蝶の羽化2
公演が終わるとクレアは不機嫌そうに「全てノーコメントよ」と言い残してアメリカに帰っていった。
うるさく付き纏うパパラッチを避けるようにニナは家へ閉じこもり、キャシーやアルバートらが心配してこっちに来るように諭したが、首を振って一人でハドリーを待っていた。
『帰ったら話す』という、ハドリーの言葉を信じてひたすらハドリーを待っていた。キャンベルはしばらくの間ニナを休養させようと、その後半年間のオファーを全てキャンセルした。
ワールドツアーでの公演で、ハドリーは全く何事もなかったように平然と演技を続けていた。五月蝿く纏わり付くマスコミには何も語らなかったし、訪ねて来る関係者とも会おうとしなかった。舞台での演技はいつもと変わりなく、全てを出し尽くすハドリーの姿があった。
ところがニナに何の連絡もないまま、ハドリーはツアーが終わっても家へ帰って来なかった。スタッフらと一緒にロンドンに帰国したところまでは確認されていたが、その後何処へ行ったのか誰も知らなかった。関係者にも連絡も無く、何度連絡しようとしても携帯の電源は切れていた。
マスコミには「ハドリー失踪」「クレアと駆け落ちか?」と言った面白半分の記事が踊り、キャンベルはさらに苦虫を噛み潰したような顔でハドリーを探させたが、何処に居るのかは分からなかった。
ハドリーの公演が終わるまでは寂しそうではあったが落ち着いて過ごしていたニナだったが、公演が終わっても戻って来ないと分かると、見る間に憔悴していった。
「……ハドリー」
主の戻らない寝室のドアを開けてニナはその場に立ち尽くし、鳶色の瞳から涙が一筋零れ落ちると、ニナはそのままその場に崩れ落ちるように座り込んで声を殺して何時までも泣いていた。
ハドリーが戻らず一週間が過ぎた頃、心配したデイジーがニナの元を訪ねた。
「アイツ帰ってきたらボコボコにしてやるわ!」
と、憤懣やるかたない表情でデイジーがハドリーを罵った。
「デイジー」
憔悴しきったニナはそっと顔を上げると、心配そうに覗き込むデイジーにぽつりと言った。
「どうして私だけ、何時までも子供みたいで成長しないのかしら」
その声は寂しそうだった。傍らの親友はもう二人の子供にも恵まれて母となっているのに、と自分の小さな手を見てニナは思った。
「ニナ……」
デイジーがそっとニナの肩を抱くと、ニナはポロポロと涙を溢して、
「ハドリーは……だから帰ってこないんだわ。もう……私の事が嫌になったんだわ」
「ニナ。泣かないで!」
声を上げて泣き出したニナをデイジーは強く抱き締めて、自分も一緒に泣き出した。ニナは顔を覆ったまま、震えるように泣き続けた。
「ジェミー、何してるんだ?」
アルバートの家では、どすんばたんと音がするジェームズの部屋を、アルバートが覗いた。ジェームズはどこからか持込んだサンドバッグをぶら下げて一心不乱に殴り続けていた。
「アイツを一発でノックアウトするためさ。学校から借りてきたんだ」
それだけ言うと、ジェームズはまた黙り込んで、サンドバッグを殴り続けた。アルバートはため息をついて、全身から怒りを発する息子を見守った。
その頃ハドリーは湖水地方の小さな宿屋に居た。偽名で泊まっていたが、親父はハドリー・フェアフィールドだとは気づいてないようだった。ハドリーの他に客もなく、無愛想な親父は五月蝿く話し掛けることもなかった。毎日何処へ行くともなく歩いたり、釣る気もない釣竿を湖に垂らしたりして過ごしていた。
「釣れたか?」
宿屋の親父が帰ってきたハドリーに聞くのも毎日同じ台詞で、それに首を竦めて苦笑いで首を振るのも毎日のことだった。
