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其の呂3

理科室に潜む者



 この学校の理科室には奇妙な噂がある、形や内容に多少の誤差はあるが殆どが同じ終わり方を迎えている。舞台となるのは暗くなった夜の理科室、普段は生徒が立ち入る事の出来無い領域である。しかしどれが原物でどれが複製かの違いは今となっては知る由も無い、だがこの噂を聞いた人間の大多数は放課後になると理科室には絶対に近付かなくなってしまうのだ。

 生徒達をそこまで恐怖させる噂話とはどんなものなのか、此処ではある警備員に降り掛かった怪異と共にお話ししよう。



 ある日の事である、その学校で警備員をしている男性は偶然生徒達から奇妙な噂を耳にした。その内容は、深夜の十二時に校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下を歩いていると理科室に人魂が飛んでいるのが見える、それから理科室の前を通ると中から物音が聞こえる、というものであった。更に話には続きがあり、例え理科室から物音を聞いてもそのまま素通りしなければならない、何があっても絶対に中を覗いてはいけない、と曖昧な形で終わるのであった。生徒達は皆揃って顔を青くしたが、深夜に生徒が校内にいる筈も無く所詮は作り話だろう、と警備員は笑い飛ばした。するとそれを聞いた生徒の一人が警備員の男性に深夜理科室を見る様にと頼んだ。


「本当に嘘だと思うなら今日の深夜理科室を覗いてみてよ! もしおじさんが覗いて何か見た時はちゃんと僕達に謝ってよね!!」


「あぁいいとも、もし何かいたら謝ってあげるさ。まぁ何もいないだろうけどね」


そう言うと警備員の男性は腕を組み大笑いする、しかし男性の本心はその噂の恐怖で一杯だった。しかし言ってしまった以上はやらなければならない、羽目を外し調子に乗ってしまった自分を警備員は酷く後悔した。



 その日の夜、警備員は噂にあった校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下の前に来た。雲が月を覆い隠しそれにより校内は予想以上の闇に包まれ、上部に取り付けられている非常灯だけが場所を示す光源だった。

 警備員は懐中電灯を点けるとゆっくりと渡り廊下を歩き始める、一歩ずつ先に進む毎に男性の恐怖心は益々強まっていくのだった。半分程歩き終わった時に警備員は立ち止まり周囲を見渡す、すると彼の眼にとんでもないものが映った。理科室の中に人魂がふわふわと浮かんでいたのだ、警備員は驚き人魂に懐中電灯を向けその姿を確認しようとする。だが宙を舞う人魂は消える事無く漂い続けている、警備員は恐怖を必死に抑えながら理科室へと向かった。

 理科室の前に辿り着くと警備員は初めに鍵の確認をする、当然ながら扉には鍵が掛かっており誰も入れない様になっていた。恐る恐る扉に耳を近付けると中から微かに物音がする、それは誰かが中にいる証拠だった。噂が本当ならこのままこの場を立ち去らなければならないが、警備員は僅かな好奇心に負け扉の隙間から中を覗いてしまった。中を覗くと確かにそこには空中に浮かぶ人魂が存在した、だが眼を凝らして見ると人魂の下にアルコールランプが付いていた。更にその先には何者かの右腕がアルコールランプを掴んでいるのが見える、警備員は心の中でこれは誰かの悪戯と考え始めた。


(恐らく今日の話を聞いた誰かが理科室に隠れて噂を実現させたんだろう。こうなったら誰がこんな悪戯をしたか突き止めてやる!)


警備員はポケットから理科室の鍵を取り出すと音を立てず静かに鍵を開ける、そして勢い良く扉を開けると懐中電灯で中にいる人物を照らした。


「こら!! そこにいるのは誰だ!!」


警備員は怒鳴り声を上げながらその姿を確認する、しかしそこにいたのは警備員が予想していた人物とは全く違う存在だった。確かにアルコールランプを掴む腕はあるが腕から先の身体が無い、更に腕のすぐ近くには顔が半分しか無い生首が宙に浮かびこちらに笑い掛けていた。それは明らかに此の世のものでは無い存在、その姿を見た警備員は恐怖のあまり懐中電灯を落とし一目散に理科室から走り去った。男性が全速力で廊下を走り抜けると曲がり角に差し掛かる、少しもたつきながら角を曲がったその時何者かの手が男性の左腕を掴んだ。男性は恐怖で足が動かなくなる、心臓が口から飛び出しそうな程の恐怖を後ろに感じながらも警備員は後ろを振り向いた。男性の左腕を掴んでいたのは先程見た青白い片腕、男性の恐怖が極限に達した時角から半分になった生首が現れた。よく見るとその顔は今日の昼に男性に渡り廊下を歩くよう頼んだあの生徒である、顔が半分しか無い生首はにっこりと笑いながら低い声で話し掛けた。


「…本当にいたでしょ……おじさん…謝ってよ…」


その言葉を聞いた男性は意識が遠退いた、そしてそのまま廊下に倒れ気絶してしまった。



 その後警備員の男性はまるで逃げる様に学校を去った、残されたこの話を聞いた生徒達は一層理科室を恐れる様になったのである。実は昔この理科室で実験中にアルコールランプで身体を火傷してしまった生徒がおり、その生徒は事故の数週間後に失意の内に此の世を去ってしまったというのだ。その事故の際生徒は右腕と顔半分を火傷してしまったと言われており、偶然にも警備員が見た生徒の部位と一致するのだ。

 恐らくその生徒は自分の存在を忘れてほしくないが為に生徒に紛れ噂を流し夜な夜な理科室に現れたのだろう、生徒の思念が無くならない限りこの噂は校内に蔓延し続けるかもしれない。もしその事故が起こらなければ生徒の魂が理科室に留まる事も無かった、そう考えると少し悲しくなってしまう。仮に怪しい噂を聞いたならばその真相を確かめてみるのも良いだろう、多少危険ではあるがもしかすると誰も知らない話の裏面を垣間見れる事が出来るかもしれない……



++++++++++++



「……それでは…詳しい話を聞かせてもらおうか?」


私は逸る気持ちを出来る限り抑えながら落ち着いた口調でそう問い掛ける、表情もなるべく冷静を装うが完全に抑止出来無い感情が睨むという行動で顔に出た。しかし私の丁寧な問いに対して相手は何一つ言葉を口に出そうとしない、困惑と緊迫が表情を引き攣らせながら相手はようやく口を開いた。


「……あの…えぇと、その……何を話せばいいんだっけ?」


「…何故貴様が所有している筈の辞典が事件現場に残されていたのか、私はそれが知りたくて此処にいるのだ。貴様が知っている事を話せ、それとも辞典に足が生えて一人でに歩いていった、等という愚答を言うつもりは無いな?」


「まぁ、これが本当の生き字引……なんちって!」


私の言葉に相手は綾崎の言葉を無視して黙り込み心底嫌気が差した様な素振りを見せる、しかしこのまま黙っている訳にもいかず結局私の言う通りに従うしか無かった。


「…あの本は……無くしたんだよ、三週間前にね。僕はその辞典を此処に置き忘れちゃって次の日来てみたら辞典は無かったんだ、最初は部長か隊長の悪戯だと思って気にしなかったんだけど……その後は完全に忘れちゃって……」


「…忘れた、か……あの辞典は学校の所有物だろう、何故もっと早くその事を知らせなかったのだ?」


「……僕にとっては物が無くなるなんて事は日常茶飯事だよ、今日だって僕の消しゴムが無くなったばかりなんだから…」


「………変な事を聞いてしまったな、済まない…それで、貴様の持ち物を盗む奴に心当たりはあるか?」


「…さっきも言ったけど僕の物が無くなるのは日常茶飯事、心当たりなら幾らでもいる……そいつら全員とっちめるなら名前教えてあげるよ?」


「……誰かに恨まれる様な事をした覚えはあるか?」


私と相手との間に終着の見えない不毛な遣り取りが続く、そんな状況下である男の横槍が話の進捗の妨げをした。


「柊さん、彼の今までの人生は恨みを作る事で続いた様なものだ。恨まれる相手なら幾らでもいる、恨みの線は無しで考えた方が良くない?」


「勝手な事言わないで下さいよ隊長、それじゃあまるで僕の人生恨まれ放題って誤解されますよ! それに隊長だって人の事言えませんよ、授業中変な話題を切り出してるから生徒からは煙たがられてますよ?」


