其の呂1
四階男子トイレの怪
学校の南側、四階の廊下にある男子トイレには奇妙な噂がいくつか流れていた。どれも聞いただけでは信憑性は無いと思われ、その話をした生徒は決まって馬鹿にされるのが落ちであった。しかし中には顔を青くして必死に言い寄る生徒もいる、今回はその噂の中からいくつか本当にあったと見られる話を紹介しよう。
四階にある三年四組の教室には遅くまで残って本を読みふける男子生徒がいた。彼は毎日の様に放課後は自分の教室で本を読んでいる、家では親が勉強しろとうるさいので彼が教室で読書をするのは日課だった。 ある日の事である、いつもの様に放課後男子生徒が本を読んでいると急に尿意を催し彼はトイレに行こうとした。ドアを開け廊下を見ると男子生徒は身震いした、いつの間にか廊下は暗くなり人影は全く見えなくなっていたのである。しかし尿意を我慢出来なかった男子生徒は脇目も振らずトイレに向かった、彼が向かったのは教室のすぐ隣にある男子トイレだった。男子生徒は急いでトイレに駆け込むと電気を点けすぐに用を足した、トイレの中には誰もおらず少し薄暗かったが今の彼は気にしなかった。用を足し終えると男子生徒は洗面台に行き手を洗う、そして電気を消しトイレから立ち去ろうとしたその時だった。トイレの奥から微かな笑い声が聞こえ見ると奥の個室トイレのドアが閉まっていた、先程見た時は閉まっていなかった筈だし人が入って来たら分かる筈なのでドアが閉まっているのは不思議である。男子生徒が首を傾げると今度ははっきりとした笑い声が聞こえる、男子生徒は急に怖くなり急いで教室に戻った。
男子生徒は教室のドアを開けるとすぐさま帰りの支度を始めた、教科書やノートを鞄に詰め込むと教室の電気を消し勢い良く教室から飛び出した。しかし帰る前に男子生徒はトイレの前を横切った、その時彼は一番奥の個室のドアが開いている事に気付いた。本当は怖くて堪らなかったが、男子生徒は怖い物見たさの好奇心に負けゆっくりとその個室トイレへと向かって行った。一歩ずつ進みトイレの奥まで近付くと男子生徒は静かに個室トイレの中を覗く、そこには想像を絶するものが存在していた。個室トイレの中は赤黒い液体で塗り潰されておりその色と同じ色をした男が天井から逆様に吊り下げられたままこちらを見詰めながら笑っている、それはまさしく此の世のものでは無い事は理解出来た。男子生徒は鞄を落とすと悲鳴を上げながら走り去った、翌日の朝男子生徒がトイレに向かうと普段と変わらぬ姿のトイレに男子生徒の鞄だけが残されていた。
さて、それではもう一つこのトイレに纏わる話を紹介しよう。
そんな話が出始めた為かその四階の男子トイレは格好の肝試しスポットと化してしまっていた。その日も噂を聞いた一人の男子生徒が放課後に四階男子トイレに行き幽霊の姿を見てやろうと意気込んでいた。日が地平線に半分程沈んでしまった頃、その男子生徒は噂の発端となった校舎南側の四階の男子トイレの一番奥の個室トイレに身を潜めた。噂に聞く幽霊とやらをこの眼で見てみようと男子生徒はただ静かにその時を待っていた、日が沈み辺りが一層闇に覆われても男子生徒は待ち続けていた。
しかし何十分待っても幽霊どころか人影一つ出て来ない時間が続いた、男子生徒は自分の聞いた話が所詮噂だったのだと考えながら個室から出て行こうとした。だがその時男子生徒は話に聞いた微かな笑い声を聞いた、個室のドアを開く手の力が弱まり男子生徒は個室トイレの中を見渡した。笑い声は徐々に大きくなっていき男子生徒が恐怖心に苛まれているとその声の主が姿を現す、トイレの真ん中に設えてある和式便器の中から突然赤黒い色をした細い腕が這い出て来たのだ。男子生徒は今までに出した事の無い様な叫び声を張り上げると、乱暴にドアを開け死に物狂いで逃げ去った。
後で気付いた事であるが、男子生徒が勢い良く飛び出して来たのはなんと三階の男子トイレであった。彼は確かに四階の男子トイレに隠れていた筈だがいつの間にか三階の男子トイレに移動していた、何故だか分からない説明不能なその事実に一番驚いたのは他でも無いその男子生徒自身だった。
以上がこの男子トイレで起きたと噂される話である、しかし彼等が体験した現象が果たして本当の出来事だったのかは誰にも説明が付かないのが残念ながら現況なのだ。だがその後もこのトイレには不思議な噂が絶えないでいる、洗面台の鏡を見ると自身の後ろに逆さ釣りの男が映る、校内に迷い込んだ猫を追い掛けトイレに入ると黒い女が不気味に笑い掛ける、などの新しい話は次々と生み出されているのだ。
もしこの話を聞いた貴方が馬鹿馬鹿しいと思うのならば一度訪れてみるのが良いだろう、ただし次に起こり得る怪奇が貴方自身に危害を加えないという保障は出来無いが……
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肌を通じて頭から発信される寒気という電気信号を身体が感じている頃、私は掌を擦り会わせながら微弱な熱を自給自足で生み出していた。寒さが身に凍みる度に何故か静かな眠気に取り憑かれてしまうが、それは私の頭が好調である事の裏付けであった。今まで響いていた鈍い頭痛がまるで虚構であったかの様に私の頭は数日振りの青天に心踊らせている、これが平素なのだという事実にはまだ完全に慣れておらず妙な違和感を頭に感じていた。
無意識の内に瞼を閉じこの希望僥倖一つも見出だせない世界から退場しようと試みるが、私の理性が覚醒を促し続け否応無くこの世界に繋ぎ止められてしまう。今の私は何から何まで投げ遣りな感情である、それは連日続いた悪夢の連鎖により生じる精神の憔悴が原因である事は間違い無かった。だが本心はどうあれ建て前だけは決して崩せずにいる、外観と内装の板挟みに私が頭を悩ませるがすぐ眼前に存在する男達はそんな私の様子など気にしていないのだろう。
「……うん…成る程…中々薄気味悪い話だね、まぁ学校の怪談としては良い方なんじゃないかな?」
「お褒めに預かり誠に光栄です、本来ならその言葉はこれを作った二人に言ってもらうと有り難いんだけどなぁ……」
「まぁ…確かにこれは中々評価されない代物だと思うよ? 書いた本人がいないから言うけど、これは悪趣味な事此の上無い話だ」
男は手に持つ薄い冊子を閉じるともう片方の男に渡す、冊子を受け取った男は悲しそうな顔を浮かべると溜め息混じりに答えた。
「はぁ……良い考えだと思ったんだけどなぁ、まさかこれ程までに七不思議に興味を持ってくれる人がいないなんて…全く、世も末だよ」
「世も末って……何もそこまで落ち込む必要は無いんじゃない? 確かに七不思議は浸透しなかったみたいだけど、最初からこうなる事は予想済みでしょうに」
「予想済みだったらこんなに落ち込んで無いよ! 折角皆が喜んでくれると思って何冊も刷ったのに、これじゃとんだ資源の無駄遣いだよ…」
「……ちなみに幾ら刷ったんだい?」
「…ざっと五十部って所かな、そこから僕と僕の部下二人に一部ずつと見知らぬ生徒に二部渡したから…残る在庫は四十五部ある……」
「…四十五部、かぁ……確かに冗談や笑い事では済まされない部数だね……」
「同情の念があるなら一部貰ってよ、今ならこの冊子に靴下片方だけ付けてお値段そのままにするからさ」
「…え? これって有料なの?」
