョロと二人を見回していた。
突然の申し出に驚いたニナは、最初は断ろうとした。特待生なので学費は免除だったが、生活のためには働かなければならないと強くニナが主張したからだった。だが、テッドにはそんなニナに、週二回、練習の成果を店で披露することで給料を払う事を提案した。ニナはちゃんと働くと反対したが、「練習は大事だ。生半可な気持ちでは歌は歌えない」とテッドに諭され、最後には渋々ながらも承諾した。
マイケルが主催する『ミュージカル・アカデミー』は、ミュージカル界を目指す若者達の登竜門だった。ここから多くの若手俳優達が育って、ミュージカル界を支えていた。ニナは九月からの新学期が始まるとアカデミーに通うようになった。
ミュージカルなど見たこともなく、何も知らないニナを、最初他の学生達は嘲笑した。
「英国に住んでいて、このアカデミーに来ていて、レミゼを見たことないですって? 有り得ないわ」
「俺はここに入るのにレッスン通い大変だったんだぞ。しかも特待生だろ? どういうコネで入ったんだか」
「あんなにちっこくて一体どんな役が出来るっていうんだ。リトルコゼットか?」
ニナを遠巻きにして、影ではこそこそとニナの事を笑った。ニナは毎日明るく「おはよう」と言って挨拶するが、誰もが苦笑いでおざなりな挨拶を返すだけだった。
最初の実践授業でそれぞれ好きな歌を歌うように指示されると、ニナは一番好きな『On my own』を選んだ。やはりスタンドマイクを一番下にしてもニナの口元には届かず、講師は子供用のスタンドマイクを持ち出してニナの前に置いた。練習室内にクスクスという笑いが広がって、ニナは真っ赤になって恥ずかしそうに俯いた。
ところが、曲が始まりゆっくりとニナが顔上げると、その顔つきは変わっていた。苦しい恋、辛い境遇、それでも希望を失わず切々と歌うエポニーヌがそこに居た。もう誰も笑っていなかった。静まり返った練習室内に、流れるメロディーとニナの奏でる歌だけが広がり続けていた。
曲が終わると講師が「ブラボー! ニナ!」と拍手を送った。呆然としていた学生たちからパラパラと、やがて盛大な拍手が送られ、ニナは恥ずかしそうに頭を下げて、慌てたようにパタパタと後ろの椅子に下がった。
「ねぇねぇ。貴女一体どこで歌を習ってたの?」
隣に座っていた子がニナに興奮して話し掛けてきた。
「え。いえ、特に習ってたことはなくて……」
「じゃあ貴女のご両親も歌手なの? すごい才能だわ」
他の学生が聞いてきたが、ニナは俯いて小さく呟いた。
「……両親は居ないの……」
その言葉に皆戸惑ったように黙りこくったが、やがて一人が明るくニナの肩を叩いた。
「何はともあれ、これからよろしくね」
差し出された手を嬉しそうに握って、ニナもようやく笑顔になった。
「うん。よろしくね」
ニナはあっという間にアカデミーで知らない人が居ない存在になった。音楽理論や、歴史の授業ではいつも一番前で講義を聞くニナの姿があった。誰にでも明るく人懐っこい笑顔で笑いかけ、困っている子がいると心配そうに話しかけ、いつしかニナはアカデミーの人気者になっていた。もう彼女を笑ったり、侮辱する者は居なかった。
一人暮らしのニナの小さなアパートメントに女子だけで集まってお茶会をしたり、舞台を見に行ったことのないニナを誘って大勢で舞台見学にも行った。過去の台本や原作本などを両腕に山積みに抱えてよろよろ歩くニナに、男子が二人、三人と続け様に後ろから本を奪って「運んでやるよ」と笑ってニナを手伝ってくれた事も、テッドのファンの子達を連れて店に押しかけ皆でキャーキャー騒いでテッドを困惑させたりした事もあった。施設の所為で失いかけていた学生生活を取り戻し、生き生きとした目をしてアカデミーでの出来事を楽しそうに報告するニナを、テッドは暖かく見守っていた。
テッドの店でのニナの歌も、口コミで広がり評判になっていった。「あの店にとびきり歌のうまい女の子が居る」と、ニナの歌う曜日にはいつも超満員だった。
「ニナのお陰でこれだけ儲けてるんだ。給料上げてやってるんだろうね?」