「……君、幾ら年下だからって言って良い事と悪い事があるよ? 僕がそんな風に思われてたなんて……こうなったら次の授業は全編無駄話にしてやる!」


この男が生徒達から嫌われるのは簡単に察しが付く、人の話を聞かず人の嫌がる事ばかりしている人間が他者から嫌われるのは衆知の事だからだ。私はこの男の横槍に虫酸が走る、歯を噛み合わせながら嫌悪を表現すると私は男に言い放った。


「…綾崎、貴様は黙っていろ! 貴様が介入すると事態が良からぬ方向に向かってしまう、公僕の為にしばらく静かにしていてくれ」


「……嫌です、僕は貴方の事は好きですけど貴方の言う通りにはしたくありません! 仮に僕を捕らえるならどうぞご自由に、僕には後ろめたい事なんてありませんから!」


綾崎は私に笑い掛けながら私を挑発する発言を吐き出す、この男の自由奔放さには慣れたつもりでいたが私は頭に軽い頭痛を感じた。

 今私は綾崎率いる放送部の溜まり場である放送部室にいる、電灯が点っているにも関わらず中は少し薄暗く相変わらず物に溢れた部室は息苦しさを感じ二度と来たくないという思いを再び生み出した。今この部屋には私を含め四人の人間が存在する、それ故に部屋から伝わる圧迫感は強くなり私は感情の制御が上手く出来ずにいた。


「…話を戻すと……詰まり貴様には辞典を盗む人物と盗まれる理由に心当たりは無い、という事だな?」


「まぁ簡潔に言うとそうなっちゃいますね、ですから僕に聞いても分かる事なんて一つもありませんよ? そもそも盗まれるって事自体が不思議ですよ、部室にはちゃんと鍵を掛けていましたから……」


「……また鍵が掛かっていた、か……いよいよ手詰まりになってきたな、謎が溜まり過ぎて一体何から手を付ければ良いか分からなくなってしまうよ…」


私は溜め息混じりに愚痴を溢した、その言葉は警察には有るまじき敗北宣言であったが頭の煮詰まった私にはそう言わずにはいられなかった。私は頭を強く掻き乱し無理矢理にでも頭を働かせようとする、しかし案の定私の頭が反応を起こす事は無く投げ遣りな気持ちが胸の中に強まっていた。

 私は深く考えるのを止め何気無く周囲を見渡す、そして綾崎が何かを読んでいる場面に視線を合わせた。綾崎が持っているのは先程塩見により叩き落とされた一冊の本、特に興味が有る訳では無いが綾崎が熱心に見詰める姿を不思議に思い私は尋ねた。


「…綾崎よ…先程から熱心に何を読んでいるのだ?」


「え? あぁこれですか? これは何の変哲も無い只の本です、もし良かったら柊さんに貸して上げますよ?」


綾崎はこちらに近付くと手に持った本を私に手渡す、別に読みたい訳では無かったのだが一応手渡された物なので仕方無しに私はその本を受け取った。


「……『漆喰』か…また訳の分からん、貴様の好きそうな題名だな……」


本の表紙には黒い背景に硝子が割れ罅が入った様な絵が書かれており中央に『漆喰』と銘打ってある、そして左下には『彩咲数見』と作者名が書かれていた。


(…彩咲数見……あやさき…かずみ……)


私は自分の中で作者名を復唱する、そして頭にある仮説が生まれると私は綾崎に話し掛けた。


「…この本……ひょっとして貴様が書いた物か?」


「当たり、流石ですね柊さん! やっぱり警察は違いますね、どうして僕の作品だって気付いたんですか?」


「誰が見ても分かる代物だろう、作者名の読みが貴様の本名と全く同じだ。こんな本を作るとは……貴様、本当に何者だ?」


私の綾崎への不審は一際強さを増していく、私の問いに綾崎は一言も発さず私から本を取り上げた後にようやく口を開いた。


「…何を隠そう僕は一介の数学教師、しかしその実態は……小説家を志す…もとい、小説家である『彩咲数見』その人なのである!!」


「………綾崎…貴様、先程までの間に何か飲んだか?」


「……え、何でですか?」


「…馬鹿らしくて言葉が見当たらない、って事だよ。全く……貴様もいい年齢だろう、下らない夢を見続けて楽しいのか?」


「下らないとは失礼ですね!! 僕はこの小説家という仕事に誇りを持ってるんです、貴方にとやかく言われる筋合いはありません!! それに…実はこっちの方が本職なんです」


「……じゃあ何故教師などしているのだ?」


「そりゃあ夢追い人の僕だってお金が無きゃ生活出来ませんよ、だから仕方無くこうやって役不足な教師なんて仕事してるんです!」


綾崎は片眼を閉じて私に視線を送る、その視線は私にとって煩わしい以外の何物でも無く私は頭を抱え綾崎に言い放つ。


「……私はこれまで貴様という存在を不本意ながら理解しようと心掛けていた……だが今ようやく分かったよ、貴様は理解の及ばぬ人種だという事がな…」


「……それって僕の事褒めてます? だったら嬉しいなぁ、他人と違う感性を持つのは作品を作る上で欠かせない才能だからね!」


「別に褒めている訳では無い、貴様が私とは全く違う人間であると理解したという事だ」


「僕にとっては褒め言葉ですよ、こんな嬉しい気持ちは久方振りです! 風間君、宮武君、君達もそう思うだろ……って二人共何してんの?」


綾崎が名前を呼び辺りを見渡すと、名前の人物達は皆一様に綾崎の言葉を無視して自由行動をしていた。風間は部室の隅で一人黙々とノートパソコンと睨めっこをしており宮武は机に突っ伏し眠りに就いている、まさに自由という言葉を体現している様な光景に私は怒る事も無く呆れ果てた。


「ちょっと風間君、僕が話し掛けたんだからせめて生返事ぐらいしてよ! さっきから無言でパソコンなんかしちゃって…そんな事してると脳髄が杏仁豆腐になっちゃうよ?」


「さっきの隊長の言葉には返事しない方が良いと考え敢えて返事しなかったんです、だって隊長いつも理解に困る事しか言わないじゃないですか!」


「……その話題はまた時間を掛けて聞かせてもらうよ、それよりさっきから何やってんだい!?」


「前に隊長に言われて取り付けた隠しカメラの記録を確認してるんです、これは体育館倉庫の映像ですけど……中々リアルなものが映ってますよ」


綾崎は足早に風間の背後に回るとパソコンの画面を覗き込む、それに伴い風間も映像を再生した。


「…見て下さいよ、これ……隣のクラスの梅田と本山のキスシーン、ばっちり映ってますよ!」


「本当だ、凄い大胆な……しかもディープキスか、今時の中学生って結構やるね……」


「そうですね……しかし残念ながらこの先は本番をする事無く立ち去ってますね、ちょっと幻滅です」


綾崎と風間は眼を見開き食い入る様にパソコンの画面を見詰めている、その姿は最早変態という存在でしかなかった。


「……貴様達、楽しいか? 隠しカメラで盗撮しただけで無くプライバシーまでも蹂躙するとは……何なら今から逮捕してやろうか?」


「それだけは勘弁して下さいよ、そもそもこんな所で睦み事するこっちの二人の方が悪いですよ! まるで見てくれと言わんばかりに口付けを貪りやがって……そんなに性欲溜まってるなら野外で全裸にでもなって性交すれば良いのに…」


「……言ってて恥ずかしくならないか? そんな変態、そうそう近場におらんだろう」


「そうとは限りませんよ? 僕達が知らないだけで周囲には野外で全裸になる事に興奮を覚える人間なんて腐る程いるかもしれませんし、言わないだけで人には各々変わった性癖が埋め込まれている可能性も考えられます」


綾崎は平然と気恥ずかしい言葉を並べる、その言葉に言っている本人はどう思っているかは知らないが聞いているこちらが恥ずかしくなった。


「ねぇそれより風間君、まだ他に何か無いの? 早送りして見せてくれよ!」


「別に構いませんけど、これ以外は特に色事はありませんよ?」


「……詰まらないなぁ、人には言えない秘密を知るのが僕の楽しみだっていうのにさ……」


綾崎は何とも非道徳的な発言を楽しそうに言い捨てる、その発言に渋々風間は映像を早送りし始めた。


「…何か無いの? もっとこうさぁ、絶対人には言えない様な秘密とか…見られた生きていけなくなる様な秘密とか…………あれ? ち、ちょっと風間君、さっきの所巻き戻して!」


