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其の以4

 俺は誰より親切だと自負している、困っている人を見ると助けずにはいられないしその行為に敬虔な意を持っているつもりである。人の喜ぶ姿はいつ見ても心地よいものだ、俺はそれを当然の事だと思っているしそれが社会的に普通であると自覚している。ただちょっと手を差し伸べるだけだ、それだけで人の為になるし自分だって気分が良くなる。だがいつからだろうか、俺は自分のその長所を酷く呪う様になったのである。



 ある日の事である、俺の携帯に見慣れない番号から電話がかかってきたのだ。明らかに怪しいと感じた俺はその電話は取らず無視をし続けていたが、その謎の番号からの着信は止む事は無く何度も頻繁にかかってくる為俺はいよいよ我慢が出来なくなりその電話を取ったのである。電話をかけてきた相手の声に俺は聞き覚えがあった、確か学生時代に聞いた声であった筈だがよく思い出せない。俺は電話越しの相手に名前を尋ね、電話の主は俺が中学生だった頃の同級生だという事を知った。しかし俺は相手と電話をした事はおろかまともに話した事すらない、なのに何故突然俺の携帯にそんな奴から電話がかかってきたのか、俺の不審はますます色濃くなっていった。詳しい事を聞こうと俺は何故自分の電話番号を知っているのか問い詰めようとすると、相手はすぐ話題を変え唐突に金を貸してくれるよう頼んできたのだ。本当ならすぐに電話を切るべきなのだが、相手の困り果てた様な声に切る事が出来ず大した額を要求してきた訳ではなかったので俺は仕方無く金を貸す事にした。

 数日後俺は電話で指定された場所に金を持参し待っていた、寒空の下で小一時間程待っていると電話をしてきた相手がようやく姿を現した。俺が持ってきた金の入った封筒を渡すと相手は乱暴に封筒を奪い取り礼の一つも言わずにその場を去って行った。相手のその態度に俺は文句でも言おうと思ったが、相手がすぐに金を返してくれるだろうと思い俺は仕方無く家に帰った。



 それから一週間経った日の事である、あの相手から再び電話が来たのだ。金を返しに来る事での話だと思ったが、話の内容は耳を疑うものであった。またどうしても金が必要になったから金を貸してくれ、電話の向こうから聞こえる声は間違い無くそう言ったのである。俺は徐々に自分の中で怒りが湧くのを感じた、この男は何一つ悪びれる様子も無くまたしても金を貸せと言ってきたのだ。本当なら金など貸さなければ良いだけの話なのだが、頼まれたら断れない性格上俺の口は嫌という言葉を発する事が出来無かったのである。俺は自分の本心とは裏腹に頼みを承諾すると相手はまたしても礼を言う事無く電話を切った、虚しく聞こえてくる電子音が俺の選択を愚弄している気がした。



 それからというもの俺は幾度と無く相手の要求されるがままに金を送り続けた、要求する額は次第に増えていき今では二万や三万が当たり前の様になってしまっていた。いつの間にか俺は決して仲が良いとは言えない男に無駄な出資をしていたそれは自分の本心を押し殺してでも貫いた一種の見栄の様なものだったのかもしれない。

 そんな事が三ヶ月も続いた俺はいい加減貸した金を返してもらおうと電話で相手を呼び出した、俺が貸した金の総額は四十万を超えており正直言って俺の生活に限界も来ていた所であった。いつもの様に変わらぬ待ち合わせ場所で待っていると一時間遅れて相手が現れた、この男は他人を待たせる事を平気でするだらしない野郎だと腹の中で罵った。俺は会ってすぐに金の話を持ち出した、今の生活ではこれ以上金を貸す事は出来無い、貸した金を全て返して金はこれからは一切借りないという俺の決断を俺は相手に告げた。しかし相手は俺の答えに従う素振りを全く見せず、薄く笑いを浮かべながら話した。次会った時に金は返すから取り敢えず今日は三万貸してくれ、男はそう言うと平然と手を出し俺から臆面も無く金を借りようとしたのだ。俺はいよいよ耐え切れなくなり相手の胸倉を掴み怒りをぶちまける、今まで溜まっていた鬱憤をひたすら相手にぶつけると相手は尚も笑いながら更に続けた。もうこれ以上お前から金は借りない、その代わり今まで借りた金は返さない、と言ってきたのだ。続けて男は、学生時代よく宿題を写させてやっただろう、それで俺が借りた金の事は帳消しにしてくれ、とふざけた事を抜かしやがった。俺は怒号を吐き出しこのふざけた野郎を罵倒する、しかし相手は俺の手から逃れると俺を押し倒しその場から立ち去ろうとした。地面に強く腰を打ち付けた俺はまるで子供だった、周りに人影は見当たらないが端から見れば哀れで滑稽な事この上無いと言った所なのだろう。俺はただただ悔しかった、貸した金が返って来ない事もあるがこんな人で無しに金を貸した自分の甘さに嫌悪を抱いてしまう。

 その時俺の中から一瞬理性が吹き飛んだ、俺は親切心や良心を捨て去り己の我欲のみに従う人間へと変化してしまった。俺は辺りを手探りをし手に触れた拳台の石を握り締めると、男の背中に向かって声を上げ突進する。声に気付いた男が後ろを振り返った直後俺は男の脳天目掛け石を振り下ろす、頭に石を喰らった男がよろめき地面に倒れると俺は素早く馬乗りになり抵抗する男の顔面に石を叩き付けた。何度も何度も何度も、顔の骨が砕け血が滲み出そうとも俺は石を振るう事を止めなかった。最後に額に一発石を振り下ろすとそれまで抵抗していた腕が力無く地面に転がり酷く歪んだ男の顔から息が途絶えた、この人で無しが死んだ瞬間であった。

 俺は少しずつ冷静さを取り戻すと馬乗りになっていた死体から離れ手に持った血塗れの石を地面に落とした、改めて俺は殺人をしてしまった事実を痛感したのだ。すぐに俺の中で後悔の念が膨れ上がる、しかしその後悔は男を殺してしまった事ではなく金の返済が出来無くなってしまった事に関してであった。俺は慌てて死体の身体を調べた、指紋が付着してしまう恐れなど頭には無くただひたすらに金品を探す為だけの行為であった。男の財布は内ポケットからすぐに見付かったが中身は案の定空で俺は悔しさを吐き捨てる、何か他に無いかと身体を調べ続ける姿はまるで死骸を漁るハイエナの様であった。俺は堕ちてしまった、この男の様に金を貪るただの下衆に成り果ててしまったのだ。自分は男と共に地獄に身を投げてしまった、俺は初めてその事実を思い知らされた。



著 彩咲数見


『漆喰』より抜粋



++++++++++++



 先程から頭痛が止まない、痛み止めの薬を三錠飲み込んだのにも関わらず痛みは引くどころか更にその勢いを増した様に感じられた。恐らくこの痛みは身体の変調から来るものではなく精神的なものを介して生じるのだろう、冷静な分析を下せる様に私は頭により強い負担を掛けてしまっていた。いつまでこの悪夢は続くのだろう、まるで悪魔に魅了されてしまったかの様な血生臭い惨劇は決して止む事は無い。この世の凄惨を一手に引き受けた殺人は我々の焦燥を駆り立てさせる、だがまだ一つとして犯人の手掛かりすら掴めていない我々はまさに犯人のされるがままに彷徨うしかない。そしてまたしてもこの流血の居城で新たなる殺人が発生した、私の足取り重くそこへ行く事すら拒絶するが事件の収束という希薄な夢を求め尚も歩いていた。

 私が足を踏み入れたのは電気の点いていない薄暗い体育館、窓から光は差し込んではいるが曇天の為か光は弱く淀んだ灰色の空を窓を通して確認する事が出来た。バレーコート二つ分程の広さの体育館は校舎以上に肌寒く気と身を引き締めるには十分であるが、今はこの肌寒さすら私にとっては気分を害する要因であった。体育館に入って右手、ステージの横にある倉庫らしき場所に数人の鑑識と刑事の群れが確認出来た。恐らくあそこが殺人現場なのだろう、床を歩く度に聞こえてくるワックスとの摩擦音を徐々に速めながら私は忌まわしき場所へと近付いて行った。