二人の話の内容を聞いているだけで堪えている眠気がより一層強いものとなって襲い掛かる、刻々と経過する無駄な時間に身を任せるこの行為に私は一時の安息に浸っていた。しかし私に課せられた責務の時間をこんな場所こんな連中にくれてやる訳にはいかない、瞼を思い切り閉じ小さく開くと私はようやく口を開いた。
「…そこの二人……話の腰を折る様な真似をして済まないが、いい加減話を進めさせてもらっても良いだろうか?」
「…柊さん、起きていたんですか? それならそうと言って下さい、知っていたらこんな無駄話していませんでしたよ」
「無駄話って……本人目の前にして言う台詞じゃないよ? それより何とかさん生きてたんですね、てっきり日頃の憤慨と仕事のやり過ぎで過労死したかと思っていたよ!」
「…それが私への開口一番か、どうやら貴様は人の気持ちは考えないのに人の気持ちを踏みにじる事だけには長けているらしいな」
「そいつはどうも、僕を非難する気持ちは分かるけど僕にすればそれが当然の事だから今更言われたって憤り一つ感じないよ?」
男の平然とした物言いに私はしばらく振りの怒りを感じずにはいられなかった、だが所詮この男の前ではそういった叱責や憤慨は無用の長物なので私は仕方無く心を落ち着かせる。
「…それで、用件とやらはもう済んだのか?」
「用件? 何ですか用件って?」
頭では分かっていながらも私の感情は自然と表裏無く姿を現してしまうらしい、座っていた椅子から音を立てて立ち上がると私は綾崎の襟首を掴み声を張り上げる。
「貴様が行きたいと言ったから仕方無しにこんな所へ連れて来てやったんだろう!! いい加減その物忘れの振りを止めろ、貴様はまだ惚けるのには若過ぎるだろうが!!」
「僕はまだ惚けちゃいないよ? あ、でも別の意味では惚けてるかもしれないけど…」
綾崎の対処の仕様が無い言葉に私は何と反論すれば良いのか分からず、結局困り果てると綾崎から手を放し座っていた椅子に戻った。
「……さてと、それで何の話だったかな? 確かその………もしアダムとイヴとの結婚式に突如略奪愛という名目で浦島太郎が出て来たら、みたいな感じの話だったっけ?」
「…撃ち殺すぞ、貴様……」
「………何か妙に強い殺気を覚えたから冗談はこのくらいにしておきますか。それで早速本題ですが……そこの眼が死んで顔色の悪い御仁、僕は貴方に話があるんですよ」
「私には文島という名前があります、ちゃんと最初に教えた筈でしょう?」
「いやぁ済みませんね、他人の名前を忘れるのが最近の僕の趣味でして…」
「……まぁいいでしょう、君が私の言葉を一言一句聞き入れる可能性など無いに等しいですからね。それで…私に一体何を聞きたいんです、私に答えられる範疇でお答えしますよ?」
文島は呆れた様な表情を見せながら坦々とした口調で話す、その言葉を聞いた綾崎は手の指を互い違いに組み合わせると嬉しさを表情一杯に表せながら口を開いた。
「では早速お尋ねします、新たに発見された第三の被害者『石飛義巳』の司法解剖の結果を教えて下さい!」
「…柊さん、本当に大丈夫なんですか? こんな得体の知れない男に捜査内容を教えてしまって…彼は元々殺人の容疑者でしょう?」
「乗り掛かった船という奴だ、この男と関わった以上これは避けられぬ道なのかもしれない……それに心配するな、その男は発言こそ変わっているが少なくとも殺人を起こす様な男では無い、私が保証する」
私は文島の眼を見てそう答える、その眼には未だに疑いの色が抜けていないが私の言葉で一時的に納得したのかそれ以上は不平を溢さなかった。しかし正直に言うと私も綾崎という男を完全には信用出来てはいなかった、この男が得体の知れない存在だからという理由もあるが何よりもこの男の眼に私は酷く畏怖の念を感じたからだ。だがそれはあくまで私個人の意見でありこの男が危険人物だという証拠は無い、私の不安など感じる素振りも見せず文島と綾崎は話を始めた。
「…柊さんからの御墨付きを貰ったから話すけど、今から話す事は安易に口外しないで下さいよ?」
「大丈夫です、僕はこう見えて口が固い方だから」
「……第三の被害者『石飛義巳』の死因は後頭部の打撲による頭蓋骨陥没が原因だと思われます、それ以外にも上半身の至る所に打撲傷が見受けられ左右両方の腕と肋骨など合わせて六箇所の骨が折れていました」
「…何だか死因が釈然としないなぁ、司法解剖したんだから死因くらい明確な筈でしょ?」
「検死に連れて来られた死体の全てが司法解剖出来る訳じゃないんです。年間に司法解剖出来る人数は実際に連れて来られる死体数よりも遥かに少ない、だから死因が解剖せずとも分かる場合は司法解剖には回さないんです」
「ふぅん……でも、もし被害者が薬殺とかされて殺された場合は死因を間違えちゃうんじゃないの?」
「まぁ確かにそういった事例は無くは無いですが……今回の場合はそれとは違うでしょう、毒薬を飲ませてから撲殺するのは不自然ですしレントゲンを撮って後頭部を確認すると鬱血の跡がありましたから間違いありません」
「…成る程、そりゃ死因は撲殺で決まりだ。でも問題は…何故犯人がそんなまどろっこしい事をしてるのか、じゃない?」
「…それは……済みませんが私の知る所ではありません。そういう話題でしたら私より柊さんの方が得意ではないんですか?」
文島は困った様に顔をしかめると私に視線を合わせてそう答える、指名された私は二人の視線を感じながらもゆっくりと口を開いた。
「……詳しい事と言われても私にはこの事件の真相など雲を掴む様なものだ。だが私の推測からして……犯人は一連の被害者達に何等かの怨みを抱いていた、それもただ憎むのでは無く死した人間にあれ程酷い処置をしたとなれば…犯人は余程被害者達を怨んでいた事になる」
「成る程…つまりこれは怨恨による殺人、そうなると被害者達は犯人の怨みを買う様な真似をしていた、と断言してよろしいですかね?」
「あぁ……いや、もしかしたら犯人は死体を破損させるのを楽しんでいるのかもしれないし…怨みと言っても所詮犯人の逆恨みなのかもしれないが…」
「…結局詳しい事は分からない、って事ですか? 何だかんだで行き着くのは不明の極致ですか……まぁ僕は嫌いじゃないですよ?」
綾崎は残念そうな表情を浮かべるがすぐに満面の笑みを表すと私を見詰めた、結局目新しい情報を思い付けぬままに話を終わらせてしまった私にはその視線が酷く痛いものに感じた。私は自分の周りに立ち込める気不味い空気を取り払う為話題を切り替えた。
「…そうだ、被害者の眼が抉られていた事に関する検死結果はどうなっている?」
「あぁそういえばそれをまだ話していませんでしたね、ちょっと待って下さい…」
そう言うと文島は後ろを振り返ると机の上に置かれていた書類を手に取り話し始めた。
「…被害者が眼球を抉り取られた、というのは既に周知の事だと思います。ちなみにその眼球は被害者の手の中に握り締められていたみたいです。鑑識の方々が被害者の眼の辺りは調べたようですが、残念ながら指紋は検出されませんでしたね」
「そうか……なら硝子玉はどうだ? 被害者の眼窩には眼球の代わりに硝子玉が埋め込まれていたが、あれは何だ?」
「あの硝子玉ですか? あれは…恐らく剥製の義眼でしょうね」