「え? あぁはい、分かりました…」


綾崎は画面を指差し映像を巻き戻させる、そしてもう一度再生させ今度は眼を凝らして映像を眺め始めた。


「…………止めて」


「…あ、はい! あれ、これって……」


「……柊さん、これを見て下さい」


綾崎に名前を呼ばれた私は仕方無く綾崎のいる場所へと向かう、そして綾崎が促す通りに私はパソコンの画面に眼をやった。


「……体育館倉庫の映像か、また下らないものを写しおって……」


「それは今関係ありません、それより此処を見て下さい!」


綾崎が指を差した部分に私は視線を向ける、そこには辺りを見渡し如何にも怪しげに倉庫に入り込む人影が確認出来た。


「……この男…こいつは確か…」


私は倉庫に侵入した人物に見覚えがあった、その時私の脳内は記憶の奥底に眠っていた答えを瞬時に目覚めさせた。私の頭には嵐が吹き荒れる、そこにいる筈の無い人物の存在が私から徐々に冷静な思考を奪い去った。


「……風間君、君はこの男を知ってるかい?」


「いや、知りませんね。同じ二年生なら知ってる筈ですから……三年生か一年生ですかね」


「そうか……まぁ彼の正体は柊さんが知ってるみたいだし追い追い分かるだろうね。問題は彼が何故此処に来たのか…それが謎だな……」


「謎と言えば隊長、この前トイレに行った時妙な事がありましたよ?」


突然後ろから声が聞こえ私は一瞬身体を強張らせる、素早く振り返るとそこには先程まで眠っていた筈の宮武が顔を上げこちらを見ていた。


「妙な事? 宮武君、一体何があったんだい?」


「いや、別に大した事じゃないとは思うんですけど……前に男子トイレに隠しカメラを取り付けた際に分かったんですが、僕達がカメラを付ける前に誰かが先にカメラを付けた痕跡がありました。何故かは分かりませんけど……」


宮武はそこで口を閉じる、話を聞いた私はそれがどうしたといった感じだったが私の横にいる綾崎は違った空気を発していた。すると綾崎は急いだ様子で再びパソコンを覗き込む、そしてすぐに向き直ると私に詰め寄ってきた。


「…柊さん、あの男は誰ですか?」


「な…どうした、いきなり?」


「僕の質問に答えて下さい、あの男は誰なんですか!!?」


綾崎は眼を見開き普段からは想像も出来無い程の剣幕で私を問い質す、その勢いに圧倒された私は従う様に口を開いた。


「…あの男は…第一の殺人の……」


私は自分の頭が導き出した記憶の答えを綾崎に伝える、私が名前を教えると綾崎は眼を見開いたまま私から離れゆっくりと歩き出した。十歩程歩き終えた所で綾崎は天井を見上げた、そしてそのまま上を見詰めたまま綾崎は話し出す。


「……柊さん、明日その男を事情聴取の名目で呼んで下さい」


「……貴様の身勝手な要望を私が素直に聞き入れると思っているのか? 何故呼ぶ必要がある、理由を教えろ」


「それは些か無理な相談です、先にネタバレをしないのが僕の流儀なんでね。心配は無用です、僕が貴方の為に一肌脱いであげますよ…」


結局綾崎は理由を言わず私に依頼を願い出る、私は何か文句の一つでも言おうかと思ったが綾崎の目論見が分からず疑念が言葉を抑制した。私はこの男に操られている様な錯覚を覚える、それはこの男の形容し難い不気味さから感じられるものだった。

 私はふと部屋に設えられた窓を見詰める、先程まで朱色に染まっていた空がいつの間にか黒く変色していた。天井を見上げる男は未だ立ち尽くしている、その眼はは外の闇に反し光を発する夜光虫の様な輝きを持っていた。



 外を眺めると空は相変わらずの薄曇った表情を浮かべ、その雲の隙間から差し込む光が地上を照らしそれに導かれる様に冬眠から目覚めたばかりの鳥が飛び立っていた。まるで何処かの如何わしい宗教の教義を彷彿とさせる、それは私が今立っている学校という施設に通じるものがあり所詮人間の標など高が知れていると鼻で笑った。そんな不毛な思慮が頭を痛め私は休憩がてら壁にもたれる、微かに感じる壁の冷たさが今の私には心地良かった。

 宮武の事情聴取を行ってから一夜が明けた、私は綾崎に指示された通りに綾崎が望む環境を整えたのだ。場所は四階にある独特の香りが漂い様々な作品がこちらを睨む美術室、この時間帯に使われていない教室という理由で用意された綾崎いわく完璧な場所である。しかし人一人を事情聴取するには広過ぎる為埋まらない場所に空虚が蔓延る、だが狭苦しい場所を嫌う私にとってはこのくらいの方が呼吸がし易く気持ちが落ち着いた。私が壁にもたれ掛かり眼を閉じていると聞き慣れた声が聞こえる、落ち着けない様子で漂う声はこの空間にいる一人の人物に向けられた。


「……綾崎さん、こんな所で何をするんですか? 昨日僕抜きで何やら話していたみたいですけど…此処で何が行われるのか、早く教えて下さいよ」


困惑の声を向けられたのは教室内に設えてある机に腰掛ける綾崎、何がそんなに気に入らないのか綾崎は眉を顰めながらぶっきら棒に答えた。


「何で君みたいに指先からビームの一つも出ない様なガラクタ君に僕の大事な計画を話さなきゃならないんだい? いいから黙って待っていてくれよ、それとも君の顔面を此処に並べられた不細工な傑作と同じ様にしてやろうか?」


「………柊さん、昨日一体何があったんですか? 今日になって突然事情聴取だなんて…二人で何を企んでいるんですか?」


篠塚は怪訝そうな表情を浮かべながら私と綾崎を交互に見詰める、その様子を黙って無視出来無くなった私は眼を開け仕方無く口を開いた。


「…綾崎の忠告に従い静かにしていろ、どうせその男は事の真相は言わぬだろうからな。それと私をこの男の共犯の様な言い方は止めろ、私とて…この男の企みは知らん口なのだからな」


私はそう言うと再び眼を閉じる、静寂を取り戻した空間はより一層に内部の空虚を増やしていた。人影が三人しか存在しない教室に冷たさを交えた重苦しい空気が流れる、その空気に触れた私は考える事にすら億劫を感じる様になった。

 それから十五分程経った頃だろうか、外の廊下に何者かの静かな足音が聞こえた。足音は徐々に私達のいる教室に近付くと入口の扉の硝子窓に人影が映る、その人影は扉を開き我々の前にその姿を現した。そこにいたのは何処にでもいそうな普通の男子生徒、暗い顔を浮かべ私達を奇怪なものを見る様な眼で見詰めるその男子生徒に綾崎は明るい顔で声を発した。


「やぁおはようさん、君が来るのをずっと待ってたよ! まぁ取り敢えず座りなって、まず名前を教えてもらえるかな?」


「…秋元…則夫です……」


「秋元君か、珍しいんだか普通なんだかよく分からない名前だね! あ、別に気にする事は無いよ、僕はいつだって明るく前向きだからね!」


「…綾崎先生……俺の事呼んだのはそんな事の為ですか? 俺だって授業があるんです、時間を無駄にしてほしくないんですけど……」


「大丈夫! 君の担任の先生にはちゃんと一限目は休みます、って言ってあるからね! それに君を呼んだのは他でも無いあの事件の第一発見者だからだよ?」


「事件? 事件って……そ、そこにいるのは確か警察の方ですよね、なら俺はもう何も話す事はありません! もう俺の知ってる事は全部話しました、今更俺に何を話せっていうんですか!?」


男子生徒は耐え切れなくなった様に声を張り上げる、その声の震えはそれ程までに彼が深く傷付いている事の証明だった。

 綾崎の言った通りこの男子生徒は殺人の行われた保健室の前で見掛けた事件の第一発見者の『秋元則夫』である、あの惨殺死体を見たショックがまだ抜け切っていない様子で顔面蒼白なのはその為であろう。秋元は手で顔を覆い話し出す、その声はそこにいる我々への侮蔑も含まれている気がした。


