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其の以1

何かが潜む保健室



 ある日の昼休み、一人の女子生徒が体調を崩し保健室で休む事になった。彼女は吐き気を催したがさらに頭痛や目眩も訴え、とても五時間目の授業を受けるのは不可能だった。女子生徒は先生と同級生に運ばれ保健室のベッドに寝かされると、そのまま静かに眠りに付いた。

 一体どのくらい眠っただろうか、女子生徒は目が覚めると保健室内に自分以外の人の気配を感じた。この保健室には彼女以外誰もいない筈だが、ベッドを囲むカーテンの向こうから微かに物音が聞こえる。


「……誰か…いるんですか?」


女子生徒は震えた声でそう尋ねた、するとカーテンの向こうの気配がこちらへ近付いていくのを彼女は感じた。女子生徒は反射的に恐怖を覚え、布団を被ると静かに聞き耳を立てた。

 女子生徒が息を呑み黙り込んでいると、カーテンの向こうの気配はカーテンを通り越しそのまま彼女のいるベッドに近付いていた。


(こっちに来ないで! お願いだから何処かに行って!!)


女子生徒は心の中でそう何度も強く願い叫んだ。しかしその気配は去る事は無く、寧ろ徐々に女子生徒に近付いていた。そして遂に気配は女子生徒の前まで近付くと、彼女は耐え切れず叫んでしまった。


「こっちに来ないで!!!」


女子生徒は大きな声を張り上げ気配に向かってそう言い放った。すると不思議な事に先程まで感じていた気配が消え、彼女が布団を剥がし周りを見渡してもそこには誰もいなかった。

 女子生徒は安堵と共に激しい悪寒を覚えると、ベッドから降りようとした。先程までの不調が嘘の様に治り、もうこの場所にはいる意味も無いしいたくも無かった。

 そして女子生徒がベッドを降り保健室を後にしようとしたその時だった、何故か足が動かなくなりまるで金縛りにでもなった様にその場で止まってしまった。彼女が困惑していると、不意に足元が冷たくなり先程消えた筈の気配をそこに感じた。恐る恐る足元に目をやると、そこには右足首を掴む手と髪を振り乱した顔面蒼白の女の首が彼女を見上げていた。女子生徒は恐怖のあまり気を失いそのまま床に倒れてしまった。



 目を覚ますと辺りは暗くなっており、女子生徒は怖くなり逃げる様に保健室から出て行った。彼女は一連の出来事を夢だと思ったが、足に出来た掴む様な痣が彼女の身に起きた出来事が現実であると証明していた。



 それ以来その保健室には幽霊が出るという噂が流れた。ふざけ半分に保健室で肝試しに行く物もいたが、中には本当に見たという者まで現れた。

 しかし誰一人それが何者であるかは分かっていない、ある者は保健室で自殺した生徒の霊と言いまたある者は保健室がある場所に昔建てられていた墓の主とも言われた。だがその保健室には確かに何かが潜んでいる、それだけは事実である事は断言出来た……



++++++++++++



 肌寒さが未だに拭えぬ薄暗い灰色の空がこの下界の様子を伺っている、噂や嘘の下世話に溢れた世界を照らそうとしている太陽が雲の向こうに薄く存在を示しているが辺りに薄い闇が溢れ始め傾きかけたそれはやがて見えなくなるのだろう。まだ溶け切っていない雪が地面を薄く覆っているが、秩序の雑踏がそれを踏み付け白を泥混じりの黒に変えてしまう。上を歩く雑踏も下に積もる雪も違いは無い、純真を装っても混じってしまえば悪に染まる、それが世界だと嫌々ながら考えてしまう。柄にも無くそんな戯言を思いながらも、勢い良く進む時間は道路に卑しい黒の線路を引いていた。

 それは二月の中旬の事だった、世間はバレンタインがどうだの何だのと騒いでいるが今の私には口喧しい雑音にしか聞こえない。走る車の助手席に座り流れる景色を漠然と見詰めている、外の世界は表面的には平和そのもので今向かっている場所とは違う顔を浮かべている。


「…事件が起こった中学校はまだ先か?」


「いえ、もう少しすれば到着すると思われます」


車を運転する警官にそう問い掛けると実に素っ気無く丁寧な返事がくる、会話をする気分では無いが味気無い時間が私を徐々に苛立たせた。このまま眠気に苛まれてしまうのは好ましく無く、私は車内暖房の温度を下げ頭を働かせる。それでも苛立ちは治まらない、その原因はこの事件だと断言が出来た。



 それから五分後、私はようやく事件現場である中学校へと到着した。車を降りると足元は溶け残りの雪と水溜まりで浸水していたが、その程度の些細な事には意識すら持たず足取り速く学校の昇降口へと進んだ。この時分はもう授業が終わり時間が経っている為か廊下に生徒の姿は無い、代わりに見えるのは慌ただしく動く鑑識の連中だけだ。非常に不釣り合いな光景だがそれも仕方無い、今この場所では彼等がいる事は何の不思議ではないからである。

 この中学校で事件があったと通報があったのはつい先程の事だ、昨年の終わり頃に起きた殺人事件からそう大きな事件は起きていなかったがまたしても良からぬ事態が発生したようだ。中学校で起こった事件など高が知れている、わざわざ警察を要請する程の事ではない筈だが今回は訳が違う。起こったのは殺人事件だ、それもかなり凄惨なものだと聞いている。事情をあまり知らぬまま廊下に群がる鑑識達の間を縫い進むと、私の存在に気付いた一人の刑事が私に歩み寄り話し掛ける。


