其の以2
血塗れの調理室
ある日の事である、調理室で実習が行われ生徒達が一生懸命に調理をしていた。慣れない料理に苦戦をしているがそれでも真面目に取り組む生徒達、教室が活気に溢れる中でそれは起きたのだ。ある生徒が奇妙な事に気付いた、実習中にホワイトボードに書かれていた料理の材料が書き換えられていたのだ。その日作っていたのはホワイトシチューだったが、材料として使われていた『牛肉』が『人肉』に換えてあったのだ。さらに『人参』が『指』に、『玉葱』が『脳』と書き換えられておりそれに気付いた生徒達は嫌な寒気を覚えた。担当の教師は生徒達の中の誰かがやった趣味の悪い悪戯だと思い、あまり気に止めず文字を書き直し授業を続けた。
しかし奇妙な事はそれだけではなかったのだ、もう一つの不思議な現象はその後に起こった。調理が終わり全員で揃って出来上がった料理を味わおうとした時、数人の生徒が料理に違和感を感じたのである。完成したホワイトシチューを食べてもシチューの味は一切無く、代わりに何かの苦い味が口に広がったのだ。
「…ねぇ、これ……何か変な味しない?」
「確かにそうだけど……これって何の味だろう?」
ある一班の全員が自分達の作ったシチューに謎の味が含まれている事に気付いたが、それが何の味なのか誰にも分からなかった。全員が不思議がっていると一人の生徒が震えた声で話し出した。
「…まさか、これって……血の味!!?」
その言葉でシチューを口にした全員の手が止まる、そして少しすると全員が驚きながら騒ぎ出した。その騒ぎに気付いた教師は生徒達のもとに近付き事情を聞いた、すると生徒達はシチューから血の味がすると顔を青くしながら訴えたのだ。そんな馬鹿なと思った教師は生徒達の残したシチューを試しに食べてみると確かに血の味がする、教師はすぐさま調理した具材や調味料を調べたがどれも変わった所など無かった。シチューを作った班の生徒の誰も手を切った覚えは無く、目立った傷も見当たらず血の味がする原因は結局分からなかった。
先程のホワイトボードの悪戯書きと血の味のする料理のせいで調理実習は台無しになった、シチューを食べた生徒達は体調を崩し全員が救急車で運ばれてしまった。後に残った生徒達は皆呆然としてその様子を見詰めていた、その場にいた全ての人間が激しい寒気を感じた。
それ以来調理実習をする生徒は皆何かに怯える様になった、もはや悪戯では片付けられない怪奇現象に全員が震えていた。生徒達の間では調理室で死んだ昔の生徒の仕業とか誤って包丁で指を切った生徒の霊などという噂が騒がれた。しかし昔から学校にいる教師からは、その調理室では何か大きな事故や事件など起きていないと言う。
果たして調理室で起きた一連の不可解な現象の正体は何だったのだろう、今となってはその真実を知る術は無くなってしまった。だが決してこの事件を深く探らない方が良いだろう、次に訪れる怪奇に貴方が巻き込まれたくなければ……
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身体に強く吹き付ける風が進路を妨害し足を遅らせる、冷気を嫌という程味わっても風は一向に止む気配は無く寧ろより一層強まっている様に感じられる。額を舐める冷たさが長引く頭痛を刺激する、その度に遣る瀬無い苛立ちが頭を支配しそれがまた頭痛の原因として発症した。苦行の連鎖に思考の何もかもを根刮ぎ削ぎ落とされる、開けば乾く眼球で曇った行く先を睨んでいた。
一歩ずつ前に出す足が重く感じるのは気のせいではないだろう、昨日の出来事が未だに頭から離れず治り掛けていた精神がまた崩れそうになる。自分の中で沸き立つ重苦しい空気で窒息してしまいそうだ、寝ても覚めても纏わり付く過去に私は心底辟易した。加えて昨日寒い姿でビールを啜ったのが原因で風邪気味か頭痛がする、好転知らずの現実が私に重くのし掛かっていた。吹きすさぶ風を必死に耐えていると子供の頃に読んだ童話を思い出す、いっその事この身に纏う外套を脱ぎ捨てれば風は勝ち誇り止んでくれるだろう、そんな下らない妄想が風に揺られていた。
(…私もいよいよ末期になり始めたか……)
自分の頭に浮かんだ妄想が自分を苦しめる、恥ずかしい様な悲しい様な感情が心でうねり出した。私は更に足を早めた、凍てつく風が厄介な絵空事を消し去る事はなく代わりに持病の頭痛が悪化している気がした。
冷たい風が身心共々凍てつかせた頃、私はようやく仕事場に到着した。しかし刑事の職務は治安維持や事件等の解決なので此処が仕事場というのは些か間違っている気もするが、深く追及しても切りが無いので忘れてしまう事にする。玄関を抜け警察署内に入ると外套の前を開き暖気を取り込む、酷い冷気でひび割れが気になるが無意識に踏み出す足に行く先を任せ進んで行った。
廊下を進み見慣れた風景が眼に入ると私は目的の部屋に入る、まだ早朝だというのに中は多くの人間で溢れていた。人と人との間を接触を余儀無くされながら通り抜け、私はようやく自分の席に辿り着いた。身に纏う外套を脱ぎ椅子の背もたれに掛けた時、私は自分に詰め寄る気配を感じた。気配のする方向に顔を向けると、そこには日常的に代わり映えのしない人物が立っていた。
「…柊さん、おはようございます」
「……篠塚か、そんな所で何をしている?」
私の視界が捉えたのは昨日の殺人現場で顔面蒼白になっていた男であった、半日経っている為顔色はそれ程悪くはないが多少気疲れが抜けていないのが見て取れる。その原因のほとんどは私にあり私が昨日随分と気落ちしてしまった事態の原因もそこにあるが、今の私には何と言葉を掛ければ良いのか困ってしまう。
「……体調はどうだ? 見た所気分の方はあまり優れてはいないみたいだが…」
「はい…まぁじきに良くなる筈です。それより柊さんに言っておかなければならない事があります…」
「ん? 何だ、突然畏まって…」
いつに無く真剣な面持ちの篠塚に私は表情を固くする、少しの間が私の中から余裕を奪い去り静かな緊張が走った。私が言葉を切ってから数秒した後、突然篠塚は私の方へ一歩踏み出し頭を下げる。
「申し訳ありませんでした、自分の不甲斐無さで柊さんに迷惑が掛かってしまい…」
「……言っておくべき事とはその事か…まぁ大方予想はしていたが……」
「え? 柊さん、今何か言いましたか?」
「いや別に……その…何でも無い」
頭を下げ謝罪の言葉を述べる篠塚を私は遠い眼で見詰めた、本来なら立ち位置が違うこの状況に放り出された私は益々投げ掛ける言葉を見失った。差し出す頭を見受けながら私は重い口を開いた、たどたどしい口調を抑えながら私は何とか言葉を絞り出した。
「…篠塚、分かったからその頭を上げてくれ…そんな事をされたら、その…まるで私が無理矢理させているみたいじゃないか…」
「あ…はい、すいません」
長らく下げ続けていた頭をようやく上げると、今度はその眼で私の顔を見始めた。私は酷く動揺した、突然の事だからと言えるが私が口に出した言葉に私自身が考えさせられる結果となった。無意識に出した言葉、それは自身の保身のみしか考えぬ人間の発する常套句だった。唐突とはいえこんな言葉を吐き出す自分が心底嫌いになるが、そんな気持ちを押し殺しながら私は平静を装い話し出す。
「…男子たる者そう易々と頭を垂れるな、必要な威厳が全て削ぎ落ちてしまうぞ? それに……本当に謝るべきは私の方だ、上司という権限を乱用した私の責任でもある……済まなかった…」
