其の呂5
『……あぁそうか、分かったよ……そんなに辞めたいなら勝手にしろ!!!』
脳に響く女の怒号が聞く者全てに恐怖を抱かせる、乱暴に通話を切られてしまった男は一人平然と携帯電話から聞こえる無機質な音に耳を寄せていた。やがてその行為に飽いてしまったのか男は携帯を閉じポケットに仕舞う、そして一頻り晴れ渡る空を仰ぎ何も言わず立ち尽くした。
この空を見上げ一人寂しげに佇む男の名は『綾崎和箕』、近頃立て続けに殺人事件に見舞われるこの中学校で臨時教員の責務を担う変人である。今彼がいるこの場所は普段立ち入りが禁止されている中学校の屋上、そこで綾崎は何処か憂いを漂わせる雰囲気を醸し出しながら天を見詰めていた。男は今何を思って空を見詰めているのであろう、それは端から見た他人が一見して分かるものでは無いしそもそもこの男の平素ですら理解に難いものであった。
しばらく綾崎が風に煽られ流れ行く雲を眺めているとふと後ろから彼の名前を呼ぶ声が聞こえる、綾崎が何事かと振り返るとそこには彼もよく知る人物が立っていた。
「……綾崎先生、こんな所で何をやっているんですか!?」
「…これはこれは、誰かと思えば舟木先生じゃありませんか! こんな所に何しに来たんですか、言っときますけど此処は立入禁止ですよ?」
「綾崎先生が言える台詞ですか!? 貴方が此処にいるからわざわざ私は来たんです、勝手に屋上に上がられては困りますよ!」
「…いいじゃないですか、減ったり増えたりするものじゃないんですから! それに学生時代の青春の五割五分は屋上で行われるんですよ、なら頭で青果栽培している様な生徒の奴等に開放しては如何ですか?」
「そんな勝手な事言わないで下さいよ!! そもそもこの場所は生徒が立ち入るのは危険という事で立入禁止にしているんです、貴方がこんな真似をしていたら生徒達が面白がって入り込むかもしれないんですよ!? 貴方にはもっと責任感を持って欲しいものですね!!」
舟木という男性教員は腕を組み溜め息を漏らす、更に続け様に彼は綾崎に不満をぶつけた。
「…そう言えば先程職員室に警察の方が来られました、何やら亡くなった野球部の石飛について調べている様ですが……綾崎先生、何か警察に教えたんですか? 此処最近先生が警察と一緒にいる場面を見掛けるという話が上っています、また勝手な事やってんじゃないでしょうね?」
「……僕は僕のやりたい事をしているだけ、ですが……今となっては彼等とは一切の関係はありません!」
「…勘弁して下さいよ、これ以上騒ぎが大きくなるのは学校としても宜しく無いんですから! 警察の捜査に協力するのは仕方無いとしても……学校の評判を落とす様な真似だけは控えて下さい、それこそ下世話なマスコミの格好の餌ですよ?」
「……学校の評判、か……倫理よりも体裁を重視するとは…この学校の底が見えますな……」
「? 何か言いましたか?」
「…いえ、何も……」
綾崎は顔を背け口許を手で隠す、舟木には見えないが綾崎は口角を上げ僅かに微笑んでいた。舟木は不審に思いながらも綾崎に言い聞かせる、そんな事無意味だというのに舟木は厳重な注意をする。
「とにかく早くこの場所を出ましょう、今此処にいる事が誰かに知られれば貴方を教育する私の立場が…」
「その事に関してはご心配無く、僕が此処にいるのはただ青春を思い出したかっただけですから! さぁて…では早速此処から立ち去るとしましょう、その方が僕としても有り難いですから…」
綾崎のその言葉を聞くと舟木は背を向け屋上の入口へと歩き出す、それに続き綾崎も鴨の子の様に舟木の後を追った。
綾崎が屋上から出るとすぐに舟木は屋上の扉の鍵を閉める、そして綾崎に顔を向けると再び厳重な注意が始まる。
「…もう二度と屋上には上がらないで下さい、もし今度この様な事があれば……この中学校から出て行ってもらいます!」
「えぇ…その言葉、ちゃんと胸に刻んでおきますよ…」
綾崎は不真面目な態度で生返事をする、その返事に不満を見せる舟木に気付いた綾崎は眼鏡を直しながら話を逸らす為に話題を振った。
「…確か先程警察が職員室に来たと行ってましたよね? 一体何についての捜査をしていたのかご存知ですか?」
「えぇ…遠くから聞いたので詳しくは知りませんが、どうやら亡くなった石飛に恨みを持つ人物に心当たりがあるか聞いていたんです。その後職員室を訪れた女子生徒を無理矢理廊下に連れ出したり…警察の強引な捜査にはこちらとしても頭が痛いですよ……」
「ふぅん……それ以外に何か変わった事はありましたか?」
「変わった事ですか? そうですね………あ、そう言えば先程の刑事が職員室を出た後また別の刑事が来ました。そちらの刑事は亡くなった安藤に恨みがある人物の心当たりを調べてました、私に質問してきたので私は知っている事を全て答えました」
「……確か亡くなった安藤君と石飛君は二人共舟木先生のクラスでしたね、それで先生に質問してきたという訳ですか。それで、舟木先生は何と答えたんですか?」
「…別に大した事ではありません、ただ最近食欲旺盛になっていたと答えました」
「……食欲…ですか……」
綾崎は頭を掻きながらそう呟き動きを止める、表情を少しも変えず静止した綾崎であったがその眼には明らかな熱が垣間見れた。
すると綾崎の脳裏にとある事象が掠める、それは何処かで聞いた様な話であったがそれが脳内で輪郭を為すのには多少の時間が掛かった。やがて綾崎の頭に浮かび上がる一つの可能性、それは酷く突拍子も無いものであるが全ての事柄を結び付ける堅固な鎖であった。綾崎は止まっていた身体を動かし始めると、眼前にいる舟木に尋ねる。
「…舟木先生…一つお尋ねしたい事があるんですが……いいですか?」
「えぇ…構いませんが……」
「ではお言葉に甘えて……舟木先生、もしかして……」
綾崎は舟木の耳許に顔を寄せると小さな声で耳打ちする、その言葉には綾崎が見出だした新たなる答えが含まれていた。すると話を聞いている舟木の顔が徐々に驚きを増していく、やがて綾崎が話し終えると舟木は後退りをし言葉を溢した。
「…ど…どうしてそれを知っているんですか……それは…誰にも言っていない、私と安藤だけの秘密の筈…」
「あれ、当たっちゃいましたか? へぇ、そういう裏があったんですか……どうしてその事を黙ってたんです?」
「……言える訳無いでしょう…安藤はその事で酷く苦しんでいました、誰かに言うなんて…私にはとても……」
「…舟木先生も人が悪い、別にそれくらい暴露した所で大した事じゃ無いっていうのに……もっと早く教えてもらえれば、こんなにも悲劇が続く事も無かったというのに……」
「え? それは…一体、どういう…」
舟木は綾崎の溢した言葉に疑問を抱きそう問い掛ける、しかし綾崎はまるで聞いていない様に質問を無視して自分の世界に入り浸った。彼の頭の中では多くの事柄が行き交い繋ぎ合わさる、綾崎の眼に帯びた熱気はやがて勢いを弱めていったがその代わりに生まれたのは強い確信であった。
綾崎は一度髪を掻き乱すと頭の中の整理を終える、そして俯き加減であった首をゆっくり持ち上げると舟木に視線を合わせた。
「……舟木先生…最後にもう一つだけお尋ねしたい事があるんですが……」
綾崎は先程までの陽気な口調とは全く違う低い声を溢す、その声は対象である舟木妙な寒気を誘発させた。綾崎の眼は直前に失われていた意志を再び解き放つ、まるで万華鏡の様に光を乱反射させるその眼には黒いながらも確かな力が窺えた。
綾崎は再び舟木に脳内で生み出された疑問をぶつける、その質問は舟木にとっては不思議且つ不可解なものであったが綾崎にとっては確証を得る為の鍵であった。舟木は怪訝そうに綾崎を見詰めながらもその質問に答える、答えを聞いた綾崎は先程以上に強い光を眼に浮かべていた。綾崎は遂に自身が見出だそうとしていた答えを導き出す、その姿を階段の陰から眺める人物の存在に綾崎は気付かなかった。
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頭を割りそうな激痛が前頭から襟首に掛けて這い伝う、此処数日間は感じ得なかった酷い痛みに私の活力は削ぎ落とされていた。この激痛の意味は知る由も無い、強いて挙げるならば数分前の事象が関係していると思われた。遣る気すらも消え始めた私は車の窓から外を眺める、そこには代わり映えのしない街並みが広がっているだけであったが気を紛らわせるのには十分であった。