「お疲れ様です柊警部補、わざわざ現場まで足を運ばなくても…」


「無駄話はしなくていい、事件の概要だけ教えてくれ」


私は冷たい口調で言い放った、言われた刑事は多少表情を強張らせたがすぐに空気を戻し一つ小さな溜め息を吐いた。



 私の名前は『柊瑞波』、警察署で警部補という職位に就く婦人警官である。それ以外は取り上げて話す様な特徴は無い、強いて言えば人よりも怒りの沸点が低いという所だろう。自分でもそこが短所である事は理解しているが生まれ持った性格は滅多な事では治らないらしい、この性格で損をする事は多いが今の私にはあまり関係の無い事象だ。それ以上に大変な事が殺人事件だ、警察として捜査する上で止むを得ない事ではあるが近頃やたらと血を見ている気がする。今回の事件を含めておよそ半年間で十数件もの殺人に携わっている、血にまみれた人生と言われても否定は出来無い程に私の身体は血生臭く染まっているのだろう。何故か知らないがそんな事ばかりが頭を過る、私も遂に精神失調を患ってしまったようだ。

 私の隣に付いた刑事が私に状況を説明する、鑑識がひしめく廊下の先にある現場まで手短に話し始めた。


「被害者はこの中学校の保険医で名前は『長山泉』、死因は出血多量によるものだと思われます」


「死体の第一発見者は?」


「此処の男子生徒で名前は『秋本則夫』、体調を崩したらしく放課後の部活動を抜けて保健室まで来たのですがそこで…」


「死体を発見した、という事か」


先を進み廊下を抜け保健室の前まで来ると、扉の横には床に腰を落とし俯きながら震える男子生徒の姿があった。その様子から只事で無い事は容易に想像が付く、眼は完全に虚ろと化し顔も蒼白で手の爪が二の腕に食い込む程強く掴んでいる。


「これが話に聞く秋本則夫か、どうやら相当恐ろしいものを見た様子だが……死体の状況はどうなんだ?」


「それは………見れば分かりますよ…」


言葉の間を空けた話し方に多少違和感を覚えたが、気にせず私は扉を開け中に入った。

 保健室に入った私はすぐに立ち止まった、この場所は人間が入ってはならない禍々しい空気を醸し出していたからだ。私の鼻孔の先にある神経を刺激する異臭、まるで生魚を捌いた時の様な生臭い臭いが部屋一面に振り撒かれていた。しかしその臭いは魚の比ではない、もっと濃く気分が悪くなるものだ。部屋に入って最初に眼に入るのはベッドを囲むカーテンの一角を染める血痕、この異臭が何から発せられているのかは明らかだった。重たい足を進めながら部屋を歩くと、カーテンの陰に見覚えのある人影が見えた。


「……篠塚か…そんな所で何をしている」


「あ……ひ、柊さんも…此処に……うっ…」


見えた人影の正体は私もよく知る男だった、涙目で青白い顔をした男は典型的な不調を表していた。

 このあからさまに顔色を悪くした男は『篠塚将也』、私の部下として事件の捜査をしている男だ。真面目な性格で取り分け可も無く不可も無い男、強いて上げれば死体や血をあまり直視出来無いのが短所であろう。そんな死体嫌いの篠塚が顔を蒼白にしている、言葉をあまり発さずえづく声を溢す理由は簡単だった。


「…また吐いたのか? 全く貴様という男はだらしない、それでよく警察を続けられるものだな」


「そ…そんな言い方ないじゃないですか……それに…今回のは訳が違いますよ…」


「無駄口は程々にしろ、事件を捜査する立場の人間がそんなにへばってどうする。もっと凛々しい姿を見せろ、そんな姿晒して恥ずかしくないのか?」


「…柊警部補、もうその…叱責は十分ですよ。実は此処に来た警察の半数も具合を悪くしてしまって…自分も…」


「……まぁ、死体が凄惨だという事は十分理解出来た。しかし話だけでは捜査になるまい、一度現場には眼を通しておくべきだろう…」


気乗りはしないが私は足を進め血塗れのカーテンに近付いた、異臭がより強さを増し身体が拒否反応として鳥肌を立たせた。私はゆっくりとカーテンに手を掛けると、勢いに任せ閉ざされた残酷を白日に晒した。


「…うっ……」


篠塚を散々皮肉した私だったが反射的に眼を背けてしまう、眼前に広がる凄惨は直視する事を躊躇ってしまう程だった。

 そこにあったのはまさに地獄絵図だ、こういう表現が正しいのかは分からないが血と狂気に満ちたそれは他に形容出来ぬものだった。ベッドの上には仰向けになった女の死体、服は纏っておらず出生直後の姿をしており両手足はベッドに縄で縛られている。顔は死の直前を鮮明に写し出し首は深々と切られている、カーテンやベッドに染み付いた血はそこから吹き出た物だと思われこの一画を真紅で濡らしている。首を半分程切断されている状態だけでもかなり凄惨だが、この死体の恐ろしきは下腹部にあった。普段は覆い隠されている秘部、女性器の入口に太い棒が深く刺さっている。鉄製で重量のある棒が死体に突き刺さりそれが身体を突き抜け腹を抉っている、串刺しになった人間は見た事が無いが眼前の死体がまさにそれであり痛々しいその姿はこの世のものとは思えない程だ。


「…く……うぇっ…」


「だ、大丈夫ですか柊さん!!? すぐに袋か何かを…」


「いや、いい……心配は無用だ…」


あまりの光景に胃の内容物が逆流しかけたが、口を押さえると精神を落ち着かせながら必死に耐え抜いた。あれだけ強がった口を叩いた以上戻す訳にはいかない、口内の苦い味に嫌悪を抱きながらも私は話を始めた。


「…死体の身元はこの学校の保険医だと聞いているが、何故こんな格好をしているんだ? これじゃあまるで……強姦されていたみたいじゃないか……」


「確かに…そう思えますが……死体を調べたところ性交の跡は見当たらないとの事です」


「…そうか……被害者の衣服は何処にある、まさか常時全裸でいる訳ではないだろう?」


「それはベッド横の棚の上に被害者の物と見られる衣服が置いてありました、今は鑑識に回されていますが…衣服は綺麗に畳まれており犯行に使われたと見られる刃物が突き刺されてました」