「…剥製? 剥製って…あの鳥類が土台に乗ってる、あれの事か?」
私は随分と馬鹿な質問をした、普通剥製と言ったらそれしか無くそう捉えるのが当たり前であるが文島は蔑む様子も無く頷きながら答えた。
「はい、その剥製に使われている硝子製の義眼です。警察の調べによると一週間程前に理科準備室に置かれていた梟の剥製が何者かによって頭を切り取られその頭だけを奪われるという事件が起こっていたみたいです。そこから推測するに今回の被害者の眼に埋め込まれていた物はそれであると考えられます」
「つまりこういう事? 犯人はわざわざ死体の眼を抉り抜き予め理科準備室から盗んだ梟の眼と入れ替えた、でもそんな事なんで犯人がしなきゃいけないんだろう?」
「それは今の所犯人にしか知り得ぬ情報だ、だが少なくともあれが自然に出来たものでは無いだろう。犯人の意図は未だに分からず仕舞いだ、何だか……考えるだけで頭痛が再発しそうだ…」
私は掌で頭を押さえ付けるとそのまま項垂れる、悪夢とも言える犯人の惨劇の舞台で無駄に踊らせる様な感覚を私は自身の中から消せないでいた。眼を閉じると浮かび上がって来るのはあの忌まわしい凄惨な死体の数々、思い出す度に私は酷い悪寒を身体中に走らせていた。
私が沈黙に突入するとそれに釣られたのか残りの二人も私に合わせ沈黙に入る、静寂に包まれた部屋はその暗さとあいまって不気味な雰囲気を作り出していたが今の私には何故かそれが居心地良かった。この部屋に居座る静寂に全てが飲み込まれてしまいそうになった時、綾崎は突然声を上げた。
「…そうだ、こんな辛気臭い話はもう止めにして楽しい楽しい恋バナでもしませんか!?」
「…綾崎……この状況でよくそんな悠長な事を言えるものだ、私も貴様のその自由奔放なのが羨ましいよ……」
「あれ、それってもしかして僕の事馬鹿にしてます?」
「分かっているなら今の言葉しっかり胸に仕舞っておいてくれ、もっとも私の言葉など貴様からしてみればどうでもいいのかもしれんが……」
「流石は柊さん、僕の事をよく理解しているとは感心感心」
綾崎はまるで生徒を誉める教師の様な口調で答える、確かに今の所教員という役職についている為反射的に出た言葉とも取れるが私にはどうしても綾崎が私を愚弄している様にしか感じられなかった。
「…さてと、多少話題が逸れちゃったけど早速僕の恋の質問にお答え頂きましょうか」
「……え? もしかして、その話私にしてます?」
「…他に誰がいるってんだよ、柊さんの恋バナは何とも味気無くて面白さの欠片も無かったけど貴方の話には期待しますよ?」
「……文島、嫌だったら断る権限も有るんだぞ? わざわざこんな男の幼稚としか言い様の無い話題に付き合ってやる必要など…」
「私はもう既に結婚しています、今は家内と二人で同棲してます」
「……文島、今の私の話聞いていたか?」
「まぁ良いじゃないですか柊さん、私も此処最近妻と貴方以外他の誰ともまともに話していないんです。丁度良い話し相手が見付かったんです、少し変な所もありますが…」
文島は嬉しそうな表情を作ると顔を綾崎の方へと向けた、この男がこれ程に嬉々としている姿を見るのは私の記憶ではかなり前の事である。
「少し変な所ってのは聞き捨てならないけど、話し相手なら幾らでも乗ってあげるよ? そういえば貴方って今までにどのくらいの人と付き合ったの?」
「私ですか? そうですね……高校時代に付き合って人がいましたが大学進学の前に別れてしまい、今の職に就いてから出来た恋人が現在の妻です」
「へぇ、そうだったんですか! ちなみにその高校時代の彼女ってどんな人でした?」
「そ、それは………個人情報なので教える事は出来ませんが…髪が長くて、とても綺麗な人でした…はい……」
「……ん…何か勝手に黄昏てるけど、そんな事されちゃ一人興奮してた僕がまるで馬鹿みたいじゃないか!!」
「……ようやく理解してくれたか…」
私は綾崎に対して軽い皮肉をぶつける、しかしその声は囁き程のものだったので綾崎の耳に入る事無く肌寒い室内に消えていった。
「……ま、まぁ私の話はこれくらいにして今度は貴方の番ですよ? 貴方の恋愛経験を教えて下さい」
「あぁ僕の恋愛経験ねぁ……それは……御免けど教えられない」
「……どうして?」
「だって……それって個人情報でしょ? 僕プライベートな事をあまり口にしたくないタイプだから……」
「それは狡いですよ、私は少なからず秘密を話したのに自分だけ言わないのは卑怯です!」
「どうとでも言って下さい、所詮この世界さきにうっかり口を滑らしてしまった方の負けなんですから」
綾崎と文島は互いに笑みを溢しながら童心に返ったかの様に話し続けた、その様子を端から見ていた私は落ち着きの無い焦りと遣り場の無い怒りに苛まれていた。それは別に私一人が話から仲間外れにされた事によるものでは無い、今この場を支配する気の抜けた空気に嫌気が差し始めていたからだ。
私は頭を抱え少しでも事件解決に結び付く手掛かりについて考えていると、突然私の身体は外部から発せられる振動を感じ取った。私は振動のする場所を手で探るとポケットに手を入れる、中にある携帯を取り出すと着信相手の名前を確認してから電話に出た。
「…柊だ、篠塚どうかしたのか?」
『どうかしたのか、じゃないですよ!! 僕一人だけに調べ物押し付けるなんて酷いですよ! 柊さんは綾崎って人と一緒に何処かに行ったきりで連絡も無いし、一体何処にいるんですか!?』
「ん、私か? 私は今綾崎の奴と共に監察医の文島の所に来ている、そこで第三の被害者について聞いていた所だ」
『そうだったんですか、それで何か犯人に繋がりそうな物は見付かったんですか?』
「いや…それは……」
私は次の言葉に困りそのまま一言も話さず黙り込んでしまう、そんな私の対応に不満を抱いたのか篠塚は電話越しに声を張り上げた。
『勘弁して下さいよ!! 僕があれからどれだけ頑張って事件について調べたと思っているんですか!!』
「あぁ済まない、私も悪いとは思っている。だが私の方も決して遊んでいた訳では無い、この男の世話をするだけで手一杯なのだからな」
『まぁ…それは僕も嫌という程知っていますが……それで今その世話されている人は何をしているんです?』
「………今監察医の文島と賑やかに談笑している、何ならこの男そっちに預けようか?」
『それだけは勘弁して下さい、その人と一緒にいると何が起こるか分かったものじゃありませんからね』
「…言えてるな、この男と一緒にいたくない気持ちは私も同じだよ。それよりも篠塚、私に電話したのは何か用件があるからじゃないのか?」
『あ、そうでした。話が横道に逸れてしまいました、早速本題に入ります』
電話の向こうにいる篠塚は一つ間を置くと話し出した。
『柊さんに言われた通り三つの殺人事件について詳しく調べました、それと例の中学校についてもそれなりに…』
「…そうか…ご苦労だったな篠塚、それで今から会って話がしたいといった所か?」
『流石は柊さんですね、僕の言おうとしている事を先に言ってしまうなんて……あ、それで何処で落ち合いますか?』
「そうだな……休憩室はどうだ? あそこなら今の時間帯は人が少ないだろうからな」
『分かりました、すぐに向かいます!』
