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少女の涙

 ニナが安定期に入ると、キャンベルからニナの妊娠によるしばらくの休養が発表された。二年間の休養の後、ニナの復帰公演を大々的に行うと、キャンベルは鼻息も荒く発表して、ハドリーを苦笑させた。


 英国に夏の日差しが煌く七月に入ると、舞台の『路上の天使達』に向けてリハーサルが始まり、キャストの初顔合わせで、ニナの代役としてオーディションで選ばれた新人が紹介された。

「リトル役のジュリア・ウエインだ。新人なので皆宜しく頼む」

「ジュリア・ウエインです。どうぞ、宜しくお願いします」

 ストレートの金髪を腰まで伸ばした明るいブルーの瞳の少女が立ち上がり、教科書を読んでいるような固い声で挨拶した。お辞儀をした少女に、キャストから暖かい拍手が起こった。

 ハドリーの隣に居たキースがハドリーを突付いて、ジュリアを見ながらそっと声を掛けた。

「おい。オデで見たんだろ。どんな子だ?」

「ああ。演技は悪くないな。だが、歌は……正直ニナには及ばないな」

「アホか。ニナに及ぶ奴なんか居るわけないだろ」

 キースは苦笑してハドリーの肩を叩いた。


 十八歳のジュリアは、ニナより少し高めで一六〇㎝ほどあったが、手足が細く長く、華奢な体付きはニナと同じようにリトルに向いていた。ダンスの音感もよく表情も多彩で才能を見せたが、歌は今ひとつだった。歌唱法も悪くないし、音程が悪いわけでもなく声もよく通るのだが、まるで音楽の授業を受けているかのように歌に感情が篭らなかった。

 だが、そんな事を気にする風でもなく、あっけらかんとした性格で、特に物怖じする様子もなく緊張した素振りも見せずに、皆と馴染むのも早かった。



「ハドリー! ねぇ、送っていってくれない?」

 とある日、リハが終わり帰ろうと駐車場まで来たハドリーに、後ろからジュリアが声を掛けてきた。

「あ?」

「お願い! 今日はお迎えがないのよ」

 素っ気無く振り返ったハドリーの腕にしがみ付くように腕を絡めてきて、ジュリアは上目遣いでハドリーを見上げた。陽が傾いたロンドンの空は暗くなり掛けていて、確かに女の子を一人で帰すのは危険に思われた。ハドリーはため息をつくと、車の助手席のドアを開けた。

「しょうがない。乗れ。家はどこだ?」


「この辺りか? お前の家は」

 運転しながらハドリーが隣のジュリアにぶっきらぼうに訊ねた

「あーうん。ここでいいや」

 ジュリアが、物が挟まったような言い方で呟いたので、ハドリーは車を止めた。だが、道路の左側は木立、右側は公園で、人家の明かりはもう少し先にならないと見えなかった。

「お前、こんなとこで降りたら危ないだろ。もう少し先まで……」

 と、ハドリーが言い掛けてジュリアを見ると、ジュリアは黙ったままTシャツをめくり上げて脱ごうとしていた。

「お前! な、何やってんだ!」

「え? 車の中じゃ嫌なの?」

「馬鹿野郎!」

 と、辺りを慌てたように見回してから、ハドリーが助手席のシートをフラットに倒すと、シートに寄り掛かっていたジュリアは、そのままコロンと後ろにひっくり返って目を丸くしてから、面白そうにケラケラと笑った。

「やあね。ハドリーってば、せっかちね」

「お前は馬鹿か! そんな貧相な体見せられても何もする気にならん。さっさと服を着ろ!」

 ハドリーは不機嫌オーラ全開で憮然としてジュリアを睨みつけた。

「ちぇっ」

 と、ジュリアは不満そうに言うとTシャツを元に戻しながらぶつぶつ文句を言った。

「ハドリーは絶対ロリコンだと思ったのにな」

「な……、俺は、ロリコンじゃねぇ!」

 ハドリーは顔を真っ赤にしてジュリアに怒鳴りつけた。

「だって、ニナみたいなタイプが好きなんでしょ?」

 服を着て起き上がったジュリアが平然とハドリーを覗き込むように訊くと、ハドリーはぶすっとした顔のまま睨みつけた。

「『ニナみたいなタイプ』じゃない。俺は『ニナ』が好きなんだ」

「わぉ。ハドリーってば意外と純情なのねぇ」

「黙れ! お前、車から放り出されたいのか」

 と、ハドリーは更にジュリアを睨み付けるが、ジュリアは一向に気にしてない様子だった。

「さっさとシートを戻してベルトをしろ」

「じゃあひっくり返さなくても良かったじゃない」

 ハドリーがムスッとして命令すると、ジュリアは不満そうにシートを直しながらぶつぶつと文句を言った。

「アホか。こんなところ撮られたりしたら俺は終わりだ。潔白だって言ったところで信用されん。何せ俺には前科があるからな」

「終わりって?」

「殺される。多分な」

 不思議そうなジュリアに、ハドリーは苦笑して言った。

「ええ?! ニナって可愛いと思ってたけど、そんなに怖いんだ!」

 ジュリアは目を見開いて驚いたが、ハドリーはちらっとジュリアを横目で見てため息をついた。

「ニナに、じゃない。あいつの自称親父達や自称お袋達、その他諸々だ」

 そしてジュリアに顔を向けて、睨み付けて言った。

「おい。本当の家を教えろ。でないと本当にここで放り出すぞ」



 ジュリアを自宅へ送り届けてようやく家へ戻ったハドリーは、車から降りると空を見上げてふぅとため息をついた。

「ハドリー。おかえり」

 玄関に入るとニコニコとしたニナがパタパタと駆け寄っておかえりのキスをした。ハドリーはほっとしたようにニナの顔を見た。

 ニナは相変らず細い手足だったが、柔らかい筋肉が少しついてしなやかになっていた。もう膨らみが目立ち始めたお腹はゆったりとしたスモックに隠されていたが、豊かに盛り上がって谷間の影を作る胸が、もうすぐニナが母になることを示していた。顔は相変らずのベビーフェイスだったが、微笑みを浮かべた表情には大人の落ち着きも垣間見えるようになった。


