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二人の絆1

 デビッドが生まれて一年半が経った。

 その間ニナは休養を続け、デビッドの子育てに専念していた。同じ色の瞳でニナとデビッドが顔を寄せ合って笑っている光景は、そこだけほんのりと暖かく明るく光っているようで、ハドリーは微笑みながら胸に溢れる幸せを噛み締めていた。アルバートの家とハドリーの家をお互い行き来しながら、いつも中心にはデビッドが居て明るい笑顔が絶えなかった。ニナは出産後は元の華奢な体に戻ったが、授乳のために大きくなった胸はそのままで、微笑みながらデビッドに乳を飲ませているニナの美しさは、何時見てもただただ見惚れてしまうハドリーだった。


 デビッドが生まれて以降、ニナは急速に成熟していった。思春期を駆け抜けるように体は大人びて、ハドリーが抱く度に輝きを増していった。

 ニナの髪に香る甘い香りを噛み締めながら、心の奥深くまで満たされていくのを感じて、抱くためだけに女を抱いていた頃いつも感じていた寂寥感を思い出してハドリーは苦笑した。

「なぁに? ハドリー」

 ハドリーの表情を見て、ニナが怪訝そうに潤んだ瞳で見つめた。

「いや、何でもない。……ほっぺたがマシュマロみたいだなと思っただけだ」

「ひどいわ、ハドリー。最近は大人っぽくなったって言われてるのに」

 笑って頬を突付いたハドリーに、ニナは頬を赤くしてプクッと脹れた。その顔を見てふっと微笑んだハドリーは、

「……マシュマロが焼けた」

 と、脹れたニナの頬に優しくキスをした。そのまま唇をニナの首筋に滑らせるとニナが小さく吐息を漏らし、後は二人の静かな熱い時間が過ぎていった。




 デビッドが一歳になると少しずつ復帰へ向けて準備をしていたニナだったが、ついに復帰公演のキャストの顔合わせの日がやってきた。ニナは最初ファンティーヌ役でオファーがあったが、前回消化不良だったエポニーヌをもう一度やりたいと、エポニーヌをやる事になっていた。今回ハドリーは同時に上演される『オペラ座の怪人』の方にラルフと共にキャスティングされているので、共演ではなかった。アルバートもオペラのツアー中で、初顔合わせのキャストが多く、ニナは緊張していたが、

「よお! ニナ。おかえり」

 アンジョルラス役のキースがニナの頭を軽く叩いてにっこりと笑うと、

「キース! 久しぶりね。また一緒に出来て嬉しいわ」

 ニナもキースを見上げて嬉しそうに笑った。

 初共演となるバルジャン役のサイモン・ボイドや、キースらとニナが談笑していると、一人の黒髪の青年がニナのところへ微笑みながら近づいてきた。

「やあ、ニナ」

 涼やかなグレーの瞳で、長身の青年がニナに微笑み掛けながら右手を差し出した。

「あ、初めまして。ニナ・フェアフィールドです。宜しくお願いします」

 丁寧に挨拶するニナに、青年は苦笑した。

「マリウス役のレイモンド・ブラウンだ。レイと呼んでくれ。……ニナ、君に最初に会った時には、君はマイクに背が届かなくて、子供用のマイクで歌ったんだよ。覚えているかい?」

 キョトンとした顔で見上げるニナに、レイモンドは微笑みながら言った。

「僕も君と一緒にアカデミーに居たんだ。もう、覚えてないかもしれないけど」

 その時ニナの脳裏に、自分が抱えた沢山の本を奪って笑いながら「運んでやるよ」と駆けて行った黒髪の男の子の姿が浮かんで、ニナは驚いて目を見張って叫んだ。

「あ! あの時の!」

 レイモンドが嬉しそうににっこりと微笑んだ。


 レイモンドはアカデミーでのニナの同級生だった。ニナより一歳年上のレイモンドは、僅か五ヶ月でアカデミーを巣立っていったニナを見送った後、一年間のアカデミーを卒業して、主に地方のアンサンブルやプリンシパルを経験して、今はシェフィールドにある小さな劇場を拠点に活動していた。

「へえ。ゴードンクラウン・シアターか。じゃあフレッドのところだな」

「フレッド?」

 その日帰宅したニナが顔を輝かせて旧友と再会した事を報告すると、ハドリーが思い出したように呟いた。

「ああ、研修生時代に一緒だった奴だ。暫く一緒に地方回りしてたんだが、地方の舞台の面白さに目覚めてな。そのまんまそっちで、今はプロデュースやら監督やら演出やら、何でもやってるようだ。昔から才能はあったな。天才肌だ。まぁ、変わりもんだったけどな」

「ハドリーよりも変わってたの?」

「おい……」

 一緒にキッチンに立って食事の支度をしていたハドリーはニナのさり気無い一言を聞き逃さずに、キャロットを擂り潰しながら睨んだ。慌てて目を逸らしたニナが、「あ、デビッドが……」と言いながらベビーサークルに居るデビッドの方へこそこそと逃げると、ハドリーがフッとため息をついて笑った。

「意地悪しないから戻って来い」

 ニナが恥ずかしそうに戻ってきて上目遣いでハドリーを見上げると、

「でも、お仕置きはする」

 と、ハドリーはニナを抱きかかえて、そのまま唇を重ねた。


 賑やかな夕食を終えてデビッドを寝かしつけたニナが居間へ戻ってきて、ハドリーの隣にちょこんと腰を下ろすと、思いついたようにハドリーを見上げた。

「そういえば、地方の舞台の面白さってどんな事なの?」

 台本を読んでいたハドリーは、顔を上げて「そうだなぁ」と考えた後、

「一人が何役もこなすんだ。まず俳優は全員が演出家だな。全員で意見を出し合って、演技構成を決めていく。中央みたいに専門の演出家はまず居ない。凄いぞ。喧嘩になる事もしょっちゅうだが濃密だ。そして、それは観客もだ。小さなシアターだと、まるで観客も舞台の一部のように劇場中が舞台になるんだ。うまく型に嵌った時の一体感は爽快だぞ。舞台と観客席の間も近いからな。細かい表情まで見られるから、手を抜けない。だがその分の達成感は何物にも変えられないな」

 ハドリーが上を見ながら微笑んで説明すると、ニナは感心したようにホーッと息をついた。

「俺もそういうところで揉まれてきたからな。今でも口を出す。まぁ、これはもう変えられん」

「私もそういう体験してみたかったわ」

 ニナがちょっと悔しそうに唇を噛んだ。

「お前は最初から、レミゼの特別公演、中央のTOPからのスタートだったからな」

 ハドリーが優しくニナの頭に手をやった。

「だが、それで良かったと思うぞ、俺は」

「どうして?」

 怪訝そうなニナの顔を見下ろして、ハドリーは微笑んだ。

「お前には最初からハンデがいくつもあった。地方では一つの公演の中での余裕の無さは中央以上だ。マートを見て倒れてたお前に対して、台本を変えてやる余裕などなかったろう。それに……」

「それに?」

 言葉を濁したハドリーを覗き込むようにニナが訊ねると、

「地方では、スポンサーもつかない。公演の度にスポンサーを探すのが大変なんだ。だから、女優が枕営業したりする事もある。お前には出来なかっただろう」

 ハドリーが眉を顰めて、少し悲しそうに呟いた。

「枕営業って?」

「スポンサーになって欲しい相手と、そのために寝ることだ」

 その言葉にニナは青くなった。

「そんな事まで……」

「そうだ。これが地方の現実だ。だが、中央ならそんな事はせずに済む。だから、お前は最初から中央で運が良かったんだ」

 ハドリーはそっとニナの頭を抱き寄せて、

「そうでなかったら、お前は地方の病院で、まだ目覚めないまま眠っていたかもしれないんだ」

 悲しそうなニナを静かに抱き締めた。




 そして、ニナの復帰公演のリハーサルが始まった。ハドリーが言っていたように、レイモンドは今回が中央での初めての舞台であるにも関わらず、臆する事無く積極的に意見を述べていた。いつも演出家のジョージや監督のルイスと真剣に話し込んでいるレイモンドを遠くから見て、ニナは遠い日の自分を思い出していた。初舞台の時、自分の姿を見掛けると逃げるようになったジョージの事を思い出して、ニナは小さく笑った。


