其の呂2
何故こうなってしまったのだろう、私の頭を過ったその問いの答えを私は持ち合わせてはおらず私はただ苦痛と困惑の中を彷徨っていた。私は泣き崩れ膝を床に付ける、嵐が過ぎ去った後の様に散乱とした部屋の中心で私は行き場の無い悲しみを吐き出した。そしてあの問いが再び頭を過った、何故こうなってしまったのだろう。
私には息子が一人いる、特別身体が弱い訳でも無く知能の障害を患っている訳でも無いがある諸問題を抱えた子供だ。それは息子が引き籠もりだという事、この数ヶ月一度も自室が出た事が無いし満足に話してもいないという事実であった。しかもそれは今に始まった事では無い、中学校に入学した当初から学校を休む様になり中学二年生になる頃には完全に登校拒否になっていたのだ。中学三年生になった時私は何とか高校に入学させようとしたが息子はそれを頑なに拒み、遂には高校入学の準備すらしないまま中学校を卒業してしまった。本来なら息子はもう高校二年生になる年齢、だが今の息子は自室で無為に時間を費やすだけの生活であった。
息子が引き籠もりになったのには少なからず私にも責任がある、それは息子が小学五年生の頃に夫が私達の下を去ってしまった事が原因なのだ。夫は私と息子がいるのにも関わらず不倫相手と駆け落ちして家を出て行った、その理由は私が息子の世話で忙しかった為夫との時間を蔑ろにしてしまった為だったのだ。その後私は女手一つで何とか息子を育てていった、近所の住人から陰口を言われたり事実を捩じ曲げて作られた噂を流されても私はその度に耳を塞ぎ耐え続けたのだった。そして小学校を卒業すると息子に変化が表れた、それが今の私を苦しめる一番の要因になるなどとはその時は全く思っていなかった。
その後息子は一日中部屋から出なくなった、一緒に食事をする機会も少なくなり今では部屋の扉の前に食事を置いて立ち去るのが習慣となっていた。勉強もせず就職もしない息子は頻繁に金銭を要求してきた、度重なる要求に私が拒むと息子は暴力を振るう様になり私は仕方無く金を渡した。そんな生活が続くと家計は当然圧迫し家のローンや食費はおろか水道代や光熱費さえも支払えないようになった、私はパートを掛け持ちしどうにか食い繋げる様に家計を維持し続けた。朝は早くに起きてすぐに出社、夜遅くまで働き帰って来る頃には心身共に疲弊していた。そんな毎日が続くと私は息子に碌な食事を与えられなくなり親子の会話も無くなった、言葉や行動には表れなかったが私と息子の間に徐々に溝が出来ていたのは明らかだった。
そんな苦難を背負い地を這う様に人生を費やしてきた私に突如不運が舞い降りる、青天の霹靂とも言える事態により私の人生は崩壊へと導かれてしまう。いつもの様に会社に出勤すると何故か周囲からの冷ややかな視線を感じ取る、最初は何故そうなっているのか分からなかったが程無くして私はその理由を知る事となった。普段は見掛けない会社の人間が私に近付いて来る、そしてその時言われたのは私への解雇通知だった。私は何かの間違いだと思い必死に言い寄るが結局私が会社をクビになるのは決定していた、理由は不景気による会社の経営難だと告げられたが今の私にはそんな理由など興味が無かった。取り敢えず今日の所は仕事に励み詳しい事は明日話すという事でその場の話は終わった、人一人の人生を狂わし兼ねない内容なのに平然と軽々しく接する会社側に私は静かな怒りを抱いていた。私は目の前が真っ暗になる、本当なら見えている筈の世界が黒く変色している様に私には見えた。
仕事が終わると私は力無く家路を辿る、今の私の中には一言では言い表せない暗く悍ましい苦しみがひしめいていた。明日の事など考えたくも無い、投げ遣りで無想な心情が私の心を支配していた。そんな矢先帰り道の途中で私は立ち話をする二人組の近所の住人と擦れ違う、その住人は普段私と眼を合わせない筈なのに今回だけは眼を見開きまじまじと私の顔を見詰めていた。私が住人の前を通り過ぎるとすぐに二人組は囁き声で話し始める、その内容など聞きたくもなかったが自然と耳に入る言葉が私の心に傷を付ける。話の内容は私が会社をクビになったという事である、何処からその情報を仕入れたのかは不明だが他人の不幸話に華を咲かせる二人組に私は酷く憤りを感じた。どうせ関係無いのだからこれ以上首を突っ込まないでくれ、そんな文句すら言えないまま私は家までの道を歩いていた。
私が家に帰ると廊下にいた息子と鉢合わせになった、互いに何かを話す訳でも無く気不味い沈黙が流れると息子は顔を背け自室のある二階へと上がって行った。荷物を下ろし居間に向かうと私は今まで我慢していた悲しみを解放した、涙を流し泣き声を上げる私は自分でも分かる程に惨めなものであった。それから私はひたすら泣き続けた、涙が果て声が枯れるまで泣き続ける事で私は少しでも自分に降り掛かった災厄を払拭しようとしたのだ。
私が心に蔓延る嫌悪を吐き出していると後ろから何者かの気配を感じた、振り向くとそこには不思議そうに顔を顰める息子が立っていた。息子は酷く小さな声で何故泣いているのか私に問い掛けた、久し振りに聞いた息子の声と息子が私を心配している気持ちに私は救われた気になり事情を打ち明けた。私は自分の言葉で会社をクビになった事を伝えた、それは刃で肌を切り付けられる様な辛いものだったがそれ以上に心の重圧に耐えれなくなり全てを吐露したのだ。全てを話し終えた後私の心は幾分軽くなった様に感じる、しかし次に息子が言ったのは励ましや慰めでは無く私を追い遣る暴言であった。息子はクビになった私を激しく罵った、その言葉は私が今まで行ってきた全ての行動を批判する様な言葉にも聞こえた。私は必死に弁明するが息子はまるで聞く耳を持たない、私がどれだけ説明しても息子はそれ以上の暴言で私を責め立てるのだった。私は徐々に強い悲しみを覚えた、久しく話していない息子との会話がこの様な形で実現してしまう事が嫌で仕方無かった。私は耐え切れず普段は言えない愚痴混じりの怒号を発する、言ってはいけないと頭では分かっていても私の口は最早私の言う通りには従ってくれなかった。私は尚も悲しみを吐き出すと突然頭に強い衝撃が走りそのまま床に倒れる、見ると息子は拳を握り興奮した顔色を浮かべていた。それでも興奮が治まらない息子は部屋中の家具を壊し倒し始めた、激しい音や鋭い音が部屋中に響き渡りこの小さな空間を騒乱と変化させた。私は本能的に泣きそうになるが涸れてしまった涙を流す事など出来無い、打ちのめされ悲しみに明け暮れる私に対して息子は最上の侮蔑を吐き捨てるとそのまま立ち去っていった。
居間に一人取り残された私は騒乱の傷跡が残るこの空間で涙を流さず泣き崩れる、爪を立て床を掻いても私の心の苦しみが消える事は無かった。何故こうなってしまったのだろう、その疑問だけが何度も頭の中で反響し啜り泣く声だけがこの部屋に響いていた。
薄暗くなった自宅を私は徘徊する、外部から侵入した闇がこの家の支配権を誇示する中を私は何も言わず歩いていた。そして私はある場所に視線を送る、そこには二階に通じる階段が静かに鎮座していた。私はその階段を一つずつ小さな音を立てながら上って行く、時折窓から差し込む微光により淡い輝きを見せる右手のそれを揺らしながら私は目的地を目指した。緩慢な動きで階段を上ると目的の場所はそこからすぐの場所に存在する、力無い足取りながらも私はその場所へと一歩一歩確実に近付いた。辿り着いたのは息子の部屋、息子が自分以外の人間の侵入を頑なに拒む息子だけの聖域であった。見ると部屋の扉には汚い字で侵入者を門前払いする暴言を書いた紙が貼ってある、しかし私はそんな息子の忠告を無視して扉を開けた。
