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蝶の羽化1

 結婚してニ年が過ぎ、ニナは二十三歳になった。二人とも忙しい仕事が続いていたが、いつでも寄り添うように二人一緒で、「いつまでも新婚夫婦みたいだな」と、仲間から冷やかされた。

 ニナもハドリーも様々な賞を獲得し、ミュージカル界での地位と実力は不動のものとなり、世界各地でそれぞれ舞台を重ねていった。

『天使の歌声』と賞賛されたニナの歌声は更に輝きを増した。特に愛の歌を歌うニナの表情は瞬きを忘れるほど美しく輝き、人々を魅了した。ハドリーの歌も深みと慈愛が増して、重厚な役から軽妙な役まで幅広くこなして、より人々に愛された。

 私生活でも、アルバートの家と行き来しつつ、穏やかで愛に満ちた日々が続いていた。ニナの暗示がまだ解けていないため、ハドリーはニナにさり気無くではあったが慎重に接していた。夜を共にするのは、ニナが望んで体調が良さそうな事を慎重に見極めた時だけで、ハドリーは常に理性を保っていた。

 なんの不満もない充実した日々のように思えたが、ニナには不満が一つあった。ハドリーが、子供を作ることに賛成しなかったのだ。



「ハドリー。ここに赤ちゃんが居たら、もっと楽しいと思わない?」

 夕食のテーブルを囲んで、ハドリーの半分ほどの量しか盛られていないチキンソテーを沢山残して、ニナがフォークで持て余しながら言った。

「ダメだ。ニナ。言っただろ。お前には危険すぎる」

 ハドリーが、台本を片手にニナを見ずに食べながら言うと、ニナは頬を膨らませて拗ねた。

「アンダーソン先生は大丈夫かもって言ってたじゃない」

「そっちの事だけじゃないんだ。ニナ。お前は小さすぎて普通分娩には耐えられないだろうって言われただろ。だからダメだ」

 ハドリーは台本を置いて顔を顰めながらニナを見て言った。

「……大丈夫なのに……」

 ハドリーを上目遣いに見て、ニナは寂しそうに呟いた。ハドリーはため息をついて、

「それじゃあ……」

 と言うと、自分の目の前の皿のチキンソテーの残りをフォークとスプーンで掴み、ニナの皿の上に山盛りにして、素っ気無く言った。

「全部食べろ。ジュリーぐらい大きくなれば赤ちゃんも産めるぞ」

「ハドリーの意地悪! 私がそんなに食べられないって知ってるくせに!」

 ニナは困りきった顔で文句を言った。

「食べないと赤ちゃん産めないぞ」

 ハドリーは横を向いて知らん振りして、ご馳走様と皿を下げに席を立った。

「意地悪……」

 ニナは口をヘの字にして、目の前のチキンの山をじっと見て小さく呟いた。


 ハドリーは冷蔵庫からノンアルコールーエールを取り出すと、台本を掴んだままソファに腰を下ろした。ダイニングテーブルではニナがチキンの山を目の前に、床に届かない足を揺らしてむくれていた。ハドリーのサイズに合わせた調度だから、ニナには何もかもが大きすぎるのだ。ハドリーは、遠い目をして記憶を辿った。


 結婚が決まった時に、ハドリーはアンダーソン医師から長い時間を掛けてカウンセリングを受けた。以前アルバートからも聞いていたが、ニナは虐待の影響により自分自身で成長を抑止していた。一時快方に向ったが、ニナが心を閉ざした時に再び彼女は自分で成長を止めてしまった。

「生殖機能の成熟度から見ても、ニナはまだ二次成長を終えていない」

 アンダーソン医師は静かに語った。

「ニナが自然に自分を解放して成熟するのを、ハドリー、君は待たねばならない。それに耐えられる自信があるかい? その自信がなければ、私は勧められない」

 ハドリーは、固い表情で頷いた。

「ニナを失う以外に怖いことなど俺にはない」

 アンダーソン医師は黙ってハドリーを見つめて頷いた。

「ハドリー。君の精神力は強い。が、不安になったら私を頼って欲しい。君の力にもなりたいんだ。」


 ハドリーはアンダーソン医師の言葉を思い出して、再びため息をついた。立ち上がって、一向に減らないチキンの山を前に困った顔で固まっているニナの前に行くと、黙ってブレッドBOXと、冷蔵庫からチーズとバターを取り出してテーブルにドンと置いて、パンにバターを塗って、チキンとチーズを挟んでサンドイッチを作りラップに包んだ。

「それだけは食え。後は明日のランチだ」

 チキンを二切れ皿に残し、サンドイッチを冷蔵庫へ入れた。

 残り僅かとなった皿を前にニナはほっとしたように微笑んだ。

「ハドリー。ありがとう」

 と言うと、ニナは残ったチキンを一生懸命食べていた。

 ようやく食べ終わった皿を片付けるとニナはソファのハドリーに駆け寄って、

「なんだ?」

 と、台本に目を落として顔を上げないハドリーの頬にそっとキスして、

「ありがとう。ハドリー」

 と、頬を染めて言うと、パタパタと嬉しそうに部屋へ駆けて行った。

「……全く」

 とハドリーはぼやいてみせたが、頬は少し照れたように赤らんでいた。


「ハドリー。お願い」

 その後しばらくしてニナが入浴後のガウン姿で、居間のハドリーに声を掛けた。

「ああ」

 と、ハドリーは台本をテーブルに置いて、ソファを立ち寝室へ行った。

 ニナは週に一度、背中のムチの跡の治療のために、マッサージを受けていた。最初は女性看護士にも背中を見せるのを嫌がったが、やがて女性なら治療を受けられるようになり、長い間この仕事はキャシーのものだった。キャシーの献身的で愛情の篭った手で、ニナの傷跡は大分癒えてきていた。結婚後は、ハドリーが引き継いだ。家も近いのだし、引き続きキャシーがやる事をアンダーソン医師は提案したが、ニナが首を振った。全てを受け入れたいし、受け入れて欲しいというニナの願いだった。ニナもハドリーには安心して背中を見せていた。

 寝室のベッドにちょこんと背を向けて腰掛けて、まだ少し濡れた栗色の髪をブラシで梳いていたニナが、入って来たハドリーを見て、髪をそっと前へ流して綺麗な首筋を見せると、ガウンを緩めて背中を露にした。ハドリーはいつものようにマッサージ用のクリームを手にしたが、ニナの白い背中を見て立ち止まってしまった。見慣れた筈のニナの背中が、眩しいぐらいに美しく見えたのだ。肩から背中に掛けての曲線が、以前より柔らかさを帯びて流れるように伸び、天使の羽のようにくっきりと浮かび上がった肩甲骨が白く輝いていた。背中に僅かに赤いムチの跡がまだいくつも残っているが、背中から腰に掛けて以前より丸みを帯びて、くびれたウエストから少し張り出した腰も前よりも少しふっくらとしていた。