「…俺はもうあの事件の事は思い出したく無い……なのにまた思い出せというんですか!? どうして俺を苦しめる様な真似をするんですか!!?」


「あ…秋元君、僕達は別に君を苦しめる気は…」


「現に俺は苦しんでいるんです!! なのに……なのに、あんた達大人は……」


篠塚は興奮する秋元を落ち着かせようと試みるが結局無駄である、精神と年齢が相まってか感情を上手く制御出来無い秋元は気持ちの高ぶりからか涙を流した。こうなると私は場を纏める方法が見当たらなくなる、しかし他人の状況や場の空気を一人でぶち破るのを得意とするこの男は当然の如く泣いている男子生徒に笑いながら話し掛けた。


「アハハハハッ、何をそんなに泣いてるんだい情けない! 確かに保健室に行って突然首切られて局部に鉄棒突き刺された女の人と遭遇したら誰だって驚くけど、そんなに泣くのは男として良くないと思うよ?」


「……綾崎…あまり事件の内容を公言してくれるな……」


綾崎は滞った重苦しい空気を笑い声で払拭する、しかしそれによって生み出されたのは男子生徒の眼に浮かぶ強かな怒りであった。


「まぁ何はともあれ秋元君、君が僕の質問に二三答えてくれればそれで君を解放してあげるよ。だからほら、もっと明るく笑顔になって!」


「……質問があるなら早くして下さい、俺はこんな所に長くいたくないんで…」


秋元はあからさまな嫌悪を表してそう吐き捨てる、相変わらず人の発言に疎い綾崎は何事も無かったかの様に話を続けた。


「では早速ですが質問です! 秋元君……君、まだ警察にも誰にも話して無い事があるんじゃない?」


「……何ですかそれ…ある訳無いじゃないですか!!」


「…それは本当かい秋元君? 今ならまだ間に合うから素直に吐いた方が…」


「だから無いって言ってんだろ!!! 全く……全く…本当にしつこいぞ!!」


綾崎の問い掛けに秋元は半ば狂乱した様な怒号で言い返す、そんな人間を前にしても綾崎は一切動じる事無く言葉を繋いだ。


「……全く…本当に残念だよ、まさか君が僕に嘘を吐くなんてさ……」


「知った様に言うな!! 第一俺が嘘を言ってるっていうんなら、その証拠があるのかよ!!」


秋元は激しい口調で綾崎を問い詰める、それに反応する様に綾崎は口角を高く上げると座っていた机から飛び降りポケットに手を入れた。


「よろしい! そこまで証拠証拠と宣うならば見せて上げましょう…綾崎組直系放映送達部別動隊、出動!!」


綾崎が高らかにそう言い放ち取り出したのは試合等で審判が持ち合わせている銀色のホイッスル、それを口にくわえると綾崎は息を大きく吸い込み耳障りな鋭い高音の音色を鳴り響かせた。断末魔の悲鳴の様な甲高い声が鼓膜を刺激したその時である、ベランダに通じる扉が勢い良く開きそこから見慣れた二人の人影が現れたのだ。


(…風間と宮武か……あの二人、何処から湧いてきたんだ……)


私が突然の事で呆気に取られている間にも風間と宮武は行動を始める、綾崎のすぐ隣にある机にノートパソコンを置くと準備の為か素早くキーボードを叩いた。


「…な…何なんだよこいつら、どうしてベランダに……てか何やってんだよ、おい!!」


秋元は困惑の籠った怒号をぶつける、しかし放送部の二人組は一瞥する事無くただ黙々とパソコンに向き合っていた。しばらくすると準備が終わったのか風間と宮武はパソコンから離れる、そしてその後を継ぐ様に綾崎はキーボードに触れると画面を秋元の方へと動かした。


「…これが僕達の知り得る証拠だ……これを見ても、まだ言い逃れをするつもりかい?」


綾崎の言葉を聞き秋元はパソコンの画面を凝視する、そこには綾崎の言う通り言い逃れの出来無い事実が映し出されていた。


「……な…何だよ、これ……ど、どうしてこんな映像が……」


秋元が驚くのも無理は無い、画面に映し出されているのは紛れも無く自分自身の姿であったからだ。画面の中の秋元は辺りを気にする様子で体育館倉庫内に侵入する、両手に手袋を着けたその姿は明らかに不自然で体育館倉庫の奥に立て掛けてある鉄棒を手に取るとそのまま倉庫から立ち去った。未だに眼前の映像に戸惑いを隠せない秋元、その様子を眺めていた綾崎は微笑みながら話し出す。


「保健室で行われた殺人は被害者の保健医が局部に鉄棒を突き刺されて殺されるという凄惨極まり無いものだった…恐らく君が持ち出したこの鉄棒は殺人現場の物と一致するだろう。そうなると話は少しばかりややこしくなる、まさか第一発見者と思われてた人物が容疑者だったとは…」


「ち…ちょっと待ってくれ、俺は何も知らない、本当に何も知らないんだ!! 俺は…お、俺は……そ、そもそも何で先生がそんな映像を持ってんだ!? そんな映像何処で撮った!!?」


「あぁこれね! これはね…僕と放送部が事件を未然に防ぐという名目で設置してた隠しカメラの映像だよ、副産物として生徒同士の馴れ合いが見れたんだけど……その中に君の姿が映ってた、って事なんだよ」


「映ってたって……そ、それは立派な犯罪行為だ!! それに教職員が校内で隠し撮りするなんて前代未聞だ、そんな事したら盗撮で訴えられるぞ!!」


「…その言葉、前に何処かで聞いた気がするよ。でもね秋元君…今はこの際盗撮だろうが覗きだろうが迷惑行為だろうがどうでもいいんだ。今知るべきは何故この画面の中に君の姿が映っているのか…それが先決だろう?」


綾崎は悪い笑みを浮かべると秋元をそう言い包める、綾崎の作り出した独特の雰囲気に呑み込まれてしまった秋元は震えながら小さく言葉を溢した。


「…お…俺、は……ほ、本当に…何も…」


「……いつまでそうやって突き付けられた事実に怯えるつもりだい? そんなに自分の口から言うのが嫌なら……心優しい僕が代弁して上げよう」


綾崎は悪い笑みを浮かべると震える秋元の方へと歩き出す、そして秋元の横を通り過ぎ秋元と背中合わせになる場所まで来ると私達に表情を見せず言葉を発した。


「…初めに言っとくけど、これから僕が話すのはあくまで推論だからもし間違っても僕の事を変な眼で見ないでね? まず知るべき事は何故君が容疑者紛いの行動を取ったのか、それを僕なりに聞かせて上げよう……」


綾崎は振り返り秋元の背中に向かいそう言った、秋元はその言葉を聞くと顔色をより一層蒼白にした。


「…結論から言うと君は犯人では無い、あの映像は恐らく真犯人の命令に従った時の映像だろうね。真犯人の命令とは恐らく鉄棒で殺された保健医を串刺しにする事、その為に君はわざわざ危険を冒してまで体育館倉庫に侵入したんだ。此処までで何か間違いはあるかい?」


綾崎は惚けた口調で秋元に尋ねる、問われた秋元は何も言わずただ俯くばかりであった。


「…そうなると一つ問題がある、何故君はそうまでして犯人の命令に従ったのか…それを解く鍵は殺された保健医が握っている…」


綾崎の言葉に反応し秋元は顔を上げ綾崎の方に向き直る、綾崎は薄い笑みを浮かべると続けて話した。


「……実はつい最近起こった事件の際に非常に興味深い物が見付かったんだ。四階の男子トイレに何者かが隠しカメラを取り付けた痕跡が見付かった、それは個室トイレの中をしっかり撮影出来る位置にあったんだ。それらを統合するとぼんやりと事実が見えてくる……僕達より先に隠しカメラを取り付けたのは殺された保健医、そうだろ?」


「な……ほ、保健医が隠しカメラを設置していたというのか!!?」


私は眼を見開き愕然とした、確かに保健医には性行為の疑いがあったがそれを上回る綾崎の突拍子の無い推理に私の頭脳は追い付けていなかった。私と同じく秋元も眼を見開いている、その様子を見た綾崎は再び話し始めた。


「…保健室で殺された保健医は全裸体で発見された、僕が予想するにそれは犯人が残した被害者の性交目的の意思表示でありその相手は君だったんだろう。だがその前に保健医は殺された、君より先に予約をしていた者…即ち真犯人が彼女を殺したんだろうね。そう考えると隠しカメラの痕跡も納得がいく、男子トイレ内で見られたら困る様なものを映してそれを餌に男子生徒を性欲発散の道具にしていた……どう、辻褄は合うでしょ?」