刑事はそう言うと私に写真を渡す、そこには今は存在しない説明通りの様子が写されていた。私は衣服を貫く刃物の写真を眺める、するとある閃きが私の脳裏を過った。


「…被害者の物と見られる衣服が横の棚の上に、か……察するに被害者には何等かの性交する意思はあった事になる。しかしその痕跡が無いとすると…性交すると見せ掛けて殺したという訳か…」


「…何故そうお思いになられるんですか?」


「…被害者の衣服は綺麗に畳まれていた、上から刺された刃物の意味は分からんが衣服は犯人がわざわざ畳んだのでは無く自分で畳んだと見るのが自然だ。加えて衣服の上に飛んだ血痕の形から思うに衣服は被害者が殺される前には既に畳まれていた、それは情事の前の仕来たりみたいなものではないか?」


「…な、成る程……鋭いですね」


刑事は驚いた様に私の顔を見据える、しかし私はそちらには一瞥せずすぐに話を続けた。


「…だがそれだけでは無い……確かに見た限りでは犯人が被害者を全裸のまま拘束しその後惨殺した、と考えられるが……ただの殺人鬼がそこまでに至るのは容易ではない。そこで殺人までの経緯を考えて浮かんだのがそれだという訳だ…」


「……そうなると犯人は被害者と面識のある人物……殺人目的で犯行に及んだ…ならばこれは内部犯の犯行という事になりますか?」


「恐らく内部の犯行だな、この場所で外部の人間と逢瀬をするのは些か危険過ぎる、学校関係者なら怪しまれないだろう。つまり推測するに……被害者は犯人と此処で待ち合わせをしていた。その理由は性交する為でありその為に全裸となったがそのまま拘束された、まぁそれが被害者の予想の範疇か否かは分からんがその後無惨にも殺された、と考えられる」


「性交する為って……じゃあ犯人はこの保険医と性交する約束をしていた人物、という事ですか?」


「あぁ、今はまだ仮説でしかないが少なくとも私はそう睨んでいる…」


私は自分から出した答えに少々戸惑っていた、仮にそれが事実であるならマスメディアが喜んで食い付きそうな下世話な話題だからである。私が話し終えた直後、先程までへばっていた篠塚が浮かぬ顔をして言った。


「……柊さん、その推理はあまり公言しない方がいいと思いますよ…」


「…何故いけないんだ、理由を言え」


「だってそうでしょう! 内部の人間が犯人って事はこの学校の誰かが殺したって事ですよ! 学校側はその答えを聞き入れる訳がありませんし、保険医が性交しようとしていたなんて誰が信じるんですか!?」


「確かに死者への冒涜とも捉えられるが、この状況下で一番に見出だされるのがその答えだ。警察が丁寧に説明して捜査協力を仰ぐしかあるまい…」


「待って下さい!! そんな事したら一大事ですよ! そんな意見持ち出したら学校側の協力は絶望的ですし、何より警察の面子が…」


「警察の面子がなんだ!! 今此処に死体がある事が真実なんだぞ、今は犯人を見付ける事が先決だ! 例え唾吐かれようと事件を解決する事こそ警察の使命だ、邪な感情はこの際不要、違うか!!?」


「そ…それは……」


私は不意に怒りを覚え篠塚に詰め寄る、私の悪い癖に私自身も制御出来無かった。私の怒りの矛先を向けられた篠塚はより顔を青くしている、この男に怒って意味など無いのに私は感情を抑えられないようだ。


「……ひ…柊さん……すいま…」


「? どうしたんだ、急に顔色を悪くして…」


「…ちょ……やば…」


「は?」


篠塚は口を押さえると、そのまま凄い勢いで保健室を出て行った。突然の事に唖然とした私は、走り去る男の後ろ姿をただ眺めるしかなかった。


「……また吐いたか…本当にどうしようもない奴だな……」


「そう言う柊警部補も先程より顔色が優れませんよ? しかしそれでも動じないなんて、平気なんですか?」


「あぁ、死体は今まで嫌という程見てきた…もう慣れてしまったよ。まぁこれ程凄惨な死体を見るのは久し振りだがな……」


篠塚と同じ様に顔を青白くした刑事の問い掛けに私は軽く答えた、事実殺人現場はこれまで幾度と無く見てきたものであるから今回の死体もさほど驚くべき存在では無いと思われる。私の横にいる刑事は視線をベッドの死体から外すと、再び私に話し掛けた。


「…柊警部補、実は自分も篠塚刑事の意見には賛成しているんです。これは面子という問題ではなく、その……これから更なる捜査をしていく上では必要だと考えているんです…」


「……私もそのくらい分かっている…だが何故警察が学校の御機嫌取りの様な真似をしなければならんのだ? 犯人を捕まえたい気持ちは学校側も同じ筈だ、なら例え信じ難い事実でも受け入れるべきではないのか?」


「……それは……自分に聞かれても困る質問です。今は上の指示を待つしか方法はありません…」


「……そうだな、詰まらぬ事に巻き込んでしまったな…すまない…」


私は心を落ち着かせた、今此処ですべき事は論じ合いではなく捜査なのだと思い改めた。今は少しでも犯人の手掛かりを見付ける事が私に科せられた使命、私は怒りを捨てると一度深く息を吐いた。

 平静を取り戻した私は改めて殺人現場を見渡した、相変わらず残酷な死体が横たわり一帯は血の海と化している。あまりに惨い一面の光景、流石の私でも此処には長居出来そうにないみたいだ。私はカーテンに付いた血痕を眺めながらまだ顔色が芳しくない刑事に問い掛けた。


「この血痕は既に固まってはいるが、それ程時間は経っていない様だな。被害者の死亡推定時刻は?」


「はい、被害者は十七時頃殺害されたと見られ、先程の男子生徒が死体を発見したのが十七時二十分です。現在の時間が十八時過ぎなので、被害者が殺害されたのはおよそ一時間前です」