「遅かったのね。ローストビーフが冷めちゃったわ」

「ああ。ジュリアに頼まれたんで家まで送ってやったんだ」

 眉を寄せて寂しそうなニナに、ハドリーは玄関先でサマージャケットを脱ぎながら言った。そしてはっと気づいたように、焦りの色を浮かべてニナを横目で見た。

「別に、やましいことは何もないぞ」

「……ハドリー。なんかあったんでしょ」

 ニナはじーっとハドリーの顔を見下ろすと、眉を寄せて更にハドリーに顔を近づけた。


 暖め直したローストビーフを口に放り込みながら、ハドリーはさっきの出来事をニナに話して聞かせた。そしてテーブルの向こう側で眉を寄せて見ているニナに顔を近づけて睨んだ。

「俺は潔白だぞ」

 ニナは頬に両手をついてハドリーの顔をじっと見ていたが、やがてふっと笑みを浮かべると、顔を寄せてハドリーにちゅっと軽いキスをした。

「大丈夫よ。信じてるもの」

「お、おう」

 にっこりと笑うニナにハドリーは少し顔を赤らめたが、照れを隠すようにグレービーソースのたっぷり掛かったマッシュポテトを口一杯に頬張った。


「全く。最近の若い奴は何考えてるかわからん」

 食後のエールを冷蔵庫から取り出して、ソファに深々と腰を下ろすとハドリーはぶつぶつと言った。キッチンの片付けを終えたニナがハドリーの隣に腰を下ろし、ハドリーを見て呟いた。

「でも、オーディションの時はそんな感じには見えなかったわ。もっと一所懸命で、必死に食らいつく感じがいいなと私思ったもの」

「まぁ、オデでは大体誰でも仮面を被ってることが多いけどな」

 エールを一口飲んだハドリーは、自宅に無事送り届けた時のジュリアの少し寂しそうな表情を思い出した。その時に、彼女を取り巻く影のようなものが見えたような気がしたのもふと思い出した。

「いや、もしかしたら何かあるのかもしれん」

「え?」

「あ、いや。何でもない。きっと、気のせいだ」

 ハドリーは、首を振って苦笑した。


「それよりもハドリー。さっきのもう一回言って。お願い」

「何をだ?」

「あの……俺は『ニナ』が好きなんだってとこ」

「……馬鹿か、お前は」

 頬を染めて期待を込めてハドリーの腕に両手を掛けて、ワクワクと見上げているニナから目を逸らして、ハドリーは素っ気無くエールを飲んだ。途端に悲しそうな顔になってニナが俯くのを見ると、やれやれという顔でニナの耳元に口を寄せ優しく囁いた。