すらすらと、或いはつらつらと能弁を振るう綾崎の姿は普段のそれとは比べ物にならない程の迫力を兼ね備えていた。綾崎の連ねる言葉の波に煽られ秋元は徐々に冷静な態度を失っていく、本能的に後退りをするが机に身体が当たり逃げられない事実に直面し秋元の顔は酷く引き攣っていた。綾崎が秋元に軽く問いを投げ掛けてからしばらくの事である、秋元は突然床に座り込むと頭と両手を前に出し土下座の構えを示し大声で叫んだ。


「すみませんでした!! 俺は先生にも警察にも嘘を吐きました、本当は全部知っていたんです!!」


「……何を知っていたんだい? 僕だけで無くこの場にいる全員が分かる様に説明してくれたまえ」


綾崎は満面の笑みを浮かべそう告げる、その言葉に従い秋元は顔を上げ躊躇いを垣間見せながら答えた。


「……綾崎先生の言った通り…俺はあの保健医に脅されてたんです。男子トイレで撮影した事を学校でばらされたく無かったら命令に従え…その言葉に従って俺は……あの女と……」


「…被害者の保健医と……その…本当に性交したのか?」


私は質問自体に多少の羞恥を感じる、しかし秋元は私の方を向かずただ重い頷きを表し私の問いに答えた。


「……仕方無かったんです……俺には…あの女の言う通りにするしか……」


「……保健医が隠し撮りした誰にも知られたくない事とは何だ?」


私は不躾にも秋元にそんな問いを投げ掛けてしまう、当然秋元が口を開く事は無く私は反省の意を込めた言葉を口にする。


「…済まない、それを本人に尋ねるのは甚だ愚問だったな。失礼、今の話は忘れて…」


「………こ…です……」


「…え?」


「……煙草です……俺、男子トイレで隠れて煙草吸ってたんです。それをあの女に知られてしまい……もしばらされたら、俺…停学になるし……」


「………そうか…停学にならない為に保健医の命令に従っていたのか……」


「はい……ばらされたら俺だけじゃなくて部活の仲間にも迷惑が掛かる……だから…だから……俺は…」


「違う!!!」


秋元の涙声の告白に誰もが悲しみと哀れみを抱き始めた時である、ある人物の一声が教室内の重い空気を一変させた。声の主は今私の視線の先に立つ綾崎である、綾崎は酷く嫌悪を表す顔で更に声を張り上げた。


「違う、違う、全然違う!! 秋元君、君さっき本当の事を言うって言ってたよね!!? ならどうしてまた僕に詰まらない嘘なんて吐くんだい、全くもって心外だな!!」


「う、嘘って……ほ、本当です!! 俺は本当の事を言いました、もうこれ以上先生や警察を騙す様な真似は…」


「絶対にしない、とでも言うつもりかい? そんな言葉信用すると思ってるのか、僕はね……自慢じゃないが人前で平然と嘘を吐くんだ、だから同様に嘘を吐く奴は大体勘で分かるんだよ」


「…人前で平然と、か……全く説得力が無いな……」


「…それはともかく秋元君、君からそんな下らない嘘を聞かされるとは思わなかったよ! 何が煙草吸っただ、何が仲間の為だ、僕がそんな嘘も見抜けない馬鹿だと思っていたのか!? 高が煙草吸ったぐらいで身体売る馬鹿が何処にいる、本当はもっと知られたくない…恐らく性的な理由があったんだろ!!?」


「…性的な理由…だと?」


私は怪訝な声を漏らし秋元を見る、そこにいる秋元は先程とは違い顔を赤らめ立ち尽くしていた。


「……俺は……俺は…本当の事を……」


「…まだ言い逃れるつもりかい? 今更何を恥じる事があるんだ、言ってしまえば楽になるのにまた随分と強情な奴だな! そんなに言いたくないんなら……代わりに僕が言って上げるよ」


「!!! や、止めてくれ!! それを言われたら…俺は…」


秋元は綾崎に掴み掛かろうとするも綾崎が再びホイッスルを鳴らす、それにより動き出した風間と宮武によって秋元は羽交い締めにされてしまった。必死に抵抗するも秋元の手は空を掴むばかり、綾崎はその様子を見ながら話し始めた。


「…これから話す事はあくまで僕の妄想なんで違ったら違うってサンスクリット語で否定して下さいね? さて……君が尻軽女とわざわざ乳繰り合ってた理由が喫煙で無いなら本当の理由は何か、手掛かりは三つ……男子トイレ…思春期…そして脅迫……考えられる答えは一つ、君……トイレで自慰行為をやってたんでしょ?」


「じ、自慰行為だと!!?」


私は思わず大声が溢す、綾崎のとんでもない発言に私は生理的に顔を赤らめた。秋元は綾崎の発言に突き刺された様に抵抗を止める、私は突然の事に頭を悩ませながら綾崎に言い寄った。


「綾崎、今の話は本当なのか!!? あの男子生徒は…その……と、とにかく何故そうだと言える、証拠は有るのか!?」


「ありませんよ、今までの発言はあくまで僕の『妄想』なんですからね。まぁ真偽の程は聞けば分かるでしょう、偶然にもすぐそこに当の本人がいる訳ですし…」


綾崎の言葉の導きによりこの場にいる全ての視線が秋元に集められる、数多の痛い視線に晒された秋元は必死の形相で主張する。


「ち、違う!! あいつの言ったのは出任せだ、俺はそんな事していない!! 俺は…俺は本当に煙草を…」


「もう役は出揃ってるんだよ、それを今更違う違うの一点張りとは……そんなに言うなら証拠を見せてもらおうか?」


綾崎はポケットに手を入れると何かを取り出し秋元の足許に投げる、それを確認した風間と宮武が秋元の腕を離すと秋元は倒れ床に手を着いた。


「…見ての通りそれは誰がどう見ても普通のライターだ、百円の物で少々心許無いがちゃんと火は点る様になってるよ。それを滞り無く着火出来たら君の意見を尊重しよう、出来無かったら……嘘は止めて洗い浚い全部吐いてもらうよ?」


綾崎は悪い笑みを浮かべながら秋元にそう指示する、それに従い秋元はライターを手に取り着火しようとした。しかし秋元は手にしたにも関わらず中々着火しようとせず、ただライターを握り締め歯を噛み合わせ震えるだけであった。すると突然秋元は憤慨した様にライターを思い切り床に投げ付ける、ライターが床を滑り綾崎の足許に来るとそれを拾いながら綾崎は笑いを含んだ言葉を吐いた。


「…どうしたの、出来無いのかい? まぁ出来る筈無いよね、だって君…火が怖いんだからさ!」


「……火が怖い?」


「そう、これは宮武君から聞いたんだけどさ……彼は理科の燃焼実験や調理実習を頻繁に休んでた、更に体育の着替えの時間君の腕に火傷の跡があったのも知ってる。それらを鑑みるに……秋元君は火に恐怖心を抱いていると仮定したって訳だよ。そうなると彼の発言に矛盾が生じる、だって煙草を吸うにはライターを付けなきゃいけないからねぇ…」


「……貴様、煙草吸うのか? 今まで貴様が煙草を吸う現場は見た事無いが……」


「いや、吸わないよ?」


「…なら何故ライターなど持っているのだ?」


「……何でだろう? 多分護身用って奴かな? まぁそんな事今はどうでもいいじゃないですか、今必要なのは彼が嘘を吐いた事…ですよ?」


綾崎は冷静な口調で私にそう告げる、そして綾崎に嘘を看破された秋元は身体を震わせながら自身の本性を剥き出しにした。


「……チクショウ!!! 何だよ…分かってるなら最初から言えばいいだろ!! 俺に恥をかかせやがって!!」


「……つまり認めるって事だね、自分が二度も嘘を吐いていたってさ…」


「…あぁそうだよ、俺は嘘を吐いた!! でも仕方無いだろ、他人に知られたくない事を平気で喋れる奴が何処にいるってんだ!! 人前でトイレに隠れてオナニーしてたって誰が言えるか!!!」