「一時間前か………続けて問うが死体及びその周辺からは指紋は検出されたのか?」


「いえ、鑑識がくまなく調べましたが犯人のものと見られる指紋は見付かっていません」


「そうか…まぁ当然だな。だとすると……」


私は頭を抱えしばらく考えた、犯人の行動や習性が考慮された疑似空間にて私はある事に気付いた。


「…現場は凄惨を極めている、なら犯人は相当の返り血を浴びている…」


「まぁ…それはそうでしょうが、犯人が血を浴びてそのままでいる訳はありませんよ?」


「あぁ、だが犯人がこの場所にいたのは事実、なら返り血を防ぐか拭った痕跡…その物がある筈だ」


「ですが……犯人は既に逃走していますし、その証拠が必ずあるとは…」


「分からんのか? 例え犯人が逃走していようと証拠をいつまでも持ち合わせてはいない、何処かに既に捨てているに違いない。それに犯人は現場に指紋を残していない、そこまで周到な犯人なら身体を返り血から守る合羽か何かを着ていた筈、つまり…」


「その被害者の血液が付着した物がまだ校内に残っていると…」


「そういう事だ」


私はその場を離れると部屋の窓辺に立ち尽くす、視線の先に広がる無人の校庭を眺めながら付き添いの刑事に言い放った。


「至急校内のごみ箱及び怪しい場所を調べろ! また犯人が校外に捨てた可能性を考慮し、学校周辺もくまなく捜査せよ!」


「わ…分かりました!」


刑事は一度姿勢を正し声を上げると、勢い良く保健室から飛び出して行った。振り向きながら去る男の後ろ姿を見詰めると、再び私は視線を戻し寂しげな風景を眺めていた。部屋で今も職務に励む鑑識達が不思議そうに私を見ていたが、私は気にせず脳内の回廊をひたすら歩み続けていた。

 それからしばらく経った時分、気分不調で消化気味の食物との再会を帰した篠塚が相変わらず青白い顔を浮かべ帰ってきた。


「いやすいません、どうも今日は調子が悪いみたいで……」


「そんな軽口叩く気力があるなら、こちらに持ってきてほしいものだな。これからまたその不調が続くのかと思うと先が思いやられる…」


私は篠塚にそう忠告すると、再び凄惨極まる殺人現場のカーテンを開き中に入る。相変わらず残酷な事に変わりは無いが、見続けている間に多少耐性が付いたのか平然と直視出来る様になった。しかし篠塚は未だ眼を当てるのが恐ろしいのか中に入らず、カーテンの向こうから私の姿を見ているだけだった。


「……何そんな所で震えているんだ?」


「え…あ、いや別に…その……」


「軟弱者が…それでは捜査が進まんだろう! いいからさっさとこっちに来い!」


私はカーテンから覗く篠塚の腕を力強く握ると、無理矢理に狂気立ち込める殺人現場へと引き寄せた。入った途端に眼を見開き急激に顔色が悪化したが、口を両手で塞ぎ必死に耐えている様子であった。私はそんな事などお構い無く篠塚に問い掛けた。


「…被害者は出血多量により死亡したと聞いたが、この鉄棒は死んだ後に刺された物か?」


「は、はい…そちらの傷口からはあまり出血が無い事から…その棒は死後刺された物と見られています……うっ……」


「……そうか…」


私はこんな状況下で不謹慎だが少し胸を撫で下ろした、この鉄棒が生きたままこの保険医を貫いたならそれは想像を絶する拷問であっただろう。私の身体から一瞬血の気が引き、私に急激に被害者への哀れみの念が生じた。その感情が私の中で不明瞭な形を為し始めた所で、私は頭を振り捜査の姿勢へと切り替えた。


「…目撃者はいないのか?」


「恐らく…いないでしょう……殺害されたのは放課後で…生徒のほとんどは帰ってますよ……」


「…この鉄棒は何処から持ってきた物か分かるか? こんな物そうそう転がっている物じゃないし、こいつの出所が分かれば犯人を特定出来そうだが…」


「……それは…まだ分かってません………恐らく校内の何処からか持ってきた物だと…考えていますが……」


「そうか…今分かる犯人の情報は無いに等しいな、校内に残っていた教員から話を聞くしかあるまい…」


「そうですね………そういえば…さっきまでいた皆は何処にいったんですか?」


「犯人の物証探しに向かっている、貴様が吐いている間にな…」


私は篠塚を威圧する様な言葉を吐いた、悪い気分をさらに害してしまった様だが気にする事無く話を続ける。


「取り敢えず今分かっている事実だけでも手帳に書いておけ、これから先何が重要になるか分かったものではないからな」


「わ、分かりました…少し時間を下さい……」


そう言うと篠塚は胸ポケットから掌台の手帳を取り出し知り得た情報を書き込もうとした、部下に雑用を押し付けている様にも見えるが本人の為なので仕方無い。しかし余程焦っていたのだろうか、胸ポケットに刺したボールペンが服に引っ掛かり上手く取れずにいると勢い良く抜けたボールペンが手から滑り落ち死体の乗るベッドの下に転がり込んだ。