「俺は、『ニナ』が好きなんだ」

 顔を上げたニナがぱぁっと嬉しそうに顔を赤らめると、それを狙っていたようにハドリーはそのままニナの唇を捕らえて、ゆっくりとキスをして言った。

「言うより、こっちの方が早い」




 翌日、その日は早めに家に帰ったハドリーの携帯がけたたましく鳴ると、キースの焦ったような怒鳴り声が聞こえた。

「ハドリー! あいつ一体なんなんだ!」

 焦りまくったその声にハドリーは苦笑した。

「ジュリアか。お前、手を出してないだろうな」

「出すか! 全く……。って、お前もか? ハドリー……まさか、お前」

「馬鹿言うな。俺は無実だ」

 キースが疑り深い声で言うと、ハドリーは憮然としてキッパリと言い切った。

「そうか。そうじゃなかったら今度こそ本気で絞め殺すとこだったよ」

 あははとキースは楽しそうに笑ったが、無言のハドリーの顔は笑いながら引き攣っていた。

「それにしても、あいつは何考えてんだよ、全く」

「さあな。ただ、そろそろ注意はしないと現場が乱れかねないな」

 キースが呆れた声を出すと、ハドリーは困ったように呟いた。


 次の日、ジュリアの楽屋を訪ねたハドリーは、何事かとキョトンと座っているジュリアに向かって眉を寄せて叱った。

「お前、『送られ狼』は止めろ。舞台に揉め事の種を持込むな」

 怒られたジュリアは一瞬しゅんとした顔をしたが、直ぐに目を輝かせて突拍子もない事を訊いてきた。

「じゃあ。どうやって成り上がればいいの?」

「はぁ?」

「私ね、成功したいの。有名になりたいのよ。有名な人と付き合って役を廻して貰ったら早いかなぁって思ったんだけどさ。何か他にいい方法ないかな?」

 呆れたハドリーが返事に困っていると、ジュリアは瞳をキラキラさせてあっけらかんと言った。

「……ふざけるな!!」

 ビリビリと空気が振動するようなハドリーの大声に耳を覆って縮こまったジュリアに、

「おい、舞台を舐めるな。皆がどれだけ真剣に取り組んでいるのか、毎日見てて気づかないのか? どんだけお前の目は節穴なんだ。呆れたもんだな」

 と、立ち上がったハドリーは冷たくジュリアを見下ろした。

「そんなんじゃ無理だな。お前にはリトルは出来ない。自分から降板しろ」

 と、言い放つとハドリーはもうジュリアに見向きもせず部屋を出ようとした。

「待って! 待って!」

 泣きそうな顔でジュリアがハドリーの腕にしがみ付いた。

「お願い! やっと掴んだチャンスなの! 初めてオーディションに合格したのよ! 不意にしたくないの!」

「そのチャンスを不意にしようとしているのはお前自身だ」

 と、ハドリーは冷たい表情のまま声色を変えずにジュリアの腕を振り払った。

 ジュリアは涙を浮かべてハドリーを見上げると、ハドリーの胸にしがみ付いた。

「やっとここまで来たの! 私のお父さん(ダディ)を探す、最後の、最後のチャンスなのよ!」

 ハドリーはその言葉に、怪訝そうにジュリアを見つめた。



 落ち着きを取り戻したジュリアは、ソファに座ったままぽつりぽつりと話し出した。

 彼女の両親は彼女が一歳の時に離婚した。原因は妻の不倫だった。ジュリアは母親から、

「貴女の本当のお父さんはミュージカルスターだったのよ」

 と、教えられて育った。ジュリアが十歳になると、母親はジュリアを自分の両親に預けて別の男性と結婚した。それ以来ジュリアは母親には会っていないという。今も祖父母と暮らしていた。

「で、お前の本当の父親を探したい、と?」

 ハドリーはジュリアの話が終わると、眉を寄せたままジュリアに訊ねた。ジュリアは黙ったまま頷いた。

「だったら自分の母親に聞けばいいじゃないか。それが早い」

「ダメなの。私は居ない事になってるから」

 ため息をついて呆れたハドリーに、ジュリアは俯いたまま首を振った。ハドリーが不思議そうにジュリアを見ると、

お母さん(マム)は独身で子供も居ないって言って再婚したの。私が出ていったらモメちゃうわ」

 ジュリアはふっと笑って言った。その瞬間にジュリアの顔に影が浮かぶのをハドリーは見た。あれは気のせいじゃなかったのかと気づくと、この子もニナのように暗い過去を背負っていることを悟った。

「それで、名前も何もわからない相手をどうやって探すつもりだ」

「……さぁ?」

 と、手を広げてジュリアはあっけらかんと言った。呆れたハドリーはまたため息をついたが、

「いいか。とにかく、この公演ではこの公演の事だけ考えろ。デビュー作品が失敗したらお前に次はない。成功のチャンスは二度と来ない。お前が真面目に取り組むなら手を貸してやる」

 ジュリアを真っ直ぐに見てハドリーは真剣な目で言った。

 ぱあっと顔を輝かせたジュリアは明るく笑うと、嬉しそうにハドリーに抱きついた。

「本当? ハドリーってば無愛想なくせに本当は優しいんだから、もう!」

「おい、接触はなしだ! お前、俺を殺したいのか!」

 と、焦ったハドリーは無理やりジュリアを引き剥がした。


 ハドリーは自分の楽屋で、自分自身に呆れ果てていた。自分がこんなお人好しな事を引き受けるなどと、今まで考えた事もなかった。他人の事など気にした事も無く、周りの空気も気にした事が無かった。ましてや舞台中ともなると、舞台に関わりの無い事は全て排除した。それが当たり前だとずっと思っていた。

「あいつの所為かもしれないな」

 独り言を呟いたハドリーの脳裏に、屈託の無い笑顔で不思議そうに振り返るニナの顔が浮かんで、ハドリーは苦笑いした。



 その夜、ハドリーは自宅のソファにニナと並んで腰を下ろして、ジュリアの話を話して聞かせた。

「そう。ジュリアはダディを探していたの……」

 俯いて悲しそうに呟くニナを、ハドリーは辛そうに見つめた。

 孤児だったニナは両親の事は全く覚えてないだろうし、おそらくジュリアの悲しみを誰よりも深く感じているだろうと思うと、ハドリーはニナの頭をそっと抱き寄せた。

「でも、父親を探すのは本当に大変なのよ」

 ニナはハドリーを見上げて訴えるような目で見ると、寂しそうに呟いた。

「私も、マムはアンジー・ジェフリーで、母方のおじいちゃんがグレッグ、おばあちゃんがミナコ、ひいおばあちゃんがローズだって事は分かったけど結局ダディの事はわからなかったわ」

「……ちょっと待て、ニナ」

「え?」

「俺は聞いてないぞ! お前……お前、自分の母親の事は分かってたのか!」

「あ。……言ってなかったかしら?」

 愕然としたハドリーがニナの肩を揺すって叫ぶと、ニナはちょっとバツが悪そうにハドリーを上目で見上げた。


 ニナの説明によると、施設をサムが引き継いだ時に古い資料が出てきて、そこにニナの母親の名前があったということだった。

「それで、興信所で少し調べて貰ったの」

 ニナはまだハドリーを窺うようにそっと言った。

「それで、マムの系譜はわかったの。でも……その頃はまだ余りお金も無くて……そこまでしか調べられなかったの」

 寂しそうに呟いたニナの頭を撫でて、ハドリーはため息をついた。

「今ならもっと調べられるぞ。もっとちゃんと調べれば、お前の父親の事も分かるかもしれない」

 と、ハドリーは優しく言ったがニナは首を振った。

「なんでだ? ニナ」

「だって、もし……もし、それでマムが本当に私を捨てたんだって事が分かったら……」

 そこまで言うと俯いて黙ってしまい、小さな肩が少し震えていた。ハドリーはニナをそっと抱き締めて、耳元で優しく囁いた。

「ニナが調べたくないならそれでもいい。もうお前には家族が居る。俺やアルやキャシー、ジェミーもアニーも居る。そしてもうすぐ俺達の子供もやってくる。それがお前の家族だ」