篠塚はそう言い終えると素早く電話を切る、終わりを知らせる電子音を数回耳に入れると私は電話を切り綾崎の方に眼をやった。見ると綾崎も文島もいつの間にか私の方を見詰めている、私が口を開こうとすると先に二人が喋り出した。
「柊さん、先程の電話の相手は誰ですか? 聞いた限りでは若い男性の声に聞こえましたが……」
「さっきの声は確か……そうだ、いつも貴方の周りで目障りに付き纏っているストーカーもどきの野郎ですな!」
「正しくは私の部下に当たる篠塚将也だ。悪いが篠塚の事を愚弄するのは控えてくれないか、端から聞いているこちらの耳が痛いだけだし篠塚の方も貴様の事を嫌っている様だからな」
「ほうほう、それはまた結構な事じゃないですかい。僕を毛嫌いするなんて百兆年早いですぜ、今度会ったらまた注意してやらねば…」
綾崎は怒る様子も無く指を組むと薄い笑みを浮かべる、どう見ても悪い笑顔にしか見えない表情に私は一抹の不安を抱きながらも本題に入った。
「綾崎には悪いが今から調べ物を終えた篠塚と会わなければならなくなった、貴様が嫌がっているのは分かるが文句は言わず付き合ってもらうぞ」
「嫌ですよ、何で僕みたいな人間があんなのと一緒にいなきゃならないんですか!? そんなに行きたいなら勝手に一人で行けば…」
私は綾崎が言葉を言い終える前に手を出した、悪びれる様子も無い綾崎の胸倉を掴むと椅子から引き剥がし無理矢理身体を引っ張る。突然の出来事に動揺の色を隠せない様子で私を見詰める文島に、私は平然とした態度で言葉を掛けた。
「済まんが話し相手なら他を当たってくれ、私達にはまだやるべき事が山程あるのでな…」
「……は、はい…分かりました……」
文島は驚いた表情を変えぬまま私と綾崎を見送る、しかし私達が部屋から立ち去ろうとすると文島が後ろから呼び止めた。
「あの…柊さん」
「ん? どうしたんだ、まだ何か伝えていない事でもあるのか?」
「いえ、そういう訳では無いんですが……その…もし時間があればまたいらして下さい、私で良ければいつでも相談に乗ります…」
「……フッ…ではまた何か知りたくなったら訪れてやろう、その時までに事件の手掛かりでも集めておいてくれ……まぁ、期待はあまりしていないが…」
私は文島に薄く笑みを溢すと綾崎を引き連れ薄暗く肌寒いこの部屋から退場する、背中に感じる視線を扉で封じると待ち合わせ場所の休憩室へと歩を進めた。相変わらず無機質で変化の無い廊下を歩く私はふと天井を見上げる、そこには絶え間無く煌々と光り続ける設えの電灯が私の姿を無表情に見下ろしているだけであった。
検死室から退室して大体五分程経ったであろうか、右手に綾崎の胸倉を掴みながら歩き続けてようやく目的地へと到着した。私は視線を向けると壁に備え付けられている窓硝子の向こうには漆黒の深海とその中に点在する淡い蛍火が見える、私は徐に腕時計を確認すると既に現時刻は九時を越えた辺りであった。いつの間にかこれ程に時間が進んでいたのかと私は内心小さく驚いた、道理で眠気が酷く襲ってくるのだと頭を働かせると私は眼を瞑り親指と人差し指で目頭を強く押さえ多少眠気を紛らわせた。
視線を窓から周囲に向けると私はこの場所全体を広く見渡す、幾ら眺めてみても視界に映る景色が変貌する訳でも無く窓から覗く外の闇が作用したのか休憩室は一段と物悲しい色を私に見せ付けていた。しかしそんな寂しげな場所にも生気ある一つの人影が椅子に座り私を見詰めていた、私は人影のいる場所に近付いて行きその人影が誰のものであるのか十分に確認出来る距離まで詰め寄った。
「早かったな篠塚、いやそれとも我々が遅かったのか……」
「それはどちらでも構いませんよ、それより互いに集めた情報を話し合いましょう。どうぞそちらにお座り下さい」
私は篠塚が促す通りに互いが対面する様な形で座る、その横に綾崎を無理矢理座らせると開口一番篠塚に食い付いた。
「これはこれは、誰かと思えば頭からしゃぶり付ける干物みたいな面構えをしている篠塚君じゃありませんか! 言っとくけど僕はまだ君みたいなのに心許した訳じゃないから、気安く名前なんか呼んだ日には生まれた事を後悔させてやるよ?」
「どうせこうなるだろうとは予想していたよ、心配しなくても僕も君と話し合う気は無いから安心してくれ」
篠塚は綾崎を一瞥すると吐き捨てる様に口早に呟いた、その言葉で綾崎が不機嫌そうに顔をしかめると篠塚は話し始めた。
「…ではまず柊さんが集めた情報を教えて下さい、確か監察医の文島さんに第三の殺人について聞いていた筈ですよね?」
「あぁ、そうだが……文島から教えられた情報を話そう、あまり期待はしないでくれよ…」
篠塚は胸ポケットから手帳を取り出すと手記の準備を整えた。私は頭を数回掻き乱すと嫌々ながら口を開く、私の知り得る情報は情報と呼べる程のものとはとても思えず口に出すのを少々躊躇っていたからだ。私は文島から聞いた話を自分なりの言葉にして話す、本筋を崩さない様に話し続ける私の言葉は端から聞けば酷く不恰好なものに感じられる気がした。一頻り話すと私は大きく深呼吸をする、息を吐き終えると私の顔を見ながら篠塚は口を開いた。
「……成る程…柊さんには悪いですが確かにこれといった手掛かりはありませんね、でもその首を切り取られた剥製というのは多少なりと捜査に役立つかもしれませんよ? 盗まれた剥製の首の居場所の特定は難しいですが首から下が健在なら指紋が採取出来る可能性があります、理科準備室なんてそんなに人が立ち寄る様な場所じゃありませんからこれは犯人特定に繋がるかもしれませんよ!?」
「…まぁ…それもそうだな……」
「……柊さん、どうかしたんですか? 先程から何だか気力が無くなっている様に見えますが…」
篠塚は怪訝そうな表情で私にそう尋ねる、私は答える事にさえ嫌気が差していたが此処で返答を突っぱねるのも悪い気がするので仕方無く答えた。
「…いや、篠塚が粉骨砕身で捜査していて悪いが……どうやら私も疲れが相当溜まっているらしい。此処最近満足に睡眠も取って無いし、今日は今日で内容がひたすら濃い一日だったからな……どうしても眠気が勝ってしまう……」
私は自分の中に溜まっていた本音を遺憾無く吐露する、眠気が神経を支配しているせいか普段は口に出さない気の抜けた言葉を淀み無く言い連ねた。しかし全てを言い終えた後で私は自分の言っていた言葉が全て愚痴である事に気付いた、恥知らずな発言をしてしまった私は自責を含めた弁明をする。
「…済まない、どうやら少々言葉が過ぎてしまったらしいな。私とした事が…これでは汗水垂らして捜査している他の刑事に嫌味の一つ言われても文句は言えないな……」
「…べ、別に僕は気にしていないんでそんなに気落ちしないで下さい! ほら、柊さんは女性なんで僕達男よりも体力面では劣りますし…」
「相変わらず返しが下手だな、その言葉聞く者によっては男尊女卑と取られても仕方無いぞ? まぁしかし…多少の気晴らしにはなったよ、心配させて済まなかったな」
私は小さく頭を下げ篠塚に礼を示す、その意味を捉えた篠塚は何も言わず次の話へと移った。
「…では次は僕が集めた情報です、と言ってもこちらも柊さん同様に大した成果は得られませんでしたけどね」
「有用な情報か否かはこちらが判断する、取り敢えず分かった事を教えてくれ」
「はい、分かりました」