篠塚の風を切る運転で私は次の目的地を目指している、しかし目的地に近付いているのを感覚的に知る度に私の気持ちは憂鬱になった。先程までの自棄を含んだ活気は姿を消しその反動からか怠惰の念を生じ始まる、その様子を汲み取ってはくれない篠塚が尋ねてきた。
「……どうしたんですか柊さん、つい数分前の威勢は何処に行ったんです?」
「うるさいぞ篠塚…今は貴様の話を聞いてやれる気分では無いのだよ……」
「…やっぱり怒り任せに行動したのは間違いでしたねぇ、今じゃ炬燵で丸まる猫みたいに和やかになっちゃってますよ?」
「…猫、か……そんな可愛らしいものに成れるのなら成りたいものだな。主人から餌を貰い愛想を振り撒き人生を無碍に過ごす…誰もがそんな生活を憧れているのだろうな…」
私は窓辺に肘を突くと意味の少ない言葉を溢す、その言葉に当然ながら篠塚が返答する事は無くまた私自身も何故この様な発言をしたのか不思議に思い無性に恥ずかしくなる。私の希薄な発言からしばらくの沈黙に突入する、しかしそれに耐え切れなくなったのか先に言葉を吐き出したのは篠塚であった。
「…そうだ柊さん、学校にいる時は聞けませんでしたけど…あの場所で何があったんですか? 被害者の石飛の恋人の女子生徒に事情聴取すると言って別行動になってから僕があの場所に来るまでの間に何が起こってたんです?」
「……言わねばならんのか?」
「そりゃあ誰だって気になりますよ、僕の予想ではまだ事情聴取をしている筈なのに着いてみれば例の二人が気落ちしていた……訳を聞かないと納得出来ません」
「…なら言っても良いが…多少長くなるぞ、構わんな?」
「大丈夫です、目的地まではまだ時間があるんで……」
篠塚の回答に私は渋々答える事にする、窓辺に突いていた肘を下ろすと私は重たい口を開いた。
「…私は石飛の恋人である女子生徒に事情聴取をしていた、名前は『長井可憐』……どうにか話をしようとはしたが、石飛が死体となって見付かった時と同様に激しく憤慨していて満足に話も出来ぬまま帰ってしまったよ……」
「…ちょっと待って下さいよ、じゃあ柊さんはその長井という生徒から何も聞き出せないまま終わったんですか!? それは酷いですよ、ついさっきまで僕の事散々馬鹿にしておいて…柊さんも同じじゃないですか!」
「まぁ待て……まず私は篠塚を馬鹿にはしていない、勝手に人の心を決め付けるな。それに本題はこの後だ、ちゃんと最後まで聞いてくれ…」
「……じゃあ詰まり、その後に有力な情報と手掛かりがあるんですね? 加えてあの二人が暗くなっていた理由も……」
「あぁ、そういう事だ」
私は篠塚を落ち着かせると一度小さく溜め息を漏らす、そして頭の中に仕舞っていた思い返したくない記憶を持ち出しそれを私の言葉として口に出した。
一頻り話し終えると私は再び小さく溜め息を漏らす、話して改めて何とも嫌悪を否めない出来事であった。私の話を聞いた篠塚も私と同様に嫌そうな顔をしている、篠塚が何を思っているのか私の知る所では無いが取り敢えず私は篠塚に尋ねた。
「…聞いて後悔しただろう、まさかあの学校であの様な事が行われていたとはなぁ…」
「……確かにそうですね、正直あの二人は悩みなんて無いと思っていましたけど……そんなにも辛い体験をしていたんですね……」
「……何だそっちの話か。確かに放送部の出来事も胸が痛くなるが…私としては石飛が恐喝をしていたという事に驚いてほしかったんだが……」
「勿論そっちも驚いていますよ、全くもって許し難い事です! しかし……本当に酷い話です、立場の弱い人間が不当に傷付けられるなんて…あの学校は問題児が多過ぎはしませんか?」
「…それはどうだろうな、我々の知らないだけでどの学校も大同小異なのかもしれん。何より教員の知らない所で今も平然といじめや暴力が容認されているんだ、そんな世界…嘆いた所で無意味でしかない気がする……」
私の憂鬱な気分をそのまま焼き写した様に私は憂鬱な言葉を吐き捨てる、強者が笑い弱者が泣くこの趨勢を私は無意味に嘲った。しかしこの世界は本当に弱者には一縷の望みすら与えられない程に荒廃してしまっているのだろうか、脳裏に浮かぶ放送部の二人の暗い顔を再び眼に映し私は答えの無い問答をしていた。
私は暗鬱な気分をより一層に淀ませてしまう、その気晴らしに私は窓を少し開け外気を顔に浴びた。暗く淀んでいた気分が少しは払拭されると、私は次の目的地の要因となる人物の話を篠塚に聞いた。
「…第四の被害者……『林孝平』について他に分かった事はあるか?」
「……はい…まぁこれはすぐに分かった事ですが、被害者の林は引き籠もりだったようです」
「…引き籠もり? 詰まり……学校には来ていなかったという事か?」
「えぇ、もう半年近く学校には来ていなかったらしいです。その理由は分かりませんが……半年も学校に来なかった人間に恨みを持たれる理由なんてありますかね?」
「……犯人の動機が全く見えない、第二の被害者も第四の動機にもこれといって恨まれる道理が無い……よもや、逆恨みという事はあるまいな……」
「もしそうならば動機探しは困難ですよ、犯人については分からない事が多いですし…」
「……一縷の希望すら見出だしてはくれんのか…しかし今は目の前の事に手を付けねばならない。被害者の自宅へはまだ掛かりそうか?」
「…いえ、もうすぐ着くと思います」
篠塚はそう答えると車の速度を少し上げる、それに伴い流れる風景が私の焦燥を顕著に表している様な気がした。私の中で焦りが再び胸騒ぎを誘う、真っ直ぐに延びる道路の先に私は微かな希望を求めた。
篠塚の言う通りあれから二分程で目的地に到着した、車内から被害者の自宅を眺めるもそこにあったのは時代を感じさせる程に古びたアパートであった。粗悪なトタン屋根に今にも崩れそうなブロック塀が我々を出迎える、私の想像とは些か違った被害者の自宅に私は多少戸惑いを覚えた。篠塚が道路脇に車を停めるとドアを開け外に出る、薄く冷たい風が頬を撫でた事で先に行くのに益々の拒否を感じたが私は重い足取りでアパートへと向かった。
アパートに近付くと私はその古さをまざまざと見せ付けられる、階段や手摺りは錆びて塗装が剥げ掛かり壁も本来の色を取り戻しつつあった。私は一階の部屋の表札を眺めるとすぐに階段を上がり二階へと向かう、そして再び表札を確認すると一番奥の部屋の手前で立ち止まった。表札は文字が掠れてはいるが『林』と書かれている、此処が被害者の自宅と確信した私はドアを叩いた。
「…今時インターホンが付いていないなんて…珍しい物件ですね」
「その分家賃が安いのだろう、まぁこの様子では…まともな水が出るかは分からんがな…」
私はふとこのアパートの退廃的な雰囲気に毒を吐く、私からして見れば此処は次元の違う場所であった。そんな亜空間に存在する部屋のドアを眺めていると、突然ドアノブが動き錆び付いたドアがゆっくりと音を立てて開いた。ドアは完全には開かず鎖の余裕分だけの隙間が出来る、その隙間から覗いたのは髪を振り乱し目許を隈で覆われた酷い形相の女性であった。
「……林孝平君の親御さんですね?」
私は一瞬躊躇いながらもそう尋ねる、しかし私の質問に全く動作を示さない女性に私は仕方無く話を続けた。
「…初めまして、私は刑事の柊という者です。実は亡くなられた孝平君について捜査をしているのですが…もし宜しければご協力しては下さいませんか?」
私が本題を切り出しても林孝平の母親は私の方を睨むだけである、しかし私は引き下がる事無く尚も続けた。
「……息子さんが亡くなられて非常に辛いとは思いますがどうか捜査に協力して頂けないでしょうか、えぇと……お名前を聞いても宜しいですか?」
「……林…美代子……」
私はようやくこの女性から声を引き出す、その声は暗く掠れておりまるで魔女か鬼婆を彷彿とさせるものであった。
「…『林美代子』さん、我々を貴方の息子さんを殺した犯人を捕まえようとしています。例え犯人を捕まえても貴方の心が晴れない事は分かります、しかしこのまま野放しにしていてはまた新たな犠牲者が出てしまう……ですからどうか、我々の捜査に協力しては下さいませんか?」
私は是が非でも捜査協力を了承させる為に安い言葉を繋げ合わせる、この程度で相手が靡くかどうかは知らないが私は望む結末を祈った。だが林は私の望みとは異なり顔を引っ込めるとドアを閉めようとする、私はそれに反応し素早くドアに手を掛けた。