「ハドリー? どうしたの?」

 ニナが腕を前で組んで胸を覆ったまま、不思議そうに振り返った。その胸も少し膨らみを増して、ニナの細い腕から少し零れて谷間を作っていた。

「え? いや。なんでもない」

 とハドリーは少し慌てて目を逸らし、クリームを手に取って、無愛想に聞こえるように呟いた。

「いいから後ろを向け」


 ニナにはどぎまぎした気持ちを悟られないように、ハドリーは細心の注意を払っていた。ニナにとって『背中の治療』は悪夢の記憶の一つでもあるからだ。ニナは施設でムチ打ちの後、『治療』と称して性的な虐待を受けていた。結婚でハドリーが引き継ぐ事になった時、アンダーソン医師から厳しく注意されていた。本当は毎日やったほうがいい治療を週1回に止めているのはそのためだった。

 ハドリーは、その場でニナを抱き締めたい感情を押し殺しながら、ゆっくりと背中のマッサージを終えると、ニナに向って言った。

「よし。いいぞ」

 ニナがガウンを着込むとようやくほっとして、悟られないようにハドリーが小さくため息をつくと、ニナはベッドの上で考え込むようにポツリと呟いた。

「……今日のハドリー……変だったわ」

「え?」

「なんかいつもと違う」

 ニナは振り返ってベッドから降り、ハドリーに歩み寄ってじーっと見上げた。

「どこが違うっていうんだ。俺は俺だ」

 ハドリーは目を逸らして、わざと少し怒ったような声を出したが、ニナは黙ったままハドリーを不審そうに見上げたままだ。

「終わったからな。俺はまだ台本が……」

 目を逸らしたままハドリーが寝室を出ようとすると、ニナがハドリーの手を取った。立ち止まってニナを振り返ったハドリーを見上げて、そして、そのまま背伸びをしてキスをした。

「いつも、ありがとう。ハドリー」

 顔を赤らめてそっと呟くニナをじっとハドリーは見つめた。潤んだ瞳も、肌理細やかな肌に恥らいの薔薇色を浮かべた頬も、赤く艶やかな小さな唇も、何もかもが愛おしかった。白い首筋も、そして今はガウンに隠されている、さっき見惚れた白い背中も、その全てを愛したい衝動がハドリーを突き動かして、その感情をいつものように理性で制御する事が出来なくなった。

 ハドリーはそのままニナを強く抱きすくめると、赤くなってドギマギしているニナを抱き上げた。そして、ベッドへ運んで横たわらせるとニナの耳元に口を寄せた。

「……でも、ベビーはダメだぞ」

 と呟いてから、ハドリーはニナをじっと見下ろすと、いつもより激しくニナにキスをして、そっとガウンの紐を解いた。


 だが、その夜ハドリーは眠れなかった。

 感情に任せてニナを抱いてしまったことを後悔していた。さっきニナが赤い顔で少しぼーっとした表情していた事が気になって仕方が無かった。横で眠るニナに異変が起こらないか、何度も目を覚まして確認した。その度にすやすやと眠るニナを見てほっとして眠りにつこうとするが、また目が覚めてしまった。ため息をついて再び起き上がって隣のニナを見ると、ニナがあの時のような輝きを失った瞳を開いたまま人形のように転がっているのを見て、ハドリーは絶叫した――

 そこで、またハドリーは目を覚ました。夢だった。ニナは変わらず穏やかな顔で小さな寝息を立てていた。全身に汗を掻いて静まらない心臓の鼓動に、ハドリーはニナを起こさないようそっと起きだし、キッチンでコップに水を汲むと一気に飲み干した。

「くそっ!」

 コップを叩きつけるように置くと、ハドリーは悪夢を振り払うかのように頭を振った。その瞬間、背後から深い闇が迫っているように感じて、ぞくっとして振り返ったが、そこには薄ぼんやりとした居間の光景が広がっているばかりで、ハドリーはキッチンに寄りかかるとそのままずるずると座り込んだ。



 翌朝、明け方少しうとうととしたハドリーが目を覚ました時には、もう陽は高く登っていた。起き出して居間に来たが、ニナの姿が何処にも無かった。一瞬どきりとしてニナの姿を探すと、窓が開いてカーテンがそよぐ向こう側、中庭で、嬉しそうに跳ねるニナが居た。いつも遊びに来る隣の猫と子供のようにじゃれて遊んでいた。ハドリーは首を振るとソファに倒れこむように腰掛け、楽しそうにはしゃぐニナをじっと見つめてふぅと息をついた。

「どこが大人だよ……人の気も知らないで」

 だが、明らかに変わり始めたニナに、ニナが自分を解放し始めたのかもしれない、とハドリーは思った。成熟し母になる事の出来る体を得て、どうしても子供が欲しいのだと。それなら、ニナに子供を授けることが可能なんだろうか、とハドリーはぼんやり思った。

 しかし、逆にハドリーはそれが不安だった。ニナが、何か生き急いでるような気がしてならなかった。固い殻で自分を守り縮こまっていた蛹が羽化しようとしている、そう思った。美しい蝶になったニナが自分の手を離れて飛び立ってしまうのではないか、ハドリーは、そんな筈はないと分かっていても、沸き上がる疑念を払い去ることができなかった。

「来週から、キャシーにやってもらおう……」

 くまの消えない目を閉じ、ハドリーはぽつりと呟いた。



 その日ハドリーは午後からバンドの練習があった。

「いいなぁ。いつまでも新婚カップルは」

 何度も生欠伸を噛み殺すハドリーを見て、ジェフがにやにやと笑って、ハドリーを横から小突いて冷やかした。その声にハドリーは不機嫌そのものといった顔で振り返ってジェフを睨んだ。

「あ?」

「おー怖、羨ましくて言ってんだよ。悟れよ」

 ジェフが首を竦めて不満そうに呟くと、ラルフが苦笑して、まぁまぁと手を上げて両者をいなした。

「だってさ。最近のニナって、こう……なんというか、凄く綺麗になったよな。前は子供子供してたけど、色気……とは違うけど、大人になった雰囲気がする」

「何言ってんだ。こないだも夕飯を沢山残して食べれないって拗ねてたんだぞ」

 うっとりとした顔で呟くジェフに、ハドリーが呆れて不機嫌そうに言うと、ジェフもラルフもドリンクをぶっと噴出して、「ニナらしいや」と、笑い出した。

 ハドリーは益々憮然として、二人に背を向けアンプの調整を始めるが、背後からでも分かる不機嫌のオーラは消えず、ラルフとジェフは顔を見合わせて苦笑した。ラルフはジェフの肩を叩き、そしてハドリーの肩も叩いて優しくハドリーを諭した。