ハドリーは一人でずっと考えていた。どうすればこの先ニナと暮らしていけるのか、そればかりを考えていた。ニナと暮らさないという選択肢は無かった。自分にはニナしか居ない、という思いは、あのニナの歌を聴いて一層強くなった。
全てをニナに告白して暗示を解くよう説得出来るかどうか、一度だけアンダーソン医師に電話をして訊いてみた。アンダーソン医師はハドリーが何処に居るのか聞こうともせず、
「それは無理だ。ハドリー。自己暗示は自分で自覚していない深層部分で起きている。ニナは自分で自分に暗示を掛けていることすら知らないんだ。ニナに告げる事は彼女にさらに傷を増やすだけだ」
ハドリーに静かに説明した。そして、
「ハドリー。君の辛い状況も解っているつもりだ。何か手助け出来ないか」
と心配そうに言ったが、ハドリーはそっと首を振って、
「ありがとう。でも、いいんだ」
と、そのまま静かに電話を切った。
ハドリーは、ニナを説得して二人で静かに生きていける道を毎日模索していた。この先暗示が解けるかどうか分からないのでは、ニナを説得して子供を諦めさせ、二人だけで静かに生きていく道を選ぶしかなかった。だが、ニナにどう言葉を掛ければいいのか、ハドリーにはまだ見付からなかった。自分の中の不安を消し去って、平穏を保っていく方法も見付からなかった。ただ時間だけが音を立てて過ぎていった。
ハドリーが戻らずニ週間が過ぎた頃、ニナは決心したように小さなボストンバッグに荷物を纏めた。そのまま劇場に向かい、突然の訪問に驚くリンダに向き合った。劇場裏手でニナを待ったパパラッチだったが、正面入口から堂々と金髪のキャリアウーマン風の女性が出ていくのには気づかず、その女性はユーストン駅に向かうと一人湖水地方へ向かった。
ハドリーが空の魚籠を下げて宿屋に戻ると、親父がまた顔を上げずに呟いた。
「釣れたか?」
空の魚籠を見せて首を振ったハドリーだったが、小さなロビーのソファに静かに座っている女性に気づいた。金髪のその女性はゆっくりと立ち上がってハドリーを見た。
「お前に客だ」
親父が告げるまでもなく、ハドリーにはそれが誰だか分かっていた。
「ニナ」
ハドリーが呟くと、ニナが静かに頷いた。
「よく此処が分かったな」
ハドリーは部屋に入ると後ろのニナを見ずに言った。かつらを取ったニナは静かにハドリーに訊ねた。
「ハドリー……何故帰ってこないの?」
「ああ。オフだからな。来月には舞台が始まるからそろそろ戻るつもりだった」
ハドリーは上を見上げて呟いた。まだニナと向き合う準備が出来ていなかったハドリーには内心焦りがあった。
「ハドリー、私を見て」
と、震える声でニナが囁いた。ゆっくりと振り返ったハドリーをニナは真っ直ぐに見つめて、
「もう私達、一緒には暮らせないの?」
ニナの瞳から涙が零れた。
「いや……」
と、顔を背けて言い掛けたハドリーを遮るようにニナは呟いた。
「貴方が苦しんでいるのは分かっていたわ。それが私の所為だってことも。私は目覚めても、ずっと貴方を苦しめてきたわ。貴方を苦しめるような事はしないと、そう誓ったのに。……誓ったのに」
ニナの悲しそうな瞳からは次々と涙が零れ出した。
「いや。違う! ニナ、あれは……」
「でも、私だって苦しかったわ。どうして私だけいつまでも子供みたいで貴方に追いつけないの? ずっと、ずっと考えていたわ。私だって、私だって、もっと成長したいの! もっと貴方に愛されたいのよ!」
ニナはハドリーに向かって、泣きながら絶叫した。