「…我々が憎いですか? 息子さんを守れなかった我々が……ですが我々は絶対に犯人を捕まえます、その為には貴方の協力が必要なのです!」
私は強引ながら何とか彼女を説得しようとする、この行為が迷惑行為の域に達していたが私は構わず語り続けた。すると林は突然眼を見開くと私を睨み付ける、その出来事に私は狼狽えを示すと彼女は低い声で答えた。
「……刑事だが何だか知らないけどねぇ…私は捜査に協力する気は無い…んだよ……」
「…それは……一体何故です?」
「…分かるだろう……今更捜査なんてしてほしくないって事だよ! 別に息子が亡くなろうが殺されようが私は知らない、そんなに息子を殺した犯人が捕まえたきゃ…あんた達で勝手にやってくれ……」
「な……そ、それは聞き捨てなりませんよ!! 自分の子供が殺されたんですよ、なのにどうしてそんな事が言えるんですか!!?」
林の発言に怒りを覚えた篠塚は自重する事無くそう言い立てる、すると今度は篠塚の方を睨み付けながら林は答えた。
「…あんたに何が分かるんだい!? 私はねぇ……旦那が他界してから女手一つで孝平を育てたんだよ、なのに私の息子は学校にも行かず碌に勉強もせず家に一日中引き籠もり始めた、そんな息子と……一緒に住む気持ちが分かるのかい!?」
「…そ……それは……」
「…息子は一切外出せず一日中テレビと睨めっこしていた、私が呼んでも返事の一つも寄越さない……酷く苦しい生活、それでも私は懸命に耐えたさ!! だがもう限界だった、何もしない息子を養うのも…それに毎日耐え続けるのも……」
林は声を嗄らすと隙間から顔を背ける、明確に何が起きたのか見た訳では無いが彼女は泣いているのだと想像が付いた。
「…そんな時だ、警察から息子が死んだと聞かされたよ。その時私は……悲しみより喜びを覚えたよ、これでようやく肩の荷が下ろせる……これでようやく…厄介者とおさらば出来る、と……」
「…厄介者だと……あんた…それでも母親か!!?」
篠塚の怒りは無理も無い、しかしそれ以上に林の勢いは凄まじいものであった。
「母親だからって子供の面倒を全て見る訳にはいかないんだよ!! あんな浪費しかしない息子が死んでくれて助かったよ、本当に…良い厄介払いが出来たってもんだ!!!」
「…ぐっ……あんた、何て事を!!」
篠塚はドアの隙間から林を掴もう手を延ばす、しかしその前に私の手が篠塚の腕を掴み壁に押し当てた。私の形の無い言葉を察した篠塚は遣り切れない様子で腕を引く、その姿を呆れた様に眺める林は最後に私を睨み吐き捨てる。
「…私は警察に協力する気なんか無い、何度言われても私は考えを変えないからね。もう用は無いだろう、ならさっさと行っておくれ……私は疲れたよ…もう放っておいてくれ……」
やつれた女はそう言い残すと再び古びたドアを閉める、流石の私もこの状況で彼女を呼び止める事は出来無かった。情報の整理が追い付かず私はただ茫然と閉められたドアを眺める、しかし何一つ変化の起きない物体に顔合わせするのもどうかと思い私はこの場から立ち去る事にした。
そんな時である、私が先程まで来た道を戻ろうとすると二つ離れた部屋のドアが開いており男性が私達を見ていた。黒縁眼鏡にくたびれたシャツを着た男性と私の視線が合致する、私は何か聞き出せると思いその男性に近付いた。
「…すいません、警察の者ですが…実は今ある事件の捜査を…」
私が言い終える前に男性は勢い良くドアを閉め鍵を掛けた、結局話を聞けなかった私はただ一人気不味くなってしまった。私は妙な空気を感じ取り後ろを振り返る、視線の先には篠塚が立っており私と眼が合うと素早く顔を背けた。どうやら私は徹底してついていないらしい、私は自身への嘆きを含んだ溜め息を漏らすと歩き出した。
階段を下りると私は足早に停めてある車に向かう、この場所にはもう用が無くなったのは確かだが長居すると嫌な記憶を引き摺りそうな気がしたからだ。車の横まで来ると私はドアを開ける、そして車内に乗り込もうとした時に篠塚が私に話し掛けた。
「……これからどうしますか? 被害者の林孝平の母親からは何一つ聞き出せませんでしたし…こりゃ本当に捜査は難航ですね……」
「…あまり事実を言うな、理解している分だけ聞いている方が辛くなるだけだ。しかし本当にどうしたものか……一人は捜査協力に肯定的だが一人は否定的、果てに今回はあの有り様だ…やはり事件が事件なだけに勝手が違うな……」
「まぁそんなに落ち込まないで下さいよ、別に捜査が難航しているのは今に始まった事じゃありませんし自宅の様子が分かっただけ良かったじゃないですか?」
「……物は言い様だな…だが確かに篠塚の言う通り、今は悩んでいても仕方無いのかもしれんな……」
私は車には乗らずドアを閉めると車を挟んで対面する形で篠塚と会話する、篠塚は私の顔色を窺いながら話を合わせていた。
「……しかしあの母親には本当に嫌悪を抱いた…私も冷静であったから篠塚を抑止出来たが、頭に血が上っていたら殴っていただろう…」
「…先程のあの女性の発言はとても人の親とは思えません、あんな酷い事を平然と言い捨てるなんて……母親失格ですよ!」
「……否定は出来んな、篠塚の言葉通り実の息子を蔑ろにする様な発言は些か親としては軽率過ぎるだろう。しかし…あの母親はそこまで心を切り詰めていたのだろう、それに息子を養う為に苦労をしていたというのは事実らしい…」
「で…ですがあの言葉は聞き捨てなりません!! 幾ら心が荒んでいたと言っても、亡くなった子供に対して……あれは……」
「…貴様はどうしてそこまで被害者に感情移入する? 全く…真面目かはたまた愚鈍か……しかし人間心が荒めば何もかも投げ遣りになり愚痴や文句の一つも言いたくなる、貴様もそうだろう?」
「……確かに…そうですけど……」
「ならば強く言う事は出来まい、それに我々は所詮部外者…何を思った所で我々の言動は邪魔な横槍にしかならんという事だ…」
私はそう言うと篠塚の方を見る、多少は納得してくれたのか篠塚は眼を伏せながら軽く頷いた。それを確認した私はようやく車内に乗り込む、それに続き車に乗った篠塚は独り言の様に呟いた。
「…確かに息子が引き籠もっていたというのは母親にとって苦しいものだと思いますが……やはりその原因は少なからず母親にあると思います。平日の昼間だというのに自宅に閉じ籠もって、様相も酷く乱れたものでした、あれでは息子が捻くれるのは当たり前ですが……あの母親に一体何があったんでしょうか?」
「……私に言える事は…余計な詮索は法度という事だ。我々警察は事件解明の為なら表にならない事実を幾らでも掘り下げる…しかしそれは事件に何等かの関係があると特定された時に限る、それ以外の究明はただその人間の傷を抉るだけ……違うか?」
「………すいません、今の話は忘れて下さい……」
篠塚は黙り込むと無言の了解を示した、私は篠塚の望み通り今までの話を胸の奥底に仕舞った。篠塚のエンジンを掛け車を発進させる、遠ざかる古びたアパートの姿を何の感慨も無くサイドミラーから眺めていた。
車をしばらく進めると先程まで晴れていた空が急にその表情を歪ませる、初めは薄い装いの雲が次第に厚くなり始めやがて日の光は完全に遮断された。
(…雨模様か……私の憂鬱に拍車を掛けるつもりか……)
どうやら天候に嫌われてしまった私は今の気分をより深く下に落とす、肘を突き項垂れる私に篠塚は先程とは違うまた別の話題を持ち掛けた。
「…さて、次は何処に行きましょうか? これ以上の収穫はあまり見込みが無さそうですけど……やはり学校で話を聞くのが一番ですかね……」
「……いよいよ収拾が付かなくなってきたな…仕方無い、此処は一度署に戻るぞ。やはりもう一度事件を最初から考え直さなければなるまい、署に戻り集まっている資料から犯人の思考を汲み取らなければ捜査は進展しないだろう……なんとしても次の被害者が出るのを食い止めねば……」
「…なんか……効率が悪いですね……」
篠塚のその言葉に私は微量の不満を抱く、確かに効率が悪いのは事実であるがこの男にそれを言われる道理は無いからだ。私は苛立ちを抑え切れず無意識に髪を掻き乱す、しかしその行為は気休めにもならず私の中に生まれたのは焦りから生まれる不快感だけであった。