中に入ると息子は暗い部屋で一人黙々とテレビゲームをしている、周囲にはゴミや布団が無秩序に散乱しており息子がどれ程自堕落な生活をしているのかが窺える。どうやら息子は私の存在に気付いていないらしい、耳にヘッドホンを付け音が漏れる程の大音量でゲームをしている為か物音を立てても私が部屋に入った事が分からないのだろう。テレビから発せられる強い色彩の光だけがこの雑に溢れた暗い部屋を照らしている、その光をまるで映し出す様に手に持つそれはより一層輝きを強めていった。私はゆっくりと足を前に出す、その動きには恐れと躊躇いが含まれているのだった。息子の背後に立つと私の恐怖心は絶頂に達する、しかしそれでも私の身体は自分の心に抗う様に静かに行動を起こしていた。右手に持つそれを私は両手で掴み力強く握る、手の震えが微動としてそれに伝わるが私はそれを息子の背中に向けた。私の呼吸は時間と共に荒くなっていく、自分を落ち着かせる為に眼を閉じると瞼の裏に今までの記憶が鮮明に映し出された。浮気の末に私を捨てた夫、私の人生に土足で干渉する近所の住人、理不尽に私の人生を狂わせた会社、そして今まで必死に育てたのに私に対して苦痛を与えるだけの息子、私には最早何もかもが限界であった。私は自分の決断を悔いたりなどしない、今の私にはこの方法以外苦痛から解放される術は無かったのだ。眼を開けると私の視界は酷くぼやけていた、既に涸れ果ててしまっていた筈の涙が私の眼に悲しい曇りを表していたのだ。
私は頬を涙で濡らしながら強く光るそれを握り締め息を吸い込む、肺一杯に空気を蓄えると呼吸を止め覚悟を決めた。私は力の限り握り締めたそれを悲しみに任せ降り下ろす、眼が眩む程に冷たい光を宿した刀身は私の心に感化され息子の背中を目掛け勢い良く落ちていった。
著 彩咲数見
『漆喰』より抜粋
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薄曇りの空がこの閑散で雑然とした世界を見下ろしている、空が私を見下ろすなどという非科学的な事象などある訳無いのだが今の私ははっきりとそう感じられた。こうも曇天の日々が続くと私の心も無意識の内に荒んでいってしまう、かと言って雲一つ無い快晴は今のこの情勢では場違いでありやはりこの私には鬱蒼とした曇り空が似合っていた。首を持ち上げ私は私を見下ろす空を見上げる、その視線の先には血色の悪い仏頂面が私を睨み返していた。
第三の事件から三日は経った、体育館倉庫で発見された男子生徒の惨劇以降は大した騒動も起こらず事件の残虐を忘れさせる程に平穏な日が流れていた。しかしそんな世間の趨勢など何処吹く風と言った所か我々警察は前三件の殺人の捜査を進めている、だが未だに決定打となる詳細な情報は掴めておらず結果としては一進一退にも満たない現状維持が酷く遣る瀬無いのであった。
そんな変化の無い日常にいよいよ嫌気が差し始めた頃、私の電話に篠塚から連絡が入った。それは沈黙していた時間が動き出したという知らせである、しかしその知らせは私達にとって事態が好転する様な内容では無かった。しかしどんな内容の知らせであっても動かない訳にはいかない、淀む心に足取りが一層重くなるが無理矢理足を持ち上げ私は現場に直行した。冷風に身を強張らせながら私が辿り着いたのは眺める度に空虚を知らしめる公園、普段は人気が無く寂れた雰囲気を醸し出していたが今では多くの人間で溢れ返っていた。群衆の殆どは下世話な噂に尻尾を振り口々にざわめきを吐き出す野次馬、その姿を見て私は興味本意で群がる連中に軽蔑の念を抱かずにはいられなかった。私は呆れと嫌気が混じり合った溜め息を吐くと不本意ながらその群衆へと近付く、腕に力を入れ群がる野次馬を押し退けるとそこには群衆により姿を隠していた物が露わになった。視線の先にあったのは普段と少しも変わらぬ味気無い雰囲気の漂わせる公園のトイレ、立入禁止のテープで囲まれたそれの入口には鑑識や刑事が慌ただしい様子で出入りをしており普段とは比べ物にならない程の賑わいを見せていた。その風景を眺めると私は心に焦燥を持ち始め立入禁止のテープを潜り現場に入る、入口に近付くと此処数日で嗅ぎ慣れた異臭が鼻腔を貫いた。私の不安は有るべき形を成し鮮明な色彩をもって心に囁き掛ける、出来れば実現してほしくなかった現実の存在を私はそこに強く感じた。鑑識は男子トイレを往復しており女の私は多少入るのを躊躇ったがそうも言っていられない、群衆に囲まれたトイレに足を踏み入れると入口の陰には見慣れた顔を見付けた。蒼白一色となった顔を浮かべる私の部下、その姿を見て私の嫌な予感は確実な物となった。
「……篠塚か…そんな所で何をやっている?」
「…こ…この状況を見れば……大体想像は付くでしょう?」
「……今度は朝食と再会したのか、まだ時間が早朝という事もあるから余程辛かったと見れるな…」
「…い、いえ…今回ばかりは吐いてません……此処最近は食欲が無くて朝は何も食べていなかったので……」
「朝から何も食べていない、か……確かにあの様な事件が続けば食欲も失せるだろうが何も食べぬとは感心せんな、何でもいいから腹に入れないと力が出ないだろう?」
「…ま…まぁそのおかげで今日は苦しい思いをしなかったので……良しとしましょうよ…」
私は目許を押さえ溜め息を漏らし少しでも心に積もった不安を取り除こうとする、だが視線を奥に見える戦慄の断片が眼に映る度に異様な寒気が身体に走った。男子トイレの一番奥にある扉の開いた個室トイレ、そこから溢れ出る赤黒い液体がこの場所を日常から異常へと誘う標であった。床に敷き詰められたタイルの間の溝を伝い流れる狂気の雫、それは入口付近の洗面台まで届いておりその存在をより残酷且つ強烈に表していた。私は恐れを押し殺しながら血液の流れ出る奥の個室にゆっくりと近付いていく、その先にあるものに大体の予想は付いているが近付く度に濃度を増す異臭と何かが飛び出でるかもしれないという妙な想像が私の背中を冷たく撫でた。そして私は個室の正面に立つと下向きだった視線を前に移しその中を確認する、そこには私が想像していた以上の凄惨が渦巻いていた。
(…これは……酷過ぎる……)
私は反射的に顔を背ける、私の眼に映ったのは一度見れば決して忘れ去れない程に残酷で悍ましい死に様であった。
個室トイレの中には人が座っている、何の変哲も無く普通に設えてある便座に腰掛けている人間の姿が初めに確認出来た。しかしただ座っているのでは無い、両手を後ろで組みトイレのパイプに鎖で繋がれている様は座っていると言うよりは強引に座らされているという表現の方が正しいだろう。上半身裸で便座に座る姿は些か滑稽にも見えるが注目すべきはそこでは無い、この死体に眼を背けたくなる要因は腹部にあった。ちょうど鳩尾から臍の下までを縦一直線で鋭利に切り裂かれている、そこから床を濡らす血液が溢れ出しておりまた普段仕舞われている筈の内容物が抉り取られ床の上に無惨に抜け落ちていた。床の上で散乱した臓腑の中にはまだ湿り気と滑り気を帯びた腸が見て取れる、湿潤な艶めかしさを彷彿とさせる見た目ではあるが血に染まっているそれは妖艶よりも嫌悪を抱かせる存在だった。これを凄惨と言わず何と言うのであろう、腹部に大きく見開かれた眼窩は私を見詰め時が経つ毎に私は凄惨の極致の意味を知る事となった。これまで幾度と無く凄惨な死体や現場を見続けてきた私も流石に凝視は出来無い、結局私は死体に一瞥をしただけで足早に個室内部の死角まで逃げ去った。トイレの入口まで来ると多少血色の良くなった篠塚が出迎える、突然遭遇した凄惨から生還した私はしばらく声が出なかったが徐々に落ち着きを取り戻すと口を開く。
「……取り敢えず見たが…正直言って二度と見たくない光景だったよ……」