その瞬間、ニナを覆っていた見えないガラスの欠片が音を立てて砕けて飛び散っていくのがハドリーには見えた。キラキラと輝く欠片は宙に舞い、スローモーションのように部屋中に広がっていった。ニナの背中には青く輝く美しい蝶の羽が広がって、ようやくその羽を伸ばし羽ばたこうとしていた。舞い散る光の欠片の向こうで、羽を広げ目に涙を浮かべて佇む美しいニナが居た。
――ニナが自分を解放したんだ。
ハドリーは目を見開いてその光景を見つめ、そして悟った。彼女を縛り付けていた鎖は解き放たれ、もうニナは自由に何処へでも飛んでいけるのだと、ハドリーはキラキラと光り続ける欠片の中で、呆然とした頭で考えていた。それはもう、自分もニナも、過去の虐待の影に怯えなくてもいい、という事だった。
――そうだ、もう怯える必要はない。俺は、飛び立つ彼女を支える大きな木になるんだ。
黒々とした森の中のぽっかり開いた広い空間に広がる花々が咲き乱れる草原に、太い枝を伸ばし豊かな緑を湛え聳え立つ大きな木の周りを一匹の大きな美しい青い羽の蝶が飛び交い、そしてその大木でそっと羽を休める、そんな不思議な光景がハドリーの頭に鮮明に浮かんだ。頭の中に唐突に浮かんだそのビジョンを不思議に思いながらも、静かにハドリーは受け止めてフッと笑った。
「ニナ」
目の前で涙を浮かべてハドリーを見つめるニナを優しく見て、ハドリーはそっとニナの頬に手を伸ばした。
「もう怖がる必要はない。お前も、俺もだ。お前はやっと過去から解放されたんだ」
ハドリーは微笑んで嬉しそうにニナに囁いた。その言葉にニナは目を見開いて、黙ったままハドリーを見て怪訝そうな顔をしたが、
「俺達は暮らしていける。これで暮らしていけるんだ!」
と、ハドリーは嬉しそうにニナを抱き寄せた。ニナは目を泳がせ戸惑っていたが、やがてハドリーの背中に腕を廻して強く抱き締め、ハドリーの胸に顔を埋めるとボロボロと涙を溢した。
ハドリーはベッドから起き上がると、上半身は裸のまま冷蔵庫からエールと木苺のジュースの瓶を取り出した。暖炉にはまだ微かに火は燃えていたが、凍てつく冬の夜の厳しい寒さには変わりはなかった。だが、上気したように火照った体は不思議と寒さを感じなかった。
「ほら」
と、言ってハドリーはベッドに腰掛けると、まだベッドの中で口元まで毛布で覆って赤い顔で逆上せたようにボーッとしているニナにジュースを手渡した。以前なら、少しでもニナがそんな状態を見せたらハドリーの胸には不安が渦巻いたが、今は凪いだ海のように心は平穏だった。
ニナはベッドに起き上がって受け取ったジュースの瓶を両手で抱え込んだ。胸元まで毛布を引き上げて覆っていたが、覗いた両肩はまだ薄っすらとバラ色に輝き、赤い顔のまま夢みるような表情で前を見たままニナが呟いた。
「……今日のハドリーはいつもより意地悪だったわ」
「そうか。まぁ、本気を出したのは今日が初めてだったからな」
ハドリーはいつものように素っ気無く言うと、エールをごくりと飲んだ。
ニナはハドリーを潤んだ目でじっと見て、
「……クレアにも意地悪だったの?」
と、寂しそうに呟いた。ばつが悪そうに天井を見上げたハドリーはしばらく黙っていたが、
「言い訳はしない。ニナが俺を許さないなら、仕方がない」
と、俯いて静かに言った。ニナはじっと考え込んでいたが、やがてそっと微笑んだ。
「クレアは歌えなかったわ。私は歌えた。だからもういいの」
ハドリーが顔を上げて振り返ってニナを見つめると、ニナは少し悪戯そうにハドリーを覗き込んでクスッと笑った。
「でもクレアの百倍ぐらい私を愛してくれなきゃ嫌だわ」
「そんな少しか。もうとっくにクリアしてるぞ、一万倍ぐらいと言っておけ」
ハドリーは微笑んでニナの頬に手を当てて、何か言い掛けたニナの唇をそっと自分の唇で塞いだ。