我々を乗せた車が警察署を目指して進行する中、私は頬杖を突き額に指を添え一定のリズムを刻んでいた。こうすれば体内に蠢く浪費的な興奮を落ち着かせる事が出来る、私はどうにか平静を保ちこの不毛な時間を耐え抜いていた。その最中に私は車窓に見慣れぬ物を見付ける、茫漠で一辺倒な時間で虚ろにしていた眼を丸くした。それは建物の間から延びる灰色の煙、脈動しながら眩き天に昇るその姿はまるで龍が空を這う姿に似ていた。私は一層眼を見開きその煙を見詰める、やがて口を開くと私は篠塚に言葉を掛けた。
「…篠塚……あれは…何だ?」
「えっ、どれですか?」
篠塚は私の言葉に反応すると車の速度を下げ首をこちらに向ける、私が尋ねた物を確認すると篠塚は慌てた様子で答えた。
「ひ…柊さん、あれって火事じゃありませんか!!?」
「……火事?」
私は酷く愚鈍な返答をする、それは事件の事に頭を働かせ過ぎて他の出来事を考える余裕が無かったからであろう。私が虚ろに振る舞うのとは反対に、篠塚は顔を蒼白にさせながら私に問い掛け続ける。
「柊さん、あれってひょっとして……やっぱり、あそこは確か中学校のある場所です!!」
「……中学校…」
私の頭は徐々にその能力を取り戻し思考が輪郭を作り始める、そして視線の先にある事象が恐ろしい事態である事をようやく認識した。
「…中学校で火事……不味い…篠塚、大至急中学校に向かうんだ!!」
「了解です!」
篠塚はアクセルを踏み込み車を急加速させる、他の車の間を縫いながら進む車の窓から私は立ち上る煙を見詰め続けた。
「…まさか第五の被害者が………犯人は…我々をどれだけ嘲るつもりだ!!」
「ですが校内は警官の巡回があった筈です、そんな状況の中で事件を起こすなんて……出来る筈が……」
「今はそんな事など後回しだ、それよりも被害者の有無が重要だ……」
私はそれ以上の言葉を無くし沈黙に入り込む、運転に集中する篠塚の無言と相乗して車内は痛い程の静寂に包まれた。視界に映る煙は尚もその勇壮を誇示している、それは犯人の嘲りを含んだ嫌味な挑発にも感じられた。
我々の乗せた車は少しずつではあるが煙の発生場所に近付いている、周りの景色の流れる速度に順応して私の鼓動も加速していた。すると唐突な稲光と共に鼓膜を突く轟音が鳴り響く、それを皮切りに空を大きく歪み始めやがて小さな雨粒が降り出した。勢い良く降り注ぐ水の粒子が車窓を曇らせ視界を奪う、その様子は私の抱いていた不安を再び呼び起こす起爆剤であった。
(…不安の正体はこの事か……結局我々では…誰一人救えないというのか……)
私は歯を噛み合わせながら自分の無力さを思い知る、私の心はより強く締め付けられまた一層深く傷付けられていた。雨足は一段と激しさを増し地面を濡らしている、道路に染み付いた暗い陰は私の心の様相に酷く似ていた。
空に昇る煙が色を濃く変化しより太い姿が眼に映る、我々は遂に煙の麓へと辿り着いた。私は車が完全に停まる前に車から飛び出し目的地に駆け寄る、身体に強く降り注ぐ雨を気にもせず私は不鮮明な視界を頼りに進んだ。しかしその場所は学校では無く学校より少し離れた一戸建ての住宅、うねりながら激しく燃える炎がその住居を呑み込み赤と黒を侵食させていた。炎の勢いは衰える事が無く雨が降り頻る中でもその壮絶な有り様を私に見せ付ける、黒煙を吐き出し火の粉を撒き散らすその姿はまさに深紅の悪魔であった。
私は炎の勢いにたじろぎ足が止まる、幾ら勇気を振り絞ろうとも眼前の壮絶に立ち向かうには程遠くそれ程までにこの惨状は恐怖を植え付けさせた。私が燃え盛る炎に気圧されていたその時、住居の入口付近に倒れている人影の存在に気付いた。雨で視界を遮られながらも私はその人影に近付く、やがて手が届く程の距離まで近付くと私はその人影の正体を知った。
「…綾崎……綾崎!!!」
私は雨に濡れた人物の身体を抱き上げる、その人物はつい先程決別を果たした筈の綾崎であった。長らく雨に浸かっていた為か綾崎の身体は異様に冷たく、私の脳裏に思いたくも無い想像が掠める。
「綾崎、綾崎!! しっかりしろ、おい!!」
私は身体を揺すり何度も抱き抱えた男の名前を呼ぶ、しかし綾崎は眼を閉じたままぴくりとも動かず私の呼び掛けに応答する事は無かった。私は言い様の無い悲哀と空虚に苛まれる、この男とは相容れない事が数多くあったがこの様な仕舞いなど望むものでは無かった。私は胸を締め付けられる様な痛みを感じ現実が頭を離れる、項垂れ綾崎の安らかな顔を見下ろす私の眼からは雨に紛れて冷たい雫が零れ落ちた。
「……綾崎…頼むから……眼を覚ましてくれ……」
私はか弱く小さな声を漏らす、しかしその微弱な声は激しい雨足に掻き消されやがて雨の雑踏の中に静寂として消えて行った。しかしこの冷たい悲劇に一つの変化が表れる、私の微弱な呼び掛けに呼応する様に綾崎の身体が微動したのだ。
「…綾崎、起きているのか!? 頼む、眼を覚ませ綾崎!!」
私は再び意識を揺り起こすと必死に男の名前を呼び続ける、すると先程までの安らかな顔が崩れゆっくりと瞼が開かれた。
「……あれ…ひょっとして……柊…さん?」
「…良かった……大丈夫か、何処か怪我はしていないか?」
私の心から黒く濁った鬱屈が消え去り一時の安堵に包まれる、これ以上事件による犠牲者が増えるのは私の心が持たなかった。しかし綾崎の言葉には普段の勢いが完全に削ぎ落とされている、身体が痛むのか顔を歪めながらも綾崎は戯れ言を呟いた。
「…ハ…ハハハッ……恥ずかしい所を…見られて…しまいましたね……僕の人生で……最大の汚点…でしょうね……」
「…あまり喋らない方が良い…今は何も言わず安静にしていろ」
私は綾崎がなるべく苦しまない様にそう言い聞かす、しかし私の忠告など馬耳東風といった具合に綾崎は喋り続けた。
「…最初に貴方の姿を見た時は……僕にも遂にお迎えが来たのだと…思いました………しかし…僕の行き場所は既に…地獄と認定されていますけど…ね……」
「…また訳の分からん事を……貴様は…いつでもその調子なんだな…」
綾崎の言葉に私は薄い笑みを浮かべる、普段ならこの男の戯れ言は私にとって嫌悪の対象であるがこの状況下では酷く滑稽であった。私は綾崎の眼鏡を外し顔を濡らす雨粒を手で拭い取る、しかし綾崎の血色が良くなる事は無く潰れた声が身体の痛みを訴え始めた。
「…いッ…あァッ……ぐッ…ハァ…ハァ……ど、どうやら……何処かを骨折…してしまったみたいですね………毎日あれだけ…ぎ、牛乳を飲んでいるのに……不思議な事も…あるんですね……」
「静かにするんだ綾崎、これ以上身体に負担を掛ける様な真似は……」
「…以…外と…優しいんですね……柊さん……きっと貴方は…良い父……母親になり…ますよ…」
綾崎はそう答えると弱々しい笑みを溢す、しかし綾崎の力は失われ続けやがて首を無造作に垂らした。
「……もう…身体の感覚が無くなって…きました……少し…休みます……」
「…おい、綾崎…しっかりしろ……おい、しっかりしろ、おい!!!」
話を終えた途端に綾崎の調子は悪化した、身体を強張らせ苦しみを吐き出すその姿に私は紅涙を再発させた。その時耳障りな爆音と共に燃え盛る住居の一部が弾け飛ぶ、煌々として吐き散らされる火炎と相互して無惨に崩れ落ちる家屋の最期は私の悲哀を絶頂まで吊り上げた。私が壮絶な終幕に眼を奪われていると綾崎は私の肩を強く握り締める、そして自身の身体を持ち上げると私の耳許で小さな囁きを発した。
「…必ず…犯人を…捕まえて下さい……犯人は…きっと…」
綾崎は最後に何かを呟こうとするもそこで力尽きた、私が支える綾崎の身体からは活力が失われていきやがて冷たく重い物質と化した。私はそれでも身体を揺すり眼を覚まさせようとする、しかし当然の如く綾崎が私に返答する事は無くただ安らかな面持ちを携えるだけであった。
「……おい、綾崎…嘘だろう、冗談だろう? いつもの様に馬鹿を言ってみろ…いつもの様に……私を…からかってみろ……綾崎!!!」
私は襲い掛かる恐怖心を払おうと声を荒げる、しかしその声は私の耳に虚しく残響として響くだけであった。私が悲しみに明け暮れていると後方から声が聞こえる、その声に耳を傾けるとそれは篠塚の狼狽えた声であった。
「…す、すみません警察の者ですが、大至急救急車を向かわせて下さい!! 今その、あの、急病人がいるんです!! いえ、事故によるものですが……場所は…」
篠塚はしどろどろになりながらも救急隊の要請している、酷く不格好ではあるがその姿は必死である事の表れだった。しかし今更救急隊を呼んだ所で意味など無い、投げ遣りで自暴自棄な心境からか私の心は醜い言葉に溢れていた。