「…僕も同意見です、犯行が続いても犯人の狂気と現場の悍ましさに衰えが見えないのは嬉しく無い事ですね…」
「誰が嬉しいものか、あんな死体を次々に作り出す犯人など存在しない方が世の為だろうに……まぁ司法解剖は余儀無くされるだろう、もう既に大半の処置は終わっているがな…」
私は笑いを含みながら皮肉を溢す、だが篠塚は暗い顔を変える事は無くまた自分としても不謹慎な発言をしたと察し恥ずかしくなりそのまま黙り込んだ。だがこのまま無言で時間を費やす訳にはいかない、嫌な感情を抑制しながら私は捜査内容へと話題を変えた。
「……恐らくあの死体は第四の被害者だな、一連の殺人事件の新たな被害者という事になる……」
「殆ど確実と言って良いでしょうね、残虐な殺され方を見れば…同一犯であると断言出来ます」
「……殺された被害者の身元は割れているか? まさか例の中学校に通う生徒という事は……」
「…残念ですが…柊さんの予想した通りです。被害者は『林孝平』、あの中学校の生徒です」
「やはりそうか……顔と身長から大体の年齢は推測出来たが…こんな所で自分の読みが当たるとは思って無かったよ……」
私は鼻で自分を嘲る、極限まで煮詰まった人間が何も面白くも無いのに笑ってしまうのは一種の整理現象なのかもしれないのだろう。私は妙な嫌悪感を抱きながらも頭を捜査へと切り替える、一先ず私は気になる事を尋ねた。
「…被害者の死因と死亡推定時刻は?」
「そこなんですけど……被害者の死因は腹部を切り開かれた事による出血多量、死亡推定時刻は…昨日の朝九時頃でした……」
「…昨日の朝だと? なら被害者は昨日の朝から丸一日此処に放置されていたという事か? いや、それは無い…何処かで殺した後此処に運んだ方が目撃される危険が少ない……」
「確かにそう考えるのが普通ですが……此処は人通りも少なく目撃される可能性は少ないかもしれません。それに床に流れ出た血液の量と死因が出血多量という事を考えると、此処で殺されたと見た方が良いでしょう」
「…成る程……確かに此処は住宅地の裏手にあり人通りの多い道に面していない、篠塚の言う通りこのトイレで殺された可能性が高いのも頷けるな。そうなると……第一発見者は何処にいる、こんな人が通らない様な場所に寄り付いたのは些か妙に思えるが?」
「確かにそう思うのは当然ですね、そう思って既に調べは済んでいます。第一発見者はこの辺りで自営業を営む『安藤康文』……偶然にも第二の被害者の父親に当たる人物でした」
「……因果とは全く不思議なものだな、息子を殺された父親がこんな形で事件に関係するとは……しかし今はそれは関係無い、その男の証言を聞かせてくれ」
「はい、彼は日課でこの辺りをジョギングしていました、その途中尿意を催し立ち寄ったこのトイレで死体を発見したと話しています。つまりこの公園もジョギングコースに入っていたという事ですね、それとジョギングの時間は朝八時から約一時間…死亡推定時刻の少し前ですね」
「……日課という事は今日だけで無く昨日もしていた訳だな、昨日もこの付近に立ち寄ったと考えると殺人はその後少ししてから行われた事になる。本当なら犯人の姿を目撃してほしかったものだが……民間人にそこまで要求は出来んな…」
私は残念な気持ちを言葉として漏らすと気分を晴らす為に男子トイレから立ち去る、入口付近は未だに血液の生臭さが立ち込めてはいたが濃度は内部よりも薄く私は新鮮な空気と混ざり合った淀みを吸い込んだ。数回呼吸を続けると私は普段の調子を取り戻す、気分転換も済んだ所で私は篠塚に話を切り出した。
「…他に死体に何か怪しい所は無かったか? まぁあの有り様だけで十分怪しいが…今までの事件と同じく何かを示唆する様な物があったと思われるが?」
「はい、柊さんの想像通り死体から発見されるにはあまりにも不自然な物がありました。こちらです」
篠塚は私を誘導する言葉を掛けると嫌悪する感情を押さえた表情でトイレに入る、折角外に出られたのだが行かない訳にもいかず私は溜め息を溢すと再び血水に塗れた異界へと足を運んだ。篠塚が誘導したのは男子トイレに設けられた洗面台、そこには鑑識のビニールの袋に入れられた何かが無造作に置かれていた。見るとそれは何処にでもある普通の辞典、私はそれを手に持つと怪訝そうに篠塚に尋ねた。
「……これは何処にあった?」
「…被害者の体内から見付かりました、腹を裂かれて取り出された内臓の代わりにそれが……」
「…背表紙に棚の番号が貼られているな、所蔵されていたのは……やはりあの中学校か…」
私は辞典の表紙を指でなぞる、その辞典は酷く悍ましい姿に変貌していた。私の手に持つ辞典は表面が血で赤黒く変色し見る者に気味の悪い寒気を与える、それ以外は何の変哲も無い辞典だがこれが被害者の腹から見付かったとなれば話は別である。犯人が被害者の腹を裂き代わりに辞典を入れたという事実、それを思うだけで私は犯人への憤りを抱かずにはいられなかった。
「…何とまぁ酷い事を……犯人は何処まで殺人を楽しめば気が済むんだ! こんな事をする犯人の意図が掴めない、これだけしか無い情報でどうやって……待てよ、篠塚、あの中学校は何時から授業が始まるんだ?」
「え? ど、どうしたんですかいきなり…それは僕にも分かりませんが……大体八時半過ぎじゃないんですかね」
「そうか……なら犯人の目星が付くかもしれんぞ!」
「……どうして…ですか?」
「考えてみろ、授業は八時半過ぎから始まったが死亡推定時刻は九時頃だ、つまり犯人はその時校内にいなかった人物という事になる。急いで昨日遅刻及び欠席した者を調べろ、これで犯人像がかなり絞り込めるかもしれないぞ」
「はい、分かりました!」
「それとこの辞典の貸出人も調べてくれ、指紋は検出されないだろうが犯人に繋がる手掛かりが掴める可能性がある」
篠塚は手帳を取り出し辞典の名前を書き記すと足早にトイレから立ち去る、残された私は辞典を置き篠塚に遅れる形でトイレを後にした。外には相変わらず野次馬で溢れ返っている、最初に来た時よりも心無しか人数が増えている様に見えるが私は気にせず周りを見渡した。公園のトイレを取り囲む連中は口々に囁き合っている、その内容を聞き取る事は出来無いが私には耳が痛くなる様な下品な言葉で彩られた噂であろう。その様子に多少の嫌悪を抱き視線を逸らすと、流れる視界に群がる人波の中に見覚えのある人影を捉えた。その人影の下に向かう為に私は先に殺人現場から立ち去りまだすぐ近くにいる篠塚に近付き、手で肩を叩くと落ち着きながら話し掛ける。
「…篠塚、済まんが野暮用で少しばかり抜けさせてもらう。すぐに戻るから先程言った事を調べておいてくれ」
「……分かりました、でもすぐに帰って来て下さいよ? 言葉は悪いですけど…最近柊さん、ちょっと怠けている様に見えますから…」
「……分かっている、すぐに戻るよ……」
私はそう言い残すとその場を後にし野次馬の中へと入り込む、暇と興味を持て余している人混みの中心を進むとようやく視界が開け息苦しさを胸から吐き出した。そして私は先程見えた人影のいた場所に向かう、公園を区域の一角として定めるフェンスの外にその人影が確認出来た。公園を出て曲がった所にその人物は立っている、後ろにいる野次馬とは違い公園の外からフェンス越しに静かな趣で殺人現場を眺めていた。
「……綾崎…そこで一体何をしている……」
「この様子を見て何も分からないなんて貴方は頭の中におたまじゃくしでも飼ってるんですか? 僕はただ現場を見に来ただけです、それとも僕をまた捕まえますか?」
私が話し掛けても綾崎はこちらに顔を向ける事も無く無愛想な言葉を返した、この様な遣り取りは最早通常をなってしまった為私はその事には何も言わず話を続けた。
「…眺めているのならもう既に分かっているだろう……また事件が起きた、しかも学校外でだ」
