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天使の帰還

 二人が帰った後、ハドリーはニナの枕元に座ってニナの手を取って、黙ったままじっとニナの顔を見つめていた。少し呼吸が荒いがニナは静かに眠っていて、ハドリーは落ち窪んだ目で、それでも少し笑みを浮かべて静かに語り始めた。

「なぁ。最初に会った時の事覚えてるか? お前、入り口の警備員に追い返されてたんだよな。子供だと思われて。俺もてっきり学校サボリの子供かと思ったぞ。本当に小さかったよな、お前」

 その時の事を思い出したかのようにハドリーは小さくクスッと笑った。

「でも凄かったな、お前の歌。あれで俺はお前に一目惚れしたんだぞ。いや見た目じゃないから、一曲惚れか? 一耳惚れか? まぁいい。とにかく一目惚れだ。それからずっと好きだったんだぞ」

 ハドリーは遠くを見るような、懐かしむような顔をした。


 それからもハドリーはニナにずっと語り掛け続けた。巡回に来た看護士が「フェアフィールドさん。どうかお休みになって下さい。私達が見守ってますから」と心配そうに声を掛けたが、ハドリーは「ニナと話していたいんだ」と静かに首を振った。

「あの時は焦ったな。お前が死ぬつもりだって分かったから、お前を探そうと必死だったんだ。本当はお前をレイに取られて、俺は悔しかったんだぞ。俺のニナが他の男に抱かれてるって思うと、身が張り裂けそうだったんだ。でもお前は俺んとこに帰ってきてくれたな」

 ニナの頬をちょんと突いてハドリーは微笑んだ。そこでふと真顔になってハドリーはニナをじっと見つめた。

「……ずるいぞ、ニナ。約束したじゃないか、ずっと一緒だって。……約束したじゃないか」

 涙が浮かんで零れたハドリーだったが、それ振り払うように「よし。歌うぞ。何がいい」と呟くと、静かに小さな声で歌い始めた。泣き崩れてしまうとそのまま闇の中に吸い込まれてしまうような気がした。眠りたくなかった。ずっとニナの顔を見つめていたかった。枕元の明かりが灯るだけの薄ぼんやりと明るい室内で、ハドリーは小さな声でニナの耳元で静かに歌い続けていた。



 やがて夜が明け、霧の立ちこめたロンドンの街が静かに目覚め始めた。まだニナの枕元で囁くように語り掛けていたハドリーだったが、病室のドアが開く音に顔を上げると、其処には唇を噛み締めたリンダが立っていた。

「ハドリー」

「ああ、リンダ。子供達は? お前に頼んだだろ」

 ハドリーは虚ろな表情でリンダに呟いた。

「今はアルとキャシーが見ているわ。午後には此処に来る筈よ」

 リンダはそう言うとつかつかとハドリーに歩み寄って、眉を寄せてハドリーを睨んだ。

「アンタの事だからどうせ寝てないんだろうと思ったけど、やっぱりね」

「ニナと話してたんだ」

 ハドリーはニナに顔を向けてぼそっと呟いた。

「ハドリー、少し休みなさい」

「やだね。俺はまだニナと……」

 リンダを振り向きもせず言い掛けたハドリーの首根っこを捕まえて、リンダは強引に部屋にある洗面台の前へ引っ張っていった。そしてハドリーを鏡に向って立たせるとハドリーの頭を押さえ込んだ。

「自分の顔をよく見なさい!」

 鏡に映ったハドリーの顔は落ち窪んだ目の周りはどす黒く変色して、土気色の生気のない顔色にまばらに生えた無精ひげが黴のように浮かんでいた。ぼんやりとした頭でハドリーは、自分とは思えない死人のような顔をじっと見ていた。