「あ、しまった…す、すいません、手が滑って…」


「全く…本当にそそっかしい奴だ、落ち着いて捜査も出来んのか?」


身体を屈めベッドの下を覗く様な体勢を取る篠塚、その姿は見下ろすと些か滑稽に見て取れる。


「あれ、おかしいな…確かこの辺りに……」


「此処を殺人現場だという事を忘れてくれるなよ、最悪の場合貴様が容疑者に後々なりかねないからな…」


「そんな酷い事言わないで下さいよ、自分だってこんな事したくてボールペン落とした訳じゃないのに……それより本当に、何処にいったんだ…………ん?」


ベッド下を探す篠塚が突然怪訝そうな声を上げた。私はその声に反応し床で這っている男に問い掛けた。


「どうした篠塚、まさか犯人の手掛かりでも見付けたのか?」


「いえ、そういう訳じゃないんですけど……少し不思議な物が見付かりまして…」


「不思議な物だと? ちょっと私にも……見せてくれないか…」


ベッド下の闇に私は多少困惑しながらも、捜査の為私はその不思議な物とやらを確かめる事にした。篠塚が這う様に除いていた場所を今度は私が身体を屈めベッドの下を覗き込んだ、暗く逃げ場を無くした影達が身を潜める場所に眼をやったがそこには何も無い。


「……篠塚、その不思議な物というのは何処にあるんだ? 私の見る限りでは薄暗いだけで何も無い様に見えるのだが……」


「違います、下じゃなくて上ですよ。ちょうどベッドの裏側の部分を見て下さい」


「上だと?」


私は篠塚の言葉通りベッドの裏側に視線を合わせる、しかし体勢が悪く上手い具合に上部を見る事が出来無い。仕方無く私は背中を床に付け仰向けの状態でベッド下へと潜り込む、そして胸ポケットからペンライトを取り出し篠塚の言っていたベッドの裏側を照らした。


「……これは……」


「どうです柊さん、何か見付かりましたか?」


「あぁ、見付かりはしたが……これは何だ?」


私は思わず口から疑問を溢した、眼前に見えるそれが何なのか全く見当も付かないからだ。そこにあったのは血痕だ、小さく不規則に並んだ赤い点が打たれてある。点々とした血痕が集まり出来た群れが二つ、それが何であり何を意味するのか全く分からないが明らかに死体から飛び散った物ではなく人工的に出来た物だという事が分かる。


「…一体誰が…こんな事を…」


私の脳内に新たな疑問が芽生え始めた、その疑問はやがて霧の様に頭を曇らせ考える力を低下させていく。私はベッドの下から抜け出すと、立ち尽くし私の様子を伺っている篠塚が問い掛けた。


「柊さん、確認したと思いますがあれは一体…」


「私にも分からない…あれがこの殺人事件の犯人が残した物なのか、そもそもこの事件に関係する物なのかさえ不明だ」


私は未だ見えぬ霧の先に居座る答えが見出だせない苛立ちを抑えながら答える、何の脈絡も無い事象同士が絡み合う事はなく私の思考は樹海の如く路頭に迷った。私は苛立ちを髪を触る事で解消しながら、私の横顔に視線をやる篠塚に命じた。


「鑑識にベッド裏の血痕の事を伝えDNA鑑定に回すよう言ってくれ、もしかすると犯人の物である可能性も有るからな」


「はい、分かりました!」


篠塚はそそくさと現場から退場し私の伝言を鑑識に伝えに行った、普通に考えればあの血痕が犯人の物である筈はなく調べさせる為の単なる口実でしかなかった。しかし現段階ではあまりにも犯人に繋がる手掛かりが少な過ぎる、不明瞭な点や可能性のある事象は出来る限り証明しておいた方が良い筈である。この何処にでもある中学校で起きた凶悪な事件、早期解決の為私は可能な限り考えを巡らせた。



 静かになった殺人現場で私は凄惨なその死体に眼をやる、今でも流石に直視するのは難しいが警察にとってはこの無惨な被害者も死亡者の個数体として扱われる運命なのだろう。私の心は憤慨していた、仮にこれが罪有る者であれどこれ程までに死体をいたぶるとは犯人の猟奇性を伺わせる、例え誰であろうとも許される事では無い。

 そして何より私にはこの死体が恐ろしくもあった、昨年末に起きた連続猟奇殺人の被害者と非常に似通った部分が見られるからである。全裸体で喉を切られ生殖器に外傷を加える殺人方法、眼前の死体があの時の凄惨さを呼び起こしている様にも見えた。前回の事件の犯人も相当に狂っていたが、この事件の犯人もそれと同等かそれ以上だと考えると背中に悪寒が走る。どうやら今の私には暗雲立ち込める未来しか見えていないみたいだ。

 私の思考が執念と雑念の間を行き交っていると、ふと背後に視線を感じ身体が震えた。素早く振り返り後ろを見るが、当然の如くそこには何もなかった。窓を開け周囲を確認しても怪しい人影は見当たらず、外から侵入した冷気と形容し難い心の動揺で私の身体は極度に強張り激しい寒気を覚えた。再び振り返るとそこには見慣れた哀れな死体、私自身が死体と二人きりでいる姿を私を見るその何物かが嘲笑っている様な気がした。



++++++++++++



 俺は妻を殺した、言葉にすればこんなに簡単な文章でさえ今の俺には言えなかった。それが現実である筈なのに俺は直視出来ずにいる、この現実は俺が引き起こした事なのに何故か俺が一番混乱している。

 これを俺は望んでいた、だが今の俺は後悔の念にうちひしがれているのだ。殺したい程憎んでいたのに後悔なんて矛盾にも程がある、溢れる涙の意味が分からぬ事に俺は怒っていた。



 妻を殺した理由は単純だ、俺が仕事に明け暮れている事に愛想を尽かし他の男と関係を持ったからだ。そんなに俺が仕事に明け暮れる日々が嫌だったのだろうか、他の男の身体で欲求を慰める程切迫していたのだろうか、俺には皆目見当が付かない。俺にも何かしらの非がある筈だがこんな裏切りはあまりにも残酷過ぎる、俺の理性はその時完全に失われていた。

 その夜俺は妻と口論になった、俺は汚い言葉を交え徹底的に妻を非難した。その言葉は妻の逆鱗に触れ怒り任せに俺を非難する、客観的に聞けば正論だが俺の耳には煩わしい雑音程度の叫びだ。そして俺は妻に手を掛けた、理性を失った俺からすれば至極当然の行動だった。両手を妻の首に当て思い切り力を込めて締め上げる、妻の苦悶の表情が俺の手の力を更に強めていった。妻の声にならない引き攣った叫びが耳に突き刺さる、しかし俺の手の力が弱まる事は一切なかった。