「どうやらそうみたいですね、前列で下世話に群れてる観客勢がさっきからそんな事を話してましたよ。しかし本当に驚きですね、まさか僕の予想がこんなにも的を射てしまうなんて…」
「……確かに私も驚いたよ…死体は男子トイレで見付かった、貴様の言った通り七不思議に見立てられて犯行が行われたのだ。だが問題はこの場所だ、此処から中学校まで約三百メートルも離れている……何故犯人はこんな所で犯行に及んだのだ?」
「…それは流石に僕みたいな平々凡々な一般市民には些か難題ですね……強いて挙げるとするならば校内での犯行に見切りを付けたんじゃないんですか?」
「……見切りを付けた、か……確かに現在校内は厳重な警備態勢が敷かれている、あの状況で殺人を行うのは甚だ不可能だろうな」
私はそんな至極当然な事すら頭に浮かばなくなっていた、被害者の様相を見た事による焦りや凄惨な連続殺人による憔悴が主な原因だと思われる。私は髪を掻き乱し状況を整理しようと試みる、しかし私にはすぐ眼前にいる綾崎の不気味な程の落ち着きが私自身の心の落ち着きを邪魔していた。
どうにも落ち着きを取り戻せそうに無い私は一度深呼吸をすると話題を変える、鬱屈とした心境を少しでも和らげる為に今の私には多少のゆとりが必要だった。
「……ところで綾崎よ…こんな所で時間を潰していて大丈夫なのか? いくら臨時と言っても貴様は歴とした教師であろう、もう既に授業は始まっている筈だが?」
私は綾崎にそう問い掛けるが綾崎は全く反応しない、しばらくすると綾崎はこちらに向き直りまるで驚いた様子で私を見据えた。
「……あれ、誰かと思えば柊さんじゃありませんか! そんな所で何やってるんですか、そんな風に眉間に皺寄せているとより老けて見えますよ?」
綾崎は今まで私という存在に気付いていない様な口振りで私にそう語る、その言葉を聞いた私は呆れ混じりに返答する。
「…その言葉…まるで今まで私に気付いていない様な言い方だな、貴様は今まで何と話していたんだ?」
「え? 何ってそりゃ……頭の中でくるくる回る妖精か、僕にしか見えない足の無い少女か、もしくは未練たらたらの地縛霊か……どれだと思いますか?」
「……その質問に私はどう答えれば良いか分からん、そもそもその質問に答える気も毛頭無い。貴様はつくづく変化の無い男だよ、私をおちょくって何が楽しい?」
「別に僕は楽しんでる訳じゃ………うん…まぁいいや、それで何の話だったかな? 確か朝起きたら背中に羽が生えてた、って話だっけ?」
「……それはもう既に話しただろう、私は今こんな所にいて大丈夫なのかと聞いたんだ!」
「あぁその話ね! その事ならご心配無く、もう学校には遅刻するって言ってますから」
綾崎は満面の笑みを浮かべながら私を見ている、その偽りとも知れない表情に対し私は口角を少し上げ薄い笑みを溢した。私が笑い返すと綾崎は再び事件現場に視線を移す、虚ろな眼で群がる野次馬を眺めながら綾崎は変わらぬ口調で話を続けた。
「……どうやら僕の言った事に間違いは無かったみたいだね、保健室に調理室に体育館倉庫に男子トイレ……場所は違えど事態は同じ、言うなれば大同小異って感じかな……」
「…確かにそうなるだろう……だが犯人が七不思議に拘泥するなら何故こんな場所で犯行を行うんだ? 最早学校を離れて殺人が行われている、そうなると貴様の言い分にはまだ疑いの余地があるぞ!」
「……確かに…でも、もしそうだったら犯人の狙いは何なんだろう? 七不思議の見立てをしている体だけど、貴方の意見を採用するなら犯人は何を表しているんだろうね…」
綾崎の言葉は私に向け明確な疑問で私を射抜く、私は明瞭な回答や返す言葉も見当たらず顔を背け黙り込んだ。その様子を横目で見ていた綾崎は口を開く、その口調は先程までの明るいものでは無く落ち着きながらも冷たい色をしていた。
「…もしかしたらさ……僕達はとんでもない間違いをしているのかもしれないよ?」
「……間違い…だと?」
「そう、それも驚天動地の間違いだろうね。だとすれば今の僕達は大馬鹿者だ、必死の思いで鉱脈見付け出したのにいざ掘ってみれば出て来るのは劣悪な原石や屑鉄程度……まだ僕達は切削も融解もしていない、犯人の真の目的を知るのはまだ当分先かもね…」
「……真の目的…」
私は綾崎のその言葉が妙に引っ掛かる、綾崎の唱えた犯人の動機が間違いであるならば何が真実だと言えるのか、今の私にはその答えは見付からなかった。もしかしたらこの事件は私には解決出来無い代物なのかもしれない、今視線の先にいる人物の曇った表情が私にその確信を持たせた。
いつの間にか時が経つのを忘れて私は無心に立ち尽くしていた、無為自然と流れる時の最中に私の身体は存在していた。そんな私の肩口に勢い良く風が吹き付ける、意識の覚醒を促したその風は冷たい囁きを私に伝えるとそのまま空虚と共に消え去った。
静々と零れ落ちた雪の名残を教える水溜まりが赤い光を反射する、未だ沈まず顔を少し覗かせる夕日が人気の無い廊下を照らしていた。赤味を帯びた廊下は何処と無く不気味で、普段の薄い色合いからは想像出来無い程に幽玄な時間を作っていた。
外の冷たさを微弱ながら感じさせる廊下を歩く二つの影、並んで歩くその姿が夕日に当たり壁に瓜二つな分身を作り出した。その内の一つである私は手許の鍵をぼんやりと眺めている、その隣に並ぶ影が不安そうに様子を見ながら話し掛けた。
「……柊さん、またどうして理科準備室なんかに行くんですか? 必要な証拠は既に鑑識が全て押収して指紋の調べも終わってます、今更行っても何も有りませんよ?」
「そんな事は百も承知だ、私は何も証拠を探す為にわざわざ向かっている訳では無いのだからな…」
「……なら一体何の為に?」
「……強いて言うならば、一度見ておこうと思っていたからだ。幾ら証拠物件を押収しても部屋自体は持っては行けない、せめて一度ぐらいは場所を見ておいた方が事件を想像し易い…その程度の理由だよ…」
私は今向かっている場所の鍵を一度手の中で握り締める、鍵本来の冷たさと差し込み部分の凹凸が掌に軽い刺激をもたらした。そうして歩いている内に私と篠塚は理科準備室の前まで辿り着く、手の中で握り締めていた鍵を鍵穴に差し込もうとしたその時鍵が背中で輝く夕日を反射した。私は何気無く後ろを振り向く、今まさに通って来た道に人影は無く代わりに赤い夕日が視界に映った。
「…眩しいな…さながら眼が焼ける様な明るさだ。此処最近は曇りばかり続いていたというのに……」
「本当にそうですね、最近の天候は変わり易いと聞いています…」
何気無く他愛の無い話を終えると私は鍵を鍵穴に差し込み右に回す、弾んだ音が鳴ると私は扉に手を掛け勢い良く開いた。
扉を開けてすぐに私は鼻に刺激を覚えた、幼い頃に嗅いだ記憶のある薬品の臭いが私の鼻腔を貫いた。少々先に行くのを躊躇わせる感覚だが私は感情を押し切り中へと進入する、中は廊下とは違い夕日が壁で遮断されており微かな光がこの部屋を薄暗く照らしていた。
(…不気味な事この上無いな……まぁ教室など殆どが大体こんなものか……)
私は心の中でそう呟くと準備室を見渡す、実験で使われる様々な器具や虫の標本、息苦しそうなホルマリンの中に浸けられた解剖済みの蛙が私を取り囲んでいた。そんな部屋の中で私は一際眼を引く場所へと歩み寄る、多種多様な物に溢れる棚の中でその一角には何も置かれていなかった。
「……此処に首の切り取られた梟の剥製があった様だな、ただその為だけにこの場所へ侵入するとは……中々に大胆な犯人だ。しかし謎なのは……犯人がどの様な方法で此処に侵入する事が出来たのか、という話だ」