「アンタ、そんな顔をデビッドやリリーに見せるつもり?」

 リンダが静かにハドリーに問い掛けた。

「いや……」

 と、虚ろな目で首を振ったハドリーの首根っこを捕まえると、リンダは続き部屋のドアを開けハドリーを放り込んだ。弱りきった体で為す術なくベッドに倒れ込んだハドリーに、

「ニナはちゃんと見守るわ。何かあったら絶対に起こす。約束するわ。だからお願い休んで」

 リンダの声は涙声になっていた。ハドリーは立ち上がろうとしたが体を起こす事が出来なかった。

「ああ。リンダ、頼む……」

 そう言うとそのまま気絶するように眠りに落ちていった。



 ハドリーは正午過ぎに目を覚ました。夢も見ない深い眠りだった。まだぼんやりとした頭を抱えて病室に戻ったハドリーを見て、リンダは何も言わず設置された冷蔵庫から缶入りの栄養補給ドリンクを手に取って「ほら」とハドリーに投げた。

「どうせ何も食べたくないだろうから、それ飲みなさい」

 リンダの冷静な言葉にハドリーは「ああ」と缶を開け一気に飲み干した。

「ニナは?」

「ずっと静かに眠ってるわ」

 掠れた声で呟くハドリーに、リンダはニナをそっと振り返った。

 夕べはやつれて青白かったニナの顔は、少し赤みを取り戻していた。苦悶の皺が残った表情だったのが前のようにふっくらとして、乾いてかさかさと音を立てた小さな手も瑞々しい元のニナの手に戻っていた。ハドリーが不思議そうにニナの顔を覗き込んで「ニナ?」とその頬に手を当てると、

「ずっとマッサージしてたのよ」

 リンダが寂しそうに呟いた。ベッドサイドの脇に、リンダの夫スティーブが朝劇場から運んできていた劇場に常設してあったホットタオルの保管器が置かれていた。繰り返し、繰り返し、何度も暖かいタオルを手にして、リンダはニナの顔や手をマッサージし続けていたのだった。胸元で腕を組んでいたリンダの手は白くふやけていた。ハドリーはふっと笑って口元に笑みを浮かべると、リンダを振り返った。

「ありがとう、姉さん」

 リンダはその言葉に笑みを漏らし、目を閉じて俯いて小さく首を振った。


 しばらくすると、アルバートとキャシーがデビッドとリリーを連れてきた。

「マミー!」

 と、叫ぶとリリーは泣きながらニナに縋りついて、ハドリーはニナにしがみ付いて泣くリリーの頭をそっと撫でて微笑んだ。

「マミーは眠ってるんだ。シーッだぞ」

 反対側の枕元に黙ったままのデビッドが立って、静かにニナの頬に手を寄せた。デビッドは悲しそうな顔を上げて、涙を浮かべた目でハドリーに訊ねた。

「マム、もう痛くないの?」

「ああ。もう痛くない」

 ニナと同じ鳶色の瞳を潤ませている息子にハドリーは微笑んだ。



 その夜、続き部屋で泣き疲れて眠るリリーとデビッドをアルバートとキャシーは静かに見守っていた。ハドリーはまたニナの枕元に座って、ニナの手を取って黙って見つめていた。静かな病室に、ニナに繋がれた心電図の機械が立てる小さな電子音だけが響いていた。

 ぼんやりとした頭でニナを見つめていたハドリーの頬を撫でるように静かに風が吹いた。怪訝そうに顔を上げたハドリーが部屋を見回したがドアも窓も開いておらず、ベッドサイドに置かれた観葉植物の葉もぴくりとも揺れていなかったが、確かにゆっくりと風が吹いていた。その風は、懐かしいような優しい春の匂いがした。

「ニナ?」

 不思議そうにハドリーが呟いた時、握っていたニナの手が小さく動いて、やがてハドリーの手を弱々しい力で握り返した。ハドリーが目を見開いてベッドのニナを覗き込むと、ニナの閉じられていた瞼が静かに開いた。

「ニナ? ニナ!」

 ハドリーの叫びにアルバートとキャシーは顔を見合わせて病室に飛び込んできた。

「アル! ニナが! ニナが目を覚ました!」

 ハドリーが叫ぶと、その声に目を覚ましたデビッドががばっと起き上がって「マム!」とニナのベッドに駈け寄った。慌てたキャシーが寝ていたリリーに、

「リリー! 起きて! マミーが、マミーが目を覚ましたわ!」

 と、叫んでリリーを抱き抱えて戻ってきた。



「……ドリー、お……願い、時間が無いの」

 ニナはゆっくりとハドリーの方を振り返って、酸素マスクの下から掠れた声で小さく呟いた。その言葉に、再び起きた奇跡がほんの僅かの時間を与えてくれたに過ぎない事をハドリーは悟ったが、それでもニナの鳶色に輝く瞳を覗き込むと、絶望よりも暖かい気持ちになるのは、ニナが齎す春の風の所為かもしれないと思った。