「気にするな。ハドリー。お前らがうまくやってるならいいんだ」

 そして全員に向って、「よーし。始めるぞ」と、声を掛けた。


「おかえり。ハドリー」

 ハドリーが夕方帰ってくると、ニナがぱたぱたと玄関に走ってきて迎えた。嬉しそうに抱きついておかえりのキスをするニナはまだ上機嫌だった。

「ああ」

 と、ハドリーは短く答えると目深に被っていた帽子をニナに手渡して寝室に向かった。ニナがその後をちょこちょことついて来て、

「ねぇねぇ。ハドリー。今日デイジーが遊びに来てくれたの」

 と、嬉しそうに話した。デイジーはニナよりも先に結婚してもう子供が二人居るが、忙しい子育ての合間に仕事でも才能を発揮させ、今では英国のフラワーアーティストの第一人者となっていた。

「ああ。大きいイベントが終わったばかりだったな。デイジー」

「うん。モーターショーのね。で、今度はほら、私達も招待されたアーサー王子の結婚式。デイジーも晩餐会の花のプロデュースすることになったんだって」

 と、ハドリーが脱ぎ捨てた上着をハンガーに掛けながら、ニナはニコニコと話した。

「ほぉ。それはすごいな。もうすっかり第一人者だな、デイジーも」

 友人の明るいニュースに、ハドリーも少し微笑んだ。

「でね。今日はミーナとクリスも一緒だったの。すごく可愛かったの。二人とも天使みたいで、金髪がくるんくるんしてて。私達の子ならやっぱ髪は茶色かなぁ。でも茶色も可愛いよね。きっと」

 と、ニナは瞳をキラキラさせて言った。途端にハドリーは顔を曇らせ、またかとため息をついた。

「他所は他所。ウチはウチ」

 と、ハドリーはTシャツを被りながら呟いた。ニナはそれまでの上機嫌が影を潜め、眉を寄せて悲しそうに呟いた。

「……最近のハドリーは意地悪だわ」

「そりゃそうさ。大きな子供が毎日駄々捏ねてるんだからな」

 と、ハドリーはニナを見ずに素っ気無く言った。ニナは黙りこくっていたが、脹れて叫んだ。

「ハドリーのわからず屋!」

「わからず屋はどっちだか」

 ハドリーは背中を向けたまま、鞄の中から台本を出した。

「私は貴方を一人ぼっちにしたくないのよ! なんで分かってくれないの!」

 ニナの叫びにハドリーは振り返った。顔を真っ赤にして、目に涙を貯めてニナは肩で息をしていた。


「今、なんて言った?」

 ハドリーの瞳には静かな怒りが篭っていた。

「俺が一人ぼっちになるだって? 誰がそんな事を決めた?」

 ハドリーの顔はだんだん怒りで真っ赤になっていった。ニナに近づき、左腕を掴んで体を引き寄せると顔を寄せて睨み付けた。

「俺はもうずっと前から決めてるんだ。お前が逝く時が俺の逝く時だ! お前が悪夢を彷徨っていた時からずっと、ずっとだ! 俺は一人ぼっちになんかならない! いらない心配をするな!」

 そういうとニナの手を振り払った。泣き出しそうな顔をしているニナに見向きもせず、ベッドにあったニナの枕を取り上げ、ニナに向かって放り投げた。

「しばらく自分の部屋で寝ろ」

 そう冷たく言って、ニナを部屋から放り出しドアを閉めた。

「……ハドリー!」

 ニナは枕を抱え込んだまま座り込んで、いつまでもその場で泣いていた。



 翌朝、一晩中まんじりともしなかったハドリーが起きてキッチンに来ると、もうニナは出掛けた後だった。ダイニングテーブルの上に、ニナの小さな文字のメモが置いてあった。

「朝十時~キャストミーティング 十八時~懇親会 二十一時頃アルに送ってもらいます。ニナより」

 どうやらちゃんと仕事に行ったようだ。ハドリーは安堵した。

「なんで、抱いても喧嘩しても心配ばかりしてるんだ、俺は」

 自嘲気味に呟いて、メモをテーブルの上へ投げ捨てた。

 鬱々とした一日を過ごしたハドリーは、ソファで台本を見ながらぼんやりとしていた。台本を読んでいるようでその実、中身は頭に入っていかず、居間に掛けられた時計の音だけが響いて何度も時計を見てはため息をついた。時刻は〇時に近づいていて、ニナの帰宅の予定を大きく過ぎていた。

「くそっ!」

 台本を投げ捨てた時に玄関前に近づく車の音に気づいて、ハドリーは不機嫌そうに立ち上がって玄関に向かった。

「遅いぞ!」

 人の気配に怒鳴りながらドアを開けると、目の前に、アルバートが驚いたように目を丸くして、そして、その腕の中にはぐったりとしたニナを抱えて立っていた。

「ニナ! 何が……」

 ハドリーが愕然として言い掛けると、アルバートはふっと苦笑した。

「ハドリー、心配するな。ただの急性アルコール中毒だ」

「え?」

 ハドリーはその言葉の意味が一瞬わからずに、不思議そうな顔をした。

「ニーナはいつも全然飲まないのに、今日は勧められると勧められるだけ全部飲んで……」

 そこまで言うとアルバートはニナをハドリーに手渡し、そして、手を広げ呆れたように笑った。

「で、ひっくり返ったんだ」

 ハドリーはまだ少し赤い顔をして自分の腕の中で眠っているニナを呆然と見つめた。

「一応、病院で手当てを受けてたんだ。それで遅くなった。済まなかったな、ハドリー連絡しなくて」

「い、いや。アル、こちらこそすまない。ニナが迷惑を掛けた」

 ハドリーの肩を叩いて済まなそうにするアルバートに、ハドリーは首を振った。

 アルバートはハドリーをじっと見てから、

「いや。明日にしよう。明日電話するから。ニーナを頼んだぞ」

 と言って、手を上げて帰っていった。

 ハドリーはニナを部屋に運び込んで寝かせると大きなため息をついた。そして部屋の明かりを消して、ドアを開けニナを振り返って、またため息をついてドアをパタンと閉めて出ていった。



 翌朝、ハドリーがニナの部屋のドアを開けて様子を見ると、ニナはまだ横を向いて縮こまるように眠っていた。夕べ赤かった顔は今度は逆に少し青ざめて、眉を寄せて少し苦しそうな表情で眠っていた。

「自業自得だ」

 ハドリーはふっと息をついて小さな声で呟いたが、洗面所へ行きボウルに冷たい水を張ってタオルを入れニナの部屋に戻り、浸したタオルを固く絞ると油汗を浮かべているニナの額をそっと拭いた。そしてまた浸したタオルを固く絞ってニナの額にそっと置き、眉を寄せてニナを見つめた。