「…それは一様な問題です、この理科準備室だけで無く保健室や調理室や体育館も含めると全てがどんな方法で入ったのか未だ分かっていません」
「…考えられる方法は三つだ、一つ目は犯人が何等かの方法で鍵を盗み使用した、二つ目は扉とは違う場所から侵入した、三つ目は……そもそも扉に鍵など掛かっていなかった、か……」
「…三つ目はあまり現実的ではありませんね、教員の話を聞く限り二つ目も無いと思いますし……でもそうなると残るのは…」
「犯人が何等かの方法で鍵を盗み使用した、となるな…だが学校側は鍵は一度も盗まれてはいないと言っていた筈だが?」
「……じゃあ犯人がスペアキーを作ったというのはどうですか? 鍵を一時的に盗み取りその間に鍵を複製した、という事も考えられます!」
「…確かにその方法も有り得る、私も同じ事を考えたよ……だが、鍵は盗まれていないというのにどうやって犯人はスペアキーを作ったんだ?」
私の言葉を聞き篠塚はばつが悪い様子で俯く、確かに篠塚の言いたい事は分かるが学校側が嘘を吐かない限り鍵の複製は不可能であった。今学校側にはそんな詰まらない嘘を言う事に利点は無い、残念ながら必然的に篠塚の意見は撤回する必要があった。
「…では……犯人はどうやって鍵の掛かった教室に忍び込んだのでしょう?」
「……それは追々考えていけば良いだろう、教室への侵入方法も大事だが…今は殺人事件の捜査が優先事項だろう」
「…本当に此処に何しに来たんですか?」
「まぁそう言うな、少なからず判明した事もある。犯人は鍵を使って此処に入った事に間違いは無い、窓には開けた痕跡一つ残ってはいないからな。どうやらこれ以上の長居は無用らしい、すぐに退出するとしよう…」
私が準備室の扉へと歩き始めると篠塚も私に続いた、薄暗く薬品臭い異空間から脱出すると篠塚が出たのを確認し鍵を閉めた。
再び廊下に舞い戻ると辺りはより一層黒が自身の存在を誇張している、私にとって恐怖の対象である闇の存在を間近に感じ自然と私の顔が強張った。私の険しくなった顔に対して接し難い様子を表す篠塚、しかし黙っている訳にもいかない様で一度呼吸を整えると私に話し掛ける。
「…これからどうするんです、もう生徒は殆ど帰ってしまいましたから話を聞ける人と言ったら職員室にいる教員ぐらいですよ?」
「そうだな……取り敢えず此処の鍵を返してから少し話を聞かせてもらう事にしよう、綾崎の証言だけではどうにも……ん?」
私は何気無く視線を上向きにするとそこにあるのは向かいの校舎、私達のいる三階より一階多い四階の廊下に人影が眼に入った。私は眼を凝らしその人影を見詰める、それに気付いた篠塚も同様に四階廊下に視線を向けた。
「……あれって…確か綾崎って人が顧問している放送部の部員じゃないですか?」
「あぁ…確かにあのどう仕様も無い変人に付き従う奇人共だな、道理で見覚えのある姿だと思ったよ。その横には見慣れぬ顔があるが……此処から見る限りどうやら口論をしている様だ」
窓から見える姿なので鮮明には見えないが廊下に立つ二つの人影は明らかに綾崎の部下二人である。その近くにいる人物が何者かは知らないが何やら揉め事が起きているらしく、その様子を黙って見ていられる筈も無い私の足は自然と向かいの校舎を目指していた。勝手気儘に行動を起こす私に篠塚を呆れた様に溜め息を吐く、そしてもう一度向かいの校舎を見上げると私の後を追って行った。
歩みを始めて一分もしない内に先程まで視線の先にあった場所に私は辿り着く、その場所は先程の部下とは違い夕日の洗礼を受けぬ日陰であった。人気が少なく多少薄暗い廊下には私達以外に三人の人間がいる、同じ制服に身を包んだ彼等は一対二に分かれ互いに向き合った状態で何やら激しく言い争っていた。
「いい加減にしてくれよ!! こっちだって暇じゃないんだ、愚痴言う相手が欲しいんなら他を当たってくれ!」
「部長の言う通りだ!! 何の理由も無しに変な言い掛かりを付けないでくれ、全くこれだから生徒会ってのは……」
「お前達がそうやって話を逸らすから俺が毎回丁寧に説明してやっているんだろうが!! お前達は自分のやっている事が分からないのか!?」
「だったらそうやって訳の分からない文句を逐一俺達にぶつけてくるな、そっちだって他人を罵れる立場とは思えないがな!!」
「その無神経なのが一番鼻に付くんだ、自分達がどれだけ他人に迷惑を掛けてるのか知らないとはとんだ鈍感野郎だな!!」
三人の口喧嘩は衰える様子も無く言葉を浴びせ掛ける度に罵る程度が上がっていく、一体何をそこまで言い争っているのかは分からないがこのままにしておく訳にもいかないので仕方無く仲裁に入る。
「そこの三人、こんな所で一体何を口論しているんだ?」
「あぁ? あれ、あんた…確か何処かで見た様な……」
「ぶ、部長! 確かこの人、前に僕達の部室にやって来た人ですよ!」
「……誰だ、あんた?」
それぞれが三者三様の反応を見せる中で私はゆっくりと三人に近付く、まるで異様な物でも見るかの様な視線を浴びながらも私は口を開いた。
「…まぁ名乗る程の者では無い、名乗った所で大した意味は無いだろうからな」
私は落ち着いた口調でそう伝える、その言葉で私は三人から怪しむ様な眼で見られてしまったがそれを気にせず私は言葉を繋いだ。
「話を戻すが…貴様達此処で何をしている、先程から怒鳴り声が廊下に酷く響いていたが?」
「…それは……あんたには関係無いだろう!」
「…成る程…確かに通りすがりで見ず知らずの他人が首を突っ込む事が頂けないのは分かる……だが眼に付いた揉め事を何事も無かった様に見過ごせる程私は偉くなど無い、という事だ。節介ながら何があったのか聞かせてもらおう、その方が互いにとって良いと思うが?」
始めて見る男子生徒は私の言葉に牽制されたのか顔を背け黙り込む、その反対に先程まで口喧嘩をしていた見覚えのある男子生徒は落ち着いた様子で私に話し掛けた。
「…実は、ちょっと前に部室の前を通ったら偶然あれと出会したんです。俺達は何事も無く通り過ぎようとしたんだけど…あれが俺に喧嘩を吹っ掛けてきて、それについ乗っちゃって…」
「……お前、さっきから人の事指差してあれって呼ぶの止めてくれないか!? 大体俺はちょっと注意しただけだろうが! なのに勝手にお前が怒り始めたのがそもそもの原因だろう!!」
「何だと!? 先に言われる筋合いの無い嫌味を言ったのはそっちだろう! 他人に暴言吐いてあわよくば責任転嫁しようなんて、とんだ卑怯者だな!!」
「てめぇ…喧嘩売ってんのか!? 今何て言いやがった!!」
「聞こえて無かったのか? 何なら五回でも十回でも言ってやるよ、この卑怯者が!!」
「いい加減にしろ!! 貴様達がその調子ではいつまで経っても話が纏まらんだろう、事情は分かったから一旦落ち着け!!」
私は我慢出来無くなり思わず大声を発してしまう、しかし私が幾ら注意しても一度頭に血が上った者達はそんな事など構わず言い争いを続けていた。流石中学生と言った所か自意識ばかり強く他人への理解や配慮に乏しい愚物は争いにのみ己の身を投じようとする、その姿が興奮状態の私と重なり私は何とも言い難い不快感を抱いた。自分への戒めを遺憾無く胸に突き刺されたその時、廊下の向こうから聞き覚えのある声が凛と響いた。
「そこの皆様方、そんなにはしゃいでどうかしちゃったの? さっきからこの辺でお囃子が聞こえるからてっきり祭りでもしてると思ったんだけど……そんなにウランがプルトニウムに化学変化するのが嬉しいのかい?」
この収束しない状況によりによって最も現れてほしく無い人物が姿を見せる、右手には本を下げ左手には何故か色彩の強く駄菓子屋で売っている様な棒付き飴を持っているという相変わらず意味不明な姿をした綾崎が現れたのだった。