私はようやく言わなければならない事を口に出した、昨日から続いた忌々しい鎖を自らの手で切る事が出来たのだ。人が行き交うこの場所でさながら一画だけ時間が止まってしまったかの様に私も篠塚もその動きを止めてしまう。そして止まった時間を戻したのは視線の先にいる篠塚が発した言葉であった。
「……柊さん、ひょっとして…風邪でも引いたんじゃないですか?」
「……確かに風邪気味ではあるが…何故そう思った?」
「いやだって……柊さんにしては似つかわしくない言葉だったんで…」
「………は?」
何が気恥ずかしいのか頭を掻き乱しながら眼を背ける篠塚のその態度に、私は阿呆の如く口を開けたまま様子を伺っていた。そして篠塚の言った言葉の意味をようやく理解した私は溜め息を一つ吐くと、何事も無かったかの様に椅子に座り篠塚に向け口を開いた。
「…全く……貴様という男はもっと有り難味を感じぬのか? 私が柄にも無く謝罪の言葉を述べたというのに…それが開口一番に出す台詞か?」
「すいません…でも柊さんが謝る姿なんて想像も出来ませんし、とても貴重な場面だと思いまして…」
「……自慢ではないが自他了承の硬派な私があんな珍しい姿を見せるなど一生に有るか無いかの貴重だぞ、二度と忘れぬ様その胸に一生涯刻み付けておけ」
「分かりました、この言葉墓場まで持っていきます……そのうち忘れるかもしれませんが…」
「…何か言ったか?」
「いえ、何も」
篠塚は口を押さえながら言葉を消した、その姿と態度には注意を促すべき余地が有るが今は体調を取り戻せた事を踏まえ何も言わぬ事にした。
先程よりも顔色が良くなった様に見受けられる篠塚を見て、私はようやく自責の念を薄めるに至った。結果的に相互作用によって私も篠塚も普段の調子を取り戻す事が出来た、未だ頭痛に苛まれる私ではあったが心のわだかまりが外れた事で身体への重みが幾分少なくなった様だ。鈍い痛みを紛らわす為に頭を押さえ髪を乱しながら、私は普段通りの口調で話し始める。
「……昨日の事でまだ疲れは残ってはいるだろうが、事件は我々警察を待ってはくれない。一刻も早い事件解明の為にも、こんな所でへばってはいられないな…」
「そうですね、これ程までに恐ろしい事件…何としても解決しなければなりません…」
「…早速調子を取り戻し始めたか? ならば悠長に構えている暇など有りはしないな」
私は上げるのが渋られる腰を否応無く上げると、椅子を立ち背もたれに掛けてある外套を再び着込み外出の準備を始める。その様子を見た篠塚も同様に自身の机まで駆けて行くと、私と同じく外套を手に取り再び私の所まで舞い戻った。
「…中学校は今の時間、もう授業を始めているのでしょうか? それとも…あんな凄惨な事があった後ですし学校側も何等かの処置として休校にしているんですかね……」
「普通ならそう考えられるが、学校は今まで通り普通に授業をしているらしい。何でも高校受験のラストスパートとして授業を止める訳にはいかないと言っているらしいが……犯人が未だ捕まっていない状況下で何を考えているのか分からん…新たな被害者が出るとも限らん危機的現状をあまり理解していない様に感じられるな…」
「…あの現場を見れば学校側の意見も変わると思います……まぁ、見せる訳にはいきませんが…」
「学校側が対応しない以上は我々警察が被害を未然に防ぐ為に尽力せねばならない、貧乏籤ばかり引かされるが……弱音など吐いてはいられんぞ」
「弱音は吐きません…これ以上吐く弱音がありませんから……」
篠塚なりの冗談を交えた皮肉に私は反応を示さず、行き場を無くした言葉は枯れ葉の様に零れ落ちざわつく署内に掻き消された。外套を着込むと私は不意に後ろを振り返る、用意の整った篠塚の姿を一瞥すると私はすぐ様足を進めた。
「…また長い一日が始まる……何も起きない事を切に願うよ……」
私は誰にも聞こえない程の小声でぽつりと一言口を溢した、枯れ落ちた言葉に意味は無く未だ見えぬ先を案ずる為に生まれた愚痴の類であった。
まだ暖房の回らない廊下をひた歩く二つの影、形は違えど思いを同じくした私と篠塚は忌まわしき事件の起きた中学校へと再び足を踏み入れるべく先を急いだ。擦れ違う度に吹き抜ける薄ら寒い空気の間を縫う、まだ季節が続いている事の現れを熱を帯びた肌が感じていた。
他人の気苦労とは何かと気付き難いものである、空気の震動で鼓膜を刺激する訳でもなく身体の内外の温度差で感じさせる訳でもない。基本的に人はそれを相手に悟られぬ様にしている、余程自分を気遣ってもらいたい人間は別物として考えればそうなるだろう。だから私も表情を崩さず職務に就いている、しかし少しぐらい感付いてくれてもいいと思うのは私の我が儘なのか疑問である。
血生臭い殺人が行われた中学校に再び舞い戻ってしまった私は、脳裏にあの死体の残像が薄く浮かび上がり胃から嫌な物が込み上げてくるのを堪えている。そんな私の現状など何処吹く風か、視線の先の生徒は平凡な眼で私を見詰めていた。
「何度も言わせるなよ、俺は何も見ていないって! そもそも俺事件に関係ないじゃん!」
「そうは言っても、君はその時間現場近くにいたんだろう? 少しでも事件の証拠になる事が有れば聞いておきたいんだ、何でもいいから教えてくれないかい?」
「はぁ? 何それ、意味分かんないけど? 俺に聞くより別の奴に聞けばいいんじゃないの?」
「だから君の証言も大事なんだよ、警察の捜査には他の人からの情報も必要なんだ。少しでも協力してくれれば…」
「だから知らないって言ってんじゃんかよ!!」
明らかに警察、それも目上の人間に対する言葉とは思えない程の言い様である。語弊が生じる為あまり口に出したくはないがこれもゆとり教育の弊害なのだろうか、悩みの頭痛を更に痛める状況に私は業を煮やしつつあった。
今私達は事件当日に保健室の近くにいた生徒に事件の事情聴取を執り行っている、幸運に恵まれていると言えばそうでもあるがそれが私の意図するものとは違う事に私は苛立っていた。人気の無い廊下で立ち話をさせていて悪い気もするがこうまで捜査に非協力な姿勢をされると流石に苛立ちを隠せない、腕を組む手で一定のリズムを刻みながら私は篠塚と生徒の会話を聞いていた。
「…君頼むから少しぐらい捜査に協力してくれよ、こっちは真面目に事件を解決しようとしているのに」
「そんなの俺の知ったことじゃねぇよ! いい加減帰してくんねぇかな、もう話ばっかり聞くのも飽きてきたんだけど?」
生徒の生意気な発言に篠塚は終始戸惑い振り回されている様だ、流石にその様子をただ眺めているのは忍びないので助け船がてら私も話に介入した。
「…話に飽きたから、といってこちらから事情聴取を取り止める程警察は優しくない。事件現場周辺にいた君だけが証拠に成り得る存在だ、早く帰りたければ我々の話に素直に答えてもらうしか方法はないぞ?」
「……何それ? 意味分かんないですけど、てかあんたら警察だったらさっさと犯人捕まえたら? こんな所で無駄に話している暇があったら」
「その犯人を捕まえる手掛かりを得る為の事情聴取だ、献身的になれとは言わないがせめて人の話を聞く時ぐらいは静かに真面目に聞いてくれないか?」
私は苛立つ気持ちを抑え静かな口調で男子生徒に話し掛ける、それでも男子生徒は悪びれる気配は無く視線を泳がせ話に消極的な態度を示した。いよいよ堪える事が出来無くなった私は、壁に拳を付け怒りの栓を少し抜き口を開く。
「……お前いい加減にしろよ、警察がいつまでも民間人に笑顔絶やさないと思うんならそれは間違いだぞ?」