 その時ハドリーの携帯が鳴った。ニナの部屋を出て電話に出ると、やはりアルバートからだった。

「おはよう、アル。夕べは済まなかった」

「ああ。おはよう。大した事じゃないさ。それよりも、今日は多分ひっきりなしに電話が掛かってくるから注意しろよ」

 と、笑うアルバートに、ハドリーが意味を諮りかねていると、

「昨日のニーナの様子をみんな心配してたからな。今日あたり電話ラッシュの筈だ」

「そういうことか」

 と、ハドリーは頭を抱えて呟いた。

「それよりも、ハドリー。お前達何かあったのか?」

 アルバートの声が気遣うような心配そうな声に変わった。

「ニナ、何か言ってたのか?」

「それが……『ハドリーは分かってくれない。彼は歌わなくちゃいけないのに。一人になっちゃいけないのに』、そう言って俺に涙目で愚痴を溢してたんだ。ニーナは酔ってたから覚えてないだろうけど」

 それを聞いてハドリーはまたかと、居間のドアを開けながらふうっと大きくため息をついた。

「ニナが最近子供を欲しがってうるさいんだ。でもダメなのはアルも知ってるだろ?」

「ニーナが? でも……ニーナには……」

「そうなんだ。でもいくら説明してもニナは納得しない。それで一昨日の夜、喧嘩になったんだ」

 ハドリーは苦々しい顔をして打ち明けると、居間のソファに座り込んだ。

「それが不満で飲めない酒を大量に飲んだんだろ、ニナは」

「でもニーナの気持ちもわからないでもない。愛する人の子供は無条件で欲しいものだと、キャシーも話していた。キャシーはなんとかしてあげられないか、と心配していたよ。俺達男には計り知れない気持ちが、“母”としての気持ちが女性にはあるんだろう」

 アルバートはハドリーを諭すように優しく言った。

「そうかもしれないが、でも……」

 ハドリーは苦しそうに首を振った。

「ニナにはやはり無理だ。アルからもニナを説得してくれないか」

「そうだな……機会を見て、俺からもニーナに話すよ」

 と、アルバートは約束して電話を切った。


 それから間をおかずにハドリーの携帯は鳴りっ放しになり、家の電話もけたたましく鳴った。どれもニナを心配して様子を尋ねるものか、「ニナを泣かせた」と、ハドリーを叱るものばかりで、そんな電話を十本近くやり過ごすと、ハドリーは受話器を叩き付けるように乱暴に切ってから留守電にし、携帯の電源も切ってソファに投げつけた。

「くそっ! なんで俺が悪者なんだよ!」

 不機嫌そのものといった顔でニナの部屋へ向かったハドリーがドアを開けて中を覗くと、ニナは額のタオルをシーツの上に落として、まだ苦しそうに眠っていた。近づいてニナの頬を触ると氷のように冷たかった。青ざめた顔で苦しそうに眉を寄せて、小さな唇も色を失ったかのように白かった。

 ハドリーの心臓がドクンと音を立てた。いくらなんでも様子がおかしい。一度湧き上がった不安はどんどん広がり、ハドリーの顔に焦燥と不安が浮かんでいった。

「ニナ。大丈夫か?」

 小さく声を掛け返事が無いことを確認すると、ハドリーはそのままニナを抱き上げ、車に運ぶと病院に向けて急発進した。




 ニナはやはり急性アルコール中毒だった。

「残っているアルコールの量が普通より多い。彼女はアルコール分解酵素が少ないんだ。アジア、特に日本人なんかには多いんだが……珍しいな」

 と、医師はニナの血液検査の結果を見ながら言った。

「とにかく、彼女には余り酒は勧められない。飲ませないように」

 と、医師はハドリーに厳しい顔で忠告した。

 点滴を受けまだ青い顔して眠っているニナの傍に座り、ハドリーは小さく、

「ばーか」

 と、ニナの額を突付いた。


 ハドリーはニナが点滴を受けている間に、アンダーソン医師に最近のニナの様子を相談した。もしかしたら暗示が解けて成長し始めているのではないかというハドリーの指摘に、医師は眉を寄せて考え込んでいた。

「ハドリー。ニナは以前よりも積極的に食べるようになったか?」

「いや。変わらない。まだ余り食べようとはしてないな」

 ハドリーは思い出すように手を口元に当て呟いた。医師は顔を上げて眉を潜め、

「女性ホルモンや成長ホルモンの数値も前と余り変わらない。本来はそんな劇的な変化が起こる筈ないんだ」

「じゃあ。何で……」

「ニナが言っていた君のために子供を残さなければならないという強迫観念の所為かもしれない」

 アンダーソン医師は考え込みながら呟いた。

「どういう理由でそういう強迫観念が生まれたのかは解らないが、今のニナは『成長してはいけない』という暗示と『成長しなければならない』という暗示が、両方混在している状態かもしれないな」

 ハドリーは黙って医師をじっと見つめた。

「ハドリー。それは余り好ましい状態じゃないな」

「俺はどうすればいいんだ?」

 眉を顰めるアンダーソン医師に、ハドリーは不安そうに訊ねた。

「……しばらくニナのカウンセリングを増やそう。まずその強迫観念が生まれた原因を調べないと。君は普段通りニナに接するんだ。出来るだけニナに子供の事を気にさせないようにしてくれ」

 医師は難しい顔で、ハドリーに指示した。



 夕方、家に戻る頃にはニナの目は覚めていた。だがまだ激しく頭痛がするようで、食べ物は何も欲しがらなかった。キッチンテーブルに座って紅茶をそーっとすすりながらニナはぼそっと呟いた。

「私……もうハドリーが二日酔いになっても怒ったりしないわ……」

 家では飲まないハドリーだったが、外で飲む時には必ず酒が抜ける翌朝まで戻らなかった。二日酔いのむすっとした顔で帰ってくる度にニナからいつも、「どうしてそんなに飲むの!」と、叱られていた。

「自業自得だ」

 ハドリーは眉を寄せてニナを見つめて素っ気無く言った。

「そうなんだけど……こんなに辛いものだとは思わなかったわ」

 ニナは頭を項垂れてしゅんとなって、

「私、一所懸命看病するわ。ハドリーが私にしてくれたように」

 ニナは潤んだ目で口をきゅっと結んでハドリーを見つめた。ハドリーはふっとため息をついてニナの頭をくしゃくしゃと撫で、

「お酒は禁止だ。わかったか?」

 と、ニナを睨んだ後、ニナの頭を優しく抱き寄せて抱きしめた。

「ハドリー。……頭痛い……」

 ニナは涙目になってハドリーに縋りついた。


 それからは、ニナも面と向かってハドリーに子供の話をすることは無かった。ハドリーも元通りにニナに優しく接して、二人の仲は元通りになった、ように見えた。だが、仲直りしたように見えて、ひずみはまだ消えては居なかった。

 ハドリーは一緒に寝るのを拒否して、寝室を分けたままだった。ニナを抱かなければあんな思いもせずに済むという自分への思いと、せっかく言わなくなった子供への願望をぶり返させたくないというニナへの思いが混在していた。寂しそうなニナには、忙しくて疲れているんだ、と素っ気無く言った。