 倉庫の外に立つ鑑識が頭を下げるのを黙って見送ると私は殺人現場に足を踏み入れる、しかし中にあったのは侵入を拒む様な悪臭と重く淀んだ空気であった。中は電灯が点いているにも関わらず外の体育館よりも薄暗く、余計に不気味さを増した様相が視界を包んだ。跳び箱や体操マット、バレーやバスケットに使うボール等が鎮座しているが、それらの陰に隠れていたのは悪臭と重圧を醸し出すこの倉庫の主だった。


「……これは……」


私は言葉を失った、眼前に広がる光景は日常から乖離されている筈の残酷を徹底的に表しその様を見せ付けていたのだ。私の視線の先に倒れている男が一人、身体中から血を流し倉庫の床一面に地獄の海を作り出している所から見てもう既に息が無いのは明白であった。私は重たい足を無理矢理前に出し死体に近付く、そして身体を屈め顔を確認しようと試みた。


(……この男…確か前に……)


私は口許に手を据えつい先日の記憶を揺り起こそうとした時、後ろから少し遅れて到着した篠塚が私を呼んだ。


「柊さん、た…大変な事になりました、まさか警察が校内にいる中で殺人が起こるなんて…」


「落ち着け、慌てる気はそれなりに分かるが焦った所でどうしようも無い。取り敢えず被害者の状況を説明してくれ」


「…わ…分かりました、少し落ち着きます……」


篠塚は小さく呼吸を整えると、張り詰めた声で話し出した。


「…被害者は『石飛義巳』、この学校の三年生で野球部に所属していたみたいです。死因は撲殺、身体中を滅多打ちにされたのが原因だと思われます。凶器は……あれです」


篠塚がある一点を指差すと私は指先を辿り目標点を見る、死体から少し離れた場所に銀色の金属バットが無造作に置かれていた。


(……あれが凶器か? それにしては随分…)


私は視線の先の金属バットに違和感を覚えた、もし仮にあれでこの男を滅多打ちにしているのならば血が付着していてもいい筈だが金属バットには全く血が付着していなかった。血塗れの死体と血の付いていない凶器、私の頭の中では此処で起きた事が写実的に脳裏を掠めた。


「……この死体、何かに包まれていたのではないか? 凶器に血が付いていないのはその為だろう?」


「…流石柊さん、僕が言おうとしていた事はお見通しって訳ですね。被害者は発見時には上半身をごみ袋で覆われていました、その後鑑識の方が袋を開けると……今みたいに血の池になった、という感じです」


「ごみ袋に包まれていた、か……恐らく犯人が返り血を浴びない様にする為の工夫だろう。第一の殺人といい今回といい、犯行は計画的且つ残虐的だな…」


「はい、そうとしか思えませんが……もっと恐ろしい事が判明しました」


私にそう嫌な期待の込められた言葉を放つと篠塚は死体の顔付近に身を屈める、私も釣られて死体の顔に近付くと篠塚は少し震えを押さえた調子で話し出した。


「……この顔に…見覚えがありますね?」


「あぁ…確か先日聞き込みをした男子生徒だ、名前も知らない男だったが……まさか殺されるとは……」


「…僕も…初めて知った時は驚きました……」


篠塚は悲しい調子でそう呟くと目線を死体の顔から背ける、確かに少ないながら生前を知っているだけその衝撃も重いものなのだろう。私はまじまじと物言わず恐怖に強張った顔を見詰める、生意気で腹立たしい男だったが殺されたとなると同情の念が浮かんでくる。篠塚は背けた顔を再び死体の方へ向けると、指を差し何かを示唆した。


「……此処を見て下さい、この顔の…眼の辺りを……」


「眼?」


私は篠塚の言う通り死体の目に視線を合わせる、そこには悍ましい事実が存在していた。頭から流れ出た血が顔を濡らしていた為に遠くから見た時は気付かなかったが、死体の眼には納まっている筈の眼球が無くただどす黒い虚空が眼窩を満たしていた。しかしそれだけではない、眼球の代わりに眼窩を埋めていたのは本来のそれより遥かに光を含み反射させる硝子玉であった。私は不思議な感覚に見舞われる、既に死んでいる筈のその眼からは生前以上に強い眼光を放っていたからだ。


「……犯人は被害者の眼球を抉り代わりに硝子玉を詰め込んだという事か……一体何故だ、犯人はどうして此処まで残酷な犯行を行っているんだ?」


「…確かに不思議ですね、身体に鉄棒突き刺す犯行といい指切り落として被害者に食わせる行為といい…犯人は殺人狂以外の何者でもありません」


顔を背けながらも話を続ける篠塚の意見に私は激しく激しく同意だった、犯人が殺人を楽しんでいるか余程被害者に恨みを持っている者でもない限りこれ程残虐な行為は出来無い代物であった。私の身体は言い表せぬ不気味な感覚に支配される、犯人が抱く毒々しい猟奇に触れた恐ろしさに本能的な拒否反応を招いたのであろう。

 眼を抉られた死体の動かぬ表情を眺めている内に次第に気分が悪くなってしまう、屈めていた身体を立ち上がらせ後ろを向くとそこには移送隊の連中が姿を現した。


「……篠塚、これ以上長居は出来そうに無いな。我々は速やかに此処から立ち去るとしよう…」


どうやらこれ以上死体を此処に置いておく訳にはいかないらしい、私は篠塚にそう告げると死体を一瞥する事無くこの倉庫から立ち去った。体育館に出るといつの間にか空を覆っていた雲が薄く消えその間から微光が差し込む、数分振りに見た光は今の私にとっては目障りなだけであった。見ると体育館入口には複数人の生徒が集まっている、まさに興味本意を振り翳している様な群衆の姿に私は多少の苛立ちを覚えずにはいられなかった。私が連中を離散させる為に足早に歩き出そうとした時、後ろからビニールカバーに包まれ担架に乗せられた男子生徒の死体が運ばれそれを見た群衆はより一層に下品な好奇心を振り乱し始めた。移送隊が私の横を通り過ぎると、一人の女子生徒が移送隊に近付いて来た。


「ヨシくん!! ヨシくん!!!」


女子生徒は運ばれている死体に縋り付くと大きな声を上げる、その眼からは涙が零れ落ち死体を包むビニールカバーにその雫を残していた。


「…ヨシくん…なんで……どうして死んじゃったのよ……」


「…君、これから遺体を搬送しなければならないんだ、悪いが下がっていてくれないか?」


「いやよ、離れたくない!!! ねぇヨシくん、ヨシくん……」


移送隊の二人は嫌気が差した様な顔を見せると縋り付く女子生徒を無視して無理矢理運び出す、それに釣られて女子生徒は死体に寄り添いながら移送隊と共に体育館から出て行ってしまった。


「……あれは…殺された男子生徒の彼女か何かか?」


「さぁ、詳しくは知りませんが恐らくそうでしょうね。しかし……彼女をあのままにしておくのは流石に不味いんじゃないですか?」


「…それもそうだな…」


私は立ち止まっていた足で床を蹴ると駆け足で泣きじゃくる女子生徒を引き離しに向かう、外に出る扉の手前で女子生徒の身体を掴むと無理矢理担架から引き剥がした。


「放して、触らないで!!! ヨシくん、行かないで!! 行かないで、ヨシくん!!!」


女子生徒の悲痛な叫びが届く事は無く男子生徒の死体は車に乗せられこの学校から立ち去ってしまう、一人残された女子生徒は絶望を塗り固めた様な顔のまま膝から崩れ落ち地面に腰を付けた。最早悲しみをぶつける対象を失った女子生徒は地面に爪を立て下唇を強く噛んだ、この状態で一体何と言葉を掛ければ良いか分からず私は困惑の窮地に立たされてしまった。仕方無く私はこういった場合に使われる常套句を言うしかなかった。