長いキスの後、ニナがふっと思い出したように「あ……赤ちゃん……」と心配そうに呟いてから、はっと気づいたように片手で口を塞いだが、ハドリーはふっと笑って、「なんだ。出来たら困るのか?」と、意地悪そうに聞いた。ニナが真っ赤になってブンブンと首を振ると、ハドリーはニナの手からジュースの瓶を取ってベッドサイドのエールの隣にそっと置き、ニナの耳元に口を寄せて囁いた。
「俺達の子供はきっと可愛いぞ、天使みたいに」
目を見張ってハドリーを見たニナの瞳に涙が浮かんでくると、ハドリーは優しくニナを見つめて、もう一度ベッドに押し倒してゆっくりとキスをした。
それから二、三日の間、ハドリーとニナはそこで静かな、濃密な時間を過ごした。宿屋の親父は女の髪が金髪から栗色に変わっていても気にする風でもなく、女がニナとも気づいてないようで相変らず無愛想だった。
静かに凪いだ湖の傍らに二人寄り添って腰を掛け、湖面を眺めて静かに歌った。観客の居ない舞台で、風に乗って二人の歌が遠い湖面にさざ波を立てるように流れていった。歌が終わると静かに寄り添ったまま、言葉も交わさずに湖を二人見つめ続けた。
夜には、帳の下りた小さな明かりだけが灯った部屋で、二人、愛を確かめ合った。
湖の周りを二人で歩いたり、釣りをしたり、穏やかな時間が流れていった。ハドリーは此処へ来てから一度も釣れなかったのに、ニナはすぐに中型の虹鱒を釣り上げた。宿屋の親父がそれを捌いて、ソテーにして食べさせてくれた。
そして最後の日、精算を済ませると親父は無言で背を向けた。二人が苦笑いして立ち去ろうとすると、親父は背を向けたままぶっきらぼうに呟いた。
「ハドリー、ニナ。また一緒に来い。今度はもっと大きな虹鱒を食わせてやる」
二人は顔を見合わせて微笑み、
「ああ。きっと来る」
ハドリーが嬉しそうに返事をした。
ところが、その頃ロンドンでは大騒ぎになっていた。ハドリーに続いてニナも所在不明になったことで、「ニナも失踪」や「ニナ自殺の恐れ?」などと、センセーショナルな記事がマスコミによって報道されていた。
「ニナはハドリーが何処に居るのか分かっている。会いに行った」とリンダから聞いていたキャンベルは、関係者には「ニナは心配ない。ハドリーを迎えに行った」と通達し、辛うじて平静を保っていた。ニナを信じて待つしかないということで、マスコミには「二人はオフで旅行に行っている。行き先は知らない。プライベートには関知しない」と説明した。
ハドリーとニナはロンドンに戻ってきた。駅からパパラッチが追っていたようだったが、二人とも全く気にしなかった。家へ帰ると荷物を置いて、閉め切ってムッとしていた居間の窓を開け放ち、暗いカーテンを開けると涼やかな風が吹き渡った。
「ハドリー! 電話が大変な事になってるわ!」
居間の電話を見たニナが目を丸くして叫んだ。
留守電にしてあった電話には僅か数日で数百件の伝言が残されていて、床には大量のFAXされた紙が散らばり用紙切れのランプが点滅しているのを見て、二人で顔を見合わせて苦笑した。
「今、携帯の電源入れたら大事になるな」
ハドリーもニナもずっと携帯の電源を切っていた。
「でも、キャンベルとアルバートには連絡しないとな」
と困ったように呟いて、ハドリーは電話を取った。
「ああ。アル。俺だ」
とハドリーが言うや否や、受話器の向こうからアルバートの怒鳴り声が聞こえた。受話器を耳から離して片目を閉じて恐々と聞いていたハドリーだったが、
「すぐ来るってさ。五分、いや三分で来るな」
と、苦笑いした。そして直ぐに事務所へ電話してキャンベルを呼び出して貰った。さっきのアルバート以上の怒鳴り声がしたが、もう何を言ってるのか分からないぐらいだった。ニナと困ったように顔を見合わせてたハドリーが、声が止んだ隙に、