 ニナの背中のマッサージもキャシーに依頼するようになった。ハドリーの中に澱のように積もった不安や不満はまだ堆く積もったままだった。






 この間のキャストミーティングは、この秋十一月に行われるレミゼの記念コンサートのもので、ニナは久しぶりにエポニーヌを演ることになっていた。ハドリーはワールドツアーの方に参加する事が決まっていたので、今回は出演しない事は前々から決まっていた。十月から二ヶ月間の公演で、ニナのコンサートのリハの開始と入れ替るように出発する予定だった。


 キャストの初顔合わせでニナは一人の美しい女性に出会った。

「ファンティーヌ役は、クレア・クロックフォードだ」

 と、キャンベルに紹介されたその女性は、長身のスラリとした姿に、サラサラと音を立てる綺麗なシルバーブロンドの髪をなびかせて、女神のような微笑でにっこりと微笑んだ。

「よろしく」

 クレアはブロードウェイで活躍する女優だった。元々は英国出身で、英国式ミュージカルへの造詣も深く、その容姿から『BWの女神』と賞賛されていた。英国での舞台は十年ぶりだと紹介された。


「クレア!」

 衣装係のリンダが、クレアを見つけると嬉しそうに抱きついた。

「久しぶりね。リンダ」

「何年ぶりかしら。元気そうでよかったわ。頑張ってるわね」

 と、クレアもリンダも嬉しそうに笑った。

 傍らでニコニコとその様子を見ていたニナに気づくと、クレアは女神の微笑みでニナに近寄って、

「初めまして、ニナ。貴女の素晴しい歌はいつも聴いているわ。よろしくね」

 と、女性もうっとりと見つめるような笑顔で微笑んだ。ニナは顔を真っ赤にして、

「よろしくお願いします! ニナ・フェアフィールドです!」

 と、ぺこりと頭を下げた。クレアはしばらく微笑んでニナを見下ろしていたが、そっとニナの耳元に口を寄せ、ニナだけに聞こえるように囁いた。

「ニナ。ハドリーの背中に小さな傷があるのを知ってるかしら?」

「え?」

「その傷は、私がつけたのよ」

 怪訝そうに聞き返したニナに、クレアはにっこりと笑って囁いた。

 驚いて目を見開いてクレアを見上げるニナの瞳に、優しく微笑むクレアが映った。だが、そのクレアの目は冷たく光って笑ってはいなかった。


 次の日、衣装室でニナはリンダから採寸を受けていた。

「ニナ。やっぱり前の衣装じゃ合わないわ。もう少し大きくしなきゃ」

 と、手直しが必要なのにリンダが嬉しそうに言った。ずっと黙っていたニナがぽつりと呟いた。

「リンダ。聞きたいことがあるの」

「なに? ニナ」

「クレアとリンダは知り合いなの?」

「そうよ。まだ私もクレアも研修生で、舞台に立ち始めた頃からの付き合いよ。でも十年前にクレアは本拠地をブロードウェイに移したから、しばらくぶりの再会だけど」

 リンダはエポニーヌの衣装を選り分けながら答えた。

「リンダも舞台に立ってたの?」

 と、ニナが驚いて聞くと、リンダは苦笑した。

「まぁね。でも才能なくて、デザインの方に興味が沸いて、こっちの道に進んだのよ」

「……クレアとハドリーは知り合いだったの?」

 ニナが俯いて聞きにくそうに訊ねると、リンダは眉を潜めた。

「誰から聞いたの?」

 と、不審そうにリンダが聞くが、ニナは黙って答えなかった。リンダはふぅと息をつくと、

「……昔の話よ。そう、もうずっと昔の事。気にすることないわ」

 と、ぽつりと言った。ニナが不安そうに顔を上げると、リンダは黙って微笑んでニナの頭を撫でた。

 ニナが去った衣装室で、リンダは一人考え込んでいた。脳裏に昔の出来事が過ぎった。泣いているクレアを抱きかかえ、ハドリーを罵倒している自分の姿。悲しそうな顔のまま空港から飛び立っていったクレアを、寂しそうに見送ったあの日。

「そうよ。もう十年も前の事よ」

 リンダは首を振って、誰に言うでもなく呟いた。


 リハが始まり、ファンティーヌの『I dream a dream』が皆の前で披露された。美しいクレアの綺麗な声が切々と響くと、皆感心したように頷いた。

 だが、ニナはじっと瞬きもせずに目を見開いてクレアを見つめていた。その歌に込められたクレアの想いがニナを巻きつくように取り囲み縛り上げて、ニナを凍りつかせていた。待ち続けている男への執念のような想いが、黒々とクレアから湧き上がっていた。クレアはハドリーを待っている、そう感じ取ったニナは、驚愕した目で細かく震えながらクレアを黙ったまま見つめ続けた。

 その夜、トレーニングルームで一人ベースの練習をしているハドリーの元へニナがやってきた。

「なんだ?」

 と、顔を上げずに弾き続けるハドリーに、ニナは悲しそうな顔で黙っていたが、やがて顔を上げて、

「ハドリー。クレアを知ってるよね?」

 と、ハドリーの手が止まったのを見て小さな声で呟いた。

「ああ。それがどうした」

「……ううん、何でもないわ」

 ハドリーがやはり顔を上げずに答えると、ニナは悲しそうに首を振った。

 ニナが部屋を出ていくと、ハドリーはそっとため息をついた。ハドリーも今回のレミゼにクレアが参加しているのは知っていた。苦い過去を思い出して一抹の不安が過ぎったが、

「……昔の事だ」

 と、不安を振り払うように呟いた。


 翌日、エポニーヌの衣装で台本を抱えて、少し俯いてニナが廊下を歩いていると、クレアの優しげな声が聞こえた。

「あら。お嬢ちゃん」

 はっとしたニナが顔を上げると、ファンティーヌの白い衣装で佇むクレアが居た。ほっそりとした腰に張り出した豊かな胸、それでも気品を損なわない美しい姿で、クレアはゆっくりとニナに近づくと、またにっこりと微笑んでニナの耳元に口を寄せた。

「ハドリーはね、昔はとっても女性らしい女性が好きだったのよ。そそられる女しか相手にしなかったの。そういう女性しか抱かなかったわ。酷い男よね」

 と、ふふと笑った。豊かに張り出した胸をニナに見せるようにゆっくりと腕を前で組んで、ニナを頭から足先までじっと見つめた後、密かな嘲りを込めた笑みを浮かべ、

「……ハドリーは貴女に満足しているのかしら? ね、お嬢ちゃん」

 と、妖しく微笑んで去っていった。ニナは蒼白になった顔のまま、黙ったままクレアの去っていく後ろ姿を見つめていた。


 その夜、夕食をもそもそと食べていたニナがハドリーを上目でちらちらと見て何か言いたそうにしている事に、ハドリーはさっきから気づいていたが知らん振りしていた。だが、余りにも何度も見ているので業を煮やしてハドリーは渋々と不機嫌そうに呟いた。