「上げたら上げただけ全部本買っちまうんだ、ニナは」
人いきれのする店内で、テッドをじろっと見上げて睨み付けたベラに、テッドは苦笑した。
ニナは幸せだった。大好きな歌が歌えて学校にも通えて、大好きな人達が一緒に居る。ずっとこの生活が続けばいいと願っていた。
ニナがアカデミーに入って五ヶ月後、アカデミーの試験審査を見学に訪れた世界的プロデューサーのキャンベル・マクレガーは、ステージで歌うニナを黙ったままじっと見つめていたが、横に座っていたマイケルへ鋭い目で囁いた。
「マイク、彼女を来週のキャストオーディションに出すんだ」
この春に行われるレミゼの特別公演に出演予定だったサンドラ・バーカーが妊娠出産のために降板が決定し、その代役を探すためにオーディションが行われる事になっていた。キャンベルはその候補を探すために此処を訪れていて、マイケルは微笑んだままキャンベルを見て頷いた。
マイケルから勧められて初めてのオーディションに臨んだニナは、目の前に威圧的に座っている審査員達が皆ミュージカル界の重要人物だと学校で教えられて知っていた。緊張で震える手をもう一方の手で押さえ込んで、ニナは強張った顔で静かに頭を下げた。
「ニナ・ジェフリーです。よろしくお願いします」
誰もが目の前のあまりにも小さすぎる少女に戸惑っていた。
「ニナ。リラックスしてね」
キャンベルだけが、中央で微笑みを浮かべて優しく声を掛けた。
曲が始まるとニナは大きく息をついて目を開け、前を見つめた。その顔にはもう恐れや不安はなかった。ニナの目の前には、愛しいマリウスの顔だけが浮かんでいた。
歌が終わると誰もが放心状態からはっとしたように拍手を送った。そして誰もが口を開けた顔で互いに顔を見合わせて、黙ったまま手を叩き続けていた。ニナは顔赤くして戸惑ったように頭を下げて、そろそろと後退りしてから逃げるようにドアを開けて出ていった。
審査員席でニナの歌を聴いていたアルバート・ボートンは、まだ呆然とした顔でこの小さな少女を見送った。アルバートは、今回の公演でジャン・バルジャンを演じる事が決定していた英国のテナー歌手だった。アルバートはニナの歌唱力に驚愕しながらも、この小さな少女に何か不思議な運命の出会いを感じていた。
審査は満場一致だった。ニナはこの春行われるミュージカル「レ・ミゼラブル」特別公演でのエポニーヌ役を射止め、十七歳にしてミュージカル俳優への道を歩き始めることになった。
アカデミーの仲間はニナの合格を心から喜んで暖かい拍手をニナに送り、テッドの店でも全員が興奮して歓喜した。
「ニナ! 凄いぞ! レミゼの特別公演だぞ! いきなり一流の仲間入りだよ!」
「ニナの歌なら当然だよ、なぁ」
スタッフは皆、ニナの頭をぐりぐりと撫でながら喜んだ。だが、ニナは不安そうな顔をして「う、うん」と頷くだけだった。
そして、音楽事務所に入ることになったニナはテッドの店を去ることになり、お別れ会が開かれた。スタッフ達は連絡先が此処だったニナに携帯電話をプレゼントして、「いいか。誰でも彼でもに番号を教えるんじゃないぞ」と保護者のように注意した。
デイジーが大きな花束を抱えてやってきて、ニナに抱きついて喜んだ。
ベラは最初いつもの無愛想な顔だったが、ニナを抱え込むようにぎゅっと抱きしめると、「ニナ、頑張るんだよ」とニナを優しく見た目には微かに涙が浮かんでいた。
皆ニナの旅立ちを祝福したが、ニナはずっとしょげたような、困ったような顔をしていた。
「ニナ。どうしたんだ?」
テッドが優しく声を掛けると、ニナはみるみる涙を溢れさせた。
「ここに居たいの。今のままで私は幸せなの。みんなと、みんなと離れたくないの」
テッドにしがみついてニナは泣き出した。わんわんと泣くニナの姿に、皆寂しそうな微笑を浮かべた。テッドはそっとニナの顔を上げ、覗き込んで微笑んで言った。
「ニナ。前へ進むんだ。沢山の人が君の歌を待っている」
テッドの優しいが厳しい目をじっと見たニナは、周りの皆の顔を見回して、誰もが涙を堪えて微笑んで頷いているのを見た。そしてぐいっと涙を拭くと、寂しげに微笑んで小さく頷いた。