「ニナ。ハイヤーが捕まらないわ。後一時間は来れないそうよ」

 その日のロンドンは激しい雨が降っていて、楽屋で帰り支度を終えて待っていたニナの元に、リンダが困った顔をしてやってきた。

「困ったわ……デビッドをアルの家に迎えに行かないといけないのに」

 ニナがため息をついていると、

「ニナ。送ろうか?」

 楽屋を覗き込んだレイモンドが微笑みながら声を掛けてきた。

「でも、レイはロンドン市内のホテルじゃなかった?」

「ああ。でも、移動用に車を借りてあるんだ。ハイヤーやタクシーよりも安上がりなんでね」

 レイモンドはウィンクして笑った。

 

 帰りの車の中で、ニナとレイモンドは昔の思い出話で盛り上がっていた。

「初めて皆で舞台を見に行った時、君、劇場の係員に『子供一枚ですね』って言われてたな」

「そうそう、そうだったわ。そのまま子供で入っちゃったほうがお得だったかしら」

 ニナもレイモンドも顔を見合わせて笑った。

「この辺りかな?」

「そこを左に曲がって、三軒目がアルの家よ」

 少し先の角をニナが指差した時、レイモンドが静かに車を止めた。

「レイ?」

 暫く真顔で黙ったままだったレイモンドが、俯くとゆっくりと話し始めた。

「ニナ。僕がこの公演のキャストに選ばれて、どれだけ嬉しかったか君に分かるだろうか」

 ニナは怪訝そうにレイモンドを見つめた。

「君はあっという間にアカデミーを巣立って、中央の、しかもTOPを駆け上っていってしまった。本当にあっという間に、君は手の届かない人になってしまった」

 レイモンドは顔を上げて寂しそうな遠い目をしていた。

「僕は、地方で歯を食いしばって頑張っていた。何時か、また何時か君に会えるまで。君と一緒の舞台に立てるようにと、ずっとチャンスを待っていた」

「レイ……」

「だが、君は不幸な事件に巻き込まれて、傷ついて眠ってしまった。僕は悲しみで胸が張り裂けそうだった。だから……僕も歌いに行ったんだ、ロンドンまで」

 そしてレイモンドはニナを振り返って、静かに見た。

「君が目覚めるようにと、あの時僕もあそこに居たんだ」

 ニナが目を見張って、悲しそうなレイモンドの瞳を真っ直ぐに見て、

「レイ……貴方も、貴方も祈ってくれていたのね」

 と小さく呟くと、レイモンドは微笑んで頷いた。

「だけど、君はまた手の届かないところまで飛んでいってしまった。君は……ハドリー・フェアフィールドの物になってしまった」

 その言葉にニナが動揺して目を逸らした。レイモンドが何を言いたいのか、ニナには解った。だが、もうそれは遅すぎるものだった。

「ハドリーは尊敬できる素晴しい役者だ。とても僕では敵わないと思った。もう君を諦めるしかない、とそう思ったんだ。そうずっと思っていたんだ」

 レイモンドは目を逸らすニナに動じず、目線を逸らさなかった。

「でも、僕にもチャンスが来た。僕も力をつけてここまで這い上がってきた。だから、臆する事なく君に告げようと思う」

 そしてレイモンドは真剣な顔で、ニナに向って真っ直ぐに告げた。

「ニナ。君を愛している。アカデミーの頃からずっとだ。ずっと愛している」

「レイ、ダメよ。私はハドリーを愛してるの」

 レイモンドの真剣な告白に、ニナは目を合わせられないまま首を振って辛そうに目を閉じた。

「解ってる。それに、僕は君が嫌がるような事を無理強いはしない。けれど、どれだけ君を愛しているのか、この公演で僕は証明してみせる」

 その言葉に、ニナは顔を上げてレイモンドを見上げた。レイのグレーの瞳には炎が揺れていた。その炎を見てはいけない気がして、ニナはまた目を逸らして俯いて首を振ると、

「……レイ。送ってくれてありがとう。ここでの事は聞かなかった事にするわ」

 そう言うと車のドアを開けて、そのまま雨の路上に飛び出して駆け出していった。

「ニナ!」

 レイモンドもドアを開けて路上に立ち上がったが、去っていくニナを追わずに、悲しそうにその後ろ姿を見つめているだけだった。




 翌日の舞台練習はマリウスとエポニーヌによる『A Little Fall of Rain』だった。レイモンドと顔を会わせ辛いニナは、演技に集中するように心を落ち着かせて演技をしていたが、レイモンドが途中で止めた。

「違う。こうじゃないと思うんだ」

 その言葉にニナも、演出家のジョージも顔を上げてレイモンドを見た。

「マリウスは何故『愛の言葉で君を癒せたら』と言うのか、深く考えてみたか? 彼は血まみれのエポニーヌを見て、初めて彼女が自分に寄せていた想いに気づくんだ。この言葉はそんなエポニーヌに対する同情の言葉か? いや違う。この瞬間では、マリウスはエポニーヌを愛しているんだ。愛おしく思っているんだ。愛を持って最後までエポニーヌを見守る決心をしているんだ。エポニーヌもそのマリウスの想いを受け取っているからこそ、『Pain』が『Rain』に変わるんだ。その二人の想いの昇華がもっと必要なんじゃないか?」

 レイモンドはウロウロと舞台を行き来しながら、口に手を当てて考え込むように呟いた。

「なるほど」

 じっと聞いていたジョージも小さく頷いた。

「でも……」

 ニナが座り込んだまま、戸惑ったように小さな声を上げた。

「エポニーヌの愛は、届かないからこそ『真実の愛』として表現されているものだと思うわ。叶ってしまうと意味が違ってくるわ。叶わない、けれどマリウスに向って真っ直ぐに向けられる、それがエポニーヌの愛なんじゃないかしら。それに、その演出だと、次の『Drink with me』のマリウスの歌詞に繋がらないわ。マリウスがコゼットへ向ける愛が嘘くさくなってしまうわ」

「そうでもない。ニナ」

 レイモンドがじっとニナを見つめた。

「彼は愛を持ってエポニーヌを見取った。自分が死ぬ時にコゼットが泣いてくれるだろうかという台詞は、自分にコゼットからの『真実の愛』が向けられているかという問いなんだ。そしてコゼットはその問いに対して、『生きて向き合う事こそが重要だ』と返すんだ。それこそが『明日の希望』なのだと。その愛に気づいたマリウスは、そこで目の前のコゼットの存在を思い出して『コゼット』と返すんだ」

 ニナは黙ったままレイモンドを見上げた。グレーの瞳にはやはり炎が燃えていた。もうニナはその炎から目を逸らす事が出来なかった。

「よし、レイ、一度それでやってみよう。もう一度だ、ニナ」

 ジョージが手を上げて賛成し、スタンバイを促した。


 もう一度『A Little Fall of Rain』が始まった。レイモンドの腕に抱かれ瀕死のエポニーヌを演じていたニナだったが、レイモンドがまた止めた。

「ニナ。違う」

 レイモンドの言葉にニナは黙って、レイを見上げた。

「真剣にマリウスの愛を感じているか? エポニーヌは」

 静かな瞳だった。ニナはそっと目を逸らして辛そうに目を閉じてから、また決心したように目を開けた。その鳶色の瞳にも静かな炎が浮かんでいた。

「もう一度お願いします」

 見つめ合って歌う二人だけの世界がそこには有った。舞台には静かに目に見えない雨が降り注いでいた。エポニーヌが力尽き静かに横たえられ舞台が廻って去っていくと、魂を昇華させて天へ駆け上るエポニーヌの姿が浮かんで、その姿を悲しそうに見送るマリウスが居た。誰もが言葉も無く、最後の別れをした二人を悲しそうに見つめていた。

「よし。最高だ。最高だよ、レイ」

 ジョージが顔を紅潮させて、OKの合図を出した。舞台中から、安堵と感嘆のため息が漏れた。ニナは舞台裏に廻って横たわったまま目を固く閉じて開ける事が出来なかった。レイモンドの瞳がニナの心を掴んで離そうとしなかった。これはハドリーが言っていた『地方のやり方』の濃密なリハの一つなだけなんだと、自らに必死で言い聞かせようとしていたニナの心の中には、ハドリーへの愛とは別の新しい炎が揺れていた。



 それからもレイモンドの意見を取り入れて、演出が更に濃密になっていった。遅くまで、皆興奮したように意見を出し合った。誰もが『この舞台は歴代のレミゼの最高の舞台になる』と確信を抱き始めると、凝縮され研ぎ澄まされたリハの空気がニナを包み込んで体中の血を滾らせた。今までのリハでは感じた事の無かったような、燃え上がるような興奮だった。