「…何をそんなに恥じる事がある、自慰行為なんて思春期の学生なら二三度した事があるって! ねぇ風間君、宮武君?」


「……すいません、個人情報なんで……」


「……僕もノーコメントで……」


「……ねぇ、篠塚君?」


「え!? な、何唐突に変な事聞いているんですか!!? そんな事…答えられませんよ!!」


綾崎が平然と卑猥な言葉を口走るせいで話題が変な路線に乗り上げてしまう、私は羞恥で顔を赤らめながら綾崎を諭した。


「…綾崎…もうその話はいいだろう……それよりそろそろ貴様の推理の続きを聞かせてはくれないか?」


「え? あ、それもそうだね! 僕とした事がつい話題を忘れちゃったよ、すぐに話を戻すんでご心配無く!」


綾崎の軽い口調に一抹の不安が残ったが、綾崎は閑話休題と言った様に本筋を戻した。


「……君の嘘は全て見抜いた、今更他に新しく嘘を吐く意味は無い……本当の事を話してくれ、保健室で何があったのか…何故君がカメラに映ったのか、全部……」


「……もうどうでもいい…自分の知られたくない事全部知られたんだ、この際全部話してやるよ…」


秋元は覚束無い足取りで歩き出す、そして机から椅子を一脚取り出すとそれに座りようやく口を開いた。


「……俺が脅迫されてたってのは事実だ、理由も先生が言った通り……俺が男子トイレでオナニーしてるのをあの女に隠し撮りされて…弱みに付け込まれて仕方無くあの女とセックスしてたんだ………しかし…まさかこんな事、自分の口から言うなんてな……」


「…落ち込んでる割には随分と清々しい格好だね、そんなに秘密を隠して脅迫に怯えるのが辛かったの?」


「別にそんなんじゃない…いや、確かにそうだろうけど…ただ……ようやく俺の背負ってた重荷が降ろせたと思ったら…なんか嬉しくて……」


「…同じだと思うけどなぁ……」


綾崎と秋元の間で坦々と会話が続いている、しかし本人達の様相以上に話している内容は驚愕の一言に尽きる事柄であった。


「…まぁ君と保健医の濃厚な関係は分かったとして……あの日、殺人事件があったあの日…一体何があったんだい?」


「……あの日の放課後…サッカー部の練習中に最中に俺の携帯に保健医の女からメールが来た。普段俺があの女と事に及ぶのは部活が休みになる毎週木曜日だけ…それに事前のメールは午前中にするってルールもあって……俺は不思議に思いながら保健室に行ったんだ……」


「…男子生徒に手を掛けて性欲満たす保健医も凄いけど……またそれに対応して性欲貪る君の精力も眼を見張るものがあるね! それに毎週って……流石は現役中学生、余す事無く有り余る精子をぶちまけるね…ちょっと羨ましいかも…」


「……あんた…俺の事馬鹿にして楽しいか!!? 俺が……俺が…どんな気持ちであの女の相手をしたか……テメェに分かんのか!!!」


秋元は熱り立ち綾崎の胸倉を掴み引っ張り上げる、その一連の事態を何とか収拾しようと私は秋元の腕を掴み綾崎から引き剥がした。


「落ち着くんだ!! この男は他人を愚弄する言葉を平然と口にする、それを我慢しろというのは酷かもしれんが…取り敢えず気持ちを落ち着かせろ……」


私は秋元の肩を掴み姑息な説得を試みる、秋元の怒りが治まる様子は未だ見られないが取り敢えず落ち着かせる事は出来た。


「…それで、あの日保健室に行った時…一体何を見たんだ?」


「……保健室に行った時…俺は手足を縛られて首を切られた女がベッドの上で死んでるのを見たんだ。俺は凄く怖かった、でもその時…そこにいたんだ……女を殺した奴が……」


「何だって!!? 詰まり…そこにいたのか、犯人が!!」


私は驚きのあまり声を張り上げる、私の問い掛けに秋元は軽く頷くと更に続けた。


「…俺は犯人を見た……部屋が暗かったから顔はよく見えなかったけど……俺は見た、あの血生臭い死体も…恐ろしい姿の犯人も……」


「…どんな奴だった!? 犯人はどんな姿をしていたんだ!!?」


「……雨合羽を着て…顔は隠れてた……手には手袋をしていて……ナイフを持ってた。奴は……奴は…全身血塗れで……」


「…雨合羽! 柊さん、それって学校の横に流れる川から見付かった物の事じゃ…」


篠塚の勢いに反比例し秋元の声は話す毎に震えを増しやがて涙声へと変わる、私が何も言わず黙っていると今度は綾崎が尋ねた。


「…犯人の身長はどのぐらいあったの?」


「……よく覚えてない……でも…確か俺と同じぐらい…だった様な…」


「…それで…犯人は何か言ったのか?」


「……何も言ってない……でも…メールが来た……犯人からの……」


「…犯人からメールが来ただと?」


「……でもメアドは女の物だった…奴は俺の目の前で女の携帯から俺にメールしたんだ…」


「……犯人から送られたメールはまだ残っているか?」


秋元は俯きながら首を縦に振る、私は図々しくも秋元に頼みを言った。


「…もし良ければ、そのメールを見せてはくれないか?」


「……別に…構わないけど……」


秋元は多少躊躇いを見せながらもポケットから携帯電話を取り出す、電源を入れ幾らかの操作を行うとそれを私に渡した。私は受け取った携帯電話の着信履歴を閲覧する、そこには持ち主の友人や殺された保健医のメール等が確認出来たがその中に不思議な文章を発見した。


「……保健医が殺された日付のメール、これが例の犯人からのメールだな? えぇと……『ベッドの上の死体を見ただろう。保健医は俺が殺した』か……ご丁寧に状況説明か、そんな事言われなくとも分かっているだろうに……」


私は軽い皮肉を溢す、そして次のメールに眼を通し再び口に出す。


「…『お前があの女に脅迫されていた事を知っている。お前の秘密をばらされたく無かったら俺の指示に従え。今すぐに外の体育館倉庫に置かれている鉄棒を持って来い。絶対に誰にも見付からない様に行動しろ』……成る程、保健医が殺されて安堵したのも束の間今度は犯人から脅迫されたという事か……」


「本当にそんな漫画みたいな不幸があるもんだね! 此処まで踏んだり蹴ったりだと本当に居た堪れないよ、全くもって…」


「……それで俺は…誰にも見付からない様に校庭の反対側から回って体育館倉庫に行ったんだ。そしたら壁に鉄棒が立て掛けてあって……俺はそれを持って保健室に帰ったんだ。それで…もう一度保健室に言ってみたら……奴はもういなかった……」


私は秋元の言葉から状況を察し着信履歴の次に送られたメールを見た。


「…その後犯人から次の指示が来たのか、内容は……『鉄棒を持って来たらその鉄棒を開いた女の股に差し込め。その後お前は死体の第一発見者を装え。くれぐれも今までの事は警察にばらすんじゃないぞ』か……詰まり保健医を殺した犯人と、その被害者の局部に鉄棒を差し込んだ人物は全く別人だったという訳か…」


「…それにしても君って凄い力してるよね! 幾ら君がサッカー部だからって人間の身体串刺しにするなんて普通じゃないよ?」


「……腹には最初から切れ込みがあった……俺は…犯人が何を指示しているか分かって………それで…従うしか……」


秋元はそこまで言い終えると再び止め処無い程の血涙を流す、しかしその様子を見ながらも自身の疑問に従順な篠塚は何も察する事無く問い詰める。


「…どうして……どうしてそこまで犯人の言った事に従ったりしたんだ!? 警察に言えば何かの助力は出来たかもしれないのに……」


篠塚の無神経とも取れる発言はまさに発破の火種であった、篠塚の発言を聞いた秋元は身体を怒りで震わせながら感情を爆発させる。


「仕方無いだろうが!!! 犯人の指示に従わなきゃ俺は知られたくもない秘密をぶちまけられたんだぞ!!! もしそんな事になったら俺は生きていけない…最悪首吊って死ぬしか道が無くなるんだ、そんな事になるぐらいだったらムカつく女串刺しにした方がよっぽどマシだ!!!」


篠塚は自分の言葉の重大さに今更気付いたらしい、しかし後悔先に立たずと言った所か秋元の怒りは全く治まる様子が無かった。


「大体あんたら警察は未だに犯人を野放しにしてるじゃないか!! それなのに助力なんてふざけた事言いやがって……俺の苦しみ何も知らないじゃないか、そんな連中信用出来るか!!!」