私は絶望に苛まれながら空を仰ぐ、見上げた先にある曇天から降り注ぐ雨はその勢いを弱らせる事は無く我々下界の衆生を余す所無く無慈悲で染め上げていた。私の中から込み上げる感情は最早体内で御する事が出来ず叫びとなって解き放たれる、胸を或いは喉を張り裂く嘆きは脳髄に鈍痛を生じさせ身体中をうねる様な震えと凍えで包み込んだ。私の絶叫は途切れる事を知らずまるで悠久という時の流れに跡を刻む様に放たれる雨音にその調べを乗せる、しかし残酷な空は私の叫びを汲み取る事無くひたすらに冷たい雨で私の吐き出した悲しみを無慈悲に掻き消す始末であった。
篠塚が救急隊を要請してから数分後、あれ程強く降り注いでいた雨は止みその後鋭い唸りを上げた救急車が現場に到着した。またそれと伴い同じく鋭く叫び続ける消防車が駆け付ける、いつの間に現れた人集りの一人が通報したと見られ直ちに消火活動が行われた。しかしもう既に大部分が全焼してしまっている家屋の亡骸に放水をした所で無駄な事であろう、結局猛り昇った炎が鎮火した頃にはそこにあった筈の建物はそこで起きた無惨な散り樣をまざまざと思い知らせる存在と成り果てていた。私は救急隊に綾崎を預けると凍て付きに濡れた身体を立たせる、精魂尽き果ててしまった私の肉体は何も動作を行う事無くただ首を持ち上げ濡れた髪で遮られた視界に映る茫漠を眺めていた。その様子に居た堪れなくなったのか篠塚は私の手を取り車まで引っ張る、私を車に乗せると篠塚はエンジンを掛け車を発進させた。
「……今更…何処に行くというのだ?」
「…綾崎さんが搬送される病院に向かいます、酷い重傷だと思われますが……意識を取り戻し次第事情聴取を行います」
「……そうか……ならば好きにしろ…今の私には最早全て…どうでもいい……」
私は力無く非常に萎れた言葉を溢す、自身の非力さを否応無く知らされた今の私には私を過る全ての事柄が等しく邪魔に思えた。そんな私の言葉など気にする様子も無く篠塚は車を運転する、それが掛ける言葉が見付からない為か関わり合うのを拒否する為かは分からないが荒んだ私にはその沈黙が心地良かった。
我々を乗せた車は綾崎が搬送されている救急車の後を付く様に走り続ける、時折勢いで弾む車と共に無気力な身体は物質化した様に首が揺らいでいた。速度を上げる車が道路脇に集まった水溜まりを踏み付け盛大に水飛沫を飛ばす、暮れにより赤く染まる世界に一片の感傷を抱くと我々は沈み始めた夕焼けの彼方へと消えて行った。
我々が病院に到着した頃には既に日は沈み私の嫌う闇夜が世界を支配していた。私は車を降りると救急車から担架で運ばれる綾崎の後を追う、濡れた身体に衣服が貼り付く感触が何とも不快だったがそれを気にもせず私も病院に進入した。急患用の入口の為か担架は廊下を少し進んだ程度ですぐに手術室の前に辿り着く、異様な雰囲気に包まれたこの場所に私は無意識の内に悍ましい未来の様相を形作ってしまう。手術室の扉が開かれると綾崎は救急隊と共に扉の向こう側へと消え入る、私は踏み込めない領分の手前で立ち止まると綾崎の無事を祈った。綾崎が手術室に運ばれてからしばらくすると扉の上方に『手術中』のランプが灯る、私の身体はこの不毛な時間に比例して僅かな熱を失っていた。
綾崎が手術室に入って二時間以上経っただろうか、ようやく落ち着きと体温を取り戻し始めた私は手術室前の椅子に座り手術の終わりを待ち続けた。だが時間が経つ毎に今度は不安と焦りが肥大化していく、遣り場の無い身体を這いずる負の感情に私は耐え切れなくなりその場を立ち去った。そうして私が向かった場所は公衆電話が並ぶ一角、その一つに駆け寄ると私は受話器を取り硬貨を数枚投入するとある人物の携帯電話の番号を押した。
(…頼む……繋がってくれ……)
私は受話器を耳に当てると心の中で何度もそう唱える、そして五回程電子音が続いた後にようやく電話が繋がった。
『…もしもし、文島ですが……どちら様でしょうか?』
「やっと繋がったか、勿体振らずに電話ぐらい早く出てくれ。しかし…貴様の声を聞けて少しは嬉しく感じるよ……」
『ひ、柊さん…ですか!? ちょっと…一体どうしたっていうんです、こんな時間に電話だなんて珍しいですね…』
私が電話を掛けた相手は監察医の『文島泰彦』、私が少なからず信頼を寄せる数少ない人物である。文島は私からの突然の電話に些か動揺している様子だが、私は向こうの心情など気にせず一方的に話し始めた。
「…文島、今忙しいとは思うが……少しばかり私の我が儘を聞いてもらいたい…」
『……忙しいのを承知の上で了解を得ようとしているんですか? 全く……貴方って人はそうやって私の事など気にもしないで勝手に用件を持ち出してくる、私にだって仕事があるんですよ!!?』
「……それについては毎度済まないとは思っている…だが今はそれ所では無い、状況は差し迫っているんだ!! 文島……こんな私に協力してくれる人間は他にいない、だから頼む……」
私は受話器越しに頭を下げる、この行為に意味は無く端から見れば滑稽であるが懇願する私にとっては意志の表れであった。すると受話器の向こうからの声が止む、一瞬背筋に冷気を感じた私だったがしばらくすると再び声が聞こえた。
『……やはり、何年経っても貴方には逆らえません……話を聞かせて下さい、しかし手短にお願いしますよ?』
「…済まない……感謝するぞ…」
私は嬉しさを抑えた礼の言葉を述べる、そしてすぐに気持ちを切り替えると私は図々しくも文島へ頼みを言った。
「…つい先程、連続殺人が行われた学校付近の住宅で火事が発生した…その事については知っているな?」
『えぇ、存じ上げています』
「私が現場に到着した時には既に建物は殆ど燃えて近寄れぬ状態だった、これが単なる住宅火災であるなら我々の使命は別にあるが……もしかすると中に逃げ遅れた人間がいて、今頃検死の方に回っているだろうと思ってな…」
『……察しが良いですね、それも長年培った刑事の勘という奴ですか? 柊さんの言う通りです、火災が起きた住宅からは死体が発見され今はこちらに搬送されてます』
「…そうか……それで質問だが、焼け跡から見付かった死体の身元が割れているのならば教えてくれるか? それと死体の死因、現場で不審物が見付かったかどうか、分かる事は全て教えてくれ」
『分かりました、少々お待ち下さい』
文島はそう言うとしばらくの間無言になる、物言わぬ受話器からパソコンのキーボードを叩く音が聞こえそのすぐ後に文島が電話で答えた。
『…有りました、まだ詳しい内容は分かりませんが分かる範囲でお伝えします。まず被害者ですが…名前は「岡英治」、例の殺人が多発した中学校で理科の教師をしていた男です』
「…理科の教師……詰まり今回の被害者もこれまでの事件と同一視して構わない様だな……」
『…そういう事になります、残念ですが今回の事件は前件の継続だと思われます。被害者の死因は焼死、まぁ火災現場であれば焼死体の一つや二つは付き物ですが……ただ焼け死んだ訳ではありませんね』
「……それは…どういう意味だ?」
『現場の調べによると焼け落ちた住宅の冷蔵庫に開封済みのコーヒーが仕舞ってあった様です。ちょうど中身を調べ終えた所ですが……コーヒーの中からエタノール、よく化学の実験で使われる薬品が検出されました』
「……詰まり被害者は薬品入りのコーヒーを飲みその作用で倒れた…その後自宅を放火されたという事か?」
『まだ被害者がエタノールを摂取したかは不明ですが、今の所そういう事になります。エタノールは飲むと急性アルコール中毒に陥る危険が有ります、コーヒーで薄まっていたとしても原液を使えば昏睡状態に至らせる事は可能でしょう』
「……出火の原因は分かっているか? あれ程激しい火災だったのだ、まさかマッチによる付け火ではあるまい」
『…出火の原因は……ガス漏れがその要因みたいです』
「……ガス漏れだと? そんな馬鹿な…まだ他にあるだろう!?」
『…確かにそれだけでは無いですね……どうやら火災の起きた住宅には着火装置が仕掛けられていた様です』
「…着火装置?」
『はい、住宅はほぼ全焼だった様ですが奇跡的に全焼を免れた玄関口からそれらしい物が見付かっています。構造は至極簡単です、玄関の扉にマッチを取り付けその下に紙ヤスリを設える、その扉を誰かが開けると自然とマッチが着火する非常に粗雑な仕組みでした』