「……気持ちは分かるが取り乱しても良い事は無い…まずは落ち着くのが一番だ」


私は自分でも嫌になる気休めを口に出す、この言葉が力無く泣き続ける女子生徒に通じたのか分からないが女子生徒は涙を流しながらも顔を上げ私を見た。


「……落ち着いた様だな、少し聞かせてもらうが…その……先の男子生徒とはどういった関係が?」


「……何よ……何なのよあんた!! 人が泣いてるってのに訳分かんない事言って…あんた何様よ!!?」


「…私は……私は柊瑞波、これでも一応警察だ」


「警察? あんた……警察官……なの?」


女子生徒の問い掛けに私は深く頷いた、眼前にいるのが警察だと分かれば相手も多少でも安心させられるだろうという私なりの配慮であった。しかし私の思惑は物の見事に打ち砕かれる事となる、女子生徒がよろめきながらも足を着きゆっくりと立ち上がる姿を見据えていると突然頭が右に振られ左頬に鈍い痛みを覚えた。顔を正面に戻し見ると右手を広げたまま女子生徒は先程以上に大粒の涙を流し泣いていた。彼女が頬を叩いたのは明らかであるが、私がそれを咎めず沈黙を守っていると女子生徒は震えた声で話し出す。


「…あんたねぇ……人が死んでるのによくそうやって平気でいられるわね!! あんた達が早く犯人を捕まえないからヨシくんは殺されたのよ!! あんた達警察のせいでヨシくんは……ヨシくんは…あんな事に……」


「…ぼ、僕達だって好きで彼を見殺しにした訳じゃない…取り敢えず落ち着いて…」


私の横に立っていた篠塚が女子生徒を必死で落ち着かせようとしている、しかし彼女の現況ではその言葉は火に油を注ぐ様なものであった。


「そんな話聞きたくなんかないわよ!! あんた達みたいな役立たずに犯人なんて捕まえられる訳なんかない…返してよ……ヨシくんを返してよ!!!」


喪失により生まれた怒りと怨みの矛先が本人をなだめようとする私に向かう、彼女の言葉は理に適わぬ暴言であるが今の状態ではどんな言葉も焼け石に水だろう。残念だが私の胸倉を両手で掴みながら泣き崩れる女子生徒にしてやれる事など無いに等しい、私の頭は真っ白になり何かを考える事を頑なに拒否していた。しばらく何も考えずただひたすら無に思念を浮かばせていると、校舎の方から学校の教員と見られる男性三人が駆け寄ると私の胸倉から女子生徒のを引き離し彼女を連れて行ってしまう。


「放して、放してよ!! あんたのせいでヨシくんは死んだのよ!! ヨシくんを返してよ、この人殺し!! 人殺し!!!」


女子生徒は痛烈な捨て台詞を遺憾無く吐き出すとそのまま連れて行かれ此処から退場してしまう、嵐が過ぎ去った後の様な気不味い沈黙が響き渡る中私は鈍痛のする左頬を押さえ放心してしまった。一人佇み虚空を見詰める私に、篠塚は恐る恐る声を掛けた。


「……柊さん…大丈夫ですか?」


「あぁ…これに関しては別段問題は無い、ただ少し口を切っただけだ」


「…そうですか……あの…本当に大丈夫…ですよね?」


「? どうした、私の顔ばかり見て……何か付いているのか?」


「い、いや別に大した事じゃないんですけどね……柊さん、怒ってたりします?」


篠塚が頻りに私の顔を伺う理由が判明し私はそちらの方に怒りを覚えてしまいそうになる、しかし私は怒る事も声を荒げる事も無くただ静かに口を開いた。


「…別に怒ってはいないさ、ただ……今は怒りよりも悲しさ、というか…何か虚しくを強く感じるよ……」


「…悲しさ……ですか?」


「……あの女子生徒の物言いは八つ当たりにも聞こえるが我々警察が犯人を捕まえられていないのも事実、そう思うと…自分の不甲斐無さを痛感させられるよ……」


「…別にそれは…柊さん一人が背負う責任ではありませんよ。第一…柊さんは捜査に尽力しているんですよ、何を虚しくなる事がありますか!?」


「…どうだかな……この世の中結果が全てだ、眼前の命一つですら守れなかった事は紛う事無き事実……そんな現実を平気で受け入れられる程…私は強くなどない……」


「…柊さん……」


私の吐き捨てた言葉に篠塚は何も言い返さなかった、私が返答に困る様な事を言ったのがそもそもの原因だが再び気不味い沈黙を作り出してしまった自分の行為を私は少し反省する。


「…変な事を言って済まない、今の話は忘れてくれ……今はこんな所で油を売っている場合ではない、新たな殺人が起きたという事は犯人に繋がる新たな証拠が見付かるやも知れないからな」


「そ…そうですね、今は少しでも犯人の手掛かりを掴む事が先決です!」


「…まぁそれはそうと……現場の調査は他の刑事に任せるとしようか……」


「え? そ、それはまたどうして?」


「何故、か……我々には一つどうしても確認すべき事柄があるだろう?」


「……確認すべき事柄…ですか?」


怪訝そうな顔を浮かべる篠塚には眼もくれず私は先程から感じる視線の元を素早く追った、そこにいたのは卑下た群衆に交ざり部下を両脇に置きこちらを見据える両手に手錠を掛けられた眼鏡の男だった。


(…綾崎和箕……貴様、本当に何者なんだ……)


腕を組みながら私を見詰める男の眼が私の視線と一致する、何も語らず互いの眼中を覗くその行為は私の中で急速に強い焦りを生み出した。男の眼は何度覗いても奥底に眠る本心は見抜く事が出来無い、それは至極当然の事である筈なのだが何故か私にはその結果が歯痒いものに思えて仕方無かった。だが私は一つ確信足る事象がある、私を見詰める男の口許が僅かに緩み薄い笑みを浮かべているのを私は決して見逃さなかった。



 再び警察署に戻ったのはそれから二時間程経った後の事、とうに昼飯時は過ぎているにも関わらず私は未だ腹に何も入れず職務を熟していた。元々少食であり普段から空腹という感覚をあまり感じない体質の私には食事等の休憩は不要である、そもそもあれ程凄惨な殺人現場を目撃していながら呑気に食事を取るなど出来る筈もなかった。

 警察署内の廊下を足音を立てながら歩いていると見慣れた人物と擦れ違う、互いに互いの存在に気付くと振り返り相手の顔を見合わせた。


「おう柊じゃねぇか。相変わらず忙しそうな顔しているな、その眉間の皺少し緩めた方が若く見えるぞ?」


「…鬼村警部、その様な呑気な事を言っておられる場合ですか? 新たな被害者が出たのはご存じの筈でしょう、ならば一秒たりとも能天気に構えていられる場合ではないのですよ?」


「…能天気って、お前……まぁとやかく言う気は毛頭無いが、少しぐらいは身体休めた方が身の為だぞ。気張ってた所で身体に鞭打つのにも限界が有る、多少の息抜きしたって罰は当たらねぇよ」


「…お気遣い痛み入ります。済みませんがこれから取り調べがあるので、それではこれで……」


私は鬼村警部に一礼するとすぐに歩き出そうとする、しかし後ろから呼び止める声が私が出した足の動きを止めた。


「……柊…取り調べってまさか綾崎って奴の事か? 悪い事は言わねぇが止めておけ、あいつは他人とまともに話が出来る様な奴じゃない…お前さんには色々語っているみたいだが、それが事実だという証拠は何処にも無いんだぞ?」


鬼村警部の言っている事はもっともの意見である、しかし私は振り返ると私の思いを口に出した。


「…鬼村警部、この事は私に任せて下さい。揚げ足を取る訳ではありませんが、先程言われた様に私はとやかく言われたくありません……心配は無用です、私は自分が思うすべき事をしているだけなので…」


私は自分の思いを言い終えると再び歩き始める、私の背中に鬼村警部の強い視線を感じたがそれ以降何かを言ってくる事はなかった。私はひたすらに先を急ぐ、擦れ違う他の刑事達には眼もくれず私は力強く歩みを続けていた。



 取調室に入るとそこには篠塚が静かに硝子窓と睨み合いをしている、篠塚の目線の先を合わせると硝子窓の向こうには机に突っ伏している男の姿が見て取れた。私は別段不思議がる事無く、現在の状況を冷静な態度で篠塚に尋ねる。