 ニナは顔を上げ、涙を浮かべた瞳でをハドリー見つめて、そっと微笑んで頷いた。


「しかし……ミナコって名前って、欧米人じゃないよな? お祖母さんはどこの国の人だ?」

 と、ハドリーが思いついたように訊ねると、ニナはニコッとして笑った。

「ミナコは日本人よ」

 それを聞いたハドリーの脳裏に、ニナが急性アルコール中毒になった日の医師の言葉が思い浮かんだ。

『彼女はアルコール分解酵素が少ないんだ。アジア人、特に日本人なんかに多いんだが……珍しいな』

「そうか……なるほどね」

 と、ハドリーは独りクスッと笑った。ニナはそんなハドリーの様子を見て不思議そうな顔をした。

「どうしたの?」

「ニナが鼻ぺちゃな理由がわかったからさ」

 ハドリーは笑いながらニナの鼻をつついた。途端に顔を真っ赤にしたニナが、ハドリーに噛み付いた。

「ひどいわ! ハドリー! 気にしてるのに!」

「そうか? 俺は気に入ってるんだけどな」

 ハドリーは笑いながら、頬を膨らませ顔を真っ赤にして怒っているニナの顎に手を掛けて、

「……キスしやすくていい」

 と、まだ怒った顔のニナの唇をそっと塞いだ。



 

 改心したジュリアに、ハドリーはまずは舞台に集中するよう指示した。

「お前は演技や表情はまぁいい。だが歌はダメだ。問題外だ」

 ハドリーは厳しい声で言った。

「リハ以外でも専門のコーチを受けろ。いいところを紹介してやる」

 ジュリアが大人しく指示に従って、ハドリーが紹介したアカデミーの個人レッスンに通うようになると、少しずつ歌も改善されていった。リハでも口うるさく指示を出されて、最初はあれこれ言われすぎて不満そうだったジュリアも、その成果が出るようになってくると楽しくなってきたようで、リハに身が入るようになっていった。


「ねぇハドリー。あの人私のお父さんぽくないかなぁ」

「誰のことだ?」

「ほら! あの茶髪で髭の……」

 舞台稽古の合間、ジュリアが舞台上から客席を睨んで一人の男を指差す先には、見学に来ていたアルバートが居た。

「ばーか。アルはニナの後見人、言わば親代わりで、つまり俺の義理の父親だ」

「えー。でも年齢も合いそうだし、怪しいじゃん。それに結構いい感じだし」

 不満そうなジュリアに、ハドリーは顔を顰めて呆れてジュリアの頭を叩いた。

「あのなぁ。アルはな、ミュージカルを始めたのはニ〇一〇年からだ。お前が生まれた頃にはオペラ歌手だった。合わないだろうが」

「えー。知らなかった」

 と、目を丸くするジュリアに、益々ハドリーは呆れた。

「お前、アルの事も知らないのか?」

「うん。元々俳優志望コースだったからミュージカルはあんまり」

 と、悪びれもせずジュリアは言った。

 ジュリアは俳優コースというだけあって演技は上手かった。ダンスも上手かったが、ジュリアは特にその表情が良かった。その時その時の感情を上手く表現し、自在に表情を変えることが出来た。不安に怯える子供の顔から、さっと大人びた目付きで妖艶に微笑む事も簡単にやってのけた。

 ただ歌が演技に上手く乗って来なかった。どこかちぐはぐで、ピースの合わない欠片同士と組み合わせようとしている感じだった。ハドリーは歌いながら踊るジュリアを見つめながら、どこか釈然としない物を感じていた。ミュージカルスターだった父親を探そうとしている割には何故かミュージカルコースを選んでない点も、ハドリーには喉に刺さる小さな骨のように何かが引っ掛かった。じっと考え込んでいたハドリーは、傍らの携帯を手に取った。



「え? 歌と演技の組み合わせが合わない場合?」

 ハドリーにおもむろに訊かれたニナは、怪訝そうにハドリーを見た。

「ああ。俺にはそんな経験ないから、お前ならその感覚がわかるかと思って」

 ハドリーが素っ気無く言うと、ダイニングテーブルで大きなボウル一杯のカスタードプディングを抱えたままニナはぷくっと脹れた。

「私は演技が下手だったって言いたいんでしょ、ハドリー」

「まぁ、そうだ。最初はな」

 自分は普通のカップのプディングを口に運びながら、ハドリーは当たり前のように言った。ニナはまだぶつぶつと不満そうに呟いていたが、じっと考え込むと、やがて困ったように言った。

「……口では上手く説明出来ないわ。私はどうしても歌に集中してしまうから、歌に合わせようとしてしまうんだけど、きっと彼女は逆なのね。まず演技有りきなんじゃないかしら」

「なるほど」

 ハドリーも考え込んだ。その瞬間ハドリーの脳裏に、いつものあっけらかんとした顔の仮面を外し、その下では大粒の涙をポロポロと溢しているジュリアが浮かんだ。あれも演技なのか……と、不思議な感覚でその映像を見ながらハドリーは感じていた。