「なんだ」

「あのね。今週キャシーはアルのツアーに一緒に行ったの。だから……」

 と、ニナは言い難そうに切り出すと、困り顔でハドリーを見上げた。

「今日マッサージ、ダメかな?」

「ダメだ。今日は荷造りがある。来週キャシーにやってもらえ」

 ハドリーはニナの顔も見ずに即答した。

「なんで?」

 ニナは悲しそうな顔でハドリーを見るが、ハドリーはそれには答えず、まだ沢山残した皿にナイフとフォークを乱暴に叩きつけるように置くと、

「ご馳走様」

 と、言って席を立ってしまった。そのまま居間を出て行くハドリーをニナは泣き出しそうな顔で黙って見つめていた。


 しばらく経って、眉を寄せて乱暴に荷物を詰めていたハドリーの元にニナがやってきた。何か固く決心したような強張った顔をしていた。暫く黙って立っていたが、やがて決心したようにニナが呟いた。

「……ハドリー」

「なんだ。忙しいんだ。用件は早く言え」

 と、ハドリーはスーツケースに衣類を詰めながら言った。

「あの……明日からニヶ月も居ないんだし……赤ちゃんの事は言わないから」

 と、寂しそうに眉を寄せて唇を噛んで、それから少し頬を赤くしてニナが顔を上げた。また子供の事か、とハドリーの中にうんざりとした気持ちが湧き上がってきた。

「……ダメだ。俺は忙しいんだ」

「でも」

 と、ニナが必死に訴えると、ハドリーは持っていた衣類をベッドに叩きつけた。

「俺は嫌だって言ってるだろ!」

 ハドリーの中の黒々とした澱が、ニナに向けて堪えきれずについに噴き出した。

「いい加減にしろ! 何時までも子供のくせに、一人前に子供を欲しがるな!」

 びくっとしたニナの目にみるみると涙が浮かんで、悲しそうに首を振って、

「……私が子供みたいだから? だから……私じゃ嫌なの? 本当は……」

「ああ! そうだ! その通りだ!」

 ニナの言葉を遮るようにハドリーは怒鳴りつけると、帽子と上着を取って、立ち尽くすニナの横を通り過ぎ、

「……飲んでくる。戸締りして寝てろ」

 と、言って出ていった。ニナはその場で目を見開いたまま凍りつき、動くことが出来ずに呆然と立ち尽くしたままだった。


 バーで独り、ハドリーは苦い顔をして飲んでいた。ニナに酷い事を言った後悔と、自分のやり場のない怒りを抱えて、いくら飲んでも酔えなかった。

「……随分と荒れているのね、ハドリー」

 クスッと笑う女の声が背後からした。

「……クレアか」

 酒に濁った目でハドリーは呟いた。クレアは微笑んでハドリーの隣に腰を下ろすと、カクテルを頼んでハドリーを振り返った。

「あのお嬢ちゃんは一緒じゃないのかしら?」

「ニナは飲めない」

 と、ハドリーは呟いてグラスの酒を空け、バーテンダーに空のグラスを差し出した。

「あら。貴方がお酒も飲めない女と結婚するとは、驚きね」

 と言って、クレアはカクテルのグラスをハドリーに掲げて優雅に口をつけた。

「……何の用だ」

 ハドリーはクレアを見ずに、また目の前のグラスをあおった。

「あら。久しぶりに会ったのに、随分ご挨拶ね」

 とクレアは妖艶に微笑んで、

「ハドリー、変わったわね。私も変わったわ。もうあの頃の私じゃないの」

 と、静かにハドリーを見た。

「あの日、貴方が私に言った言葉を忘れた事はないわ」

 と、クレアは遠い目をした。

「『歌が上手くてもお前はそそらない。セシリアの方がいい女だ。お前を抱く気にならない』そう言ったわ。私達付き合っていたのに、友達のセシリアを抱いて貴方が帰ってきた日だったわ。あの頃の私は本当に垢抜けない田舎娘だったものね」

「……昔の事だ」

 ハドリーは顔を背けてぽつりと呟いた。

「そうね。でも今は違うわ。今の私は、貴方にとってそそらないかしら?」

 クレアはハドリーに向って妖艶に微笑んで、テーブルに置かれたハドリーの手を取り耳元で囁いた。

 ハドリーは酔っていた。不安や疑念で心が黒く濁って揺れ動いていた。ぼんやりとした頭にニナの泣き顔が浮かんだが、やがて消え去っていった。


 翌朝、やはりハドリーは帰って来なかった。いつもなら、どんなに飲んでも必ずニナの出掛ける前には帰宅していたハドリーだったが、この日はもうすぐニナが出掛けるとういうのに戻って来なかった。

 一睡も出来ずに夜を明かしたニナは、ハドリーにメモを残そうと書き付けていたが、やがて手を止め静かにメモを破り捨てた。玄関先で一度家の中を悲しそうに振り返って、そしてそっと玄関を閉めた。

 劇場では舞台稽古が始まっていた。クレアが一人舞台上に立ち『I dream a dream』を歌っていた。悲しげな表情で歌い続けるクレアを舞台袖でじっと見ていたニナは、やがて目を見開いて、

「あ」

 と、小さな声を漏らして震えだした。

 悲しい筈のファンティーヌの歌声は勝ち誇ったように輝いていた。その歌は、『待っていた男が帰ってきた』喜びに溢れ、愛の勝利に輝くファンティーヌが目の前に居た。

 ニナには分かった。昨日戻らなかったハドリーが何処に居たのかが。ニナは見開いた瞳から涙を溢し黙ったままクレアを見つめて、袖のカーテンを握り締めて声も出さずにただ泣き続けていた。

 その頃ハドリーはツアーに向う飛行機の中で苦い後悔を噛み締めていた。胸の中の黒々とした不安は、クレアを抱いても消え去ってはくれなかった。一夜の公演が終わればクレアはアメリカに帰りもう二度とは会わないだろうが、この先ニナと暮らしていけるのか、ハドリーの不安は消えなかった。




 次の日はオフだったニナは一人自宅に篭っていた。夕べも眠れなかったニナは憔悴していた。

 一人ダイニングテーブルに腰掛けて俯いていたニナは、やがて何かに取り付かれるかのように冷蔵庫から食糧を次々と出してテーブルに並べ始めた。パンやチーズ、野菜やボイルしてあった肉など、そのまま食べられる物を調理もせずにテーブルに山のように盛ると、ニナは手当たり次第に食べ始めた。