「……あれ、どうしたの皆様方よ? 僕の顔に将棋の桂馬みたく変な物が付いてるの?」
「……いや…隊長が変なのは元からですけど……」
「あれ? そこにいるのは僕の飛車に当たる風間大政君じゃないか、言っておくけど僕のパーソナルスペースに踏み込んだって竜王には成れないからそのつもりで!」
一切の迷いも無い支離滅裂な発言に私の身体は頭痛を再発させてしまいそうになる、このままこの変人が話に介入するのは非常に危ないので私は綾崎に言い放った。
「…此処は今貴様が来る場所では無い、用が無いならその憎たらしい顔ごと何処かに行ってくれ」
「おや、どうやら僕はこの環境下ではお呼びじゃなかったみたいだね、まぁでも僕は元々王将だから成る必要は無いんだけどね!」
「……今の私の話、聞いて無かったとは言わせんぞ?」
「まぁそう言わないで、この状況を鑑みるに………風間君、何で此処で口喧嘩なんかしてたの?」
棒付き飴をくわえながらしばらく考えた後綾崎は核心を突く答えを口にする、ずばりといった様な言葉ではあるが恐らく盗み聞きしていたものと見て私は驚かなかった。名前を呼ばれた男子生徒は少々ばつが悪そうな顔を浮かべたが、黙っている訳にもいかない様で大人しく白状する。
「……あれが俺に向かって『お前達が変な物作るからこんな事件が起こったんだ、皆が迷惑してるのは全部お前達のせいだ!』って言ってきて…それでついカッとなって……」
「風間、また俺の事をあれ呼ばわりしたな!! お前達が他人に危害を加えているのは事実だろう、事実を言って一体何が悪いっていうんだ!?」
「事実だと!? 勝手に面白可笑しく肉付けした嘘八百の噂話を持ち掛けるなんて、そっちの方がずっと迷惑だろうが!!」
「喧嘩は止めてくれ二人共、その何だ………取り敢えず風間君、君には言っておくべき事がある」
「な…何ですか?」
「君ね……幾ら相手に非があるからってそんな言葉遣いは失礼だよ? 別に本人がいない所だったら幾らでも言って良いよ、背が低いとか顔が大きいとか頭悪そうとか童貞とか人間性が小さいとか…あと画鋲泥棒とかね、そういう事はあまり本人の前では口に出さない方が良いよ?」
真剣に男子生徒を説教している綾崎だが、その言葉はすぐ近くにいる怒り気味の男子生徒に向けられたものにも聞こえた。本人の前で言っている事自体既に内容が矛盾している様に思える、そして当然の如くその男子生徒を綾崎に対し怒りを示した。
「あんたいい加減にしろよ!! さっきから聞いてりゃ遠回しに俺を非難しやがって、臨時だか何だか知らないけどあんた教師ならもっとまともな事言えよ!!」
「……悪いけど、僕は君に話をしてる訳じゃないんだ。それに今の僕の例えを真に受けるって事は君に自覚があるって事だ、君は本当に画鋲泥棒なのかい?」
「何意味の分からない事言ってんだよ!! あんた自分の生徒にどういう教育してんだよ!!」
男子生徒の言う事は全くもってその通りだ、綾崎という男がどれ程変わった人間なのか知っている分彼の気持ちがよく分かる。男子生徒の責め立てに嫌気が差したのか綾崎は不満そうな表情で男子生徒に向き直る、そして静かに歩き出し男子生徒と接する距離まで近付くと笑いながら話し始めた。
「…僕は君に会った事無いけど、どうやら僕の事知ってるみたいだね! 僕の名前は『綾崎和箕』、君は…そうだね……多分『前河原』君かな?」
「何勝手に人の名前決めてんだよ! 俺の名前は『塩見克哉』、そこの二人とは同学年だ。これでも生徒会で会計をやってるんだよ!」
「別にそこまでは聞いていないよ? それで塩見君だったかな……どうしてあんな喧嘩勃発当たり前な真似をしたの?」
綾崎の落ち着いた問いが塩見に与えられる、一方未だ怒り抑えられない様子の塩見は風間と宮武を指差しきつい口調で答えた。
「…あそこの連中がまた変な物を作りやがった、七不思議とかいう下らないもので学校の風紀を乱そうとしたから注意したんだ!! あんな悪趣味な物を配ったせいで生徒が不快な思いをしたんだ、苦情の一つも言って当然だろ!!」
「その話を聞く限りどうやらあの冊子読んでくれたんだ、ありがとね!」
「黙ってろ宮武!! それにお前達そんな悪趣味な物を部費で作りやがって、学校の金を何だと思ってんだ!!」
「…まぁね、君の意見は分からなくも無いけど……それは別に本人に直接言わなくても良いんじゃない? 生徒会の中で話したり生徒会に関係する先生に相談するとか方法はあるよ、わざわざ火に油を注ぐ様な事しなくても解決出来るよ?」
「ぐっ……それとこれとは…」
「それにね、本人目の前にしてあんな事言っちゃ駄目だってば! 別に本人に聞こえない場所なら幾らでも言って良いよ、髪乱れてるとか眼鏡ずれてるとか腹黒いとか童貞とか子供っぽいとか…それと蛇口野郎とかね」
「……隊長…それって俺の事言ってます?」
「そう思ってるのは多分君だけだよ? あぁそれと塩見君、確かにそこの二人が作ったのは酷く悪趣味な産物だ。でもね…彼等は彼等なりの主義や概念を持ってあれを作ったんだ、まさにあれは人間の思想の結晶……それを汚す権利は流石の君でも持ち合わせていないよ?」
綾崎は綾崎らしからぬ思慮深く道理に適った考えを口にする、その言葉は先程までの綾崎を知る者に大きな驚きをもたらした。しかし綾崎の言葉に諭されながらも塩見は未だ怒りを隠す事が出来ず、綾崎の胸倉を掴むとその怒りを露わにした。
「…そんな道理俺が知った事か!! あんたが馬鹿だからそこの連中が付け上がるんだ、生徒の面倒ぐらいちゃんと見ろよ!!」
「そんな事言われても…僕はあくまで仮の顧問だからあんまり強く言えないんだよねぇ、そりゃ必要なら幾らでも叱るけど……今の彼等には叱るよりもっと自由な思想を養ってほしいんだよ」
「…てめぇ……俺を馬鹿にしてんのか!!」
「馬鹿にするなんて滅相も無い、こんなに他人を馬鹿にするのが好きな僕でも目下でそれも見ず知らずの人間を何の前触れも無く馬鹿にする事なんてしないよ? 幾ら僕が馬鹿でもそんな事僕はしない、それが分からないなんて君はとんでもない馬鹿野郎だよ」
綾崎が話した内容はとても否定をしている様には思えない、怒りが滲み出る塩見の事など気にせず他人を馬鹿にする発言を止めない綾崎は笑いながら言葉を続けた。
「そんな事より君ってあの二人が作った七不思議の冊子を見てくれたんだよね? だったら話が早い、君には是非とも見てほしい物があるんだよ!」
綾崎は自身の胸倉を掴む手を引き離すと右手に抱えた本を塩見に見せる、顔に当てる様に突き付けられた本にたじろぐ塩見を尻目に綾崎は笑みを浮かべて話し出した。
「これ僕のお気に入りの本なんだよね! 中身はちょっと意味不明だけどあっちの二人が作った話なんかとは比べ物にならない内容だ、あの七不思議みたいに奇妙な話が好きな君なら絶対楽しく読んで…」
綾崎が言い終える前に綾崎の持っていた本が宙を舞い音を立て床に落ちる、一瞬何が起きたのか分からなかったが次に聞こえた言葉でこの一連の事象の意味が理解出来た。
「てめぇ俺の話聞いてんのかよ!!? さっきから聞いてりゃ調子に乗りやがって、俺は本が読みたくて此処にいるんじゃないんだよ!!」
塩見の怒りは最早自分では抑えられない程に肥大していた、生徒と教師という立場を忘れ純粋な怒りをぶつける塩見は近付き難い熱気を振り撒いていた。しかし怒りを向けられている当の本人は嫌気を塗りたくった様に顔を歪める、その顔が塩見の怒りをより強くしたのは言うまでも無かった。
「あんたもそこの二人もとんだ馬鹿野郎だな、人の話も聞かずべらべら勝手な事喋りやがって!! 大体六冊しか読まれていない様な冊子なんか費用の無駄だ、あんた達のその身勝手な行動でどれだけ他人に迷惑掛けてるか…」
「何やってるんだ、克哉!!」