 その日、『A Heart Full of Love』のシーンを練習中、ニナはコゼット役の新人のローラをじっと見ていた。マリウスを嬉しそうに見てキョロキョロとするコゼットを見て、ニナは内心思っていた。

 ――違うわ。私ならあんなに恥ずかしそうにキョロキョロしない。真っ直ぐにマリウスだけを見つめるわ。

 レイモンドに見据えられて頬を染めているローラに、ニナの胸が痛んだ。

「ローラ。違う」

 レイモンドがまたダメ出しをした。

「コゼットがキョロキョロしすぎだ。コゼットが初めての恋に戸惑うシーンは終わった。もうコゼットはこの恋に対して、向き合っている。ここはマリウスを真っ直ぐに見つめて決意をする場面だ」

 ニナがはっと顔を上げた。自分とレイモンドは同じ道を見ていると思ったニナの心の炎が、また妖しく燃えた。

 ――私を見て。私に気づいて。コゼットを見ないで。

 ニナの悲痛な想いが乗ったエポニーヌの声が悲しく響いて、劇場の空気が静かに揺れた。


 

 それからのニナは、毎日遅くまで残って練習を続けていた。僅かな睡眠しか取らないニナはやつれた顔をしていたが瞳だけは異様にギラギラとさせていて、そんなニナをハドリーは心配したが、ニナは充実した瞳を燃え上がらせて遠くを見たまま呟いた。

「大丈夫よ。この舞台は最高になるわ。最高にしてみせるわ」

 ハドリーも舞台のリハで遅くなる事が多く、デビッドはキャシーに預けっ放しの事が多かったが、ニナは余りデビッドの事を話さなくなった。家に帰っても台本を見てばかりで、家事もデビッドの世話もお座なりになっていった。たまにハドリーが誘っても、夜も断るようになった。ハドリーから目を逸らすように拒否するニナに、ハドリーは困惑した。舞台の事だけしか考えていないようだったが、ニナはその舞台でのレイモンドの事を家では話さなくなった。その様子にハドリーは眉を寄せて考え込んでいたが、小さくため息をついた。


 その日も遅くまでリハルームでレイモンドと話し込んでいたニナだったが、気づくともう人も疎らで夜が更けていた。

「あ、デビッドを迎えに行かないと……」

 寂しそうにニナが呟くと、レイモンドが微笑んだ。

「送るよ。ニナ」

 だが、ニナは首を振って立ち上がった。

「いいわ。ハイヤーを呼ぶから」

「けど、今日も外が凄い雨だ。これからハイヤーを呼ぶともっと遅くなる。素直に送られろ」

 レイモンドがニナの手をそっと取ったが、ニナは静かにレイモンドの手を外した。

「いいえ。私は……」

 俯いて顔を逸らしたニナの耳元で囁くように、

「仕度をして来い」

 と、言って、レイモンドはニナの肩を叩いてリハルームを出ていった。

 戸惑ったように立ち尽くして俯いているニナを、反対側の出口から静かにリンダが怪訝そうに見つめていた。


 レイモンドはまたアルバートの家の手前の角で車を止めたが、ニナはずっと黙ったまま俯いていた。レイモンドの顔を見るのが怖かった。一旦見てしまうともう目を逸らせないと分かっていた。

「ニナ」

 レイモンドがそっと呟いた。ビクッと体を震わせたニナの膝に置かれた手を、そっとレイモンドは手に取った。ニナはその手を振り解く事がもう出来なかった。

「もう僕の車には乗ってくれないと思っていたけど、君は来てくれた。僕の気持ちは伝わっているか」

 静かなレイモンドの問い掛けだった。ニナは顔を背けて震えていたが、逃げ出す事もなくただ黙っていた。

「ニナ。僕を見てくれ」

 レイモンドが掴んだ手を引き寄せて、ニナの頬に手を当て自分の方を向けさせた。怯えたニナの瞳には涙が浮かんでいたが、レイモンドのグレーの瞳に魅入られると、ニナはじっと見つめたまま「レイ……」と小さく呟いた。

 レイモンドは優しくニナの頬に添えた手に力を込めると、顔を寄せた。もう逃げられない、そう悟ったニナは、諦めたように瞳を閉じてレイモンドのキスを受け入れた。一旦唇を重ねると、ニナの心の炎が大きく燃え上がった。レイモンドがニナを抱き寄せると、ニナもレイモンドの首に腕を絡めて二人は激しく抱き合った。何時までもこうしていたい、レイモンドと一緒に居たい、ニナの心にはこの瞬間レイモンドだけが存在していた。

 後ろから接近して来た車のヘッドライトの明かりに照らされて、二人はハッと気づいたように体を離した。やがてニナは悲しそうに首を振って、車を降りると土砂降りの雨の中を駆け出して行った。


「ニーナ! どうしたの? またびしょ濡れじゃないの。言ってくれれば迎えに行ったのに」

 ずぶ濡れでポーチに俯いて佇んでいるニナを見て、キャシーが驚いて眉を寄せた。

「キャシー、遅くなってごめんね。デビッドは?」

「もうハドリーが迎えに来たわ。今タオルを持ってくるから」

 慌ててタオルを取りに戻ろうとするキャシーを止めて、

「大丈夫よ。ごめんね、キャシー。家へ帰るわ」

 ニナはまた雨の中駆け出して行ってしまった。

「ニーナ!」

 キャシーが玄関先まで追いかけて、走り去ったニナを心配そうに見ていた。


 その頃、アルバートの家の先で止めた車の中で、リンダが唇を噛んでいた。さっきヘッドライトの明かりに一瞬浮かび上がった、抱き合う二人の姿が脳裏から離れなかった。まさかこんな事になっているとは思わなかったリンダは、頭を抱えて悲しそうに呟いた。

「ニナ。一体どうしちゃったのよ」



 

 ずぶ濡れで帰ってきたニナを見て、ハドリーも目を丸くして驚いた。

「ニナ。何やってんだ。風邪引いたらどうするんだ。もう本番近いんだぞ」

「ごめんね、ハドリー。遅くなって」

 ニナは俯いたまま赤い顔をして、小さく呟いた。

「お前、熱が有るんじゃないか。顔が赤いぞ」

 ハドリーがニナのおでこにぶつけるように自分のおでこを寄せると、ニナはハッとしたように体を引いた。ハドリーがそんなニナを怪訝そうに見ていると、

「大丈夫よ。でも万が一風邪だったら、デビッドにも、貴方にも移したら大変だわ。バスを使ったら直ぐに自分の部屋で寝るわ」

 ニナはハドリーを見ずに、玄関を上がるとそのままバスルームに飛び込んでいった。

「ニナ……」

 ハドリーはニナを振り返ったが、それ以上何も言わなかった。だが、眉を寄せて考え込んだ表情のハドリーは、もうニナに起きた異変に気づいていた。ニナが自分から飛び立ってしまった、そう悟ったハドリーは、黙ったまま玄関先に立ち尽くしていた。


「ニナ。大丈夫か?」

 翌朝、先に出るハドリーがニナの部屋を覗いたが、ニナはまだ布団に包まって辛そうな顔で体を横にしていた。

「ええ」と小さく返事をするニナに、ハドリーはため息をついて、

「デビッドは俺がキャシーんとこに預けに行く。だが、今日は俺も遅いからお前早く帰って来いよ。体調が悪いなら休め。それも舞台では大事な事だ」

 ハドリーはニナの頭をそっと撫でた

「……ありがとう。ハドリー」

 ニナは顔を上げずに、目を閉じたまま辛そうに返事をした。暫く黙ってニナを見下ろしていたハドリーは、小さく息をつくとそっと部屋を出ていった。遠ざかるハドリーの足音を聞きながら、

「……ごめんね。ハドリー」

 ニナは固く閉じた瞳から一筋涙を溢して、小さく呟いた。



 

 その朝、キャンベルが珍しくミーティングルームに居た。此処のところ大口のスポンサーの所を廻るので忙しかったキャンベルは余り舞台稽古には参加出来ないでいたが、この日は眉を寄せて静かに待っていた。