「で、明日何時なら居るんだ?」
と訊くと、また罵詈雑言と思われる意味のわからない言葉が続いたが辛うじて十四時が聞き取れた。そこで玄関のチャイムが鳴ったので、
「ああ。アルが来たから。明日な」
と、言ってハドリーは強引に電話を切った。
「やあ。アル」
玄関先に顔を顰めて仁王立ちするアルバートとその後ろで心配そうなキャシーを迎えると、ハドリーは気まずそうに挨拶した。だが、そのハドリーの後ろからちょこんとニナが顔を出して、
「アル。キャシー。いらっしゃい」
と笑顔で言うと、アルバートとキャシーは驚いて顔を見合わせた。
居間のソファに腰掛けて、まだ憮然としたままのアルバートと心配そうなキャシーに、ニナがお茶を出してもてなした。するとハドリーがキャシーに向かって、にこやかに言った。
「キャシー。ニナの背中の治療を頼めないか。ここのとこやってないんだ」
「おい。こんな時に……」
と、アルバートが言い掛けると、ニナが静かに、
「そうね。そういえばやってなかったわ。キャシーお願いできる?」
と、キャシーに微笑んだ。顔を見合わせたアルバートとキャシーだったが、アルバートが頷いて、キャシーはニナを手招きすると二人で静かに居間を出て行った。
二人が出ていくのを見守って、アルバートは手を前で組んでハドリーに向き直った。
「で?」
アルバートは、ハドリーにはニナに聞かせたくない話があるのだと気づいていた。そのハドリーは静かにアルバートを正面から見据えた。
「ニナが自分を解放したんだ」
最初アルバートはその言葉の意味が分からなかったが、やがて驚いたように叫んだ。
「本当か?」
「ああ。本当だ。ニナは自分で自分の暗示を解いた。何故分かるのかと聞かれると困るが……俺には分かるとしか言えない。だが、確かにニナは自己暗示を解いて、成長し始めた」
アルバートは、まだ信じられないというように首を振った。
「それが本当なら、ニーナは……」
「ああ。もう虐待の影に怯えることもない。これから皆が辿るのと同じように成熟していくだろう。成長に遵って、子供も産めるようにもなる。もう、ニナがあの霧の中に連れ去られる事はないんだ」
と、ハドリーは静かに嬉しそうに言った。
「俺はずっと、ニナがまた心を閉ざしてしまうのを恐れていた。ニナの暗示が解けない限り、虐待からの防御が解けない限り、俺は黙って見守るしかなかった。分かっていた。分かっていたが……俺は焦りと苛立ちで、ニナを傷つけた」
そう言うと、ハドリーは一度目を伏せた。そして顔を上げると、
「でも、俺も、もうニナを失う事を恐れる必要はなくなった。俺達は、これから普通の夫婦として暮らしていけるんだ。愛し合って子供を儲けて、普通の、普通の夫婦として一生共に生きていけるんだ」
と、アルバートの目を真っ直ぐ見た。アルバートはじっと黙って考えていたが静かに言った。
「ニーナはお前を許したのか?」
「ああ。クレアより百倍愛してくれればいいってさ。俺はそんなに少なくていいのかと言ったけどな」
ハドリーが笑って頷くと、アルバートは黙ってため息をついた。
「ニナは、クレアに随分と酷い事を言われていたようだ。だが、ニナはクレアの事も怒ってはいない。公演で彼女が歌えず、ニナは立派に歌いきったことで、もうニナの中では吹っ切れたようだ」
と、ハドリーは静かに語った。アルバートはじっとハドリーを見つめていたが、
「ニーナがお前を許したんなら、俺はもう何も言う事はない」
と、ふっと微笑んだ。ハドリーは真剣な目でアルバートを見て、そして頭を下げた。