篠塚はそう言うと手帳を捲り始める、そして一つのページに差し掛かると小さく間を置いてから話し出す。
「まず第三の殺人ですが、第一発見者は体育館で練習の準備をしていた数名のバレー部員でした。凶器の金属バットから指紋は採取出来ず、また被害者の身体からは犯人と特定出来る物は一切ありませんでした」
「…そうか……死亡推定時刻は?」
「今日の八時頃だと思われます、その時間帯は教員も数える程度しか来ておらず生徒もまだ来てなかったので体育館及び前の廊下には人がいなかった様です」
「その日の早朝に起きた殺人か……待て、体育館の倉庫で死体が発見されたがそもそも犯人はどうやって体育館に侵入したんだ? まさか体育館の鍵をくすねた、という事か?」
「はい、僕もそう思ったので調べましたがその日体育館の鍵は盗まれていなかったみたいなんです」
「鍵が盗まれていない? なら犯人は鍵も無く侵入したという事か!? そんな馬鹿な事があるか、大方教員の確認ミスじゃないのか?」
「まぁそういう見方もありますが……考えてみれば第二の殺人だって鍵の掛かった調理室で起こったのですから、今更な疑問かもしれませんよ? 第一発見者のバレー部員は自分達が来た時は体育館には鍵が掛かっていたみたいですし、調理室に鍵が掛かっていたのは柊さんが一番分かっている筈です」
「…鍵を使わず殺人現場に侵入した犯人……つまり密室殺人という事か? 全く……分からない事だらけだよ…」
私は肩を落とすと力無くそう呟く、未だ先の見えない漆黒の中を彷徨う私は心底疲れ果ててしまっていた。話を聞く度に自分の無力さを否応無く痛感させられる、しかし眼を背けられない現実に逃げる事は出来ず私はただ進む以外に他無かった。
「……第三の殺人についてはそれ以上特に言う事は無いみたいだな、ならその前に起きた殺人はどうだ? 保健室と調理室の事件で何か目新しい情報は得られなかったのか?」
「えぇ、その二つの事件をもう一度調べてみたんですが特にこれといった手掛かりは……いや、ちょっと待って下さい…ありました、前回の捜査では判明しなかった事が…」
「それは本当か!? 一体どの事件だ!!?」
「そ、そんなに興奮しないで下さい。確かに新しい情報ですが直接事件の手掛かりになるかどうか………第一の殺人、保健室で起きた事件ですが被害者の携帯電話が無くなっていました」
「…携帯電話が無くなっていた?」
「はい、被害者の持ち物や校内を徹底的に調べたらしいですが……結局被害者の携帯電話は見付からないままです」
「携帯電話か……犯人は保健医と情事を行おうとしていたと考えられるからな、恐らく犯人は被害者との関係を示す痕跡を残さない様にしたのだろうな。しかしその携帯電話は既に処分されているだろう、犯人がそんな重要証拠を今も持っている訳は無いからな…」
私は再び肩を落とすと今度は眼を閉じ項垂れる、状況は相変わらず好転する事を知らず我々の進むべき道は例えるならば霧と茨に妨げられているのだった。私は自分の身体から活力が抜け落ちていくのを全身で感じた、眼を閉じると浮かぶ凄惨な被害者達の末路がよりその感覚を強めているのだった。
私は気力を失い掛けたその時ふと隣に視線を移す、そこには腕を組み顔を机に向け黙り込んでいる男がいた。この男の普段というものどの様なものなのかは知らないが、通常とは違い静寂を身に纏ったそれは私にとっては都合が良かった。だが一人良い気分で惰眠を貪る姿に私は苛立ちを覚えると、男の髪を掴み引っ張り上げる。
「…綾崎…貴様、随分と良い身分だな? 貴様から好き勝手に捜査に介入しておきながら、その本人が寝ているとはどういう了見だ!? 貴様は一体何がしたいんだ!!?」
「……寝起き早々から大層ご立腹の様で…そんなに怒るとすぐに年取っちゃいますよ? 一体何をそんなに怒ってるんです、彼氏がいないのがそんなに嘆かわしいんですか?」
口を開けば普段と変わらぬ綾崎の言動、最早怒りを堪える気すら無い私は綾崎の耳を掴むとこちらに寄せ付け耳の穴に怒号を発した。
「貴様は何故そうやって自由奔放に振る舞えるんだ、ちょっとは他者の感情ぐらい考えたらどうなんだ!!!」
「……何か知りませんけどこんなシチュエーション前にも体験した気がするのは気のせいなのかな?」
私がどれだけ怒りをぶつけても綾崎は眉一つ動かさず私の感情を受け流している、馬耳東風とも言えるその態度に次の怒号を発しようとした時私と対面する篠塚がそれを止めた。
「ま、まぁ柊さん、そんなに取り乱さないで下さいよ。元から柊さんだってこの人がまともに捜査に協力するなんて思っていなかったでしょう?」
「……確かに…それはそうだが……」
「なら怒る必要も無いでしょう? それに…この人は放置しておいてもそれ程問題は無いと思います、あくまで僕自身の推測ですが……」
篠塚は冷静な態度で私をなだめようとする、その言葉で幾ばくか心の起伏を抑えられた私はばつが悪くなり綾崎の耳から手を離した。
「……まぁ怒る気持ちも分からなくは無いけど、僕も何もせずただ黙って眠ってた訳じゃないよ?」
「……どういう意味だ?」
「話はちゃんと意識して聞いていた、って事だよ。皆々様が大事な時間削って一生懸命捜査したのにこれといった手掛かりが集まらなかった、っていう話は遠退く意識の最中にはっきりと覚えているよ?」
「……つまり…寝ていたのは事実という事か?」
「あ、言っちゃった…まぁそういう事になっちゃうよね。それで一体僕をどうするの、悪いけどこれ以上頭を殴られると僕の大事な脳細胞が死滅しちゃうんだけど……」
「…もういい…篠塚の言う通り今更怒っても仕方無い事だ、これ以上頭に血が上らない様に気を付けるよ」
「あれ、殴られると思ってたけど僕の早とちりだったかな? まぁ殴られなかっただけでも良しとするか、柊さんの成長も祝わなきゃいけないね!」
綾崎のその言葉は私の憤慨を煽っている様にしか聞こえないが、今の私には怒り以上に嫌気が差し始めていた為かその言葉に取り合う気は無かった。私が綾崎の言葉を無視すると綾崎は不貞腐れた様に頬を膨らませ外方を向く、その様子を見て私は悪いと思いながらも笑みを溢した。
綾崎を再び席に座らせると私は頭を抱える、そして篠塚に視線を向けると口を開いた。
「……そういえば篠塚、前に言っていた例の件については調べが付いたのか?」
「例の件? 例の件って……あ、それって中学校の歴史と藤江校長についての件の事ですか?」
「そう、それだ。当然調べは終わっているのだろう?」
「はい、取り敢えず一通り調べましたけど……でもこんな事調べて何が分かるんですか?」
「いや、別段捜査に関係する話では無いんだが…念の為に調べておこうと思ってな」
篠塚の怪訝そうな反応に私が短く説明を入れていると、私の横にいた綾崎が興味津々といった具合に割り込んでくる。
「藤江校長の話ですか? いやぁ僕も自慢じゃないですけどあの人あんまり好きじゃないんですよ。堅物だし頭禿げ掛かってますし…」
「……どうやら出会って初めて貴様と共感が出来た様だ。私も貴様と同様にあの男に関してはどうにも嫌うという事しか出来無いらしい」
「僕も貴方に同感ですよ、何か教育者としての理論語ってますけど正直大それているだけで中身すかすかな感じが半端無いですよ……頭禿げ掛かってますし…」