「…な、何だよ……警察がそんな口を…」
「こちらの要求は単純明快、さっさと質問に答えてくれればいいだけだ。それでもまだその態度を改めないと言うのであれば……こちらもそれなりの対応をせねばならなくなるぞ?」
低くそして静かな怒りを含んだ声で私は眼前の男子生徒に語る、その言葉を突き付けられた男子生徒は面を喰らった様に動揺の色を見せながら口を開いた。
「…わ、分かったよ……話はちゃんと聞くって…」
「……男に二言は無い、それを忘れておくなよ…全く、初めから素直になれば良いものを……」
私は小さく愚痴を零すと怒りを抑え平静を取り戻す、調子に乗った若造に少々灸を据えてやると私は早速本題に入った。
「では早速だが質問だ。君は事件当日あの保健室の近くを通った、その時何か変わった事がなかったのかを分かる限りで話してもらいたい」
「…え……それは……」
「何も心配するな、別に君が犯人だと疑っている訳では無い。ただ話してほしいだけだ、君が持っているやもしれん情報を…」
「………分かった、話すよ……俺はあの時部活をしていた、それで部活の顧問に話す事があるから職員室に行こうとした時…たまたま保健室の前を通り掛かったんだ…」
「その時に何か変わった事はなかったのかい? ほら、例えば不審な物音がしたり怪しい人影を見たとか…」
私と男子生徒の会話に今度は篠塚が介入してくる、逸る気持ちを抑えられず前屈みになる篠塚に対し男子生徒はあまり芳しくない顔をした。
「…いや…俺が通ったのは外からだったし……」
「何かを目撃するぐらいはしているんじゃないか、まさか中の様子すら見ていないという事か?」
私の問い掛けに男子生徒は何も答えずただ一つ頷いただけだった。私は残念な気持ちを覚えた反面安堵も覚えた、もし仮に中の様子を見ていたのであれば今話す事すらままならない状態であったからだ。私が腕を組み思考に突入すると、篠塚は事件に関係の無い質問をした。
「…ちなみに聞くけど、職員室に行く用事って一体何だったの?」
「……それは……明日の部活の予定とか…まぁ他に色々と……」
突然本題から外れた質問を投げ掛けられ返答に困る男子生徒、このまま話が逸れてしまう危険性を考え私はすぐに話を本題に戻した。
「少し前に中の様子を見ていないと言っていたが、通り掛かった際に少しぐらい覗いたりしたんじゃないのか?」
「いや、覗いてもない……そもそもカーテンが掛かってて見れなかったし……」
「見れなかった? つまりその日に限ってカーテンが閉め切られていた、という事か?」
「別に昨日に限った事じゃない、あの保健室いつもカーテンで中が見えない状態になってるし……それにあの時間は電気点いてなかったし、誰もいないと思ったから…」
「…いつもカーテンが閉め切られているのか……それと電気が点いていなかった、と…」
私は怪訝な感情を口調という形で表した、それは男子生徒の発言に妙な違和感を覚えたからである。私は爪を噛みしばらく考える、今手に入っている情報から有り得る事実を紡ぎ出そうと思案していた。そんな私の姿を見兼ねたのか、男子生徒は痺れを切らし口を開いた。
「……あのさ…もう行っていいかな? 俺の知ってる事は全部話したし、これ以上は何も知らない…」
「ん? あぁそうだな、捜査に協力してくれて感謝する、もう帰ってくれて構わないぞ」
私の言葉でようやく解放された男子生徒は気疲れした様子でその場を後にしようとする。
「………ちょっと待て!」
「……何? まだ何か用でもあんの?」
「いや、別に捜査に関係した事じゃない……あくまで私個人としての質問だ」
私は一歩足を踏み出し去り行く後ろ姿を呼び止めた、心底嫌そうな声を漏らして振り向く相手には悪いがどうしても聞いておくべき事が私にはあった。
「…君は……同じ学校の教員が死んで何とも思わんのか?」
「……何それ? それがわざわざ聞きたかった質問?」
「その通りだ、まぁ答えたくないのであれば答えてくれなくて結構だが……動揺も戸惑いもしないその態度の理由を聞かせてもらいたい、何分不躾ではあるが…」
私は言葉の終わりを曖昧に濁した、冷静に考えればこんな事をわざわざ聞くのも場違いである事を話をしている最中に思ったからだ。しかし視線の先の男子生徒は悩む様子も無く、少し頭を抱えた後重そうな口をゆっくりと開いた。
「…別に理由なんて特にない、ただ今までその教員とやらに関わった事があまりなかったのが理由だな…」
「……成る程、それが理由か……」
「だってそうだろ? 何処の世界に見ず知らずの人間の心配をする馬鹿がいる? 別にどうだっていいだろその程度、誰も気にしてねぇし」
「な…ちょっと君、気にしてないって…」
「止めろ篠塚」
男子生徒の言葉に触発され篠塚が声を上げようとするのを私が止めに入る、怪訝そうな表情を浮かべる篠塚を尻目に私は静かに口を開いた。
「…わざわざ忙しい中で邪魔をして済まなかった。話は以上だ、もう帰ってもらって構わないぞ」
私は至って平然と話を済ませた、事情聴取としての成果はあまり無かったが協力してくれたという観点から見てこちらが礼儀を払うのは当然であった。しかしこれは予想通りと言うべきか、話をしてきた男子生徒からの言葉は神経を逆撫でるものであった。
「…警察って案外役に立たないんだな、こんな所で時間潰す暇があったらさっさと事件でも何でも解決すりゃいいのによぉ」
「心配してくれて有り難いよ、その気持ちに応じて我々も捜査に励むとしよう…」
相手の憎まれ口を意に介さぬ言葉で返す、悔しいのかそれとも呆れたのか男子生徒はそれ以上は何も言わずその場を去って行った。黒い詰め襟の後ろ姿が遠ざかっていくとやがてその姿は廊下の先に消えた、後に残った有耶無耶な気持ちが私の体内に重く籠っていた。
男子生徒が去ってしばらくすると私の横にいた篠塚が私に話し掛ける、その表情は明らかに遣り切れぬ思いを秘めたものであった。
「……柊さん、どうして彼に何も言わなかったんですか……」
「何も言ってない訳は無かろう、社交辞令ではあるが取り敢えず去り際の挨拶だけはした」
「そんな事を言っているんじゃありません! 僕は何故怒らなかったのかと聞いているんです」
「……貴様は私に余程憤慨してほしいのか? 怒る怒らないは私の自由だ、私物の感情まで部下に口出しされては死活問題だ……それとも、今のは怒るべき場面だったか?」
「当然でしょう!!? あれだけ警察を誹謗中傷する発言を黙って聞き流すなんて自分には耐えられません! せめて一言くらい叱責しても良かった筈、なのに……何故止めたんですか……」
篠塚の眼には不満の濃い暗色が滲み出る、その鋭い視線が私の肌に痛い程突き刺さり穏やかな心にまで侵食していった。私には篠塚の言わんとしている事がよく理解出来るし恐らく同じ気分を味わっているのだろう、しかし私は自分の中に備わる礎を糧に穏やかな語り口で話し始める。
「…確かに我々を侮辱する言葉を吐いた事に対する叱責は可能だった。だが私の経験上奴は聞く耳を持たない、我々の言葉を憎たらしい半笑いで聞き流すのが落ちだろう。なら何も話す事は無い、放っておくのが良策だ」
「……それは…確かにそうですが……」
「それに奴の強気は内に秘めた弱気の裏返しだ、それが証拠にこちらが少し凄んだだけで簡単に口を割った。まぁ年齢が年齢というのもあるが結局はただ格好付けたいだけだ、そんな自ら恥を撒く様な行為にわざわざ口出しなどしなくてもよい……」