「ご用件は何でしょうか、キャンベル」

 そこへ静かにレイモンドが入って来た。夕べ、リンダからの報告を受けたキャンベルは翌朝直ぐにレイモンドを呼び出したのだった。

「そこへ掛けてくれ、レイ。それで、君とニナの事なんだが」

 キャンベルが眉を寄せて切り出すと、レイモンドはキャンベルの向かいに腰を掛け、黙ったままキャンベルを静かに見つめた。

「君達が好ましくない関係にあるとの情報が入ったんだが、本当か?」

「好ましくないというのは?」

 厳しい目のキャンベルに対して、レイモンドは冷静に問い掛けた。

「知っているだろう。ニナには夫が居る。子供も居る。君達の間を好ましいと思う人は居ないと思うが」

「それが所謂不倫という関係ならそうでしょう。でも不倫で無かったら?」

「どういう事だ」

「僕とニナは、真剣に愛し合っているという事です。僕はニナをハドリーの手から取り戻した。それだけです」

 レイモンドの瞳は真っ直ぐにキャンベルを見て揺るぎが無かった。そのレイモンドをキャンベルもたじろぐ事なくじっと見返していたが、

「本人達がそう思っていても、他の人間は誰もそう思わないという事だ、レイ。君達の関係が明らかになればこの公演は成功しない。それを分かっているのか」

 と、レイモンドに冷たい声で言った。

「……それで、貴方はどうしたいのですか」

 レイモンドは目を閉じて静かに訊いた。

「君がニナを諦めるか、ニナの元から去ってもらうかだ」

 キャンベルの言葉は氷のようだった。レイモンドは黙って考え込んでいたが、暫くして顔を上げた。静かな、だが、決意に満ちた眼差しだった。

「分かりました。僕が去るしかないようだ」

 そして、そのまま立ち上がると、憮然としたキャンベルを残して、レイモンドはミーティングルームを静かに出て行った。


 

 まだ少し青い顔したニナがそれから暫くして劇場に到着すると、行き成り廊下でローラが泣きながらニナに抱き付いてきた。

「ニナ! 聞いた? 有り得ないわ、こんな事。有り得ないわ!」

「どうしたの? ローラ。何があったの?」

 ニナに抱き付いて泣きじゃくるローラをそっと抱き締めながら、困惑したニナが訊ねると、

「レイが降板なの。理由は分からないんだけど、『降りる事になったから』って、さっきレイが……」

 ローラは涙を浮かべた目でニナに訴えた。それを聞いたニナの瞳が大きく見開かれ、驚いたように小さく首を振っていたニナは、やがてキッと顔を上げるとローラを突き放して廊下を駆け出した。

「ニナ!」

 戸惑ったようにローラが叫んだが、ニナは真っ直ぐミーティングルームに走っていた。


「キャンベル!」

 ミーティングルームのドアをノックもせずにバタンと開けたニナに、キャンベルは伏せていた顔を上げてニナを見た。

「ニーナ……」

 悲しそうな顔でニナを見ているキャンベルの目の前までつかつかと歩み寄ると、ニナは怒りの表情でキャンベルに詰め寄った。

「どういう事? レイが何故降板なの?」

「ニーナ。君は分かっているだろう」

 キャンベルは眉を寄せて苦虫を噛み潰したような顔で、ニナを見据えた。

「私達の事で? でもそれは舞台には何の関係もないわ。レイのお陰で今回の舞台は最高の物になるところだったのよ!」

 ニナの顔には少し隈が浮き、怒りで紅潮した頬を歪ませていたが、鳶色の瞳だけはギラギラとした憤怒の光を帯びて妖しく光っていた。今まで見た事がないような形相で激怒するニナの予想もしなかった反応に、キャンベルは困惑して目を見開き戸惑って眉を寄せた。

「ニーナ。お前、何を言ってるのか分かっているのか?」

「ええ。勿論よ。私はレイを愛してるわ。だけど、それが何だって言うの? そんな些細な事で、レイを降板させるなんて有り得ないわ。直ぐに撤回して頂戴」

 ニナは冷たくキャンベルを見下ろして言った。益々困惑するキャンベルは首を振りながら、

「いや……ニーナ。落ち着け。落ち着くんだ。君達の関係が明らかになれば、この公演は成功しないんだぞ? そんな危険を冒す事は出来ないんだ。ニーナ、冷静になってくれ」

 と、立ち上がってニナの肩に手を置いて、優しく説得するように話し掛けた。だが、ニナはそのキャンベルの手を冷たく振り払い、キャンベルを鋭い目で睨んだ。

「ニーナ……」

 払われた手を呆然と見ながら呟くキャンベルに、ニナは怒りで顔を歪めながら言い放った。

「貴方は私を娘だと思ってるから、レイが私を誑かしたと思ってるんだわ。そして私がニナ・フェアフィールドだから、首を切りやすいレイの首を切ったんだわ。でも、それは大きな間違いよ。レイこそがこの舞台に必要なのよ。練習も見に来てない貴方には分からないのかもしれないけど」

「違うぞ! ニーナ。この舞台には君が必要なんだ! 君の、君の復帰公演なんだぞ? 分かってるのか?」

 動揺したキャンベルが叫ぶと、ニナはキャンベルを睨んだまま冷たく言った。

「レイが出ないなら私も出ないわ。最高の物が出来る筈だったのに、中途半端な舞台なんて出来ないわ。私も降りるわ」

「ニーナ! 落ち着くんだ!」

「キャンベル。貴方は私情で、今後ミュージカルを支える貴重な人材を失ったのよ。貴方はこの先、生涯後悔する事になるわ」

 ニナはそれだけ言うと、キャンベルに背を向けて部屋を出ようとした。

「ニーナ! 待ちなさい!」

 キャンベルがニナの手を掴んで引き止めると、ニナはその手を乱暴に振り払った。

「私はもう貴方の指示には従わないわ! キャンベル、貴方は私も失ったのよ」

 ニナの瞳は氷のように冷たく、キャンベルの心を凍てつかせた。呆然と立ち尽くすキャンベルを残して、ニナは黙ってミーティングルームを出ていった。

「ニーナ! ニーナ……」

 その場に泣き崩れたキャンベルは、そのまま動く事が出来なかった。


 ミーティングルームを出たニナを、リンダが眉を寄せて悲しそうな目で待っていた。

「ニナ」

「……リンダ。貴女がキャンベルに進言したのね」

 悟ったニナが静かにリンダに語り掛けると、

「ニナ。目を覚ましなさい! 貴女は少し違うタイプのレイに、惑わされているだけなのよ!」

 リンダはニナの手を掴んで、訴えるようにニナの瞳を覗き込んだ。

「リンダ。貴女は分かってないわ」

 ニナが怒りを込めてリンダを睨むと、リンダは思わずニナの頬を平手打ちした。パーンという乾いた音にニナはキッと顔上げると、躊躇う事無くリンダの頬を同じように平手で殴り返した。

「……ニ……ナ……」

 赤くなった頬を押えてリンダが呆然と呟くと、ニナはリンダの手を振り払って怒りの満ちた目で見上げると、

「さよなら、リンダ」

 と、言い残してリンダを振り切って、そのまま足早に去って行った。

「ニナ!」

 リンダも動く事が出来ずに立ち竦んでいたが、力なく座り込んで涙を溢しながら、去っていくニナを呆然と見つめていた。




 ニナは劇場を出るとそのままレイの滞在先のホテルへ向ったが、レイモンドはもう帰り支度を始めているところだった。突然現れたニナを見て、それも予測していたかのように冷静にレイモンドはニナを迎えた。

「ニナ、残念だったな。いい舞台が出来るところだったのに」

 静かなレイモンドの瞳を見つめていたニナは、涙を浮かべるとレイモンドに抱き付いて泣いた。

「ごめんね、レイ。私の所為で。私の所為で貴方が追われてしまうなんて」

「いいんだ、ニナ。分かっていた事なんだ。また一からやり直しだ。と言っても、もう君に会えるチャンスは無いかもしれないが」

 レイモンドはニナの髪を優しく撫でながら、そっと囁いた。

「いいえ、有るわ」

 ニナが顔を上げて涙に濡れた瞳でレイモンドを見上げた。

「私も降りたわ。もうこの舞台には出ない。貴方と、貴方と一緒に舞台を作りたいの」

 ニナの強い意志の篭った瞳に、レイモンドは驚いたようにニナを見下ろした。

「貴方と一緒に居たいの。私も連れていって」

 ニナは真っ直ぐにレイモンドを見つめて言った。

「ニナ、君と一緒なら、何処ででも最高の舞台が作れる。本当に僕と一緒に来てくれるのかい?」

「ええ、一緒に連れて行って。愛してるわ、レイ」

 そして、二人は顔を寄せ合うと、抱き合ったまま激しく唇を重ねあった。

 

 ニナとレイモンドはそのまま二人でホテルを後にすると、列車でシェフィールドへ向った。ロンドン中部の中核都市に降り立つと、レイモンドは肩を抱いたニナにそっと語り掛けた。