「…綾崎の様子はどうだ?」


「見ての通り熟睡してます、弁当食べ終わってからすぐに眠りに付いたんで…大体三十分ぐらいはあの状態です」


「…そうか……しかし相変わらず呑気な奴だな、第三の殺人が起きたというのに気持ち良く眠っていられるとは……」


「彼にとって殺人なんて取るに足らないもの、と認識しているのかもしれませんよ? それより何故また彼を取り調べる必要があるんです? 彼はもう十分取り調べた筈ですが……」


「いやまだだ、まだあいつには話してもらわねばならん事がある……正確には話してもらう事が増えたというべきか…」


私は部屋を抜けると今見える硝子越しの部屋へと進入する、複雑な心境を心の底に捩じ伏せたまま私はドアノブに手を掛けた。部屋の扉を開けても綾崎は起きる気配が無い、その姿に些かの苛立ちを覚えながら私は綾崎の身体を揺すり覚醒を促した。


「起きろ綾崎、取り調べの時間だ」


「……スー……スー……」


「…寝るな起きろ、貴様には聞きたい事が山程あるんだ!」


「……うぅ…そ、そこの御仁…どうかこの老いぼれに……い、今一度鮪の刺身を……」


「……貴様…いい加減起きろと言っているだろうが!!!」


私はいよいよ耐え切れなくなり綾崎が突っ伏している机を思い切り殴り無理矢理にでも叩き起こそうとする、それでようやく目覚めた綾崎は酷く困惑した様子で声を上げた。


「あぁぁぁ!!! ハァ…ハァ…危なかった、後少しで女性下着を顔に巻いた連中に足の先から紅葉下ろしにされるところだった……」


「……起きた様だな…それにしても騒々しい奴だ、先程まで一体どんな夢を見ていたんだ?」


「……あれ? 確か貴方は……松林…」


「柊だ、合っているのは木偏だけだぞ。何度もそうやって私の名前を間違えるとは、どう考えても私を敵視しているとしか思えないが……」


「…まぁまぁ、そう怒らないでよ二人共」


「……見る限りこの場所には貴様以外には私一人しかいない筈だが……」


「…細かい事はどうでもいいじゃん、それより何で僕は此処にいるんだっけ……確か新たな殺人が起こって…その後無理矢理パトカーに乗せられて……誘拐されて………白昼夢?」


綾崎の突拍子も無い支離滅裂な発言に付き合っていられる自信が無くなった私は、男の耳を掴み椅子から引き剥がし強引に立たせると耳穴に向けて声を張り上げた。


「…貴様が此処に連れて来られたのは貴様に聞きたい事があるからだ!! 今度また馬鹿げた事を抜かそうものなら貴様の鼓膜破ってやるぞ、分かったか!!!」


「…い、今にも破れそう……いや何でも無いです! 思い出しました思い出しました、思い出したから早く手を離して…」


綾崎の懇願に私は素直に従い手を離す、すると綾崎は何事も無かったかの様に少し乱れた髪を整えると椅子に深く腰掛けた。


「……それで、僕に聞きたい事があるって言ってたけど一体何?」


綾崎は表情一つ変えずまるで他人事の様な口振りで言葉を現す、その姿に私は苛立ちを覚えずにはいられないが怒りを抑えると綾崎と対面する形で椅子に座った。


「……よくまぁ私に出任せを掴ませてくれたものだな、貴様の意見を素直に信じたあの時の私が馬鹿だったよ!!」


「…出任せ? ちょっと待って下さいよ、一体何の話です? いつ僕が貴方を陥れる様な真似をしたんですか!?」


「…貴様…戯れ言も大概にしろ!! 連続殺人があの学校の七不思議になぞらえて行われたものだと言ったのは僅か二、三時間前の話だろうが!! だが実際に殺人が起こったのは体育館の外側の倉庫ではなく内側の倉庫だった、これで貴様に嘘偽りがないとすればどういう事か説明しろ!!」


「……あぁその話ね、まぁ確かに僕の教えた情報に多少の間違いがあったのは謝るよ。でもだからといって今更僕を非難するのは見当違いじゃない? そもそも君達は最初から僕の意見を信用してなんかいなかったでしょ、自分の得になる情報だけが違ってたからって僕に食って掛かるのは些か場違いなんじゃない?」


「…今は貴様の意見を悠長に聞いている場合では無い!!」


「ならどうして僕を此処に連れて来たの? 僕の事非難するのが目的なら、そっちの方が時間の無駄じゃない?」


「……貴様はあの学校の関係者だ、関係者であるならば少なからず殺された被害者の共通点を知っていると思ったからだ。それに貴様は稚拙ながら学校の調査をしていたと見て取れる、ならば我々の知らない何かを知っている筈だ!」


「…成る程……まぁ僕を非難する気持ちはちょっとは分かるよ、でもね……僕の意見が完全に的外れとするのはまだ早いんじゃないかな?」


「……どういう事だ!?」


私は身体を前に乗り出し綾崎に強く問い掛ける、しかし綾崎は私とは違い至って冷静な態度で話し出した。


「確かに僕の出した情報は的の中心を射るものじゃなかった、だけど決して的に矢を射られなかった訳じゃないよ。僕は外側の体育館倉庫を見張っていたけど実際は内側の体育館倉庫で殺人は起こった、若干の違いはあるけど僕の言葉が十割嘘偽りだって言うには早過ぎはしないかな?」


「……つまり貴様は、今回の殺人は犯人が路線を変えて行った、とでも言いたいのか?」


「そういう事、よく僕の言いたい事が分かったね! 僕は犯人が意図的に殺人現場を変えたと思っているんだよ、犯人はもう二回も殺人を犯しているんだからいい加減誰かに感付かれる危機感を覚えて当然でしょ?」


「……確かに貴様の言い分は分かる、しかしだとすれば犯人が七不思議になぞらえて殺人を犯しているという事柄に矛盾が生じるぞ。犯人が七不思議に拘泥するなら危険を承知でも貴様の言う通りにした筈だ、それを意図的に変えたという事は…」


「…犯人の目的は七不思議に非ず、って事かな? まぁそういう見方もあるっちゃあるけど、それを言い出したら切りが無くない?」


綾崎の意見はもっともである、七不思議がこの殺人を成り立たせる要素でないとすればこの殺人を成り立たせる本当の要素とは何なのか、今の私の頭では考えた所で答えを見出だせる自信は無かった。私は一度嵐吹き荒れる脳内から一切合切思考を吹き飛ばす、頭を強く掻き乱すと私の口は次の話題の話し出した。


「……取り敢えず犯人の動機は後回しだ、それより狙われた被害者達の共通点を探し出さねばなるまい。綾崎、貴様何か知っている事はないのか、聞けば臨時教員と言っていたみたいだが…」


「……まぁ臨時教員って言ってもあの学校に勤め始めてまだ一月しか経っていないから、生徒並びに教師の関係性なんて詳しい事は何一つ知らないよ?」


「……その言葉…信じていいな?」


「疑い深い人だなぁ、僕が嘘を吐く人間に見えるっていうの?」


綾崎は両手を広げると自身を見てくれと言わんばかりに天井を仰ぐ、その姿に私は暴力衝動が溢れ出るのを止められなかったが机に拳を押し付け無理矢理感情を押し殺した。

 結局鬼村警部の言葉通りこの男への取り調べは何一つ成果を上げられない無駄骨として形付けられた、この遣り場の無い形容し難い感情を何処に向ければ良いのか分からず私は乱暴に椅子から立ち上がった。私はしばらく何も語らず部屋の中を徘徊しながら事件について考える、死体に対する残酷とまで言える破損と殺人に狂った犯人の動機、そして被害者達の共通点が何なのか私は今まで得た情報から探り当てようとしていた。だが幾ら頭を捻ってもどの事柄にも繋がらない思考だけが脳髄を回遊し、頭を使えば使う程に生み出されるのは激しい頭痛だけであった。


(……駄目だ、考えれば考える程泥濘に足を取られる…これ以上は私には到底考え付けられない次元なのだろうか……)


考え悩む事が今の私を苦しめる元凶であると分かっているのに私の頭は考え続ける事を止めようとはしてくれない、些か矛盾を生じ始めた頭を抱えているとこの空気を全く読めていない男が軽い調子で喋り出した。


「ねぇ昼御飯の弁当が終わったんだからさぁ、何か口直しに甘いデザートでも買って来てよ! 取り敢えず候補としては、ショートケーキとドーナッツとシュークリームとエクレアと…」