「ああ」

 まだ目を見開いて驚愕の表情でニナを見ていたハドリーが、そっとニナの酸素マスクを外した。ニナは荒い息で、それでも微笑んで二人の子供を見つめてゆっくりと手を伸ばした。

「デビッド……リリー。ダディの言うことを聞いてね。デビット、リリーを守ってあげてね。リリー、優しい子になるのよ」

 ニナの手が子供達の頬をそっと撫でた。リリーはベッドに突っ伏して「マミー」と泣きながら繰り返すばかりだったが、デビッドはニナを真っ直ぐに見て目を逸らさずに誓った。

「マム。大丈夫だよ。僕ちゃんとリリーを守るよ」

 その言葉にニナは頷いて微笑んだ。そしてニナはアルバートとキャシーを静かに見て、瞳を潤ませた。

「アル。キャシー。また会えるわ。今度は二人の子供として、きっと会えるわ」

「ああ。ニーナ。待ってる。ずっと待ってるぞ」

  アルバートはニナの手を強く握り締めたが、キャシーはニナの足元で泣き崩れたままだった。


  ニナがゆっくりと枕元でニナを見つめているハドリーに向って小さく言葉にならない囁きを漏らすと、「ん?」と優しく問いかけるようにハドリーはニナの口元に耳を寄せた。そしてフッと笑うと「ああ」と頷いて、ニナの頬に手を寄せて、赤みの戻った小さなニナの唇にそっと唇を寄せてキスをした。

 ニナは、頬を嬉しそうに赤らめて目の前のハドリーの頬にゆっくりと手を伸ばして微笑んだ。

「ハドリー……愛してるわ。貴方に会えて……私は幸せだった。生まれ変わっても、きっとまた……貴方を見つけるわ。だからお別れじゃないの。ほんの少しの間……離れるだけなの」

 綺麗な鳶色の瞳は輝いて、静かな愛に満ちた微笑みだった。

「ああ。俺も愛してる。ニナ、お前だけだ。どんなに姿形が変わっても、俺も必ずお前を見つける。そしてまた結婚しよう。ニナ」

 ハドリーはニナの髪を優しく撫でて、微笑み返した。ニナはその言葉に嬉しそうに微笑むと、小さく呟いた。

「ハドリー……歌って。貴方の歌が聞きたいわ」

「ああ。いいぞ。何でも歌ってやる」

 病室にハドリーのテノールの声が、低く静かに流れ始めた。


 それまで鳴っていた機械の電子音が消え、静かな病室にハドリーの朗々とした声だけがゆっくりと広がって行った。やがて心電図の機械は激しくアラームの点滅を始めたが、不思議とその甲高いアラーム音は誰の耳にも届かなかった。

「聞こえるわ。ハドリー。貴方の……貴方の……歌が、聞こえるわ」

 ニナは嬉しそうに笑ったが急速にニナの瞳から光が消え、視力を失ったニナが不安そうにハドリーの姿を捜し求めると、ハドリーはニナの手を取ってニナの耳元でそっと囁くように歌い続けた。ハドリーの瞳から零れる涙がニナの枕にゆっくりとしみこんでいった。

 やがてニナの瞳から零れ落ちた涙が一筋、頬を伝って流れ落ちて、ニナはゆっくりと目を閉じ、深く長い息をゆっくりと吐いた。同時にニナに繋がれた心電図が直線に変わり、甲高い「ピーッ」という電子音が、音を取り戻したかのように鳴り続けた。


『天使の歌声』と呼ばれ、世界に平穏を届けたニナ・フェアフィールドの、僅か三十三歳での早過ぎる死だった。

 