夕日に染まる廊下に塩見の声が響く中で何者かの声が怒号を切り裂く、声のする方を向くと険しい顔を浮かべた男子生徒がそこにいた。怒れる塩見の名前を呼んだのは整った髪型と真面目そうな顔立ちをした背の高い人物である、その人物は険しい顔を崩さぬまま我々がたむろしている場所に近付いて来た。
「克哉、教室に忘れ物して取りに行くって言っておいて此処で何してるんだ!? 生徒会の全員が心配してたんだぞ、それなのにお前って奴は……大体此処は四階だろ、二年のお前が三年教室の階にいる意味は無い筈だぞ! 何で此処にいるんだ!!?」
「か…会長……これはその……か、会長には関係ありませんよ!」
「関係無い事あるか!! お前さっきまで此処で大声で叫んでただろ、おかげで下の階まで響いてたぞ! 此処で何やってた!?」
突如現れた男子生徒に塩見は完全に勢いを削がれる、この場所にいる理由を問い詰められ返す言葉が見当たらない様子の塩見に綾崎は追い討ちを掛けた。
「君、この子の保護者なの? そうなら話が早い、実はさっきまでこの子と僕とそこにいる冴えない二人組の四人で口喧嘩をしていたんだよ。どうにか僕が仲介になろうとしたんだけどいつの間にか僕も当事者になっちゃってね、ちょうど新しい仲介人が欲しかったんだよ!」
「な…あんた一体何言って…」
「僕は変な事一つ言っちゃいない、有りのままの事実を臆面も無く言っただけだ。当然ながら嘘偽りは混じっちゃいない、何なら命賭けても……あ、やっぱり止めとくよ」
「……克哉…今の話、本当か?」
口許を微かに震わせながら背の高い男子は塩見に尋ねる、問われた方は視線を逸らし無言で事実を認めるが次の瞬間に塩見は頭を強く叩かれた。
「…克哉……この馬鹿、何やってんだ!! 生徒会の仕事ほっぽり出してやってたのが口喧嘩だと!? 生徒会役員の一人であるお前が校内で問題起こしてどうなる、もっと考えて行動しろ!!」
「……はい…すいませんでした……」
男子生徒の怒鳴り声が廊下の隅にまで響き渡る、完膚無きまでに叱責を喰らった塩見は活気が削げ落ち一際顔色を暗くした。それに伴い私も気分が深く落ち込む、今眼前で繰り広げられた一連の事象が数日前の私自身と酷く似通っていている事がその原因だった。
「…お前は先に生徒会室に戻っていてくれ、後の事は俺が話をまとめておいてやるから安心しろ。くれぐれも寄り道はするなよ?」
男子生徒はそう塩見に告げるとこの場を去る様に促す、退散以外に道の無くなった塩見は一度綾崎の方を睨み付けると怒りを身体に満たしながら走り去って行った。一悶着のあったこの場所に束の間の静寂が流れる、その静寂を破る様に背の高い男子生徒は頭を下げ声を上げた。
「綾崎先生、本当に申し訳ありません! こちら生徒会の会計である塩見が出過ぎた真似をしてしまいまして……」
つい先程現れた背の高い男子生徒は躊躇う事無く平身低頭謝り始める、その様子を見ながらもまるで興味が無い面持ちの綾崎は床に落ちた本を拾いながら言葉を返した。
「…別にいいよ、僕は当事者じゃなくてただ巻き込まれただけだし……それより君、さっきの話から察するに生徒会の会長らしいね?」
「はい、今年度の生徒会長をやらしてもらっている『熱田春親』です。さっきの克哉の件は本当にすみませんでした、克哉ももう少し冷静さを保ってくれると有り難いんですけどね……」
「まぁ彼をそう責めないでくれよ、確かに喧嘩吹っ掛けて来たのはあの塩麹とかいう奴だったけどそれに乗っかってしまったそこの風見鶏とかいう奴も叱られる対象だよ?」
「…隊長、肝心の名前が全部間違ってますよ」
「それにね熱田君、僕は別の案件で君に聞きたい事があるんだよ……」
「……何ですか?」
綾崎は微笑みながらも鋭い眼光で熱田を見据える、そして手に持っている棒付き飴を相手の眉間に近付けると話し始めた。
「……風間何とか神大政君から前に聞いた話なんだけどね、生徒会が前々から僕達の放送部にちょっかい仕掛けてるみたいなんだよ、知ってた?」
「…隊長、俺にはそんなミドルネームなんかありませんよ」
「別にそれ自体は大した事じゃない、中学生と言えば阿呆面下げて無礼な所業をするのが定番だからね。でもね熱田君、僕の部下の二人はその件で酷く困ってたんだ……どうするこれ?」
「……すみません綾崎先生、俺自身もその件に関しては全く話にも聞いていないので……」
「……成る程…詰まり生徒会からの迷惑行為はさっきの男の独断だった、という訳か。よし熱田君、取り敢えずあの二人に謝罪してくれよ」
綾崎は飴の先で放送部の二人組を指し示すと熱田に謝罪するよう促す、その言葉に熱田は躊躇する様子も無く堂々とした姿勢で頭を下げた。
「…生徒会としてあるまじき事をして本当にすまない、これからは絶対に放送部にちょっかいは出したりしないと約束する」
「……部長、生徒会長から頭下げられるなんて二度と無いチャンスですよ! 写メ撮らせてもらいましょうよ!」
「…宮武、この状況でよくそんな言葉が言えるな、恥ずかしくないのか? 熱田さん、謝ってくれるならもう大丈夫です、頭を上げて下さいよ」
風間の返答に応え熱田はゆっくりと頭を上げる、その様子を眺めていた綾崎は更に笑みを強く浮かべると次は放送部の二人に視線を移した。
「よし、じゃあ風間君と宮武君、今度は君達が謝りなさいな」
「………え? ち、ちょっと待って下さいよ、何で僕達が謝らなきゃいけないんですか!? 先に仕掛けて来たのは向こうですよ!」
「そんな事ぐらい承知してるってば、でも相手の挑発に乗っかったのも事実でしょ? なら謝るべきだって、それとも君達年上のそれも生徒会長様に頭下げさせておいて自分達はふんぞり返るつもりかい?」
「……頭下げさせたのは隊長ですよ?」
「四の五の言わないの、此処で君達が謝れば万事丸く収まるんだよ? それにね……人は謝りたくなくても謝らなきゃならない時がある、年下や無能や明らかに向こうに非がある場合でも…社会には態勢って言葉がある、君達も大人になれば分かるよ…」
綾崎は眼を細め睨み付ける様な視線を風間と宮武に向ける、綾崎の言っている事はもっともな意見ではあるがそれを言っている本人が大人とは思えない為酷く説得力の無い発言に思えた。放送部の二人は俯きしばらく黙ったまま考え込んでいる様子であったが、顔を上げると静かに立つ熱田に向き直り頭を下げた。
「…会長様、何分不躾な真似をしてしまい大変申し訳御座いませんでした。どうかこの事は公言しない様にして下さいませ」
「……まぁ…部長が謝るんなら僕も謝りますよ………熱田さん、すみませんでした…」
放送部部長の風間に続き宮武も躊躇いながら頭を下げる、この様な形で互いに謝り合うという極めて異質な状況を目の当たりにした私はどの様な感情を持てば良いのか分からなくなった。同じ様に謝られた事に少々戸惑いを抱いているのは生徒会長の熱田、彼だけで無くこの場にいる全員が例え様の無い嫌な空気に毒される中で一人の男だけは楽しそうに笑っていた。
「アハハハハッ、皆何気難しい空気出してんの? 幾ら場が気不味いからって黙ってたら余計に気難しくなっちゃうよ? 取り敢えず互いに納得したんだから今回はこれで一件落着としましょう、二人共それでいいよね?」
「…隊長の権限は絶対です、反論の余地なんてありはしませんよ…」
「……てか仮に権限無くても隊長は有無を言わせず決定事項にしてしまいますけどね…」
綾崎の部下二人は不満と皮肉の込められた言葉を口にする、しかし当然綾崎はそんな事など何処吹く風といった具合に二人の発言には無視をした。次に綾崎は熱田の方に顔を向ける、綾崎の視線が当たった熱田は静かに言葉を発した。
「…今回の事は互いに忘れよう、その方がお互い引きずる事も無いし…いつまでも怨恨持っているのは悪いからな」