私は何時に無く饒舌に話し続けた、今の私の中にあるのは主観的な感情ではなく客観的な理性であった。私は静かに話を終えた、すると今度は篠塚の奇異な物を見る様な視線を肌に感じた。
「………どうした篠塚、私の顔をじろじろと見詰めて…何か顔に付いてでもいるのか?」
「いや……何て言うか、その……やっぱり柊さん、風邪でも引いたんじゃないです?」
「…また何とも脈絡の無い……何故そう思ったのだ?」
「いや、それは……昨日の柊さんだったらさっきの彼の言葉で完全に我を失っているだろうと思いまして……」
「…確かにその事実は否めないな、今でも理性があるだけで奇跡的だ」
私は口角を少し上げると短い笑いを溢す、それは昨日の怒りに身を任せていた自分への皮肉でもあった。
肌寒さが微かに残る廊下に立ち尽くしていた頃、私の頭は周囲の冷たさに急かされ静寂のまま考えを巡らせていた。そして一つ生まれたある私案が私の中で肥大していった。
「…篠塚、さっきの男子生徒について何か思わんか?」
「え? 思う事…ですか? 特に無いですね、しいて言えば生意気な所ぐらいですかね…」
「……そうか……なら私の考え過ぎか……」
「考え過ぎ? 何ですか、それ?」
私の溢した言葉を拾い上げた篠塚は私の顔に眼を合わせ不思議そうに聞いてくる、このまま言葉を濁すのも面倒なので仕方無く口を開く。
「……あの男子生徒、何かを隠している様に見える。初めはお前の話など聞かず相手にすらしなかったのに私が話したらすぐに掌を返して口を開いた、行動としては不思議でならない。何故か……初めは喋らぬが吉と考えていたが下手に探られるのを恐れ正直に話した、と考えれば合点がいく…」
「……やはりそれは柊さんの考え過ぎ、だと自分は思いますけどね。口を開いて正直に話したのも多分柊さんの脅し文句が原因ですし……隠すといっても彼が事件に関わっているとは思えません」
「…そうか……それなら良いが…」
私の中で転がされ大きく形作った不安は篠塚のその言葉で哀れに溶けていく、再び空いた思考の溝が私の心に焦りを生んだ。考え事に夢中になってしまっていると、篠塚は何故か悲しそうな色を眼に浮かべ口を溢した。
「……何か悲しいですね、人が死んだのに何も思わない…その程度だなんて……」
「また脈絡の無い…とてもお前の口から出でた言葉とは思えん暗鬱とした発言だな……」
「殺人事件の捜査をしている時はいつもこんな具合です、死体を見るだけで悲しみと遣り切れない気持ちが嘔吐感に混じって込み上げてくるんです。それで度々思うんです、何で自分はこの道を選んだのだろうって……初心の頃はもっと晴れやかな舞台を思い浮かべていたのに…今歩いているのは血溜まりと腐肉の獣道ですよ…」
「……今ならまだ間に合う、お前がその気なら警察を辞めたって構わないぞ。殺人に触れる以上避けては通れぬ道がある……そこに足を着けるのを躊躇う或いは着けても踏み留まるのを恐れる者を私は少なからず見てきた、だから毒された事態に関してはとやかく詰め寄る気は無い…」
私は声の調子を落とし静寂を纏った声を発する、それに反応し多少驚いた様な表情を見せた篠塚に私は更に言葉を続けた。
「…だが残念な事にそれが警察としての職務というものだ、自ら身を乗り出し自ら進んで足を血に浸ける覚悟が無ければほとほと成り立たぬのが我々の使命だ」
「……警察に入った初めの頃は…これ程辛いものだとは見当も付きませんね……」
「まぁ確かに先程の男子生徒の発言は少々耳に痛いものではあったが、それは今に始まった事では無い。そもそもこの学校自体が既に狂っている、教員が一人無惨に殺されたというのに学校側は休校にせず生徒達も平然と授業を受けている、ざわめきは無くまるで何事も無かったかの様な日常の生き写しだ。何が彼等の感覚を鈍らせているのかは分からんが…騒ぎすら起きぬこの静けさがかえって不気味だ……」
「……俗に言う集団心理が働いているんでしょうか、誰も騒がないから自分も騒がない……そんな具合に」
「まぁ確かにそれも一つの要因として考えられるが、断言出来るものが無い以上こんな所で議論を交えても無駄なだけかもしれんが…」
「……すいません、自分の詰まらない話なんかしてしまって…」
「まぁ多少捜査を阻害したとも言えるがそれ程気に咎めるものでもない、これ以上捜査に私情を持ち込まぬべきだろう……お互いにな…」
私は言葉の最後を小さく吐き捨て話を終えた、隣に立つ篠塚に聞こえていたかは分からないがその言葉は自分への皮肉を含んだ戒めでもあった。他愛の無い話で入り乱れていた頭が少し整理され、私は透かさず捜査の方面へと頭を切り替えた。
「…さて、それで昨日の惨殺事件についてだが…今の所有力な情報は掴めていないな。鉄棒を死体の下腹部に突き刺した意図も未だ不明、犯人と被害者の関係も明らかになっていない………そういえば犯人の物と見られる血痕付きの合羽はどうなっている?」
「今も鑑識で詳しく調べているみたいですけど、指紋やDNA鑑定は難しいと思われます……此処は情報を足で稼ぐしか無いみたいですね」
「…結局は手詰まりという事か、まぁ最初からそんな気はしていたが……しかし何処を探したものか……ん?」
私は背後から気配を感じ取り急ぎ気味に振り向く、長く続く廊下の向こうから一人の警官が駆け寄って来た。
「…ひ…柊警部補、此処におられましたか!! 大変です……す…すぐに来て下さい!!」
「ど、どうしたというのだ? 急に駆け寄って来るや否や唐突に…何があったんだ!?」
「いやその……そ…それが…」
余程急いで駆け付けたのであろう、警官は肩で息をしながら必死に呼吸を整えようとしていた。その姿から只事では無い事を悟った私は、警官に事情を問い詰めた。
「何があったというんだ!! 息をしているだけでは何も分からん、早く用件を伝えろ!!」
「す、すいません、実は……先程校内を捜索していると…怪しい人物を発見しまして…」
「…怪しい…人物だと!!?」
私は声を張り上げた、私の中で沈黙を保ち続けていた理性がその一言で見事に砕け散った。私は背を曲げた警官の具合など考えもせず、警官に詰め寄ると口調を激しいものにした。
「…その人物はどんな奴だ!? そいつは一体何者だ!!?」
「い…いえ自分にもよく分かりません、見た目は二十代ぐらいの男ですが……何やら訳の分からない言葉を喋っており…まさしく怪しいとしか…」
「そんな事どうだっていい!! 全く……それで、その怪しい男とやらは何処にいるんだ?」
「に…二階北側にある調理室の前です、今ちょうど近くにいた警官と共に取り押さえまして…それを伝える為に柊警部補の下に来た訳でして…」
「…調理室か……篠塚、直ちにその怪しい男を捕まえに向かうぞ!!」
「了解です!」
私は警官が走り抜けた廊下を逆に歩き始め言われた場所まで足を早めた。捜査の糸口を示すもの、いや場合によっては犯人を捕まえる重要な機会に成り得る可能性に私の期待が徐々に膨らんでいった。糸が張り詰めた様な空気の間を通り過ぎて行く、忌まわしき惨劇の再来を防げるという望みを胸に私は冷たい廊下を進んで行った。
しかしそんな私の心に薄暗く空いた虚から一抹の不安が滲み出す、それは今私が向かう先にいるという怪しい男から生じるものだった。私の脳裏にある人物の影が差した、何度か顔を会わせてきたが一度たりとも相容れる事が無かったある男の影である。警官の口から零れた言葉が次第に私の中で輪郭を作り始める、私が最も現したくない想像は私の意思無く形になりつつあった。
(……有り得ない…有り得る筈が無い!!)