 ニナの葬儀の朝、ロンドンの空はどんよりとした厚い雲が広がり、ビッグベンが葬儀の開始を知らせる特別な鐘を鳴らし始めた。

 路上を歩いていた人々がその鐘を聞いて立ち止まり、両手を合わせて祈りを捧げた。交差点で交通整理をしていた警官も鐘の音に帽子を取り、静かに手を合わせた。青信号になっても、どの車も発車しなかった。ドライバーが皆手を合わせて祈っているからだ。

 全ての音の消えた静かなロンドンの街に、鐘の音だけが響いていた。同じ光景がパリでも、ニューヨークやラスベガスでも、世界各地で起こっていた。早過ぎるニナの死に、世界が悲痛の想いで祈りを捧げていた。


 ハドリーはもう泣いていなかった。二人の子供の肩を抱き、ただじっとニナの棺を見つめていた。キャンベルは葬儀の間中、肩を震わせて顔を覆ったまま上げる事が出来なかった。遺族席にはハドリーと子供達と並んで、アルバートとキャシーが泣きながら肩を抱き合って、ジェームズは泣き崩れているアニーの肩を黙って抱いていた。その隣でリンダは夫のスティーブの肩に顔を埋めて震えていた。ニナの安寧な眠りを神に願い大勢の神父が祈りを捧げている中には、悲痛な表情を浮かべたヘンリーの姿もあった。

 ニナの棺の周りには美しい花々が飾られた。その花をコーディネイトしたデイジーは夫に支えられながら泣き腫らした目で呆然としていて、施設の子供達が賛美歌を歌ってニナを送った。テッドは教会の外の壁に寄りかかって、泣き崩れているベラをそっと抱き締めていた。

 ニナの棺は、ロンドン郊外のハドリーの両親も眠る静かな墓地に収められた。最後の祈りが捧げられ、棺にそっと土が掛けられると、一陣の風が舞って参列した人々の髪を揺らした。十二月だというのに花の香りを湛えたその風は優しく皆の頬を撫でて、やがて静かに消え去っていった。誰もがニナの最後の別れだと感じて、雪の降り出しそうな厚い雲を見上げて、空に帰っていくニナを探そうと目を凝らして見つめ続けていた。





 ハドリーはその後、何時復帰するとも告げず休養したが、キャンベルは何も言わずに了承した。母親を失ったまだ幼い我が子を守るためだったが、どうしても歌を歌う事が出来なかった。胸の奥に重い石を抱えて底の見えない沼に沈んで行くような気持ちが拭えなかった。沈みきってしまわないのは、ハドリーには守るべき子供達が居たからだった。デビッドとリリーの存在が、ハドリーを地上に留めている唯一の理由だった。


 ラルフが妻と一人息子のロジャーを連れて、ハドリーの家から徒歩五分の場所に引っ越して来たのは、ニナが死んで二ヶ月後の事だった。

「これでご近所だからな。何時でも俺を頼れよ」

 ハドリーの肩を叩いて笑うラルフに、ハドリーは済まなそうな顔で、それでも微笑んで呟いた。

「……すまん」

「ロジャーも喜んでるんだ。毎日デビッドとリリーと遊べるってね」

 居間の床に三人で座り込んで、キョトンとしたリリーを囲むように積み木で遊ぶ子供達を振り返って、ラルフは嬉しそうに言った。


 リリーはいつまでも泣いてニナを求めてハドリーから離れようとはしなかった。ところがデビッドは母の言いつけを守るかのように、淡々とハドリーを手伝い、リリーの頭を優しく撫でた。小さな胸は悲しみで一杯だろうに、ハドリーの前では涙を見せなかった。ハドリーはそんな息子の様子に心を痛めた。自分がデビッドに無理を強いているのではないかと思ったのだ。