 気付けば俺の手には青白い顔をした妻がいた、手を放すと妻は力無く床に倒れてしまった。そこで俺は初めて後悔を知った、身体の何処とも知れない部分から激しい痛みを感じた。穏やかに眠る様な表情が俺の滲んだ眼にぼやけて映る、昔は毎日見ていたその顔を俺は久し振りに見る事が出来た。しかしその顔は永遠に変わる事は無く、その眼には憎らしい俺の姿が二度と映る事は無かった。

 止めどなく続く苦しみに俺は耐え切れず拳を床に叩き付ける、何を怒れば良いのか分からず俺は手当たり次第に暴力を振るった。そして俺は後悔を吐き出した、喧しく響く声が酷く遠くに聞こえたが激しい嘆きが頭から永遠に消え去る事はなかった。



著 彩咲数見


『漆喰』より抜粋



++++++++++++



 忙しない足音や会話が入り乱れる空間で一人静かに物思いにふける私は、まるでそこだけ乖離されたかの様な物悲しさを薄く醸し出している。此処はそういう場所であるから仕方無しと割り切るのが普通だが、最早普通という概念から切り離された日常が私の思考を麻痺させている気がしてならない。顔を上げても見えるのは交錯し合う刑事だけ、何一つ私の興味を惹く私の憂いを消し去りも引き剥がしもしてはくれない。一切の進展を拒む様な現実が私の非生産的な時間を生む糧となっている事に私は苛立っていた。

 あれから私は警察署に戻り一人終わらぬ思案に明け暮れている、私は机で片肘を付きながらそんな時間を過ごしていた。未だに捜査は進展せず鑑識の調べからもめぼしい情報は得られていない、手詰まりとも言える深刻な状況に突入する一歩手前にあった。私も愚痴ばかり溢してはいられないと犯人の手掛かりになると思われるベッド裏の血痕について考えているが、私の知能では限界らしく一向に答えが出る気配が無い。


(……これは何だ、何を意味するんだ?)


私の視線の先には例の不思議な血痕がある、正確にはそこから写し取った紙に書かれた点を見詰めていた。しかし見れば見る程考えれば考える程に答えは浮かばず、時間を掛けて見出だせたのは静かな焦りだけであった。奇妙な点の羅列と睨み合いを続けながら、私はこの不明だらけの事件に縛られていた。

 脳が煮詰まる程考え始めて一時間、一辺倒に集中し続けていた私の背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「柊、調子はどうだ?」


(……この声は……)


私は声に気が付き振り返ると、そこには馴染みのある人物が佇んでいた。


「…鬼村警部、まだおられたんですか? てっきりもう帰ったものかと…」


「馬鹿言うな。あんな惨たらしい事件が起こったんだ、家に帰っておちおち眠ってなんざいられねぇよ」


「……まぁ、確かに一理有りますね。警察署内を見る限りでもかなり多くの刑事が残っているみたいですし…」


私は椅子から腰を上げると忙しない様子の刑事達を見ていた。性格は違えど皆事件に対する思いは一様だ、鬼村警部を含め視界に映る全ての人間の心境を踏まえ私はそう答えた。

 私に声を掛けた人物は私の上司である『鬼村玲一』警部、短髪に無精髭を生やした強面でいかにも恐ろしく雰囲気と印象はあまり良くは無いが正義感が厚く刑事としての誇りを高く持つ私が尊敬する刑事の一人だ。少々硬派な一面もあるが部下への思いやりが強く、私にとっても重要な存在でもある。


「…それより、さっきから一人で睨めっこしているそれは何なんだ?」


「あぁこれですか? 被害者が仰向けに寝かされていたベッドの裏から発見した血痕です、この紙はそれを写し取った物で鑑識によると血液は殺された被害者の物と一致するとの事です」


私が机の上に置いた紙を鬼村警部に手渡すと、受け取った紙をじっくりと見渡し私に問い掛けた。


「…これが事件に何か関係するのか?」


「それはまだ分かりません、しかしベッドの上で殺された被害者の血液がベッドの裏から検出されたのはあまりに不自然です。加えて血痕は飛び散って付いた痕跡が無くどれも均等な大きさで付着していました、意図や理由は定かでは無いにしろ犯人が残した物と推測し捜査すべきと考えた次第です」


「…そうか、確かにただ付いたと片付けるには不思議過ぎる代物だ。犯人特定に繋がるやもしれん、しかし柊……何か忘れてないか?」


「…忘れた…というと?」


私が鬼村警部の言葉の意味が分からず返答に困っていると、鬼村警部は少し張り詰めた口調で答えた。


「確かに捜査も大事だが、それと同等に大事なのが同じ警察同士の協力だ。聞く所によると現場に着くや否やお前が捜査の指揮を取ったそうじゃないか、若い刑事に怒鳴り散らして指図したとの連絡もあった。捜査に熱が入るのは良い事だがあまり勝手な行動が過ぎるのも考えものだぞ?」


「……すみません、頭に血が上りつい感情的になってしまいました。以後気を付けます…」


「その言葉、これで聞くのは何回目だ? お前ももっと成長しろ、勝手が増えれば集団捜査に支障が出る…」


鬼村警部はそこで言い終わると私を強く睨み付ける、自分の失態を思い知った私は居た堪れなくなり口を開いた。


「……本当にすみませんでした…」


「…まぁ反省する気持ちがあるだけマシなものだ、最近は反発する奴もいて俺も苦労が絶えん状態だからな」


鬼村警部はそう言った後、一つ間を置き言葉を続けた。


「それともう一つ言っておく事がある、お前の部下の篠塚に関しての件だ」


「篠塚……ですか?」


「あぁそうだ、部下の教育は必要だがお前のは特に厳しいと噂されている程だ。お前のやり方じゃ部下の身体も持たなくなる、もう少しばかり自重した方が部下の為だぞ?」


「し…しかし…」


「お前が部下の為を思って叱っているなら俺も文句は言わん、だがお前は自分の中にある怒りを部下にただぶつけている様にしか見えない。言っておくが篠塚は体調不良で倒れたらしい、もっと部下の事も考えてやれ…」