私は不安からか歩む足の速さが次第に早くなっていき私は頭の中を白い霧で満たしていく、想像すればそれが現実と化してしまう様な恐怖に苛まれたからだ。私は思考を捨て去り歩む事に集中する、先に待ち受ける淡く白い闇への旅路をひたすらに進んで行った。
足早に進んだ私と篠塚は目的の調理室まで到着した、正確には到着はまだしていないが視線の先に調理室と書かれた札が存在していた。そしてその調理室の前の廊下には言われた通り怪しい男がそこにいた、近付かなくともそこにいるのが一般人では無い事はその場の空気が手短に説明していた。
私の下に来た警官の言う通り間違い無く怪しい人物である、両腕それぞれを警官に掴まれその場から身動きが取れない状態の男が警官の言う男であろう。年齢は若く見積もって二十代後半、冬の寒さが抜け切らぬというのにも関わらず薄手のカッターシャツに黒い長ズボン、髪は少し乱れた黒髪で銀縁眼鏡を掛けた普通の男だった。第一印象としてはそれ程怪しい所は無い様に見えるが、取り押さえられながら叫ぶ言葉に異様さが含まれていた。
「離してくれ!! 僕が何をやったんだ!!? 無駄な抵抗は止めて大人しく僕を解放しろ!!」
「また何を訳の分からない事を…なら生徒でも教員でもない人間がこんな所で何をしている? 詳しい話は署で聞かせてもらう」
「だから僕は此処の臨時教員なんだってさっきから何度も言ってるじゃないか!! その耳本当に聞こえているのか? 実はそこから呼吸していて本当はその顔の真ん中にあるのが聴覚器官なんじゃないか!?」
「その下らない話は聞き飽きた、さっさと大人しく着いて来てくれ!」
「下らないとは失言にも程があるぞ!! 僕はそっちの事を思って発言しているのに…心外だ、今世紀最大の心外だ!!」
「いい加減に静かにしろ!! でないとパトカーで連行するぞ!!」
「そんなの誰の権限で僕を捕まえるんだ!? 誰でもいいから助けてくれぇぇぇぇ!!!」
(……あれが怪しい男…か?)
私が見る限り確かにそれは異様な光景であり、捕まえられた男もその発言から明らかに怪しいと断言が出来た。私はその姿を確認し胸を撫で下ろした、確かに相当奇怪そうな人物だが時代錯誤な服装でないし髪も灰色ではなく眼鏡も掛けている、私の予想していた人物とは違う事に私は一時の不安を捨て去った。だが怪しい人物である事に変わりはない、私はゆっくりと足を進めると捕らえられたその男へと近付いて行った。
歩いてあと四歩程の所まで近付くと捕まった男はようやく私の存在に気が付いた、私の顔に眼が向くと突然私に話し掛けてきた。
「おぉこんな所に天の助け、そこの御仁すいませんが一つ僕を助けてはくれませんか!?」
「……悪いが、それは出来ぬ相談だな…」
「………そんな殺生な!! 貴方の様な綺麗な人が哀れな子羊一匹救い出せぬとは…やはりこれも世の末、漫画みたいなメルヘンは望めないと……ハッ、さてはこの男達の仲間だな!! 僕にハニートラップを仕掛け、有る事無い事根掘り葉掘り聞き出そうって魂胆か!!?」
「……今の所貴様の言っている言葉がどれも解読不能だが、取り敢えずこれだけは言っておく……私は警察だ、怪しい人物がいると聞き駆け付けた」
「怪しい人物? そんなの何処にもいませんよ? さてはガセネタ掴まされたんじゃないですか、やっぱりこの御時世信じられるのは己が身一つって事ですかねぇ……」
「…話に聞く怪しい人物とはどうやら貴様の事らしいな、紛う事無く一目瞭然の怪人物だ。篠塚、車の用意をしておいてくれ」
「はい、分かりました!」
私の言葉に素早く反応した篠塚はすぐにその場から立ち去る、すると警官に取り押さえられている男が不満そうに話し出した。
「ち、ちょっと待って下さいませ、何で僕が連行されちゃうんですか!! 確かに変人だという事は否定しませんが僕は何も疾しい事は………多分してませんよ!!」
「…その言い方からするに何か疾しい事があるみたいだな。加えて変人という事に自覚があるのか、これは全く持って始末が悪い……」
「まぁまぁそんな事言わず、取り敢えず僕を解放して下さいよ」
「……貴様の返答次第ですぐに解放してやろう、嘘偽り無く答えろ……まず聞くが、貴様な何者だ?」
「んーそうだねぇ……強いて言うなら浦島太郎に登場する亀みたいな存在かな? もし助けて下さるなら竜宮城でも玉手箱でも与えてやりますぞ!」
「………こいつに手錠を掛けろ、事件の容疑者として詳しく取り調べる必要がありそうだ……」
「わぁぁぁぁ待って待って!!! 今のは冗談!! ちょっと空気を和ませようとしただけだから!! お願いだから何処かの遠洋だけには沈めないで!!!」
私は踵を返すとその場を立ち去ろうとする、あの完全な変質者と話すだけで頭痛が悪化してしまいそうだ。頭を抱え頭痛を抑えつつ歩き出すと、耳障りな言葉が後ろから次々と溢れ始めた。
「本当に待ってくれ、僕は何もしちゃいない!! 虫も好き好んで殺せない様な僕が殺人なんて出来やしない…まぁ虫を好き好んで殺す人間を見た経験は無いけどね」
「その口喧しい馬鹿をそのまま取り押さえていろ、どうやら署では精神鑑定も受けた方が良さそうだ…」
私は振り返る事無く廊下を進む、すると先程車の用意をしに去って行った篠塚が再び私の前に姿を現した。
「柊さん、車の用意が整いました。すぐにでも容疑者を連行出来ます」
「え、ちょっ、護送ってどういう事!? まさか僕を人身売買にでも送り込むつもりなの!? それだけは勘弁してくれぇ、僕は食べても美味しくないぞ!!」
「先程からあそこで吠え続けているが無視しろ、手錠を掛けた後急いであれを車に乗せるんだ」
「分かりました」
私は後ろから頭痛を催す呪詛を吐き捨てる男に近付く事に嫌悪を抱き始め、仕方無く篠塚に車まで乗せさせる役を命じた。篠塚が男に手錠を掛ける音が響くと私は廊下の壁に背を付け道を開ける、篠塚と二人の警官に囲まれたままで連行される男の姿が横切るのを私は眉間に皺を寄せ眺めていた。しかし連行されながらも尚男は抵抗を止めない、身体を動かし連行を阻害しながらも必死に自分の言葉を叫び続けた。
「助けて、頼むから断頭台には送らないで!! 僕は何もしてない、ただ確かめに来ただけだ、僕が辿り着いた事件の真相を!!」
「……ちょっと待て、今の話…どういう意味だ?」
些か頭痛が増した私でも男の言った言葉が深く頭に突き刺さった、私は壁から背を離すと廊下の少し先を進む一群へと足を速める。
「待て篠塚、少々この男に聞きたい事がある。貴様どういう訳だ、事件の真相とは一体何の事だ?」
「おっ、出会って六分にしてようやく僕に興味を抱いてくれた? だったらもっと早くから素直になれば良かったのに…もしかしてちょっぴり照れちゃってたのかな?」
相変わらず軽口と減らず口を止めない男に私は再び怒りの栓を抜く、私の手は感情通りの動きを始め連行される男の胸倉を掴み上げた。
「貴様のふざけた無駄口に付き合う気は無い!! 真剣に私の質問に答えるんだ!!」
「あぁ怖や怖や、そんなに捲し立てられたら話そうにも話せないよ? 取り敢えずこの手を離してよ、話はそれから…」
「いいから早く答えろ!!!」
私の勢いに圧倒されたのか男を取り押さえていた警官は後退りする、それでも態度一つ変えない男は渋々とした表情で口を開いた。
「……僕はただ気付いただけ、ただ知っただけなんだ。この事件の真理、犯人の意図するものが何かを掴んだだけだよ……」
「意図? 真理? また訳の分からん事を…貴様は何を知ったというのだ!!?」