綾崎は心底嫌そうな顔をすると大きく溜め息を吐く、そんな様子を見兼ねた篠塚は恐る恐る私に話し掛けた。
「……あの…柊さん? そろそろ本題に入っても宜しいですか?」
「ん? あぁそうだな、今は個人に対する愚痴を言い合う時間では無い……それにこれ以上だと罰が当たるやも知れんからな、早速調べた内容を教えてくれ」
私は篠塚にそう告げると篠塚は素早く手帳を捲る、そして五秒としない内に手を止めると手帳に眼を通しながら話し始めた。
「…まず中学校の歴史ですが、建てられたのは三十二年前、当時他の中学校で校長を務めていた『藤江洋次郎』によって創立された中学校みたいですね」
「藤江洋次郎……それって、まさか…」
「そうです、藤江洋次郎は例の中学校の現校長である藤江憲三の父親に当たる人物だったんです」
「……成る程、強情に教育論を言い並ているから何かあると思っていたが…そうなれば話は早い、藤江現校長の頑固たる所以は恐らく父親が原因だろう」
「…それは一体…どういう事なんです?」
「藤江現校長は矢鱈と何か一つの信念…いや、一つの観念に執着している様子が見て取れた。その原因が何かは分からなかったが…篠塚の調べで理解した、あの男は父親の影に怯えていたんだ」
「父親の影に怯える……ですか?」
「あぁそうだ、その藤江洋次郎という男がどの様な人物だったかは知らないが…学校の創立者ともあろう人物だ、端から見ても偉大な人間だった事には違い無かろう。そんな父親の背中を見て育った藤江現校長は当然憧れを抱いた筈だ、今まさに校長という職に就いているのも恐らくその憧れからくるものだ」
「……まぁ確かに校長の世襲制ってのも芸が無いからね、その観点で考えた方が隙間無く話が進みそうだよ」
「…だが父親の背中は憧れでもあると同時に自分自身と比較してしまう不安材料になってしまう、父親の様に偉大な存在であらんとする気持ちが逆にあの男を縛り付けているんだ。そう考えれば藤江現校長が中学校を閉鎖しない事も説明出来る、校内で起きた不祥事に動じない姿勢を取り続ける事があの男にとって父親の威厳と肩を並べる事象なのだろう」
「…父親への強い畏敬の念が本人にとって枷になってしまった、と……」
「…言えてるね、尊敬と劣等は表裏一体で紙一重だ……でもそれは言わば幽霊……父親の影なんて男子にしてみれば絶対に越えられない壁だよ、そんな事にも気付かないなんてとんだ金柑頭だ」
綾崎はそう言うと吐き捨てる様に笑い飛ばした、私はその言葉に特に注意する訳でも無くそのまま流した。私が抱いていた藤江校長に対しての違和感、その要因と正体を掴んだ私はようやく自分の心に打ち付けられていた妙な感覚を抜き取る事が出来た。話が一段落すると私は小さく息を吐く、そして一つ間を置くと私は続けて話を進める。
「…まぁこれはあくまで私の頭の中で描いた単なる憶測に過ぎぬ、この話はあまり口外してくれるなよ? もし外に漏れれば厄介な事に成り兼ねない、十分に気を付けてくれ……特に綾崎、貴様にはより念を押して言っておくぞ」
「心配しなくとも大丈夫ですよ、僕だっていつまでも分数が理解出来無い様な子供じゃないんで…」
「……その言葉、やはり貴様の口から聞くと未だに信憑性の有無が分からないな」
「ちょっと…それは些か酷くありません? 確かに僕は口を開けば舌先三寸の嘘八百かもしれないけど、僕だって時には本当の事も言えるんですからね!」
「……今の言葉で益々貴様が信用出来無くなっているぞ?」
「まぁ別にいいじゃないですかそんな事、それよりもこれからどうするんです? あの使い古した消しゴムみたいな頭をした校長はどうやら学校を閉鎖する気は無いみたいですし……」
「…そうだな、それがまず考えねばならない事柄だったな。篠塚、あれから藤江校長は何と言っているんだ?」
「……話しますけど…柊さん、絶対に怒らないで下さいよ?」
篠塚は手帳を胸ポケットに仕舞うと、指を組み姿勢を正してから話し出す。
「……結果から言うと…柊さんの思いは藤江校長には届かなかったみたいです、彼は今でも中学校閉鎖という処置を拒んでいますし……これじゃあとても説き伏せるなんて不可能だと思われます」
「……そうか…あの男、未だに父親とマスコミに恐れ参っている様だな。だが何故か釈然としない、この現状を維持するよりも警察に助けを求める方が全てにおいて好転する筈じゃないか?」
「……全てにおいて、と断言出来るかどうかは分かりませんが……でも藤江校長も多少は折れたみたいですよ?」
「……どういう事だ?」
「学校の閉鎖はしない、その代わり警察に警備を強化させる、と言っているんです。警察から警備係を三人要請して校内を警備するように、というのが藤江校長の願いでした」
「警察から警備係を送れだと!? 全く……何を考えているんだ! 警察は一市民の所有物では無いというのに勝手な事を…それこそ学校の閉鎖する方が安上がりだろうに」
「確かにあまり褒められた対応ではありませんね、警察の応援を要請するなんてそっちの方が色々と面倒じゃないかとは思いますけど……」
「まぁ別にどうでもいいんじゃないの? あの耄碌の禿頭が考える事なんて知ったこっちゃないし、警察だったらつべこべ言わずにその一市民の願いぐらい叶えてやりなってよ! まぁこれでまた人が死んでも被害を被るのは残念だけど警察なんだけどね……」
「さらりと不謹慎な事を口にするな、もし新たな被害者が出ればそれこそ貴様も冗談では済まされんぞ? だが……これ以上被害者を増やす事は許されない、もう二度とあの様な惨劇を繰り返してはならない…何としても事件を未然に防ぐべきだ! 篠塚、警察の警備はどの様な手配がされているんだ?」
「取り敢えず三人で交代して警備、それを三つのチームにして二十四時間体制で警備するという方向でやっているみたいです。現に今も中学校では三人の警察官が校内を見回っている筈ですよ」
「そうか……取り敢えずこれで犯人の事件発生を多少なりと抑制出来るやもしれん、不審な動きをすればそれだけで容疑者になってしまうからな」
「…でもまだ絶対に安全とは言えませんよ? 警察がいくら三人体制で警備するといっても警備の眼には限界がある、隙間を縫えば校内での殺人も不可能じゃないですからね…」
「……随分と批判的な物言いじゃないか、それ程に言うのであれば貴様は何か他の手立てがあるというのか!?」
私は感情任せに机を叩き綾崎に向かい怒号を飛ばす、だが綾崎は相変わらず無反応の姿勢を崩さず口角を上げると楽しそうに話し出した。
「ならお教えしましょう、僕が誰にも言わずに隠し続けていた秘密をね! さぁ…刮目するがいい!!!」
綾崎は私に負けず劣らず声を張り上げる、私は一体何が飛び出すかと微かな期待をしていたが綾崎はポケットから携帯電話を取り出し操作するとその画面を私に見せる。
「……何だ、これは?」
「いやだなぁ柊さん、この画面見ても察しが付かないなんて頭の螺子何本か落としてるんじゃないですか? よく見て下さいよ……ほら、何処かで見た事ある風景じゃありませんか?」
「…見た事ある風景?」
私は携帯電話の液晶画面に顔を近付けそこに映っているものを凝視する、綾崎のいつも通りの嫌味事には一切触れず画面を眺めた。場所は完全な暗闇である為か画面は暗視の様相になっているが、場所の構造と設置物から私はその場所が何処であるのか察した。