「ニナ、済まないが少し整理がつくまで、ホテルに滞在してくれないか。きっとマスコミも嗅ぎつけてくる。僕の家ではマズイかもしれない」

「……そうね。その方がいいかもしれないわ」

 レイモンドの言葉にニナは同意して、人目につき難い裏通りの小さなホテルを取った。奥まった静かな部屋で、何も荷物もないままニナはベッドに静かに腰を下ろした。そこで初めて置いてきたデビッドの事を思い出し、胸の張るような痛みを感じて、ニナは胸に手を当てて辛そうに目を閉じた。

「ニナ、子供の事を考えているね」

 レイモンドがそっとニナの髪を撫で、悲しそうに見つめた。

「ええ。でも、私は貴方を選んだのよ。もう後戻りは出来ないわ。忘れるしかないわ」

 涙が浮かんできたニナの鳶色の瞳を悲しそうに見ていたレイモンドは、

「ニナ、済まない。でも、僕には君が必要なんだ」

 と、そのままニナを抱き寄せてニナの小さな体をベッドに押し倒して、髪や頬を優しく撫でながら口付るとニナのシャツのボタンを外して、白い胸元に口を寄せた。

「レイ……愛してるわ」

 脳裏に浮かぶデビッドやハドリーの面影を消し去ろうと、ニナはレイモンドの首に腕を絡めて、目の前のレイモンドだけをひたすら見つめていた。レイだけを感じていたい、あの舞台の興奮だけを感じていたいと、レイモンドを受け入れながら、ニナはそれだけを思っていた。胸元の小さなペンダントは、光を失ったように鈍いくすんだ色をして小さく揺れていた。


 一方の劇場では大混乱に陥っていた。ニナが降板する事で舞台開催の目処が立たなくなり関係者が対応に追われ、そして、QCで『ファントム』のリハ中だったハドリーがキャンベルに呼び出された。

 大まかな話を聞かされたハドリーは、自分の懸念が当たっていたとぼんやりとした頭で思っていた。もうニナは戻って来ない、そう思えばレイモンドに対して怒りが沸いていい筈なのに、不思議とハドリーの心は凪いでいた。ニナが望んだんだ、ニナがレイと一緒に生きる事を望んだんだ、そうさせてやるしかないと、移動の車の中で、ハドリーの頭の中にはそれだけが浮かんでいた。

 ――俺は動く事の出来ない大木だ。蝶が戻ってくるのを待つしかない。

 遠くで羽をひらひらとさせて美しい大きな黒い揚羽蝶と舞っている青い蝶を、ハドリーは悲しい目で見つめていた。


 劇場のミーティングルームの中を苛立ちながら歩き廻って真っ青な顔で手を震わせていたキャンベルは、ハドリーを見るなり叫んだ。

「ハドリー! ニナを連れ戻せ!」

 ハドリーは眉を寄せてキャンベルを見ていたが、静かに言った。

「さっき聞いた通りなら、ニナはおそらく戻って来ないだろう」

「馬鹿か、お前は! 妻を寝取られたんだぞ! 何言ってんだ!」

 今度は顔を赤くして叫ぶキャンベルに、

「ニナは自由だ。誰を選ぶのかはニナが決めることだ」

 と、ハドリーは悲しそうにキャンベルを見た。

「デビッドは……デビッドはどうするんだ? 母親の居ない子供にするつもりか?」

「何れ、ニナと話し合う必要があるだろう」

 キャンベルが顔を覆って苦しそうに言葉を吐き出すと、ハドリーは遠い目をした。

「それよりも、今はこの公演の後始末の方が先だ」

 冷静なハドリーの言葉にキャンベルが顔を上げると、ハドリーは静かに呟いた。

「復帰公演の主役が降板じゃ、中止するしかないだろう」



 

 翌日、ホテルの小さなラウンジでニナは一人座って通りを眺めていた。人の居ないラウンジで冷めたティーカップを前に、ニナは余り人の通らない裏通りを静かに見つめていた。レイモンドは受け入れ準備が整ったらニ~三日後に迎えに来る、と言って昨日ホテルを後にしていた。

 デビッドやハドリーの事を思い出さないようにしていたニナだったが、いつも耳元では自分を呼ぶデビッドの声やハドリーの優しい歌声が響いていた。心を裂かれるような想いを何時かは忘れる事が出来るんだろうか、とニナはぼんやりと思った。

 その時、通りからニナをじっと見ている視線に気づいて顔を向けたニナの視線の先に、自分が居た。目を見開いたニナの視線の先には、自分と同じぐらいの身長で、同じ栗色のクルクルの髪をして、悲しそうにニナを見つめている華奢な女性が佇んでいた。まるで自分にそっくりなその女性は瞳だけが黒かった。その黒い瞳には涙が浮かんで、ただ悲しそうにニナを見つめていた。驚いたニナが腰を浮かすと、ハッと気づいたその女性は、涙を拭うように瞳を覆って駆け去って行った。ニナは呆然として、しばらくその場に立ち竦んだまま動けなかった。


 次の日もニナはラウンジで一人レイモンドを待っていた。今日はあの女性は現れなかったが、ぼんやりとしていたニナの前にいきなり一人の男が徐に腰を下ろした。シルバーブロンドの髪をぐちゃぐちゃにして無精ひげを生やした男は、淡い緑の瞳でニナを正面から見た。

「こんなところで、本当にあのニナ・フェアフィールドに会えるとはな」

 男はニナを苦笑して見据えると、怪訝そうなニナに自己紹介した。

「俺はフレッド・ジョーンズだ。此処のゴードンクラウン・シアターで、レイと一緒に舞台を作ってる」

「……ハドリーと研修生の時一緒だったフレッド?」

「そうだ。そのハドリーから連絡が来たんでね」

 フレッドは、手を広げて首を竦めて見せたが、その言葉にニナは怯えたように顔を伏せた。

「それで、貴方は私に戻れと説得するつもりで来たの?」

「まぁ、そうだ。だがハドリーは、君に戻れと言ってくれ、とは言ってなかった」

 ニナが動揺したように顔を上げると、

「ハドリーは、君のしたいようにさせてくれ、ただマスコミも嗅ぎつけたからニナを守ってくれ、それだけ言っていた。だが俺は断った。守りたきゃ自分で守れ、お前がニナを引き取りに来いってな」

 フレッドは真っ直ぐにニナを見て、その瞳には静かな炎が浮かんでいた。

「俺は君に此処に居ることを勧めない。ロンドンに帰れ」

 反論を許さない、強い言葉だった。


「どうするかは自分で決める事よ。誰にも、指示されたくないわ」

 ニナはその強い瞳から目を逸らすように、横を向いて眉を寄せて呟いた。

「……ロンドンでは、地方方式でレイが随分暴れてたようだな」

 フレッドが急に話を変えてソファに寄りかかるとニナをじっと見たが、ニナはフレッドを挑戦的に見返してきつい口調で言い返した。

「そうよ。でも、それで舞台は最高の出来だったわ」

「まぁ、舞台はな。だがニナ。なんで中央は中央のやり方があるか考えた事はあるか?」

 黙り込んだニナに、フレッドは体を起こすとニナを覗き込んだ。

「何処でもあの方式で細かくやれば、役者は充実感のある演技が出来る。でもな、舞台は見に来る観客の物なんだ」

 怪訝そうに顔を上げたニナに、続けてフレッドは言った。

「役者の皺まで見える位置で一体感を求める地方と、大きな会場で舞台の臨場感を求める中央とでは、演じ方も何もかも違うんだ。声の反響も演技の大きさも、全てだ。いくら役者だけ充実感を感じても、観客に伝わらなければ、それはただのマスターベーションだ」

 フレッドの冷たい目に射すくめられたニナは、身動き出来ずに黙ってフレッドを見つめていた。

「レイはまだ若い。自分が駒の芯であるかように、周りの人間を自分に引き付けようとする。自分だけ正しいと思い込んでいるからな。初めての中央で思い上がってたんだろうが、まぁ今回いい勉強になっただろう」

「でも舞台は最高だったわ! 今までの舞台とは比較にならないぐらいよ! 舞台に関しては、レイのほうがハドリーよりずっと上よ!」

 ニナがフレッドを睨んで叫ぶと、フレッドはニナをじっと見て眉を寄せた。

「ハドリーを舐めるなよ」

「え?」

「お前、何年も一緒にハドリーと舞台を作ってきて、何見て来てたんだ? レイがハドリーよりも上? 笑わせるな。ハドリーはな、レイのように他の人間を巻き込んだりはしない。その人の見ている先まで見据えて、ステップを登っていけるようにアドバイスをする、それが出来る人間だ。ハドリーと一緒に舞台を作っていく奴で、お前のように惑わされる人間は居ない」