「…それは…死体を見た為であって私は…」


「……叱るのは相手の為、怒るのは自分の為だ…もっと冷静な眼で慎ましく行動しろ、俺から言える事はそれくらいだ…」


私は反論出来無くなった、そもそもこの状況において反論は間違い無く禁忌だが性格上身体が反応してしまう。完全に活気を削ぎ落とされ黙って俯くしかない状態の私に、声を掛けたのはまたしても鬼村警部だった。


「…まぁ俺ばかり叱り付けて気落ちさせたのは悪く思っている、だからお前が欲しがっていた物をついでに渡しておいてやる」


「……何ですか、渡す物って?」


鬼村警部は手に持っていた写真付きの資料を渡してくれた、私が受け取り内容に目を通すのと同時進行で説明が入る。


「お前が大手を振って探すよう指示していた証拠だ。見付かったのは犯人が犯行時返り血を浴びないよう身体を防護していたと思われるビニール合羽、発見場所は中学校の横に流れる川からだ。発見された時には血痕は流されていたが鑑識の調べで僅かに血液が検出された、当然血液は被害者の物と一致した」


「…ありがとうございます、わざわざ届けに来てもらい……」


「別に構わんさ、大した労力にもならん事だからよ。それより気になるのは合羽のサイズだ、見付かった物はそこそこ大きめの物だった。一見すれば犯人の推定身長が分かりそうなものだが…」


「その身長以外の人間でも着用する事は出来る、詰まりその身長以外の全ての人間が容疑者になる……つまり今の所はその合羽から得れる証拠は何も無い、という事ですね」


「そういう事だ、これは犯人が俺達に間違った情報を流そうとしているんだろう。それにこの合羽は処分では無く近くの川に投棄するという雑な方法だ、犯人は警察の眼を欺く為わざと見付かり易い場所に捨てたと考えれば納得がいく」


「えぇ、犯人が我々の予見通りの考えをしていたのであれば……とことん悪知恵の働く奴ですね…」


私は鬼村警部の話に合いの手を挟む様に話す、確かに今の段階ではとても犯人を捕まえる事など不可能に近い事だ。私がまた暗く俯くと鬼村警部が私に気付き言葉を掛けた。


「…まぁ犯人逮捕の決め手にはならないだろうが、今後の調べで犯人のDNAが検出する可能性もある。何はともあれ無駄ではないって事だ」


その言葉は私を励ます為のものだと聞き受けられるが、今の私にはその様な言葉はかえって逆効果であった。しかし言葉を掛けてくれた鬼村警部への感謝も込めて私は口を開いた。


「…ありがとうございます、私なんかに気を遣ってもらい…」


「別にいいってことよ。お前も俺の大事な部下なんだ、わざわざ気を張る必要なんかねぇよ」


私の言葉に鬼村警部は軽く返した、こういった場合の答え方が自分にはかなり難しいのだ。あまり対人関係に馴れない私には、この一時の会話すら胸苦しいものであった。

 鬼村警部との長い会話に終着が見られると、私は机の上を片付け始める。必要な物を鞄に詰めると私は帰宅の準備を整える、今日はあまりにも激しい波の連続で流石にこれ以上は仕事に身を挺する事は出来そうに無かった。鞄を持ち帰宅する為鬼村警部の前を通った時、警部が私に声を掛けた。


「…明日から本格的な捜査が始まる、今日の内に身体休ませてしっかり翌日に備えておけ」


「…お気遣いありがとうございます、警部殿も身体を壊さぬよう心掛けて下さい。では、お先に失礼します…」


私は鬼村警部に一礼して足早に警察署を後にする、何故か分からないが自然と先を行く速さが速くなっていった。途中まだ署内に残る刑事達と擦れ違った、同じ警察の仲間である筈なのに私と彼等の間には隔たりがある様に感じた。それは私が望んだ事では無い、どうやら私の本質が勝手にそれを作り出してしまったようだ。心細さと物悲しさを入り交じえながら私は廊下を歩く、薄暗い廊下に一抹の恐怖を抱きながら私はその場から退場した。



 外は既に夜が支配しており、空は黒を振り撒いた様に一面の虚空を覗かせていた。肌寒さが身に染み込み口から吐かれた吐息がその存在を主張する中を私は一人歩いていた。未だ雪が溶けきらない路面を注意しながら一歩ずつ進む、人影の消えた道をひたすら歩む私は外套内の熱気と顔に当たる冷気の差に違和感を覚えていた。

 警察署を出て三十分程経過した事だろう、寒空の下に身体を晒しながら私はようやく自分の部屋があるマンションに到着した。下のポストを確認して私宛の届け物が無いのを確認すると、先へと進みエレベーターのボタンを押す。しばらく待った後扉が開き中へ乗り込むと私は自分の部屋のある階のボタンを押し上に昇る、この静かな時間すら私は息苦しさを感じずにはいられなかった。そうして目的の階に到着すると私は辺りを見渡した、流石にこの時間には人影は見当たらず小さな明かりだけが進むべき道を示していた。私は重い足取りで人気の無い廊下を進むと自分の部屋の前に辿り着き鍵を開けた、底知れぬ深い闇が待ち受ける玄関を見詰め私は歩を進めた。