「心配掛けて済まなかった。アル」
アルバートは苦笑してハドリーの肩を叩き、それから声を潜めて、
「ただウチの息子には注意しろよ。お前を殴る気満々だからな」
「黙ってボコボコにされるしかないだろう、俺は」
とハドリーは頭を掻いて苦笑した。
ハドリーとニナに見送られた帰り道、並んで歩くキャシーにアルバートが話し掛けようとすると、キャシーがぽつりと言った。
「あの子、やっと解放出来たのね」
まだ告げてないのに悟っている妻にアルバートは驚愕した。
「さっきね。本当にニーナ、綺麗だったの。輝いたように美しかったわ」
キャシーは目に涙を浮かべてアルバートを見てそっと呟いた。アルバートは傍らの妻をじっと見つめていたが、
「……やはり、母親っていうのは凄いな」
と、感心したように微笑んでキャシーの肩を抱いた。
翌日、事務所を訪れた二人に、サラはちらっと一瞥しただけでいつものように冷静に言った。
「キャンベルなら奥に居るわ」
何処かへの電話で怒鳴り散らしているキャンベルの前に、まるで宿題を忘れた生徒のように二人立って、そっとそっぽを向いていた。
電話を切ったキャンベルが、眉を寄せて二人をジロリと睨んで見上げた。
「で? 何か言う事は?」
「ああ。次の舞台のスケジュールの確認に来た」
「……えっと、ただいま、キャンベル」
ハドリーが素っ気無く、ニナがニコニコと笑顔で言うと、
「ばかもーーーん!」
と、キャンベルは顔を真っ赤にして二人を怒鳴りつけた。
ニナが耳を覆って目を閉じて怯えると、キャンベルは咳払いして、ギロリとハドリーを睨んだ。
「二人揃って来たという事は、お前ら仲直りはしたんだな?」
「ああ」
「うん」
ハドリーとニナは顔を見合わせて微笑んで頷いた。
「で、マスコミには何て言い訳するつもりだ」
と、キャンベルが腕を組んで憮然として言うと、
「オフに自分の女房と旅行をして何が悪いんだ、とでも言っておいてくれ」
ハドリーは両手を広げて、片眉を上げてあっけらかんと言った。
「湖水地方に行ってたの。とっても綺麗でいい所だったわ、ねっ、ハドリー」
と、ニナはハドリーをニコニコと見上げて嬉しそうに言った。キャンベルは眉を寄せたままニナをじっと見つめていたが、やがてぽつりとニナに訊ねた。
「ニーナはそれでいいのか?」
ニナは微笑んだまま黙ってキャンベルに頷いた。
じっとニナを見つめていたキャンベルは、面白くなさそうに、「ふん」と、言うと、
「ならこの借りは働いて返してもらうぞ」
と、二人を睨んだ。
「ハドリー、お前はスケジュール通りだ。来月から舞台だ。半年後には『天使』だ。後、王子の結婚式、これは二人共出て貰う。ニーナは半年後の『天使』の舞台と、後、その前にいくつかオファーが来てる。何せ半年分のオファーを一度全部キャンセルしたからな、誰かのお陰で」
と、今度はハドリーをジロリと睨んだ。ニナはキャンベルを済まなそうに見たが、
「俺はいいがニナは休ませてくれ」
と、ハドリーは平然と言った。怪訝そうにハドリーを見るキャンベルにも介さず、
「またオファーを断ることになったらまずいだろ。それからリトルも代役を探しておいてくれ。多分ニナは出られない」
と、いつもの調子で素っ気無いハドリーに、机の前に回りこんでハドリーの前に立って顔を寄せ睨み付けながら、
「どの口がそんな事を言えるんだ!」
と、キャンベルは怒ったが、ハドリーは困ったように上を見上げて頭を掻いて、
「あー、多分三ヶ月後ぐらいには判る」
と、苦笑いした。
それからは人に会う度に生傷が増えていったハドリーだったが、毎日ニナが心配そうに傷の手当てをしていた。