 二人とも考え込んだまま、無言でプディングを食べていたが、ふとハドリーが思いついたように手を止めるとニナの顔をにっこりと笑って覗き込んだ。

「そうだ。今度、お前歌ってみせろ。ジュリアの前で」

 キョトンとするニナに、ハドリーは笑って顔を寄せた。

「口でダメなら、実際に本物を見せればいいんだ」

「そうね。うん。それ、いいかも」

 ニナはにっこりと同意しながらも、手を止めずパクパクとプディングを食べ続けていた。

「……お前、今頃赤ちゃんがプディングの海で泳いでるぞ」

 と、ハドリーは呆れて呟いた。



 次のリハの日、ハドリーはニナと共に劇場にやってきた。久しぶりに見るWEの劇場を懐かしそうにニナは見上げて嬉しそうに笑った。

「ニナ!」

 ニナの姿を見つけたリンダが嬉しそうにニナに駆け寄ってそっと抱き締めた。

「ニナ。元気だった? 赤ちゃんは順調?」

「うん。元気よ、リンダ。もうこんなにお腹が大きくなったの」

 微笑むリンダにニナは大きなお腹を嬉しそうに見せてにっこりと笑っていて、不思議なキラキラとした輝く光に包まれた二人をハドリーは微笑んで見つめていたが、やがてリンダは腰を落としてニナの瞳をじっと覗き込むと、心配そうな顔をした。

「ハドリーは浮気してない? 大丈夫?」

「おい、リンダ、お前……」

 と、ハドリーは不機嫌そうにリンダを睨んだが、ニナはニコニコとして頬を染めてリンダを見た。

「大丈夫よ。ハドリーは浮気なんかしないもの」

 ハドリーがふん、それ見ろという目でリンダを横目で睨んだ。

「つまらない事を訊いてないでさっさと仕事しろ」

「お生憎様。仕事なら終わったわよ」

 不機嫌そうに眉を寄せているハドリーを睨んだリンダは、舌を出してハドリーに指を突きつけた。

「衣装が出来てるわ。ハドリー、アンタも持っていってよね」


「わぁ、懐かしいわ!」

 楽屋でJJの衣装に着替えたハドリーを見て、ニナは嬉しそうに喜んだ。するとニナはハドリーの周りをくるくると回りながら、嬉しそうに歌い始めた。

 休養中のニナだったが、毎日のボイストレーニングは体に負担が掛からない範囲で続けていたため、その声に全く遜色はなかった。微笑みながらニナを見つめていたハドリーだったが、その時楽屋のドアが勢い良く開いてジュリアが飛び込んできた。

「ねえねえ! ハドリー! こんな物が出てきたの!」

 スケッチブックのような物を抱えたジュリアは、ニナに気づくと顔を赤くして、立ち止まった。

「久しぶりね、ジュリア。頑張ってる?」

 と、ニナは笑顔でジュリアに訊ねた。ジュリアとニナが会うのはオーディションの日以来の事だった。



 ジュリアが持ってきたスケッチブックには、あるミュージカルスターの切り抜きや記事が一面に貼り付けられていた。細かい記事まで丁寧に貼られていてジュリアの母親の熱烈ぶりが垣間見え、ジュリアが興奮したようにスケッチブックを覗き込んだ。

「昨日お祖父ちゃんが屋根裏の整理をしてたら出てきたんだって。結構、格好いいよね。でもどの人だろう……」

「マイケルだ」

「マイケルだわ」

 ハドリーとニナが同時に唖然として呟いた。

「え? 誰?」

 と、ジュリアがキョトンとして二人の顔を交互に見ると、ハドリーが眉を寄せて、ジュリアを見た。

「マイケル・ボールドウィン……お前、今、彼に個人レッスン受けてるだろうが」

 ジュリアは目を丸くして叫んだ。

「えーーー! あの、ぽちゃぽちゃのおじさん!?」


「やあ。ハドリー。元気かい? ニナは元気かな?」

 そのマイケルがニコニコしながら客席からハドリーに手を振った。マイケルは、衣装を着けてのリハが始まるということでジュリアの様子を見に来たのだった。

 舞台上でハドリーはちょっと困った顔で、頭を掻いて舞台袖に顔を振った。

「ああ。元気だ。ニナなら今日来てる」

「マイク! 久しぶりね!」

 と、袖からちょこんと顔を出したニナがマイケルに明るく笑って手を振った。

「ニナ! 遅くなったけどおめでとう! 今日は見学かな?」

 と、いつもの笑顔でマイケルが話し掛けると、ニナはニコニコとして、

「今日は歌うの」

 と、嬉しそうに言った。


 ジュリアにニナの歌を生で一回聴かせたいというハドリーの提案は了承されていた。

 マタニティのスモックを着たままのニナは、久しぶりの舞台の感触を確かめるようにゆっくりと舞台に歩み出し、オープニングの歌、リトルの『路上に生きる』が流れ始めた。久しぶりのニナの歌ということで、全キャストは勿論、裏方のスタッフも皆客席でニナを見つめていた。

 まるでブカブカのコートを着ているかのように、手をポケットに入れる仕草で舞台中央に立ったニナは静かに歌い始めた。

『汚れた(スラム) ここが故郷 私の居場所 でも私にとって 最高の場所』

 ニナの顔が変わっていた。それまで見せていた母になろうとする大人の顔ではなく、そこには辛い環境を耐え抜く十五歳の少女が居た。

 舞台袖でジュリアと並んで見ていたハドリーが隣のジュリアに囁いた。

「良く見ろ。音を聴くな。舞台を、ニナを感じるんだ」

 ジュリアは目を見開いたまま、言葉も出せずにただひたすらニナを見つめ続けていた。

 静かな劇場にニナの切々とした歌声が広がり続けて、柔らかな音がゆっくりと降り注ぐように体を包んだ。一音一音がキラキラと輝きを持って雨のように降り注ぎ、静かにニナが歌い終えると、客席のスタッフから一斉に盛大に拍手が起こった。