「お、落ち着け秋元! 部下の不適切な発言は謝る、何も考えず馬鹿な事を言ってしまい本当に済まない!」


「…秋元君…そこの馬鹿に怒り散らすのは一向に構わないけどね、今此処で大暴れしたらそれこそ死活問題じゃない? それよりそのすぐに怒る姿勢直した方が良いよ、すぐに怒るだけで人間小さく見えちゃうからねぇ」


篠塚の発言に拍車を掛ける様に綾崎が神経を逆撫でする言葉を口にする、秋元の遣り切れない怒りを私は必死に押さえ付けると無理矢理椅子に座らせ冷静になるのを待った。


「……取り敢えず今は座って落ち着いてくれ、これ以上事態が悪化しても私にはどうする事も出来んぞ?」


私は秋元が冷静さを取り戻すのを見守る、その間後ろの男子二人は何もせずただ黙っているだけであった。

 私が秋元を押さえ付け始めてから五分程経ちようやく秋元は落ち着きを取り戻す、まるで嵐が過ぎ去った後の様に教室は静まり返っているがそれを破ったのはやはりこの男であった。


「…それで、これからどうするんですか? 秋元君は自分の保身の為に嘘を吐いたのは紛れも無い事実、警察署に連行して洗い浚い喋らせるのも一興でしょう」


「……先生…一体何を言ってるんですか?」


秋元は茫然自失といった様子で綾崎を見詰めている、綾崎の発言は秋元が今までに行ってきた血を吐く様な労苦を否定する内容であった。


「…秋元君、確かに君は脅迫されていた事もあって警察を騙していた…それは仕方無い事だしその気持ちは多少察するよ。でもねぇ……どんな理由だろうと君は嘘を吐いたんだ、まだ中学生だから偽証罪は免れるかもしれないけど…取り敢えず詳細を聞く為に連行はされるだろうね…」


「……そんな……俺は…確かに本当の事を…」


「…一度……失礼、君の場合は二度だったね…二度も嘘を吐いた人間の言葉なんて本当に信用に足ると思っているのかい? 僕はね……今でこそこんな馬鹿やってるけど、真剣な面持ちで平然と嘘を吐く野郎なんて腐る程見て来たよ……『二度あることは三度ある』、『三度目の正直』、言霊を着飾る言葉は数あるけど僕は前者を選ばせてもらうよ…」


綾崎はずれていた眼鏡を直しながら平然とした口調でそう言い放つ、その表情は普段の楽観的とも時折見せる暗影とも言えない冷たく凍り付いた様な面であった。


「……酷い……酷いにも程がある、あんまりだ!!」


「まぁ今のはあくまで僕個人の見解だから一概に正しいとは言えない…だから柊さん、これからの事は貴方が決めて下さい」


「…わ……私が…か?」


突然の出来事に私は困惑を隠せずいた、指名された私にこの場に存在する全ての視線が注がれる。先程の綾崎の発言は冷酷ながら説得力はある、此処では更なる捜査進展の為に秋元への再度の事情聴取が必要と感じられた。だが秋元の吐き出した底知れぬ深い苦しみが私の決断を揺るがせる、手を握り締め顔を俯かせた私は苦心の末に声を絞り出した。


「……この男子生徒…秋元からは先の殺人事件に関する有力な情報を聞く事が出来た………もうこれ以上、彼に辛酸を嘗めさせる様な真似は出来無い……故に秋元よ、もう聞く事無い…戻っても構わないぞ……」


「……え? い…いいんですか?」


「…あぁ、聞くべき事は既に聞き終えた。それに授業があるのであろう? 心配せずとも先程聞いた事は安易に公言などしない、安心して勉学に戻れ」


「……はい…ありがとうございます!」


秋元は私に一礼をすると身体から憑き物が落ちたかの様に明るい振る舞いを見せ美術室から立ち去る、人口密度が低くなったこの場所にようやく純粋な静寂が訪れた瞬間だった。

 張っていた糸が緩んだ様にこの場にいる者達から緊迫した空気が引いていく、私は肺に溜め込んだ鬱屈とした淀みを吐き出すと私を見詰める男に話し掛ける。


「……どうした綾崎、私の顔に何か付いているのか?」


「いや、まぁ確かに眼と鼻と口は付いてますけど……柊さん、初見に比べて丸くなりました?」


「……またどうしてそう思ったんだ?」


「…柊さんなら絶対僕の意見を尊重する、と思ったからですよ。でも現実はあっさり釈放を選んだ、それは……仏心か、或いは単なる甘さか…」


「……私は貴様の言った冷酷無比な決断を下す気など無かった、ただそれだけだ……更に付け加えるならば、仮に事情聴取をしようものなら彼の秘密が多くの人間に知られてしまう、そうなると何かしらの穴から情報が漏れ出し彼のプライバシーを侵害し……最悪の場合犯人に知られてしまえば人一人の人生を狂わせ兼ねない、そう思っての決断だ…」


「…随分と長たらしい説明ですね、聞いてる内に飽きちゃいましたよ。まぁでも僕も柊さんと同じ意見ですよ、これ以上秋元君を問い詰めた所で無駄でしょうし…」


「……同じだと? 何を寝惚けた事を…先程貴様は秋元を連行しろと………まさか、あれも根っからの嘘だったのか!?」


「…嘘を吐いた人間にはそれと同様に嘘を吐いても構わない、それが僕の信条です。第一僕があんな冷酷な発言する訳無いじゃないですか、あれはただ彼の嘘を見抜く為の嘘だったんです!」


「……嘘を見抜く…とはどういう事だ?」


「…先程言った様に僕は平然と嘘を吐く、だから他人の嘘を見抜ける…しかし本人が頑なに閉ざした嘘は中々見抜けない、だから僕は発破を掛けたんです! 相手が臆する様な言葉をさも本心である様に冷淡な顔と口調で喋る、そうして相手の動揺を誘い嘘を炙り出す…まぁ今回は大丈夫でしょう、僕の一存ではありますが彼は嘘を言ってません」


「……貴様…本当に何者だ?」


私が綾崎に対して抱いて来た不審は飽和点に達し言葉として口から零れる、その言葉に綾崎は怪訝そうな表情を浮かべるが私は気にする事無く話し出した。


「…私は……短いながら貴様の多様な面を見た、楽観に現を抜かしたと思えば暗闇の様な顔を見せ…今回は怜悧冷酷を現した、貴様という人間はどれだけ面相を変えるのだ? 貴様の本心は何処にある……貴様は一体何者なんだ!?」


私を声の震えを抑えながら綾崎を問い詰める、しかし綾崎は瞑想に入りしばらくしてから口を開く。


「……僕が何者か、ですか……」


「…あぁ…貴様は一体何なんだ!?」


綾崎は眼を開けこちらを見ると、口に笑みを浮かべ答えた。


「…僕は綾崎和箕……何者でも無いただの小説家だよ! あ、でも今は数学教師か、面倒臭いなぁ…」


「……そうか…ならそれでいい……」


「………え? ちょっと何ですかその白け具合、まるで僕が滑ったみたいじゃないですか!!」


「…現に隊長、痛いぐらいに滑ってましたよ?」


「そうそう、プロフィギュアも真っ青な滑りっ振りでしたよ?」


「……君達…一体誰の味方なんだい? 君達は僕の部下で僕は君達の上司なんだ、そういった主従関係を無視した行動は極めて遺憾な事であって…」


綾崎が放送部の二人組に対し言葉を並べ立てようとしたその時、綾崎の次の句を遮る様に聞き覚えのあるチャイム音が鳴り響いた。授業を倦怠で持て余す輩にとっての至福の音色が鼓膜を刺激する、一つの時間の終わりを報せる音響に言葉を掻き消された綾崎は眼鏡を外し溜め息混じりに呟いた。


「…一時限目が終わってしまったか、もう少し喋りたかったのに……忌々しい……仕方無い、風間君と宮武君、君達は教室に戻って二時限目の勉学に勤しみなさい」


「えぇ!! これだけ捜査に関わらせておいて急にお払い箱ですか!?」


「ちょっと……それは幾ら何でも酷くありませんか!?」


「えぇい五月蝿い喧しい静かにしろ!! 君達は生徒なんだよ、ならば勉学に励むのは当たり前じゃないか!! ほら、さっさと行った行った!」


綾崎は風間と宮武の肩を掴むと半ば強引に教室から廊下に追い出す、その後掌を叩き合わせ一段落した様な顔をする綾崎に私は言った。


「…貴様は生徒に勉学をどうこう言う前に自分を見詰め直したらどうだ? 偉そうな口を利いてはいるが所詮は貴様も雇われだろう、授業に携わらなくて大丈夫か?」


「その件ならご心配無く、こう見えても僕って学習の面においては真面目なんだよ?」


「……それが普通教師というものであろう?」


「まぁそういう意見もあるよね、それにしても……最近はすっかり暖かくなって来たね! まぁ年中服装に変化の無い僕には正直どうでもいいけど……そういえばこれからどうします、捜査は全く進展して無いけど……」