 少し食べたらもう喉を通らなくなったが、ミネラルウォーターを飲みながら流し込むように食べ続けた。鳶色の瞳に虚ろな色を浮かべ、ひたすら食べ物を詰め込んでいたニナだったが、やがて蒼白になり手が止まった。椅子を飛び降り、口を押えながらレストルームに駆け込むと、食べた物を全て吐き戻した。こみ上げてくる悪寒と胸が締め付けられるような苦痛に、涙を溢しながら吐き戻す物が何も無くなるまで吐き続けた。そのままずるずると座り込むと嗚咽を漏らし、そしてそのまま床に突っ伏して泣き続けた。

 泣き腫らした虚ろな目でダイニングに戻ったニナは、テーブルの上にまだ山積みになった食糧を見つめた。それはもう自分を汚すグロテスクな汚物にしか見えなかった。悲鳴のような絶叫を上げると、ニナはテーブルの上の食糧を薙ぎ払った。床一面に野菜や牛乳、割れた卵などが散乱し、皿が音を立てて割れた。ニナはそのままぽっかりと空間の出来たテーブルに突っ伏して、肩を震わせて泣き続けた。


 その夜ハドリーの部屋で一人ベッドに座り続けて眠れなかったニナは、早朝ふらつくように居間に来て、ソファに投げ出してあった携帯にキャンベルや、他の大勢の人からの着信が何度もあった事に気づいた。

 何もする気力が起きず、憔悴した青白い自分の顔を鏡で見てぼんやりと、

「もう公演には出られないかもしれない」

 と、思っていたニナは、携帯を取るとキャンベルに折り返した。

 ところが、直ぐに出たキャンベルは慌てたように、掛かってくる電話には出ないようニナに指示した。理由を言わずに言葉を濁すように慌てふためいているキャンベルの声を聞いて、ニナは何が起こったのか悟った。

「……知っているわ」

「え?」

「ハドリーとクレアの事でしょう」

 怪訝そうなキャンベルに、寂しそうにニナが呟いた。

「もう見たのか?」

 慌てた声で悲しそうにキャンベルが訊ねると、ニナは黙ったまま手元のPCを引き寄せた。そしてニュースサイトを検索すると、該当の記事を見つけた。

 昨日のタブロイド紙に、ハドリーの写真が掲載されていた。クレアの肩を抱いて彼女の宿泊先のホテルに入るところや、エレベーター内でキスをする写真が一面に載せられ、『ハドリー、元恋人との熱い夜』とのタイトルで詳細が掲載されていた。

 記事の中でクレアは『二人はセックスレス夫婦とは聞いていたけど本当だったわ。ハドリーが寂しそうだったので、つい……。ハドリーは可哀相なぐらい不満が貯まっていたわ。そうね、慈善事業のようなものかしら』と微笑んでインタビューに答えたと書かれていた。

 ニナは黙ったままその記事を見つめていた。クレアはハドリーを待っていなかった。あの喜びは帰ってきた男に止めを刺した事の歓喜の喜び、復讐を成し遂げた事への歓喜の喜びだったのだ。クレアがハドリーを罠に掛けてマスコミに売ったのを知ったニナは、ぽつりと呟いた。