「いいぞ! ニナ」「ニーナ! 最高!」

 ヒューヒューという歓声に囲まれて、ニナは恥ずかしそうにちょこんと頭を下げた。

「何か掴めたか?」

 ハドリーが隣のジュリアを見て訊ねたが、ジュリアはまだ目を見開いて立ち尽くしていただけだった。無理も無いとハドリーは思った。ジュリアはニナの生の歌を聴くのは初めてだったからだ。

「まぁ。焦らなくていい。この感覚を忘れるな」

 ため息をついて言ったハドリーだったが、立ち尽くすジュリアの肩に手を置いた瞬間、ぞくっとする物を感じた。何かどす黒いドロドロとしたものが、体の底から沸きあがってくるような感覚だった。

「ジュリア?」

 ハドリーが怪訝そうにジュリアに声を掛けると、ようやくはっとしたジュリアが、

「あ、はい! 頑張ります」

 と、遠くを見るような目で前を見たままハドリーに生返事をした。ハドリーの心の中に、捕らえどころの無い、理由のわからない不安がふと過ぎった。


 続いてキャストによるリハが始まった。ニナはニコニコと笑うマイケルの隣で、楽しそうにしゃべっていた。音楽が流れ出し、リトルの衣装を着けたジュリアが、ポケットに手を入れてゆっくりと舞台袖から歩いてきた。舞台中央に来たジュリアがゆっくりと顔を上げて歌い始めると、スタッフが居る客席がシーンとなった。昨日までのジュリアと明らかに違っていた。ニナの声にはやはり遠く及ばないが、今までのちぐはぐだった演技と歌が、隙間が消えたように埋まっていた。辛い環境に生きるリトルの悲哀が込められ、人々の心を抉る叫びのようにも聞こえた。

 客席に居たキャンベルが「これならいいぞ」と隣の監督に囁いた。マイケルもニナと顔を見合わせて微笑んで頷き合った。出番のためにセットの中で寝転んでいたハドリーも、驚きと共にジュリアの歌を聴いていた。そしてふっと笑みを漏らすと、心の中で呟いた。

 ――ニナ。お前はやはり凄いな。

 ジュリアが静かに歌い終わると、客席からは拍手が起こった。次はジュリアがゴミ置き場で寝転んでいるハドリーを足で蹴って起こす場面だった。

 ところがジュリアは舞台中央で、遠くを見つめたまま動かなかった。ハドリーも動かないジュリアに戸惑ったが、黒々とした重く暗い感情が一気にジュリアから噴き出してくる映像が唐突に頭に浮かんだ。

「ジュリア! ダメだ!」

 目を見開いてガバッとセットから起き上がると、ハドリーは叫んだ。

 ジュリアは虚ろな目のまま立ちすくんでいたが、皆が呆然と見つめている中、突然舞台を飛び降りた。手を入れたままだったポケットから右手を取り出すと、その手にはナイフが握られていた。ざわめく客席の中のマイケルの元へ迷う事なく歩いていくと、ジュリアはじっとマイケルを見つめた。

「一体……どういうことだ!? 何の真似なんだ? ジュリア!」

 マイケルが顔面を蒼白にしてジュリアに叫ぶと、ジュリアはその青い瞳からボロボロと涙を溢した。

「アンタがマムを捨てたから、マムは私を捨てたんだ」

 ジュリアのナイフを握り締めた右手に力が入るのを見ると、マイケルの前にニナが立ち上がって両手を広げた。

「ダメよ! ジュリア! そんな事をしてはいけないわ!」

「馬鹿! ニナ! 下がれ!」

 ハドリーが蒼白になって舞台を飛び降りた。誰もが凍りついたように動けなくなっている中で、ハドリーはジュリアに歩み寄った。

「ジュリア。よく聞け。違うんだ。彼じゃない。マイケルは君の父親じゃないんだ」

 戸惑ったようにハドリーを振り返るジュリアを、悲しそうにハドリーは見つめた。

「あれは、お前の母親がお前を守るための作り話だったんだ」

「嘘よ! マムはずっと私に言ってたのよ! コイツがアタシのダディだって!」

「嘘じゃない! 嘘じゃない証拠がある。……あそこだ」

 ハドリーが客席の後方を指差した。そこにはボロボロと泣きながら、客席の異変を見つめて立ち尽くしている一人の女性が居た。

「ジュリア。お前の母親だ」

 ハドリーが静かに言った。




 リハは中断され関係者が一室に集められたが、ジュリアだけはリンダや女性スタッフが付き添って楽屋に待機していた。ハドリーは疑問を抱いた時に、密かにジュリアの母親の現在の居場所を調べて接触していた。そして事情を聞いたハドリーは、彼女にこのリハに来るように要請していたのだった。

 ジュリアの母親エメリアは、ジュリアと同じ金髪の優しそうな四十代の女性だった。まだ涙を浮かべた目でエメリアは静かに皆に事情を話した。

 ジュリアはこのエメリアの最初の夫との間の子供だった。最初の夫のDVが原因でジュリアは他の男に走り、それが元になって離婚した。エメリアは夫に親権が行かないように、ジュリアを他の男の子供だと主張した。

「あの男に親権が行ってしまえば、あの子もDVに遭うと思ったのです。私の両親にも、あの子は他の男の子供だと嘘をついていました」

 エメリアはハンカチを目に当てて、呟いた。そして、ジュリアには当時エメリアがマイケルのファンだったこともあって、父親はミュージカルスターだと教え込んだ。

「いつかはバレる嘘だと思っていましたが、万一あの男が親権を主張してきた時にジュリアが拒否してくれたらと思って、偽の父親像を植えつけたのです。こんな雲の上の人なら、ジュリアが接触することもないだろうと……」