私は胸倉を掴む手に力を入れ男を顔近くまで引き寄せる、しかし男は面倒臭そうに首を上げこちらを見詰め返すとその時私はこの男と初めて眼を合わした。その眼中には静かだが明らかに力強い眼光を秘めている、慧眼とも言えそうなその黒に私は一瞬だけたじろいでしまった。
沈黙が辺りを騒がせる中、男は静かな深い声を溢した。。
「…それは流石の僕でも気が進まない、だけど確固とした現実が暗い影と共に牙を剥いているんだ。壱はその無惨を白に託した、弐がいずれ姿を示すと考える暇など与えてはくれない…」
今までとは調子の違う、まるで別人の様な雰囲気を醸し出しながら男は何度目かの妄言を呟いた。しかし今度の言葉はそれまでとは違う異様さを持ち合わせている、まるで白と黒を着こなした灰色頭の様な不気味さであった。
「…僕は知ってる、誰だって知ってる…ほらそこに、答えはすぐそこ…」
男は静かに手を上げると私達のいるすぐ横を指差す、動きに釣られ指を辿るとその先には調理室を挟んだ壁が佇んでいた。
「……教室……まさか!!」
私は男の胸倉を手から離すとすぐ近くにある調理室の扉に向かう、嫌な予感が形成され私の中にどす黒い闇が蘇った。扉に手を掛けるが当然ながら鍵が掛かっており私の勢いは僅かな厚さの壁に妨げらる、逸る気持ちが私の冷静を剥ぎ取り感情を曝け出した。
「篠塚、何をそんな所で突っ立っているんだ!? 早く此処の鍵を取りに行け!!」
「え…あ、でも…その人の連行は…」
「そんなもの後回しだ!! いいから持って来い!!」
私が曝け出した怒りをぶつけると篠塚は些か驚きを見せながら走り去った、残された警官二人が恐ろしいものでも見る様な眼で私を見ていたがそんな事など気にしてなどいられなかった。力任せに扉を開けようとする私の姿は端から見れば滑稽に見えるのだろう、仕方無く私は扉の隙間から教室内の様子を覗いた。しかし見れども視界には夜を撒いた様な闇しか映らず中の様子は全く分からない、だが中には得体の知れない何が蠢いているのが確認出来た。
「…何か見える……あれは何だ?」
不思議に思い自然と言葉を溢すが教室内を覗く為に開けた隙間から思わず顔を背けたくなる様な異臭が鼻を突いた。その臭いは事件当時の保健室に入った際に感じた臭いに似ているが刺激はそれ程強くは無い、しかし視線の先にいる得体の知れないそれと相まって私は身体の芯に激しい悪寒を感じた。何も出来ず歯痒い気持ちが焦りを生んでいると、先程走り去った篠塚が鍵を持ち舞い戻った。
「柊さん、鍵を持って来ました!」
「あぁ済まない、急いで此処を開けねば…」
私は篠塚から鍵を受け取るとその鍵を鍵穴に差し込む、しかし焦りから上手く鍵が入らずそれが更に私の動揺を誘った。そしてようやく鍵が開き勢い良く扉を開けると、教室から一斉に得体の知れない黒が襲い掛かった。
「な…何だ、一体!!」
「うわっ!! な、何なんですか!!」
私も篠塚も突然の出来事に驚きを隠せず声を上げる、そして教室から飛び出し縦横無尽に飛び回る黒いそれの正体が明かされた。
「く……こ…れは……蝿か!?」
「そんな……何でこんな所に蝿が!?」
「…くっ……こんな所で止まれるものか! 篠塚、私に続け!!」
辺りを飛び回る蝿の軍勢に怯まず私は勢い任せに教室内へと突入した。中に入った所で視界が開ける筈も無く一面の闇と確認出来ぬ夥しい数の蝿が更なる進入をする、電灯のスイッチを探そうにもこの暗さでは前に進む事すら難しくまるで私達を追い払おうとしている様だ。
「篠塚、窓だ!! 急いで教室のカーテンと窓を開けるんだ!!」
私はそう叫びながら教室の奥へと走り出す、途中机の角に身体をぶつけながらもカーテンの隙間から僅かに零れる外光を頼りに窓辺まで辿り着いた。勢い良くカーテンを開けると鍵を開け窓を開く、そして上着を脱ぐと辺りを目障りに飛び交う蝿を払い除けた。教室内を覆い尽くす程存在した蝿が徐々に窓から外に逃げ出していく中、教室の中央に蔓延る蝿の群生だけが未だ特異な形を作り出していた。私は急いでその黒の塊に近付き上着でそれを扇いだ、気色の悪い虫達が勢いと恐れから立ち去ると遂にこの教室から漂う異臭と嫌悪の正体が明かされた。しかしそれは私が予想していた、私が決して望まなかった現実が鎮座していた。
最早見慣れてしまった筈の無惨な死体、だがそれは明らかにただ死の存在を露にする為の偶像ではなかった。これはとても直視出来るものでは無い、私の奥底に居座る意識が直感的に関わる事を躊躇った。服装から見て此処の男子生徒だろう、最早動かなくなった死体は椅子に座り机に向かい佇んでいた。更に左手には包丁を握っている、まな板に面と向かい静かに俯く姿は幾らか生きていた頃の面影を残していた。だがまな板の上に食材は無く代わりにまな板は赤黒い血溜まりと化していた、そこが一番よく目立ちこの死体の異様さを裏付ける証明でもあった。しかし包丁を握る左手は存在しているのに対を成す右手が見当たらない、だが不自然な姿にあるべき物の所在は案外容易に見付かった。失われた物の行方は死体のすぐ横に備え付けられていたガスコンロの上に乗る鍋の中、そこには右手どころか肘から下が丸々一本放り込まれていた。加えて掌に備わっている筈の五つの突起も行方が知れない、死体の眼前にあるまな板で行われた惨劇を否応無く想像させられてしまう。
「…酷い……これは……」
「…うっ……うぇ…げはっ……」
耐え切れず私は口許を覆い篠塚は身体を強張らせ嗚咽を漏らす、五体が完全では無いこの異形は近付く者に悪夢を見せた。机の上は死体の血で溢れ返りまさに血の饗宴だ、そこから出でる生臭い悪臭がこの現実をより鋭敏にしていった。狂気に満ちた残酷な死体、辺りに漂わせた狂気がまるで麻酔の様に理性と正気を犯していく。
私はもう見るに耐えず視線を逸らした、すると偶然先程まで捕らえられていた男がこちらを見詰めていた。
(……この男…一体……)
未だ居座り続ける蝿達の間から見えた男の両目、そこには先の見えない暗く深い漆黒が垣間見えた。それは教室内に立ち込める赤黒い狂気を映し出した様な、或いは本人から這い出た底知れぬ深淵の様な狂気が確かにそこに存在していた。先程までの変人染みた言動から考えられない程冷たく淡い表情、それは同一人物とは思えぬ程に見違えた顔であった。これがあの男の本質、あの男の心に根付く混じり気の無い本性なのであろう。
皆が恐れから沈黙を貪り始める中で私の頭は先程までの冷静さを取り戻せずにいた、眼前に佇む死が私の中から活気を根こそぎ奪い去っていたからだ。またしても新たな被害者を出してしまった自責が頭痛となって私を苦しめる、立っている事さえままならぬ私はまさに脱け殻同然の個体と化してしまった。そんな中で私の懸念はあの男であった、形容し難い酷く不気味な恐怖心を私の心に深く刻み付けていた。
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僕はいつも除け者にされる、周りに頼れる人間なんていないし皆分かっていてあえて僕の存在を知らんぷりしている。それは何も同級生に限った事じゃない、親も先生も擦れ違う人も皆知らないふりをする、なのにいじめの矛先は僕に向かうんだ。普段は無視するのに必要な時は僕を使う、日常化してしまった一連に僕は従うしかなかった。