 それまでぶっきらぼうでは有ったが『君』とニナを呼んでいたフレッドの言葉が、ニナを侮蔑するように『お前』に変わった。フレッドの冷たい言葉に、ニナは目を見開いたまま黙り込んで俯いた。

「それにな、もう一つ、お前が此処に居ないほうがいい理由がある」

 フレッドはじっとニナを見つめた。

「レイには一緒に住んでいるパートナーが居るんだ」

 反射的に顔を上げて目を見開いたニナの脳裏に、昨日の女性が浮かんだ。

「その人は……私に似ている人ね」

 呆然としたニナが遠い目をして呟くと、フレッドは黙って頷いた。

「ヘレナは元々お前と良く似た華奢な子だったが、レイと一緒に住むようになって髪を栗色に染めた。レイが望んだからだ。あれはお前が丁度ハドリーと結婚した頃だ。自暴自棄になって荒れていたレイの前に現れたヘレナをレイは無理やり自分に振り向かせて、そして一緒に暮らすようになった。ヘレナはお前の代理だったってわけだ」

「でも……もう私が此処に来たわ」

「そう、だからレイにはもうヘレナは必要無くなった。お前をわざわざホテルに足止めしたのも、ヘレナを家から追い出すためだ。これまで、レイに尽くしてきたヘレナを捨てるためにな」

 フレッドは、唾を吐くように言葉を吐き出した。ニナがフレッドを悲しそうに見ていると、フレッドは冷たい瞳でニナを見た。

「レイが今回、中央でのマリウスを射止められたのは何故だと思う? ニナ。こんな地方の小さな劇場でドサ回りをしている役者に中央のチャンスなんて、めったに無い。俺みたいな小物じゃあ何の力にもなれない。だからヘレナは……」

 その先の言葉を悟ったニナは、震えてフレッドを見上げた。

「寝たんだ、レイのために。中央にパイプのあるブローカーとな。それでレイはキャストオーディションに参加出来る事になって、勝ち取った。ヘレナのお陰でな」

 ガクガクと震え続けるニナを前に、フレッドは黙って冷たく見下ろした。

「俺はお前よりもヘレナを守りたい。何年もレイを黙って支えて、アルバイトをいくつも掛け持ちして、舞台しか頭にないレイを黙って支えてきたヘレナを、俺は守りたいんだ。確かに彼女は歌えない。お前のような稀有な歌の才能は持ち合わせていない。だがな、それでもヘレナはずっとレイを愛してきたんだ。自分がお前の身代わりだと知っててな」

 

 その日の夜、ニナは部屋のベッドに腰掛けたまま、独り考え込んでいた。昼間フレッドから聞かされた言葉が頭から離れなかった。だが、ニナには確信があった。


(二人でなら最高の舞台が作れる。レイは必ず自分を選ぶ。なんなら、レイがその相手と暮らしたければ暮らせばいい。そんな些細な事は舞台には関係ない。フレッドだって自分達の舞台を見れば、何が正しいのかきっと分かる筈だわ)


 ニナの心の炎は、揺れる風の中でも妖しく燃え続けた。




 ところが、レイモンドは二日経っても三日経ってもニナの元へ現れなかった。ラウンジに出る事も止めたニナはただ一人部屋に閉じこもって、一日中暗い部屋の中でひたすらレイモンドを待っていた。隈が浮いた顔で真っ直ぐ前を向いたまま、けれど何も見ていない虚ろな瞳で、ただレイモンドを待っていた。

 四日目の朝、躊躇いがちなノックの音がして、静かにレイモンドが入ってきた。

「レイ!」

 やつれた青白い顔のニナは、レイモンドに駆け寄って抱きついた。

「待ってたわ! 貴方は来ると思ってた。やっぱり私は間違ってなかったわ!」

 ニナは勝ち誇ったような笑顔を張り付かせてレイモンドを見上げたが、レイモンドはそんなニナから目を逸らすように、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「いや……ニナ。済まない」

「済まないって、どういう事?」

 躊躇うように呟くレイモンドに、ニナは笑顔を貼り付けたまま焦りの声を上げた。よく見ると、レイモンドの頬は赤く腫れ、左目も腫れて痣が出来た目の周りが黒ずんでいた。

「フレッドが、ヘレナと別れるならシェフィールドの舞台にはもう出さないと……ニナ、君も此処の舞台に出すつもりは無いと言った。ヘレナか舞台か選べと言ったんだ……」

「何言ってるの、レイ。それなら舞台に決まってるじゃない。別に此処でなくても構わないわ。何処でもいい。何処ででも最高の舞台を作れるって言ったじゃない。他の町でも、アメリカでもいいわ。私達なら、何処ででも成功出来るわ。レイ、一緒に行きましょう」

 ニナはキラキラとした瞳でレイモンドを揺さぶって熱を帯びたように話し続けたが、レイモンドはニナを見ようとせず、目を固く閉じて苦しそうに言葉を吐き出した。

「ヘレナは……僕と別れると、そう言ったんだ」

「それなら、そうすればいいだけじゃない」

「ダメなんだ! ニナ! ヘレナは妊娠してるんだ!」

 レイモンドが怒りをぶつけるように大声を上げても、ニナは平然と言った。

「それでも別れたいって言ってるのなら、彼女の望み通りにすればいいのよ」

 レイモンドはニナを突き放すと、ソファに深く腰を下ろして両手を組んで頭を抱えた。

「その子は僕の子じゃないかもしれない、そう言ってヘレナは泣いたんだ。僕のために、僕をあの舞台に立たせるために自分を売った、その時の子かもしれないとヘレナが泣くんだ。だからもう僕とは暮らせないと……泣くんだ。ニナと、ニナと暮らせばいいと、ヘレナが泣いたんだ」

 そう言いながら、レイモンド自身が泣いていた。ニナは信じられないように首を振りながら、

「レイ……まさか、貴方……」

「僕はヘレナを選ぶ。その子が誰の子でも僕の子だ」

 レイモンドは決意したように鋭い瞳で顔を上げ立ち上がった。そして、

「済まない、ニナ」

 と、悲しそうな目でニナを見つめた。ニナはふるふると震えて目を見開いてレイモンドを見ていたが、

「そんな、そんな……私は舞台を選んだのよ! 貴方を選んだのよ! ハドリーもデビッドも捨てたわ! 舞台の方が大切だったからよ! どうして、どうして貴方は舞台を選んでくれないの? 私を選んでくれないの? 二人なら、二人なら最高の舞台が作れるのに!」

 泣き叫んでレイモンドに詰め寄ると、レイモンドの胸を拳を握った両手で叩き続けた。

「ふん。お前みたいにハドリーの力も見極められないような女に、何が作れるって言うんだ。最高だって?  笑わせるな」

 困惑したレイモンドを叩き続けるニナの背後から、冷たいフレッドの声がした。

「レイ。ヘレナが心配してるぞ。帰ってやれ。こいつの面倒は後は俺が見る」

 呆然としたニナが虚ろな目でフレッドを振り返ると、

「お前をロンドンのハドリーのところまで送ってやる。何度でも頭を下げて、ハドリーのところへ帰れ。そして、本当の力というものが何なのか、もう一度ハドリーを見て勉強し直せ、ニナ」

 フレッドの瞳は冷たくニナを見据えていた。


 レイモンドが去った部屋に取り残されたニナは、目を見開いたまま口を開けて呆然と座り込んでいた。

「だから言っただろう、ニナ。お前は此処に来るべきじゃなかった。レイが愛していたのはヘレナで、お前じゃない。レイが愛していたのはお前の歌だ。そして、お前が愛していたのもレイじゃない。レイの才能だ。それは互いに舞台の上でだけ輝くものだ。舞台を降りたお前達には、所詮ガラクタだ。お前はそんなガラクタのために、一番大切な物を捨てたんだ」

 フレッドは魂の抜けたようなニナを、静かに見つめていた。




 

 その頃ハドリーは、煩く纏わりつくマスコミを避けて一人家に閉じこもっていた。

 騒動の翌日には、ニナとレイモンドが車中でキスをしている写真が新聞に掲載された。鈍感だったニナは自分がパパラッチに狙われている事に無頓着だった。清純派だったニナの不倫スキャンダルにマスコミは飛び付き、ニナの生い立ちからまた洗いざらい書き立てられた。ニナの母アンジーの墓の所在も暴かれ、ニナの父親についても、以前ハドリーがニナの母親について調査した時の報告書にあった、とあるイタリア人オペラ歌手の名前が書き立てられ、『父親似で実は浮気性?』などと報じられた。