「…見た所普通の男子トイレの様だな、恐らく事件のあった中学校のトイレだと思われが……綾崎よ、わざわざ携帯電話を取り出したのは私にこの映像を見せる為か?」
「やだな柊さんご冗談を、遂に脳細胞が半分ぐらいショートしちゃったんですか? 僕が何の理由も無しにわざわざ八つ裂き覚悟で男子トイレの映像見せる訳無いでしょう?」
「なら一体何の為………そうか、あの冊子の内容だな。確か次の話の舞台は……男子トイレか、それで犯人が七不思議に絡ませて犯行に及んでいると未だに考え犯行を未然に防がんとして監視カメラを設置した訳か」
「未だにってのは失礼千万な言い種ですね、第一体育館倉庫の殺人だって八割がた正解してたじゃないですか!」
「もうその話題を持ち込んでくれるな、言い争い始めたら言い合っても切りが無いぞ…」
「……それもそうですね、この話題は一生口に出さず墓場まで持って行きます。ですが今回ばかりは大丈夫です、僕も前回の二の舞にならない様に手配は入念に行いましたからね!」
「……ならその自信の程を聞かせてもらおうか?」
私は無関心な態度で素っ気な無い口調で答えた、しかし綾崎は全く意に介する事無く笑いながら話す。
「まず前回の作戦で失敗した要因は犯人が七不思議から微妙に変更して殺人を行った事でした、体育館倉庫と一口に言っても内側か外側かという違い……しかし今回はその反省を踏まえてより監視を徹底したのです。中学校に存在するトイレは全部で十二箇所、その内の男子トイレ全てに監視カメラを設置したんです! こうすれば前回みたく犯人が場所を変更して犯行に及んでも決定的瞬間を収められる筈です、これで犯人は袋の鼠と同じ……」
「…成る程、それなら犯人の思惑を崩す事が出来よう。仮に犯行に及べばそれこそ言い逃れ出来無い証拠が出てくる、犯人の逮捕も時間の問題………いや、ちょっと待て、そもそも監視カメラを取り付けるよう指示したのは誰だ?」
「え? そんな誰って言われても…指示したのは此処にいる僕自身です」
「…誰の指示でも無く自分の独断でやったのか?」
「そりゃだって他の人に言えば、止めておけの一点張りに成り兼ねませんからね」
「……じゃあ監視カメラの設置は貴様一人でやった事か?」
「いえ、僕はこの計画を発案しただけで実際に設置を行ったのは放送部の二人ですよ」
「………綾崎、今日の午前中に私が言った事は覚えているか?」
「…確か目玉焼きの上に掛けるなら醤油とソースどちらが好きか、みたいな感じでしたっけ?」
綾崎は私の言わんとする事の意味が掴めていないのかまたしてもずれた発言をする、私は口よりも先に身体が動き椅子から立ち上がると綾崎の脳天目掛け拳を降り下ろした。私の拳を頭に喰らった綾崎は頭を押さえ痛みに悶えている、そんな綾崎の胸倉を掴みこちらに寄せると私は怒りを現した。
「貴様は一体何度同じ事を言われれば気が済むんだ!! あれ程無断で監視カメラを取り付けるなと言ったのに性懲りも無くまたやるとは……大体この注意をしたのは今日の事だろう、この短い期間でよくまぁそんな身勝手な行いが出来るものだな!!」
「人の脳天ぶん殴っておいてよくぬけぬけと言えたものですね、別に僕は貴方に直接的な被害を被る様な真似はしちゃいませんよ?」
「私はそういう事で怒っているんじゃないんだ!!!」
「じゃあ何をそんなに怒ってるんですか? そんなに心配しなくても監視カメラの電源は八時間は持つ様になってますから大丈夫ですって!」
「だから貴様何度同じ事を……ハァ、もういい、疲れた。やはり貴様と手を組んだ事…いや、それ以前に貴様と出会った事自体が私の怒りが蓄積するそもそもの原因だったのだろうな……」
「世の中は合縁奇縁と言いますでしょ、こうやって親しくしていればいつか分かり合える時が来ますって」
「私は断じて貴様と交流を持つ気など無い!!!」
私は腹から大声を張り上げる、その声は向けられた綾崎では無く何故か私の様子を伺っていた篠塚が反応し狼狽えていた。私は肩で息をして一旦心を落ち着かせ椅子に座る、そして髪を掻き上げると溜め息混じりに口を開いた。
「…まぁ貴様の言い分は分からんでも無い、前に聞いたからこれ以上は言わなくとも知っている……だがその計画とやらには穴があるぞ? まず校内の男子トイレ全てに監視カメラを設置したと言っていたが、次の犯行は女子トイレで行われるやもしれんぞ?」
「そんな事言われても……僕に大事な物ちょん切って女になれって言うんですか?」
「別にそうとは言ってない、だが犯人は殺人現場の一部変更をした前例もあるし次の現場がトイレであるかどうかすら分かったものでは無い、と言っているんだ。それに犯人が犯行に及ぶ事前提で話を進めるのは些か頂けないな、出来れば犯人が犯行に及ぶ前に捕まえたいんだが……」
「その役割を担ってんのが三人体制の警察官でしょ? 僕の計画はあくまで次の犯行が防げなかった場合の保険みたいなものなんですから、そんなに攻め立てないで下さいよ……」
「…何にせよあまり嬉しく無い計画だな、事件の顛末や他人の命を保険に任せるなんて……全く、頭が痛くなるよ……」
私はそう呟くと眼を瞑り小さく項垂れる、結局未だに後手から抜け出せていない今の自分に私は少なからず自己嫌悪の念を抱いていた。私は溜め息を漏らすと頭を掻く、幾度も呼吸を整えようと私の緊張が治まる事は無く心の中では燻る焦燥と止まない妙な胸騒ぎが平常心を食い荒らしていた。
しばらく自分の世界に入り浸っていた私がふと顔を上げると、いつしか窓の向こうの景色はより一段と強く重い黒色へと色直しをしていた。私は袖口をずらし腕時計を見ると時刻は既に十時を回っていた、より深い黒に私自身の平静の危機感を覚えた所で私は口早に話し出す。
「…もうこんな時間か、どうやら此処で一時間以上も時間を食ってしまっていたらしいな。この辺でそろそろお開きとしよう、各々にも事情があるだろうからな……」
「…何だか急に忙しなくなりましたね、普段とのギャップがある柊さんは…気持ち悪いですね、好きくないです」
「あぁどうとでも言ってくれ、今日は全くもって散々な一日だったよ。連続殺人が七不思議の見立てだと唆され、その後新たなる被害者が見付かりその恋人から罵詈雑言を浴びせられ、校長に直談判しても相手にされず、結局これだけ動いて得られた情報は一握の砂程度という始末……何から何まで嫌になるよ…」
「まぁそう愚痴を溢しなさんなって、気分ばかり滅入ってると心まで荒んじゃうよ? とにかく今日の所は帰るとするよ、明日は明日の風が吹くって言うしね!」
綾崎はそう言うと掌の人差し指と中指を立て私に笑い掛ける、その笑みが心の籠ったもので有るにしろ無いしろ今の私には気障りなだけであり私は顔を逸らした。私の素っ気無い態度に綾崎は尚も笑みを崩す事は無く、椅子から立ち上がると軽い足取りで廊下の方向へと歩いて行った。休憩室を抜け廊下が足に差し掛かると突然綾崎は足を止め後ろを振り返り言い放つ。
「このまま長居しても僕には良い事は一つも無いみたいなんで僕はさっさと退却します。何か分かったら連絡下さい、電話番号は取り敢えず数字押しとけば何かしら繋がると思いますから」
「…心配せずとも誰も貴様に電話などしない、用が済んだのなら今すぐ私の視界から消えてくれ」