「そうか」

 夜、ハドリーの家を訪れたアンダーソン医師が、ハドリーの話を聞いて静かに微笑んだ。

「まだあの子は小さい。それなのに悲しみを押し殺しているんだ」

 子供部屋で眠るデビッドを案じるようにハドリーは唇を噛んだ。

「デビッドはニナの願いを叶えたいと望んでいるんだよ。ハドリー」

 アンダーソン医師が静かに言った。「だが……」と眉を寄せるハドリーに、

「ハドリー。君はずっとニナの望むように生きさせたいと願っていたね」

 アンダーソン医師は微笑んだ。黙って医師を見つめるハドリーに向って、

「その君の生は、無意味なものではなかっただろう? 君は、ニナと共に大きな物を手にした筈だ」優しい目で語り掛けた。

「デビッドは君と同じように、ニナの望みを叶える事を自分の人生として選んだんだ。その生の意味は計り知れないほど、きっと大きい物になるだろう」

 そして、ハドリーの目を真っ直ぐに見て、

「僕もだ。僕もニナの望みを叶える事を選んだ。ニナが君のために病室で歌った歌を聴いてからだ。僕はニナが望んだように、君達を支える事を選んだ。ハドリー。デビッドが苦しんでいたら、必ず僕が助ける」

 アンダーソン医師の優しい瞳には涙が浮かんでいたが、その声は力強かった。ハドリーは黙ったまま医師を見つめていたが、フッと微笑みを漏らしてゆっくりと頷いた。



 六月にアニーの結婚式が行われた。ニナの葬儀の後、一旦アニーは結婚式を延期すると言い出したがハドリーが首を振った。

「ニナが、お前が幸せになる事を望まないとでも思うのか?」

 そう静かにアニーを諭した。その席で祝いの歌をアルバートから依頼されたハドリーは、暫く考えた後に承諾した。きっとニナは歌って欲しいと思うだろうと、そう思ったからだった。同じように考えてハドリーに歌を依頼したアルバートも、承諾の返事に微笑んだ。

 だが、久しぶりにマイクの前に立ったハドリーに、一瞬戸惑いと不安が過ぎった。

 ――俺は本当に歌えるんだろうか。

 静かに眉を寄せて目を閉じたハドリーの耳元に風が吹いた。優しく頬を撫でるニナの手をハドリーは感じた。驚いたように目を開け、「ニナ」と呟こうとして少し開いた口から、やがて静かな笑みが浮かんだ。

 ――ああ。そうだな。いつもお前は一緒だったな。

 ハドリーは凪いだ海のような穏やかな心で、静かに歌い始めた。


(そうだ、俺とニナは二人で一人なんだ。だから俺がこうして生きて歌い続けている限り、ニナも一緒に居る。俺は、俺とニナと二人で歌っているんだ)


 輝きに満ちたハドリーの歌が教会に響き渡って、静かに光を降らせていた。アニーは目を見開いてハドリーの歌を聞いていたが、優しく頬を撫でそっと「アニー。幸せにね」という優しいニナの声を聞いたような気がして、顔をくしゃくしゃにするとポロポロと泣き出した。傍らの夫となった青年が優しくアニーの肩を抱き締め、静かな歌がそっと人々の心に染み込んでいった。





 その年の夏、ハドリーは子供達を連れて湖水地方を訪れた。親父は入口の鐘を鳴らして静かに入ってきた三人に顔を上げ、今度は目を逸らす事なくじっとハドリーを見つめた。だが相変らず無口で、カウンターに立ったハドリーに静かに鍵を出した。

 その夜の夕食にハドリーが子供達を連れてダイニングに来ると、いつものテーブルの席に、前回には無かった背の高い子供用の椅子がニ脚置かれていた。ハドリーが抱えたリリーをそっとその一脚に降ろすと、デビッドは黙ったまま向かい側の子供用の椅子によじ登った。親父が黙ってスープや野菜料理、肉料理などをテーブルに並べたが、デビッドとリリー用に置かれた皿はどれも小さい子が食べやすいように小さくカットしてあり、デビッドはじっとそれを見てハドリーに顔を向けるとにっこりと笑った。

「僕、一人で食べられるよ」

「ああ。残すなよ」

 微笑むハドリーに小さく頷くとデビッドは背を向けた親父に向って「ありがとう」と嬉しそうに声を掛けたが、親父は「ああ」と小さく答えるだけだった。


 次の日、湖水の浜辺でハドリーはリリーを遊ばせていた。風は穏やかで凪いだ湖面を静かに揺らしていた。この地方には珍しく、羊のような雲がぽっかりと浮かんだ青い空が広がり、静かなさざ波を立てる湖面がキラキラと輝いていた。