「…そう忙しなく話題を変えてくれるな、私の頭が付いて行けなくなるぞ?」


「何を一昔前のパソコンみたいな事言ってんですか? それよりこれからどうするか………あ!! そうだ…何の為に携帯電話があるんだよ!!」


綾崎は嬉々とした表情を浮かべるとポケットから携帯を取り出し何処かに掛け始める、その様子が酷く不思議に思えた私は堪らず綾崎に問い掛けた。


「……何処に電話するつもりだ?」


「困った時のお助け番号って奴ですよ、電話に出てくれるかは知りませんけどね…」


綾崎は私にそう伝えると携帯電話を耳に当てる、そして十秒程経った時綾崎の電話が繋がった。


「もしもし、鏡水君? いやぁ丁度良かったよ、ちょっとばかり相談したい事があるんだけど……」


(……え? 鏡水?)


私の頭の中で一つの名前が波紋を呼ぶ、記憶の底に眠っていた忌々しい意識がゆっくりと首をもたげ始めた。


「…き……き、鏡水だと!!? なっ…そ……い…今貴様、鏡水と言ったか!? その…その鏡水とは、まさか…あの鏡水か!!?」


「え? あのって……僕の知ってる鏡水君は一人だけですよ? ひょっとして鏡水君の事知ってるんですか!?」


私の不安は瞬く間に形を作り上げやがて予想する現実へと近付き始める、最早落ち着きを失い心身共に取り乱した私は綾崎に詰め寄った。


「……電話をよこせ……」


「…何でです? 僕の携帯を使いたいならちゃんとした理由を…」


「いいからよこせと言っているだろうが!!! その顔面に鉄拳見舞われたく無かったら言う通りにしろ!!」


私は綾崎の了承無く携帯電話を取り上げ耳許に当てる、そして電話の向こうにいる人物に声を張り上げた。


「こちら刑事の柊という者だ!! そこにいるのは本当に鏡水か、嘘偽り無く答えろ!!」


『…ったく五月蝿い御仁だな、ごちゃごちゃ言われ無くとも俺は本物の鏡水だよ!! そう言うあんたは何時ぞやの癇癪婦警殿じゃありませんか、また何故あんたがそこにいる無能野郎と一緒にいるんだ?』


私の耳に聞こえたものが幻聴で無ければ私の悪い予感は的中してしまった、電話越しに聞こえる声は間違い無く『比良坂鏡水』の声であった。それは私が此の世で最も毛嫌いする男、他人を嘲り災厄を招くまさに混沌の象徴たる人間である。


「…鏡水……若造が、何故綾崎が貴様の携帯電話の番号を知っているのだ!!?」


『そんな正鵠を射てない質問を俺が答えれる訳無いだろうが!! それより何であんたがその男といるんだ、まさか今巷で噂になっている連続殺人と何か関係が有るんじゃないのか?』


「……そんな事貴様が知るべき事では無い!!」


『なら何故その阿呆の極みの様な奴と一緒にいる? というより綾崎の野郎から電話取り上げて何の関係も無い俺に対して怒鳴り付けるとは…一体どういった了見だ!!?』


この男と話していても埒が明かない、この勢いのまま私の怒りが臨界点を越える前に私は話を中断させる。


「…これ以上貴様と話しても無意味なだけらしい、すぐに電話を切ってやるぞ!! それと…もう二度と私を苛立たせる様な真似はしない事だ!!」


『ちょっと待てよ、おい!! 俺はただ綾崎の野郎から着信が来ただけだ、それなのに急に通話に干渉するや否や逆ぎれとは……あんた一体どういう教育受けてんだ!?』


「喧しい!!! 貴様の声など二度と聞きたくない、この男の電話には当分出ない事だな!!」


『……あぁちょっと待て、腹立たしいがあんたに一つ忠告しておく事が有る』


「…貴様…先程の私の言葉、聞いて無かったとは言わせんぞ!!」


『まぁ落ち着けや、その忠告ってのはなぁ……そこにいる綾崎という男、あまり深く関わらない方が良いぜ? そいつは俺でも扱い難い野郎だ、はっきり言って俺より何倍も質が悪い……』


「…ご忠告どうも!! そんな事言われ無くとも今十二分に身に染みているさ!!!」


私は最後にもう一度声を張り上げると怒り任せに携帯電話の『通話終了』を押す、そして携帯電話を握り締めると未だ治まらない怒りの矛先を綾崎に突き付けた。


「……綾崎、何故貴様があの傍若無人に四肢が生えた様な奴の電話番号を知っているんだ!? 貴様と鏡水とは一体どういう関係があるんだ!!?」


「…関係って言われても……単なる腐れ縁ってだけで、肉体関係やそれ以上の関係は無いよ?」


「……全く…貴様だけでも十分忌々しいのに、まさか鏡水と繋がっているとは…貴様という存在は私に不快感しか与えない仕様になっている様だな!!」


私は綾崎に携帯電話を投げ付けようとする、しかしその時何気無く携帯電話の待受画面に映ったものを見てしまい私は更に激昂した。


「…これは……貴様、これは何だ!!?」


「……見て分かりませんか? 分からないなら教えて上げます、それは貴方自身です」


「そんな事言われずとも分かっている、何故私の写真が貴様の携帯電話の待受になっているのだ!!?」


「…それは偶然撮影した物です。保健室で殺人があったと知った僕は当然現場に入る事は出来ず、仕方無く窓側から中を覗いたら偶然にも綺麗な婦警さんが……ってな感じで携帯で撮影したんです!」


「……あの時…保健室で被害者と二人きりになった時に感じた視線の正体は貴様という事か!! 貴様…私に何か個人的な怨みでもあるのか!!?」


「ある訳無いでしょ、そんな事! 僕はただやりたい事をやっている、それだけだよ?」


綾崎は私の怒りの籠った問い掛けを簡単に一蹴してしまう、次の言葉を繋げれずにいると綾崎は私の心を見透かした様に答えた。


「…柊さん、貴方は僕を誤解しています。僕は誰よりも純情で裏の無い人間です、先程電話で話した『天魔』とは違い僕は無垢なだけなんです!」


「…その言葉、信用に足ると思っているのか? 何が純情だ、何が無垢だ…貴様の中に宿るのはそんな可愛らしい言葉では言い表せぬ程暗いものだろう。先程貴様の言った『天魔』の忠告は正しい、貴様はあの男以上に厄介な男だ…」


「……それは有り難いね、でもちょっと買い被り過ぎだよ? 僕は典型を絵に描いた様に単純な存在だ、もしかしたら……犯人も同類だったりして…」


綾崎はそこまで言い終えると何が面白いのか口に手を当て笑い始める、その姿は綾崎自身が言う無垢にも見えるが私には酷く滑稽な狂気に見えた。綾崎の笑い声は静寂を乱す様にこの教室内で反響する、その声を聞いた私と篠塚はまるで金縛りの様に身体は疎か口すら動かなくなってしまった。

 この教室で起こった一連の事象は果たしてどの様な意味をもたらしたのか、私の中で生まれた疑問は微弱な信号となって脳髄を駆け巡った。確かに行き詰まっていた捜査を挽回する情報は得る事が出来た、だがそれ以上に私は不安や嫌悪という負の感情を抱かずにはいられなかった。殺された保健医の知られざる罪、脅迫に支配され身体と潔白を売ってしまった男子生徒、そして聞きたくも無い男の声と綾崎の不気味な微笑、私の中に積み重なったのは胸騒ぎを誘発させる不審だけだった。

 私はふと窓から外を見た、そこにはまるで私の心を投影した様な曇り空が浮かんでいた。私が見詰める先にある雲の隙間から一筋の光が零れる、私が幾度も思った事だがその光はまるで光を見出だせない私への皮肉に思えた。私は眼を閉じ自らの中に静寂を閉じ込める、しかし私は耳には綾崎以外の何者かの冷笑が聞こえた様な気がした。



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