「少し黙っていろ!! 今の貴様の声は耳障り以外の何物でもない!!」


「……カルシウム足りて無いんじゃない?」


綾崎の歯に衣着せぬ物言いに私は反射的に拳を握り殴り付けようとする、しかし後一歩の所で私は踏み止まると頭に浮かんだ綾崎を殴り飛ばす映像を胸に仕舞い拳の力を徐々に緩めた。


(……結局何も掴めず仕舞い…やはりこの男に頼ろうとした事自体そもそもの間違いだったのかもしれんな……)


私は自分の頭の中で都合の良い解釈をしてしまう、それが反人徳的で身勝手極まりない思考であるのは百も承知だが今の私には自戒の念など到底持てはしなかった。私はこの男に敵愾心以外の感情を見出だせない、それはこの男が変人である事実が関係しているがそれ以上にこの男が私の経験では推し量れない未知の存在である事が私の本能に危機を囁いたのである。

 事件及び綾崎への困惑の念が私の精神をじわじわと侵食している事に頭を悩ませていた矢先突然取調室の電話が口喧しく鳴り響く、私と綾崎は共に声を張り上げる電話に視線を合わせると少しの間沈黙した。しかしこのまま電話が泣き止むのを待っている訳にもいかず、私は静かに歩きゆっくり受話器を取ると耳許に当てた。


「…こちら柊です」


『おう柊か、取り調べの調子はどうだ?』


「……やはり鬼村警部の忠告を素直に聞いていれば良かったと思っていた所です」


『…つまり何も聞き出せなかった、という訳か。だから言っただろ、とは言わんが…もう少し頭を冷やせ、逆上したって事件は解決しないんだからな』


「……本当に恥ずかしい限りです…」


私は顔を俯かせながら力無く答える、しかしすぐに気持ちを切り替えると今度は私から鬼村警部に質問する。


「…ところで鬼村警部、わざわざ私に電話をなさったという事は何か伝えたい事でもあるんですか?」


『おぉそういえばそうだったな、いや大した事じゃないんだが……さっきから署の入口で馬鹿みたいに騒いでいる連中がいてよぉ、何か心当たりは無いかと思ってな』


「……馬鹿みたいに騒いでいる連中…ですか?」


『あぁ、その連中ってのが学生服を着た二人組でな、なんでも「隊長は無実だ」だの「隊長を解放しろ」だの意味の分からん事ばかり叫んでいるんだが……』


「…学生服……隊長……」


私の頭の中でその二人組が何者であるのか容易に想像が付く、分け目も振れない思い切った行動と恥も外観も無い行為は彼等が敬愛する男に非常によく似ていた。


「…鬼村警部、彼等は怪しい連中ではありません。今私が取り調べをしていた男の…部下とでも言いましょうか……」


『部下? まぁ詳しい事はよく分からんが危ない連中でないなら問題は無いだろう、だが耳が痛くなってきてな…いい加減黙らせたいんだが……』


「分かりました、取り敢えず綾崎の取り調べは終わりましたので解放します。そうすれば彼等も落ち着くでしょう」


私は耳許から受話器を離すと今度は綾崎の方に眼をやる、何も言わずただこちらを静かに見据える男に私は声を掛けた。


「貴様は帰っていいぞ、どうせこれ以上の手掛かりは見込めんだろうからな」


「それは良かったよ、僕だっていつまでもこんな狭苦しい出会い系カフェみたいな所で犯人扱いされるのは嫌だからねぇ」


綾崎は眼鏡を外すと一つ大きな欠伸をする、食って掛かった様な発言とは裏腹に男の行動は気の抜ける呑気なものだった。私は綾崎の平和な様相を見て思わず辛気臭い溜め息を吐く、私は幾らかの嫌気を覚えると受話器を耳許に戻し鬼村警部との通話を再開する。


「…綾崎はすぐにでも帰るでしょう、入口にいる学生二人の騒ぎも無くなると思います」


『そうか…つまらん事で電話して済まなかったな、それじゃ電話切るぞ』


「はい……あ、鬼村警部、ちょっと待って下さい!」


私は電話を切る直前になってある考えが芽生えた、私の言葉に反応して鬼村警部は怪訝そうな声で尋ねる。


『ん、どうした? まだ何か聞きたい事でもあるのか?』


「いえ、聞きたい事という訳では無いんですが……少しだけ頼まれてほしい事がありまして……」


『頼まれてほしい、か…俺に出来る範囲内ならやってやらん事も無いが……』


「はい、実は……」


私は自分の中である決断をした、これ以上被害者を出さない為にするべき事は今はこれしかないという確信があっての決断だった。私は自分の言葉で鬼村警部に協力を求める、電話越しの鬼村警部は静かに私の言葉を聞き入った。そして鬼村警部は私に返答する、今度は私が鬼村警部の言葉を聞き入っていた。



 二月も中旬だというのに身体を凍てつかせる肌寒さは薄まる様子は無く、窓の向こうには溶けかけた雪の上に覆い被さる新たな雪の姿があった。季節の変化を感じさせないこの気候が私は気に入らなかった、数日前と変わらない世間の様相に私は今の自分の現況を重ね合わせたからだ。私はとことん暗鬱な感情を引き出してしまう、それが今の私を正確に表していると言っても過言ではなかった。

 ちらちらと降り頻る雪が風景を白く塗り替え始めた頃、私はある場所に立ち今から起こり得る未来の現実に薄く戸惑っていた。その場所というのは普段生徒は疎か教員ですら足を運ぶ機会が少ないと思われる校内のとある一室、足を着き軽く呼吸をするだけで重苦しい空気を内と外から感じさせられる校長室である。歴代の校長の写真や学校を上空から写した写真、記念の盾や優勝旗に黒を基調としたソファとインテリアの数々が並べられた室内はその場にいるだけで気を引き締める効果がある。私自身校長室など学生時代には二回か三回程度しか訪れた事がなく、今こうして沈黙を噛み締めているだけで嫌な緊張感に苛まれる。だがその緊張感を少し和らげてくれる人物が横に一人、私と共に眼前で堂々と座る男と対峙してくれていた。


「…ようこそお越し下さいました、私はこの中学校の校長をしている『藤江憲三』という者です。お二方は確か警察の方だとお聞きしましたが……」


「はい、自分は警部の『鬼村玲ー』です。そしてこっちが…」


「警部補の『柊瑞波』です、今日はこちらの急な都合に合わせてもらい有り難く思っております」


「いえいえ滅相も無い、警察の方からの要望ならば断る理由なぞありますまい」


「ご理解頂けて嬉しく思います、早速ですが今日は学校の責任者である貴方に話しておきたい事があって時間を頂戴した次第でして……」


「…話、ですか……分かりました、内容を聞かせて下さい」


私は一つ礼をすると背を張り姿勢を正す、この場所から湧き出る異様な空気を静かに吸い込むと私は口を開いた。


「…率直に申し上げます、今すぐにこの学校を閉鎖し生徒の外出を禁止して頂きたいのです」


「……学校を閉鎖、ですか……成る程、それが貴方達警察の要請ですか……」


「はい、これ以上被害者を出さない為に最も必要な事だと私は考えています。犯人の目的が分からない以上これから更なる殺人が起こり得ると想定するのが当然です、ならまだ間に合う内に手を打って措かなければまた同じ惨事が繰り返されてしまいます!」


私は感情を高ぶらせながら強い口調でそう答える、そんな私の言葉を聞いた藤江校長は肘を突き拳を絡めると眼を伏せ考え事をする姿勢を取った。


「…この先新たな殺人が起こる可能性は極めて高いです、まだ救えるであろう命があるのならば一刻も早く行動しなければ…」


「確証はあるんですか?」


「……はい?」


「この先新たな殺人が起こり得るという確証があるのか、と聞いているんです」


「…それは……流石に未発生の事なので断言は出来兼ねますが…」


私は先程までの勢いを削ぎ落とされ覚束無い口調で答える、その様子を見た藤江校長は絡めていた拳を広げ肘掛けに置くと私を見据えながら話し出す。


「柊さん、でしたかな? 貴方の言う事はよく分かります、しかし今この学校を閉鎖する訳にはいかないのです」


「……何故ですか?」


「…この時期になりますと公立高校の一次試験、加えて市立や私立の二次募集が始まり生徒達は今より一層勉学に励まなければならないのです。この様な大事な時期に学校を閉鎖するのは生徒達の夢を奪う様なもの、ですから私は貴方達の学校閉鎖の意見を聞き入れる訳にはいかない……お分かり頂けますか?」