 マイケルは呆然とした顔で黙って聞いていた。

「……ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 エメリアはかつて熱愛していたミュージカルスターに、深々と頭を下げた。


「どうしてジュリアを捨てたんですか?」

 ハドリーに肩を抱かれて立っていたニナが、悲しそうに瞳に涙を貯めてエメリアに訊ねた。エメリアはその言葉に再び嗚咽を漏らして顔を覆ってしまったが、後ろからそっとハドリーがニナに囁いた。

「ニナ。違うんだ。ジュリアは捨てられたんじゃなかったんだ」

 ニナははっとしてハドリーを振り返った。


 エメリアの再婚相手には子供が一人居た。重度の知的障害を負ったその子とジュリアを一緒にすることを、ジュリアの祖父母が反対したのだ。エメリアの再婚そのものも反対した祖父母はジュリアを手放さず、エメリアにジュリアと会う事も禁じた。母がジュリアを捨てて出ていった、と、今度は祖父母がそう孫娘に教え込んでいたのだ。

「いいえ。捨てたも同然です」

 顔を上げたエメリアが静かに言った。

「結局私は、再婚を選んでジュリアを置いて家を出ました。捨てたと言われても仕方がないのです」

 エメリアの静かな言葉に、誰も答えることが出来なかった。


 エメリアが静かに皆に詫びて帰っていった後、ハドリーとニナはジュリアの楽屋を訪ねた。リンダに付き添われて、ジュリアはまだ虚ろな顔でソファに座り込んでいた。ハドリーはリンダに頷くと、リンダは頷き返してそっと部屋を出ていった。

「ジュリア」

 ジュリアの目の前に座ったハドリーは静かに話し掛けた。その言葉に顔を上げたジュリアの瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちた。

「……バカみたい……嘘に騙されて、八年も叶わない夢を追ってたなんて」

「お前は自分の父親を殺そうとは思って居なかった」

 ハドリーが静かに言った。

「思ってたわ! いつか見つけ出して必ず殺してやるって!」

 顔を歪めて叫ぶジュリアを、ハドリーはゆっくり首を振って否定した。

「いや。お前は思ってなかった。だからミュージカルコースも選べなかった。歌に身が入らなかったのもその所為だ。お前は父親を見つけたかったわけじゃないんだ」

 ハドリーの蒼灰の瞳が真っ直ぐにジュリアを見つめた。

「お前は母親や父親に復讐したかったわけじゃない。ただ、普通の家庭が欲しかっただけなんだ」

 そう言うとジュリアの前に一枚の紙を置いた。五歳児ぐらいの子供が書いたようなクレヨン書きの絵だった。眼鏡の大人の男とエメリアと思われる女性と車椅子に乗った男の子と一緒に、金髪の青い目の少女の姿が書いてあった。

「お前の母親の再婚相手の子が書いた絵だ」

 ジュリアは黙ったまま机の上の紙を見つめ続けた。

「彼女はその子に『貴方にはお姉さんが居るのよ』とずっと教えていたんだ」

 ジュリアは目を見開いたままボロボロと涙を溢すと、そのままその場に泣き崩れた。ニナがそっと隣に腰を下ろして、泣き続けるジュリアの肩を抱いた。ハドリーももう何も言わずに、悲しい目をしてジュリアを見つめていた。




 自宅へ帰ってソファに腰を下ろすと、ハドリーは深いため息をついた。着信した携帯メールを確認すると、少し安堵の息を漏らしてニナに顔を向けた。

「アンダーソン先生がジュリアを診てくれることになったと、キャンベルから連絡が来た」

「そう……、先生が診て下さるなら安心だわ」

「ああ。ジュリアも同年代に比べるとお前同様小さかったからな。おそらく同じような症状だろう」

 同じようにほっとした表情を見せたニナに、ハドリーは眉を寄せて呟いた。

「まさか……虐待が?」

「いや、肉体的なものではないだろう。大人が寄ってたかって精神的にジュリアを追い詰めた結果だ。母親も、祖父母もだ」

 青ざめたニナを見つめて、ハドリーは悲しげに呟いた。

「ジュリア、どうなるのかしら」

 沈んだままの表情でニナが遠くを見て心配そうな顔をした。

「わからん。今回の公演はダメかもしれない。でも彼女には道がある」

 ハドリーはニナをじっと見つめた。

「ジュリアはミュージカルよりも演技そのものを生かしたほうがいい。むしろスクリーンの方が向いている」

 ニナは小さく息をついて寂しそうに呟いた。

「家族って難しい物なのね。誰もがお互い愛し合っているのに、歯車が狂うとこんな事になるなんて」

 ハドリーはそんなニナを黙って見つめていたが、

「ニナ。お前に話がある」

 と、静かに切り出した。鞄から出した茶封筒をテーブルの上に置くと、ハドリーはニナに向かって静かに言った。

「ニナ、お前も捨てられたんじゃなかったんだ」

 突然の言葉に、ニナは目を見開いて目の前のハドリーを見上げた。


 ニナの母アンジー・ジェフリーは八歳で両親を事故で亡くし、母方の祖母ローズに育てられた。アンジーが二十歳の時ローズが亡くなると、アンジーは一人声楽の勉強のためイタリアへ渡った。