 ハドリー自身も追い回されて自分の舞台も降板せざるを得ず、心配するラルフの肩を済まなそうに叩いて、ハドリーは静かに舞台を去った。そして、ニナの復帰公演の中止を告知したキャンベルはその対応に追われていた。公演の支援者に頭を下げて回るキャンベルは憔悴しきった顔で、見る間にやつれていった。

 デビッドの世話はキャシーが引き受けてくれたが、キャシーはずっと泣いていた。顔を覆って何度もハドリーに詫びるキャシーを、ハドリーはそっと首を振って黙って抱き締めて慰めた。ジェームズは玄関先でハドリーに土下座をして、「今度は俺を殴ってくれ」と泣き叫んだが、「ジェミー、お前の所為じゃない」とハドリーは優しくジェームズの肩を叩いた。


 居間のソファにぐったりと座り込んで、今頃ニナはどうしているだろうか、ちゃんとレイはニナを守ってくれているだろうか、と、遠い目をして考え込んでいたハドリーの元にフレッドから電話が来た。

「ハドリー、ニナが消えた」

「どういう事だ?」

 固い強張った声で、フレッドはシェフィールドで起こった事をハドリーに話して聞かせた。

「で、俺はニナを連れてシェフィールドの駅まで来たんだが……、ちょっと目を離した隙に、ニナが消えた」

「フレッド……」

「済まない、ハドリー。今こっちでも探しているが……」

 フレッドからの短い電話を切ると、ハドリーは唇を噛んで携帯を握り締めた。ニナは死ぬつもりだ、ハドリーは直感的に思った。焦りで混乱する頭の中で、ハドリーはニナとの絆を手繰り寄せようと、心の奥底にまだニナとの絆が消えていない事を必死で祈った。両手を組んで額に翳して、眉を寄せて考え込んでいたハドリーは、やがて静かに目を開けた。蒼灰の瞳には、確かな光が宿っていた。





 シェフィールドを出たニナは宛ても無く列車に飛び乗り、北へ向った。夕刻、ニナは、英国の北にある小さな町にある寂れた墓地で、古い小さな墓の前に佇んでいた。静かに吹く北の冷たい風がニナの栗色の髪を微かに揺らして、『アンジー・ジェフリー』と書かれたその墓の前に、もうずっとニナは立ち尽くしていた。

お母さん(マム)。レイは舞台を捨てたわ。歌えない女を選んだの。私は捨てられたの。最高の舞台が出来る筈だったのよ。それなのに、私は捨てられたの」

 風に揺れる栗色の髪がニナのくすんだ鳶色の瞳を覆うと、ニナはそっと髪を掬い、静かに母の墓の前にしゃがみこんだ。風にまぎれてニナの耳元でデビッドがニナを呼ぶ小さな声が聞こえたが、吹き荒ぶ風の音にかき消されて静かに消えていった。

「私はもう自分で捨ててしまったわ……大切な物を。舞台を降りたらガラクタしか残らない私の、唯一の宝物を、もう捨ててしまったの」

 ニナの瞳から涙が零れて頬を伝った。

「もう、二度と取り戻せないのよ。何処にも、私の帰る場所はないの。お母さん、私お母さんに会いにいくわ。私はお母さんの顔も判らないけど、きっと、きっと私を見つけてね」

 アンジーの墓にそっと手を添えると、ニナは悲しそうに呟いた。もうこの世から消え去ってしまおう、とそう願っていたニナは静かに立ち上がった。だが、そのニナの視界の端に佇んでいる人影があった。静かに顔を向けると、ハドリーが黙ってニナを見つめて立っていた。

「ハドリー……」

 ハドリーなら、もしかしたら自分を見つけるかもしれない、と思っていたニナは驚かなかった。二人はそのまま静かに見つめ合って黙ったまま立ち尽くしていたが、ハドリーがニナに静かに声を掛けた。

「ニナ、直ぐに此処にもマスコミが来る。逃げるぞ」

 ハドリーは静かに笑っていた。ニナがそんなハドリーに驚いたような目を向けると、ハドリーは黙って頷いた。


 

 翌日、静かな雨の降る湖水地方で、強張った顔のままカウンターの前に立った二人に、親父は一度顔を上げただけで黙って鍵を出した。前と同じ部屋は以前と変わらず、時があの時に戻ったようだった。だが、二人の立場は逆転していた。ニナはハドリーに顔を向ける事が出来ずに俯いたままベッドに腰を下ろし、ハドリーは立ったままニナを見下ろして静かに語り掛けた。


「ニナ。先ずは、キャンベルを許せ。お前を失って、毎日泣いて泣いてみんな困ってるんだ」

 ハドリーは苦笑いしたが、ニナは俯いていた顔を上げて首を振った。

「あのまま続けさせてくれていれば、最高の舞台が出来た事に変わりはないわ。それをぶち壊したのはキャンベルよ。その事実に変わりは無いわ」

 固い表情でハドリーを見ずに、前だけを向いていたニナの瞳には、あの妖しい光が宿っていた。

「だが、あのまま続けていればお前とレイの事は明るみになった。実際に、あの後直ぐにお前達が車の中でキスしてる写真が出たしな。そうなったら、もう公演は成功しなかった。お前達は惹かれあっていたとしても、公演が終わるまで待つべきだった。それをしなかったお前達の責任だ。キャンベルの責任じゃない」

 ハドリーの言葉は冷たいものだった。自分とレイモンドの事を怒りもしないハドリーの、予想しなかった答えに冷水を浴びせられたニナは、戸惑ったようにハドリーを見た。

「そんな些細な事と、キャンベルに言ったそうだな。だが、その些細な事が命取りになるのが中央の公演だ。しかもお前はこの公演の主役だった。お前の名前の冠のついた公演だ。自分の行動に責任を持つべきだったのは、お前だ」

「でも、そんな事打ち砕けるぐらいの、最高の出来栄えだったのよ! 実際にやってみれば分かったわ!」

 ニナは更に冷たいハドリーの言葉に、顔を歪めてハドリーを睨みつけた。黙ってニナを見据えていたハドリーが苦々しそうに眉を顰めて、初めてニナから目を逸らすと小さく呟いた。

「……今のお前……今まで見た中で一番醜い顔をしてるな」


 その言葉にニナが戸惑ってハドリーに背を向けると、ハドリーは冷たく言った。

「驕るな、ニナ。俺は言った筈だ。周りを見ろ、お前を支えてくれる人が見える筈だと。忘れたのか。お前一人の才能で舞台をやっていると思ってるのか」

 振り向けないニナにハドリーは続けて、

「お前、キャンベルがリハに来ないと詰ったそうだな。その間キャンベルが何をしてたのか知ってるのか? グラハムが居なくなって、カンパニーの興行には実際のところ支障が出ていた。キャンベルはスポンサーを細かく廻って援助を願うために奔走していた。お前のためにと支援を申し出てくれた人達を廻っていたんだ。今は逆に公演の中止で頭を下げて廻ってるけどな」

 と、ニナに向けて静かに語った。

「お前は今回初舞台だったローラにも後足で砂を掛けた。頑張れば次の機会があるかもしれないが、お前との共演の初舞台で成功すれば、彼女の将来にも明るい光が差し込む筈だったが、それが全て幻になった」

 黙ったまま振るえ続けるニナに、ハドリーは一瞬口を噤んでから、

「お前の公演のチケットは安くはない。だが、お前の歌を楽しみにした人達が期待を込めて買い求めたものだ。そして、施設の小さな子達が自分達のお小遣いを少しずつ貯めて、このチケットをサムに贈っていたのを知っていたか? ナンシーと結婚したんだそうだ。そのお祝いにと、みんなで必死にお金を出し合って買ったそのチケットも無駄になった」

 ハドリーの静かな言葉にニナは驚愕して息を呑んで、両手で口を押えると全身を震わせて黙り込んだ。

「舞台はな、ニナ。俺達の物じゃない。見に来てくれる観客の物だ。歌は、いつも聴いてくれる誰かのために存在するんだ。一人も客の居ない舞台で、どんなに完璧な演技をしてもそれは舞台じゃない」