「…そんな事を言っている場合ですか? 生徒の未来も考えるべき事ですが、今は生徒の安全を守る事が第一ではないのですか!?」


「そんな事だと、貴方は教育者じゃないからそんな軽はずみな事が言えるんだ! 生徒達はこの日この時の為に三年間必死に勉強をしてきたんですよ、その生徒達の努力の結晶を私の一存で消し去るなど……私には出来無い、出来る筈がない!!」


「…何事にも特例という事態が発生します、今は生徒の安全を確保するのが先決でしょう! 既に三人が殺されてその内一人は教員だった、最早生徒だけでなく学校関係者全員の問題なんです、貴方自身も危険に晒されているのですよ!?」


「私はそれで一向に構わない、自身の身を挺せず責務を全う出来ぬなど教育者の恥たる存在だ。残念ながら貴方の意見を受け入れる訳には…」


「そんな教義など知った事ではない!!」


私は耐え切れず感情の籠った拳を校長の机に叩き付ける、私の予期せぬ行動に藤江校長が一瞬驚き身体を強張らせると私は続け様に言葉をぶつけた。


「…私は教育者では無いし我が子を持つ親でも無い、故に貴方の言葉を深く受け止める事が出来ません…だとしても今は生徒の安全の為に行動を起こすのが先決、その考えだけはどうしても覆す訳にはいきません!! 貴方の言う通りにして仮に事件が起こらなかったとしましょう…しかし生徒や教員達は毎日喉元に刃を突き付けられる様な思いで生活せねばならなくなる、そんな状態で貴方が唱える教育理論が何の役に立つと言うんだ!!」


「…そ…それは……」


「貴方の一存で生徒の夢が崩されたとしても生徒達そのものの未来は守る事が出来る、それが何故分からないのかと聞いているんだ!!」


「……柊、その辺にしておけ……」


「……だが私は…学校の閉鎖など……」


興奮冷めやらぬ私の高揚を危惧したのか鬼村警部が言葉で私を抑止する、だが何度怒号を発そうとまるで信念を曲げようとしない藤江校長に私は制止の声など構わず更なる怒号を発した。


「貴様は何をそんなに恐れている!? 最早弁論の余地など残っていない、ならばすぐさま学校を閉鎖させて…」


「いい加減頭を冷やせ、柊!!!」


私が鬼村警部の凄まじい怒号に気圧されると今まで持ち合わせていた興奮の全てが抜け落ちる、興奮の余韻か肩で息をする私に対して鬼村警部は私とは比べ物にならない程の剣幕で私を怒鳴り付ける。


「口を慎め、興奮するとたがが外れて歯止めが利かなくなるのがお前の悪い癖だ!! 何度も冷静になれと言っているだろ、いい加減警官らしく立ち振舞るって事を覚えたらどうなんだ!!?」


「……すみません、逆上して自分の職務を忘れていました…本当に申し訳ありません……」


「その台詞これで何回目だ、どうしてそう何度も俺の忠告を無下するんだ!!? お前はもう餓鬼じゃねぇんだ、自分の感情ぐらい自身で止めやがれってんだ!!」


鬼村警部は私の心に叱責の刃を突き刺すとそれ以上は何も言わなくなり嵐の前の静けさへと戻った、今の私にはその沈黙が心苦しく私の中で反省と自己嫌悪の念を沸き上がらせた。


「…見苦しい所を見せてしまい申し訳ありません、興奮すると我を失ってしまうのがこいつの悪い癖でして……どうか許して下さい…」


「……あ…あぁ……」


鬼村警部の剣幕に圧倒されたのか、藤江校長も私と同じ様にその怒号に気圧されていた。鬼村警部は私を一瞥すると先程とは打って変わり非常に落ち着いた声で藤江校長に話し掛けた。


「…藤江校長、先程のこいつの無礼は謝ります…ですが自分もこいつの意見には反対はしていません」


「…え……それは、つまり…」


「自分も柊の言う『生徒の安全を第一に考える』という意見には賛同している、と言っているんです。確かに校長として…或いは教育者としての貴方の意見はよく分かります、ですが今は先の事より今…今よりすぐ後の事を考えなければなりません」


「…だ、だだだ…だとしても大事になればマスコミが騒ぎ始める……まだ騒いでいないとはいえ、それは学校及び生徒にはあまり良くないのでは……」


「確かに言われてみれば人が三人も殺されているのに未だマスコミが騒いでいないのが不思議ですね、恐らく嗅ぎ付けてはいると思いますがまだ下手に騒ぐ事が出来無い状況だと思います。そんな現況で学校を閉鎖すれば間違い無くマスコミは騒ぎ始める……懸念材料としては申し分ないですが、今閉鎖しておかないともっと不味い事になると思いますが?」


「…ま、不味い事…ですと?」


「はい、もし仮に藤江校長の言う通りにこのままの状態を維持したとしましょう、しかしそれでもし誰か生徒もしくは教員が殺される様な事になれば……藤江校長、残念ですが貴方は糾弾だけでは済まされないと思います」


「…な……」


藤江校長は口を開いたまま動揺一色の顔を向ける、鬼村警部は穏やかな口調ながら厳しい表情を浮かべ更に続けた。


「…我々の言う通りに行動すればもし殺人が起こったとしても非難されるのは警察、貴方は自分の行いに胸を張る事が出来ます。だがもしこの状態を維持して殺人が起これば非難の矛先は校長へと向かい責任を取らなければならなくなる、そしてマスコミは有る事無い事能弁を振るい始終貴方を非難し続ける。もしそうなった場合の貴方の運命は…良くて厳重注意、悪くて……懲戒免職……」


「…ち、懲戒免職……」


藤江校長は眼を丸くしそのまま項垂れる、鬼村警部のやり方は些か性悪な気が否めないがこの強情で頑固な男には効果的だろう。鬼村警部の話で完全に力を無くした様に見えた藤江校長だったが、ゆっくりと顔を上げ尚も同じ言葉を口にする。


「…だ、だが……やはり私には…学校を閉鎖など……」


(…この…強突く張りが!!)


私は未だに燻っていた怒りの残滓に火を付けると再び藤江校長へ口を出そうとする、しかし鬼村警部の鋭い視線に釘打ちされてしまい私は仕方無く怒りを自分の胸に仕舞った。私の怒りを眼で抑止した鬼村警部は、眼の色を変えると今度は藤江校長に視線を合わせた。


「…まぁ我々も貴方に考える時間を与えないという酷な仕打ちはしません、貴方の納得がいく結論が出るまでじっくり考えておいて下さい。だが……少なくとも今この場所で人が三人も殺されたという事と未だ我々が犯人を捕まえられていないという事だけは頭の片隅に置いといて下さい…では我々はこれで……」


鬼村警部は深々と礼をすると後腐れの無い様子で校長室の扉へと足を進める、そして未だ心残りが拭い切れず足が動かない私に対して鬼村警部はこちらを振り向き厳しい口調を現した。


「何やってる柊、いつまでもそんな所で突っ立っていられる程俺達は暇じゃねぇんだぞ? さっさとずらかるぞ、注意の続きはそれからだ」


「……はい、すみません……」


私は鬼村警部の言葉に従い重い足を動かすと藤江校長に一瞥する事無くその場を後にする、扉を開け廊下の薄ら寒い風に一瞬鳥肌が立ったが意に介さず部屋の外へ足を踏み出した。最後に身体の正面を後ろに向けると姿勢を正し頭を下げる、礼儀という名目の為止むを得ないが私はあの男に頭を下げる気など毛頭無いのは言うまでもなかった。

 人間の皮膚がどれ程寒さに弱いか身に染みて感じさせる廊下に立つと私は初めに鬼村警部に再び頭を下げる、つい興奮してしまったとはいえ自分の感情を上手くコントロール出来無かったのは全面的に私が悪いからである。