「…しかし粗雑ながら実際に住宅を全焼手前まで追い込んだのか、恐ろしい事を……詰まり火災の発生原因はガスによるものか…成る程、それなら綾崎が倒れていたのも納得が行く、あの体勢はガス爆発によって飛ばされたものだったか……」
『え……綾崎って…以前私に不気味な冊子を見せてくれた人ですよね? 彼がどうかしたんですか?』
「…いや別に、何でも無い……まぁ奴自身確かにどうかしているがな…」
私は小さな笑いで事実を誤魔化す、電話越しの文島も私の異変に些か感付いている様だが私はそちらの話題を煙に巻き続きを話す。
「…どうやらこれ以上の手掛かりは無い様だな、それで……貴様の見ている資料には犯人の目星が付いているか?」
『いえ、有りません。そもそも今の段階ではとても無理でしょう、現場で得られた情報では犯人特定には繋がらないと思われます。エタノールは学校の理科室に行けば手に入るでしょうし…着火装置も素人でも作れる物です、やろうと思えば学校関係者なら誰でも出来る代物でしょう』
「……そうか…結局、新たな犠牲者が出ただけで捜査に進展は見受けられぬという事か……」
私は望まぬ結果を受けて肩を落とす、やはりこの事件は一筋縄ではいかない程に入り組み合ったものであると再認識させられた。私の中で犯人に対する怒りが沸々と芽生え始める、しかし犯人が分からぬ以上この感情は私の心を疲弊させるだけであった。
今の私は何を考えれば良いか分からず思考の焦点が定まらずにいる、私は別れの言葉を述べ電話を切ろうとしたその時であった。私の脳裏に微かな稲光がほとばしる、今まで機能していなかった頭が思考を持ち始め私の口から言葉が漏れる。
「…文島、確か被害者の死因は焼死であったな?」
『え? えぇ、そう書いてありますが……それが何か?』
「火災はガスによって発生した、詰まり建物が焼け落ちる前にその家の中はガスで充満していた筈なんだ! だが被害者は急性アルコール中毒に陥りガスに満ちた室内に閉じ込められていたにも関わらず焼死している、住宅が放火されたのは被害者が窒息死する前……犯行は綾崎が玄関の扉を開くごく最近の間に行われていた事になる!」
『…ち、ちょっと待って下さい! 今綾崎さんが焼け落ちた住宅の扉を開けたと言いましたよね? それって……彼の身に何かあったんですか!?』
「…今はその事はどうでも良い、とにかく……これで犯人の犯行時間が絞り込める。犯人は被害者がエタノール入りのコーヒーを飲んでから綾崎が玄関の扉を開けるまでの間にガスを家中に充満させた、その間に学校を抜け出していた人物が犯人と推測出来る!」
『…待って下さい、貴方の意見では犯人は校内の人物だと断定していますが……果たしてそれは確かなものなのですか?』
「犯人は校内であれ程手の込んだ殺人を行ったんだ、校外の人間にそんな事が出来るものか!」
私は興奮から文島の意見に一切耳を貸さなかった、私の頭に浮かんだ新たな希望はまるで麻薬の様に脳内を早急に侵食していた。
「……時間を取らせてしまい済まなかったな、貴様の情報はある程度役に立ったぞ。また何か分かったら電話してくれ、では失礼する」
私はそう言うと相手の言葉を聞く前に電話を切る、結局今回も私の自分勝手で終始一貫してしまったが今の私はそんな事気にも留めなかった。
私は公衆電話から身を引くと小さい歩幅で歩き出す、私の冷えた身体に反比例して私の体内は確かな熱を帯びていた。私の脳内を満たしていた不安は一時の興奮に掻き消される、しかし不安が和らいだ後に私が感じたのは首筋まで通る鈍い頭痛だった。私が身に余る憂鬱を抱えていた時、私の名前を呼ぶ声が耳に響く。
「おい柊、こんな所で何している!」
私は声のする方に首を向ける、雨で薄くぼやけた視界に映ったのは私のよく知る人物であった。
「……鬼村…警部……」
「柊、全くお前という奴は…さっきから何度も携帯に電話してるだろ、どうしてお前は毎度毎度電話に出ないんだ!?」
「……電話?」
私の頭は突然の事に機能が緩慢になる、鬼村警部の言葉を何度も頭の中で復唱するとようやく私は事の重大さに気付いた。私はポケットに手を入れ携帯電話を取り出す、画面を開くとそこには数件の着信履歴が存在しそれが鬼村警部の物だとすぐに判明した。
「す、すみません鬼村警部!! まさか警部殿から電話が掛かっているとは……その…つい先程まで色々と事態が急変してしまい、私もそちらに頭が行ってしまって…」
「あぁ、その事については重々承知している…だがそれでも電話に出ないのは感心しないな、幾ら事態が悪化しているとはいえ大事な用件だったらどうするつもりだ?」
鬼村警部の叱責に私は頭が上がらなかった、低く抑えられた声色であったがその言葉が逆に私の心に深く重く伸し掛かった。
「電話が何の為にあると思ってんだ、焦る気持ちも分かるがお前が冷静にならなくてどうする? それに…お前身体ずぶ濡れじゃないか、そんな格好だと風邪引くぞ。ほら、これ貸してやるから身体を拭け」
鬼村警部はそう言うと私にタオルを投げ渡す、それを私は受け取ると衣服に染み込んだ雨水を拭き取った。もう殆ど身体が水を吸ってしまっているが肌に貼り付く衣服を乾かすのにはちょうど良い、手に持つタオルは何故か優しい温もりを帯びており身体を拭う度に私は微弱な安堵を覚えた。身体を拭き終えると私は濡れた髪にタオルを掛ける、頭部の水気を乾かしていると鬼村警部は不思議そうに話し掛けた。
「…今の電話…誰と話していたんだ?」
「……監察医の文島です、先程火災が発生した住居での事件について話をしていました」
「…文島? 文島って……あの頼りの無さそうな眼をしたあれか? 全く…よくあんな奴と関係が持てるな、俺にはお前の人間関係が不思議に思えるよ……」
「…文島は鬼村警部の思う様な奴ではありません、文島とは高校生以来の知り合いですが…真面目で見知らぬ人間にも優しく、それに信じられませんが結婚もしているんですよ」
「ふぅん……人は見掛けに因らぬ、という事か……」
どうやら鬼村は文島の事をあまり快く思ってはいないらしい、確かに奴は雰囲気が暗く加えて監察医という職に就いている為かよく誤解されるが鬼村警部の言う通り文島は見掛けでは人を判断出来ぬと体現しているのだ。私と鬼村警部との間で駄弁が続く、しかし鬼村警部は話題を変えて話し出した。
「…まぁお前が火災の件に触れたい気持ちも分かる、聞けばお前は現場に駆け付けた当事者で現場で倒れていた男に何度も呼び掛けていた様だが……」
「……あの男は、その……捜査の最中に偶発的に接触した存在に過ぎません、別に奴と私の間にそれ以上の関係は…」
「…別に俺は何も言ってないが?」
鬼村警部の言葉で我に帰った私は妙な恥ずかしさを覚えタオルで視界を閉ざす、一体何を向きになっていたのか私は綾崎との関係を否定的に強く主張していた。
「…お前は、その何だ…変わった男を引き付ける何か能力が備わっているらしいな。まぁそんな事今はどうでも良い…それより柊、お前には言わなければならない事が有るんだが……」
「? それは一体……何でしょうか?」
私は直感的に鬼村警部の言葉に不安を覚える、鬼村警部は顔を歪め非常に言い難そうな表情をすると一つ間を置き口を開いた。
「…約一時間程前に署から連絡が入った、問題は内容だが……柊と名乗る女刑事が酷く熱り立った様子で少々強引な捜査を敢行した、という通報が二三件届いたらしい…当然ながら心当たりはあるよな?」
「……あ…それは……」
私は本能的に恐れを感じると頭は掛けたタオルを深く被る、しかし鬼村警部は私の細やかな抵抗であるタオルを勢い良く剥ぎ取ると私に叱責を与える。
「…この話をするのは一体何度目かは俺も数え切れん……柊、お前は何度同じ事を言わさせれば気が済むんだ!! あれ程気持ちを抑え高ぶらせるなと言ったが、何故お前は毎度毎度捜査に向かえば問題を起こすんだ!!」
「…申し訳ありません……ですが…」
「言い訳が通じると思っているのか!!? 俺はお前が新米からよく知っているつもりだが……此処最近は矢鱈と問題を起こす、一体お前に何があったんだ!?」
「……それは……」