ニナが泣きそうな顔で「皆にやめてもらうようお願いするわ」と言ったが、ハドリーは首を振って、
「俺には殴られる義務があるんだ。約束を破ったんだからな。それに、皆ニナを愛してくれている証拠だ。お前もそれを受け止めろ」
ニナの頭を優しく撫でて微笑んだ。
劇場の衣装室でリンダは採寸のメジャーをハドリーの首に巻きつけて、
「今回はクレアが一番悪いけど、誘いに乗ったアンタにも非はあるわ」
と、ハドリーを正面から睨みつけて、キリキリとメジャーを締め上げて言った。両手を挙げて降参したハドリーは、冷や汗を掻きながら苦笑した。
「ああ、分かってる。いくらでも頭を下げるから、絞め殺すのだけは勘弁してくれ」
「……ふん。ニナが『ハドリーを許さない』って言ってくれたら、心置きなく絞め殺せるのに」
リンダが詰まらなさそうに睨むと、
「頼むから、真顔で怖い事言うのは止めてくれ」
と、ハドリーは、少し跡の残る首筋をまだ苦しそうに撫でて眉を寄せた。
その日、マート、キース、カイルと一発ずつ殴られたハドリーが楽屋で赤い頬を撫でていると、静かにラルフが入ってきた。ラルフは悲しそうにハドリーを黙って見つめてため息をつくと、静かに微笑んでハドリーの肩を叩いただけだった。
テッドの店でナイフを持ったベラに詰め寄られた時には、その殺気に『本当に刺される』と焦ったハドリーだったが、あっけらかんとしたニナに助けられ、「今度やったら殺すよ」の脅し文句だけで済んだ。
アルバートの家でジェームズと向き合った時にはハドリーは両手を挙げ降参し、
「今舞台中だからボディーにしてくれ」
と懇願し、ジェームズの一発を食らって苦しそうに咳き込んだ。
ニナが目に涙を浮かべて「ジェミー。ハドリーを許して」と泣くと、ジェームズはハドリーに手を貸して起こし、
「今回はこれぐらいで勘弁してやる」
と、ハドリーの背中を叩いた。
舞台で殺気だった集団にハドリーが囲まれた時に、「もうやめて! お願い、もうみんなハドリーを許して!」とニナが泣き叫んだ事で、「ニナを泣かせたら本末転倒だ」と事態は収まっていった。
「ただいま。ニナ、土産だ」
ハドリーは帰ってくると、にっこりと笑ってカフェDDの袋を差し出した。
「わぁ」
ニナが嬉しそうに受け取って中身を見ると、カスタードプディングが一つだけだった。
「ハドリー、一個しかなかったの?」
「あの親父。店に入るなり俺を絞め上げて、『お前に売る物はねぇ』だと。でも、ニナが食べたがってるんだって言ったら、『ニナの分だけ売ってやる。お前は食うな』だとさ」
と、ソファでタイを緩めながらハドリーは苦笑いした。ニナはしょぼんとしていたが、思いついたようにぱぁっと明るい顔になった。
「じゃあ、半分こね」
「ああ。俺はいい。お前が食べろ」
「だって……。ハドリーだってプディング好きなのに」
と、ニナは寂しそうに俯いた。ハドリーはそのニナの手を取って引き寄せると、軽くキスをした。
「俺は後でニナを食べるから」
「……最近のハドリーは食いしん坊だわ」
「お前だって、最近食いしん坊じゃないか」
赤くなって拗ねるニナに、ハドリーが笑った。すると、髪の毛まで真っ赤になったと思えるほど赤くなったニナは俯いて首をぶんぶんと振った。
「ばーか。本当の食べるほうだ。最近は良く食べるようになったな」
と、ニナの頬を撫でた。ニナが恥ずかしそうに頬を染めて微笑んでいるのをじっと見ていたハドリーは、すっくと立ち上がるとそのままニナを抱き上げた。
「やっぱり俺が先にニナを食う。そのうち暫く食べられなくなるからな。今のうちに大盛りだ」
と言って、じたばたしているニナの口を自分の唇で塞いで、足で居間のドアを開けた。