「……申し訳ありませんでした、先程は自分を抑え切れず暴走を許してしまいました…本当にすみませんでした!」


「…もうそろそろ覚えてくれてほしいんだがな、取り敢えず終わった事にいつまでも思い詰めるな……お前のその暴走とやらは毎度の事だろ、今更謝られてもこっちが困る…」


鬼村警部はそう呟くと頭を掻いた、その言葉は本心から来るものかそれとも私への皮肉なのかは分からないが私はその言葉で多少なりと自己嫌悪の念を剥ぎ落とす事が出来た。少しの間互いに言葉を交えられぬ気不味い静寂が流れると、鬼村警部は逸早くその静寂から抜け出し玄関口へと向かった。私も一足遅く動き始めると鬼村警部の後を追いその横に並んだ。


「……にしてもさっきのお前の発言には驚かされたよ、お前も偶には立派な事言える様になったんだな」


「その言い方は止めて下さい、それじゃあまるで私がいつも手当たり次第に怒鳴り散らしているみたいじゃないですか」


「同じ様なもんじゃねぇか? 端から見りゃお前さんは難癖付けて激昂するヤクザか何かだぞ、取り敢えずそのすぐ頭に血が上る性格を治すべきだな」


「言われ無くとも分かっているつもりですが…やはり怒りが込み上げてきてしまって……」


私は自分の額に手を付けるとまだにわかに燻る怒りを静かに落ち着かせる、自身に対する悔しい気持ちが未だ胸の奥から剥げ落ちない嫌悪感に苛まれながらも私は自分の行動を振り返った。


「…それにしても、まさか鬼村警部が私の頼みを聞いてくれるとは思ってもいませんでした。駄目元でもやっぱり言ってみるものですね」


「何だ、その口振りは? その様子だとまるで俺が手を貸さないと思っていたみたいだな……俺も随分と部下に見放されたものだ……」


「いや、何もそこまで言っている訳では………ん?」


私は鬼村警部の返答に弁解をしようとした時、私は違和感とも言えない妙な気配と微かな物音を感じ取った。


「鬼村警部、今何か聞こえませんでしたか?」


「は? 俺は別に何も聞こえなかったが……ただの空耳じゃないのか?」


「いえ、確かに今何か聞こえた様な……」


私は今通った道を戻ると耳をそばだて微かに聞こえた音を聞き取ろうとする、眼を閉じ耳に意識を集中させると私は物音が強く聞こえるある部屋の前で立ち止まった。眼を開けるとそこは先程まで私がいた校長室の丁度隣に面する部屋だった、私は耳を部屋の扉に付けると中から聞こえてくる音を聞き取った。


「…あの女刑事凄いですね、此処で聞いてるだけで漏らしてしまいそうでしたよ。あれじゃ結婚どころか彼氏だって出来ませんよ、絶対」


「女の方も凄いけど男の方も凄まじいぞ、あんなのまともに受けたら誰だって失神するよ。警察って怒りっぽい人が多いのかな、カルシウム足りてないんじゃない?」


「やっぱり僕が見込んだだけはあるね、これはまた面白いものが見れる前兆かもしれないな。二人はあの短髪で無精髭の生えた刑事を見張ってくれ、僕は引き続きあの何とかって刑事を見張っているよ」


小さな声だが微かに聞こえる言葉は何処かで聞いた覚えのある声である、あからさまに私を侮蔑する会話を聞き私の身体は本能的に動き耳を付けていた扉を勢い良く開けた。


「「………あ!」」


「……あら、噂をすれば…」


扉を開けるとそこには私の想像した通りの顔触れがいた。この学校の制服を着込み髪留めと眼鏡を掛けた二人の学生は少し驚きながら、寒そうな長袖のワイシャツを着込んだ眼鏡の男は平然としながら私を見据えていた。片手に紙コップという極めて異様な光景を作り出す三人組、それを眼にした私は怒りで身体を震わせ歯を噛みながら尋ねた。


「…貴様等……一体此処で何をしている」


「え? あぁこれは、その………ほら、最近の学生って常にパソコンとか携帯電話とか使っているせいで頭の中が溶けたアイスクリーム状態って言われるじゃないですか、なので此処は初心に戻り糸電話で通話の有り難さを実感しようという試みをしている最中なんです!」


「そ、そうです! 俺達は今軽い先祖帰りをしているんです!」


「声と声を繋ぐかけがえの無い糸…それはまさにロマンチック以外の何物でもありません!」


「…成る程、貴様達が馬鹿丸出しで訳の分からん課外授業をしているのは分かった。だがその糸電話、どう見ても糸が付いてない様に見えるんだが……」


私の言葉に生徒二人は互いに顔を見合わせる、それに釣られたのか綾崎は両手を上げ負けを認めた姿勢になった。


「参った、降参です!! 先程まで僕達はこの部屋から隣の校長室の会話を一言一句漏らさずに聞いていました! さぁ後はどうにでもするがいい、煮るなり焼くなり好きにするがいい!!」


「…貴様達が何をしていたかなど言われなくとも分かっている……だが未だに自分のやっている事の意味が分からん様だな!」


「意味? そんなの楽しいからに決まっているでしょうに、何を今更的な事を…」


「……確信犯か…貴様、また留置場にぶち込まれたいのか!!?」


私は思わず怒号を上げる、その声に圧倒された生徒二人は綾崎の後ろに身を潜めてしまった。再び感情が高ぶり怒りが制御不能の三歩手前まで差し掛かった時、私の後ろから聞こえた声が私を再び抑止する。


「おい何やってんだ柊、そんなに怒鳴り散らして一体どうしたって…」


私の背後から部屋の様子を窺う鬼村警部、すると警部の目線と綾崎の目線が合い互いに互いの存在に気付いた様だ。


「ん? なんだお前、誰かと思えば確か柊の取り調べ受けてた野郎じゃねぇか。それで後ろの二人は…お前が取り調べ受けてる最中ずっと大声で騒いでた奴等だな……こんな所で何やってんだ?」


「こんにちは、僕は綾崎和箕って野郎です。いやぁ最近の学生って常にパソコンとか携帯電話とか使っているせいで頭の中が溶けたアイスクリーム…」


「どうやらこの三人、先程までの我々の話を聞いていたみたいです。これは非常に由々しき事態です、すぐにでもこいつらを捕まえて…」


「まぁ待て柊、確かにこの連中がいけ好かないのは分かるがそれだけでこいつらを捕まえる訳にはならんだろう。それにこいつらにもこいつらなりの考えがある筈だ、仮に捕まえるとしてもそれはこいつらの話を聞いてからでも遅くはないんじゃないか?」


「……まぁ…鬼村警部がそこまで言うのであれば……」


私は鬼村警部に諭され仕方無く綾崎達から手を引いた、私が大人しくなったのを見計らうと綾崎は嬉々とした様子で話し出した。


「さて、お話出来る時間を頂き非常に有り難い所ではありますが……そちらの髭の方、悪いけどどっか行っといてくれませんか?」


「……柊、お前がどうしてそこまで怒るのか…今ようやく身に染みて分かったよ……」


「…ですからもうこの男に関わるのは止めましょう、この男は自分勝手で他人を不快にさせるのが好きな変人なんですから……」


「まぁそう険悪になるな、こいつらが俺の退場を望んでいるなら別に俺は反抗的にならずとも黙って出て行ってやる。後は四人で仲良くしてくれ、俺は先に車に戻ってるが……柊、間違っても裁判沙汰にはしてくれるなよ?」


「……それは…何とも難しい相談ですね。しかし心配はいりません、裁判沙汰だけにはしませんので…」


「……嫌な予感がするが…まぁお前さんの言葉を信用するか」


鬼村警部は私に背を向けると一人静かに玄関口へと歩いて行った、対峙する者が私だけになると綾崎は更に口喧しく喋り出した。


「いやぁしかしこんな所で出会うなんて流石は運命といった感じですね、これは最早頭に翼の生えた中年のキューピットの巡り合わせとしか考えられません。ちょっとそこでお茶しませんか、職員室の横にある給湯室ですけど美味しいお茶御馳走しますよ?」