 ハドリーの蒼灰の瞳は真っ直ぐにニナを見つめていた。ニナはハドリーに顔を向ける事が出来ずに、背を向けたまま震え続けていたが、やがて涙を浮かべると寂しそうに呟いた。

「そうね、歌よね。歌だけなんだわ。皆私の歌を聴きたいのかもしれないけど、歌だけなのよ。私の歌だけが必要なのよ……」

 ハドリーが静かにニナに顔を向けると、ニナは振り返って立ち上がり泣き叫んだ。

「必要なのは私の歌よ! 私じゃないのよ! レイもそうだったわ。キャンベルも、聴きに来る人もみんなそうよ! 歌うから私が必要なのよ! じゃあ、歌わない私は何? 一体なんなの? 誰が必要としているの? 貴方だってそうよ、ハドリー。歌わない私だったら見向きもしなかったでしょう? 誰も私を見てないわ! みんな私の歌だけを見てるのよ! 歌わない私なんて、ただのガラクタなのよ!」

 肩で息をして涙を浮かべた目でハドリーをじっと見ているニナを、ハドリーは静かに見つめていた。

「お前、もう忘れたのか?」

「え?」

「お前は歌わなかったじゃないか、目覚めた時に。歌わないとキャンベルに言ったじゃないか。その時に俺がお前を見捨てたか? キャンベルやアルバート、キャシー、みんながお前を見捨てたか? その時のお前はガラクタだったか? 皆がそんなガラクタを大事にしてくれていると、そう思ってたのか? 俺が、その時歌を捨てていた俺が、そんなガラクタの為に歌を捨てたとそう思っていたのか?」

 ハドリーの蒼灰の瞳は静かにニナを見据えていた。戸惑ったニナは目を泳がせて、やがて黙ってベッドに力なく座り込んだ。

「俺はあの時お前が歌わなくても、ずっと傍に居ると誓ったんだ。俺自身も歌わなくても構わないと思ってた。お前が歌わなくても、一生お前とずっと一緒に居るとそう誓ったんだ。歌わないお前でも、俺にとっては唯一の宝物だったからだ」

「でも……でも……もう、もう遅いわ」

 ニナは顔を覆って俯いた。

「もうあの頃には戻れないのよ。貴方だって私を見捨てたわ。レイのところへ行った私を追わなかったわ。もう私は貴方にとって宝物じゃないからよ。私は本当のガラクタになったのよ。もう、何も取り戻せないのよ。お願いだから、一人にして。お願いだから、もう、このまま私を死なせて」

 俯いたままニナは静かに泣き続けた。

「勝手に決めるな。お前が俺にとって宝物かどうかは、俺が決める事だ」

 ハドリーは静かにニナに歩み寄ってニナの顔を覆った手を掴むと、強引に立たせて顎に手を掛けて仰向かせると厳しい目で睨んだ。


「ニナ。俺を見ろ」

 怯えたニナが目を逸らして手を振り解こうともがいたが、ハドリーはしっかりと顔を押さえ込み、ニナの手に跡がつくほど力を込めて握り締めると、声を荒げて叫んだ。

「ニナ! 目を逸らすな! 俺を見ろ!」

 ニナの見開かれた鳶色の瞳には、ハドリーが映っていた。

「俺はお前を選ぶ。何があってもお前を選ぶ。お前がどうするのか、ここで決めろ」

 ハドリーはそのままニナを見つめ続けた。その強い光を放つ蒼灰の瞳から目を逸らす事が出来ずに、ニナは震えたままハドリーを見続けた。

 すると、いつもハドリーと口付けすると感じる温かい光がニナの心に差してきた。氷の岩のような塊となってニナを押しつぶそうとしていたニナの心が、急速に解けていくのを感じた。レイモンドと口付けしても抱き合っても感じる事の無かった穏やかな光が、ニナの心から全身に広がって、つま先まで痺れたように暖かさが満ちていくのを感じていた。目の前のハドリーは厳しい顔をしたまま黙っているのに、ニナの耳には何時もの優しいハドリーの低い声で、静かに歌声が響いていた。怯えたようにニナは目を見開いたまま小さく首を振り続けたが、ハドリーは少し力を緩めてそしてフッと笑った。

「ニナ。隠したってダメだ。俺の心にもお前の風が届いてるぞ」

 ハドリーも何時ものニナの暖かな穏やかな風と、甘い春の香りを感じていた。ニナを掴んだハドリーの手も、ハドリーに捕まれているニナの腕や頬も、そこから光を発しているかのように熱を帯びて熱かった。

「ハドリー……」

 ニナが浮かんだ涙を溢して小さく呟くと、ハドリーはそのままニナを抱きすくめた。

「お前が嫌がっても、俺はお前を許して連れて帰る。他の誰もがお前を許さなくても、俺は許す。俺はお前の全てを受け入れる。だからお前も俺の全てを受け入れろ。お前を許して、お前を必要としている俺を受け入れろ」

 ニナの耳元でハドリーが優しく囁くと、ニナは涙を溢れさせてハドリーにしがみ付いた。

「ハドリー。ごめんなさい。ごめんなさい。ハドリー」

 そのまま二人、静かに抱き合って、黙ったまま時間が流れていった。


 泣き腫らした目でニナがそっとハドリーを見上げると、ハドリーは優しく涙に濡れたニナの頬を手で拭った。

「目も腫れてるし、顔が涙でぐちゃぐちゃだ」

 苦笑いしたハドリーは、

「だが、さっきよりもずっと綺麗だ。綺麗だ、ニナ」

 と、ニナの頬を撫でた。

「ハドリー……」

 悲しそうな目でハドリーを見上げるニナに、ハドリーはそっと微笑んだ。そして真顔になったハドリーは、

「俺はお前を許す。だがな、お詫びはしてもらうぞ。何時もよりもずっと意地悪だ。レイが口付けた所をまた全部俺が塗り替えてやる。お前を俺で満たしてやる。泣いても止めないから、覚悟を決めろ」

 そう言うとニナを抱きすくめて、ニナの唇を唇で塞ぐとそのまま抱きすくめた腕に力を込めた。




 朝から静かに降っていた雨が強い風に吹き付けられ、やがて大粒の雨となって嵐のように外が暗くなり激しい音を立てていた。その外の嵐と呼応するように、荒れ狂う波間を翻弄されるように漂っていたニナが、やがて静かに目を開けると、雨は小降りになり微かな雨音に戻っていた。凪いだ海のような静かな心でニナが自分に肩を貸しているハドリーを見上げると、微笑んだハドリーが優しくニナの頬を撫でた。


「まだどこか残ってるんなら、また塗り替えるぞ」

 悪戯そうに笑うハドリーに、ニナはそっと首を振って、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯いた。

「……もう貴方が口付けなかった場所なんて無いじゃない」

「まぁ、そうだな」

 ハドリーは素っ気無く言うと、頭を掻いて上を見上げた。

「まるで、若い頃の俺を見てるみたいだったな、お前」

「え?」

「俺も舞台だけが全てで、他のものは全部邪魔で、舞台の事だけしか考えてなかった。お前に出会うまではな」

 そう笑うハドリーを、ニナは悲しそうに見上げた。

「俺も沢山の人を無情に傷つけてきた。人よりも遅れて今思春期を生きているお前も、何れ分かるだろう。それも、今を生きるために必要なんだって事に。此処で流した血や涙をどう贖っていくかは、今後のお前次第だ。だが、経験者の俺が居るからな。俺がお前を支える。だから、臆するな。前を向け」

 固い表情で頷くニナの髪にそっと口付けて、ハドリーはニナの肩を抱き締めた腕に力を込めた。

「明日帰るか? ニナ」

「そうね……デビッドが待ってるわ」

 それは優しく微笑む母の顔だった。

「まぁ、多分大事になってる。俺も一緒に頭を下げてやるから、お前も真剣に謝れ。許して貰えなくても仕方ないと思え。それでお前が歌えなくなっても、俺が居る。デビッドも居る。それを忘れるな」

 ハドリーが静かにニナを諭すと、ニナも微笑んで頷いた。そんなニナをじっと見ていたハドリーは、体を起こすとまたニナを抱え直した。

「ハドリー?」

 顔を赤くしたニナが戸惑って呟くと、ハドリーがニナの鼻をちょんと突ついて笑った。

「明日まで時間があるからな。上塗りだ。二度と剥げ落ちないように」

 そう言うと、そのままニナの唇を塞いで抱き寄せた。



 翌朝、二人がカウンターで精算を済ませると、親父はまた黙って背を向けた。苦笑したハドリーが親父に「また来る」と告げてドアを開けると、親父は振り返らないまま小さく呟いた。

「お前達、今度はまともに来い。心臓に悪い」


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