10話
先ほどまでの柔らかな喧騒は遥か遠くのものとなり、代わりに息苦しいほどの静寂が重く圧し掛かる。
部屋の主は自身に向けられる熱の篭った眼差しを、まるで他人事のように受け取りながら続く言葉を淡々と紡いだ。
「それはおそらく不死を求めて行き着いたのだろう。どれほど延命しようとも、百年の境を超えることは難しい。肉体の衰えを緩やかなものとする、あるいは肉体そのものを新たに手に入れる……不死の研究の行き着く先は、大体そのようなものだ。数多の試行錯誤の末、ようやく辿り着いたひとつの結果が、転生の術。誰が、いつの時代に生み出したものかは知らぬ。だが、時と場所を超えて手中に収める方法がある」
ウィルドの指先が鈍く光る鍵を弄んでいる。宙に向けて高く弾かれた鍵は、くるくると回りながら再びウィルドの手の中へと戻ってくる。虚ろな眼差しを鍵へと落とし、ウィルドは更に話を続けた。
「死神とは、よく言ったものだよ。……何の感情もなく、作物を刈るように人々の命を刈り取っていった男だ。彼にとって、他者の命など単なる材料のひとつでしかなかったのだ。新たな魔術を手に入れる、ただそれだけのために一体どれだけの血が流されたのだろうな。井戸から水を汲んだ回数をわざわざ数える者がいないように、彼もそんなことは気にしたこともなかったのだろう。――そういう魔術師だったのだよ。そして、それは昔話ではないのだ。ほんの三十数年前の出来事だ。……少しは、自分たちが馬鹿なことを考えているという自覚が欲しいものだがね」
薄っすらと浮かぶ嘲りの笑み。
愚かな訪問者たちへと向けたつもりなのだろう。
だが細めた双眸は、そこにそぐわないはずの感情を僅かに滲ませている。よく知っている目だ――ブライアンはたまらず叫んだ。
「だから、もう死んだ奴のことはいいんだって! あんた自身がその手でやった訳じゃないだろ!! それとも何か、同じことをやってみたいって思ってんのかよ! 肝心なのはそこだろ、あんたは死神になりたいのか、なりたくないのか、どっちなんだよっ!!」
目と鼻の先まで歩み寄り、ウィルドの目を真っ直ぐに見据える。固く握り締めた両の拳がちいさく震えている。激しい感情を掻き立てるものが何であるのか、冷静に分析しようとする自身に気付き、ウィルドは今度こそ明確な自嘲に口元を歪める。肩を震わせて喉の奥で嗤い、泣きそうな眼差しを間近に迫るブライアンに向けて言った。
「……私はな、そんな『蛇』以上のなれの果てを知ってなお、書物をめくる手を止めることが出来ないのだよ。魔術を極める、その欲の先にあるものを知りながら、求める気持ちを抑えることが出来ずにいる。……こんな私が、死神でなくてなんであると? 同じ道を辿ることを怖れる気持ちは無論ある。近しい者が巻き添えで殺されるのももうたくさんだ。だが、それでも魔術師である自分を棄てることが出来ないのだ。――だからこそ確信するのだ。彼と同じ魂を持つ者であると! それが、私なのだ!!」
ウィルドは言葉を切ると、大きく息を吐き、荒れる呼吸を整えようとする。収まらない興奮に戸惑いを覚えずにいられない。随分と年下の青年の挑発にまんまと乗せられ、ひたすらに押し殺して来た想いを吐露する自身を無様に思う。浴びせられる幾つもの視線から逃げ出したい。伏せた顔を精一杯の見栄で覆い隠し、ゆっくりと顔を上げる。
そこにある光景が理解出来ず、ウィルドは呆然として立ち尽くした。
目の前に佇む青年の頬を、ちいさな雫が伝い落ちる。
伏せられる顔が示す感情は、誰に向けられたものであるか――考察が必要であるはずもなく。
返す言葉もなく、ただ立ち尽くす漆黒の魔術師に、一歩近づく者があった。顔を伏せて静かに肩を震わせる弟に代わり、掠れた声で語り掛けた。
「……私たちは、今日初めて貴方とお会いしました。けれど、私たちに貴方への贈り物を預けた人は、ずっと貴方を見て来た人です。貴方のことを、とてもよく知っている人が用意した、貴方のための物なんです。……今は袖を通すことが出来ないとしても、そこに篭められた想いは受け取ってください。私たちは……そんな大切なものを託されたことを、誇らしく思います。貴方がちゃんと受け取ってくれたと、先生に報告させてください。きっと先生を泣かせることが出来るでしょう」
それだけの重さがあるのだ、彼らにとって。
ささやかな、それでいてこの上もなく重要な儀式。
受け入れて欲しい――今は、それだけで構わない。
とまどいを隠せずにいる至高の賢者を、アルバートは穏やかな笑みを浮かべて静かに見つめた。
顔を伏せていたブライアンが、兄の言葉を受けておもむろに顔を上げた。込み上げて来るものを抑えるように眉根をきつく寄せ、背後のテーブルへと向かった。そこに置き去りにされたままの木箱を両手で掴み、くるりと振り返る。呆気に取られているウィルドへと大股で歩み寄り、いかめしい顔つきのまま両腕を突き出し、木箱を勢いよく差し出した。
ひどく幼く見えるブライアンの態度が、ウィルドの頭の中に散らかる無数の拒絶の文句を、邪魔だとばかりに押し退ける。開こうとした唇はふと閉じられ、困惑の色を浮かべていた瞳に穏やかな光が灯る。
照れ臭くなってきたのか、ブライアンの顔が徐々に伏せられていく。胸元に差し出された木箱はそれに反して少しずつせり上がって来る。何故だかその様子がおかしくて、ウィルドはふっと表情を緩めた。
上から下まで黒ずくめで、至極ぶっきらぼうなこの男の中に、こんな柔らかな色が潜んでいたのかと思わせずにはいられない、それはなんとも優しい眼差しだった。
冷え切った地下室の空気が再び暖かさを取り戻す。自身に向けられる数々の視線を心地良く受け止めながら、ウィルドはすっと両手を動かした。困ったような笑みは照れ隠しなのだろう。木箱を支えるブライアンの手には腱の筋がくっきりと浮き上がっている。篭められている力の強さをうれしく思いながら、ウィルドは木箱に両手を添えた。
「……有り難く、頂戴するよ。着るのはいつになるか判らないが……大切に想うと、伝えて欲しい」
静まり返った室内に、低い男の声が夜風のように流れた。
新たなる扉がそこに在る。
煌めく鍵は、その手の中に――