そんなある日の事だ、いつもの様に四限目が終わり給食が始まる時間だ。僕にとって給食の時間は苦痛でしかない、僕のトレイのおかずだけ足りなかったり汁物の中に食べ物じゃない物が入っているのが普通だった。今日も憂鬱な時間がやってくると気持ちが落ち込んでいたが、今日に限って何事も無かった。加えて今日のメニューはカレーライスで偶然にも三人も休みがいたのでいつもより多くカレーを受け取る事が出来た、いつもと違う幸運が続き僕は久し振りに嬉しさを感じた。だが僕に舞い降りた幸せには裏があった、カレーを貰おうとした時にはもう僕の分のカレーは無くなっていたのだ。最後にカレーを貰ったのは僕をいじめるリーダー格の男、僕の給食を勝手に奪い笑いながら捨てる様な男だ。それで僕は全部分かった、こうなる事を予測した上であいつは僕の分まで残さなかったのだ。あいつの机にはひたひたにカレーが入った椀があった、文句の一つでも言いたかったが今の僕にはそんな口を叩ける程の勇気は無かった。仕方無く僕はカレーの無いご飯だけを口にした、噛むたびに感じる甘さが今の惨めさ際立たせ僕は心の中で泣きじゃくった。
嫌な思いが胸に残ったまま放課後になった、僕は自分の荷物をランドセルに積めると足早に教室から立ち去り学校を出た。僕は部活を何もしていない、どうせ仲間外れにされるなら初めから部活なんてしたくはなかった。それよりも僕は早く家に帰りたかった、誰にも言えない気持ちを自分の部屋で吐き出したかった。しかしそれを邪魔する奴が現れた、僕は後ろからいきなり頭を殴られ地面に倒れた。殴ってきたのは給食の時のあの男、僕が学校から出ていったのを見計らってわざと殴ってきたのだ。顔から地面に倒れた僕に対してあいつが言ってきたのは聞き飽きたいつもの悪口、進化の無い男の悪口なんていつもの僕なら黙っていただろう。だがこの日ばかりは僕は泣いた、給食での事があったのもあり僕は涙を我慢出来なくなっていた。泣きじゃくる僕の顔を見てあいつは大笑いした、何が面白いのか分からないが僕はただただ悔しかった。そのままあいつは歩道橋に向かった、散々僕をけなしただけであいつは何一つ悪いとも思っていなかった。その時だった、僕の中で何かが壊れた、もう何もかもどうでもいい気がした。
僕は地面から起き上がるとあいつの後を追った、僕の壊れた心が不思議と僕の足を進めてくれた。そして僕はあいつに追い付いた、歩道橋を下りるあいつの後ろ姿だけが僕の目に映っていた。すると僕はあいつに駆け寄った、そして僕はあいつの頭を思い切り殴り飛ばしたのだ。これは当たり前の行動、別に非難される事でもないし先生達が言ってる平等である。だから僕は殴り飛ばした、やられた事をやり返す当然の出来事だった。
だが頭を殴った後が問題だった、あいつは頭から倒れるとそのまま階段を転げ落ち歩道橋の踊り場に強く身体を打ち付けた。僕の予想ではこの後すぐにあいつは立ち上がり僕を痛め付けるのだが、いつまで経っても起き上がる気配は無く黙って倒れているばかりだ。僕は不思議に思うとあいつに近付いた、不意討ちでいきなり襲い掛かってくる可能性もあったが今の僕はそこまで考える余裕は無かった。顔を隠す腕をどけるとあいつは目を開けたまま何も言わなかった、よく見ると頭の方から赤い物が流れていた。僕はそこでようやくあいつがどうなったのか分かった、しかし僕の中に怖いという気持ちは全く出てこなかった。僕は当然の事をした、それであいつは勝手に頭を打った、だから今この状態は当然だし僕には何一つ悪いと思う事が見当たらなかった。
僕は今何も思わなかった、目の前のあいつに対してもとくに特別な気持ちにもならなかった。そんな僕はある事に気付いた、今まで我慢してきたのが馬鹿らしくなるぐらいの事だった。怖くて仕方無かったあいつはこんなにも軽い存在だった、それが僕の見るもの全てを大きく変えたんだ。
僕はただただ嬉しかった、僕の近くにあるもの全部がまるでおもちゃみたいに見えてしまうからだ。僕はあいつを殴り飛ばした手を見て笑った、そして僕は来た道を戻り学校へと急いだ。まずは調理室に行ってそれから皆に会いに行こう、僕の心は今までになかったぐらい明るくなっていた。風で速度を上げながらとにかく僕は走った、僕は初めて楽しみを知る事が出来た。
著 彩咲数見
『漆喰』より抜粋
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苛立ちとは何等かの行動を起こす場合になるべく排斥しなければならない感情だ、冷静さを失わせその場で最も合理的で有意義な選択を遠ざけてしまう要因になり得るからである。刑事たる者どんな窮地に陥ようとも平常心を保ち最善尽くす、それが我々に求められる職務の基本型だ。だが今の私には心に余裕を持つなど無理難題である、殺人を防ぐ事が出来ず新たな被害者を出してしまうという最悪の事態を招いてしまったからだ。前回の殺人から一日と経っていない状況での殺人、犯人は完全に警察を軽視しよもや挑発ともとれる行動に我々は成す術が無くただ込み上げる怒りを堪えるしかなかった。故に私は苛立っている、平静を装っていられる程私の気は長くはない様だ。
壁を挟んだ向こうの部屋、あちらからは覗けない硝子越しに見える風景を私は黙って睨み付けていた。すると薄暗いこの部屋に一人誰かが入って来た、その人物は私に近付くと私に話し掛けた。
「柊警部補お疲れ様です、取り調べはどの様な状況ですか?」
「はっきり言って進行状況は頗る悪い、その訳は……まぁ話さずとも見れば分かるだろう…」
私は視線の先に映る二人を示した、中の様子は未だ代わり映えが無く私は心底苛立っていた。
部屋の中では取り調べが行われている、対象者は殺人現場付近で発見された正体不明の男だった。だがこうやって硝子を通して見える様子は全くと言って良い程変化が無い、取り調べは難航しており今の所有力な手掛かりは何一つ聞き出せていない。それが黙秘や抵抗から生じるものならばまだ良い方だ、しかし中にいる男から聞き出せていない理由は話がまともに通じていないからである。
「…刑事さん、貴方は男性と女性を分ける境界は何だと思います? 確かに明確な違いはあれどその境界を引くのは簡単にはいかない……答えがあまりに多過ぎるからだ、それこそ答えは星の数程存在している…」
「……お話し中失礼するけど、何で今自分が此処にいるか分かってる?」
「まず考えられるのは外観的な違いだね、男性の方が伸長が高いし筋肉質だ。一方の女性は伸長は低いし男性に比べるとひ弱、でも女性には男性に出来無い事が出来るんだ、それって一体何か分かる?」
「いい加減にしてくれ!! そうやって話を逸らすの本当に止めてくれないか、今自分がどういう状況に置かれてるのか分かってるのか!?」
「そんな事わざわざ言われなくたって百も承知だよ、僕が殺人現場付近にいたから何か事情を知ってると思って取り調べの真っ最中、って所かな? それを僕が分からないと思ってたの? 随分と酷い言い草だなぁ、僕ってそんなに馬鹿っぽく見える?」
聞いている限りどうやら男は真面目に答える気が皆無らしい、取調室内の篠塚もこちらに顔を向け首を横に振る始末だ。こんな状態では調書など書ける訳も無い、私は頭を抱え悩みふけていると取調室の男が私の方に視線を合わせた。恐らく篠塚の動作に気付いたのだろう、男はしばらくこちらを見詰めると再び篠塚に話し出した。
「…ねぇ刑事さん、あれってマジックミラーでしょ? まさかこれから僕に手を出して僕のあられもない姿晒す気じゃないよね?」
「出す訳無いだろう、君に手を出す程僕は落ちぶれちゃいないよ…」
「……つまんない返答だね、味気も無いし面白味も無い……君じゃ話にならないからさ、あの綺麗なお姉さん出してよ!」
「……それって……まさか、柊さんの事…言ってる?」
「名前は知らないけど多分その人だね、頼むから呼んできてよ。彼女なら話もし易そうだし、何より美人で楽しそうだからね!」
「…それって、詰まり僕とは話をする気が無いって事かい?」