 無邪気に小さな砂の山を作っていたリリーがふと顔を上げて湖をじっと見つめた。手を止めて静かな瞳でずっと湖を見ているリリーを覗き込むように、「どうした? リリー」と座り込んだハドリーが優しく問い掛けると、リリーは暫くして小さく歌い始めた。それはもう幼子の歌ではなかった。しっかりとした声で、リリーの歌は湖面を揺らす風に乗って広がっていった。静かに湖を見つめたまま歌い続けるリリーの蒼灰の瞳には、小さな炎が宿っていた。

 ――ニナの瞳だ。

 ハドリーは驚いた口を開けてリリーの横顔を黙って見ていたが、じっとリリーの歌を聴いていたハドリーも、やがて静かに合わせるように歌い始めた。リリーとハドリーの美しい旋律が、静かに湖面を流れいった。

 デビッドは直ぐ傍の岩場で親父と並んで釣り糸を垂らしながら黙ってそれを聞いていたが、隣の親父が前を見たまま独り言のように呟いた。

「……お前は歌わないのか」

「歌はリリーとダディが歌う。僕は歌わない」

 デビッドも真っ直ぐ前を見たまま言った。強い意志が込められた声だった。

「僕は、マムみたいな病気の人を救う人になるんだ。もう誰も苦しんだり悲しんだりしないようにしたいんだ」

 ニナが入院していた当時、僅か八歳だったデビッドだったが、大人達の話す「脳腫瘍」を調べて、それがどういう病気かを理解していた。静かな意思が込められた鳶色の瞳にも、小さな炎が揺れていた。

「そうか」

 親父は小さく呟いて、そして黙ってデビッドの頭を大きな手でそっと撫で、それ以上何も言わなかった。


 旅から戻ったハドリーは、キャンベルから依頼を受けていた仕事を引き受けると連絡した。それは十二月にニナを追悼して行われるコンサートだった。もう何も手がつかないほど憔悴していたキャンベルも、これだけはやり遂げたいと願っていた。他の仕事には殆ど手をつけず、これだけに集中して落ち込みそうになる気持ちを奮い立たせて準備に全力を挙げていた。

「そうか……そうか」

 ハドリーの返事を聞いて電話口でキャンベルは嬉しそうに小さく頷いた。

 






 十二月のその日、ロンドンはどんよりとした雲が垂れ込める寒い日だったが、会場となったハイドパークには十万人以上の人が詰めかけていた。大型ビジョンで同時中継されるトラファルガー広場にも数千人、小雨の降るパリのエッフェル塔広場には約二十万人、晴れ渡ったニューヨークのセントラルパークには三十万以上の人が詰めかけ、さらに衛星中継で世界中の人がこの舞台を見守っていた。


 舞台の中央に司会を務めるラルフが登場すると、地を揺るがす歓声と大きな拍手が沸き起こってコンサートが始まった。ラルフは中央で少し俯いて笑みを漏らしてから静かに、まず舞台の後ろの大きな花のオブジェを示した。

「この綺麗な花のオブジェは、皆さん良く知っているフラワーアーティストのデイジー・コーナーの作品です」

 ラルフは美しく咲き乱れる花を見て微笑んだ。

「彼女がニナと子供の頃からの親友だった事を知っている方も多いと思いますが、デイジーがニナに救われた一人だという事を知っている人は少ないでしょう」

 客席の一番前に座っていたデイジーはハンカチに目を当てて夫に寄り添っていたが、静かに顔を覆った。

「デイジーは羽を捥がれて地に落ちて闇に沈んでしまうところを、ニナの歌に助けられてこうしてまた飛び立つ事が出来ました」

 静かに語るラルフの話を、しんとなった会場で皆目を向けて黙って聞いていた。

「ニナの歌によって平穏と力を授けられた人はデイジーだけではありません。今日はその人々が、ニナに感謝を捧げます。勿論、僕もその一人です」

 そしてラルフは一人の人物を壇上に呼んだ。


 静かに微笑みながら中央のラルフと握手をしたのはアンダーソン医師だった。ラルフに促されて中央のマイクの前に立った医師は、少し恥ずかしそうに「僕は医師なので、歌えません」と苦笑した。