「……貴様、今私がどういう感情が分からんのか?」


「…うーん……目許の皺の加減と眼の色を考慮すると、今の貴方の感情は………恍惚?」


綾崎が首を傾げながらそう答えた次の瞬間、私の右手は内に秘めていた本能を剥き出しにすると綾崎の左頬目掛けて勢い良く拳を振るった。私の拳をまともに喰らった綾崎は体勢が少し片方に傾いたが、首を振り左頬を手で押さえると悲しげな表情で話し出した。


「痛いなぁもう、そんなに殴ったら僕の愛らしい顔が粉々になっちゃうじゃないか! 僕も悪かったから謝るよ、それとも今すぐにでも裁判沙汰にするつもりかい?」


「心配するな、私は貴様と法廷でやり合う気など毛頭無い。戯れ言はもう聞き飽きた、さっさと用件だけを伝えろ」


「……グスン、ちょっとくらい僕のお遊びに付き合ってくれたって良かったのに……まぁいいか、それでは改めて本題に入りましょう!」


綾崎は眼鏡を手で少し上げると先程までへらへらしていた顔を何時に無く真剣な面持ちへと変化させる、何やらただならぬ空気が辺りを覆い始めると綾崎はその真剣な面持ちを崩し晴れやかな笑顔を見せ話し始めた。


「貴方を初めて見た時から僕は貴方しかいないと思っていました! いや、これは別に変な意味が込められてる訳じゃないですよ? ただその……つまり、えーと……早い話、僕と手を組みませんか!?」


「…手を組む……貴様とか?」


「……他に誰がいるってんですか?」


「…綾崎よ、今私は戯れ言は聞き飽きたと言った筈だ。悪いが私もこれ以上貴様の冗談に付き合うつもりは…」


「冗談なんて言ってません!! 僕は真剣に手を組もうとお願いしているんです!」


「……もし仮に手を組むというのであればまずはその詳しい概要を聞かせてくれ、話を断るのは後からでも遅くは無いからな」


「お褒めに預かり光栄です、では具体的な概要とやらをお話しましょう。今この学校で発生している連続殺人事件、この事件の犯人は学校の内部の人間と断言しても過言ではないでしょう。外部犯にしてはやり方があまりに派手で見付かる危険がありますし内部犯なら校内を徘徊しても怪しまれる事はありません、これらの事実を踏まえれば犯人が学校関係者だって事は寝起きでも想像が付きます」


「……成る程、確かに論理的な解答ではあるが…それが一体何だというんだ?」


「まだ話には続きがあります、本題は此処から始まります。つまり犯人は内部の人間である事は確定済み、しかしつい先日やって来た部外者である警察がこの学校に潜む犯人を捜し出すのは至難の業、そこで…僕が手を貸してあげようと言っているんです」


「……舐められたものだな、貴様は私個人だけで無く警察組織全体を愚弄するつもりか!? 貴様が手を貸すだと? 詭弁と狂言で他人を惑わせる男に何が出来るというのだ!!?」


私は威嚇を含んだ怒号を綾崎にぶつける、しかし綾崎は一切動じる素振りを見せる事無く頭を掻きながら言葉を繋げる。


「…柊さん、貴方はもう既に感付いている筈です、この学校の異様さ……無関心という気配に、ね」


「……無関心、だと?」


「そうです、考えてもみて下さいよ、もう既に三人も殺されたというのに学校側は未だに事件を黙認しようしています。更に生徒にいたっては殺人が起きたという事実を知りながら平凡な日常を送っている、これは単なる無関心という言葉では片付けられない以上事態です」


私は綾崎の言葉を静かに聞いていた、私も綾崎の言う通りこの学校の異様さに嫌な気配を感じていたからだ。綾崎の言葉と私の記憶が一致する、確かにこの男の言葉通りこの学校は他者個人への関心を抱けない淀みに埋もれてしまっているのかもしれない、私の中で燻っていた疑問が終着へ導かれた瞬間だった。


「…この学校から感じられる嫌な気配、それがある限り部外者である警察は学校の根本など探る事など出来やしないんですよ」


「……それで…手を組むという訳か?」


「察しが良いですね、この学校の関係者である僕と後ろの二人がいれば少なからず学校の内部事情を知る事が出来る、そうすれば犯人を迅速に捕まえる事に繋がると考えた訳なんですよ」


私は綾崎の言葉を聞きながら驚いていた、先程までの変わり者であった筈の綾崎が今では理論に基づき滔々と喋る真っ当な人間へと変貌したのだ。

 話を一段落させると綾崎は私に向けて手を伸ばす、その行動の意味が理解出来無いでいると綾崎は真剣な顔付きで話し出す。


「…此処は一つ協力態勢を整えましょう、互いの情報を公開し合い犯人逮捕という同じ目的の為に手を取り合いましょう」


綾崎はより一層手を前に伸ばすと手を握る様に促した、本来なら此処は素直に受け入れるべきだが私は心の中でこの男を完全には信用出来無いでいた。私は眼を瞑り頭の中で必死に答えを求めようとする、私の手はそんな思考の困惑を映す様に小刻みに震えるのだった。しばらく考えた後に私は眼を開くと綾崎が伸ばした掌を自分の掌で打ち付ける、私の行動の意味を汲み取れぬ様子の綾崎は首を傾げながら呟いた。


「……これは…一体どういう返答ですか?」


「…貴様の意見を聞き入れる気など無い、しかし貴様の言い分は確かに的を射ている事にも違いは無い、そこで……貴様のその自由奔放な頭脳だけ貸してもらう事にしよう、それ以外の貴様という存在とは関わるつもりは無い」


「…それって既に負けを認めている様なものだよ? それを分かった上での同盟と受け取っても一向に問題無いよね?」


「勘違いはするな、貴様と同盟を組むとは一言も言っていない! 貴様は従順に我々の言う通りに行動してもらう、もし少しでも変な行動をすれば……分かっているな?」


「…警察が脅しですか? まぁ僕も貴方が掌を返した様に僕の意見を受け入れたら、それはそれで薄気味悪いけどね……ともかくもこれで僕達は味方同士だ、これからはお手柔らかにお願いします」


綾崎は姿勢を正すと私に対し恭しく頭を下げる、その様子を見ていた綾崎の部下二人は手を叩きまるで祝い事の様な雰囲気を醸し出した。理解するには及ばない不思議な空気を生み出し続ける男達を目の当たりにした私は、一瞬だが自分の下した決断が正しいものなのかと疑わしく思ってしまった。自分の不甲斐無くぶれが生じる思考に頭を悩ませていると綾崎は顔を上げ再び晴れやかな笑顔を私に見せる、刻々と変化していくこの男の表情とその存在感に私は益々不審の念を抱かずにはいられなかった。


(……綾崎和箕……全くもって食えない男だ……)


私はこの男の笑顔を厳しい顔で睨み付ける、その屈託無い笑みの裏に隠れる本心が知れぬ以上私はこの男に心を開くつもりなど無かった。私と綾崎は互いに自身の眼に相手の眼を映し出す、しかし綾崎の眼には明るい笑顔とは違いあの暗く光を吸い込んでしまいそうな濃い黒が映っていた。この男は底が知れない、それがこの男の一番の特徴でありまたこの男の最も危惧すべき所である、私の中で生まれた小さな不審はいつしか巨大な畏怖へと変化していたのであった。



 窓辺から見える景色は静々と小さな冬の粒子を降らせる姿から白く沈黙する静止の景観へと変貌する、足許を埋めさせる程まで積もったそれは雲間から差し込む陽光に照らされ淡い光を放っていた。しかし綺麗に見える雪化粧も溶け始めれば白雪と泥濘、純真と邪心が混ざり合うみすぼらしい姿へと下落してしまう、そんな捻くれた思考が私の頭を支配した。私は窓から見える雪景色と綾崎を見合わせる、この男も窓辺に映る雪と同じく純真を纏った邪心の塊か或いはどちらか片方だけの存在か或いはどちらとも言えない別の存在か、私の頭はこの男の分析ばかりに執着していた。

 不可解な事件とそれ以上に不可思議な男との出会い、それが何を意味するのかは分からないがこれがより複雑な現実の前兆である事は容易に想像が出来る。私は溜め息を一つ吐くと静かに眼を閉じる、混沌とした脳内を尻目に私は微かな雪の音と薄ら赤い肌の凍て付きを感じ取った。



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