「え、そういう意味で言ったの分からなかった? 僕はさっきから根掘り葉掘り色んな事聞いてくるからてっきり僕に惚れ込んだのかと思ったよ。でも生憎だねぇ、僕はそっちに興味は無いんだ……あ、でも一度くらい経験しても…」
「だからそんな話をしてるんじゃ……まぁいいか、君の指命の柊さんを呼んでくるよ…」
「あれ、何その発言、まるで僕の話を聞き飽きた風に聞こえたよ!」
「実際にそう聞こえる様に言ったんだ、もうこれ以上君と話す気は無いよ!! 今から柊さんを呼んでくる、何もせず黙って此処で待っててくれ」
「さっきから壁の向こうで覗き見してる人達がいるから今更変な事はしないよ? それより早く行ったらどう、それとも僕から会いに行こうか?」
篠塚は呆れ果てた表情を浮かべたまま取調室を後にした、部屋に取り残された男は周囲を頻りに見渡し顔に笑みを浮かべていた。取調室から戻って来た篠塚の眼からは明らかに疲れの色が見て取れる、あの変人相手に真剣に立ち向かった心意気を称賛を与えたい気分だ。篠塚は私の顔色を伺っている、開口一番が決まらない中ようやく口を開いた。
「柊さん、あの男からの指命です。後は、えーと…その……お、お願いします…」
「……結局私に役が回ってくるという訳か、まぁ大体予想はしていたが……御苦労だったな篠塚、後は私が取り調べよう」
「でも大丈夫でしょうか? 人の話を全く聞く気の無い男です、柊警部補が出たとして果たして口を割るとは…」
「今は尻込みをしている場合では無いだろう、成すべき事を成さねば話が進まない。それに今の所犯人に繋がる有力な手掛かりを持ち得るのはあの男だけだ、ならば是が非でも口を割らせねばなるまい…」
私は私を止めようとする声を払い除けると一つ深呼吸をして取調室に向かう、なるべく平静な気持ちを装い私は扉を開け中に入った。部屋の中にいる人物は大層嬉しそうに表情を変えた、その表情の変化が私の平静に小さなひびを入れていった。
「やぁ待ちくたびれたよ! ようやく本命が出て来てくれた、この無粋な建物に連れてこられた僕にとって今一番の幸せだよ」
「…悪いが私は貴様の様な変人の話を懇切丁寧に聞いてやる程優しくは無い、用件は貴様が知り得る事件の情報…それだけだ」
「成る程、詰まり一夜限りの恋心みたいな物だね。でも僕ってそういう浮気っぽい事嫌いなんだよね、なんて言うか人徳に欠ける所業はあまり好きになれな…」
「私はそんな世迷言を聞く為に此処にいるのではない、貴様の口を割らせる事が私の目的だ。それでも喋りたいなら好きなだけ喋るがいい、但しその場合の貴様の行き先は鉄格子の窓が付いた一人部屋だがな」
私は男の話に取り合う気は無い、あちらが話を逸らすのならばこちらもそれに倣うだけである。私の対応に男の眼の色が変わる、表情は変わらないが明らかに眼は楽観的な光を失い黒いくぐもりが生まれた。しばらくの間互いの眼の探り合いが続く、しかしこの窮屈な沈黙を破ったのは男の方であった。
「参ったよ、これ以上互いに見詰め合っても恋の一つも始まらない、此処は共に大人になって素直に話し合おうじゃないの」
先に敗北宣言を出したのは相手であった、私は小さく口角を上げると再び口を開いた。
「わかっているのなら話が早い、貴様が天性の大馬鹿者でない事にこちらも感謝せねばならんようだ。まず初めに貴様が殺人現場付近にいた理由だが……と、その前に貴様が何者か聞いていなかったな。貴様、名前は何だ?」
私はなるべく差し障りの無い様に話し掛けた、だが相手からは一切の言葉は返ってこずただ何も無い虚空を眺め始めた。
「…答えろ、貴様何という名前だ?」
「………さぁね…」
再び口を開いた代償に返って来たのは私の荒い神経を十分な程に逆撫でする返答だった、冷静から打って変りすぐに痺れを切らした私は身体を乗り出し激しく怒鳴った。
「いい加減にしろ、貴様ふざけているのか!!? さっきからこちらが下手に出れば訳の分からん事を吐き捨ておって、貴様は名前すらまともに口に出せんのか!!!」
自らの怒りを吐き出す様に男に向かい怒号を放つ、しかし男全く意に介する様子は無くまるで呆れた様に私を見据えていた。私が眼を見開き気怠そうな男を力強く見下ろしていると、ようやく男は口を開いた。
「……逆」
「……は?」
「相手の名前を聞く時はまず自分からでしょ? こんな僕でもそれくらいの行儀は身に付けているよ」
男は優しく私に笑い掛けながらそう話した、その笑顔は私をなだめる為のものなのか或いは私を小馬鹿にする為のものなのかは分からないが取り敢えず私の中にまた一つ怒りが芽生えた。だがこちらが意固地になっても話は進まない、仕方無く私は男の要望を聞き入れた。
「…柊だ……柊瑞波、『ひいらぎ』はそのままだが『みずは』は瑞穂の『瑞』に波で『波』で『瑞波』だ。一応伝えると警察で警部補という職に就いている……これで気が済んだか?」
「へぇ、瑞波って名前なんだ、変わってるけど好きな名前だな。なんか貴方に合ってる気がするよ、綺麗だし…結構波は荒立ってるけど…」
「能書きはいい、こちらが先に名前を言ったのだから今度は貴様の番だぞ」
「あぁそういえばそうだったね、言ってもいいけど僕の名前を変な所で悪用しないでね」
別に大して気にしていた訳では無いがようやくこの男の名前を聞く事が出来る、男は髪型を手で整えると一つ間を置いて話し出す。
「…僕の名前は『綾崎和箕』、『あやさき』は…まぁ普通の漢字で『かずみ』は和風の『和』に竹冠と其のを合わせて『箕』で『和箕』です。まぁこれも何かの縁だと思って一つか二つ…三つぐらいお願いします!」
男はそう言うと右手を前に突き出した、これが何を意味するのか分からない訳では無いが腹立たしい気持ちを抑えながら私は男と脈絡の無い握手を交わした。
「…柊さん…だったよね、何か握手の力が強くない? さっきから少し骨に響いてるんだけど…」
「それは私の知った所では無い、強いて理由を挙げれば貴様の事が気に食わないからだろうな」
「……やっばり? 僕も薄々そんな気はしていたけど……まぁこれからは楽しくやろうよ」
楽観的なのかそれともただ単に現況を理解出来ていないだけのかは分からないが私は自分の感情をなるべく押し殺した、もしそうしなければこの男に拳を喰らわせてしまうからだ。故に自然と手を握る力が強まった、愛嬌を振り撒くこの男に対する不信感は減る所か増える一方であり私はこの男から感じた底知れない不気味さを未だ拭えなかった。私は顔を合わせ燦々と笑う男の眼をひたすらに見続ける、そこには先程述べた不気味さとは違うまた新たな黒が生まれていた。
私の苛立ちは未だ止む事を知らずただひたすら私を内から苦しめる、もしこの殻を破る事が出来れば私はどれだけ楽なのだろう。だが殻を破った代償は計り知れない、仮にそれを成せたとすれば私は二度と理性の淵を歩く事は叶わぬからである。故に私は苛立ち続ける、この悪循環から脱する事が出来無いその現実を私は酷く嫌悪した。
今思えばこの社会とはそういった理不尽に抗う事を許されない様に作られているのだろう、感覚では無く規則という枠に押し込められる社会にとってすれば私の存在自体が邪魔なのであろう。
人は決まって同じ様な言葉を吐く、しかしそこには経験や現実は無くそれはただ理想と空想で押し固めた妄言でありそれを社会と同一視するのが常套である。だが所詮両手を広げても世界の端すら届かない人間の言葉で万人を統べるには限界がある、それを知らずに壮大を語る人間の無知蒙昧は些か滑稽にも思えてくる。しかし今はその妄言が全てを統率してしまう世間なのだ、そんな寂れた思案が冷たさと混じり合った忌々しさを私は心から呪った。
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