私は鬼村警部の問い掛けに返す言葉が見当たらなかった、何故私が此処最近になって怒りが治まらなくなり歯止めが利かなくなったのか自分でも分からなかったのだ。しかしもし仮にその原因を挙げるとすればそれは間違い無く綾崎が原因だろう、だがその理由も見方によれば逃げ口上にしかならず結局私は沈黙するしか他無かった。私が返答に困り顔を徐々に俯かせると鬼村警部は更に話し掛ける、その声は先程までの怒りを感じさせない穏やかな声だった。
「…お前が問題を起こすのはいつもの事だ、本当ならもっと厳しく叱り付けるべきだが……お前の心境を察しあまり強く言わない事にする。だがお前には捜査から手を引いてもらう…悪く思うな……」
「……そんな……何故です!?」
「お前にだって分かるだろう!! 警察は団体組織だ、その中に固有の秩序を保ち一糸乱れぬ行動により社会の安全を守るのが使命なんだ! その秩序を少しでも狂わす者は排斥される、それが社会の掟…組織というものに従う者に課せられた命だからだ!!」
「…そんな使命……納得出来ません!!」
私は愚かにも鬼村警部に口答えをしてしまう、自分の頭ではこの行為が間違っているのは分かっているのにそれでも私は口を開かずにはいられなかった。
「警部の責務は市民の安全を確保する事、その為に私は出来る限りの行動をしたつもりです!!」
「その行動が行き過ぎてると言っているんだ!! 問題が起きる様な捜査をしたお前に反論の余地は無い、それを承知で言っているのか!!?」
「事態は一刻を争うのですよ!!? 捜査の限度に視点を置いていては更なる悲劇は防げません、幾ら一般市民から苦情があろうと犯人を逮捕出来ねば意味が…」
「一般市民に警察の道理が通用すると思っているのか!!?」
私はその言葉で離れていた精神が身体に戻る、鬼村警部の圧倒的な迫力と弱点を貫く言動は蜘蛛の糸の様に私を搦め捕った。
「…結局、俺達警察という団体組織の欠点はそこなんだ。安全を守る警察と安全に守られる市民との間に生じるのは意見の相違、例え警察が犯人逮捕に尽力しようともその一連の事象に市民が不満を抱くのであれば捜査の敢行は不可能だ」
鬼村警部は私から顔を背け眼を伏せる、その行動が何を物語っているのかは物事に鈍感な私でも察しが付いた。恐らく鬼村警部も私と似た様な感情を抱いているのだろう、しかし込み合った体裁と自身の立場を考慮した結果私には真似出来ぬ耐えるという道を選択したのだ。私は鬼村警部に畏怖にも似た念を感じる、すると鬼村警部は再び顔をこちらに向け話し出した。
「…お前が介抱した、その誰だ……綾崎って奴か、そいつの付き添いでもしてやれ」
「…ですが……やはり…」
「これ以上俺の頭を悩ませるな、多少の事なら庇護出来るが…あまりに出過ぎると俺ではどうしようもならんぞ? それにこれは上からの命令でもある、自分の首を絞めたくないなら……分かるな?」
鬼村警部はそう言うと私に背を向け静かに歩き始める、私がその姿を眺めていると不意に立ち止まり私に告げた。
「…何をやってる、綾崎って奴の容態を見に行かなくていいのか? 心配しなくても後の捜査は俺達に任せておけば良い、今のお前には休憩が必要だ。聞けば此処ん所満足に休みも取って無いらしいじゃないか、ならこれがちょうど良い休暇みたいなものだ」
鬼村警部はそう言い終えると止まっていた足を進め出す、強い意志を感じさせる逞しい後ろ姿を私はただ無心に見詰めていた。ゆっくりと廊下の先へと遠ざかる背中が消え去る前に私は後ろへ走り去る、鬼村警部の言葉に従い私は綾崎の下へと歩を進めた。私はひたすらに続く代わり映えのしない廊下を突き進む、まるで侵入者を惑わす迷宮の様に入り組んだ病院内を私は駆け抜けていた。
今自分が何処にいるのか分からない、まるで迷子となった幼児の様な不安を募らせながら私は尚も病院内を走っていた。先程綾崎が搬送された手術室には既に綾崎の姿は無く、私の不安は増すばかりで遣り場の無い焦燥が私を襲った。私は擦れ違う患者や看護師に次々と綾崎の居場所を尋ね、そして四人目でようやく綾崎の居場所を聞き出せた。どうやら綾崎の手術は既に終わり今は病室に移されたとの話である、私は居場所を教えてくれた人物に礼を言うと足早にその場を後にした。
教えられた病室の部屋番号を確認しながら私は廊下をひた走る、しかし病室の場所を教えられてもこの広い迷宮から抜け出せる訳でも無く私は未だに茫漠の最中を彷徨っていた。私が病室探しに奔走していると曲がり角で何者かと衝突する、突然の事に一瞬肝が冷えるが前を見るとそこには小さな子供を連れた若い綺麗な女性の姿があった。
「す、すみません! あの…怪我はありませんか?」
「あ…いえ大丈夫です、ちょっとぶつかっただけですので」
「そうですか…申し訳ありません、病室を探すのに夢中になり余所見をしていたもので……」
私は頭を下げ謝罪を述べる、しかし女性は全く気にする様子も無く優しい笑みを浮かべていた。その微笑みに気を良くしたのか、私は無遠慮に女性に尋ねた。
「…あの…突然の事ですみませんが、部屋番号3ー205の病室をご存知ではありませんか?」
「3ー205ですか? えぇ、それでしたらこの先の廊下を突き当たりまで進み左に少し行った所にあります」
「…突き当たりを左ですね? 唐突な質問に答えて頂き有り難く思います、すみませんが私はこれで失礼します」
私は再度女性に頭を下げると女性の言葉通りに廊下を進む、後ろから女性と子供の視線を感じるが私は気にせず病室へと急いだ。
女性に言われた通りに突き当たりを左に曲がり少し進むと私の探していた病室の前へと辿り着く、部屋番号をもう一度確認すると私は有り余る力を極力抑え病室の扉をゆっくり開いた。病室に入って一番に感じたのは空虚だ、照明は極度に抑えられ部屋の一角を除く全ての部分が静寂と暗黒に縛られていた。この異様なまでの空白に私は妙な寒気を感じながらもまだ明かりが灯る場所に歩み寄る、そこには見慣れた顔が二つ存在し一つは安らかな寝顔を、一つは不安を塗り固めた顔を浮かべていた。
「…篠塚……綾崎の容態はどうだ?」
「…柊さん、今まで何処にいたんですか?」
「それは今は関係の無い事だ、それより私は綾崎の容態を尋ねている…答えてはくれんか?」
「……ついさっき手術室を出た所です、医者の話では身体の数箇所を骨折していた様ですが…命に別状は無いとの事です……」
「…そうか……大事に至らなかったのは不幸中の幸いと言った所か……」
「はい…ですが、見ての通り綾崎さんはこの様な状態です。これでは……満足に話を聞くのも難しいと思います」
「…そんな……綾崎が、そんな……」
私は改めて綾崎の姿を確認する、身体中に包帯を巻き付け病院服を着せられベッドに横たわる様は確かに一大事である事を物語っていた。私が視線を横に逸らすと側の机にレンズの割れた眼鏡が置かれている、レンズの縦に入った罅があの場で起きた惨事の片鱗を見せ付け私の中に眠っていた記憶を蘇らせた。
(…綾崎、済まない……本当に済まない……)
私は綾崎の眠るベッドの欄干を握り締める、手に力を加える度に最早涸れ果ててしまっていた筈の涙が溢れ私の視界を遮った。私はこのまま感傷に身を焼かれると思った時、篠塚が私の名前を呼んだ。
「…綾崎さんが眼を覚ますまでの間、取り敢えず火災の起きた現場を調べましょう。近隣の住人が犯人を目撃しているかもしれませんし、何か犯人に繋がる証拠が…」
「……無駄だ…」
「……え?」
「…私は捜査から外された、もう犯人を追う権利が無くなったという事だ……」
「…そんな……一体どうして!」
「貴様も薄々感じていたのだろう!!? 原因は…全て私のせいだ、犯人を捕まえる事に集中するあまり本来見るべきものを見失っていたからだ! 私は……私はもう疲れた、最早…何かをする気力すら残っていない……」
私はベッドの欄干から手を離すと病室内を重い足取りで徘徊を始める、今は何も語りたくない筈なのに抑え切れぬ感情が堰を切った様に言葉となって溢れ出た。
「…私の責任だ……事件解決を謳っていた分際で私は何一つ出来無かった……私は…救い様の無い大馬鹿者だ……」
「…そんな…そんな事ありませんよ!! 確かに多少強引な節は有りましたけど…でも、柊さんは事件解決の為に尽力してたじゃないですか!!」
篠塚は私を庇う様な言葉を掛ける、しかし今の私にはその言葉は癇癪を起こす引き金であった。私は怒り任せに篠塚の胸倉を掴み掛かる、そして抑えの利かなくなった感情を振り上げた。
「その結果がこれだ!!! 私の尽力は空回りという形で終わったのだ、これ以上尽力した所で何かを見出だすなど出来る筈も無い!! 結局…私に人は救えないという事なのだ……何をしようとも…私が無力という事に変わりは無い…」