「また随分な物言いですね、そんな事言ってるといつの日か後ろから刺されちゃいますよ? 何はともあれ今日の所はお疲れ様でした、明日は血の気を見ない素晴らしい一日になるのを祈りましょう! では、失礼します」
綾崎は深々と頭を下げると、踵を返し廊下の向こうへと全力で駆けて行った。篠塚と二人残された私は一気に身体への負担が重くなるのを感じる、気力が抜け力無く天井を見上げる私に篠塚は戸惑いを見せながら話し掛ける。
「……柊さん、これからどうするんですか? 見た所かなり疲れているみたいですけど……」
「あぁそうだな、先程話した通り今日は一段と酷く疲れた一日だったよ。こんな日が毎日続くと思うと……全く、気分が滅入って仕方が無い」
私は身体を伸ばし気を引き締め直すと立ち上がり覚束無い足取りで窓辺へと向かう、窓から見える眠りに付こうとする街の様子を眺め私は一人放心した。私が何の意味も無く外の景色を眺めていると、後ろから篠塚が怪訝そうな声で話し掛けてきた。
「…柊さん、大丈夫ですか? 僕はもう少し残ろうと思いますが……柊さんは?」
「……私か? 私は…もうしばらく此処にいる、先に行っても構わないぞ」
私はぶっきら棒にそう吐き捨てると篠塚を此処から立ち去るよう促した、その言葉に従い篠塚の気配が自分から遠退くのを感じた時私は篠塚を呼び止める。
「…待て、篠塚」
「? どうしたんですか、まだ何か用でも?」
「いや、別に大した用でも無いんだがな……」
私は次の言葉に困り語尾を濁す、そして頭の中で明確な言葉が浮かび上がると私は重々しく口を開いた。
「…篠塚はこの景色をどう思う?」
「……え? それって…どういう…」
「篠塚から見てこの窓辺から見える景色はどの様な顔を見せているのか、と聞いているんだ」
突然私の口から飛び出した突拍子も無い問い掛け、その問い掛けに篠塚は唸りながらも自分なりの答えを口に出した。
「……そうですね…住宅街の明かりは完全に消えていますけど、まだ駅前や大通り沿いの店は明るいままですね。まぁだから何だと言われると回答に困りますけど……僕は多少なりと活気の有る街並みに見えますね…」
「……そうか、篠塚にはそう見えるのか……成る程…だが私には全く別の世界が見えているんだ……」
「……別の世界…と言いますと?」
篠塚から向けられた問い掛けに反応し私はそちらを一瞥する、そして再び視線を下界に移すと私は活力の抜けた声で話し出す。
「……私から見るに、この街の景色は何故かとても寂しく感じるのだよ。見てみろ…確かに大通りに面する店は未だ活気が抜け切る様子が無い、だがその周りの住宅や建物は明かりを消し寝静まっている……それを見ると自然と悲しくなってくる…」
「……どうして…ですか?」
「…周りの家々に関してはよく分かる、日が沈み夜が来れば皆寝床に入るのは生物の道理だ。だがあの街中は未だに眠りに付こうとする意志が見当たらない、今が書き入れ時という事もあるが……私にはまるで、迫り来る夜を恐れ紛らわす為にしている様に見えるのだ」
私の言葉に篠塚は返答しない、しかし私はそれに関係無く話を続ける。
「あそこの連中は夜を恐れている、暗闇の中に何か得体の知れない存在が潜んでいるのでは無いかと怖くて仕方が無い、そう見えてしまうんだ。それは私が夜を嫌っているせいで生じる一種の偏見でもあるが……私にはそんな気がしてならない…」
「……柊さん、どうやら相当疲れているみたいですね。いつもの血気盛んな柊さんから想像も出来ませんよ、最近はいつもそんな感じですし……ひょっとして何処か病んでいるんじゃ……」
「…確かに…そうかもしれん、最近は私も自分という存在が酷く不安定に感じる時があるくらいだからな、一度精神疾患を疑った方が良いのだろう。だがな篠塚、私が言いたいのはそこじゃないんだ」
「……詰まり…どういう事ですか?」
「…詰まり……犯人も同じ様に我々とは違った視点を持っている可能性がある、という事だ」
「違った視点…ですか?」
「あぁ、我々は犯人を冷酷無比な殺人狂、殺された被害者は無惨に死んで逝った憐れな一般市民と認識している。だが犯人の眼に映るそれは些かの違いが生じているのかもしれん、眼鏡の有無で焦点に違いがある様に……我々警察と犯人では人や物の見方、ひいては世界観も百八十度違うのだろう」
「…それが犯人が凶行に至った要因である、と……そうお考えなのですか?」
「……そういう事だ…」
私は窓辺から望む夜景から眼を離すと篠塚に対しそう呟く、その発言に反応し困惑する篠塚は私に尋ねた。
「…もしそれが本当だとするなら……犯人の動機は何なんですか!?」
「……それは分からん、幾ら犯人の心理状況を掴もうと動機までは特定出来無い。だが私が述べた推論はあながち間違いだとは言えない筈だ、第一被害者の保健医も捜査した結果何やら如何わしい事に関係していたのも事実……その他の被害者も身辺調査をすれば何か事件の手掛かりが見付かるかもしれん」
私はそう言い終えると気力尽き果て顔を伏せる、普段以上に疲れ果てた頭脳はこれ以上の思案を防ぐ様に脳の機能を低下させていた。しかし私の頭は無条件で思考を巡らせてしまう、頭の片隅に生まれた僅かな犯人像がそんな今の自分を嘲っている様な気がした。
私が篠塚との脈絡の無い会話を終わらせたのは話し始めてから五分程の事である、私の突拍子も無い話題に付き合わされた篠塚は目許を擦ると口を開いた。
「…僕はこれからもう一度事件について調べてみようと思います、それでは柊さん…失礼します」
「……くれぐれも無理はしない様にな、捜査に没頭して身体壊したなんて洒落にならんからな」
篠塚は私に軽く頭を下げるとその場を立ち去って行く、最後まで休憩室に取り残された私は物悲しくなり再び窓から見える景色に眼を移した。先程よりも些か明かりが弱くなった大通りは一段と寂しさに包まれていた、私の眼に映るそれは闇の中に映え私にその存在を強く示している様に見えた。私は遣る気を無くし窓硝子に寄り掛かる、地肌と接する硝子の冷たさは痛い程に私の思いと感傷を汲み取っていた。
その後私は家路を辿り、疲れに塗れた重い身体に鞭を打ちながら何とか帰宅する事が出来た。自宅に帰り早々に風呂を済ませると私は冷蔵庫から缶ビールの束を取り出しテーブルの上に置く、待ち望んでいた至福の時の到来に私は無表情で心踊らせながら缶ビールの口を開けた。良い具合に冷えたビールを思い切り喉に流し込む、疲れが蓄積していた身体にとってこの瞬間は満身創痍な心身を癒す格別な時間であった。疲労回復の良薬を勢い任せに飲み続ける、しかし調子に乗り過ぎて五本連続でビールを飲み干すと流石の私も気分が悪くなりベランダで風を浴びる事にした。
ベランダに出ると視線の先は最早暗闇の領分であった、先程まで見ていた店の明かりは建物の陰で見えなくなっており闇を嫌う私にとっては居心地が悪い事此の上無い状態だった。こうなると私の心には寂しさ以上に虚しさが付き纏う、脳髄に埋め込まれた古い記憶が私から徐々に平穏を奪い取っていた。寒空の下で私は言い様の無い虚無感を覚えてしまう、そんな晴れ晴れしない気分を払拭しようと私は手にした缶ビールの口を開き苦汁を啜った。
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