「やはりお前の父親が誰なのかは、結局判らなかった。可能性がある人物は複数いたようだが、特定は出来なかったそうだ」

 ニナは何も言えずに悲しそうな顔でハドリーを黙って見つめていた。

「イタリアでアンジーはお前を身籠って、そして独り英国に戻った。そしてお前を産んだんだが……」

 そこまで言うとハドリーは辛そうに目を閉じた。

「アンジーは病気になったんだ。結核だった」

 ニナは驚いたように目を見開いて息を呑み、口元に当てられた手が小刻みに震えだした。

「お前を施設に預けるとアンジーは隔離病棟に入れられたが……回復することが出来なかった」

 ゆっくりと目を開け、悲しそうにニナを見たハドリーの目には涙が浮かんでいた。

「最後まで、ニナ、お前の名前を呼んでいたそうだ」

 震えて見開いた瞳からボロボロと涙が零れ落ちると、ニナはハドリーに縋り付いて声を上げて泣き続けた。

 泣き疲れたニナがそっとハドリーを見上げると、ハドリーは黙って優しくニナを見下ろしていた。

「ニナ。アンジーのお墓は、ローズと一緒に北の街にある。いつか一緒に行こう」

 ニナは泣き腫らした目で静かに微笑むと、またハドリーの胸に顔を埋めた。




 結局、ジュリアは自分から降板を申し出た。リトルは代役の代役が務めたが、BW公演でニナの代役をやっていたその子が頑張りを見せて、三ヶ月に亘った公演はなんとか無事に終わった。千秋楽を見届けたニナと一緒に自宅に戻ると、ハドリーは疲れきったようにソファに腰を下ろし、冷蔵庫からエールを持って来てハドリーに手渡したニナがその隣に腰を下ろした。

「あいつは元々、図太いところもあった。大丈夫だ」

 ニナはジュリアの行く末を心配したが、ハドリーはふっと笑ってニナの頭を撫でて微笑んだ。

「キャンベルのところにジュリアの祖父母が詫びに来たらしい。その時に、エメリアにも謝りたいと言っていたそうだ。きっと、上手くいく」

「そうね。きっと上手くいくわ」

 ニナは悲しそうにハドリーを見上げると微笑んで頷いた。

「それにしてもハドリー。あの日どうしてジュリアがマイケルを襲うって分かったの?」

 ニナが怪訝そうにハドリーを見上げた。

「さあな。誰かさんの病気が移ったのかもしれん」

「病気って?」

 両手を広げて惚けるハドリーに、ニナが更に首を傾げた。ハドリーはくすっと笑って、

「鼻ぺちゃ病だ」

 と、ニナの鼻を突付いて笑った。ニナはまた顔を真っ赤にして怒るとハドリーを睨んだ。

「分かったわ! ハドリーがそんなに意地悪なら、この先ずっともう『意地悪の時間』は無しにするわ!」

 と、言うとぷぃっと顔を横に向けてしまった。ハドリーは一瞬しまったという顔で上を見上げたが、

「よし。いいだろう。枕を自分の部屋に戻しておけよ。また夜中に枕抱えて俺んとこ来るんじゃないぞ。それに、俺が他の誰かと『意地悪な時間』を過ごしても文句を言うんじゃないぞ。お前は拒否したんだからな」

 と、怖い顔をしてニナの鼻に指を突きつけた。ニナは怯えたような顔になってふるふると震えた後、眉を寄せて泣き出しそうな顔をして悲しそうに呟いた。

「……ハドリーの意地悪。……やだ。他の人の所に行っちゃ、やだ」

 涙を浮かべてハドリーを見上げるニナの鼻をまたちょんと突付いて、

「ばーか。行くわけないだろ。俺にはお前だけだ、ニナ」

 と、ハドリーは栗色のニナの髪をそっと撫でて優しくキスをした。




 それから一ヶ月後、ニナは無事に男の子を出産した。体の小さなニナの体調が案じられたが、普通分娩で母子共に健康だった。薄茶色の髪と鳶色の瞳の元気な男の子は、目をクリクリさせて小さく手足を動かしていた。ニナは赤ちゃんを抱いて嬉しそうにハドリーに微笑んだ。

「やっぱり天使だったわ」

「ニナ。よく頑張ったな」

 ニナの、その例えようもない美しさにハドリーは見惚れると、ニナの髪をそっと撫でた。

「俺の家には天使が二人も居るな」

 ハドリーは微笑んで、そっとニナにキスをした。

 男の子はデビッド・アルフレッドと名づけられた。早速見舞いに来たキャンベルは、

「おい。ちゃんと『お祖父ちゃん』と呼ばせるんだぞ」

 とハドリーを睨んで、ニナと同じ瞳のデビッドを嬉しそうに覗き込んで満足そうに頷いた。

「うんうん、まずはガブローシュからだな」

「キャンベル、気が早すぎるぞ」

 呆れたアルバートがクスクスと笑った。


「そうだ。ジュリアから連絡があったぞ」

 キャンベルがふと思い出したようにハドリーに向って言った。ハドリーが顔を上げると、キャンベルは微笑んで、

「今はエメリアと連絡を取り合っているらしい。近い内に訪ねる予定だそうだ。専門学校の俳優コースに戻って、また一からやり直しているようだ」

 と、ジュリアの近況を報告した。そのニュースに、ハドリーとニナは顔を見合わせて嬉しそうに微笑んだ。

「それから……」

 と付け加えるようにキャンベルはウィンクして言った。

「『おめでとう! ニナに『だけ』似た優しい子になりますように』だとさ」

 ハドリーを除いた皆が明るく笑ったが、ハドリーは不機嫌そうにムスッとして言った。

「どうせ俺は意地悪だよ」


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