私は篠塚の胸倉を掴みながら嘆きを呟く、自身の不甲斐無さとひたすら続く虚無感が私の中で複雑に絡み合い僅かな気力さえも啄まれた。胸を締め付ける痛みに加え私は頭痛と耳鳴りを誘発させる、今の私の存在はこの世界の波に押し潰されそうな程に脆弱なものと化していた。私が自身の無力を嘆いていたその時である、私の耳は不可解な音を捉えたのだ。その音は部屋の外の廊下から聞こえる、一定の間隔で研ぎ澄まされた時間に流れていたのは何者かの足音であった。私は足音のする方向に首を向ける、物静かでそれでいて力強い足音は廊下を進みやがて扉の前で止まった。私の耳に唾を飲み込む音が響き勢い良く扉が開かれる、そこに立っていた足音の正体が暴かれると私は短い言葉を溢した。
「……鏡…水……」
「そんな…彼は……」
私も篠塚も突然現れた男の姿に身体が固まる、今まさに私の視線の先には此処に存在も登場もしない筈の人物が立っていたのだ。少し乱れた灰色の髪と見る者全てを威嚇する様な鋭い眼、時代錯誤な白い着物と黒い袴に黒い手甲で身を飾ったその姿は現実から乖離した異形であった。この男が私の知る人物であるならばこの男の名前は『比良坂鏡水』、私が此の世で最も嫌う存在が私の眼前に推参を果たしたのである。鏡水は私の顔を一瞥するとまるで興味が無い様に視線を逸らす、そして草履の裏で床を鳴らしながら綾崎の眠るベッドに近付いて来たのだ。
「…鏡水……貴様、どうして此処に…」
私が不満と驚きを突き付けた問いをするが鏡水は気付いていない様にこちらに視線を向けない、鏡水はただベッドに臥した綾崎を鋭い眼光で眺めていた。すると突如鏡水は拳を握るとそれを横たわる綾崎の胸元に付ける、そして何をするかと思えば突然拳に力を入れ綾崎の胸に押し付けた。突然の出来事に私は言葉すら出せていない、しかし鏡水の行動によって静寂に淀んだこの部屋に変化が生まれた。
「っいででででで!!! いったぁいなぁぁもう、何してんだぁ!!」
それまで微動だにしなかった綾崎が突然叫び声を上げ飛び起きた、先程まで安らかであった顔は痛みに歪み明らかな鏡水への怒りを表していた。
「…あ…綾崎、貴様…意識不明では無かったのか?」
「ん? あれ、誰かと思えば……誰だっけ? まぁ思い出せないんならそんなに重要じゃないし、良しとしますか!」
「…綾崎……綾崎…貴様という男は!!!」
私は人事不省に陥っていた筈の綾崎が目覚めた事に関して嬉しさでは無く怒りを覚える、そして綾崎が病人である事すら構わず私は綾崎の胸倉を引き上げた。
「綾崎!! 貴様…まだ私を愚弄し足りないのか!!? あれ程私が貴様の名前を呼び、剰え血涙を流してやったというのに……全く…貴様という奴は!!!」
「お、落ち着いて下さい柊さん! そんなに乱暴すれば傷に響きますし、それにそんなに怒る事じゃありませんよ!?」
「…そこの小学生時代の同級生みたいな顔の人の言う通りだよ、別に僕は貴方をそんな小馬鹿にするつもりは全く無いですって!!」
「……どういう事だ?」
私は疑問を溢し綾崎の胸倉を離す、綾崎は乱れた髪を整え直すと至って平然とした様子で答えた。
「…確かに僕は火災の爆風に吹き飛ばされて幾らか骨折したけど、意識不明だなんて事実は無いよ? 今までずっと黙ってたのも単に日頃溜まった疲れで熟睡してただけだし、それについてはそこにいるあの人から聞いたでしょ?」
「……それは無い、私は貴様が話を聞ける状態では無いと…貴様が目覚めないと聞いているが……」
「…そうは言ってなかった筈ですよ? ねぇ、えぇと……尻上がり、じゃ無くて…鰻登り、だったっけ……」
「篠塚です、一体誰と間違えているんですか? 僕はただ綾崎さんは見ての通り熟睡しているので詳しい話は聞けない、と言っただけで…」
「…じゃあ……先程までの焦りは、全て私の早とちりだった…という事か?」
「まぁそうなりますよね、客観的に見ると」
綾崎は全く嘲る様子も無く普通の態度で軽くあしらう、その態度が私にとって苛立ちが募るものであり自分勝手な怒りと恥じらいを併発させた。
「…き…貴様達、分かっていたのなら早く言え!! 先程まで一人で杞憂の喧騒をしていた私がまるで馬鹿みたいじゃないか、どんな辱しめを受けさせるつもりだ!!」
「いや、でも……別に僕は変な事を言ったつもりは……」
「し、篠塚!! 大体貴様の先程の言い回しでは勘違いしてしまうではないか、余計な事をしおってからに…私がどれだけ赤恥を掻いたと…」
「クハハハハハッ!! 爽快痛快はたまた愉快、何を言い合っているかと思えば片耳立てれば聞こえゆるは不毛の漫談…相も変わらず、あんたという御仁は常套笑いを誘ってくれるな!」
突然笑い声を上げて話し出したのは場違い装束に身を包んだ鏡水、この男も相変わらず私を苛立たせる役目を買って出た様だ。
「…鏡水…もう一度尋ねるが、何故此処にいるのだ?」
「…何故、と問うか……何、別段込み入った話では無い、単純にそこで寝ている阿呆に呼び出された…ただそれだけの次第だ」
「綾崎が、か……綾崎…貴様、私が以前にこの男を呼ぶなと言ったのを忘れたか!!?」
「えぇ、当然の如くきっぱり忘れてました!」
「そんな開き直った態度で私が許すとでも思っているのか!!? 何を明るく語っているのだ、貴様はどうして私の頼みが聞けないんだ!?」
「別に僕が自由奔放なのは今に始まった事じゃないでしょ、なら言うだけ無駄だってば!」
「貴様がそれを言うか!! 大体どうして貴様という男は人が嫌う事を平然と…」
「おいおい柊警部補さんよぉ、言っておくがこの野郎の耳は有って無い様なものだ、馬耳東風だの焼け石に水だのとはよく言ったものであろう?」
鏡水は私の肩に手を置き私を諭そうとする、しかし私は鏡水の手を振り払うと怒りの矛先を鏡水に移した。
「貴様にとやかく言われる筋合いは無い!! 第一私は貴様とは二度と会いたく無かったのだ、さっさと私の前から立ち去れ!!」
「出会って早々聞かされる文句じゃ無いが、まぁ天邪鬼と捉えその言葉有り難く頂戴致す」
鏡水は相変わらずの取り澄ました態度を取る、一刻も早くこの男を排斥しようとしたその時綾崎が間に入った。
「待って下さい柊さん、僕が彼を呼んだのは別に貴方を困らせようとしたからではありません」
「…では、一体何の目的でこの男を呼んだのだ?」
「それを今から話したいと思います、僕の話を聞けば柊さんも納得してくれるでしょう。それでも柊さんが彼を目障りだと言うのであればその時はどうぞ好きにして下さい、彼を追い出すのは話を聞いた後からでも問題無いでしょう?」
「……全く…仕方が無い、非常に不本意だが貴様の言い分を通してやろう。だが若造よ、例え話を聞いた所で貴様への処遇が変わる訳では無い、下手な理想など持ってくれるなよ?」
「…唐突に呼び出しを喰らったと思い遠路遥々訪ねてみたが……やれ、俺への対応は一辺倒で千差万別とはいかないな。折角の赴きも粗雑で邪険な処置にて果てるるか……成る程、これ故に現世とは味わい尽くせぬ……」
私からの侮蔑を込めた言葉でさえも鏡水は意に介する様子も無く寧ろ楽しんでいる様に見える、やはりこの男は私などでは計り知れぬ程の裏を持っているのだろう。私は鏡水と綾崎の姿を見比べる、二人には容姿としての違いは有るが中身としては大した差は無い様に思えた。二人共に飄々とした態度を取り戯れ言を嬉々として話す辺りはよく似ている、鏡水は綾崎の事を自分より質が悪いと言っていたが私に言わせればどちらが厄介であろうと大同小異である事に変わりは無かった。
暗く呑み込まれてしまいそうな闇に閉ざされた中に佇む僅かな光、部屋の一角を照らすその光源は私の胸苦しさを紛らわす重要な存在であった。この息詰まる環境下に現れた一抹の不安、この男が我々にとって希望という一筋の光になるのか今の私には分からなかった。私の脳裏に過去の忌まわしき記憶が途切れながらも蘇る、その記憶の大部分を占めていたのはやはり眼前の男であり私にとってはどの様な形であっても相容れぬ関係であった。しかし溺れる者は藁をも掴むとはよく言ったものか、今の私には心なしか男が数少ない希望に思えた。私の中で不安と切望が目眩く入り乱れる、自分の存在が曇り硝子の如く薄く霞んでしまっていた事に私は言葉にし難い寒気を感じた。
続