「……ハドリー」

 ハドリーを守るためには自分がどうしなければならないのかニナには分かっていた。虚ろだった瞳に光が戻ってきた。何かを決意したかのように、ニナは立ち上がった。

「ニーナ。暫く休んだ方がいい。外には出ないように」

 キャンベルが固い声でニナに告げると、

「公演には出るわ。……降りるわけにはいかないの。キャンベル……私は歌える。歌えるわ」

 悲しげに呟くニナだったが、その鳶色の瞳にはゆっくりと火が燃えていた。



 ハドリーはツアーの楽屋で、FAXで送られてきた新聞を睨んでクレアに電話をした。

「どういうつもりだ」

「どうって、偶然じゃないかしら、と言っても貴方は信じないでしょうね」

 至近距離から狙ったように撮影されたその写真は、明らかに恣意的に撮られていると判るものだった。

「そうね。トロフィーみたいなものかしら。猫が獲った獲物を見せびらかすみたいな、ね」

「ふざけるな! 俺はともかく、ニナを……ニナを傷つける事は許さない!」

 クスクスと電話口で笑うクレアをハドリーは怒鳴りつけたが、クレアは鼻で笑った。

「あら。貴方らしくない慈善事業で可哀相な女の子を救ってあげているから、私も貴方に慈善事業をしただけよ」

「誰が慈善事業だって?」

「抱く気もない小っちゃな女の子を妻にしている貴方よ。それとも貴方の女の趣味が『そそられる女』からロリコンに変わったのかしら?」

 クレアは嘲りを込めて笑った。

「お前は不幸な女だな。クレア」ハドリーの声は冷たかった。

「そうだ。俺は変わった。俺が愛する女は『ニナ』だけだ。抱きたい女は『愛する女』だけだ。お前はどちらでもない」

 冷気を浴びせるようなハドリーの言葉に、クレアは笑みを張り付かせたまま黙り込んだ。

 しばらくお互いに黙っていたが、やがて、

「きっと、もう会う事はないわね。元気でね。ハドリー」

 と、固い声でクレアは電話を切った。

 ハドリーは携帯をソファへ叩きつけると、顔を覆って座り込んだ。肩を震わせて泣いているニナの姿がハドリーの脳裏に浮かんだ。

「……ニナ」

 ハドリーはそっと呟いた。


 クレアが眉を寄せた寂しそうな表情で黙ったまま切れた電話を見つめていると、楽屋のドアを勢い良く開けて血相を変えたリンダが飛び込んできた。

「クレア! どういうつもりよ!」

 リンダの顔は紅潮して声は怒りで震えていたが、クレアは悠然と微笑んだ表情に変えた。

「リンダならわかってくれると思ったのに」

「昔の事は知ってるわ。ハドリーが貴女にどんな酷い事をしたのかも。でも! ニナは関係ないわ! 貴女にニナを傷つける権利はないのよ!」

「夫に浮気されるような妻がいけないんじゃないかしら。ハドリーは、随分と不満が貯まっていたようよ。無理もないと思うけど」

 と、楽しそうにクレアが笑うと、リンダがその頬を平手打ちした。驚いて頬を押えたクレアにリンダが言い放った。

「公演までまだ間があるわ。それまでには跡も消えるでしょ。それともそのまま降板してもいいのよ」

 その目は昔の友人を見る目ではなく冷たく光っていた。

「リンダ……」

「貴女はニナを知らない。ニナがどれだけの傷を負って生きているのかを知らない。これ以上ニナを傷つけるのなら、私は絶対に許さないわ」

 呆然とするクレアに向って言い放つと、リンダは怒りを込めて、もう友人ではなくなったクレアを見下ろした。


「……クレアと寝たのは事実だ」

 アルバートからの電話にハドリーは短く答えた。

「……どういう事だ。ハドリー。ちゃんと説明しろ!」

「帰ったら全部話す。キャンベルには『全てノーコメント』にするよう言ってくれ」

 それだけ話すとハドリーは電話を切ろうとした。

「待て! ハドリー! ニーナに! ニーナに連絡はしたのか?」

 アルバートが叫ぶと、ハドリーは暫く黙っていたが、

「『帰ったら話す。待ってろ』と伝えてくれ」

 とだけ言って、ハドリーは電話を切った。アルバートは震える手で通話の切れた携帯を握り締めていた。

 それ以降ハドリーの携帯はいつも留守電で、誰からの連絡にもハドリーは答えなかった。

 ツアーのスタッフにも、

「俺は降板しない。外野の五月蝿い連中は全部排除してくれ。舞台の邪魔だ」

 とだけ言って、いつもと変わりなく舞台だけに集中していた。


 翌日、キャンベルはクレアをミーティングルームに呼び出した。

「出来れば今回の件について君の釈明を聞きたいんだが」

 キャンベルは腰掛けたまま静かに訊いた。

「プライベートをお答えする必要はないんじゃないかしら。それに私は貴方の事務所の所属でもないのだから、義務はない筈ですけど」

 そう言うとクレアは微笑んだ。キャンベルはじっとクレアを見て、

「なるほど。ではこのアルバートには君に質問する権利があるんじゃないかな。彼はハドリーの妻の後見人だ。いわば関係者だ」

 後ろで黙って立って俯いているアルバートを指した。クレアはそれにも動じず、微笑んだ。

「それなら、まずその娘婿にお尋ねになるべきじゃないかしら」

 そして、キャンベルを微笑みながら見て、

「それよりも此処の環境をどうにかして頂けないかしら。昨日も私を殴りに来た者が居ましたし。何やらスタッフが随分と非協力的なので、困っているわ。どうやら歌える環境ではないようよ、キャンベル。貴方にはそれを解消する義務があるんじゃないかしら」

 そういうクレアの目は冷たく光っていた。

 キャンベルは少し眉を寄せて暫く黙っていたが、やがて冷たい声で言った。

「君がハドリーと寝ただけなら、誰も君をそこまで責めなかっただろう。だが、マスコミに売った上、ニナを傷つけたのはやり過ぎだったな、クレア。残念だが此処には君の味方は一人も居ない。それを覚悟でやった事だと思うが」

 キャンベルは厳しい目で、じっとクレアを見据えた。

 クレアは呆れたように手を広げて、

「あら。随分と皆さん『My little baby』を可愛がっていらっしゃるのね。だったら彼女を降板させてあげたほうがいいんじゃないかしら。ちっちゃなお嬢さんは歌えそうもないほどしょげ返ってますけど」

 口元は微笑んでいたが冷たい目でキャンベルを見つめた。キャンベルはゆっくりと立ち上がると後ろを向き、静かに言った。

「ニナは降りない。彼女は歌うと言った」

 クレアは嘲りの小さな笑いを漏らしたが、キャンベルは続けて、

「クレア。君こそちゃんと歌えるのか? あんなファンティーヌでは君こそ降りて貰わないと困るんだが」

 そう言ってクレアを振り返って冷たい目で見た。ずっと黙っていたアルバートも顔を上げて、厳しい目で頷いた。この二人も、悲壮感が感じられないファンティーヌの歌に気づいていたのだった。

「え?」

 顔に微笑みを貼り付けながらも戸惑ったようにクレアが呟いた。クレアが見せた初めての狼狽だった。


 楽屋へ戻ったクレアは一人考え込んでいた。今回はうまくいった筈だった。ハドリーに傷を負わせる事が出来た筈だった。以前自分を捨てたハドリーが、昔なら鼻にも掛けなかった子供のようなニナを選んだ事が許せなかった。そのニナにも、傷を負わせる事が出来た筈だった。 だが、ハドリーの示したニナへの愛は揺ぎ無かった。ニナの強さも予想外だった。

 あの日ハドリーの背中にナイフを突きつけた時に、

「刺したいなら刺せ」

 と、言われ、結局僅かに傷をつける事しか出来なかったように、また何も出来ずに終わってしまうのか、とクレアの心には焦りと疑念が渦巻いていた。




 もう本番間もないというのに舞台の雰囲気は最悪だった。誰もがクレアを冷たい目で見るが、クレアは一向に気にしていない様子だった。一方のニナも、「出来る限りそっとして置いて欲しい」と、いう要望で、皆ニナに声を掛けたくても掛けられず、遠くから心配そうに見つめていた。

 スタッフ達はニナとクレアが鉢合わせしないように気を配ったが、どうしても最後にエポニーヌとファンティーヌの重唱があり、全く会わせないようには出来なかった。クレアが通りすがりのニナに、

「頑張るわね。お嬢ちゃん」

 と、にっこりと微笑むと、ニナはたじろぎもせず顔を上げて、

「ええ。でも、今は貴女のほうにハンデがあるのよ。頑張ってね」

 と、真顔で言い返した。怪訝そうな顔をするクレアに、ニナはこう言い放った。

「私は歌えるわ。貴女は歌えるかしら?」

 ニナの鳶色の瞳には強い意志が宿り、真っ直ぐにクレアを動じる事なく見つめていた。


 そんな中、レミゼの記念コンサートの幕が開いた。

 関係者も観客も不安そうにニナを見守ったが、ニナはいつもと変わらない演技と歌を見せていた。一方のクレアも一見冷静に演技をしてはいた。だが、必死に『I dream a dream』を歌うクレアの姿を、舞台袖からじっと見ていたニナは、戸惑いを隠せないその声は僅かに精彩を欠いているのを聞き逃さなかった。

 そして『On my own』のシーンで、一人ニナが舞台に佇み空を見上げて歌い出した。ニナは想いを込めていた。静かにハドリーへの想いを込めて、遠い彼に届くように切々と歌っていた。翳りも怒りも戸惑いもない、ただ愛に満ちた優しく悲しい歌声だった。

「I love him.(彼を愛してる)」

 ニナの囁くような声が静かに劇場に満ちて、ニナの想いを感じ取った人々は、その愛の深さに涙を浮かべてただニナを見守った。歌い終わったニナがそっと俯いて手を握り締めて立ち尽くしていると、劇場中の人が立ち上がって起こした拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

「流石だな、ニナ」

 舞台裏でそれを聞いていたアルバートはじっとニナの姿を見て呟いた。傍らで次の出番を待っていたアンジョルラス役のキースも、興奮したように顔を赤くして笑みを浮かべた。

「ああ。声に濁りが全くない。ニナの圧勝だな」

 ハドリーはその舞台をホテルの部屋で、TV中継で見ていた。舞台のニナの姿を目を逸らさずにずっと見つめていた。

「……ニナ」

 そして静かに俯くとそっと呟いた。ニナのハドリーへ込めた想いは、ハドリーに確かに伝わっていた。


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