「なので、僕の好きな聖書の一編をニナに捧げます」

 そう言うと、よく通る優しい声で聖書の一編を朗読した。静かな拍手が会場に響き渡ってそれが静まるとアンダーソン医師は微笑んで話を続けた。

「僕には、生涯忘れる事の出来ないニナの歌があります。ニナが歌った『Bring him home』です」

 その言葉に会場がざわついた。ニナが公式の場でその歌を歌った事が無かったからだ。

「その時の観客は僅か三人でした。僕は幸運にもその中の一人でした」

 客席の一番前でデビッドとリリーと並んで座っていたハドリーがフッと笑みを漏らした。

「僕はその時、彼女の祈りに応えて神が手を差し伸べるのを、信じられない思いで見つめていました」

 アンダーソン医師は遠い目をした。

「それまでの僕は驕り昂ぶっていました。医師という立場で、自分が患者を救ってやっているんだと思っていました。……恥ずかしい事です」

 静かに目を伏せ、また会場を見上げて、

「僕は、神に救いの手を求めて差し伸ばしている患者を、その手が神に届くように支えているに過ぎないんだと思い知りました」

 アンダーソン医師の瞳には強い光が浮かんでいた。デビッドは医師の瞳から目を逸らさずに、ずっと見つめていた。そのデビッドの瞳に揺れる炎も、力強く輝いていた。

「僕は、僕を導いてくれたニナに感謝しています。そして、ハドリー」

 アンダーソン医師は優しくハドリーに微笑んだ。

「これからも僕達は友人だ。いつでも僕のオフィスにお茶を飲みに来てくれ」

 ハドリーは壇上の医師を見上げて、小さく笑って「ああ」と頷いた。頭を下げたアンダーソン医師に暖かい拍手がいつまでも鳴り止まなかった。


 それからニナのために大勢の人が歌を捧げた。ラルフやキース、ケイティ、サンドラ、ジュリー、マートらのニナを見守ってきたカンパニーの面々や、ヒューイ、テッド、サムに引率された施設の子供達や出身者も壇上に上がった。それぞれがニナに対する哀悼と感謝の篭った言葉でニナを送った。


 そしてアルバートは壇上に上がると目配せして直ぐに『アベマリア』を歌った。悲しく慈愛に満ちたアルバートのテノールがニナの安らかな眠りを願って捧げられた。

「きっと最初に歌わないと歌えなくなってしまうと思ったんだ」

 歌い終わったアルバートはマイクを手に苦笑した。そして遠くを見るような目をして、呟くようにぽつりと言った。

「僕にとってニナは、本当に『コゼット』だった。突然目の前に現れた、明日の希望そのものだった」

 と、静かに微笑むと、アルバートは客席のキャシーとジェームズ、アニーを見つめた。

「ただ僕がバルジャンと違っていたのは、僕にはニナを一緒に愛する家族が居たことだ。僕達は家族として、ずっとニナを愛してきた。僕の子供達にとってもニナは優しい姉だった」

 アニーは堪えきれずに、隣の夫に泣き崩れた。ジェームズは涙を浮かべていたが、それでも顔を上げて舞台上の父親を真っ直ぐ見つめていた。

「僕や僕の家族が一生ニナを忘れないように、きっと皆もニナを忘れる事はないだろう。何故なら……」

 アルバートは言葉を切って俯いてから顔を上げて、

「ニナの歌は生涯心から消える事がないからだ。僕たちはニナの歌を、ニナが残した優しい心を一生忘れない。僕達が前へ進んでいくのを、ニナはきっと優しく微笑んで、見守っていてくれるはずだ」

 そこまで言うとアルバートは口から漏れる嗚咽を堪えきれず、苦しそうに眉を寄せた瞳から涙が溢れて、歩みよったラルフと静かに抱き合った。全ての会場で、皆零れる涙を拭いながら静かに拍手を送り続けていた。