 まるで闇を塗りたくった様な漆黒の部屋、いくら住み慣れた部屋とは言えど圧迫感と異様さには耐え難いものを感じさせられる。私は部屋に入ると脇目も触れず家中の全ての明かりを点ける、明かりを点ける事で自分に降り掛かる暗闇を払う事が出来るからだ。私の中に蠢く醜い恐怖の念、直視するには厳し過ぎるそれに私の心は静かに怯えていた。

 私は閉暗所恐怖症の人間だ、私がまだ五歳の頃に昔住んでいた場所の近くにあった川に繋がっていた下水道に足を滑らせ落ちてしまった事が原因である。その時の恐怖は今でも忘れられない、視界の全てを闇に埋もれさせられ気分が悪くなる程の嫌な臭いに苛まれながら私は一時間以上その空間に幽閉されていた。叫んでもすぐには助けが来ず自分の響いた声でより恐怖を駆り立てられる状況、五歳の私にはその全てが恐怖であり今も頭から払拭出来ずにいる忌まわしい過去である。大人になっても閉所と暗所には恐怖を覚え、毎日訪れる夜にさえ恐れの対象として見てしまう。その為私はいつも部屋を明るくしている、明るさは私を蝕む恐怖を晴らし心にゆとりをもたらせてくれる存在だ。故に私は夜の恐怖を紛らわす為に夜に行動を活発にさせる、支障が出なければ夜型の生活に移したい程だ。そんな私に付いた名前が『夜の女王』、夜行性動物の蝙蝠等では無く何故こんな名前が付いたのかは分からないが私としては酷く嫌悪を抱く要因である。

 そんな事を思いながら私は外套を脱ぐと椅子の背もたれに掛けその場を後にする、廊下の先にある脱衣場で身に纏う全てを脱ぎ捨て浴室に入る。蛇口を捻り湯を溜めながら浴槽に浸かり冷えきった身体を湯に沈める、タオルを頭に巻き一つ息を溢すと私は今日の出来事を振り返った。猟奇殺人に意味不明な犯人の行動と上司からの叱責、刑事として働く生活の中ではかなり濃い一日であったと自覚する。私が苦手とする闇と同じ様に先の読めない事件を思うと溜め息が止まない、こうなると刑事という役職にほとほと愛想が尽きてしまいそうになる。加えて頭を悩ます要因が一つ、鬼村警部からの叱責は私の心に深く突き刺さっていた。


(…部下の事も考えてやれ、か…)


何気無い言葉ではあるが今の私には重い言葉、自分勝手な行動と言動で部下を倒れさせてしまった自責を強く刻み付けているからだ。反論する気は既に無い、全て自分の責任であったと手を握り肌に爪を立てるしか方法は残っていなかった。しかし私は自責の念に強く囚われる、一度嵌まった深みから抜け出す事など口にするよりも遥かに難しい事象だった。思い詰めた私は首を傾け項垂れる、眼に入った水面に映る私は暗くそして醜い顔をしていた。目の当たりにした現実に嫌気が差した私は水面を乱し忘れ去ろうとする、しかし乱した心は何度も澄む水面の様に再び元に戻ってしまう。完全に気落ちした私は口許まで水面に沈め静かに眼を閉じた、私の視界は闇に埋もれたが今はこの方が落ち着いていられた。



 帰宅直後の入浴で大分落ちてしまった私だが、浴槽に長く浸かったのが良い気晴らしになったのか多少落ち着きを取り戻し私は浴室を出た。身体の胸元までタオルを巻きもう一つのタオルで頭の水気を拭う、十分に温まった身体に部屋の冷たい空気が当たりいつに無く心地好く感じる。身体の熱が冷めきらぬ間に私は台所まで足を進める、その最中に私の眼には広く清潔感の溢れる台所が映った。そういえば此処何年と自炊をした記憶が無い、普段から使われていない台所は新築の様に汚れ一つ見当たらないが使われていないせいか薄く埃が溜まっている様に見えた。

 改めて日頃の食生活を考えさせられる光景を一頻り眺め終えると、冷蔵庫のドアを開き缶ビールを取り出しリビングのソファーに直行する。ソファーに静かに腰を下ろすと手に持った缶ビールの蓋を開け口に流し込む、炭酸と麦独特の苦味が口全体に広がり僅かな時間ながら幸福に包まれた。中身を缶の半分程飲み干すと私は再び考えに入る、事件の異常性が私の中で強く焼き付けられ思考の奥底に根を伸ばしていた。今この状況下では何を考えても生産的な答えには辿り着けない、しかし晴れぬ事件のわだかまりが私の頭を幾度と無く痛くしている。犯人の目的が一向に見えない、死体の残酷さは犯人が何かを示唆している筈だがそれが何か分からない、不明だらけの目先が私の踏み出す足を強張らせているのだ。私は心の底で怯えていた、何もかも理解出来無いこの事件が未だ息を殺して様子を伺っている様に感じたからである。身体に籠っていた熱が急激に失われ悪寒が背筋を舐め上げる、何度味わったとも知れない感覚に私は慣れる事は無いようだ。手に握る缶ビールを残して捨ててしまわぬ様に勢い良く飲み干す、口一杯に広がる苦味が先程以上に強くなっているのを私の味覚が感じていた。



 今日の出来事を私は一生忘れる事は無いだろう、脳裏に刻み付けられた忌まわしい残像が私の恐れる闇を纏い現れ続けるからだ。人間は闇を反射的に恐れる体質である、それは何かが潜んでいると感じる既存の恐怖と何も見出だせぬ未曾有の恐怖に取り込まれてしまう恐れを抱く為である。闇は未開拓の象徴だ、我々警察が追い求める真実の妨げになる存在として深く印象付いている存在なのだ。

 今の私は闇そのものである、取り込まれたつもりが侵食され同等のものへと退化してしまったせいなのだ。故に私は闇を強く感じる、口に含んだ酷い苦味と同じ様に私は私を形成する全てから嫌な予感を悟った。



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