これだけはどうしても断る事の出来ないオファー、アーサー王子の結婚式に、二人は揃って参列して歌を捧げた。
浮気騒動のあった夫婦を結婚式で歌わせるのはという声も挙がったが、
「今は仲良しなんだし、夫婦とはそうやって乗り越えていくものだというお手本みたいなものだろう? それに僕はニナとハドリーが大好きなんだよ」
王子はにこやかに微笑んで二人の歌を熱望した。
ニナの淡いピンクのドレスは肩と背中の開いた大人っぽい物だったが、化粧を施せば跡が判らないぐらい回復した白く輝く背中と、膨らみを増した胸でよく似合って、髪を結い上げてハドリーとデュエットで賛美歌を捧げるニナの姿は神々しく光り輝いていた。
二人の歌は静かに教会に木霊し、涼やかな風が吹き渡った。人々の目の前には、豊かな湖水と、遥か上空から差す黄金色の光が広がり、神の祝福の手がその命の輝きを持って若い王子夫妻に差し伸べられるのを誰もが感じ取った。大司教はクロスを組んで、その奇跡の光景を感動の眼差しで見つめていた。若い王子は満足そうに微笑んで、二人の歌を傍らの妃の手を取って聴いていた。
ロンドンへ戻って三ヶ月後、ハドリーとニナは病院を訪れて、長期の海外出張から戻ったアンダーソン医師に面会した。
ハドリーの説明にアンダーソン医師は驚いたような顔で考え込んでいたが、既に成熟の兆候が現れているニナの数値データと、目の前で微笑んでいるニナの輝くような美しさを見て、ハドリーの説明が間違っていない事を確信した。
「それじゃあ、これから僕は二人の担当医ではなく、友人として付き合って貰えるかな?」
初めてみるアンダーソン医師の満面の笑顔に、二人も笑って頷いた。
ハドリーが少し心配そうに、ニナに聞こえないように医師に口元を寄せてそっと囁いた。
「で、あの強迫観念は……」
「ああ、もう理由を突き止める必要はなくなったようだ」
と、笑顔で血液検査の結果を手でひらひらとさせるアンダーソン医師を、不思議そうな顔で見つめるハドリーに、医師はにっこりと笑った。
「おめでとう。本当は産婦人科医が言う台詞なんだけどな」
ハドリーの言った通り、本当にニナは妊娠していることが判明した。
キャンベルは、ハドリーの報告に最初は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「ふん。お前の言う通りだったな。来週リトルのオーディションがある。お前も出ろ。ニーナもな」
と素っ気無く言ってから、行き成り相好を崩して目をキラキラとさせて机の上に身を乗り出した。
「で、男か女か? どっちなんだ?」
「さあ?」
と、ハドリーがぶっきらぼうに言うと、キャンベルはそわそわと部屋の中を歩き回り、
「いいか、ハドリー。色々と準備が必要だ。ああ、いい。俺がちゃんとやってやる」
口を挟もうとしたハドリーを制して、キャンベルは嬉しそうにうんうんと頷いた。
その後キャンベルは毎日のようにベビー用品を送りつけて、家中がベビー用品だらけになった。
「もう入れる場所が無いわ、ハドリー」
「あの……バカ親父め」
今日も届いた玄関先の大荷物にニナがため息をつくと、ハドリーは顔を引き攣らせて呆れたように呟いた。
キャシーとアルバートも初孫に喜び、アルバート家も吉報に家中で沸き上がった。
「俺は、叔父さんとは呼ばせないぞ!」
と、鼻息の荒いジェームズに、アニーは横目で見て呆れたように、
「私は叔母さんでもいいわよ。そんなの気にするのはもう若くないってことね」
と、ジェームズに逆襲してみせて、ハドリーもニナも明るく笑った。
笑い声が響くアルバートの家に、優しい秋の陽がカーテン越しにキラキラと輝いていた。