 最後に壇上に上がったのはハドリーだった。大きな歓声と鳴り止まない拍手に、ハドリーは会場を見渡して何度も頭を下げた。数分にわたった拍手がようやく収まった時、ハドリーは静かに話し始めた。

「あー。俺はこういうところで話すのは苦手で、きっとうまく話せません」

 と、頭を掻いて苦笑した後で、小さく笑った。

「ニナは役目が終わって、神様に連れ戻されてしまいました」

 それから、ハドリーはゆっくりと会場を見渡して、静かに告げた。

「でも、きっと皆さんニナからの贈り物をもう受け取っていると思います」

 ハドリーの目は静かな光を湛えて穏やかだった。

「皆さんの心の中に届いていると思います。後は皆さんが自分でその種を育てて下さい」

 人々はハドリーの言葉に、戸惑ったように胸に手を当てた。誰もが握ったその手に中に小さく光る種の存在を感じていた。大きさも形も色も人それぞれだったが、確かにそれは存在していた。ハドリーはフッと笑うと、

「ニナの最後の望みは『歌って』でした。だから俺は歌います。これからもずっと」

 そう言って語り終え、静かな会場に音楽が流れ始めた。『アメイジンググレイス』だった。



 ハドリーの静かな歌が始まり、ゆったりと心を揺らすテノールの声が静かに人々の心に染み渡っていった。ロンドンでは小雨が振り出した会場で、その雨が不思議な光を受けてキラキラと輝きながら人々に降り注いだ。パリでは大粒の雨に変わった空の灰色の雲がゆっくりと光り始め、ニューヨークでは、ダイヤモンドダストのようなキラキラと光る小さな光の欠片が、静かに漂い始めた。


 口元に微笑みを浮かべ、遠く、遠く、遥か遠くまでニナの想いが届くように、ハドリーは歌い続けた。

 耳元では優しい囁くニナが居た。ハドリーにはそっと頬を寄せて嬉しそうに微笑んでいるニナの姿が見えていた。ハドリーはそっと心の中で呟いた。

 ――聴いてるだけじゃつまらないだろう。お前も歌え。


 次のフレーズが始まった瞬間、ハドリーが歌っていた主旋律がニナの声に変わった。ハドリーがニナの声を支えるようにハーモニーを奏でると、背後の大型ビジョンには、今壇上に立っているハドリーと、アワードで歌った時のニナの姿が並ぶように映し出された。人々からどよめきが起き、そして一層輝きを増して降りかかる光の粒を手に受け止めながら、皆呆然として見ていた時だった。

 不思議そうに光の粒が落ちていくのを見ていた雨合羽を着た小さな女の子が、足元の地面の水溜りを見て何かに気づいた。そしてゆっくりと空を見上げると、ポカーンと口を開けて小さく呟いた。

「あ、虹だ」

 その声に隣の父親が涙を浮かべた目で空を見上げると、全天に掛かる大きな虹がキラキラとした光を放っていた。

 やがて人々は皆空を見上げて、未だかつて見たこともないような大きな虹を呆然と見上げた。くっきりとした主虹は全天を跨いで七色の光を降り注ぎ、それよりも少し霞んだ副虹は、その主虹を支えるように静かに寄り添っていた。


 虹はロンドンだけではなかった。音を立てて雨が降り陽の光の差さないパリでも人々が呆然と天上の虹を見上げた。燦々とした陽が差し雨の欠片すらなかったセントラルパークでも、皆、口を開けて天上に掛かる大きな二本のアーチを見つめていた。

 その虹は世界の全ての場所で空に大きな橋を掛けていた。雨の降る場所でも、強い風で雪の吹きつける雪原でも、冴え冴えとした月の掛かる夜の場所でも、ありとあらゆる場所で、キラキラとした光を放って確かに存在し続け、ハドリーとニナの重唱が静かに終わっても、虹はしばらく空に輝き続けた。

 もう誰も泣いていなかった。ある者は上気した頬でじっと空を見つめ、ある者は微笑みを浮かべて静かに見守った。ある者は荒れた心に静かに春の風が吹くのを感じ、ある者は凍てつき頑なになった心に暖かい光が差し込むのを感じた。

 誰もが言葉も無く、静かに虹が消えていくのを見守っていた。


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