「……どうやら互いに後腐れは無いね、じゃあ辛気臭い話はこれでお仕舞いにしようか!」
「あの…一つ聞いていいですか?」
「ん? どうしたの熱田君、まさか今までの話は無かった事にとか言うんじゃ…」
「違います、さっきからそこで俺達の話立ち聞きしているあの人達は誰ですか?」
熱田は怪訝そうな表情で私と篠塚を指差す、事情を話すのが面倒で正体を教えるべきか悩んでいると綾崎が迷い無く答えた。
「あぁあの二人は警察の人だよ、そっちの女性が熊を生け捕りにした歴史を持つ刑事であっちの男が心に二百七十三の煩悩を持つ刑事だよ」
「…警察? 警察が何でこんな所に?」
綾崎の意味不明な説明により私達の素性が明かされてしまった、仕方無く私は警察手帳を取り出し正式な素性を明かす。
「私は刑事の柊だ、後ろにいるのは同じく刑事の篠塚、此処数日に発生した事件の捜査をしていた時たまたまこの現場に遭遇した次第だ」
私は嫌々ながら自分の正体と此処にいる経緯を話す、それを聞いた熱田は顔に表した怪訝の色を薄くした。
「警察の方ですか…それはちょっとまずいなぁ……柊さん、でしたよね? すみませんが今あった出来事は見なかった事にしてくれませんか?」
「心配せずとも此処で見た事は誰にも言わぬ、物事に大小の区別をするのは些か気が引けるが…この様な矮小な事件など別に取り上げたりしない。それにこの件は纏まった筈だろう、ならわざわざぶり返す様な真似はせん」
私の答えに安堵に満ちた表情を浮かべると熱田は私から視線を外す、逐一詳しい事情を説明する事も無く話題が終わったのは私にとっても都合が良かった。
「さぁさ熱田生徒会長様、こんな所で馬鹿みたいに時間潰している暇があったら早く立ち去って下さいませ。あ、そうだ…熱田君、ちょっと口開いて!」
「……こうですか?」
何やら嫌な予感しか感じられない命令に熱田は素直に従う、そうして開かれた口に綾崎は何の前触れも無く手にした飴を差し込んだ。突然の事で熱田は静止してしまう、その様子を眺めながら綾崎は不審な笑みを溢した。
「…甘いでしょ? それ良かったら君に上げるよ、僕との間接キスだからちゃんと丁寧に最後まで味わってよね?」
「……はぁ…い、頂いておきます……それでは、俺はこれで……」
この数秒間の出来事にどうやら男子生徒は困惑の色を隠せないらしい、驚いた表情のまま足を後退りさせると徐々に速度を上げ廊下の向こうに消えて行った。
廊下に残されたのは男子二人と成人男性二人と女性一人、まさに嵐の後の静けさが辺りに立ち込める中で一番初めに口を開いたのは私だった。
「……綾崎よ…幾ら何でも今のは流石に頂けないな……」
「……え? 何でですか、理由を述べて下さいまし」
「いや…理由と言われても……思春期真っ盛りの男子生徒と飴を共用するというのは…如何せんよろしく無いと思うのだが……」
「……柊さん…見掛けによらずやらしいですね、さっきの出来事をそういう観点で見てたんですか? 僕はやましい気持ちなんて少しもありませんよ? それに相手が健全な男子だから良かったじゃないですか、場合によってはそれ以上の事させられたかもしれませんよ?」
「……やはり貴様、確信犯か…」
私はそう呟くと肺から大きく溜め息を吐く、私の中でこの男への不信感が次々と積もっていくがそれとは逆に男に全幅の信頼を寄せる人物もいた。
「…隊長、今回の件は本当に有り難く思います。あそこで偶然隊長と出会さなかったら今頃殴り合いに発展して放送部が無くなる所でした、本当に隊長は頼れる存在です!」
「またまたぁ、心にも無い事口にしたって僕は口説き落とせないぞ。それに君だって凄いと思うよ、生徒会の役員と口喧嘩するなんて大した度胸だからね! それにしても君って結構性格荒いね、あの迫力ある反論には盗み聞きしてた僕も愕然としたよ!」
「いやぁそれ程でも……ってちょっと待って下さい、隊長今盗み聞きしたって言いました?」
「うん、言ったよ。君達があの塩漬けとか言う奴と口喧嘩するのを黙って聞いてたんだ、僕陰ながら見て応援してたんだよ?」
「………だったらもっと早く仲裁に来て下さいよ!! さっきから何で黙って見てるだけしかしなかったんですか!!?」
「だって……僕喧嘩弱いから二人が繰り広げる壮絶なしばき合いなんて仲裁出来っこ無いよ! クロスカウンターが見事に僕の両頬捉えならどうするの!?」
「誰もそんな筋力で服破ったり高速パンチ喰らわせる様な真似しませんよ!! 隊長も教員なんですから教員らしい事して下さいよ!!」
「失礼だな君は、僕の評判が落ちる様な真似しないでくれよ。それに風間君の意見だけじゃ割に合わない…宮武君、君はどう思うんだい?」
「………僕は全面的に隊長に協力する構えです!」
「な……お前宮武、そこは俺に乗るのが筋ってものだろうが!」
「……ごめんね部長、僕は生まれて此の方長い物には巻かれろ精神でやってるんで…」
「……お前さっきの口喧嘩では俺に加担してただろ!! 部員なら顧問より先に部長に付き従うのが…」
「あの…ちょっといいかな?」
放送部の顧問と部員達の揉め事を止めたのは彼等の声に掻き消されそうな篠塚のか細い声、今まで私の後ろで黙り込んでいた篠塚は前に進むとある人物に話し掛ける。
「…君、『宮武』って名字だよね?」
「……そうだけど…それがどうしたの?」
「……ひょっとして下の名前…『明宏』だったりする?」
「……当たり……何で僕の名前知ってるの?」
「そこの煩悩三百二十八号、何変態みたく人の名前聞いてんの? まさか僕の所の宮武君に唾付けようってんじゃないよね?」
「そんな気なんて更々無いよ、僕を変質者呼ばわりしないでくれ。それに僕の名前は篠塚だ、いい加減名前ぐらい覚えてほしいよ……」
「…篠塚……どうしてこの男子生徒の名前を知っているんだ? 会った事も教えた事も無い筈だが……何故知っている?」
私はつい自然と疑問を投げ掛ける、それに反応して篠塚はポケットからいつも使っている手帳を取り出し開いた。
「……柊さん、今日の朝僕に頼み事をしたの覚えてますか?」
「…確か昨日の遅刻者及び欠席者の確認と現場で見付かった辞典の貸出人の調査をしてくれ、と言ったが……」
「その通りです、それで僕はその後調べたんですが……遅刻者と欠席者は置いといて辞典の貸出が判明しました……それが彼です」
「………え……僕?」
「…あの辞典の貸出人の名前は『宮武明宏』、間違い無く此処にいる彼の事です。君、三週間前に辞典を借りてまだ返していないよね?」
「……そうだけど…それがどうしたの?」
私は言葉が出なくなった、今まさに眼前に存在する事実に私は驚きを隠せ無かった。すぐ近くに佇んでいた意外な参考人は未だ何の事か分からず辺りを見渡している、高ぶりそうな感情を抑えながら私は震えた声で言葉を溢す。
「……まさか…こんな所に容疑者がいたとはな……」
「…宮武君、残念だけど君はとんでもない事に足を突っ込んでたみたいだ。まぁそんなに気落ちする事は無い、最悪そこの人に首引き千切られるだけだからね…」
綾崎は相変わらず楽観的且つ不謹慎な発言で空気を乱そうとする、そして私と綾崎の発言でより一層混乱を招いた宮武は私と綾崎を交互に見詰めた。今此処で何が起こっているのか分からない、私と恐らくこの場にいる全員が同じ気持ちである事を願った。
私は突如鈍い頭痛と立ち眩みに見舞われる、まるで頭の中に霧が掛かった様な錯覚が私の心に焦燥を生んだ。そんな霧中に私は一筋の光を見た、それは未だ本心を明かさず付随の者達を混沌に追い遣る事を好む男の静かで暗く煌々とした眼光だった。
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